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29代斎院 禧子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
きし よしこ 一品、准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:中宮藤原璋子[待賢門院]
  (1101-1145)
保安3年(1122)6月 長承2年(1133)10月10日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123〜1141,同母兄) 卜定:長承元年(1132)11月25日
   (綾小路北東洞院西
    尾張守顕盛宅)
初斎院:長承2年(1133)4月18日
   (一本御書所)
本院:なし
退下:長承2年(1133)9月2日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,祖父の従姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位

略歴:
 保安3年(1122)(1歳)6月(27日?)、誕生。


8月2日、内親王宣下。
 大治元年(1126)(5歳)12月27日、着袴。
 大治3年(1128)(7歳)4月13日、一品准三宮。
 長承元年(1132)(11歳)11月25日、着裳(?)、同母兄崇徳天皇の斎院に卜定。
 長承2年(1133)(12歳)4月18日、初斎院(一本御書所)に入る。


9月2日、病により退下。


10月10日、薨去。

同母兄弟:崇徳天皇(1119-1164)
     通仁親王(1124-1129)
     君仁親王(1125-1143)
     統子内親王(1126-1189,28代斎院,上西門院)
     後白河天皇(1127-1192)
     本仁親王(覚性入道親王,1129-1169)

斎院勅別当:藤原公教(長承元年(1132)11月25日同2年(1133)4月16日?)
      藤原顕能(長承2年(1133)4月16日同年9月2日(退下)?)

鳥羽天皇第一皇女。
 母藤原璋子は、父鳥羽天皇の従姉弟。
 (※璋子の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹)
 斎院勅別当藤原顕能は、鳥羽天皇乳母藤原悦子(弁三位)の子。

  ┌─────┐
  |     |
 輔仁親王  白河天皇
  |     |      ┌──────┐
  |     |      |      |
  守子   堀河天皇===藤原苡子   藤原公実
 (斎宮)        |         |
            |         |
           鳥羽天皇=======璋子
                  |  [待賢門院]
  ┌──────┬────┬───┤
  |      |    |   |
 崇徳天皇  後白河天皇 ◆禧子  統子
                 [上西門院]

 同母妹統子内親王と並んで『長秋記』によればそれ以上の)絶世の美貌の皇女であったという。后腹の第一皇女として父鳥羽天皇に大変鍾愛され、7歳で一品准三宮となった。
 曽祖父白河法皇の遺言により、三条西殿(三条大路北、烏丸小路西)を伝領(『中右記』大治4年(1129)7月14日条)。のち大治5年(1130)、母待賢門院の三条東殿と交換した(『長秋記』大治5年7月20日条)
 卜定により初斎院(一本御書所)に入るが、年来寸白(寄生虫の病)を患っており、その悪化のため10ヶ月足らずで退下。藤原盛重邸に移ったものの、まもなく薨去した。

 墓所は上醍醐陵(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山。醍醐寺女人堂から登山約60〜80分)




上醍醐陵・禧子内親王墓所(2022年9月16日撮影)
曾祖母藤原賢子(白河天皇中宮)、大伯母郁芳門院媞子内親王・24代斎院令子内親王も合葬。


参考リンク:
『天皇皇族実録97.鳥羽天皇 巻8』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※禧子内親王については4〜10コマにあり





【斎院と一品内親王】
 禧子内親王以前の歴代斎宮・斎院の中で、后腹内親王の長女が斎王に卜定された例は極めて少なく、斎宮の後朱雀皇女良子内親王ただ一人である。ただし既に一品に叙された内親王が斎宮・斎院となった例は皆無であり、特に禧子は父鳥羽天皇鍾愛の第一皇女でもあったためか、大治2年(1126)の卜定で選ばれたのは同母妹統子内親王(数え2歳、生後9カ月)であった。
 しかし長承元年(1132)に統子が退下した当時、皇族で未婚・未斎王の内親王・女王は禧子と怡子女王(輔仁親王女)の2人しか残っていなかったらしい(※鳥羽皇女で後の斎宮妍子内親王(1142年卜定)は生年不明だが、恐らく生まれる前であろう)。当時の伊勢斎宮・守子女王も輔仁親王女(怡子女王の異母姉妹)であり、怡子女王を卜定してもよかったはずであるが(事実、禧子が退下した後に30代斎院となっている)、にもかかわらず禧子が卜定され、これが一品内親王の斎院卜定唯一の例となった。

※一品内親王についての詳細は、その他考察を参照のこと。

参考文献:
・角田文衞『待賢門院璋子の生涯─椒庭秘抄』(朝日新聞社, 1985)





鳥羽天皇
史料 月日 記述
陰陽博士安倍高重勧進記
一代要記
年中行事秘抄
東寺長者補任
保安3年
(1122)
6月27日 【皇女禧子誕生】
『陰陽博士安倍高重勧進記』(※『皇室制度史料』による)
 五十日・百日・眞菜日事
保安三年六月廿七日甲寅、中宮(藤原璋子)御産、<皇女(禧子)、>(後略)

『一代要記』
鳥羽天皇(皇女)
 禧子内親王 <賀茂齊、保安三ー六月廿七日誕生、>(後略)
崇徳天皇(賀茂)
 禧子内親王<上皇一女、保安三ー六月廿七日誕生、>(後略)

『年中行事秘抄』
(六月 内裏有穢之時尚被行之)
 保安三年六月廿七日御産也。<皇女。>件穢雖及禁中。有大祓事。三木[参議]藤原宗輔朝臣參朱雀門庭行事。但中宮(藤原璋子)職無御祓事。

『東寺長者補任』
(未入力)
十三代要略
一代要記
保安3年
(1122)
8月2日 【皇女禧子、内親王宣下】
『十三代要略』
(鳥羽院)
 皇女禧子内親王<母中宮璋子>
   保安三年八月二日。爲親王。

『一代要記』
鳥羽天皇(皇女)
 禧子内親王 <賀茂齊、保安三ー六月廿七日誕生、同ー八月二日爲親王、>(後略)
崇徳天皇(賀茂)
 禧子内親王<上皇一女、保安三ー六月廿七日誕生、同八月二日爲親王、>(後略)
陰陽博士安倍高重勧進記
御遊抄
保安3年
(1122)
8月17日 【禧子内親王、御五十日儀】
『陰陽博士安倍高重勧進記』(※『皇室制度史料』による)
 五十日・百日・眞菜日事
保安三年六月廿七日甲寅、中宮(藤原璋子)御産、<皇女(禧子)、>
 八月十七日癸卯、<厭、>於内裏有姫宮(禧子)御五十日事、(後略)

