賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論

〜桐壺帝女三宮の卜定と、朝顔姫君の本院入りを巡って〜




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    『源氏物語』における最初の賀茂斎院は、「末摘花」で名前のみ登場した。この人物はその後「花宴」と「葵」の間に退下した斎院と同一人物であると思われる(本稿では以下「桐壺帝斎院」とする)。
     この桐壺帝斎院については出自不明であるだけでなく、退下の事情も一切作中に記されない。また退下の時期も明確でないが、「葵」冒頭で「そのころ、斎院も下りゐたまひて」とあることから、現在通説とされる年立では伊勢斎宮の交代と同じく桐壺帝譲位に伴って退下、その後朱雀帝即位により新斎院として、朱雀帝の同母妹である桐壺帝女三宮が卜定されたと見なされてきた。
     しかしこの年立では、『延喜式』の規定と矛盾する点があることも既に指摘されており、作者紫式部の思い違いによるものではないかとの説も出されている。これについて、9〜10世紀の歴史上の斎院制度と比較しつつ、「葵」から「賢木」に至る斎院のあり方を検証する。

     なお本稿では以下、賀茂斎院を「斎院」、伊勢斎宮を「斎宮」と表記する。また両者を合わせて「斎王」と表記する。


  1. 賀茂斎院の卜定から本院入りまで

     賀茂斎院の卜定に際し、『延喜式』巻第六「斎院司」は次のように定めている。

    凡天皇即位、定賀茂大神齋王、仍簡内親王未嫁者卜之、<若無内親王者、依世次簡諸女王卜之>
    卜食訖遣勅使於彼家、告示事由、神祗祐已上一人率僚下随勅使共向、卜部解除、神部以木綿著賢木、立寝殿四面及内外門、<木綿賢木所司備之、解除料等本家儲之>(中略)
    凡定齋王畢、即卜宮城内便所、為初斎院、即先臨川頭、祓潔乃入(中略)
    凡齋王於初齋院三年斎、畢其年四月始将参神社、先擇吉日、臨流祓禊、<供神料同初度禊>

    (『神道大系 古典編十一 延喜式(上)』神道大系編纂会,1991)


     新斎院卜定があると、まず斎院家に勅使が立ち、斎院は自邸で潔斎に入る。その後宮中の初斎院を定め、斎院は賀茂川で禊の後、初斎院に入る。これを「初度御禊」と称する。
     次に、卜定から3年目の四月、再び賀茂川で禊を行い、その後初めて紫野の本院(紫野斎院、紫野院、野宮とも称する)へ入る。この二度目の御禊は各注釈や先行研究では「二度の御禊」「再度の御禊」と言われることが多いが、『延喜式』に「尋常四月禊 右供神料并儀式、同入初斎院之禊儀、但無勅使」とあることから、本稿ではこの二度目の御禊を以下「初斎院御禊」とする。
     そして「初斎院御禊」以後、本院入りした斎院が毎年行う御禊を「尋常四月御禊」と称する。「初度御禊」と「初斎院御禊」は斎院一代に一度しか行われないのに対して、それ以外の御禊は斎院退下まですべて「尋常四月御禊」である。

     現在通説の『源氏物語』年立では、桐壺帝譲位・朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を「花宴」翌年(源氏21歳)のこととする。またその中で「葵」の御禊は、二度目の初斎院御禊であるとされる。


    現在通説の『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て
    光源氏年齢帖名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝2月、紫宸殿の桜花の宴が開かれる。
    21--朱雀帝桐壺帝譲位。前坊王女(後の秋好中宮)、新斎宮に卜定。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (同年初度御禊?)
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
    秋、新斎宮、初斎院入り。9月、野宮入り。
    23賢木朱雀帝9月、新斎宮と母六条御息所、伊勢へ下向。
    11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。
    24賢木朱雀帝朝顔姫君、斎院卜定。
    29澪標冷泉帝朱雀帝譲位。斎宮退下。
    32薄雲冷泉帝桃園式部卿宮死去。朝顔姫君、斎院退下。


     これについて、最初に初斎院御禊説を唱えた一条兼良の『花鳥余情』には、その根拠が次のように述べられている。

     斎院の御禊は二度あり。初斎院に入給はんとて御はらへあり。又紫野の野宮に入給はんとて御はらへあり。此巻の御禊は二度の禊也。其証これおほし然ば初度の禊同月にあるべしや。同月の事はその例なき故也。(中略)
     今案賀茂の斎院は卜定ありてのち、東河にのぞみ給て御そぎの事ありて、すぐに初斎院に入給ふ。初斎院とは、大内の中に大膳職或左近府などを点して、それにて三年潔斎の事あり。其年の四月に御社へまいり給はんとて、まつりのまへに吉日を撰て又御禊の事あり。すなはち紫野の野宮に入給ふ。これを二度の禊といふ。さて中の酉の日、賀茂社へ参給て祭事にしたがひ給ふなり。毎年の御禊はかならず午の日これを修するなり。
     今女三の宮はきりつぼの御門の御譲国ののち卜定ありて、初斎院へ入給ふべし。初度の禊の事は此物語にみえず、今此巻にいへるは野宮へ入給はんとての二度の御はらへをいへり。その故は、初度の禊には勅使参議一人供奉す。二度禊には大納言中納言参議以下あまた供奉す。毎年の禊には公卿一かう(向)に供奉せず。此巻云、御禊の日かんだちめかずさだまりたる事なれど、かたちあるをえらせ給ふ。延喜式に、二度の禊の勅使には大納言中納言各一人、参議二人、四位五位各四人すべて十二人の勅使なり。これをかずさだまりたるといへり。源氏の大将は参議二人の中なるべし。これをもてこれをいふに、此巻にいへるは二度の禊うたがひなき物也。

    (※『松永本花鳥餘情』(桜楓社、1978)より。句読点・濁点・下線・括弧内注記は引用者による)


     現在の主な注釈書もすべてこの判断を妥当としており、「葵の御禊=初斎院御禊」はほぼ定説となっている。しかし桐壺帝譲位・朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を「花宴」と「葵」の間の年とした上でこの説を取ると、卜定から2年目の「葵」で新斎院(桐壺帝女三宮)が早くも初斎院御禊(=本院入り)をしており、「卜定から3年目(つまり翌々年)に本院入り」とする『延喜式』の規定よりも1年早いことになる。


     ここで改めて、『源氏物語』執筆以前の、10世紀末までの歴代斎院の卜定・初斎院入り・本院入りの時期を再確認してみる(なお初代有智子から3代高子までは初斎院入り・本院入り共に記録が残っていない。ただし賀茂斎院制度自体が伊勢斎宮制度に倣ったものであることを考慮すれば、最初から初斎院が定められていた可能性もある)。



    斎院
    (生没年)
    在任時の
    天皇
    卜定 初斎院入り 初斎院 本院入り 退下 退下理由
    1 有智子
    (807-847)
    嵯峨
    淳和
    弘仁元年(810)? 不明 不明 不明 天長8年(831)
    8月12日
    老病
    2 時子
    (?-847)
    淳和 天長8年(831)
    12月8日
    不明 不明 不明 天長10年(833)
    2月?
    天皇譲位?
    3 高子
    (?-866)
    仁明 天長10年(833)
    3月26日
    不明 不明 (承和2年(835)
    4月20日?)
    嘉祥3年(850)
    3月
    天皇(父)崩御
    4 慧子
    (?-881)
    文徳 嘉祥3年(850)
    7月9日
    不明 不明 仁寿2年(852)
    4月19日
    (本院初出)
    天安元年(857)
    2月28日
    不明
    5 述子
    (?-897)
    文徳 天安元年(857)
    2月28日
    不明 不明 不明 天安2年(858)? 天皇(父)崩御?
    6 儀子
    (?-879)
    清和 貞観元年(859)
    10月5日
    貞観元年(859)
    12月25日
    (初斎院初出)
    不明 貞観3年(861)
    4月12日
    貞観18年(876)
    5月23日
    7 敦子
    (?-930)
    陽成 元慶元年(877)
    2月17日
    不明 不明 元慶4年(880)
    4月11日
    元慶4年(880)
    12月?
    上皇(父)崩御
    8 穆子
    (?-903)
    陽成
    光孝
    元慶6年(882)
    4月9日
    元慶6年(882)
    7月24日
    不明 仁和元年(885)
    4月10日
    仁和3年(887)
    8月
    天皇(父)崩御
    9 直子
    (?-892)
    宇多 寛平元年(889)
    2月27日
    寛平元年(889)
    9月23日?
    不明 寛平3年(891)
    4月15日
    寛平4年(892)
    12月1日
    死去
    10 君子
    (?-902)
    宇多
    醍醐
    寛平5年(893)
    3月14日
    寛平5年(893)
    6月19日
    宮内省 寛平7年(895)
    4月16日
    延喜2年(902)
    10月8日(9日?)
    死去
    11 恭子
    (902-915)
    醍醐 延喜3年(903)
    2月19日
    不明 不明 延喜5年(905)
    4月18日
    延喜15年(915)
    5月4日
    母死去
    12 宣子
    (902-920)
    醍醐 延喜15年(915)
    7月19日
    不明 不明 延喜17年(917)
    4月16日(19日?)
    延喜20年(920)
    閏6月9日
    死去
    13 韶子
    (918-980)
    醍醐 延喜21年(921)
    2月25日
    不明 不明 延長2年(924)
    4月14日
    延長8年(930)
    9月29日
    上皇(父)崩御
    14 婉子
    (904-969)
    朱雀
    村上
    承平元年(931)
    12月25日
    承平2年(932)
    9月25日
    左近衛府 承平3年(933)
    4月12日
    康保4年(967)
    5月?
    天皇崩御?
    15 尊子
    (966-985)
    冷泉
    円融
    安和元年(968)
    7月1日
    安和元年(968)
    12月27日
    左近衛府 天禄元年(970)
    4月12日
    天延3年(975)
    4月3日
    母死去
    16 選子
    (964-1035)
    円融
    花山
    一条
    三条
    後一条
    天延3年(975)
    6月25日
    貞元元年(976)
    9月22日
    大膳職 貞元2年(977)
    4月16日
    長元4年(1031)
    9月22日


