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28代斎院 統子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
とうし むねこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:中宮藤原璋子[待賢門院]
  (1101-1145)
大治元年(1126)7月23日 文治5(1189)7月20日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123〜1141,同母兄) 卜定:大治2年(1127)4月6日
   (相模守藤原盛重宅)
初斎院:大治3年(1128)4月14日
   (一本御書所)
本院:大治4年(1129)4月19日
退下:天承2年(1132)6月29日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,祖父の従姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位

略歴:
 大治元年(1126)(1歳)7月23日、誕生。


8月17日、内親王宣下。
 大治2年(1127)(2歳)4月6日、准三宮、斎院に卜定。
 大治3年(1128)(3歳)1月17日、著袴。


4月14日、初斎院(一本御書所)に入る。
 大治4年(1129)(4歳)4月19日、紫野院に入る。
 長承元年(1132)(7歳)6月29日、病により退下。
 長承3年(1134)(9歳)6月16日、恂子から統子に改名。
 保元3年(1158)(33歳)2月3日、後白河天皇准母として皇后宮に冊立。
 保元4年(1159)(34歳)2月13日、院号宣下。上西門院と号する。
 平治元年(1159)(34歳)12月9日、平治の乱勃発。後白河院と共に軟禁される。
 永暦元年(1160)(35歳)2月17日、仁和寺法金剛院において出家。
 寿永元年(1182)(57歳)7月8日、前関白松殿基房の子・家房を猶子とする。
 文治5年(1189)(64歳)7月20日、六条院において崩御。

院号:上西門院
後白河天皇准母、皇后宮。
同母兄弟:崇徳天皇(1119-1164)
     禧子内親王(1122-1133,29代斎院)
     通仁親王(1124-1129)
     君仁親王(1125-1143)
     後白河天皇(1127-1192)
     本仁親王(覚性入道親王,1129-1169)
猶子:姝子内親王[高松院](異母妹)、僐子内親王(二条天皇皇女,32代斎院)、藤原家房

斎院勅別当:藤原(三条)実行(大治2年(1127)4月6日〜大治4年(1129)4月19日以降)
斎院長官:源有賢(大治4年(1129)4月〜天承元年(1131)4月20日以降)
     源資賢(有賢の子)(天承2年(1132)4月10日〜6月?)

鳥羽天皇第二皇女。初名は恂子(じゅんし/のぶこ)。
 母藤原璋子は、父鳥羽天皇の従姉弟。
 (※璋子の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹)
 斎院勅別当三条実行は、統子の伯父(待賢門院璋子の異母兄)。また斎院長官源有賢は宇多源氏で、21代佳子の斎院長官源師賢の甥(父政長が師賢の弟)。

  ┌─────┐
  |     |
 輔仁親王  白河天皇
  |     |      ┌──────┐
  |     |      |      |
  守子   堀河天皇===藤原苡子   藤原公実
 (斎宮)        |         |
            |         |
           鳥羽天皇=======璋子
                  |  [待賢門院]
  ┌──────┬────┬───┤
  |      |    |   |
 崇徳天皇  後白河天皇  禧子 ◆統子
                 [上西門院]

 同母姉禧子内親王と同様、絶世の美貌の女性であったという(『長秋記』『今鏡』)。
 統子誕生のわずか2日後、27代斎院悰子内親王が母の死去により、急遽退下となった。当時斎王候補となる未婚の内親王は、時の天皇崇徳の同母妹である禧子・統子の二人しかおらず(後の30代斎院怡子は、内親王宣下の時期は不明)、28代斎院がどちらかから選ばれるのは必然であったと見られる。長女禧子は父鳥羽院鍾愛の皇女であり、誕生から2ヶ月で既に准三宮となっていたことや、従来天皇家では長女が優遇され斎王選定においても避けられる傾向があったことから、次女である統子が斎院に内定したものと思われる。
 とはいえ、数え1歳で斎王に卜定された前例はなく、また現実的にも幼児の死亡率が高かった当時、生まれて間もない乳児をすぐに斎院とするのはさすがに憚られるものがあったのだろう。結局翌年の夏を待って、賀茂祭の時期に統子内親王は准三宮と同時に数え2歳(満8カ月)で斎院に卜定された。以後7歳で病により退下するまでの5年を斎院として過ごしたが、幼年のこととて統子本人は在任時の記憶も殆ど残っていなかったかもしれない。

 斎院退下後の統子は、三条京極亭(左京三条四坊十六町)を御所としたらしい(『中右記』長承元年(1132)11月22日条)。以後統子の消息は主に「前斎院」の呼称で『中右記』『長秋記』『兵範記』『台記』等に散見される。もっともこの頃は待賢門院に替わって鳥羽院の寵愛を得た美福門院やその娘たちの記事が多いのに対し、統子は父鳥羽院と行動を共にすることも少なく、同母姉禧子や母待賢門院の没後は公卿たちにもあまり注目されることはなかったようである。
 しかし同母弟後白河天皇即位により、統子内親王は保元3年(1158)33歳で准母として皇后宮に立后、さらに翌年には歴代斎院初の女院となった。華やかな文芸サロンとしても知られた上西門院統子の周囲には、母待賢門院璋子に仕えた女房たちが待賢門院没後も引き続いて奉仕した他、平氏・源氏双方にゆかりの武士や歌人西行らが出入りした。また後白河院とは終生親密であり、そのため平治の乱では後白河共々軟禁されるという災難もあったが、この時の軟禁場所はかつて統子が斎院時代に初斎院として入った一本御書所であった(『百錬抄』)。なお後白河院の乳母で信西の妻・藤原朝子(紀二位)は、上西門院の衣に隠れて三条烏丸邸を脱出したと言われる(『愚管抄』)
 平治の乱の翌年に統子は35歳で出家、その後は平氏の急速な繁栄から源平合戦の動乱へ激しく変動する時代の中の後半生であったが、平氏滅亡の4年後に64歳で天寿を全うした。同母兄弟姉妹7人の中で弟後白河に次ぐ長命であり、年齢も一歳違いの二人は互いに最も近しく頼もしい存在であったのだろう。最愛の姉統子の死に、後白河院は十日以上に渡り御所の門や格子も閉ざして悲嘆に暮れたという(『玉葉』)。そして後白河自身もその3年後、姉の後を追うように66歳で激動の生涯を終えた。

 上西門院女房で平清盛の義妹にあたる小弁局(平滋子。清盛の妻時子の妹)は、後白河院の寵愛を受けて高倉天皇を産み、国母の女院・建春門院となった。また源義朝室で頼朝の母・由良御前(熱田大宮司季範女)も上西門院に仕えていたと言われ、頼朝も上西門院蔵人として統子に奉仕した。
 なおこの他、歌人として知られる女房に、西行と親しかった上西門院兵衛(源顕仲女、待賢門院堀河の妹)や待賢門院安芸(橘俊宗女)がいる。また藤原定家の同母姉の一人も、上西門院五条の女房名で統子に仕えていた。


参考論文;
・土屋あや美「鳥羽上皇の後宮と皇子女の基礎的考察(III)―鳥羽上皇の諸皇子女―」
 (『政治経済史学』(321), p15-32, 1993)
・中村文「西行と女房たち――上西門院御所を中心に――」
 (『國文學:解釈と教材の研究』39(8), p53-59, 1994)
・植村優恵「上西門院統子論」
 (『総合女性史研究』(38), p10-31, 2021)

参考リンク:
『天皇皇族実録97.鳥羽天皇 巻8』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※統子内親王については25〜47コマにあり


 墓所は花園東陵(京都府京都市右京区花園寺ノ内町、今宮神社向かい)。
 ※京都市営バス【花園駅前】またはJR山陰本線【花園】徒歩2分。



上西門院統子内親王墓所(2013年8月19日撮影)





崇徳天皇
史料 月日 記述
中右記目録
女院記
孔雀経法記
大治元年
(1126)
7月23日 【鳥羽上皇皇女、恂子誕生】
『中右記目録』
 女院御産、<第二女子、>

『女院記』
 上西門院 大治元年七月廿三日誕生。

『孔雀経法記』
(未入力)
中右記目録 大治元年
(1126)
7月24日 【皇女恂子、御湯殿始】
(中略)姫宮(恂子)御湯殿始、
中右記目録 大治元年
(1126)
7月25日 【皇女恂子、第三夜御産養】
(中略)御産第三夜、
中右記目録
山槐記
帝王編年記
大治元年
(1126)
7月26日 【斎院(悰子)、母の喪により退下】
『中右記目録』
(7月25日条)
 斎院(悰子)遭母喪、俄退下

『山槐記』
 賀茂斉内親王惇[悰]子、依喪退出

『帝王編年記』
(崇徳院)
 斎院悰子内親王<堀河院皇女保安四年八月廿日卜定 大治元年七月廿六日依母喪退出>
中右記目録
御遊抄
大治元年
(1126)
7月27日 【皇女恂子、第五夜御産養】
『中右記目録』
 第五夜、