『御遊抄』
保安三八十七。
<鳥羽>
 姫宮(禧子)御五十日。
 拍子。<藤大納言宗忠。>
朝野群載(巻4) 保安3年
(1122)
10月1日 【今上内親王家別納所下文】
今上内親王(禧子)家別納所下 出雲國辨濟所
 可早進濟御封貮拾五烟代筵佰肆拾枚。事
右件筵當年料。早可進濟。之状。所仰如件。國宜承知依件弁濟之。勿緩怠。故下。
    保安三年十月一日
別當尾張盛藤原敦兼
預主水正兼石見守藤原朝臣
   今案院宣皆書下字也。自餘皆牒状。
陰陽博士安倍高重勧進記 保安3年
(1122)
10月8日 【禧子内親王、御百日儀】
『陰陽博士安倍高重勧進記』(※『皇室制度史料』による)
 五十日・百日・眞菜日事
保安三年六月廿七日甲寅、中宮(藤原璋子)御産、<皇女(禧子)、>
 八月十七日癸卯、<厭、>於内裏有姫宮(禧子)御五十日事、
 十月八日癸巳、於三條殿有姫宮(禧子)御百日事、母后(藤原璋子)令奉含給、<依聖躬(鳥羽天皇)御不豫也、>
巻数集 保安3年
(1122)
10月9日 【中宮(璋子)、阿闍梨寛信に禧子の平安を祈らせる】
(未入力)
崇徳天皇
史料 月日 記述
中右記 保安4年
(1123)
2月16日 【崇徳天皇即位。除目、無品禧子内親王のこと】
(未入力)
上皇御移徙部類記 保安4年
(1123)
6月13日 【姫宮(禧子)、三条殿へ渡御】
(未入力)
公卿補任 保安4年
(1123)
11月14日 【源資賢、禧子内親王御給】
(永暦2年)
 従三位 源資賢(中略)
<保安四十一十四従五位下<禧子内親王給>>(後略)
公卿補任 天治3年
[大治元年]
(1126)
1月5日 【藤原光忠、禧子内親王御給】
(保元元年)
 正四位下 藤(藤原)光忠(中略)
<天治三正月五日叙従五位下<无品禧子内親王御給。本名重家>>(後略)
中右記目録 大治元年
(1126)
8月1日 【禧子内親王七瀬祓】
 姫宮(禧子)七瀬御祓、
中右記目録
大治元年
(1126)
8月10日 【禧子内親王、本院に渡御】
 姫宮(禧子)初御行、 今夕本院渡御西小御所、
中右記目録 大治元年
(1126)
11月3日 【禧子内親王着袴定】
(前略)姫宮(禧子)御着袴定、
中右記目録
上皇御移徙記
体源抄
大治元年
(1126)
12月27日 【禧子内親王着袴】
『中右記目録』
 三院渡御大炊[御脱]門萬里小路新造第、姫宮(禧子)御着袴、(後略)

『上皇御移徙記』(※『仙洞御移徙部類記』による)
 自三条殿渡御新造大炊御門万里小路殿<伊予守(藤原)基隆朝臣造進之>、新院(鳥羽上皇)・女院(待賢門院)・二宮(通仁親王)・姫宮<禧子>同渡御、有姫宮御着袴事、晩頭還御、
 基隆朝臣并男備中守忠隆朝臣被下重任宣旨、<依造作賞也>

『体源抄』
 皇女御着袴
大治元年十二月廿七日<第一姫宮>
 呂<此殿、鳥破、席田、賀殿急> 律<万歳樂、更衣、三臺急>
公卿補任 大治2年
(1127)
1月19日 【藤原顕広、禧子内親王御給】
(仁安元年)
 從三位 藤(藤原)顕廣(中略)
<大治二正十九從五位下<無品禧子内親王給。十>>(後略)
中右記 大治2年
(1127)
1月21日 【姫宮(禧子)若宮(恂子?)、上御所へ渡御】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
2月27日 【姫宮(禧子)・若宮(恂子?)三条御所へ還御】
(前略)今夕姫宮(禧子)若宮(恂子?)四所還御院御所三条殿云々、(後略)
中右記
大治2年
(1127)
10月29日 【女院(待賢門院)と姫宮(禧子)、鳥羽へ御幸】
(前略)入夜又女院(待賢門院)姫宮(禧子)御幸鳥羽、(後略)
中右記
大治2年
(1127)
11月16日 【女院(待賢門院)と姫宮(禧子)に人々参上】
(前略)殿上淵酔之後、頭中將 以下人々參女院(待賢門院)姫宮(禧子)御方、<三條殿、>藤大納言<經(経実)、>民部卿、<忠(藤原忠教)、>左衛門督、<通(藤原通季)、>別當、<實、>左兵衛督、<(藤原)實能、>着直衣被參會、殿上人遊興之後、入夜分散、勸u及六獻、
中右記目録
十三代要略
一代要記
大治3年
(1128)
4月13日 【禧子内親王、一品、准三宮】
『中右記目録』
 新院(鳥羽上皇)一姫宮(禧子)敍一品、

『十三代要略』
(崇徳天皇/大治三年)
 四月十三日。禧子内親王叙一品。
(鳥羽院/保安三年)
 八月廿三日。无品禧子内親王准三后。
(鳥羽院/皇女)
 禧子内親王<母中宮(藤原)璋子>(中略)
  大治三年四月十三日。一品即准三后。