     この中で、卜定から本院入りまで最短の例である14代婉子は、承平元年(931)12月25日卜定→同2年(932)3月16日初斎院→同3年(933)4月12日本院入りと、合計1年4ヶ月をかけている。本院入りは賀茂祭直前に行われるものと定まっていたようで、少なくとも記録に残る限り、11世紀以降も歴代斎院の初斎院御禊及び本院入りはすべて4月であった。よって原則としては、年の始めに卜定された斎院ほど、本院入りまでの期間が長いことになる(ただし1月の卜定は行われなかったと見られるので、実際には2月卜定の場合が26ヶ月で最長と考えられる)。

     上記の歴代16人の斎院の例を見ると、本院入りの時期が判明している12人のうち、卜定から本院入りまでに丸3年(36ヶ月)を越えたのは7代敦子・8代穆子・13代韶子の3人である(※なお本院の初出は、『日本文徳天皇実録』(仁寿2年4月19日条)の4代慧子の記録「是日始入紫野斎院」だが、3代高子についても『続日本後記』(承和2年4月条)に「禊于賀茂川、始入斎院」とあり、卜定から2年1ヶ月後に「斎院」に入っていることが判る)。
     まず7代敦子については、『日本三代実録』(元慶4年(880)4月11日条)の「紫野院」入りの記事に「去年可入野宮。縁穢而停。非緩也」とあることから、本来は前年に本院入りするはずであったものが、「縁穢」によって延期されたことが判る。この「縁穢」は元慶3年(879)3月23日の太皇太后正子内親王崩御によるもので、同年4月の賀茂祭・梅宮祭等が停止となった。
     次に13代韶子については、延期とその理由について明確に触れた記録はないが、延長元年(923)3月21日の皇太子保明親王(韶子の異母兄)の薨去で賀茂祭が中止となっている。恐らくこれに合わせて賀茂祭直前に行われるはずだった韶子の初斎院御禊も、同様に取りやめられたと思われる(ちなみに承平7年(937)3月29日に14代婉子の同母兄代明親王が薨去した際も、斎院の賀茂祭参加の是非が問われており、祭は延引となっている)。
     なお8代穆子については、卜定から近い時期に上記2例のような近親者の死穢は見当たらない。ただし元慶8年(884)2月に陽成天皇の退位と父光孝天皇の践祚・即位があり、このため4月に予定されていた本院入りが後回しになったものと思われる。

     以上のように、少なくとも7代敦子と13代韶子は共に皇族の死去が影響した例外である。また他の9人(3代高子も含めれば10人)の斎院は最長でも26ヶ月で本院入りしているところから見て、斎院の本院入りは『延喜式』の規定通りに行われていたものと思われる。このことからも、原則としては婉子の例が卜定から本院入りまでに可能な最短期間であり、制度上これより早い本院入りはありえなかったことが裏付けられよう。

     また『源氏物語』作中で、新斎院となった桐壺帝女三宮は「帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮」(葵)であったと述べられている。愛娘が心ならずも斎院に選ばれ、桐壺院と弘徽殿大后は「筋ことになりたまふを、いと苦しう思したれど」と嘆いたが、当時大后の方は「今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば」とあるように宮中で暮らしていた。となれば、新斎院が宮中の初斎院にある間はむしろ里邸の右大臣家よりも近くにいたことになり、潔斎中とはいえ母娘の面会も比較的容易であったと思われる(なお后腹内親王の卜定は16代選子が最初であり、しかも選子は出産直後に母中宮安子が死去しているため、『源氏物語』以前に同様の例はなかった。ただし後年、後一条中宮威子が娘の斎院馨子内親王の元へしばしば行啓しており、また文学作品には『源氏物語』で伊勢斎宮に卜定された娘に六条御息所が付き添って野宮入りもしているほか、『狭衣物語』で、斎院に卜定された源氏宮が宮中初斎院にいる間、養母の堀川上がつききりで堀川大臣も頻繁に出入りしたとの描写があり、肉親が潔斎所へ出入りするのは特に問題はなかったとみられる)。
     しかし初斎院御禊を経て紫野本院に入れば、大后が宮中に留まる以上、以後桐壺院女三宮の退下までの間母娘の対面の機会は殆どなかったものと思われる。まして大后の「いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ」(桐壺)人柄を考慮すれば、ただでさえ手放しがたく思う娘を通例より1年も早く本院入りさせることに同意したとは考え難い。
     一方逆に桐壺帝譲位を「花宴」の年とすると、今度は「賢木」での伊勢斎宮下向の年が丸3年後となる。斎宮の卜定から群行までの期間は、飛鳥〜奈良時代には一定しないこともあったが、平安時代の布勢内親王以降はすべて卜定から2年後の3年目に群行が行われており、『延喜式』規定のとおり制度として確立されていたと見られるため、この年立もやはり矛盾することになる。この斎宮・斎院卜定に関する齟齬が、「葵」における問題点のひとつとされてきた。

     先行研究では、原田芳起氏の「源氏物語年立論への疑い:葵の巻前後の部分構図について」、今井上氏の「『源氏物語』の死角 : 賀茂斎院考」がこの点を重視し、従来の説に異論を唱えている。
     原田氏は「葵」での斎院御禊が従来言われてきた「二度の御禊(初斎院御禊)」ではなく「初度の御禊」であろうとし、また今井氏はそもそも作者紫式部や当時の人々が斎院卜定から本院入りまでの儀礼について正確な知識がなく、ために誤った記述になったのではないかと推測した。特に今井氏の考察は、当時の斎院であった16代選子のあまりに長い在任期間が一条朝の宮廷社会にもたらした影響について鋭い指摘であるが、本稿では選子以前の歴代斎院の卜定・退下事情を比較することで、これまでの年立の問題点と合わせて原田・今井両氏の説を再検証する。


  2. 桐壺帝譲位と桐壺帝女三宮の斎院卜定

     そもそも『源氏物語』以前の時代、斎院はどのような理由で退下していたのか。記録を見ると、10世紀末までの退下理由の最多は「天皇または上皇(=斎院の父)の崩御」である。日時や理由が不明ながら可能性が高いと考えられるものも含めれば、以下6例が確認される。


    【天皇・上皇崩御で退下した斎院一覧】
      斎院  退下年月日 退下理由
    3 高子 嘉祥3年(850)3月 仁明天皇(父)崩御 
    5 述子 天安2年(858) 文徳天皇(父)崩御
    7 敦子 元慶4年(880)12月 清和上皇(父)崩御
    8 穆子 仁和3年(887)8月 光孝天皇(父)崩御
    13 韶子 延長8年(930)9月29日  醍醐上皇(父)崩御
    14 婉子 康保4年(967)5月? 村上天皇(弟)崩御?