『御遊抄』
<大治元>
(天治)三七廿七。
 御産五夜。
 拍子。<藤大納言宗忠。>
 付哥。<宗輔。伊通。>
中右記目録
御遊抄
大治元年
(1126)
7月29日 【皇女恂子、第七夜御産養】
『中右記目録』
 第七夜。

『御遊抄』
(大治元年7月)廿九。
 七夜。
中右記目録 大治元年
(1126)
8月2日 【皇女恂子、第九夜御産養】
 第九夜。
中右記目録
女院記
女院小伝
大治元年
(1126)
8月17日 【皇女恂子、内親王宣下】
『中右記目録』
 二姫宮(恂子)内親王宣旨、

『女院記』
 上西門院 同年(大治元年)八月十七日内親王。

『女院小伝』
 上西門院<統子。本名恂子。大治四五改之。>二條准母。鳥羽第二女。母大納言公實卿女。待賢門院。大治元年八十七爲内親王。<年一。勅別當權中納言實行。>(後略)
中右記目録 大治元年
(1126)
8月19日 【恂子内親王家侍始及び御五十日定】
 姫宮(恂子)侍始、御五十日定、
中右記目録 大治元年
(1126)
8月20日 【恂子内親王官符請印】
 姫宮(恂子)内親王官符請印、(後略)
中右記目録
御遊抄
大治元年
(1126)
9月19日 【恂子内親王、御五十日】
『中右記目録』
 姫宮(恂子)五十日、

『御遊抄』
(大治元年7月)八月十九。
 五十日。
中右記目録
御産記
御遊抄
大治元年
(1126)
閏10月6日 【恂子内親王、御百日】
『中右記目録』
 姫宮(恂子)御百日、

『御遊抄』
(大治元年)閏十月六。
 御百日。
 拍子。<宗忠。>
中右記 大治2年
(1127)
2月27日 【姫宮(禧子)・若宮(恂子?)三条御所へ還御】
(前略)今夕姫宮(禧子)若宮(恂子?)四所還御院御所三条殿云々、(後略)
中右記 大治2年
(1127)
3月6日 【恂子斎院卜定のこと】
 頭中將(藤原)忠宗依院宣送書札云、齋院卜定所自御本所相當大將軍方、可被避忌哉否事、右延久天仁保安齋宮卜定所自各本所相當王相方、已有先例、就彼例不可被忌歟、但彼時不必被忌避歟、今度沙汰出來、猶可被憚歟、宜令量申給者、予進返事云、不被忌由已有度度例、仍不可被忌也、如此事只可被用先例也、就中神事強不避大將軍王相方忌歟、早此旨可例奏達給者、後聞、付民部卿(藤原忠教)申猶可被忌云々、
中右記 大治2年
(1127)
3月20日 【恂子斎院卜定のこと】
 天晴、依頭中將(藤原忠宗)催、未時參殿上御直廬、(中略)
殿下(摂政藤原忠通)被仰頭中將云、廢朝早々尋例左右可有也、來月五日齋院卜定由有云々説、(後略)
中右記 大治2年
(1127)
3月22日 【恂子斎院卜定のこと】
(前略)殿下(摂政藤原忠通)給御消息云、廢朝事卜定以前可宜之由、令奏聞之處、仰云、尤可然也、而今月之内日次不見也、又仰云、來廿四日奉幣後齋日有何事哉、可量給者、申云、卜定以前尤可被●也、後齋尤不可有其憚也、(中略)
及深更頭中將(藤原)忠宗依御氣色送書云、廢朝事雖經數日、依承保例可被行也、但來月六日齋院卜定以後可無便歟、仍其前欲有廢朝之處、日次連々不宜、來廿四日奉幣後齋可被憚哉如何、(中略)
予進返事云、廢朝猶齋院卜定以前可候也、廿四日奉幣後齋不可有其憚也、就中神祇官火事也、強後齋不可憚歟、件旨可被奏由申畢、

●=忩(公+心。こちらを参照(字源))
中右記 大治2年
(1127)
4月5日 【恂子内親王、相模守盛重宅へ移居】
 新院(鳥羽上皇)第二姫宮(恂子)渡卜定所給、是相模守(藤原)盛重新造宅、<雷解小路南、堀川東角也、>人々午時参集院御所、<五條亭、>三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)渡御按察中納言(藤原顕隆)直廬、本院依御憚夜前先渡御桟敷有御見物、按察中納言顕隆卿一人着直衣祇候云々、(後略)
中右記
知信朝臣記
十三代要略
帝王編年記
女院記
女院小伝
ほか
大治2年
(1127)
4月6日 【恂子内親王、准三宮、賀茂斎院卜定】
『中右記』
 天陰雨下、今日依可有准后并齋院卜定、午時許參内、藤大納言<經(経実)、>獨被早參也、暫以言談、人々漸被參、内大臣(源有仁)被參、相待右府(藤原家忠)參入之程已及數刻、臨申時右大臣被參、則令敷膝突、頭中將(藤原)忠宗仰言云、無品恂子内親王可准三后之由令作敕書、<與新院女院第二姫宮去年誕生給也、>大臣以官人召大外記師遠被問云、大内記中務候哉、申候之由、召大内記宗光、則參入、仰件旨、則草入筥持參、以頭中將被覽攝政殿(藤原忠通)<殿下着直衣御坐殿上、幼主御時不奏、只覽殿下也、>則返給、仰云、令清書<與、>召大内記返給、仰云、清書、大内記則持參清書、<黄紙、>又覽攝政殿、返給、召中務少輔師能下給、<乍入筥給之、>其後民部卿(藤原)忠教卿、左衛門督(藤原)通季卿、右衛門督(藤原)實行卿進弓場<午後雨止、依庭濕經南殿御後、>列立、<北上西面、>付頭中將奏慶由拜舞、了歸着仗座、民部卿加此列、是何故哉、侍從中納言(藤原)實隆卿、左兵衛督(藤原)實能卿二人不立此列如何、是皆本院仰云々、甚不得心事也、御傍親尤可立也、依人數多相分南北被着、<右大臣(藤原家忠)、内大臣(源有仁)、藤大納言(藤原経実)、下官(記主藤原宗忠)、治部卿(源能俊)、民部卿(藤原忠教)、侍從中納言(藤原実隆)、左衛門督(藤原通季)、右衛門督(藤原実行)、左兵衛督(藤原実能)、左宰相中將(源師頼)、皇后宮權大夫(源師時)、右兵衛督(藤原伊通)、>頭中將仰云、可有齋院卜定、可勘申日時、右府召左少辨(平)實親仰件旨、日時勘文則持參、召外記筥入勘文、付頭中將被覽、返給、仰云、依勘申、則召左少辨被下勘文、結申、又召外記返給筥、<先々或勘日時之由雖不被仰下上卿被勘申、或又不勘日時、只問吉事也、>頭中將來、仰、齋院卜定諸司令候<與、>先々殊無此仰詞如何、但又有所見歟、右府召大外記被問、申皆參之由、頭中將仰云、無品恂子内親王可令卜定賀茂齋王、右府召左少辨、仰可敷座之由、左少辨仰史令敷座於軒廊、<西二間以東、>次召外記仰可召神祇官由、<先候哉と可被問歟、>外記歸出告之、神祇官々人少副卜部兼俊、權少副基行、大夫祐兼良以下六人參入着座、次召外記、小外記親盛參、仰硯紙可持參之由、則入紙於硯筥持參、大臣自書恂子、<二字、>書了巻之、加懸紙給外記、々々自懷中取出小刀、封之返上、大臣封之、上書封字返給硯筥、外記取之歸入、大臣召云、基行、<雖下臈召中臣也、可加朝臣字歟、雖五位軒廊御卜時、加朝臣二字也、>基行參膝突、<此間小雨、仍經宜陽殿壇上、>下給御名文、仰云、可下、復本座、以下臈令灼龜申
<取上少副兼俊加推文、給下臈、下ニ、(傍書)>
封之、下<ニ>卜丙合<止>書付、入筥蓋持參、大臣取之、基行取筥蓋持歸、大臣神祇官仰可罷出之由、<猶召外記可被仰下歟、>又召外記筥入之、付頭中將被覽殿下、留御所、頭中將仰云、恂子内親王可爲賀茂齋院由可宣下者、大臣召權神祇少副基行、<入自宣仁門、>參膝突、仰件旨畢、又召左少辨同下知其旨了、頭中將來仰云、治部卿、源朝臣、左少辨實親、左少史中原重兼令行初齋院事、又忠宗可爲初齋院敕別當、<頭中將自仰下我事也、>召左少辨仰件人々事了、
<如備忘記者、齋院時無大祓者、然而近代皆有大祓也、>
又頭中將來云、奉幣大祓日時可勘申、召左少辨被勘、<康和之度初齋院上卿令勘也、左大臣早被退出之故歟、>則持參勘文二通、召外記筥入之、被覽之後返給、被下外記、<共來十一日、>
 幣料請奏等左少辨覽治部卿、今夜行事所始朝所云云、上卿雖可着行、神心屈不被着、左少辨着行者、
右大臣、内大臣以下諸卿皆渡參齋院御所、<富小路堀川亭、>此間及秉燭、神祇官同參入、人々在西渡殿廊、<南庭立幄、先々此幄不見如何、則又破了、不得心事也、>准后敕使左中將(藤原)成通參、阿波守(源)有賢朝臣相逢、申事由、西廊上敷茵疊、有賢召敕使、中將參着座、諸大夫居肴物、<土高器二本、諸大夫●之、>一獻民部卿、二獻左衛門督、三獻右衛門督、藤大納言經實卿取禄給之、<女裝束、>於中門二拜了撤座、次又齋院之由敕使右少將公教朝臣參云々、有賢朝臣又申事由、又如初敷座召之、少將參着座、居肴物、一獻侍從中納言、二獻左兵衛督、三獻皇后宮權大輔、民部卿取禄給之、<女裝束、>於中門二拜、而禄唐衣取落中門廊、人々見付、仍送敕使許、頗奇怪歟、
此後右府内府被退出之次、下官退出、不見餘儀、神祇官參入御殿、祭御禊、指賢木給饗禄歟、賀茂上下社司等參入庭中拜、給饗禄歟、今夜女房侍等付簡云々、
敕別當自本右衛門督實行卿、御後見阿波守有賢朝臣也、仍今夜之事此二人所執行也、從新院(鳥羽上皇)廰被催雜●人人云々、
 准后同日、長元四年馨子、康和元年禎子例也、二歳齋院卜定例、延喜御時恭子内親王例云々、