『一代要記』
(鳥羽院天皇/皇女)
 禧子<賀茂齊、>(中略)
 同(保安3年8月)廿四日蒙准后宣旨、
中右記目録 大治3年
(1128)
4月21日 【内親王(禧子)に一品位記使】
 (賀茂祭)解陣、一品位記遣内親王(禧子)第、
中右記 大治4年
(1129)
1月6日 【叙位】
(前略)次參内、依有敍位儀也、(中略)
藤原忠尹、<待賢門院御給、>平直眞、<皇后宮、>
源行遠、<聰子、>同雅通、<禧子、>佐伯平宣<禧子、>
平盛清<齋院(恂子)、>(後略)
長秋記 大治4年
(1129)
2月17日 【一品宮請文】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月9日 【女院(待賢門院)・一品宮(禧子)・四宮(雅仁)還御】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月14日 【一品宮(禧子)御領三条烏丸ほかのこと】
(前略)或人云、院御所本所三條烏丸第一品宮(禧子)御領、
東之新三条、<女院(待賢門院)御領、>二條東洞院第、<新院(鳥羽院)御領、>
大炊御門万利小路亭、<一品宮御領、>六條殿、
八條、<顯頼領、>室町姉小路小御所、
鳥羽南北二所、 白河南北二所、
御倉二百餘所、<納財寶、>(後略)
中右記 大治4年
(1129)
8月2日 【一品宮(禧子)正親町東洞院御所へ渡御】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
8月7日 【一品宮(禧子)御所大炊御門萬利小路亭のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
8月11日 【姫宮(禧子?)に大炊殿献上のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
8月23日 【五宮(本仁)と一品宮(禧子)御送物のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
9月9日 【五宮(本仁)と一品宮(禧子)御送物のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
9月16日 【五宮(本仁)御五十日】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
10月5日 【一品宮(禧子)御方にて、五宮(本仁)御百日定】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
10月9日 【除目入眼】
(前略)予着仗座、内大臣從本被着端座、去夕依奉行召仰歟、(中略)
 右馬允源則遠、<一品禧子御給、>(後略)
中右記 大治4年
(1129)
11月1日 【五宮(本仁)御百日】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
1月1日 【一品宮(禧子)陪膳記事】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
1月6日 【叙位】
 今日敍位儀初、於御前被行也(中略)
召左宰相中將宗輔、下給一品宮(禧子)未給申文、<可勘合否之由被書付云々、敍位申文不注付合否由也、今度被書也、定有其習歟、可尋知、>(中略)
又藤伊實、<一品宮未給、殿下仰云、敍位之時諸宮未給殊不被進事也、今度出來、不得心者、>
中右記 大治5年
(1130)
7月10日 【鳥羽上皇御所大炊殿火災。一品宮(禧子)・若宮達、白河へ渡御】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
7月20日 【禧子内親王渡御のこと】
 晴、雨、又晴、別當被尋問云、来月十日三條東殿可渡御、其後三ヶ夜可儲饗膳也、定所令存也、可然歟、答、件御所新造、故院(白河院)已渡御畢、今而一品宮(禧子)御領有渡御矣、其儲一夜何事候哉、是東三條家嫡相繼被渡時、被儲一夜儀、舊宅渡御事、彼例自相叶歟、大理聞此旨、參御前被申、仰云、可儲一夜儀者、此次被示云、來月四日、爲方違可渡御于南殿、<泉殿也云々、>
中右記 大治5年
(1130)
7月22日 【禧子内親王渡御のこと】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
8月4日 【禧子内親王、角殿へ渡御のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
8月19日 【禧子内親王、三条東殿に渡御】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
11月15日 【鎮魂祭。公卿ら一品宮(禧子)に参上】
 鎮魂祭、左大辨雅兼、左中辨師俊勤之云々、(中略)
事了雲客被參一品宮(禧子)御所白河殿、治部卿(源能年)、民部卿(藤原忠教)、別當(藤原実行)、右衛門督(源雅定)、左兵衛督(徳大寺実能)、修理大夫(藤原)基隆、皆是兩院(鳥羽院・待賢門院)々司人々也、殿上人頭辨顯頼以下參入、頭中將獨留禁中、是依御物忌爲候御前試也、淵酔遊興及秉燭、人々退出云々、(後略)
中右記 大治5年
(1130)
12月26日 【最勝寺供養。一品宮(禧子)渡御】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
3月24日 【一品宮(禧子)記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
8月4日 【一品宮(禧子)侍記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
8月8日 【一品宮(禧子)記事】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月8日 【一品宮(禧子)申文のこと】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
2月9日 【待賢門院と一品宮(禧子)、参内】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
10月7日 【白河阿弥陀供養。一品宮(禧子)・前斎院(恂子)渡御】
(未入力)
兵範記 長承元年
(1132)
11月20日 【五節。待賢門院と一品宮(禧子)御幸】
(未入力)
兵範記 長承元年
(1132)
11月22日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸。一品宮(禧子)同席】
(未入力)
中右記
一代要記
長承元年
(1132)
11月25日 【禧子内親王、賀茂斎院に卜定(同日着裳?)】
『中右記』
 朝間天陰、今日院(鳥羽上皇)第一姫宮(禧子)有齋院卜定事、早旦大殿(藤原忠実)關白殿(藤原忠通)、令参院御所二条烏丸亭給、人々參集之後■■■■(字数不明)御方■■■■(字数不明)■[結?]御腰給、從女院(待賢門院)御方被奉御送物琵琶云々、< 大納言定行卿 取之被奉、>渡御卜定所給、綾小路北東洞院西尾張守(藤原)顯盛新宅也、院唐御車、<御車副冠褐、>出車檳榔毛十二兩、<女房各二人、車副布衣各二人、>新大納言(藤原)實行卿以下上達部十餘人、<束帶、騎馬泥障、>(崇徳天皇)院女院殿上人濟々前駈、上皇立御車於二條東洞院御見物、<大略御同車、民部卿(藤原)忠教卿一人扈從也、是依輕服日數中、不可被參卜定所之故也、>女院御車又立其傍、從二條東行、從東洞院南行、午未時許渡給了、見物連車、道路無陰[隙?]云々、關白殿申時許予相具此宰相中將(藤原宗能)參内、着仗座、右大臣(源有仁)着端座、唯今召辨被下日時之後返給筥於外記間也、先可有齋院卜定、可勘日時之由、頭中將(藤原)公教依仰下、召右中辨(藤原)宗成令勘日時、入外記筥、付頭中將内覽奏聞了、被下辨云々、内雖御物忌、關白参給也、前式[或?]不被勘日時、只問吉時許之時有云々、
右府(源有仁)被談云、夜前及深更頭中將來仰云、明日卜定可奉行者、但可用寛治例者、今朝初可催縁事諸司由仰下官外記也、此事不便也、朝家大事兼日早奉仰可沙汰也、尤可然、大略職事懈怠歟、已入夜秉燭頭中將仰下云、祥[禧]子内親王可令卜賀茂齋院者、其後右府奉行萬事、右府召右中辨被仰下云、神祇官座令敷<與、>辨歸出、仰史令敷座於軒廊、<西第二間以東居水火、如軒廊御卜、>次召外記、少外記師長候小庭、右府仰下云、神祇官可候座由仰、<而此詞如何、先神祇官候哉、外記申云、候、其後仰云、召セ、此定ニ可被仰歟、>外記歸入後、神祇官々人四人、<大夫祐宗政、史兼繼、龜卜上兼長、中臣良兼六位、>無官者、右府召外記、少外記候小庭、召寄■■■■■外記入紙二枚於硯筥、■■■■■■右府命云、暫可候者、右府取紙、以一枚巻之、入硯下方、殘一枚<ニニ>巻返<天>置座前、摺墨染筆、取紙橋仕頗置<天>、祥子<ニ、>二字許書<天、><天>取入硯筥紙、巻懸紙給外記、仰可封由、外記次第封<天>進之、右府取之封、上召[書?]付封字、了返給硯筥於外記、外記取之退歸、<治部卿(源能俊)密談云、不可有懸紙也、予康和天仁加懸紙如何、治部卿、古人猶不可有懸紙之由記也、>右府被示人々召[云?]、多<ハ>下給中臣官人也、今夜中臣官人稱有故障不參仕、以無官六位令參也、此事如何、人々或只召上臈官人可給歟、或又雖六位無官可給中臣、右府召良兼給御卜文、仰云、可卜申、<六位者加姓可召歟、>歸座傳卜者、兼長卜之入筥蓋進上、右府取之、良兼取筥歸本座、召外記遣仰云、神祇官可罷出者可仰、外記稱唯之後、又仰云、中臣官人暫可候陣邊、又筥可持參、外記稱唯、肝心等帰歸、諸司撤座、外記持參筥、入御卜串給外記、外記持筥立小庭、右府出經軒廊西二間、被進弓場殿、<依所大臣被用西二間也、>此間治部卿密談云、早召外記筥、入御名書、可給神祇官由、見故人記也、今度不然如何、予答云、北山抄云、如軒廊御卜體也、御卜之後、召外記筥可奏之由見之、如何、治部卿答云、所云北山抄經頼記、召外記筥入御卜、下給令卜者、仍所申者、此事不知是非、
右府進御所、付頭中將被奏、留御所、仰云、祥子内親王可爲賀茂齋院者、返給筥、外記返給、右府歸本座、召外記、候小庭仰云、中臣官人召<セ、合印之■■■■>良兼■宣仁門參着軾、仰云、祥子内親王■■■■■■參院歸入■■以官人召辨、右中辨(藤原)宗成參、詞仰如初、<康和元年、天仁二年、天治二年乍在本座被奏、依宿老大臣、>但可作官符之由詞加也、頭中將來仰云、大納言源朝臣、<能俊、右中辨宗成、左少史三春盛泰令行初齋院事、治部卿能俊、■■大夫■■敕別當也、>又公教可爲敕別當者、召右中辨被仰下也、敕別當此次被仰下時有之、大納言<ハ>治部卿中宮大夫兼官也、猶可仰兼官歟、有兼官人萬事仰兼官也、頭中將來仰云、大祓奉幣日時可勘申、右府召右中辨令勘、右中辨則持參勘文、<大祓奉幣各一通、一懸紙也、>右府見了召外記筥入勘文、就頭中將内覽奏聞了、召外記下給了、次可定申使歟、大外記申云、件所被定申、只下給日時之次、右府參穢可依之由所被仰下也、就中寛治例不被定使也、右中元覽奉幣請奏、右府見了返給、<件奉幣明後日也、>大祓奉幣日時、行事上卿或有被勘申時歟、其後右府、予、以下新大納言、左右衛門督(源雅定、藤原実能)、中宮權大夫(藤原忠宗)、新源中納言、左宰相中將(藤原宗能)、右兵衛督(藤原顕頼)、右大辨引參齋院御所、治部卿可追被參也、
於仗座勘申初齋院行事所始日時上宣、又見請奏了、被參行事所朝可[所?]
美作守顯能參御所、申院御使參由、奉仰召御使、中將(藤原)公隆朝臣參東戸前、申女房退歸、■又能登守季兼、<齋院職事也、>申内御使由、諸大夫敷座於東妻戸前、高麗端疊一枚、上敷茵、<東京錦、>召御使、中將(藤原)重通朝臣參上着座、傳敕命於女房歟、參院■■■■■[字数不明]下從中門廊二拜退歸、<或■■■■酌事云々、>其後齋王御禊、次神祇官指御所四角於賢木、官人等申云、始め從辰巳角、予申云、齋宮之時始從巽、齋院始從乾角之由、故神祇少副(卜部)兼俊所申也、是始自本宮方耳、此事尤可然也、今度用齋宮説如何、然而始自辰巳角、何爲哉、依非上卿、強又不沙汰也、次社司饗、了給祿、出西庭二拜了、次上下社司等申云、今度居饗於小舎人所、前々不可然、多<ハ>侍所<ニ>被置也、頗有藏[故?]、人々申云、前々皆儲御隨身所、社司之申旨不知案内、如此沙汰之間及數刻、臨深更、予神心屈了、觸人退出了、不見餘事、
神祇官人拜■上下社司拜、又不依次第者、今度次第不依此記相違也、是非不知如何、火炬屋諸司立之、
 故神祇少副兼俊申置云、初齋院次第、大殿定、齋院御禊、指賢木、御井祭、賢嘆女男<下三人、>御竈神祭、
又來月八日齋王始可入神殿給者、
右中辨示云、及夜半着行事所朝所、作始物具云々、成吉書成、前々上卿着行事所、今度上卿治部卿依風發不被着也、治部卿被談云、掌前齋院初度行事上卿也、可被忌哉否事被沙汰也、遂又奉行不可忌由議定了、
齋院者、(鳥羽)上皇第一姫宮、母待賢門院也、■■■■細一品、有准后宣旨也、御■■禧[祥?]子、<諷七イ式部大輔親光朝臣撰申、>

