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8代斎院 穆子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
ぼくし むつこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:光孝天皇(830-887)
母:正躬王女
未詳(853〜881頃?) 延喜3年(903)12月5日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
陽成(876〜884,いとこ甥)
光孝(884〜887,父)
卜定:元慶6年(882)4月9日
初斎院:元慶6年(882)7月24日
本院:仁和元年(885)6月28日
退下:仁和3年(887)8月26日?
天皇(父)崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
掲子(914没,従姉妹)
 父:文徳天皇
 母:藤原今子
卜定:元慶6年(882)4月7日
初斎院:不明
野宮:元慶7年(883)8月24日
群行:なし
退下:元慶8年(884)2月13日
天皇譲位
繁子(916没,異母姉妹)
 父:光孝天皇
 母:更衣滋野直子?
卜定:元慶8年(884)3月22日
初斎院:元慶8年(884)8月13日
    (雅楽寮)
野宮:仁和元年(885)9月18日
群行:仁和2年(886)9月25日
退下:仁和3年(887)8月26日
天皇(父)崩御

略歴:
 元慶6年(882)4月9日、斎院に卜定。(当時は女王)
 
7月24日、初斎院へ入る。
 元慶8年(884)2月4日、陽成天皇譲位、父時康親王(光孝天皇)践祚。
 
2月23日、光孝天皇即位。
 
4月9日、内親王宣下。(異母姉妹繁子(斎宮)と同時)
 仁和元年(885)6月28日、紫野院へ入る。
 仁和3年(887)8月26日、父光孝天皇崩御。これにより退下。
 延喜3年(903)12月5日、薨去。

斎院長官:源希[いとこおじ](仁和2年(886)4月5日〜同3年(887)8月?)

光孝天皇第五皇女(『帝王編年記』)。
 母正躬王女は万多親王(桓武天皇皇子)の孫で、父光孝天皇の再従姉妹。
 斎院長官源希は嵯峨天皇皇子源弘の子で、穆子の父光孝天皇の従兄弟であり、また母正躬王女の再従兄弟にあたる。

 祖父正躬王(799-863)の年齢から見て、母正躬王女は父光孝天皇と同年代かやや年長の可能性も考えられる(※光孝の正室班子女王は833年生まれで、光孝より3歳下)。
 光孝天皇の子のうち、班子女王所生で長男と見られる源元長(883没)は、生年不明だが863年に従四位下となっていることから、850年頃の生まれと思われる。なお穆子卜定の2年後に斎宮に卜定された繁子(異母姉妹)は、仁和2年(886)群行直前の月事が記録にあり、当時少なくとも10歳以上(つまり生年は877年以前)であったと見られるが、穆子自身について確かに言えるのは卜定当時2歳以上(つまり881年以前の生まれ)であろうということのみで、生年は定かでない。ただし穆子の卜定の方が早かったことから鑑みて、穆子は繁子よりも年長であろう。
 なお、『本朝皇胤紹運録』『本朝女后名字抄』『賀茂斎院記』等では、穆子の母は「正如王女」とされ、特に『名字抄』『斎院記』では「参議正如王女」とある。しかし文徳〜清和朝に王氏で公卿となったのは正躬王ただ一人で、「正如王」という人物は存在しない。よって字体から見ても、「正如王」は「正躬王」の誤りと考えてよいと思われる。

  ┌──────────────────────┐
  |                      |
 嵯峨天皇                   万多親王
  |                      |
  ├────┐                 |
  |    |                 |
  源弘  仁明天皇              正躬王
  |    |                 |
  |    ├────────┐        |
  |    |        |        |
  源希  文徳天皇     光孝天皇=====正躬王女
  [長官]   |        |    |
       ├────┐   |    |
       |    |   |    |
      清和天皇  掲子  繁子  ◆穆子
       |    (斎宮) (斎宮)
       |
      陽成天皇