 齋院次第、

<嵯峨御時>
有智子内親王、<嵯峨第九子、作詩賦人也、
弘仁九年初置斎院司自斯始、>

<淳和、仁明>
時子、<仁明一女、>

<同>
高子、<淳和九女、>
<文徳>
慧子、<文徳九女不吉例、>
<同>
述子、<文徳三女、>

<清和>
儀子、<文徳一女、>
<陽成>
敦子、<清和三女、>
<同、光孝>
穆子、<光孝女、>

<宇多>
直子、<中務卿惟彦女、>
<同、醍醐>
君子、<宇多三女、>
<朱雀、村上>
恭子、<延木三女、>

<同>
宣子、<延木二女、>
<同>
韶子、<延木十三女、>
<朱雀>
婉子、<延木七女、>

<冷泉、円融>
尊子、<冷泉二女、>
<円融、花山、一條、
三條、後一條>

選子、<村上九女、>
<後一條>
馨子、<後一條二女、
皇后宮、後三條院妻、>


<後朱雀>
娟子、<後朱雀院二女、>
<後冷泉>
禖子、<後朱雀四女、>
<同、後三條>
正子、<同五女、>

<後三條>
佳子、<後三條三女、>
<本院>
篤子、<同四女、
中宮、堀川院妻、>

<同、堀川院>
斎子、<小一條妻、>

<堀川院>
令子、<本院三女、>
<同>
ヮq、<同第四女、>
<新院、今上>
宮子、<同女、>

<今上、皇后宮、母后儀、新院初為后、>
悰子、<堀川院女、>
<同>
恂子<新院第二女、
母女院、當時、>

<以上廿八人、此中為皇后三人、>
(裏書)
或人云、封上<ニ>近代不書封字、只引墨云々、此事可尋也、後日神祇少副兼俊來云、卜定之所次第、先大殿祭、次齋王御禊、<先御湯殿、>次指御所四角於賢木、<齋院ハ始自戌亥角、齋宮ハ始自辰巳角、>次御井祭、次御炊女、次御竈神祭也、今度<ハ>先御禊、次指賢木、次大殿祭、頗違例也、是依右衛門督實行命所行也、不申左右隨上卿命也、

『知信朝臣記』
(未入力)

『十三代要略』
(鳥羽天皇皇女)
 絢子内親王<母同(藤原璋子)>
  大治元年八月十七日。爲親王。
  同二年四月六日。爲齋院。
  同日。准三后後改爲胤子。
(崇徳天皇/大治二年)
 四月六日。卜定賀茂斎院。<恂子内親王太上天皇(鳥羽)第二皇女。>先被下准后勅書。

『帝王編年記』
(崇徳院)
 斎院恂子内親王<鳥羽院第二皇女大治二年四月六日卜定二歳 天承二年六月廿九日依病退出>

『女院記』
 上西門院 同(大治)二年四月六日卜定。齋院。准三宮。

『女院小伝』
 上西門院<統子。本名恂子。大治四五改之。>二條准母。鳥羽第二女。母大納言公實卿女。待賢門院。大治元年八十七爲内親王。<年一。勅別當權中納言實行。>同二四六准三宮。同日爲賀茂齋院。(後略)

●=伇(人偏+几+又。役の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 大治2年
(1127)
4月11日 【斎院官符請印、斎院卜定を賀茂社に奉幣。斎院(恂子)、初めて神殿に入御】
 天晴、有政、<齋院官符請印云々、>
侍從中納言(藤原実隆)、左宰相中將(藤原宗輔)、右少辨(藤原)宗成、少納言忠宗參勤云々、
有大祓、依齋院(恂子)卜定也、<左宰相中將勤之、>
又有奉幣賀茂、依齋院卜定也、上卿治部卿(源能俊)、使宰相(源)師時云々、行事左少辨(平)實親、
齋院今日初入御神殿云々、上卿治部卿、左少辨參向云云、今夕本院(白河法皇)御幸賀茂上下社云々、予不參、不見子細、<神寶之外御馬二疋、内大臣(源有仁)以下公卿皆參、抑新院(鳥羽上皇)有御見物云々、秉燭間參御社頭云々、>
中右記 大治2年
(1127)
11月5日 【斎院相嘗祭】
 齋院相嘗也、御所盛重堀川宅也、有奉幣云々、使阿波守(源)有賢朝臣、陪膳頭中將(藤原)忠宗朝臣、●送右少辨(藤原)宗成者、
 主典義基云、卜定七月以後時、明年四月有此事、四月以前有卜定時、當年十一月有此事也、仍此齋院當年十一月相嘗被行也、

●=伇(人偏+几+又。役の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 大治2年
(1127)
11月6日 【五社奉幣。藤原宗忠、斎院(恂子)に参上】
 天陰天不下、今日五社奉幣也、(中略)
次參齋院(恂子)、昨日相嘗後朝也、申時許上下社司參入、進三和、着饗饌、齋院職司勸盃、了給祿、退出之後、予參入、(後略)
中右記 大治2年
(1127)
11月17日 【童御覧。藤原宗忠、斎院(恂子)に参上】
 天晴、未時許頭中將(藤原忠宗)以下參殿上、淵酔之後、有童御覧、(中略)
頭中將以下廿人許群參齋院(恂子)<服日數中輩不參、>藤大納言(藤原経実)、民部卿(藤原忠教)、大貮、<(藤原)長實、>、左京大夫<(藤原)經忠>參入、有三獻、入夜頭中將以下●[參?]皇后宮二獻、及深更分散、(後略)
中右記 大治2年
(1127)
12月21日 【斎院(恂子)著袴の沙汰】
(前略)右衛門督依院宣(藤原実行)送書云、齋院(恂子)可有御着袴也、而先例不分明、何様可被行哉、可量申者、予申云、從近古以來、齋院御着袴不殊見候也、只准宮々御着袴例可被量行歟、廻新儀可候事歟、以此旨令奏達給也、幼主齋院近代不見之故也、
中右記 大治2年
(1127)
12月25日 【斎院(恂子)著袴定】
(前略)今夜於新院殿上、有齋院御着袴定云々、院司公卿藤大納言(藤原経実)以下被參云々、
中右記目録
女院小伝
御遊抄
体源抄
大治3年
(1128)
1月17日 【斎院(恂子)著袴】
『中右記目録』
 斎院(恂子)御着袴、又魚味問答、<御年三歳、>

『女院小伝』
 上西門院<統子。本名恂子。大治四五改之。>二條准母。鳥羽第二女。母大納言公實卿女。待賢門院。大治元年八十七爲内親王。<年一。勅別當權中納言實行。>同二四六准三宮。同日爲賀茂齋院。同三正廿七著袴。<三。>(後略)

『御遊抄』
(御著袴)
齋院。(恂子)<大治三正月十七>
 拍子。<權大納言(藤原)宗忠。>
 笛。<左宰相中將(藤原)宗輔。>
 和琴。<(藤原)伊通。>

『体源抄』
 皇女御着袴(中略)
同(大治)三年正月十七日<上西門院/齋院>
 呂<安名尊、鳥破、席田、賀殿急> 律<万歳樂、更衣、三臺急數反>
中右記目録 大治3年
(1128)
3月23日 【斎院(恂子)御禊定】
 今夕治部卿(源能俊)定申斎院(恂子)御禊、
中右記目録
餝抄
大治3年
(1128)
4月14日 【斎院(恂子)御禊】
『中右記目録』
 斎院(恂子)御禊、入一本御書所、