『一代要記』
 長承元年十一月二十日卜定
中右記 長承元年
(1132)
11月26日 【禧子斎院卜定のこと】
 大殿(藤原忠実)給御消息云、昨日參院(鳥羽上皇)之處次仰云、此一品宮(禧子)從幼少時常置傍憐戀恋、令立齋院在他所、朝夕戀思也、而時々行向欲見如何、予申云、件弟不知慥事、難申左右、早被問人々、隨申趣左右可候也、倩思先例、寛治■■次雖有齋院卜定事、本院不渡御、是本自被養之所、強不令憐愍給歟、此外郁芳門院齋宮時、母(藤原)賢子中宮有行啓野宮、其例不宜也、仍不思得由申了、定被問歟、可用意者、予進返事云、宗[○忠もカ]不思得、只又々尋吉例可候歟、
中右記 長承元年
(1132)
11月27日 【斎院(禧子)卜定を賀茂社に奉幣】
 天晴、風頗吹、今日齋院(禧子)卜定由有奉幣賀茂社、上卿治部卿、<(源)能俊、>右中辨(藤原)宗成行事、使宰相中將(藤原)宗能、先新源中納言雅兼行軒廊御卜、是伊勢事云々、其後奉幣、已及乗燭之由、史俊式所來談也、
中右記 長承元年
(1132)
12月8日 【斎院(禧子)、初めて斎院神殿に入御】
(12月5日条)
(前略)臨深更頭辨書状云、可有御幸齋院准據之例、可量申者、■返事云、有御幸例不慥覺間、難申左右、但寛平八年閏正月有限御幸齋院之由、見舊記、齋院<ハ>君子内親王、今上(宇多天皇)第三女、■[母?]女御橘義子也、行幸已有、御幸何無哉、可准據例大略如此、毎[母?]后行啓例度々有也、太上天皇御幸例殊不見也、來十一日神今食可有行幸之儀出來也、此新院(鳥羽上皇)十六年、今上(崇徳天皇)御宇九ヶ年間、神今食新嘗會例幣、如此神■[事?]行幸■絶了、仍來十一日先入御于諸司、十一日神今食可有御幸也、而十二三日内重御物忌也、是伊勢恠■■曉膳及曉更、可有其憚歟、被問人々也、予申云、伊勢御物忌其[甚?]重之由■■頭家■■所申也、不可有■■■■■■■■■■(字数不明)可候由申了、今夜殿下(摂政忠通)被仰云、件御占官寮共重之由所卜申也、仍今延引了、尤可然也、
(12月8日条)
 初齋院(禧子)初入神殿給云々、上卿治部卿(源能俊)、行事右中辨(藤原)宗成、御後見美作守(藤原)顯能沙汰也、今夕彼兩庄事明法勘文進官、此方有理之由勘申云々、(後略)
中右記 長承元年
(1132)
12月25日 【秋除目。斎院(禧子)申文】
(前略)今日秋除目也、戌時許相具宰相中將(藤原宗能)、右中辨(藤原)宗成等、參内、着陣奥座、(中略)
次下給院宮御申文、進寄指笏給之、復本座抜笏、竝置硯筥右邊、院(鳥羽上皇)、待賢門院、皇后宮(藤原泰子)、中宮(藤原聖子)、齋院(禧子)、前〔齋院〕二所(禎子、恂子)、某■■女御、<准后四所有、留懸紙有禮紙、>依仰一々任京官、<禧子申文前齋院<ニ>書之、予難之、殿下(摂政忠通)示給天、前齋院事分貴所也、只可成者、仍任之了、>此中禎子申文、女御基子申文不被成、仍返上、(後略)
中右記 長承元年
(1132)
12月26日 【中納言藤原頼長慶申】
(前略)秉燭之間、於東中門申慶於大殿(藤原忠実)關白殿(藤原忠通)拜給、前庭雪積之故也、令參所々給、八ヶ所、先院(鳥羽上皇)、内(崇徳天皇)、中宮(藤原聖子)、關白殿、女院(待賢門院)、皇后宮(藤原泰子)、齋院(禧子)、前齋院(禎子?)送物中宮琵琶、皇后宮笛、(中略)
今日院御幸女院御所二條烏丸亭、有女院御仏名者、(中略)
其次齋院(禧子)御給停右兵衛尉豊原章定、以中原行憲被成故[改?]右兵衛尉、是沙汰人顯能朝臣竊書入章定於御申文云々、此事不便歟、
中右記
公卿補任
長承2年
(1133)
1月5日 【斎院(禧子)申文、藤原信隆御給】
『中右記』
(未入力)