     一方、従来の『源氏物語』年立が挙げるような「天皇譲位」により退下した斎院は、2代時子が淳和天皇譲位によると思われる(ただし断定はできない)以外に確実な例は存在しない。仁明天皇から花山天皇までの歴代天皇11人のうち、譲位した天皇は清和、陽成、宇多、醍醐、朱雀、冷泉、円融、花山と実に過半数の8人であるが、譲位後すぐに崩御した醍醐を除く7人の天皇の斎院は譲位によっても退下せず、そのまま残留となっている。とりわけ、『源氏物語』が執筆された当時の斎院もまた、既に円融・花山二代の天皇譲位を経ていた16代選子であり(なお三代以上の天皇に奉仕した斎院は、選子が史上初であった)、こうした事情を見ると、そもそも斎院は天皇譲位では交替しないのが通例であったのではないかと思われる。

     この問題については、堀口悟氏が「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」(『古代文化』31巻10号, 1979)で「斎院が必然的に退下する――すなわち斎院交替が行われる――条件となるのは、父母の喪、自身の死、及び斎院の任に耐え得ないと判断された病の四つの場合だけである」ことを指摘し、「上皇の崩御による退下は、上皇が当斎院の父に当たる場合だけである」としている(※なお堀口氏は、斎院の場合「天皇の崩御は、(斎宮と違って)退下の十分条件にはなりえない」とも述べており、14代婉子の例では村上天皇の譲位によるかとしているが、『日本紀略』等から見て村上天皇は在位のままの崩御であり、婉子もそれに伴い退下となった可能性が高いと思われる)。また原田氏も「葵の巻に「斎院もおりゐ給ひて」と書いたのは、御代替わりにともなう斎院交代が自明のことでなかったことを物語っていると思われる」と着目しているが、同時に「それでは葵の巻の斎院交替は新帝即位にともなうものではなかったかというと、そうはとても解釈されない」として否定し、「葵」の斎院御禊は初度御禊であろうとの結論に至っている(今井氏も「天皇の代がわりごとに行われるはずであった斎院の交代が、実際にはそのようになされなかった」と指摘しながら、「葵」の新斎院卜定の理由としては考慮していない)。
     原田氏はさらに「史実を調べても、御代初めに斎宮斎院の両方が卜定された例も多いのである」と述べているが、具体的にどの斎宮斎院が同時に卜定されたか、またそれらの斎院の先代の斎院がどのような理由で退下したかは確認していない。そこで本稿では改めて、斎宮と同時期に卜定された斎院と、その先代の斎院の退下理由を以下の一覧に表した。


    【斎宮と同時期に卜定された斎院一覧】

    斎院  斎宮  卜定時の天皇 卜定年月日 先代斎院退下理由 
    3 高子 久子 仁明 天長10年(833)3月26日 淳和天皇譲位? 
    4 慧子 晏子 文徳 嘉祥3年(850)7月9日 仁明天皇崩御
    6 儀子 恬子 清和 嘉祥3年(850)7月9日 文徳天皇崩御
    7 敦子 識子 清和 元慶元年(877)2月17日
    8 穆子 掲子 陽成 元慶6年(882)4月9日
    (斎宮掲子は4月7日)
    清和上皇崩御
    9 直子 元子 宇多 寛平元年(889)2月6日
    (斎宮元子は2月16日)
    光孝天皇崩御
    14 婉子 雅子 朱雀 承平元年(931)12月25日  醍醐上皇崩御
    15 尊子 輔子 冷泉 安和元年(968)7月1日 村上天皇崩御?


     以上の通り、3代高子と7代敦子以外の6人はすべて、先代斎院が天皇または上皇の崩御により退下した結果新たに卜定されたことが判る(7代敦子の場合は清和天皇譲位と同時期だが、これは6代儀子が貞観18年(876)5月23日に病で退下した後、新斎院が卜定される前の同年11月29日に陽成天皇が即位したためで、天皇譲位が理由ではない)。
     このうち、2代時子の退下が淳和天皇譲位によるかと見られるのは、まだ斎院制度自体が始まったばかりの頃であり、この時点では後に『延喜式』で記載された規定通りに天皇一代で交替がなされた結果と思われる。しかし先述の譲位した7人の天皇の斎院たちは、以下に表したとおり殆どの例が他に次期斎院候補となる内親王がいたにもかかわらず、結局退下することはなかった(ただし花山天皇譲位の際は、資子内親王は既に32歳でしかも一品であり、事実上候補外だった可能性が高いと思われる)。


    【譲位による天皇即位時の斎院候補一覧】
     ※《》内は践祚した新天皇名。
      「候補」欄は、○〜斎院候補の資格あり、△〜資格ありと断定できず、×〜資格なしを表す。
      なお候補の年齢については、斎王の卜定年齢の最高齢が30歳(斎宮利子内親王)であることから、31〜35歳までは△、36歳以上は×と見なした。

    貞観18年(876)11月29日《陽成天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    7代斎院敦子871-872頃?9305-6?清和天皇873/4/21877-880
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    平子850以前877不明仁明天皇

    礼子843?-859899不明文徳天皇861/4/25
    掲子843?-859914不明文徳天皇

    濃子843?-859903不明文徳天皇

    勝子843?-859871不明文徳天皇

    珍子843?-859877不明文徳天皇

    識子8749074清和天皇876/3/13斎宮(877-880)
    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21

    元慶8年(884)2月23日《光孝天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    8代斎院穆子女王
    (内親王)
    881以前903不明光孝天皇884/4/9882-887
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    礼子843?-859899不明文徳天皇861/4/25
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21
    簡子女王855以降914不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    綏子女王855以降925不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    為子女王855以降899不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    醍醐妃(897入内)
    繁子女王881以前916不明光孝天皇884/4/9884/3/22斎宮卜定

    寛平9年(897)7月13日《醍醐天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    10代斎院君子890-891?9027-8?宇多天皇892/12/29893-902
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    簡子855以降914不明光孝天皇891/12/29
    均子8909108宇多天皇
    敦慶親王妃
    (結婚年不明)
    柔子890-891?9597-8?宇多天皇892/12/29897/9/13斎宮卜定
    孚子892-8949584-6宇多天皇895/11/7
    依子8959363宇多天皇897/2/29
    成子895-8969782-3宇多天皇897/2/29

    延長8年(930)9月22日《朱雀天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    13代斎院韶子91898013醍醐天皇920/12/17921-930
    (9/29醍醐上皇崩御、退下)
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    勤子904?93827?醍醐天皇908/4/5藤原師輔室
    (結婚年不明)
    都子90598126醍醐天皇908/4/5
    婉子905-906?96924-25?醍醐天皇908/4/514代斎院(931-967)
    修子907-909?93322-24?醍醐天皇
    元良親王妃
    (結婚年不明)
    敏子907-910?969以降21-24?醍醐天皇911/11/28
    雅子91095421醍醐天皇911/11/28932/12/25斎宮卜定
    普子91094720醍醐天皇911/11/28
    靖子915?95016?醍醐天皇930/9/29藤原師氏室
    (結婚年不明)
    康子919?95712?醍醐天皇920/12/17946/5/6一品
    藤原師輔室(955)
    斉子92193610醍醐天皇923/11/18
    英子92194610醍醐天皇930/9/29
    熙子女王922-9239508-9皇太子
    保明親王
    --朱雀女御(937入内)

    ・天慶9年(946)4月28日《村上天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    14代斎院婉子905-906?96924-25?醍醐天皇908/4/5931-967
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    靖子915?95032?醍醐天皇930/9/29藤原師氏室
    (結婚年不明)
    康子919?95728?醍醐天皇920/12/17946/5/6一品
    藤原師輔室(955)
    英子92194626醍醐天皇930/9/29斎宮(946)
    938/8/27初笄

    安和2年(969)9月23日《円融天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    15代斎院尊子9669854冷泉天皇967/9/4968-975
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    保子94998721村上天皇
    藤原兼家室
    (986結婚?)
    規子94998621村上天皇
    斎宮(975-984)
    盛子949-95299818-21村上天皇
    藤原顕光室
    (977以前に結婚)
    資子955101515村上天皇
    一品(972)
    選子96410356村上天皇964/8/2116代斎院(975-1031)
    宗子9649866冷泉天皇967/8/4

    永観2年(984)8月27日《花山天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    16代斎院選子964103523村上天皇964/8/21975-1031
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×保子94998736村上天皇
    藤原兼家室
    (986結婚?)
    資子955101530村上天皇
    一品(972)
    宗子96498621冷泉天皇967/8/4

    寛和2年(986)6月23日《一条天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    16代斎院選子964103523村上天皇964/8/21975-1031
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    資子955101532村上天皇
    一品(972)
    宗子96498623冷泉天皇967/8/4986/7/21死去


     参考までに、11世紀以降で天皇譲位による退下と見られる例は、18代娟子と26代官子の2名である。
     ただし娟子の退下年月日の記録が確認できるのは『一代要記』のみで、史料としての信頼性にやや欠ける。しかも娟子の父後朱雀天皇の譲位(寛徳2年(1045)1月16日)から崩御(同年同月18日)までわずか2日差であり、娟子の場合も父上皇崩御の喪に伴う退下であった可能性を完全に否定はできないと考えられる(※なお『要記』には同母姉の斎宮良子も16日退下の記録がある。こちらは譲位による退下であったことは間違いないと思われるので、娟子の退下も良子と同時と誤解したのかもしれない)。
     また官子については、そもそも正確な退下年月日の記録が一切残っていない。次の27代悰子の卜定年月日から見て、官子の退下が鳥羽天皇譲位の頃であったことが推測される他、当時官子の父母は共に存命であり、両親の喪による退下でなかったことは確かである。この場合は譲位による可能性が高いのは確かだが、崇徳天皇践祚から悰子卜定まで、約7ヶ月と例外的に間が長い。この点を考慮すれば、6代儀子のように官子自身の病による退下が偶然譲位と前後した可能性もありうると思われる。