『餝抄』
 初齋宮入諸司[イ野宮]鞍(中略)
大治三四十四初齋院御禊。別當有賢用蘇芳●手綱。并連著鞦。例歟。可尋。

●=緂(糸偏+炎。こちらを参照(字源))
中右記目録 大治3年
(1128)
11月11日 【斎院相嘗祭】
(11月12日条)
 齋院相嘗後朝、
中右記 大治4年
(1129)
1月6日 【初斎院について】
 天晴、早旦頭中將下宣旨云、左少辨平朝臣實親可令行初齋院事、<右中辨(源)師俊輕服障替也、>即下知左中辨(藤原実光)了、
申時許相具右少辨(藤原宗成)參齋院御所一本御書所、予十二月廿日奉初齋院上卿、其後依念之于今不參仕、今日依爲吉日所參仕也、暫與女房達言談、(後略)
中右記 大治4年
(1129)
1月18日 【斎院○始め】
(前略)今日齋院■事所始、<今年々首射庭左少辨(平実親)着行、>
中右記 大治4年
(1129)
2月14日 【藤原宗忠、初斎院(一本御書所)へ参上】
(前略)予暫立嘉喜門内、殿下(摂政藤原忠通)過給北庭間、立出扈從、申事由、參齋院御所一本御書所、予依爲初齋院上卿、常所參仕也、先達女房達言談之間、阿波守(源)有賢朝臣出逢、無[共?]沙汰禊祭間事、今年初可入御紫野院也、酉時退出、秉燭以前歸蓬門、入夜雨脚下、
中右記 大治4年
(1129)
3月27日 【斎院行事のこと】
 在一條間、頭辨(源雅兼)送書云、齋院行事可申諸司允諸國權守内舎人功事、早可用任辨者、則仰下左少辨(平実親)云云、(中略)
又齋院御禊内々先尋日次之處、十九日與廿二日也、而可用何日哉、付頭辨御氣色之處、十九日勝之由、(賀茂)家榮所申也、然者十九日可用者、件日下知行事辨了、
又前駈定祭除目、先例四月上旬也、内々尋家榮之處、四月五日宜也、其先日次不候者、同以頭辨申了、聞食了由、今夕有返事、
長秋記 大治4年
(1129)
3月28日 【斎院(恂子)御禊前駈のこと】
齋院御禊前駈并女房扇事、(右頭書)
 雨下、入夜止、臨曉參院、乃退出、治部云、御禊前駈事大略定了、來月五日可有定也、大納言(源)能俊、中納言(藤原)實能、參議(藤原)宗輔、下官(源師時)、四位宗章、忠能、長輔、經定、五位經隆、憲方、能忠、公行、頭辨(源雅兼)申其由云云、又問、殿上人齋院御禊日女房扇調備、新院(鳥羽上皇)侍臣可進還御之由、被仰下云々、
中右記
長秋記
公卿補任
大治4年
(1129)
4月5日 【斎院(恂子)御禊前駈定、斎院司除目】
『中右記』
 今日齋院前駈定并斎院司除目爲申行、申時許參内、人々未被參、暫相待之處、頭辨(源雅兼)及秉燭從院被參云々、今夜依可成參議、俄於攝政殿(藤原忠通)御宿所可被行也者、頭辨下馬助辭書、下外記了、清書上卿中納言一人被催也、予聞此事退出了、是明日又宜日也、可定申前駈之故也、近日參議五人也、而(源)師頼(藤原)宗輔(源)師時三人輕服、(藤原)爲隆重病、只(藤原)伊通一人出仕也、頭中將(藤原)忠宗、頭辨雅兼又輕服日數之間也、仍以散三位可被成云々、
及深更持來聞書、被見之處、
參議從三位藤原長實、<前大弐、>年五十五、
齋院長官源有賢、<兼、元阿波守、>
次官源顯行、
 源満清、<兼、元兵衛尉、>
判官源宣基、<兼、兵庫允、>
 源遠光、
主典惟宗義基、<數度任者也、/主典今一人不被成如何、>
左馬權助源保信、
此外不被成也、參議闕三人也、殘二人不被任、兩貫首服日數中之故歟、
清書上卿右衛門督(藤原)實行卿、及深夜更衣被參也、右兵衛督伊通執筆、又勤清書云々、

『長秋記』
 陰微雨、被行祭除目、參議(藤原)長實卿、<前第弐從三位、>長官(源)有賢朝臣、次官顯行云々、除目躰末代議[儀?]、民部卿(藤原忠教)送書問官奏間作法、後右武衞相語云、除目事所奉仕也、成文二通不結返上、太政官謹奏字書了云々、

『公卿補任』
(保延2年)
非參議 從三位 源有賢<六十七>(中略)
<(前略)大治四四ー齋院長官。同五四三遷但馬守(大夫如元)。天承元四ー辞長官。(後略)>
中右記 大治4年
(1129)
4月6日 【斎院(恂子)御禊日時勘申、御禊前駈、及び次第使定】
(前略)今夜齋院(恂子)御禊日時可令勘也、行事左少辨(平)實親有小所勞間、相具此右少辨(藤原)宗成所參内也、召右少辨、齋院御禊并點地日時可勘申由仰了、則持來勘文二通、<一懸紙、>
披見之處、御禊來十九日、點地十三日辛酉、暫置座前、召外記、則外記重實參小庭、<祭行事、>仰齋院御禊例文硯可持參、則入例文并次第使馬助允差文持來、又硯筥入紙置右兵衛督<(藤原)伊通、>前、予付例文示右兵衛督令書前駈、兼日頭辨(源雅兼)奏定下給也、又次第使差文令書、右兵衛督書二枚持來、奉予復本座、披見之、書様、
四月十九日賀茂齋内親王御禊陪從、
 權大納言從二位源朝臣能俊
 權中納言正三位藤原朝臣實能
 參議從三位藤原朝臣長實
 參議從三位藤原朝臣伊通
<少將>
 從四位上藤原朝臣公教
<中將>
 從四位下藤原朝臣重通
<少將>
 從四位下藤原朝臣經定
<前丹後守>
 從四位下藤原朝臣長輔
<因幡守>
 從五位上藤原朝臣通基
<馬權頭>
 從五位上藤原朝臣能定
<能登守>
 從五位上藤原朝臣季兼
<美作守>
 從五位下藤原朝臣顯廣
  大治四年四月六日
四月十九日賀茂齋内親王御禊次第使
左馬權助源朝臣保信、<祭使左寮勤仕年ハ、右助勤仕次第使也、>
右馬允橘忠直
  大治四年四月六日
御禊日時勘文、前駈定文、次第定文入筥、以外記重眞令内覽、<暫留例文差文、又留點地日時勘文、>
外記則歸來返置筥、加入例文差文、下給外記、仰云、任定文使早可令催、外記稱唯退出、
頭辨來下給申文二通、予結申、依請可任、是馬助所望申文、大藏省請奏申録、又口宣云、以藤原實子可任典侍、予召外記仰云、可被行除目、二省中務可催、召右兵衛督下申文二通、又實子可任典侍由示了、硯自本在座前、折堺紙本入硯筥也、
右兵衛督書除目持來、具成申文二通、復本座之後、予被見之、
太政官謹奏
 右馬寮
  權助從五位下藤原朝臣信房
大治四年四月六日<[頭註]今年祭使也、ノ[依?]昨日横死闕、卿被成也、>
太政官謹奏
 大藏省
  録從七位上大江朝臣宗親
    大治四年四月六日
敕旨
 内侍司
典侍從五位藤原朝臣實子、<[頭註]死闕也、仍昨日不被成、>
    大治四年四月六日
已上三通召外記令封、予召筆引墨、召外記筥入三通、以外記範兼令内覽、<女官除目●後別筥雖内覽、依及深更衣急行也、>則歸參云々[衍?]早可下者、
召外記、式<ノ><匕><ノ><匕ハ>候哉、申候之由、仰云、召<セ>、如此三度申了、二省丞列立小庭、予執副除目二通於笏、向北召云、式省<匕>、式部丞稱唯來膝突、予以右手微微給之、立定本所之後、召云々[衍?]、兵<ノ><匕>、兵部丞來軾、如初給武官除目了、立本座後、仰云、末介給<ヘ>、二省一度稱唯出了、
召外記仰云、中務<匕ハ>候哉、外記申云、輔丞等有障不參之代、録候陣外、予召寄外記、乍入筥給女官除目、仰云、傳給祿<ヘ>、外記稱唯退了、其後取成束二通、入懷中退出、已及亥刻、(後略)