『公卿補任』
(仁安3年)
 從三位 藤(藤原)信隆(中略)
<長承二正五敍爵<斎院(禧子)御給>>(後略)
中右記 長承2年
(1133)
1月20日 【斎院(禧子)御給】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
3月29日 【斎院(禧子)御禊日時定】
(前略)申時許參内、先是治部卿(源能俊)參仗座、被勘申齋院(禧子)御禊日時、被定申同御禊前駈了、又諸司卜定、日時卜定了後也、(後略)
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
4月3日 【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
『中右記』
 院(鳥羽上皇)有御幸新齋院(禧子)御所云々、

『長秋記』
 晴、酉刻(鳥羽)上皇御幸齋院(禧子)御所、關白(藤原忠通)右大臣(源有仁)以下供奉、乃還御云々、
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
4月15日 【斎院(禧子)御禊点地】
『中右記』
(前略)初斎院御禊點地云々、權辨(藤原)宗成行向、今日終日雨下風吹、依例奉幣、(後略)

『長秋記』
 雨下、御幸得長壽院、先齋院(禧子)令渡給、日來煩瘧病給也、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
4月16日 【美作守藤原顕能、斎院(禧子)勅別当に任命】
 齋院敕別當以美作守(藤原)顯能朝臣被成、上卿源中納言雅兼、權左中辨(藤原)宗成、左少史惟宗行重、參陣仰下、
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
4月18日 【斎院(禧子)御禊、一本御書所に入る】
『中右記』
 前[初?]齋院御禊也、此宰相中將(藤原宗能)<有文帶、螺鈿劔、紫●平緒、淺履、泥障也、>前駈勤仕之間、於此亭出立、馬副四人、<或六人云々、>隨身四人、<蠻繪蘇芳末濃袴、二藍半臂下襲、淺履指■或平胡▲云云、此事可尋、隨身着半臂、女用末濃袴也、>關白殿(藤原忠通)御馬未時許出立、其後作女車於大炊御門富小路密々見物、申刻先御禊物具先拂前行、宮主、左右京職、兵士以上進屬下臈爲先、右兵衛尉、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、右兵衛佐顯長、左兵衛佐■資、右衛門權佐宗光、左衛門佐代、<美乃守■■■>■■■■■■■■■■■■■■次第使馬助、<次第使式部[衍?]在宰相之先歟>敕別當美作守(藤原)顯能朝臣、<■■■■也、皆令裝束、但無取物、>諸衞、火長、門部、近衞等、御車、<糸毛御車、>牛歟、殿下膳部等、行列使馬允、<式在出車後、>二車、<左大臣(藤原家忠)牛、>三車、<右大臣(源有仁)牛、>女房出車五兩、<女房衣色毛干川々之、車副各六人、冠褐、白袴、>童女車一兩、行事上卿治部卿<(源)能俊、>被扈從、申四點事了歸家、
齋院從去年御坐(藤原)顯盛朝臣宅也、<綾小路北東洞院西、>御禊之路經東洞院大炊御門、御禊所大炊御門末、還御經大炊御門大宮、入從待賢門、御于一本御書所也、行事權左中辨、<(藤原)宗成、>上達部殿上人或參河原也、河原院(鳥羽院)御使少將忠基朝臣、御出所院有御使、少將公能朝臣、其後兩院(鳥羽院、待賢門院)渡御也、於東洞院二條両院有御見物、院大殿(藤原忠実)同車、内(崇徳天皇)御使女房扇被奉、少將經定朝臣、