     こうした実例を鑑みれば、原田氏の「天皇即位されれば斎院を卜定されるということが延喜式にはっきり出ている」という指摘は、天皇譲位で斎院が交替しないことを否定する根拠としては、現実的には説得力を欠くと言わざるを得ない。
     また原田氏は触れていないが、『源氏物語』作中においても「賢木」で桐壺帝女三宮と交替した朝顔斎院は朱雀帝の譲位の際にもそのまま残留し、後に父桃園式部卿宮の死により退下となったことは周知のとおりである。「澪標」での朱雀帝譲位において「まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば」と斎宮交替が述べられているが、斎院については一言も触れていない。この点からも、『源氏物語』では「天皇譲位」と「斎院退下」と結びつける発想はなかったこと、ひいてはそれが11世紀初頭の宮廷社会でも自明の理であり、当時の慣例として定着していたことの裏付けであると考えられる。

     次に今井氏が指摘する、「花宴」から「葵」の間の新斎院卜定から本院入りまでが可能であったかどうかについて検証する。
     今井氏は桐壺帝女三宮の卜定から本院入りの過程について、斎院交替にかかる時間の点から疑問を呈している。根拠として挙げられたのは13代韶子、14代婉子の2例であり、13代韶子の退下(延長8年(930)9月29日)から14代婉子の卜定(承平元年(931)12月25日)までは1年3ヶ月、そして14代婉子の退下(康保4年(967)5月?)から15代尊子の卜定(安和元年(968)7月1日)までは1年2ヶ月と、いずれも1年以上の長期に渡っている。今井氏はこうした事例を鑑みて、もし桐壺帝斎院の退下から桐壺帝女三宮の卜定にも同様に1年あまりの時間がかかったなら、「花宴」と「葵」の間に空白の1年があるとしても到底足りないとして、やはり「葵」の御禊は初斎院御禊ではない可能性があると結論づけている。

     しかしこの2例の斎院交替は、13代韶子の退下理由は父醍醐上皇崩御であることは間違いなく、また14代婉子の退下も村上天皇の崩御による可能性が高いと思われる。歴史上で今上天皇か父上皇崩御による斎院退下の後、1年以内に卜定された斎院は10世紀以前では4代慧子のみであり、その後も18代娟子のみである。一方8代穆子、9代直子、14代婉子、15代尊子、19代禖子、23代斉子、26代官子の7人は先帝・上皇の崩御後1年以上経ってからの卜定であり、同時期に交替した斎宮も同様であった(なお天皇・上皇崩御以外の交替の場合、12代宣子退下(延喜20年(920)閏6月9日)から13代韶子卜定(延喜21年(921)2月25日)までが最長で8ヶ月かかった他は、すべて3ヶ月〜5ヶ月と比較的短期で交替が行われている)。
     さらにもう一つ重要なのは、この7例がすべて新帝にとっても父の死即ち「諒闇」であったという点である。
     中でも特に注目すべきなのは7代敦子の退下時の記録で、『日本三代実録』(元慶5年(881)4月20日条)には「賀茂祭。内蔵権頭従五位上兼行讃岐介良峯朝臣晨直奉承祝詞。向社宣旨。其祝詞尾曰。辞別申<久>。前年<尓>進<礼留>斎王<波>。重喪<尓>遭<太留尓>依<天>退出<志女天支>。今須<波>諒闇<波天々乃>後占定<天>進<无>」とある。ここでは斎院が父清和上皇の喪により退下しただけでなく、諒闇が明けるまで次の斎院卜定も延期されたことが祝詞の中で述べられている。9代直子以降に諒闇中の卜定がなかったことから見て、以後の卜定の際もこの時の例に倣い、諒闇中は延期とされたのであろう。
     加えて今井氏が根拠とした14代婉子の場合、崩御した上皇醍醐は新帝・朱雀天皇ならびに退下した13代韶子の父であるだけでなく、次代の斎院婉子自身の父でもあった。両親の喪で斎王が退下となるのと同様、新斎王卜定においてもまた、服喪中の皇女が候補者として不適格であることは言うまでもない。婉子が新斎院となることはあらかじめ内定していたかもしれないが、父醍醐の喪が明けるまでは正式な卜定は不可能だったのである。
     なお当時醍醐皇女以外で斎王候補になりえたと考えられるのは、上記一覧の中では故保明親王の娘熙子女王のみであった。皇太子の娘の斎院卜定は2代時子の例があるものの、熙子の場合は後に朱雀天皇元服に合わせて入内しており、現実的には斎院卜定の可能性は低かったと思われる。またその他の醍醐皇子たちの娘も、服喪が明ければ候補となる醍醐皇女が多数いたことから無理に女王卜定にはせず、従来通りに諒闇明けを待っての卜定となったのであろう。
    ※参考までに『源氏物語』以降の当帝崩御の例を見ると、堀河天皇崩御の際には25代ヮqが退下している(『中右記』(嘉承2年7月19日条)は急な不例のためと記すが、即日退出という慌ただしさにやや不審ありか)。一方で後冷泉天皇の斎院であった20代正子と近衛天皇の斎院であった30代怡子は、当帝崩御でも退下していない。しかしこれもまた、後冷泉天皇の次は弟の後三条天皇、近衛天皇の次は兄の後白河天皇が即位しており、斎院だけでなく新帝にとっても父の喪ではなかったためと考えられる。
     また9代直子と15代尊子の場合は、両名共に先帝と親子関係になかったが、それでも先代斎院退下から卜定まで1年以上の空白がある。新斎院と先帝が親子でなくとも、新帝の父の崩御という最も重い服喪が明けるまでは、重要な神事である新斎王の卜定も停止されたのものと見られる(なお後の18代娟子の場合は、長元9年(1036)4月の後一条天皇崩御から1年を待たず年内に卜定されている。この場合は、崩御した先帝が新帝・後朱雀天皇(娟子の父)の兄で、先帝と新帝(兄弟)、また先帝と新斎院(伯父・姪)が共に親子関係になく、また表向きは譲位後の崩御とされたことも理由の一つかと思われる)。
     よって今井氏の説についても、「葵」の御禊が初斎院御禊であることを否定する論拠にはならないと考える。

     以上の検討の結果、桐壺帝斎院の退下は斎宮の交替とは異なり、桐壺帝譲位によるものではない可能性が高いと推測する。年立の矛盾を解消するには退下は桐壺帝譲位の前年でなければならないので、初斎院御禊から逆算して「花宴」と同年と見なすのが最も妥当である。
     ただし「そのころ、斎院も下りゐたまひて」という記述から見て、斎院退下から桐壺帝譲位まではそれほど期間が空いていたという印象はない。恐らく長くとも1年以内のことであったと思われるので、斎院退下と新斎院の卜定は「花宴」の後、秋から年の暮れにかけてのどこかで行われ、さらに翌年の春から夏の頃に桐壺帝譲位・朱雀帝践祚の運びとなったものと考えられる。


     ところで後に「蓬生」で「(末摘花女房の侍従が)通ひ参りし斎院亡せたまひなどして」とある。この斎院は「末摘花」(光源氏18歳)で既に「侍従は、斎院に参り通ふ若人にて」と語られており、時期的に見て桐壺帝斎院と同一人物である可能性が高い。とすれば、桐壺帝斎院の薨去は「須磨」の頃で退下から5〜6年後であり、従って退下理由は斎院自身の死去によるものではないことになる。
     斎院の退下理由には死去以外では父母の喪(重服)または病が考えられるが、10世紀末までに病で退下した斎院は初代有智子と6代儀子の2名のみである。逆に在任中または退下直後で亡くなった斎院が3名いることから、11世紀以降とは異なり当時病での退下は許可されにくかったらしい。
     ただし桐壺帝斎院は、作中に出自についての記述は特にないことから見て、恐らく桐壺帝の皇女(即ち光源氏の姉妹)ではないと思われる。しかし斎院である以上、内親王であることはほぼ疑いないと考えられるので、桐壺帝の姉妹(大宮・女五宮以外の女一宮、女二宮、女四宮のいずれか?)かもしくは藤壺中宮・兵部卿宮兄妹の姉妹(つまり先帝の皇女。藤壺が女四宮なので、女一宮、女二宮、女三宮のいずれか?)とすれば、当時既に30代の可能性が高い(桐壺帝より年上であれば、40代ということもありうる)。
     10世紀末までの歴代斎院のうち、8代穆子と9代直子を除く14人は生年不詳でも大体の年齢が判明しているが、その中で確実に30歳以上まで斎院の任にあったのは14代婉子のみ(64歳?で退下)である。しかも初代斎院有智子が25歳で「齢<毛>老。身<乃>安<美毛>有<尓>依<弖>」(『類聚国史』神祇五・賀茂斎院、天長8年12月8日条)、即ち高齢と病を理由に退下した前例があり、桐壺帝斎院の場合も高齢またはそれに伴う病による退下の可能性は高くはないが、完全に否定されるものでもないと思われる。