●=搛(手偏に兼。こちらを参照(字源))
長秋記 大治4年
(1129)
4月8日 【斎院(恂子)初年により、内裏以下灌仏なし】
 晴、女院(待賢門院)小因幡公許送布施、依召參、手本
<雖初齋院年、女院有御灌佛事、付長元無此事、>(右傍書)
等多令見給、引出物料也、依爲初齋院年、所々無御灌佛、而於女院毎年可有此事云々、雖當初齋院年有此事、但長元ニハ無之也
中右記 大治4年
(1129)
4月13日 【斎院(恂子)御禊点地ほか
(前略)今朝齋院有奉幣、本社幣●從行事所渡斎院廰也、早旦先召日時勘文於(賀茂)家榮朝臣、長官(源有賢)見之云々、午剋奉幣、使五位次官(源)顯行、陪膳長官有賢朝臣、宮主奉仕御祓也、
申時許着束帶參齋院(恂子)<一本御書所、>西廊東一間儲上卿座、<高麗上敷地地敷茵、居土高器六本、>其次間二行對座居机饗、爲辨長官座、依便宜不儲外記史座也、<例横切座也、>前庭打平張爲陰陽寮■也、今朝陰陽寮行事辨以下相率拒捍使檢非違使等、行向一條末、點定御禊齋院也、陰陽寮申云、前々給給饗祿殊不被儲平張也、如何、問右[古?]老院司、申云、御所狹少之時或儲平張、或又侍廊儲座也、予仰云、早可儲侍廊也、陰陽頭家榮朝臣從上四位也、庭中座頗無便宜歟、長官下知院司等、暫撤侍大盤、居陰陽寮饗、令着其座、長官有賢、行事左少辨(平)實親對座、予着本座、先一獻盃傳辨、
次官入例文於柳筥、置予座前、紙筆硯等又入柳筥、置辨前、予披例文、令書出車出馬、令書了、辨入柳筥持來、二通也、辨復本座之後、予披見之、
 可被出禊祭兩に血檳榔毛車六兩事、
<能(藤原能実)>
 皇后宮大夫家、<今一兩落了、>
<(源)顯雅>
 源中納言家、
<(藤原)實行>
 右衞門督家、
<(藤原)長實>
 藤宰相家、<今度前駈也、依無他人宛之、>
<(藤原)經忠>
 左京大夫家、
<藤三位(藤原長実)>
 車副各六人、<可着冠、>
 褐衣袴布帶等自院可受、
    大治四年四月十三日
 [頭註]近代公卿人數不足、除前驅公卿四人、禊祭上卿宰相、并服者人々之外、人數不足也、雖可除申文人々、依不足入了、
  可被營禊祭兩日童女騎馬四疋事、
<基隆>
 伊豫守朝臣、
<家保>
 播磨守朝臣、
<敦兼>
 但馬守朝臣、
<宗章>
 遠江守朝臣、
 [頭註]多ハ宛殿上受領也、仍從上臈宛之、
 陪從各二人、口付各二人、
 可副菅笠雨衣深履等、
  大治四年四月十三日
書樣如此、例文去年初御禊出車許也、出馬書樣且書、予令書之也、召寄長官有賢下給云、早任定文可令催也、又御車之牛二三車、可申殿下(摂政藤原忠通)内大臣(源有仁)藤大納言(藤原経実)之由仰含了、<二三車之牛ハ、多ハ大臣也、殿下ニハ藏人參入申云々、右府(藤原家忠)重服、仍宛一大納言也、>次長官勸盃、如初傳辨立箸、不及三獻拔箸了、次官等徹文書、陰陽師等饗祿了、陰陽寮進勘文、辨持來、予披之、一々見之、
點地勘文一通、御禊日御出勘文、祭日御出勘文、御裝束始日時、<今日酉時、>御帳渡立日時、<來十九日、御禊當日也、>予下給辨云、點地勘文依爲奏書、可覽攝政殿、自余勘文<ハ>依爲上宣、可依勘申之由仰云々、
辨史參向紫野、本院與五位次官顯行相共始御裝束、懸御簾一間、敷御座一枚云々、
辨又其後參殿下、覽點地勘文、下史歟、<又不可持參之由、予示辨了、>此後予暫與女房言談之後、秉燭以前歸中御門北亭了、

●=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
長秋記 大治4年
(1129)
4月15日 【初斎院長官飾馬のこと】
(前略)
<初齋院長官騎餝馬哉否事、>(右傍書)
民部卿(藤原忠教)送使、代々初齋院長官騎餝馬否事被尋、 源中納言(源顕雅)借檳榔、御禊料也、
中右記
長秋記
知信朝臣記
大治4年
(1129)
4月19日 【斎院御禊、紫野に入御】
『中右記』
 朝間天陰、巳時以後雲晴、今日齋院(恂子)初入紫野本院給御禊也、<齋王名恂子、新院(鳥羽上皇)第二女、今上(崇徳天皇)同母弟也、>予依爲上卿、午刻出立、<先沐浴、聊又祓、>參御所一本御書所、<相具中將(藤原)宗能、是故有垣下催也、又右少辨(藤原)宗成同相具也、雖地下人、依爲齋院職事也、>別當右衞門督(藤原)實行卿先參入、是依爲内親王敕別當也、被談云、内大臣(源有仁)<束帶、>被早參、則被退出了、又示云、此西廊一宇外又無他所、前駈公卿座何樣可令敷哉、只今高麗端二枚■敷茵、居高器三本、三人●也、前駈公卿四人、禊齋上卿宰相二人、合六前也、而依所狹如何、又障子西侍廊、行事辨以下垣下座大略儲歟、凡依無所、其座不盡■如何、予答云、前駈人々必皆悉不被參仕、此定何事有哉、然而右衛門督猶可敷加由被澁歟、然者行歟、源中納言顯雅卿、新中納言(源)雅定卿、大貮(藤原)經定參入、<皆束帶、>從内有御使、左少將忠頼也、<女房女童扇入柳筥三、棒仕人三人令持之也、>長官(源)有賢相逢、申事由、令敷高麗一帖茵一枚、<諸大夫役之、>有賢召之、殿上五位二人并御使少將取御扇參上、是廊東一間也、大貮(藤原)經忠<散三位、>取祿<女裝束、>給之、少將下前庭二拜退出、<多是藏人少將所役也、而藏人少將無之、仍少將被奉仕少將由、所聞也、給少舎人於祿歟、>藏人季兼殿下(摂政藤原忠通)令獻給牛鞦持參也、<皆有總也、>予召長官問云、今朝御湯殿了歟、申云、已奉仕了、又御祓陰陽師候哉、皆參了、出車六兩、出馬四疋、餝馬十二疋具了歟、皆具了、女房早可乘之由相催之處、言此仰前、差分行事且所令乘也、此間行事左少辨<平>實親參入、予問云、今朝神殿御帳運立了哉、又本院御裝束、川原御裝束、行事所雜具等出來哉如何、辨答云、早旦行向河原、御裝束了、只今參仕也、神殿本院事皆具了、凡一事懈怠不候、又御輿一御車如何、皆令裝束畢、只今將參立南庭西方、<前々立乎、抑今度不立之如何、>召行事外記重眞問云、前駈公卿、四位五位、左右京職、六府火長、門部、漏刻、次第使馬助允等參入哉、申云、皆參也、但於前駈者、於待賢門大宮邊、相待御出之由、所申也、<猶公卿之前駈可被參此御所歟、>此間從院御隨身走來云、早速可候也、又如何、已申事具由申、屐子着十四人、糸鞋着十人、一御車牛、<從殿下令進給也、>肥牛十頭、<山城所進、從藏人方被奉之、>令○南庭了、
所前駈内典侍(源重資女?)參歟、相尋之處、皆參了、御祓、<陪膳長官◎、次官顯行着白重着紅單衣、萬人爲奇、宗憲奉仕、於東面有此事、予申云、只御所前南面可有歟、然而右衞門督被澁申東面也、強不論、凡如此祓只御所方多有之由、>寄御輿南面候、御輿寄實行卿被立御几帳御屏風、予左少辨列立南庭西、此間右兵衞督(藤原)伊通亦參加此列、<今日雖前駈、被兼行事宰相也、>此間源中納言以下被馳參院御見物了、余左少辨相具、於陽明門外乘車、向列見辻、<前駈五人、重忠、懷遠、篤昌、國隆、懷宗、>立一條北堀河西邊、齋王御輿已出給列見大宮辻、前駈人々皆騎馬參集、美作守顯廣一人未參、只今未一點也、從院廳官來云、已御車立東洞院一條及數刻、早々可渡也、行事辨實親車、外記重眞、史季俊連車渡、令催渡左右京職、頻有不隨之氣、太奇怪也、御禊贖物外居、<荷領二人相竝、>宮主、次五位四人、<能登守季兼、因幡守通基、馬權頭能定、>四位四人、<散位長輔朝臣、左少將經定、右中將重通、左少將公教、>右兵衛督伊通、<隨身平胡△、馬副、無雜色、>新宰相(藤原)長實、<院府生二人◇、院御馬、白裝束十二人、>中納言左兵衞督實能卿、<隨身平胡△、院御隨身將曹二人、敦元、季俊◇(引陪支)、下襲、無雜色、院御馬、美作守顯廣追參、早々可渡由示了、>大納言治部卿(源)能俊卿、<馬副八人、外雜色八人、上達部皆唐鞍杏葉倭鞦例轡、>次第司左馬助保信、長官阿波守有賢朝臣、<銀面杏葉、>左右衞門火長、<十人、>門部、<各二人、>左右兵衞、<各二人、>漏刻、御輿、<駕輿丁廿人、御輿長十人、廳官二人、着束帶副左右、>走童二人、<下仕、>糸鞋着十人、取物十人、腰輿、<往文今日不被具、近代相具也、>御膳辛櫃三合、膳部六人、<或判官後、>騎馬女藏人八人、女嬬四人、<已上餝馬、>童女四人、<倭鞦、>次官二人、<顯行、満清、>判官二人、<定基、遠光、>祿辛櫃十合、<荷領十人、>藏人所前駈雜色二人、<季範、清範、>衆四人、<仲盛、清輔、景家、盛兼、>一御車、<手振十人、取物十人、>二御車、<屐子着八人、手振六人、取物八人、>三車、<屐子六人、手振六人、取物六人、>内典侍車、<或前出車六兩、薄色∇冬衣相交也、>女官馬寮車四兩、申時以前事了、余經一条北小路、馳參河原、只今下御從御輿之間也、<御輿寄東留也、前前有寄酉時、近代吉例東面也、>予令左少辨令敷高麗端疊四枚於御所南邊、<東西二行、是先例也、>予以下前駈公卿候此座、先例供御手水、<進物所從御後方女官傳供也、>敷宮主座、<東庭、>長官申云、御書二ヶ所供也、然物御禊之間可御何所哉、予召行事辨問、申上云、於大床子御座可有御禊也、<此事如何、神社行幸時御禊平座也、可尋歟、但付辨申上、御于大床子座、>供御贖物、<從巽幔外六位次官等取之、出來於庭中、五位次官供之、長官陪膳、>中臣官人權少副基行奉御麻、返給下給宮主、々々着座、御禊了撤贖物、給祿於中臣并宮主、<衾各一帖、主典義基於幔外給也、>上下社司參入、長官先取見參覽予、<上社司十六人、下社司八人、>見了返給、早可給祿由仰了、<衾各一帖、舊記上九条、下七帖者、>此間右衞門督新中納言追被馳參、是三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)御見物、還御三條御所之後馳參也、
山城獻物列立東庭、<北上西面、十捧許如形、國司不參、仍以諸司下部等假列立歟、>可付膳所之由仰之、可給祿由又仰之、<國司不參不給歟、>次供威儀御前、<内膳司付女官供之、御大盤盛物十六杯云々、>次供掖御前、<進物所付女房供付、>
内典侍祿、長官取之給、<女裝束、>
寄御輿還御、治部卿被申所勞由、被留了、左兵衞督以下如本皆前駈、
予并右衞門督連車扈從、日入程也、秉燭以前入御從本院南門、寄御輿於南階、有御輿寄、左兵衞督以下着客殿座、垣下中將宗能、<所衆取瓶子、>次垣下取公卿前駈祿、納言女裝束、宰相薄色褂袴各一、四位五位行事辨白褂各一領、<次官以下取之歟、>次第使馬助外記、<茜染衾各一帖、>雜色所衆馬允、<白單衣各一領、>史生官掌召使、<各疋絹、>
人々或參或否、及秉燭臨暗之間不委見、上卿強雖不參此本院、於當齋院事依可盡忠節、終始馳參也、
齋王今夜着帛御裝束給、入神殿給、予召行事問云、御井祭、御竈神祭、御殿祭等、皆候哉如何、辨申云、神祇官宮主等皆任例勤仕畢、
新院御使此中將宗能參入云、只今何事御哉不審者、長官相逢申事由、給女裝束二拜畢、是中將(藤原)實衡爲御使可參河原之儀云々、而實衡着衣冠參入、仍被追返了、則以垣下人此中將爲御使之由、右衞門督被申也、太奇恠歟、予此間雖不着客殿、於東廊邊萬事沙汰畢、秉燭之後歸家、
今朝立神殿御帳了、舊記度々移立舊御帳之由、所見也、而今度予未奉上卿之前、勘日時、作始御帳、被造御輿也、辨申上此旨、於今度者不可論左右、所被造之新御帳可立之由、下知畢、且又尋古老院司義基之處、申云、雖移渡舊御帳、被立新造御帳、又先例多例之由、所申也、
一御車衣●替鞦、從殿下相具御牛被進之由、義基所申也、又天仁三年予奉行此事之時、件牛鞦從殿下被奉行之由、注付也、仍今度申殿下之處、仰云、先例全無此事、只從内女使●依被請、年來例遣平鞦也、若是以件鞦被奉齋院歟、此事依不審、殿下例奏院給也、仰云、有總鞦歟被之由、依有指院宣、不論左右有總鞦、殿下例求進給也、
今日垣下、中將宗能朝臣、備後介顯重朝臣、中務少輔信雅、治部大輔俊雅、藏人季兼、爲範、
今日前馳人々無取物并車也、<車不渡事奇云々、>令爲今日稻荷祭也、