『長秋記』
 今日齋院(禧子)東河祓入諸司、<一本御書所、>■■御所綾小路洞院、<(藤原)長實卿家也、>上皇女院(鳥羽院、待賢門院)共有御幸于此處云々、依日來催、獻出車、昨日車服裝束六人料、自本院所下將之物褐袴布帶、毎物劣也、仍給私當色褐袴打衣衣冠細纓老懸也、着藁履、自本院遅■■■兩度催來、御禊午下事也、何卯時以前其催頻也、■■■■[<辰刻程歟、>]■■車、相次團扇二枚、裏紫薄様、送藏人盛忠許、依前日召也、三十五枚扇、銀表骨、面各四季繪、午剋師仲着束帶、<不改白重、至今日如此也、>先參齋院、女院房[院女房?]乘車之間、女房達頗有執論氣、存[爲?]申此事參院、乃兩上皇御幸、供奉皆束帶、民部卿(藤原忠教)、按察使(藤原実行)、新大納言(源顕雅)、右衛門督(藤原実能)、帥(藤原長実)、左兵衛督(藤原宗輔)、中宮權大夫(藤原忠宗)、源中納言(源雅兼)、左宰相中將(藤原宗能)、左京大夫(藤原経忠)、右兵衛督(藤原顕頼)、右宰相中將(藤原成通)、右大辨(源師俊)等云々、上皇於東面清隆朝臣取御沓、民部卿傳取供御沓、女院(待賢門院)入自北門給云々、齋院乘御車給後、兩院於二條東洞院有御見物、前大相國(藤原忠実)着直衣、■[於?]二條殿門待候給、御幸後參御車後給云々、事了未還御于二條殿之先、諸卿殿上人皆悉參河原輕幄、出車外女房車<網代、>一兩參河原雜役云々、御禊供奉人、左宰相中將(藤原)宗能卿、<隨身蠻繪、以鞭指腰云々、可■■■負胡▲歟、>左衛門佐代顯成、右衛門權佐宗光、左兵衛佐資賢、右兵衛佐顯長、<院御隨身季忠爲◆、隨身蠻繪皆指鞭、非參議可然、>左衛門尉眞信、右衛門尉季時、左兵衛尉行則、右兵衛尉行能、次第使馬助保信、以所具之馬醫師處[衍?]隨身令呵叱、源大納言不可然之由示給、勅別當顯能朝臣<◆院右府生敦方、>勅使内侍、<大夫典侍、>糸毛車副如手振、獻出車人、■■卿、源大納言、下官、中宮權大夫、右大辨、新宰相中將等云々、自内裏被獻女房扇、使右近少將忠基朝臣、事了齋王着一品[本]御所所、師仲送付申了退出、垣下人々可尋注、(後略)

●=緂(糸偏+炎。だんだら。こちらを参照(字源))
▲=籙(竹冠+禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
◆=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記 長承2年
(1133)
4月24日 【賀茂祭。斎院(禧子)不参】
 天陰小雨、未時以後天晴、賀茂祭也、但齋院(禧子)依不渡給、辨以下不渡大路、兼外記一人向列見辻了立次第云々、近衞府使右少將經宗、中宮使大進泰兼、山城介之、内藏寮使助知泰、馬寮使、典侍以下命婦藏人等云々、
 見物上下歸來談云、使少將物具美麗也、院御隨身四人●、(後略)

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記 長承2年
(1133)
4月25日 【賀茂祭還立なし】
 天晴、齋院(禧子)不渡給時無還立事也、解陣上卿源中納言雅兼行之、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
5月1日 【斎院(禧子)御悩】
(前略)院(鳥羽上皇)依齋院(禧子)御風氣着[衍?]御幸一本御書所、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
5月28日 【初斎院のこと】
(前略)(藤原)宗成參、予示人々云、僧事欲下知處、宗成初齋院辨也、辨可有憚歟如何、他辨或處勞、或故障、又無人也、人々初齋院四月尤所忌來也、他月強不忌云々、無他辨者有限公事何爲哉、仍僧綱二人事以口宣仰下、但書折紙密々職事下也、阿闍梨解文下了、可成官符之由仰了、權辨下大夫史云々、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
5月29日 【院(鳥羽上皇)、斎院(禧子)御所に御幸】
 小月晦也、天晴、
(鳥羽上皇)今日御幸齋院(禧子)御所一本御書所云々、
長秋記 長承2年
(1133)
6月19日 【能実女婚姻。皇后(令子)・斎院(禧子)・前斎院(恂子?)から使者】
 晴、早朝少納言來、今夕故大納言(藤原)能實第六娘嫁也、(中略)
皇后宮(令子)同使大夫進是忠、齋院(禧子)同使範家、前齋院(恂子?)同使憲房、各有祿、(後略)
長秋記 長承2年
(1133)
7月7日 【斎院に穢れのこと】
(前略)去朔日有待賢門穢物、<小兒、>不知其旨參齋院之半物、經件門着齋院、可爲觸穢所[乎?]如何、以此旨被問法家之處、明法博士有隣、道志季盛等、申不可有穢之由、於志成國者、可有穢者、又被問官外記處、陽明門有穢時、通門政官等參内裏、者不可有穢者、内大臣(藤原宗忠)、民部卿(藤原忠教)被申云、自穢門之通人、或時被用穢、或時不用穢者、齋院事向神社、忽難量申、被行脚卜有何事哉、源大納言(源雅兼)申、門穢事、前例不爲穢之由、法家勘申、然而近來於穢門不通、加之、今上齋院群行時、行幸八省之時、待賢門有穢、仍自朱雀門東脇門臨幸、以其念是穢門通人、其身可穢歟、者通穢門之人參齋院者、可爲穢歟云々、座列人々皆々可被問歟、穢條愚案未決、往古不爲穢、近來爲穢也、今度一決自今以後大切也、近來陽明門有穢、經待賢門參内、待賢門有穢、經陽明門參八省也、是被用穢也、是源大納言(雅兼)來語給也、(後略)