     なお橋本治氏の小説『窯変源氏物語』では、「花宴」の後に桐壺帝の父一の院が崩御、その諒闇が明けた後に桐壺帝譲位・朱雀帝即位があったとしている。「紅葉賀」では「帝、下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて」とあり、また桐壺帝自らの言葉としても「春宮の御世、いと近うなりぬれば」と、譲位は間もなくのように語られていることから、「花宴」の年にも譲位がなかったとするのは不審なようだが、一の院が崩御したためにその喪中は譲位も延期されたとすれば矛盾はない(もし一の院が「紅葉賀」から「花宴」の間に崩御し諒闇中であれば、後に「薄雲」で藤壺崩御の淋しい春の様子が語られるように「花宴」での華やかな盛儀もなかったはずであるので、「花宴」以降に一の院が崩御し譲位も延期されたとする橋本氏の考えは妥当と思われる)。また母の喪の可能性もあるが、桐壺帝の母后と思われる人物については作中に一度も登場せず、そもそも桐壺帝自身の外戚についてもまったく言及がないことから、母后は既に死去していたと思われる。
     しかし既に触れたように、諒闇中は斎院卜定も延期とされるのが通例である。桐壺帝の親(恐らく父?)の喪により桐壺帝斎院も退下したとすれば、次の斎院卜定は「花宴」の翌年(=諒闇明け)でなければならないことになり、桐壺帝女三宮の卜定から本院入りまでに矛盾が生じる。よって、仮に桐壺帝斎院の退下理由が服喪であったとしても、その服喪が桐壺帝にとっての父母の喪であってはならない。即ち、桐壺帝斎院の退下が服喪ならばそれは斎院自身の母の死去によるものであり、桐壺帝斎院は一の院の皇女(桐壺帝の異母姉妹)か、または先帝の皇女(藤壺・兵部卿宮の異母姉妹)であったと考えられる(※藤壺・兵部卿宮の父である先帝は、物語が始まる以前に崩御している。また先帝の后(藤壺・兵部卿宮の母)も「桐壺」で崩御したことが語られているので、桐壺帝斎院が母の喪で退下したのであれば、桐壺帝斎院の母は先帝の后ではありえない)。
     作中には一の院が桐壺帝の父であると明記はされていないが、桐壺帝斎院が桐壺帝と同世代であればその親は当然50代以上の高齢と思われるので、母の喪による退下はごく自然なことである。また病や高齢では退下理由として許可されにくかったとしても、死穢を厳禁とする斎院にとって重服は必然的に退下であり、これを覆すことはありえなかった(なお歴史上の斎王では、斎宮恬子内親王が母紀静子の死去でも退下しなかった例があるが、これは極めて例外であり、両親の喪に遭った斎院はすべて退下している)。
     いずれにせよ、桐壺帝斎院退下→桐壺帝女三宮卜定→桐壺帝の父院(または母后)の崩御がすべて「花宴」と同年にあったとすれば、諒闇により桐壺帝譲位が延期されることになっても、桐壺帝女三宮自身の父母の喪ではないので退下にはならない。よって翌年諒闇が明けた後に朱雀帝が即位、さらに翌々年慣例通り桐壺帝女三宮の初斎院御禊が行われたのであろう。


    『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て・改訂案1
    光源氏年齢帖名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝2月、紫宸殿の桜花の宴。
    3月以降(?)桐壺帝斎院退下。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (斎院卜定の後、一の院または桐壺帝母后崩御?)
    同年または翌年、桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。
    21--朱雀帝諒闇明けの後、桐壺帝譲位、朱雀帝即位。
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。



  3. 朝顔斎院の卜定と本院入り

    「葵」における賀茂斎院の本院入りについて、ひとまず上記の結論に至ったが、『源氏物語』作中における賀茂斎院の問題点はこれだけではない。「賢木」において、桐壺院崩御により桐壺帝女三宮が退下した後に新斎院として式部卿宮の姫、即ちかねてから光源氏との仲を噂されてきた「朝顔姫君」が卜定される。

     斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、替はりにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ

     このくだりについて、現行の注釈の殆どは『源氏物語』以前の歴史上の女王斎院を9代直子のみとするが、2代時子と8代穆子も卜定時には女王であったので、厳密に言えば前例は3人である。準拠論でしばしば語られるように、桐壺帝を醍醐天皇に準えたとすれば、醍醐天皇までの歴代斎院13人中3人の「女王」は確かに「殆ど例がない」というほどの少数でもなく、「多くもあらざりけれど」というやや控えめな表現は妥当であろう。
     また「さるべき女御子やおはせざりけむ」と曖昧に流されているが、この時は実際に「ふさわしい内親王」が存在しなかったものと思われる。
     何故なら、桐壺院女三宮は父桐壺院の崩御で退下したのであり、同様に女三宮の姉妹である女一宮(後の一品宮。女三宮の同母姉)・女二宮(この人物は作中に登場せず、当時存命かも不明。斎王となった様子もないので、あるいは夭折したものか)もまた、当時は父院の服喪中で次期斎院となる資格を有していなかった。それ以外の内親王となると、この時点で生存していたと思われる先帝の皇女は恐らく藤壺中宮(30歳)が最年少である(後に朱雀帝女三宮の母となる藤壺女御は、まだ作者の構想にはなかったと思われる。加えて「若菜上」には「(朱雀帝が)まだ坊と聞こえさせし時参りたまひて」とあり、朝顔卜定の前に既に入内していたことになるので、いずれにせよ候補には入らない)。その他に桐壺院や先帝の姉妹たちがいたとしてもさらに年上で、仮に未婚であっても年齢上既に候補として不適当であったと思われる(後に「朝顔」で朝顔斎院と同居する女五宮は、「前斎宮」「前斎院」等の呼称がないことから斎王経験はないとみられ、また姉の大宮よりも老け込んだ様子からかなりの高齢と推測される)。なお朱雀帝自身には既に幾人かの妃がいたようだが、女三宮は年齢から見て「須磨」の頃の生まれであり、その姉の女一宮・女二宮(落葉宮)も恐らくまだ生まれていなかったのだろう。
     こうして、「さるべき女御子」が一人もいない「若無内親王者」の状況となり、その結果二世女王の中から白羽の矢を立てられたのが、桐壺院の姪にあたる朝顔の姫君だったのである。

     なおこの時点で既に作中に登場している二世女王のうち、紫の上と末摘花は共に源氏の妻となっているので当然除外されるが、紫の上の姉妹である兵部卿宮の娘たちは候補に該当したはずである。次女(王女御、冷泉帝後宮)は当時明らかに未婚であり、長女(髭黒正室)も娘の真木柱が生まれるのはこれより2〜3年後のことで、朝顔卜定の直前に「嫡腹の、限りなくと思すは、はかばかしうもえあらぬに」と触れられていることからもやはり結婚前の可能性が高いと思われる(ただし髭黒の姉妹である承香殿女御もまだ皇子を産んでおらず、当時は髭黒一族もまだ「はかばかしい勢力」を持たなかっただけかもしれないので、既婚の可能性もありうる)。作者も当然彼女たちも候補であることは意識していたと考えられるが、兵部卿宮は桐壺院の実弟である式部卿宮とは違い、異なる皇統の皇族であることから避けられたのかもしれない。そもそも、作者の意図は始めから朝顔卜定にあったのであろうから、このために朝顔を斎院にふさわしく内親王にも劣らぬ高貴な皇女として、桐壺帝や源氏と同じ皇統に属し、しかも現皇族中最も格式高い式部卿宮の姫に設定したものと考えられる(『源氏物語』以前の歴史上の女王斎院3人のうち、2代時子の父正良は卜定当時皇太子であり、また8代穆子の父時康も一品式部卿で、皇族の中でも特に格式高い筆頭親王であった)。なお朝顔のきょうだいについては「御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば」とあり、また朝顔自身は父と共に桃園宮で暮らしていたと見られることから、恐らくは正室腹の一人娘だったのであろう。