『長秋記』
<齋院入御野宮御禊事、>(右頭書)
 晴、齋院三年祭[齋?]了、入給于野宮之御禊也、早朝故源中納言(重資)娘典侍供奉御禊、自皇后宮(令子内親王)被出立所、借牛、<申仁和寺僧都童、治部童子丸也>日來雖被借、暇内稱有憚之由不借、然而及前事闕云々、仍所借送也、但輕服人有勤仕前駈之例故也、又送屐子八足女院(待賢門院)、御手本可被入銀筥、可付松枝并▲物、結綿料玉等調進、今日前關白(藤原忠実)御子若君字綾若(頼長)、故(藤原)盛實朝臣孫也、今日可被參院(白河法皇)、仍可賜件物云々、午刻參院、<土御門殿、>諸卿依仰皆着束帶參齋院云々、然而下官(源師時)依暇日數内、不可參彼院之故、着直衣、出門前、下人等告云、已出御、仍歩參、一條大路
<三院御見物事、>(右傍書)
南邊、立車二兩、<西上、>兩院(白河法皇、鳥羽上皇)同車、女院(待賢門院)別車、一條殿築垣下敷疊等、公卿侍臣祇候、自御車西上達部殿上人少々候、東上也、自御車東皆侍臣、西上也、自大地北小屋等
<路中待被撤却事、>(右傍書)
前切立竹而隱門戸、又大略[路?]切立松、禪皇仰云、路中松(白河法皇)早可取捨、供奉者乘馬自有驚、可無便者、仍仰召次等撤之、又當御眼路立弊車、仰云、彼車可追却、檢非違使資遠遣從令追之、歸參申供奉女官乘車依輪落遲々云云、此後良久不渡給、廳官御隨身等遞馳參一品[本]御書所、問事具否、各歸參、雖申具由、及未終不渡給、此間自齋院諸卿侍臣率參、中納言(源)顯雅卿、(藤原)實行卿、(源)雅定卿、大貮(藤原)經忠卿等也、皆着束帶、大納言(藤原)能実卿、參議(藤原)宗輔卿、下官不參齋院、仍着直衣本自候此所、又内殿上人多參齋院後參此所、左少將忠頼自内裏被奉齋院女房童女料扇使云々、參人之御輿也、▼車了云々、禊祭上卿權大納言(藤原)宗忠卿、參議(藤原)伊通卿也、但伊通卿今日前駈也、又内大臣(源有仁)雖被參齋院、不被參此所、兼日仰云、依無輕幄可無便宜云々、先具朱漆辛櫃一合、着持◆援者相具渡、雖尋問無所答、若是齋院雜具歟、然者尚可候御後歟、
行事官先辨以下車渡、自烏丸以西歩行、左少辨(平)實親、權少外記重實、史季俊渡、於高倉辻乘車云々、次左右京職、次宮主先禊具櫃渡、次五位渡、美作守◇近衞中臣季重、<府者、>小舎人四人、雜色當色、能登守季兼◇秦公正、<院御隨身、>小舎人二人、雜色當色、右馬權頭能忠、雜色當色、因幡守通元、雜色當色、右中將重通、隨身同前、無雜色、<本次第可有長輔、而今度下不知故、若詔公教去正月被超公教也、依被有憤不可供奉歟、>前兵衞佐長輔、雜色當色、◇左將曹秦公種、<本院召次、>左近番長政方、<院御隨身、>已下件四位五位皆連K鞦付杏葉、
 尋常儀用楚鞦、要連總拙之由、見土御記、而今度如此、非參議隨身負胡△指鞭事、是兩説也、但普通議用鞭歟、
次參議右兵衞督(藤原)伊通、馬副四人、隨身四人、着粛愼羽箭、參議(藤原)長実、馬副四人、◇左近府生敦忠、右近府生秦兼知、<共院御隨身、>雜色雖府着當色、十餘人扈從呵叱、<々々不然事也、>中納言左兵衞督(藤原)實能、◇左將曹敦利、<共院御隨身、>馬副六人、着祿曹褐、隨身着胡△、大納言治部卿(源)能俊、馬副八人、雜色不呵叱、<可然、>已上杏葉唐鞍鞦也、於轡用和具、次第使馬助保信渡、着位袍付魚袋、<不可然歟、>螺鈿劔、著靴指泥障、次長官阿波守(源)有賢朝臣、馬付銀面、無尾袋、<若馬驚歟、>次漏刻渡、次左右近衞火長、次六府歩陣、次齋王(恂子)御輿、駕輿丁等多由無名<と>稱、前例宇佐<と>稱、又本院(白河法皇)仰云、前々齋王(官子内親王?)乘車給、而今日用輿如何、<輿蓋鈍色、>新院(鳥羽上皇)御答、初度用輿歟、雜色二人、盛季男清則、◇内府(源有仁)隨身公廉、所衆四人、皆有雜色、無取物、一車他院司不知名、鞦用皮、頭辨(源雅兼)云、今朝行事上卿大納言宗忠卿稱先例、一車料被申請攝政家鞦、攝政(藤原忠通)云、糸毛車苧鞦付杏葉所用也、而上卿有此命、彼有所見歟、仍所送也者云々、而今
<女別當宣旨、>(右傍書)
尚用皮鞦、二三渡了典侍渡、有前駈、頭辨云、前例今日無典侍、無前駈、今有是失候歟云々、此事可尋、
前例典侍御車次渡歟、次院女房車、并童女、已上六兩、大納言(藤原)能實、中納言顯雅、雅定、實能、參議長實、大貮經忠、此中雅定卿車下簾施繍、車副四人褐置、牛飼裝束付花、有御感云々、女房裝束妻花款冬袖薄色也、上達部皆用和轡、是近來例也、土御門殿用■鞍轡、是秘説也、(中略)
今日行事辨實親車K鞦、若是靭負佐儀歟、可尋、