『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p92-93,121-122に解説あり。
中右記 長承2年
(1133)
7月8日 【斎院に穢れのこと】
(7月8日条)
 天晴、
去五日待賢門中有死人、齋院(禧子)女房從者乍見死人往反彼門中、參齋院御所一本御[書脱]所了、齋院穢可有哉否條、被尋明法博士二人明■[兼?]有隣之處、往反門不可爲穢由申、又檢非違使<■習法家■■■■>被問申、■■可爲穢、又於非■者也、申云、見死人■■■■■必可有穢由申、何■■■被行哉、可量申由、關白殿(藤原忠通)有御消息、進返事云、明法博士等不可爲穢之由申<ハ、>又不可有左右、■■■元永元年九月十一日例幣日、待賢門中有穢、仍奉幣供奉諸司用陽明門由、見私記、彼所有沙汰被用也[衍]行歟、早可被尋彼時例歟、
(7月9日条)
(前略)次依召參關白殿、近衞殿、治部卿(源能俊)、民部卿(藤原忠教)、源大納言(雅兼)、右兵衛督(藤原)顯頼參集、殿下出給賓筵、<御冠直衣、>被仰云、十五日待賢門穢間、明法博士、并季盛、成國、外記勘文等、相定可申之由、有院宣、何様可有哉、人々可被定申、勘文下給、一々見下、以顯頼令讀■■[勘文?]也、召明法博士明兼有隣被問、兩人申云、待賢門■■■■■■■■門者一定器穢■■■■■■■■■■■■但雖往反人、暫居礎留居門右者、准着座議[儀?]■■穢歟、人々議定申云、隨法家申可被決也、但件下女通門參齋院了、彼女有疑、件女之身爲穢哉、■■條可被召[占?]也、予申云、弔喪人當日不可參内裏■■見式文、何況哉於齋院哉、縱雖無穢、過件門女參齋院也、當日有憚、猶件由恐申候[由?]早有奉幣可被申賀茂歟、
殿下仰云、尤可然、只今上臈職事不候、仍以右兵衛督被院奏畢、仰云、任人々定申、件女可有御占、又可有奉幣者、
殿下仰者[云?]、可被行軒廊御卜歟如何、予申云、不可及軒廊御卜、只於腋陣召(賀茂)家榮朝臣可被占也、殿下仰云、尤可然、其後人々退出了、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
8月10日 【院(鳥羽上皇)、斎院(禧子)御所に御幸】
 院(鳥羽上皇)御幸齋院(禧子)御所一本御書所云々、
長秋記 長承2年
(1133)
8月28日 【斎院(禧子)御悩】
(前略)齋院(禧子)日来不例御坐、是年来宿阿也。其上自去此発病未平癒給之間、件本御病更発、御腹ふくれ、御面足手なども腫て、凡飲食不通御坐云々、
長秋記 長承2年
(1133)
8月29日 【斎院(禧子)の御悩を卜する】
(前略)(鳥羽)上皇自鳥羽殿還御於女院(待賢門院)、召(賀茂)家榮朝臣、斎院(禧子)御事有御卜云々、治部卿(源能俊)參、齋院御事執申云々、
中右記 長承2年
(1133)
9月1日 【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
(前略)當齋院(禧子)不例御也、仍卿院(鳥羽上皇)御幸齋院御■■一本御書所云々、頃而還御、入夜參大殿(藤原忠実)、■■畢、夜半齋院重御、又■■■[待賢門?]院御幸云々、
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
9月2日 【斎院(禧子)、病により退下。鳥羽上皇と待賢門院、見舞に御幸】
『中右記』
(前略)齋院(禧子)渡御之所又有御祓、陰陽頭(賀茂)家榮■■■<於本所宮主、移渡御他之故[後?]陰陽師祓、是先例者、>又仰檢非違使爲■■■諸門、令制雜人出入、依職濫行也、
齋院名禧子、元一品准后也、

『長秋記』
 雨、齋院禧子依病、出一品[本]御書所、(藤原)盛重家渡御、大雨間、或人云、(鳥羽)上皇御幸一品[本]御書所、依齋院御惱重御也云々、仍以使者、少納言許遣尋、使歸云、一定出宮給、可令渡盛重宅<堀川上手小路、>也者、又人云、女院(待賢門院)只今可有御幸云々、仍師仲令參女院云々、又渡御云々、秉燭之程參齋院御所、兩院同御坐、右兵衛督(藤原顕頼)、殿上人八十余人被候、皆布衣也、良久與武衞談、多齋院御事也、(中略)
參女院御方、招出女子散不審■齋院今間宜躰御坐、兩院御中臥給也、但本病大事御、忽令平癒事有難歟云々、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
9月3日 【鳥羽上皇、前斎院(禧子)に御幸】
 天晴、院(鳥羽上皇)御幸前齋院(禧子)、還行[御?]
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
9月4日 【鳥羽上皇、藤原盛重邸に御幸。女院・斎院(禧子)と共に三条京極第に還御】
『中右記』
 天晴、院(鳥羽上皇)又御幸前齋院(禧子)云々、

『長秋記』
 陰、夜雨、(鳥羽)上皇自上殿御幸齋院御所、乃齋院(禧子)女院(待賢門院)皆渡京極殿給云々、仍着直衣參京極殿、上皇爲還御●御車程也、殿上人庭列、按察大納言(藤原実行)、中納言中將(藤原頼長)、右衞門督(藤原実能)在中門廊、予進交公卿、漸時剋推遷間、御幸停止之由云々、仍關白(藤原忠通)右大臣(源有仁)共退出給、
<齋院御祈事、(右傍書)>
予暫留候、右兵衛督(藤原顕頼)召匠頭宗憲、間御祈日次、令成勘文、明日云々、又可有泰山府君御祭、代厄御祭、招魂祭、七瀬御秡云々、