     ただしここで注意しなければならないのは、「賢木」1年目の冬に桐壺院崩御の後、翌年の比較的早い時期に朝顔姫君が斎院に卜定されていることである。
     先述のとおり、『源氏物語』以前に歴史上で諒闇中に卜定された斎院は4代慧子が唯一の例である。朝顔姫君は桐壺院の娘ではなく姪であり、「喪葬令」によれば三ヶ月で服喪は終わったはずなので、その点は確かに問題はない。
     しかしながら、史実では光孝天皇崩御で8代穆子が退下した後、9代直子女王(文徳天皇皇孫。光孝天皇は大叔父)が卜定されるまでにも1年以上かかっており、やはり親子でなくとも諒闇中は卜定を避けたためと考えられる。にもかかわらず朝顔姫君の例では、桐壺院崩御から半年も経たずに選出されており、明らかに諒闇中の卜定ということになる。このやや強引とも思われる早期の卜定には、諒闇明けを待たず選出を急いだ弘徽殿大后の意図が感じられないだろうか。
     桐壺帝女三宮が退下したものの、残る女一宮までも新たに斎院とすることについて、大后は当然母として反対であっただろう。だがその代りに選ばれたのが他の宮家の女王でなく朝顔姫君であったのは、果たして筆頭宮家の姫という門地の高さだけが理由であろうか。
     そもそも朝顔姫君は早くから源氏との関係を取り沙汰されており、その噂は空蝉の女房たちの話題に上るほどに知れ渡っていた。いかに格式高い宮家の姫君とはいえ、二人が既に逢瀬を持った(あるいはいつ持ってもおかしくない)仲であるとの認識が世間に広まっていたのであれば、未婚を条件とし清浄であるべき斎院候補としてはむしろ避けられてもおかしくない(歴史上でも寛和2年(986)、斎宮済子女王が滝口武者平致光と密通したとされ、野宮での潔斎中に解任された例がある)。また源氏との関係が事実無根とすれば、葵の上を早くに源氏に奪われまた朧月夜の入内も失敗した以上、今や朝顔姫君は朱雀帝の妃候補として年齢的にも釣り合った最高貴の姫君の数少ない一人でもあったはずである(繰り返すが、この時点で作者はまだ朱雀帝女三宮の母となる藤壺女御を想定してはいなかったと思われる)。
     もっとも朝顔本人や父式部卿宮が結婚相手として考えたのは源氏だけのようで、後に紫の上の父兵部卿宮が次女を冷泉帝に入内させたのとは対照的に、作中では朝顔入内の可能性すらまったく触れられていない。しかし実際に朱雀帝や右大臣・大后から入内の打診がなかったとしても、そうした式部卿宮家の源氏寄りの態度を見るにつけ、大后にしてみればますます我が子朱雀帝が蔑ろにされていると感じて源氏憎しの思いを募らせる種でもあっただろう。だとすれば朝顔姫君の斎院卜定は、式部卿宮家に対する右大臣側のいわば嫌がらせであった可能性も考えられる。またさらに踏み込んで憶測するなら、源氏との噂があった故に大后は敢えて朝顔姫君を斎院に推し、いずれは二人の関係を理由に源氏を追い落とそうと密かに機会を伺っていたのではないか。
     後に「賢木」で光源氏と朧月夜との密通が発覚した際、右大臣は次のような言葉で朝顔斎院との交際を非難している。

    「男の例とはいひながら、大将もいとけしからぬ御心なりけり。斎院をもなほ聞こえ犯しつつ、忍びに御文通はしなどして、けしきあることなど、人の語りはべりしをも、世のためのみにもあらず、我がためもよかるまじきことなれば、よもさる思ひやりなきわざ、し出でられじとなむ、時の有職と天の下をなびかしたまへるさま、ことなめれば、大将の御心を、疑ひはべらざりつる」

     この結果、源氏が犯した罪状は右大臣・大后らにより、表向き「神聖たるべき斎院を汚し、朱雀帝を冒涜した」ことにあるとされたと思われる。とはいえ、密会の現場を押さえられた朧月夜尚侍が後に処分を受けたのに対し、完全な無実の朝顔斎院はその後も冷泉帝の御世まで任にあり続けたことから見て、源氏の須磨退去中でさえ公式には何の咎めもなかったと考えてよいだろう。結局のところ、朝顔姫君は始めから源氏を失脚させる目的のために利用されたことになり、それは諒闇中にもかかわらず朧月夜の華々しい尚侍就任と朝顔姫君の斎院卜定を強行した大后らの強引さ(ひいては故桐壺院と源氏への敵愾心)を暗に語るものであったと思われる。


     さらにこの朝顔姫君の斎院卜定についてはもうひとつ、重大な疑問点が指摘されている。
     大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。(中略)
     吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり

     光源氏は父桐壺院崩御後、藤壺中宮への思いやみがたく再三迫るも厳しく拒絶され、失意から都の北にある雲林院に引きこもる。折しも紅葉の美しい秋、源氏が二条院の紫の上へ便りを送る一方で、雲林院のすぐ近くであるからという口実の元に、今は斎院となった朝顔へも未練たっぷりに文を送る様子を上記引用の本文は描いている。
     だが朝顔が斎院に卜定されてから、作中ではまだ長くとも半年ほどしか経過していない(2月の朧月夜の尚侍就任の後に朝顔卜定が語られるので、晩春から初夏にかけての頃と思われる)。通常であればまだ自宅での潔斎中か、せいぜいが宮中の初斎院に入っているくらいのはずだが、ここでの描写は明らかに雲林院と紫野の近さを意識したものとなっている。諸注釈もこれを不審としているが、明快な根拠を挙げたものはない。
     これについて、今井氏は次のように述べている。

    『源氏物語』は、独自の虚飾をまじえながらも、史実を丹念になぞりながら御息所母子を描き出してゆくのであり、それだけ母子揃っての群行というのは、当時の人々にとっても印象深い、前代未聞の事件であったに違いない。群行の日時や様子は、例えば『西宮記』にも記され、『源氏物語』が、葵巻以下の物語を書き進めるに際しては、それらの資料が利用されたであろうことが想像される。
     それに対して、斎院の描かれ方にはずいぶんと差があり、様々の点で不審や不明瞭なところが認められるということ。先に『花鳥余情』が、この時代の斎院制度について十分に理解できていなかった可能性について言及したが、はたしてそれは、兼良だけの問題であったろうか。新斎院が卜定された後、どのようにして初斎院を迎え、本院にたどり着くか、それらのことに不案内だったのは、他でもない『源氏物語』なのではなかったか

    『源氏物語』が執筆された11世紀初め、天延3年(975)の16代斎院選子卜定から既に20年以上の歳月が経過していた。従って『源氏物語』での斎院を巡る描写の問題点は、斎院卜定時の初斎院や本院渡御以前のあり方についての記憶も、紫式部のみならず当時の社会全体で既に半ば忘れられていたことの反映ではないかとする今井氏の見解は非常に興味深い。
     紫式部の生年は不明だが、仮に最も早い説に従い970年生まれ(今井源衛氏ほか)としても、選子卜定の975年当時数えわずか6歳、本院入りの977年でもようやく8歳で、現代ならば小学校に上がったばかりである(最も遅い978年生説を取れば、まだ紫式部は生まれてさえいない)。家族と共に御禊見物に行っていた可能性も否定できないが、いかな才女の誉れ高い紫式部といえども、その年齢で『源氏物語』で描いたような御禊の様子を詳細に記憶していたとは考えがたい。よって紫式部が初度の御禊や初斎院御禊を実見していなかった(あるいは記憶できるほどの年齢ではなかった)であろうとする、今井氏の推測は妥当と思われる(なお「賢木」で描かれる伊勢斎宮の野宮や群行についても、榎村寛之氏が同様の見解を示している)。

     しかし一方で、斎宮については斎院よりも見聞の機会が多かったであろうから、『源氏物語』作中での斎宮の描写もおのずと斎院より詳細なものになったのだとする見解には必ずしも従えない。何故なら今井氏が極めて詳細な記述であるとする伊勢斎宮群行の場面は、早くから史実の斎宮規子内親王(村上天皇皇女、選子の異母姉)とその母徽子女王(斎宮女御)を準拠としているだろうことを指摘されてきたが、その斎宮規子の卜定は斎院選子の卜定と同年だったのである。両者の卜定から本院入りまたは群行までの日取りは、以下の通りである。


    【斎院選子と斎宮規子の卜定から本院入り・群行まで】
    斎院 卜定初斎院(大膳職)本院入り
    選子天延3年(975)6月25日 貞元元年(976)9月22日 貞元2年(977)4月16日 
    斎宮卜定初斎院(侍従厨)野宮群行
    規子天延3年(975)2月27日 天延4年(976)2月26日 貞元元年(976)9月21日貞元2年(977)9月16日