 斎院卜定当時、父時康親王(のちの光孝天皇)は一品式部卿であり、女王としての卜定は2代時子女王(内親王)に次ぐ二人目。光孝天皇には子女が多数あったが、即位に際して定省王(のちの宇多天皇)を含むほぼ全員が臣籍降下され、内親王宣下を受けたのは斎院穆子と斎宮繁子のみであった。
 なお穆子の卜定当時、清和天皇の皇女たち(陽成天皇の姉妹)も候補として存在したはずだが、同時期に伊勢斎宮となった掲子内親王は文徳皇女(つまり清和の姉妹)であった。そもそも先代斎宮(識子)・斎院(敦子)の退下は元慶4年(880)12月の清和上皇崩御によるものであり、諒闇中とはいえ清和の娘ではない掲子・穆子を卜定するなら翌元慶5年(881)でもよかったはずだが、実際には清和の喪が明けた同6年(882)までずれ込んでいる(なお『日本三代実録』によれば、4月7日の卜定で伊勢斎宮は掲子に決定したが賀茂斎院は定まらず、2日後の9日に穆子が卜定されていることから、この時の卜定には何らかの混乱があった可能性が考えられる)。さらに斎院穆子の本院入りも、本来であれば元慶8年(884)となるはずだったが、同年2月に陽成譲位・父光孝即位という予想外の事態となった影響からか、結局翌年へ持ち越された(しかも4月の御禊は触穢で直前に中止されたため、異例の6月本院入りとなっている)。
 また内親王の斎宮と同時期の斎院が女王であった例は非常に珍しく、院政期以前ではこの穆子のみである(ただし伊勢・賀茂へ斎王卜定を奉告する勅使は、伊勢が散位従五位下時景王、賀茂が参議正四位下右衛門督藤原諸葛で、賀茂の方が扱いが重い)。

参考リンク:
『天皇皇族実録42.光孝天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※穆子内親王については38〜40コマにあり


【穆子内親王は醍醐妃か】
『賀茂斎院記』『本朝女后名字抄』等の史料は、穆子内親王が甥の醍醐天皇の妃で、さらに有明親王の母としている。穆子の生年は元慶5年(881)以前という以外は不明だが、醍醐の最初の妃はやはり光孝皇女で穆子の異母姉妹にあたる為子内親王であり、穆子が870〜880年頃の生まれであれば醍醐よりやや年長ながら、結婚できなくはない程度の年齢差であったかもしれない。
 しかし『日本紀略』の薨伝や『一代要記』『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』には、穆子の結婚に関する記録は一切見られない。また『光孝天皇実録』は「醍醐妃、又有明母ト言フモ、遽ニ信ジ難シ」としており、『平安時代史事典』も醍醐妃とはしていない。
 なお有明親王の生年について確かな記録はないが、『要記』によれば有明は天徳5年(961)に52歳で薨去とあり、つまり生年は延喜10年(910)ということになる。また『紀略』では有明が同11年(911)親王宣下された記録があり、他の醍醐皇子女たちの宣下年齢から見ても、『要記』から割り出される生年でほぼ間違いないと思われる。とすれば、同3年(903)に薨去した穆子は当然、有明の生母ではありえない。
 ところで有明親王の母は、『要記』『紹運録』『帝王系図』等では女御源和子(13代斎院韶子内親王母。885?-947)とされる。和子は源氏だが光孝天皇の皇女であり、従って為子内親王と同様、穆子とは異母姉妹にあたる。さらに「和」と「穆」はどちらも偏が「禾」であることから、後世の写本で「和子」と「穆子」が混同され、その結果穆子が醍醐妃とされた可能性が考えられる。よって穆子は恐らく斎院退下後も結婚することはなく、多くの内親王や前斎王と同様に生涯独身であったと思われる。





陽成天皇
史料 月日 記述
日本三代実録 元慶6年
(882)
4月7日 【伊勢斎宮卜定、賀茂斎院は定まらず】
(前略)是日。卜定伊勢齋内親王。无品掲子内親王卜食。其賀茂齋者。諸内親王不卜食。故今日无定。
日本三代実録 元慶6年
(882)
4月9日 【穆子女王、賀茂斎院に卜定】
 卜定賀茂齋王。二世穆子女王卜食。一品行式部卿諱<光孝天皇>親王之女也。
日本三代実録 元慶6年
(882)
4月22日 【賀茂祭中止】
 於朱雀門前修大祓。以去八日大膳●人死。十日大藏省人死。平野。松尾。賀茂等祭停止故也。臨時大祓於建礼門前行之。因穢不可用大藏省幄。仍用朱雀門也。