●=𨌅(さしよせる。こちらを参照(字源))
長秋記 長承2年
(1133)
9月5日 【斎院(禧子)退出のこと】
(前略)大納言被談云、齋院(禧子)退出給時、仰云、欲奉出時、頻御氣色宜、者早可奉出歟、予申云、前々出給後有其驗、而未出御前頗宜御者、尚暫可令相侍御也、神慮不承、定又大事御歟、此間可有御禊之由申行處、禮部云、役人皆布衣也、仍不行、(中略)
抑當齋院女別當、往年爲尼着法衣之人也、故關白娘、字御料、母但馬守良綱姫、字但馬公、而件人常祇候、與齋王奉具、神殿内出入云々、此事言語道斷也、不謝神者、其祟忽不止歟、如此人、被責病、受菩薩戒、額髪を剃などするは、常事也、於件人稱尼、多年是人皆知事也、尤不便なりける事也者、
長秋記 長承2年
(1133)
9月9日 【源師時、三条京極第で前斎院(恂子)と一品宮(禧子)を見る】
(前略)依女房召、参御簾内、先奉見前齋院(恂子)、端正美麗非所眼及、次奉見一品宮(禧子)、日來有御惱、無術御由、有其聞、御腹張、御足腫、身有温気、御目已暗御也、事躰雖其憑少、忽不可有其恐歟、是又容顔勝齋院給、有慮外事誠爲世遺恨也、(後略)
長秋記 長承2年
(1133)
9月20日 【鳥羽上皇、斎院(禧子)に御幸】
 晴、自女院(待賢門院)告送云、依(禧子)御心地大事御坐、此曉(鳥羽)上皇御幸、今間頻落居給、依此事、上皇頻不請、おひたゝしく申由也、御使馬助忠正有勘當氣云々、(後略)
長秋記 長承2年
(1133)
9月25日 【斎院(禧子)重態】
(前略)一品宮(禧子)萬死一生御坐、強不令參給有何事歟、
長秋記 長承2年
(1133)
9月29日 【斎院(禧子)重態】
 晴、申剋參院(鳥羽上皇)、石藏覺仙律師壊御修法壇迯(※)脱、依一品宮(禧子)御心地重也、
上皇深咎給承仕奉仕、被搦留、然而於件奉仕恩免、

※迯=逃の異体字。
十三代要略
一代要記
今鏡
長承2年
(1133)
10月10日 【前斎院(禧子)薨去】
『十三代要略』
(崇徳院)
 長承二年(中略)十月十日。一品禧子内親王薨。<十二。>

『一代要記』
(鳥羽天皇)
 皇女 禧子内親王(中略)長承元年十一月二十日卜定、年十三、同二年十月十日薨

『今鏡』
(6・志賀のみそぎ)
 女宮は、一品宮とておはしまししは、禧子の内親王とて、賀茂の斎院に立ち給へりし、御悩みにて、ほどなく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御年十二にてかくれさせ給ひにき。(後略)



史料 記述
十三代要略
鳥羽院
(皇女)
 禧子内親王<母中宮/璋子>
   保安三年八月二日。爲親王。
   大治三年四月十三日。一品即准三后。
   長承元年十一月十四日。爲齋院。
   同二年十月一日薨。

崇徳院
 大治三年 四月十三日。禧子内親王叙一品。
 長承二年 十月十日。一品禧子内親王薨。<十二。>
一代要記
鳥羽天皇
 保安三年 八月廿三日。无品禧子内親王准三后。
(皇女)
 禧子 <賀茂齊、> <保安三ー六月廿七日誕生、同ー八月二日爲親王、同月廿四日蒙准后宣旨、/長承元ー十一月廿五日卜定、<十三[一]、>同二ー十月十日薨、>

崇徳天皇
(賀茂)
 禧子内親王<上皇一女、保安三ー六月廿七日誕生、同八月二日爲親王、同月廿四日准后、長承元ー十一月廿五日卜定、<十三[一]、>同二ー十月十日薨、
帝王編年記
鳥羽院
(皇女)
 禧子内親王<号一品宮/母同上(上西門院)>

崇徳院
(齋院)
 禧子内親王<同院(鳥羽)第一皇女長承元年十一月廿五日卜定/二年九月二日依病退出>
二中歴
(齋院)
 禧子<鳥羽女號一品宮 長承元>
皇代暦
崇徳天皇
(齋院)
 禧子内親王 上皇一女長承元年卜定同二年薨
本朝皇胤紹運録
(鳥羽院子)
(402)禧子内親王[齋院。號一品宮]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
禧子内親王 長承元年卜定。同(鳥羽院)御女。一品宮。
賀茂斎院記
禧子内親王
鳥羽院第一之皇女。長承元年卜定。
今鏡
(6・志賀のみそぎ)
 女宮は、一品宮とておはしまししは、禧子の内親王とて、賀茂の斎院に立ち給へりし、御悩みにて、ほどなく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御年十二にてかくれさせ給ひにき。斎院のほどなくおりさせ給ふ例(ためし)ありとも、まだ本院にもつかせ給はで、かく出でさせ給ふ事は、いとあさましきこととぞ聞え侍りし。
 二十七日薨奏とて、この由内裏に奏すれば、三日は廃朝とて、御殿の御簾もおろされ、何事も声立てて奏することなど侍らざりけり。帝(崇徳天皇)は、(亡くなった禧子が崇徳の)御妹におはしませば、御服たてまつりなどしけり。文もなき御冠、縄纓など聞えて、年中行事の障子のもとにてぞたてまつりける。帝は、日の数を月なみの代りにせさせ給ふなれば、三日御服とぞ聞えける。
行宗集
  • 長承元年(1132)十二月廿四日雪朝、当斎院(禧子)の御だいばむどころ(台盤所)へまゐらする、雪ふりかかりたるたけにつけて
(72)くれたけのゆきうちはらひけさみればよごとに君がちよぞこもれる
(呉竹の雪打ち払ひ今朝見れば夜毎に君が千代ぞこもれる)

  かへし     みの<仲正女>
(73)くれたけのゆきうちはらふよごとにはそよそよ君がちよぞこもれる
(呉竹の雪打ち払ふ夜毎にはそよそよ君が千代ぞこもれる)


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