     斎院選子の卜定は、15代尊子が母(冷泉女御藤原懐子)の死去で天延3年(975)4月3日に退下したためである。一方斎宮規子の卜定は、先代斎宮隆子女王が伊勢で在任中の天延2年(974)閏10月17日に薨去したのを受けてのもので、両名が同年に新斎宮・斎院となったのはまったくの偶然であった。
     とはいえ、特に「賢木」における斎宮下向の詳細な描写は『日本紀略』にも記録された斎宮規子の史実の通りであり、今井氏も指摘するように紫式部が当時の貴族の日記等の資料に基づいて『源氏物語』を執筆したと考えるのは当然である。とすれば、斎宮と並行して進行する斎院選子の初斎院入りや本院入りの情報についても、紫式部は必ず気がついていたはずである。とりわけ斎宮規子の野宮入りと、斎院選子の初斎院入りはわずか一日違いであったのだから、編年体の資料で規子の野宮入りの記事を調べたなら、その翌日の選子初斎院入りの記事も嫌でも目に入ったことだろう。
     なお、上記表の斎宮規子・斎院選子の卜定から本院入り(または群行)までを年月日順に直し、『日本紀略』の本文を加えると次のようになる。紫式部がどのような資料を元にしたかは不明だが、当時の貴族の日記等であれば恐らくこうした形で目にしたものと想像される。


    月日記事(日本紀略)
    天延3年(975) 2月27日卜定伊勢斎宮、規子内親王<村上第四>、卜食
    6月25日 卜定賀茂斎王、先朝[村上天皇]第十選子内親王也、
    以陸奥守貞盛二條万里小路宅、為潔斎所
    天延4年(976)
    [貞元元年]
    2月26日伊勢斎王[規子]禊、遷座侍従厨家[初斎院]
    4月25日賀茂祭、斎王[選子]未入本院、仍無供奉
    9月21日伊勢斎宮[規子]従侍従厨禊東河、入野宮
    9月22日賀茂斎院[選子]入御大膳職
    貞元2年(978)4月16日賀茂斎院選子、従大膳職禊東河、入紫野院、
    今日凶會日也、中納言為光為前駈
    9月16日伊勢斎宮規子内親王、従野宮禊西河、参向伊勢斎宮 


     第一章で述べたように、桐壺帝女三宮の斎院卜定から本院入りまでについて、『源氏物語』は矛盾のない時間経過で展開している。また『源氏物語』が多数の資料を駆使し多くの準拠を元に執筆されたと思われることは、多くの研究が指摘するところでもある。斎院についても先述の「賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど」や「御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに」というさりげない描写からも作者の並々ならぬ知識が伺え、執筆にあたって事前の入念な調査があったのは間違いない。以上の点から、紫式部が斎院卜定に際しての本院入りまでの一連の儀式を実見していなかったのはほぼ確実としても、だからといって初斎院入りや本院入りの時期について疎かったと言うには当たらないと思われる。
     しかしそうであるならば、何故作者は「賢木」での朝顔斎院に関する逸話で、極めて異例と言う他ない早期本院入りを匂わせる描写を入れたのであろうか。

     結論から言ってしまうと、この点に関しては作者は現実の儀礼の規定よりも話の展開を優先し、間違いであることを承知の上で敢えてこの逸話を入れたものではないかと考える。
     桐壺院の崩御後、光源氏と敵対する右大臣家は勢力を増し、さらに密かに恋い慕う藤壺中宮は故院の一周忌に自ら出家を遂げ、わずか1年の間に源氏はみるみる破局へと追い込まれていく。そして朧月夜尚侍との関係が露見した後、右大臣と弘徽殿大后が源氏を失脚させる口実のひとつとして引き合いに出したのが、他ならぬ朝顔斎院との交流であったことは既に述べた通りである。
     こうして、桐壺院崩御後に逼塞していた光源氏が一気に須磨隠遁まで追い込まれていく怒涛の展開を、作者はスピーディに進めていく。そこに朝顔斎院との疑惑は源氏失脚の重要な伏線として、さらにはその失脚が表向きは無実の罪によるものとして欠くべからざる要素であったため、本来であれば諒闇明けとすべき卜定時期や2年後である本院入りのことも敢えて無視し、やや強引に「賢木」の雲林院での逸話を入れたのではないだろうか。
     しかしそれならばそもそも、「花宴」後の斎院交替の時点で朝顔を卜定すればよかったようにも思われるが、「葵」でのあの御禊の日に朝顔もまた見物に加わっていたことを忘れてはならない。朝顔の父式部卿宮は源氏の素晴らしさに「神などは目もこそとめたまへ」とまで感嘆し、朝顔自身もまた源氏の晴れ姿に心を動かされつつ、同時に「いとど近くて見えむまでは思しよらず」との思いを新たにする。彼女の決意は「葵」冒頭でも「いかで、人に似じ」と述べられているが、その思いはまさに同じ日に近くで起きた葵の上と六条御息所の車争いの様子を耳にして一層強くなったであろう。葵の上の死後、正室を失った源氏に六条御息所や朧月夜が密かに結婚を期待するのに対して、朝顔の心境はまったく語られないことからもその意志の固さが伺える。源氏の正妻候補として充分と周囲も認める女性でありながら、やや理知的にすぎるほどに自制できるのが朝顔という姫君であり、それを示す上でも車争いの時点で彼女はまだ斎院となるわけにはいかなかったのである(この問題については、田坂憲二氏が「朝顔の姫君の構想に関する試論」(『源氏物語の人物と構想』和泉書院, 1993)で六条御息所との対比から詳細に論じている)。

     話戻って、今井氏が指摘するように当時の宮廷社会でも斎院卜定から本院入りまでの一連の儀礼の記憶が忘れられていたとしたら、紫式部がそれを逆手に取って故意にこのような記述をした可能性も考えられる。
     即ち、当時は斎院選子の30年近くにわたる在任で「斎院は紫野にいるもの」という認識が一般にが定着してしまっており、紫式部はその固定観念を利用して、本来であればまだ本院入りまで一年以上あるはずの朝顔斎院を、当然のように敢えて既に紫野にいるものとしたのではないだろうか。だとすれば、紫式部は今井氏が推測するように斎院の卜定を巡る事情に疎かったわけでは決してなく、むしろ同時代の人々よりもはるかに正確かつ詳細な知識を有しており、だからこそ故意にこうした「ケアレスミス」ともとれる設定で執筆したということになる。そして紫式部よりもさらに若い女性読者、例えば紫式部の主人であった中宮彰子や同僚女房たちなどは何の疑問も持たず、禁域の人となった朝顔と源氏の交際はこれからどうなるのかと先を期待したことだろう(現実には二人の進展はなかったが、『伊勢物語』の斎宮と業平のような展開を予想した読者も当然いたと思われる)。

     ただしここで忘れてはならないのは、いかに当時の宮中や貴族階級の人々が斎院制度に疎くなっていたとしても、かつての御禊の有様をその目で見て記憶している人物も存在したであろうという点である。その筆頭は無論、12歳で卜定され14歳で紫野本院へ入った斎院本人、選子内親王その人である。

     所京子氏の研究(『斎王和歌文学の史的研究』国書刊行会,1989)によれば、選子は幼くして両親と死別の後、伯父藤原兼通とその妻昭子女王の元で養育されていたらしい。幼少期の選子については、同母兄円融天皇の女御・藤原媓子(兼通女、のち皇后)の入内と共に内裏へ参入(『親信卿記』天延元年2月20日条)、その翌年には清涼殿で着裳を行った(『日本紀略』天延2年11月11日条)等の記録が見られるが、それ以外は兼通の邸堀河院で成長したものと思われる。今上帝の同母妹にして后腹内親王という高貴な身分の少女であるから、稀に参内する他は大切に深窓にかしずかれて殆ど外出の機会もなかったであろう。そんな選子にとって、斎院卜定は文字通りその生涯を決定する最大の転機であった。
     しかも選子の卜定からわずか5日後の天延3年(975)7月1日、日本史上初と言われる皆既日食が起こり、大々的な恩赦が行われた。さらに翌天延4年(976)は5月11日に内裏が焼亡したばかりか、6月18日には大地震で宮中の八省院・豊楽院を始め東寺・西寺・清水寺や多くの邸宅が倒壊し、多数の死者が出る大惨事となった(その後も連日のように余震が起こるなど天変地異や災害が相次ぎ、とうとう7月13日に改元が行われている)。このような混乱の中、選子の卜定(天延3年(975)6月25日)から初斎院入り(貞元元年(976)9月22日)まで1年3ヶ月かかっており、これは初斎院入りの年月日が判明している歴代斎院の中で最も遅い異例の初斎院入りであった。こうした衝撃的な大事件を多感な少女時代のそれも斎院卜定直後に経験し、それを乗り越えてようやく貞元2年(977)無事に行われた初斎院御禊と本院入りの記憶は、選子にとってとりわけ忘れがたいものになったであろう。
     さらに選子と同年に斎宮となった異母姉規子は、当時の歌壇で最も著名な女性・斎宮女御徽子女王の一人娘であった。選子より先に侍従厨へ初斎院入りした規子は、選子とは入れ違いに宮中から野宮へ移っており、異母姉妹である二人は共に暮らすどころか、顔を合わせたことさえ殆どなかったと思われる。
     しかし『斎宮女御集』には選子が共に伊勢へ下る規子・徽子母子に送った歌や、後年徽子の死去に際して前斎宮規子へ弔問をしたとの詞書もあり、斎院選子と斎宮女御母子の交流が深かったことが伺える。そこには血の繋がる姉妹というだけでなく、不吉な災害の相次いだ時代に共に皇室と国家の安寧のため神に仕える運命を負った、同じ斎王としての深い共感もあったかもしれない。「賢木」で紫式部が哀切を込めて描き上げた斎宮下向の物語は、選子にはかつて自身が体験した斎院卜定と時を同じくした、亡き異母姉とその母女御との忘れえぬ懐かしい記憶そのものだったのである。
     そして後年、一条朝きっての文化サロンとして名を馳せた斎院選子とその周囲でも、当然『源氏物語』は愛読されたであろう。年若い女房はともかく、選子本人ならば朝顔の本院入りの違和感に気づいた可能性も充分に考えられる。
     紫式部が中宮彰子に出仕した頃、選子は40前後で当時ではそろそろ初老と言われる年齢に差しかかっていた。しかし『枕草子』『栄花物語』『御堂関白記』などから伺える中宮定子や藤原道長との当意即妙なやりとりの様子から伺えるのは、老いの衰えどころかむしろ年齢を重ねて一層重みを増し、しかも才気溢れる「大斎院」選子の姿である。いかに30年近い歳月が過ぎたとはいえ、当代のサロンの女主人であった選子が若き日の、そして生涯初めての晴れ舞台となった華やかな御禊や本院入りの儀式を克明に記憶していたとしても、少しも不思議ではない。