●=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源))
日本三代実録 元慶6年
(882)
5月15日 【賀茂社へ斎院卜定を奉告】
 遣使奉幣伊勢大神宮及賀茂神社。告以定齋内親王并斎王也。散位從五位下時景王爲伊勢大神宮使。參議正四位下行右衛門督藤原朝臣諸葛爲賀茂神社使。
日本三代実録 元慶6年
(882)
7月24日 【斎院(穆子)御禊、初斎院に入る】
 賀茂齋女王(穆子)修禊鴨水。入於初齋院。事猶警陣例也。
日本三代実録 元慶7年
(883)
4月25日 【賀茂祭】
 賀茂祭如常。
光孝天皇
史料 月日 記述
日本三代実録 元慶8年
(884)
3月22日 【光孝天皇即位により、斎院を替えず】
 喚神祇官於左仗頭。卜定齋王。其伊勢齋者皇女繁子卜食。賀茂斎者皇女穆子。太上天皇(陽成)在祚。卜定入初齋院。今依舊不變。
日本三代実録 元慶8年
(884)
4月9日 【斎院穆子、内親王宣下】
 以皇女伊勢齋繁子。賀茂齋穆子並為内親王。
日本三代実録 元慶8年
(884)
4月11日 【賀茂社へ斎院の交替なしを奉告】
 遣參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王。向賀茂神社。告以不改齋王并爲内親王之状。
日本三代実録 元慶8年
(884)
4月19日 【賀茂祭。斎院(穆子)は不参加】
 賀茂祭如常。齋内親王不向神社。
日本三代実録 元慶8年
(884)
4月21日 【斎院穆子、絹五十疋他を賜る】
(前略)繁子(斎宮)穆子(斎院)兩内親王。各賜絹五十疋。綿二百屯。細布廿端。調布百端。商布三百段。貞觀錢廿貫文。韓櫃廿合。(後略)
日本三代実録 仁和元年
(885)
4月10日 【斎院(穆子)御禊、死穢により停止】
 是日。賀茂齋内親王(穆子)擬祓河邊便入紫野院。今月八日。辨官有人死穢。因而停止。於建禮門前大祓。
日本三代実録 仁和元年
(885)
4月19日 【賀茂祭、死穢により停止】
 賀茂祭。縁有人死穢也。
日本三代実録 仁和元年
(885)
6月28日 【斎院(穆子)御禊、本院へ入る】
 賀茂齋内親王(穆子)臨鴨水修禊。便入紫野院矣。
日本三代実録
公卿補任
仁和2年
(886)
4月5日 【源希を斎院長官に任命】
『三代実録』
 以從五位下守右少弁源朝臣希爲齋院長官。右少弁如故。

『公卿補任』
參議 從四位下 源希<四十七>(中略)
<元慶八二廿三叙從五位下。三月九任内蔵助。仁和元年正十六任民部少輔。同二月廿任右衛門權佐。同二正十六任右少辨。四月五日兼齋院長官。(後略)>
日本三代実録 仁和2年
(886)
4月24日 【賀茂祭】
 賀茂祭如常。
日本三代実録 仁和3年
(887)
2月2日 【斎院長官源希を近江権介に任命】
(前略)齋院長官從五位下兼守右少弁源朝臣希爲近江權介。餘官如故。(後略)
日本三代実録 仁和3年
(887)
4月18日 【賀茂祭】
 賀茂祭如常。
日本三代実録 仁和3年
(887)
8月26日 【光孝天皇崩御】
(前略)是日。立第七皇子(定省)諱爲皇太子。(中略)
是日。巳二刻。天皇崩於仁壽殿。于時春秋五十八。
醍醐天皇
史料 月日 記述
日本紀略 延喜3年
(903)
12月5日 【穆子内親王薨去】
 穆子内親王薨。


史料 記述
一代要記
陽成天皇
(賀茂)
 穆子内親王<元慶六ー卜定、光孝女、>

光孝天皇
(賀茂)
 <元慶六ー四月以女王祭也、八ー>
 穆子内ヽヽ[親王]
 <帝二女、四月爲月為内親王、仁和三ー退之、延木三ー十二月五日薨、>
帝王編年記
陽成天皇
(齋院)
 穆子内親王<光孝第/五皇女>

光孝天皇
(皇女)
 穆子〃〃〃[内親王]<元慶六年四月/爲賀茂齋>
(齋院)
 穆子内親王<如故>
二中歴
(齋院)
 穆子<光孝女 元慶六年>
皇代暦
陽成天皇
(賀茂)
 稷子 式部卿時康親王女
本朝皇胤紹運録
(光孝天皇子)
(243)穆子内親王[齋院。母三木正如王女。桂心]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
穆子内親王 元慶六年卜定。光孝天皇第七皇女。母參議正如王女。醍醐妃。有明母。
賀茂斎院記
光孝天皇第七皇女也。母参議正如王也。
元慶八年三月二十二日卜定。喚神祇官於左杖頭命之。
四月九日。遣参議正四位下忠貞王于賀茂神社告以其状。二十一日賜絹五十疋。帛五十疋。綿二百屯。細布二十端。常布三百段。貞観銭二十貫文。韓櫃二十合于穆子仁和元年四月十日穆子擬祓河辺便入斎院。
今月八日弁官有人死穢。因而停止。大祓於建礼門前。
六月二十八日。穆子臨鴨水修禊。便入斎院。其後為醍醐天皇之妃。生有明親王。


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