『知信朝臣記』
(未入力)

●=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
○=𢌞(廻の異体字。こちらを参照(字源))
◎=伇(人偏+几+又。役の異体字。こちらを参照(字源))
▲=果+衣(果の誤字?)
▼=𨌅(さしよせる。こちらを参照(字源))
◆=襅(衣偏+畢。ちはや(神事で着る衣)。こちらを参照(字源))
◇=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
△=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
∇=𣢸(款の異体字。こちらを参照(字源))
「款冬」=山吹。
中右記 大治4年
(1129)
4月20日 【斎院御禊のこと】
(前略)昨日御禊之間、左右京職進二人不隨上卿命遲渡大路、依之萬人懈怠、就中被●仰之由、頻有院宣、慥召問歟申上之由、仰行事外記了、
今朝長官(源有賢)送消息云、女房曹局不敷疊、纔 一枚許也、又膳所不懸垂布、不渡大盤、如何、如此旨下知行事所了、申云、垂布大盤親王方家司職事所課也、但大盤一脚所儲也、(後略)

●=忩(公+心。忽の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 大治4年
(1129)
4月23日 【斎院のこと】
(前略)長官(源有賢)送消息云、一日行事史申旨奏聞之處、仰云、垂布大盤、歳末之外非家司職事所課、慥從行事所可奉齋院廰也、承了由申了、召行事史問此旨、申云、一旦理之所致申上許也、但從本大盤二脚可儲之由、沙汰之處、史生國良思忘、一脚儲也、於一脚者且進了、今一脚送昨日所令候也、明旦可奉渡也、又行事所渡垂布<ハ>白布也、而紺垂布可奉之由催候<ハ>、可求進也、於疊者、河内國所課、多不進也、然而從前々多渡了、又々隨出來可進也、又以紙懸御簾、是行事史生所爲也、慥給懸緒●草、以紙懸條太奇怪也、可有勘當歟、
件子細慥書出可進也、爲送長官也、是事▲少事也、長官強不可奏歟、
今夕左兵衞督(藤原)實能卿勤警固召仰事、

●=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
▲=㝡(ウ冠+取。最の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 大治4年
(1129)
4月24日 【斎院御禊のこと】
 天晴、右衞門督(藤原実行)云、一日御禊之間、六府門部火長裝束希有別樣也、又漏刻持夫不及狩衣袴、太奇怪也、大略内々御氣色歟、予進返事云、件裝束等前々從行事所不給也、從六府差進之也、又漏刻持夫往反道路執夫也、雖行幸時如此、但召外記可令着尋常裝束由、可仰六府、被下知了、又漏刻持纔二三人歟、雖無先例、從行事所如形可給褐冠之由、仰含了、頭辨(源雅兼)送書云、近日公卿人數少之上、服者又多、仍祭出車多以不足、禊祭上卿前々雖不進、依事範所被仰也、舊檳榔毛車可遣内命婦之許者、由承了由、俄所出立也、車副四人催立也、
中右記
長秋記
大治4年
(1129)
4月25日 【賀茂祭】
『中右記』
 天晴、賀茂祭也、予依爲上卿、巳初着裝束參齋院、<先沐浴祓、>先雖可着客殿、爲催懈怠事、入從東門、參御所東殿上方、右兵衞督(藤原)伊通被參逢禊祭宰相也、招長官(源)有賢朝臣問萬事、大略具了、只今女房且乘車之間也、又餝馬十二疋、童女馬四疋、屐子着十四人、糸鞋着十人等、并一二三車、肥牛等皆具了哉、長官申云、皆悉具了、
從内有御使、右近中將重通朝臣持參女房扇、<三筥、入柳筥、>長官相逢申事也、諸大夫敷座於東戸口前下板敷、高麗一枚上茵、長官召使中將、取一筥、殿上人二人取次之筥置座前、長官取祿給使、<女裝束、>中將退歸下庭中二拜、了歸參、漸及午時、予與右兵衛督出從南屏東小門、着客殿座、<自北面西程着西庇北座、敷茵、居土高六本、宰相着南、共東面、>行事左少辨(平)實親、外記重眞、史季俊着南庇座、使々垣下座皆雖儲、近代不着也、予問外記云、供奉諸司使々參哉、外記申云、皆參了、各待御出候近邊、又問辨云、行事所事具了歟、申云、皆悉渡本院、<依初年、萬物調進行事所、仍尋之、仰之(○次々歟ノ)年不可問也、>檢非違使可着座之由仰之、看督長兒床子立庭中、檢非違使二人<有直、行友、>着座、屐子着十四人、糸鞋着十四人、出從■廻●客殿西南庭出了、騎馬可引●由催之處、皆悉女藏人等乘之立門外了、馬然者強不可催入、爲懈怠端、就中御禊日餝馬肥牛見了故也、只今藤大納言(経実)、別當(藤原実行)、左衞門督、新宰相、大貮(藤原経忠)被參也、<皆束帶、>三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)已出御、立御車於西洞院南邊、<兩院御同車、女院別御車、女房出車五兩、殿下(摂政藤原忠通)御車、内大臣(源有仁)以下騎馬、上達部或束帶直衣、殿上人或束帶、或衣冠、依參齋院也、>長官來客殿座、<東庇西面、>予問云、本院事具了哉、申云、皆具了、新院(鳥羽上皇)御使左少將(藤原)公教朝臣參來、薫物御扇被進云々、如初敷座給祿、<女裝束、長官取之、>拜了歸參、長官來云、客殿事了、可令寄御輿、早可寄之由仰了、<御輿兒立中門内、>寄御輿於南階、<候御輿、>予、右兵衞督(藤原伊通)入從中門、列立南庭東樹下、<遣水西邊、西面北上并立、宰相後外記史立遣水東邊、雨儀時立中門也、>右衞門督(藤原)實行卿左兵衞督(藤原)實能卿立御屏風御几帳等於東西、齋王(恂子)乘給御輿之間、予<前駈五人如一日、>與行事人々出從中門并南門、乘車行向列見辻、于時未一點也、予車立一條堀川西半■[町?]許、宰相車立東、以召使催次第行列、山城騎兵渡、<纔五六人、甚不足、逐年人數乏少如何、毎群數十人渡也、>行事辨外記史車、使々車、<或行事辨前、>或遲出來、左右看督長等、檢非違使府生行友、志國有、貞、尉季範、盛兼、為義、正弘、明兼、清賢、義成、大夫尉三人、資遠、光信、盛道、<皆參、不令下馬、皆可渡由仰也、>山城介、<兼俊、>内藏寮御幣、皇后宮(令子内親王)御幣、本院(白河上皇)御幣、宮主、皇后宮走馬、皇后宮使大進國親、右馬寮使助信房、<新任、>近衞府使右少將(藤原)公隆朝臣、舞人前行、陪從在後、<前々陪從官人上卿車前下馬渡、今日不然如何、>内藏寮助、<在憲、>女使等、<内并皇后宮、>次第使馬助保信、<新任、>長官阿波守(源)有賢朝臣、左衞門火長廿人、門部四人、左右兵衞四人、左右近衞四人、
御輿、<賀輿丁卅人、御輿長十人、廰官二人、束帶、副左右、>
御後走童二人、<下仕、>絲鞋着十人、取物十人、
腰輿、御膳辛櫃、<三合、>膳部六人、女藏人八人、女嬬四人、<已上餝馬、>童女四人、<倭鞍、>次官二人、<顯行、滿清、兵衞尉、>判官二人、<宣基、兵庫允 遠光、>次官判官或在御輿後云々、祿辛櫃十合、藏人所前驅雜色、<季範、清則、>衆四人、<仲盛、清輔、景家、盛兼、>御車、<手振廿四人、取物十人、>二車、<女別當、屐子着八人、手振廿八人、取物六人、>三車、<宣旨、屐子着六人、手振廿六人、取物六人、>次第使馬允忠直、出車六兩、<車副各六人、>典侍車、<有前駈四兩、>命婦車、<出車三兩、>藏人車<出車二兩、>◆司車、馬寮車、<二兩、二兩前行了、>申刻渡了、予并宰相相歸家了、
上卿宰相前々不參社頭并還立日也、仍留了、參御上下社之間、偏本院長官以下沙汰也、且又行事辨相共參向、監知萬事也、
今度阿波守有賢朝臣申請受領功事、
去大治三年正月御袴着女房打出十六具、
同四月令入諸司給御禊打出廿具、
 童女裝束四具、走童裝束二具、
今年四月御禊打出廿具、
 童女裝束四具、走童裝束二具、
同當日▲打出廿具、
 童女裝束四具、走童裝束二具、
同還立日、
 女房夏裳唐衣、
紫野本院修理、大略如新造、
 已上有賢朝臣功、
御服禊日白御服一具、染色御服一具、
 祭日二具、<一具社頭、>一具本院、
還日御服一具、
已上従行事所、以▲物渡本院、<有賢朝臣裁縫染色、>
屐子着十四人、女嬬四人、
已上従行事所渡▲物、<有賢朝臣裁縫染色、>
女藏人八人、騎馬童女四人、糸鞋着十人、
 已上行事及裁縫行事所々課、
神殿御裝束、本院御裝束、御禊日河原、祭日上下社御所、神館御裝束、<皆行事所、>
御輿、<一二三車、>諸祿、<有差、今度女裝束五具、>
裝束、御輿長十人、駕輿丁四十人、
荷領十四人、手振等、車副、取物、
漏剋持夫二人、<今度依別仰加之、>
已上皆行事所沙汰也、<委見目録、>
<禊日祭日同、還立日新院、>
騎馬女藏人以下、屐子着、糸鞋着等屐、行事所調進不足、祿女裝束、雨具、有賢儲之、
御簾、御疊、
寛治、<簾八十八間、伊與簾卅三間、疊百六枚、>
康和、<御簾六十七間、伊與簾六十間、疊百廿七枚、>
天仁、<御簾百一間、伊與簾卅間、疊百五十枚、>
今度、<御簾百七十四間、疊二百卅四枚、>
今度申請成功、
諸國權守一人、内舎人一人、
榮爵二人、
予初齋院入本院給時上卿三ヶ度奉行、是可然事歟、定知有神感、所欣悦也、

