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10代斎院 君子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
くんし きみこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:宇多天皇(867-931)
母:女御橘義子<従四位上>
未詳(890-891頃?) 延喜2年(902)10月8日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
宇多(887〜897,父)、
醍醐(897〜930,異母兄)
卜定:寛平5年(893)3月14日
初斎院:寛平5年(893)6月19日
   (宮内省)
本院:寛平7年(895)4月16日
退下:延喜2年(902)10月9日
   (『紀略』は8日)
薨去
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
元子女王(いとこおば)
 父:本康親王
卜定:寛平元年(889)2月16日
初斎院:寛平元年(889)9月
野宮:寛平2年(890)9月5日
群行:寛平3年(891)9月4日
退下:寛平9年(897)3月19日
不明
柔子(959没,異母姉)
 [六条斎宮]
 父:宇多天皇
 母:女御藤原胤子
卜定:寛平9年(897)8月13日
初斎院:昌泰元年(898)4月25日
野宮:昌泰元年(898)8月22日
群行:昌泰2年(899)9月8日
退下:延長8年(930)9月22日
天皇譲位

略歴:
 寛平4年(892)12月29日、内親王宣下。(異母姉柔子と同時)
 寛平5年(893)3月14日、斎院に卜定。
 寛平5年(893)6月19日、初斎院(宮内省)に入る。
 寛平7年(895)4月16日、紫野院に入る。
 寛平8年(896)閏1月、父宇多天皇が斎院へ行幸。
 寛平9年(897)7月3日、父宇多天皇譲位、兄醍醐天皇践祚。

7月13日、醍醐天皇即位。
 延喜2年(902)10月9日、病により斎院より退出、薨去。

同母兄弟:斉中親王(885-891)
     斎世親王(真寂法親王,886-927)
     斉邦親王(生没年不明,891親王宣下)

斎院長官:橘公頼[おじ](昌泰2年(899)4月2日延喜2年(902)10月(斎院薨去)?)

宇多天皇第三皇女。
 同母兄弟の斉邦親王は生年不明だが、兄二人の生年と親王宣下の年(891)から見て、887〜890年頃の生まれと思われる。君子の内親王宣下は892年であることから、斉邦よりも年下であろう。
 異母姉均子内親王(宇多天皇第一皇女)が890年生まれ(『紀略』延喜10年2月25日条薨伝)であり、君子の生年が890年以降であることはほぼ間違いない。さらに892年に異母姉柔子内親王(第二皇女)と共に内親王宣下を受けていることから、君子内親王は890〜891年頃誕生と思われる(よって卜定時3〜4歳か)

 なお、斎院長官を務めた橘公頼は君子の母義子の兄弟であった。また公頼の母雄風王女は万多親王の孫、桓武天皇の曽孫で、君子の祖父光孝天皇の再従姉妹にあたる。

                ┌────┐
                |    |
 藤原胤子===宇多天皇===橘義子  橘公頼
      |      |      [長官]
   ┌──┴──┐   ├────┐
   |     |   |    |
  醍醐天皇   柔子  斎世  ◆君子
         (斎宮)

 母方の祖父橘広相(837-890、正四位下参議)は、「阿衡事件」(888‐889)で責任を問われ失脚。また同母兄の斎世親王も、君子内親王の斎院在任中に「昌泰の変」(901)で菅原道真失脚に巻き込まれ出家した。
 母義子が父源定省(のちの宇多天皇)と結婚した時(884年頃?)、祖父光孝天皇の皇子は定省も含めてすべて臣籍降下していた。それだけに光孝急死後の宇多の即位は予想外の幸運であり、義子の女御宣下も破格の待遇であったが、結果的に君子の一家には却って不幸ともなった。
 なお同母兄弟三人の内、長兄斉中は早世、末の斉邦も恐らく早くに亡くなったと思われるが、次兄斎世は出家前に源庶明・源英明の二子(共に勅撰歌人)をもうけている。

参考リンク:
『天皇皇族実録45.宇多天皇 巻3』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※君子内親王については34〜36コマにあり

関連論文:
・勝亦志織「『大和物語』における桂の皇女関連章段採録の意図」
 (『古代文学研究(第二次)』(25, p15-28, 2016)初出、『平安朝文学における語りと書記(エクリチュール)――歌物語・うつほ物語・枕草子から――』(p51-75, 武蔵野書院, 2023)収録





