9代斎院 直子女王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||
ちょくし | なおこ | 不明 | ||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||
父:惟彦親王(文徳皇子) <四品中務卿>(850-883) 母:不明 |
未詳(865〜883頃?) | 寛平4年(892)12月1日 | ||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||
宇多(887〜897,いとこおじ) | 卜定:寛平元年(889)2月27日
初斎院:寛平元年(889)9月23日? 本院:寛平3年(891)4月15日 退下:寛平4年(892)12月1日 |
薨去 | ||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||
元子女王(いとこおば) 父:本康親王 |
卜定:寛平元年(889)2月16日 初斎院:寛平元年(889)9月 野宮:寛平2年(890)9月5日 群行:寛平3年(891)9月4日 退下:寛平9年(897)3月19日 |
不明 | ||||||||||||||||
『本朝皇胤紹運禄』では、惟彦親王女の名は眞子で、直子女王は惟條親王女とする。 なお、直子の祖母滋野奥子(文徳女御、惟彦親王母)は、斎宮元子女王の祖母滋野縄子(仁明女御、本康親王母)の妹である。よって元子は、直子のいとこおばであると同時に再従姉妹でもある。 ┌──────────────────────────┐ | | 滋野縄子======仁明天皇 | | | | ┌────┤ ├─────┐ | | | | | | 本康親王 時子 光孝天皇 文徳天皇=======滋野奥子 | | | | | | | | 元子女王 宇多天皇 清和天皇 惟彦親王 (斎宮) | | | | 陽成天皇 ◆直子女王
女王としての卜定は2代時子、8代穆子に次いで3人目。ただし前記二人は後に父の天皇即位で内親王宣下を受けており、生涯女王であった斎院は直子女王が歴代初。 ※直子女王の卜定当時、宇多天皇の姉妹たち(故光孝天皇皇女)は8代斎院穆子内親王と伊勢斎宮繁子内親王を除いて、殆どが臣籍降下している(宇多天皇と同母の皇女3人が内親王として皇族復帰するのは2年後の寛平3年)。さらに宇多天皇自身にもまだ皇女がなく、オバで唯一存命の新子内親王(光孝天皇同母姉妹)も年齢不明だが40歳以上なのは確実で(※新子の母藤原沢子は839年死去)、宇多天皇の三親等以内の身内に斎王候補となりうる「内親王」自体が存在しなかった。なお現任の斎院薨去も直子女王が最初であり、その後も賀茂斎院には退下から間を置かず亡くなった人物が多い。これは裏返せば、伊勢斎宮とは異なり賀茂斎院はよほどの事情がない限り退下を許されなかったとも考えられる。 【在任中または退下後短期で薨去した斎院】 ・9代直子女王〜在任中 ・10代君子内親王〜退下即日または翌日 ・11代恭子内親王〜半年後 ・12代宣子内親王〜在任中 ・29代禧子内親王〜一月後 ・32代僐子内親王〜8日または9日後 参考論文: ・榎村寛之「斎王制と天皇制の関係について」 (『律令天皇制祭祀の研究』, 塙書房, 1996) 参考リンク: ・『天皇皇族実録36.文徳天皇』(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム) ※直子女王(文徳皇孫)については135〜136コマにあり |
宇多天皇 | |||
史料 | 年 | 月日 | 記述 |
日本紀略 | 仁和5年 [寛平元年] (889) |
2月27日 | 【直子女王、賀茂斎院に卜定】 卜定賀茂齋王故中務卿惟彦親王女直子女王。 |
日本紀略 | 仁和5年 [寛平元年] (889) |
3月6日 | 【賀茂社に斎院卜定奉告】 依齋院卜定。告申賀茂社。(後略) |
日本紀略 | 寛平元年 (889) |
9月23日 | 【斎院(直子)御禊】 賀茂齋王(直子)亦始行禊。 |
日本紀略 | 寛平3年 (891) |
4月15日 | 【斎院(直子)御禊、紫野斎院に入る】 賀茂齋院(直子)行禊。入于紫野院。 |
日本紀略 | 寛平4年 (892) |
12月1日 | 【斎院直子女王薨去】 賀茂齋王直子女王薨。 |