     ところでここで気になるのは、斎院卜定についてこれだけの申し分のない現場証人にして当事者であった選子が、『源氏物語』執筆に何の影響も与えることがなかったのかということである。
     これもつとに知られたことであるが、紫式部の兄弟惟規は斎院選子に仕えた女房・中将の愛人であった。もっとも『紫式部日記』は中将の人柄を痛烈に非難しているが、紫式部さえその気になればこうした人脈や主君彰子・道長らのつてを頼りに、間接的にでも選子その人への「取材」も可能だったのではないか。
     とはいえ紫式部が『源氏物語』の執筆を始めた当時、既に惟規と中将が交際していたかは知る由もなく、また紫式部が彰子に仕え始めた頃、『源氏物語』がどこまで書き進められていたのかさえ不明である(判っているのは1008年秋に「若紫」が宮中でも読まれていたらしいということだけである)。そもそも紫式部が『源氏物語』をきっかけにその才を買われて出仕するようになったというのが事実であれば、執筆当初は『源氏物語』がこれほど世に広まり斎院選子の目にまで触れることになるとは予想しておらず、それが思いがけず宮中でもてはやされるようになったことで内心密かに失敗したと思ったかもしれない。

     ここでもう一つ、朝顔斎院が父式部卿宮の死で退下した後、「桃園宮」の邸に帰ったとされる点に注目したい。
    「朝顔」で唐突にその名称が登場する桃園宮は、『河海抄』で式部卿宮の準拠を宇多皇子敦固親王に求める根拠ともされ、朝顔の出自の高さを裏付けるものであるとする説や、また逆に父式部卿宮没後の宮家の零落を示すものであると見なす説もある。確かにそれもひとつの要素であったかもしれないが、さらに想像をたくましくすれば、作者の意図はあるいは「賢木」での逸話が紫野本院ではなくまだ桃園宮での潔斎中のことであったのだと、さりげなくほのめかすことにもあったのではないだろうか。
     紫野斎院の場所については、角田文衛氏や小山利彦氏の推論から大体の位置が絞られており、まさに雲林院から「吹き交ふ風も近きほどにて」であったと考えられる。一方桃園宮の場所も諸説あるが「大宮小路より西、一条大路より北」のあたりとされ、斎院よりは雲林院からの距離はあるものの、桃園、紫野、そして雲林院はいずれも大内裏のほぼ真北の比較的近い範囲の中に存在していた。となれば、雲林院の源氏が紫野の近さからそのすぐ向こうの桃園宮で潔斎中の朝顔斎院を連想したとしても、まったく不自然とまでは言えないのではないか。無論目と鼻の先の紫野に比べれば「吹き交ふ風も近きほどにて」とするのはやや苦しい解釈ではあるが、卜定後半年以内であればいまだ初斎院入りしていを果たしていなくとも少しもおかしくはない。「賢木」で朝顔斎院の居場所を紫野本院と明言しなかったことから、朝顔の自邸として「桃園宮」が加えられた根拠の一つに、こうした意図が隠されていた可能性もありうると思われる。


  4. 結び

    『源氏物語』における賀茂斎院は、伊勢斎宮に比べると華やかさには欠ける存在である。第一部前半のクライマックスの一つである「葵」の車争いでも、物語の舞台は御禊という斎院の晴れ舞台でありながら、当の斎院本人である桐壺帝女三宮については殆ど語られない。彼女は「賢木」の桐壺院崩御で早々と朝顔姫君にその座を譲り、以後は「澪標」でわずかに名前のみ登場するだけで物語から姿を消してしまう。
     また朝顔斎院も、肝心の斎院としての在任中には、源氏と一度文を交わした他は退下までまったく登場しない。始めは源氏の須磨隠遁のため、また源氏帰京の後は政界復帰と冷泉帝の即位で多忙になったためもあるが、朱雀帝の譲位の際すら朝顔の斎院残留は一言も語られなかった。無論、必要のないことは強いて語ろうとしないのが物語であるが、同時に朝顔斎院の留任は語るまでもない当然のことでもあったのだろう。
     しかし秋好中宮や玉鬘とは異なり、朝顔は斎院退下後の源氏との噂も「似げなからぬ御あはひならむ」と好意的にもてはやされ、前斎院とは言え世間的には結婚に何の障害もなかった。確かに新山春造氏が「二世女王の婚姻:朝顔の姫君を中心に」(『中古文学』67号, p81-90, 2001)で指摘したように、源氏との結婚が実際には私通婚として家名を汚すことになった可能性もあるが、内大臣の身で頻繁に桃園訪問を繰り返し自邸にまで宣旨を呼び寄せた源氏が「世の中に漏り聞こえて」という状況を知らなかったはずがない。それ故世間も源氏に敢えて隠す気がないものと認識し、かつて葵の上没後に六条御息所が「さりともと世人も聞こえあつかひ」であったように、今度こそ朝顔を正室に迎えるのではとの噂になったのも当然で、朝顔の周囲の人々もますます期待したであろう。だが一時はヒロイン紫の上の地位さえ脅かした朝顔斎院は、内心では源氏へ惹かれる我が心を自覚しながらも、最後まで源氏の求愛を固く拒み通した希有な女性であった。
     こうした賀茂斎院の造形の背景に、先行研究が指摘するように『源氏物語』当時の斎院であった選子内親王の面影が色濃く反映されていた可能性は、充分に考えられることである。そして『伊勢物語』が斎宮にまつわる「禁忌の恋」のイメージを長く後世へ残し続けたように、紫式部が様々な準拠を元に『源氏物語』の中に再生させた斎院もまた、以後の王朝物語に登場する「不婚の皇女」としての斎院の原型となっていった。賀茂斎院は永遠に手の届かぬ孤高の女主人公たる皇女として、『狭衣物語』の源氏の宮に至りひとつの頂点を極めた後、やがて平安時代の終焉と共に歴史からも物語からも姿を消すこととなる。


    『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て・最終改訂案
    光源氏年齢帖名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝桐壺帝斎院退下。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (斎院卜定の後、一の院崩御?)
    同年または翌年、桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。
    21--朱雀帝桐壺帝譲位、朱雀帝即位(一の院の諒闇後?)。
    前坊王女(後の秋好中宮)、新斎宮に卜定。
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
    秋、新斎宮、初斎院入り。9月、野宮入り。
    23賢木朱雀帝9月、新斎宮と母六条御息所、伊勢へ下向。
    11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。
    24賢木朱雀帝朝顔姫君、斎院卜定。
    29澪標冷泉帝朱雀帝譲位。斎宮退下。
    32薄雲冷泉帝桃園式部卿宮死去。朝顔姫君、斎院退下。


     管理人関連ブログ:「賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院

     主要参考論文:
      原田芳起「源氏物語年立論への疑い:葵の巻前後の部分構図について」(『国語と国文学』昭和35年5月号, p36-45)
      今井上「源氏物語の死角:賀茂斎院考」(『国語国文』81巻8号, p15-30)
      島田とよ子「斎宮:秋好中宮の斎宮ト定について」(『園田国文』11号, p29-39) ※Cinii提供全文あり
      所京子「大斎院選子の仏教信仰」(『斎王和歌文学の史的研究』p533-602, 国書刊行会, 1989)
      榎村寛之「紫式部は斎王を見たか?」(斎宮歴史博物館公式サイト「斎宮百話」)


最終更新日:2013/06/21




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