宇多天皇
史料 月日 記述
日本紀略 寛平5年
(893)
3月14日 【君子内親王、賀茂斎院に卜定】
 君子内親王為賀茂斎王、今上第三皇女也。
日本紀略 寛平5年
(893)
6月19日 【斎院(君子)御禊、初斎院(宮内省)に入る】
 賀茂斎内親王(君子)禊、移於宮内省。
日本紀略 寛平7年
(895)
4月16日 【斎院(君子)御禊、紫野斎院に入る】
 賀茂斎内親王(君子)、禊鴨河、入紫野院、
中右記 寛平8年
(896)
閏1月 【宇多天皇、賀茂斎院へ行幸】
(長承元年12月5日条)
(前略)臨深更頭弁書状云、可有御幸斎院准據之例、可量申者、■返事云、御幸例不慥覚間、難申左右、但寛平八年閏正月有限[院](宇多)御幸斎院之由、見旧記、斎院君子内親王、今上第三女、■[母?]女御橘義子也、
醍醐天皇
史料 月日 記述
日本紀略 寛平9年
(897)
8月17日 【賀茂社へ斎院(君子)の交替なしを奉告】
 奉遣使者於賀茂神社、令告不改斎内親王(君子)之由、
公卿補任 昌泰2年(899) 4月2日 【橘公頼、斎院長官に任命】
(延長5年)
參議 從四位上 橘公頼<五十一>
    <贈中納言廣相六男。母左馬頭從四下雅風王女。>
<寛平八正廿二藏人。廿六日播磨少掾。同九正十一左衛門少尉。同十正廿九轉大尉。昌泰二四二從五下。即齋院長官。(後略)>
日本紀略 昌泰3年
(900)
4月1日 【皇太后班子女王崩御】
 皇大后班子崩。<年四十八。>號洞院大后。今上(醍醐)之祖母也。
日本紀略 昌泰3年
(900)
4月16日 【賀茂祭、皇太后班子崩御により停止】
 停賀茂祭。依皇大后之崩御也。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
昌泰4年
[延喜元年]
(901)
4月21日 【賀茂祭】
 右馬寮有牛死穢。仍仰国飼御馬可送斎院由云々。右馬頭連並觸穢之代、以右近権少将佐方、假充彼使。
以事之起倉卒、賜御衣一襲。申刻、雷雨。差蔵人俊蔭、問斎王(君子)途中安否云々。
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜2年
(902)
10月8日 【斎院(君子)病の使者あり】
 自斎院使公節陳斎王(君子)煩病由、兼可遷宮否云々。差蔵人公利労問之。
日本紀略
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜2年
(902)
10月9日 【斎院君子内親王薨去】
『日本紀略』(10月8日)
 賀茂斎院君子内親王薨。

『醍醐天皇御記』
 仰左大臣(藤原時平)、令定斎王(君子)移他家事。入夜、公節来云、親王(君子)甚無気力云々。此夜、罷出云々。
日本紀略
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜2年
(902)
10月11日 【君子内親王薨去を奏上】
『醍醐天皇御記』
 左大臣奏斎院君子内親王以九日夜薨状云々。

『日本紀略』
 奏君子内親王薨由、即下御簾、遣使弔問、賻物之外、判給大蔵省絹布等。
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜2年
(902)
11月3日 【斎院薨去について、賀茂社への奉告作成を命じる】
 斎王薨状、可奉告賀茂状、仰右大臣(源光)令勘例之。
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜2年
(902)
11月5日 【右大臣(源光)、賀茂社への宣命を奏上】
 右大臣(源光)奏賀茂宣命。



史料 記述
一代要記
宇多天皇
(賀茂)
 君子内親王
 <帝二女、寛平五年三月卜定、延木二ー十月八日薨、>
帝王編年記
宇多天皇
(皇女)
 <第三>
 君子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院>
(齋院)
 君子内親王<帝第三/皇女>
二中歴
(齋院)
 君子<宇多女 寛平五年>
皇代暦
宇多天皇
(齋院)
 君子女王 帝三女
本朝皇胤紹運録
(宇多天皇子)
(276)君子内親王[齋院。母同齊世(女御橘義子。三木廣相女)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
君子内親王 寛平五年卜定。宇多天皇第十皇女。母女御橘義子。
賀茂斎院記
君子内親王
宇多天皇第十皇女也。
母女御橘義子。参議広相之女也。
寛平五年卜定。醍醐帝即位未改之。
大和物語(49)
また、同じみかど(宇多)、斎院の御こ(君子)の御もとに、菊につけて、

(宇多天皇)
  ゆきて見ぬ人のためにと思わずは誰か折らまし我宿の菊

斎院の御かへし、

(君子)
  我宿に色をりとむる君なくばよそにも菊の花を見ましや
大和物語(51)
斎院(君子)より内(宇多天皇)に、

(君子)
  おなじえをわきて霜をく秋なれば光もつらくおもほゆる哉

御かへし、

(宇多天皇)
  花の色をみても知りなん初霜の心わきてをかじとぞ思ふ


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