『長秋記』
<賀茂祭事、>(右頭書)
 晴、賀茂祭也、早朝清隆朝臣許送扇一枚、依前日請也、自女院(待賢門院)昨日所調進童裝束相具銀橘下給、仰云、本文上付加可進者、留御使付之反進、巳刻參院、<直衣、>先之内大臣(源有仁)被參、以忠能朝臣被申本院(白河法皇)云、依近衞使請、番長兼風所遣也、而與院御隨身近衞敦則可取率馬口云々、近衞與番長雖其色異、臣下與上皇何無差別、仍於兼風可取下乎之由仰含了者、仰云、可依先例也、但下知了先[者?]非此限、又以此旨可令申新院(鳥羽上皇)也者、忠能此由了參東面申新院、歸相語云、仰、專不可然、内減時爲上臈也、何以番長可爲近衞下臈哉、近乃御馬御覽之時、雖本府番長、尚列院下臈上、以此旨可令申者、仍令申此由處、仰云、右將仰下了、於今不可有沙汰歟云々、又以此旨令申大將、々々隨身兼風許可取下手之由、重仰遣了、下官等參新院御方、着御裝束出御渡殿、<御烏帽子、二重織物、指貫、紅打衣、御衣御直衣也、>凡今日、攝政(藤原忠通) 、内大臣、皇后宮大夫(藤原能実)、宰相中將、下官外皆束帶也、是依可參齋院(恂子)也、左武衞相語云、向使所出立御使右少將公隆朝臣也、今度經營一向所助成也、但其間種々有憤、一申御隨身處、賜二人不被賜二人、是一遺恨也、一申内還昇處、又無許容、是一愁也、故侍従中納言息(藤原)實能有養子、而此時無息[恩?]、可期何時哉、此定者居顯官在朝家矣、還爲彼人無由緒歟云々、又所賜二人中番長敦方也、而申故障、給弟敦則、又無面目事也、但又本院御氣色歟、下官無答也、但於敦方障、年來兼近上臈也、而後成官人罷渡上臈、雖他家事頗無面目者、於今度可遣他人之由、内々令奏云々、良久出御東面、▼御車、先▼院御車、
件御車基隆朝臣之所調進、立不知外作金銅梧桐居鳳凰、御車副二藍有繍并金文、
次▼女院御車、立不知居金銅文、
家保朝臣調備也、二御車共下簾有繍、御車副赤色付金花、
屬車五兩、出生衣躑躅、一車瞿麥、二兩、三車★冬、四車菖蒲、五車藤、半物車一、件衣付花、件車五兩付花施風流、供奉公卿攝政、<車、>内大臣、大納言(藤原)經實、(藤原)能實、(源)能俊、中納言(源)顯雅、(藤原)實行、(源)雅定、(藤原)實能、參議(藤原)長實、(藤原)宗輔、下官、從三位(藤原)經忠等也、殿上侍臣基隆朝臣以下皆着衣冠、自三條東行、自洞院北行、自近衞東行、自高倉北行、自一條更西行、着西洞院輕幄所給、
御車立所引◇纐纈幔、其東立五間幄、儲公卿以下座、南北二行、用高麗端疊、南北屋前引主殿寮斑幔、又南埒前引之、其前切立松枝、又切竹掩隱近邊小舎、又隱左近殿舎、是爲隱破壞歟、
御車幔前立定間、諸卿幄北面双居、<西上、>女房出車立幄東方、副南埒女房雜子女四十人許双居、又兩方北面妻府武士所双居、衣裳過差、非人力之所及、着束帶人々率參齋院、乘車經正親町參云々、良久各還參、齋王未駕御輿給云々、此後良久別當歸參、齋王已出給了云云、此後山城騎兵渡、僅五人許也、
前例廿卅人許也、而近來毎事減少如此、
次看督長渡、左右凡百人許也、
近來副漁師之間、使廰下武身論陶朱色家富羸國、仍諸家雜色好入此議也云々、
次檢非違使渡、
府生行友、 志有貞、 城國、 尉季則、 明兼、
正弘、 盛兼、 爲義、 爲義、 義成、 清方、
大夫尉資遠、 光信、 盛道、
次行事辨以下渡、其儀如御禊、次使々并雜色所衆等車渡、
馬助信房車、近衞使公隆車、長官有賢車、施風流、
次山城介渡、
次皇后宮使、 少進國親渡、 不具引馬、
次右馬助信房渡、 無引馬、<有使童子四人、>
次近衞使餝馬△<院府生兼弘、右大将不正兼近、>
馬副八人、隨身小舎人六人、<尋常儀、有引馬歟、>引馬内府番長兼風、院近敦則、仲[件?]兼風敦則上手下手事未定間、兼風取下手可渡之由、大將被仰下了、而今取上手渡不審也、仍後日召問兼風處、申云、彼前取下手、仍不能論、仍取上手罷渡了者、
次雜色取物、
次内藏寮使渡、陰陽宗憲弟云々、<無引馬、>
次公家女使命婦藏人二騎、
次長官有賢朝臣、◇院將曹季利、<不付物、>府生敦忠、馬副着榊フ、引馬◇院番長季忠、近衞公正、雜色取物、
次漏刻、
次御輿、<葱花、駕丁黄色、障子、鈍色帷、紫目結、>
次女嬬取物、
次腰輿、
次騎馬藏人童女、<々々結總角、>
次院司、
次國司、
次皇后宮命婦、
次雜色所衆、<先上臈、>
 雜色清則、共大將隨身公廉相具、
次一御車、<糸毛、>
次糸毛二兩、女別當宣旨料也、
次出車六兩、紅躑躅、二藍衣、蘇芳唐衣、童汗衫參青朽葉、
次典侍、<備後守眞信朝臣娘云々、>
次屬車、
次命婦車、<糸毛、>
次藏人車、<令候者、各有屬車、>
次還御、自西洞院至中御門東行、自東洞院至三條、

●=𢌞(廻の異体字。こちらを参照(字源))
◆=闈(門+韋。こちらを参照(字源))
▲=䉼(米+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
▼=䡨(さしよせる。こちらを参照(字源))
★=欵(款の異体字。こちらを参照(字源))
「欵冬」=款冬(やまぶき)。
◇=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記
長秋記
大治4年
(1129)
4月26日 【賀茂祭還立】
『中右記』
 天晴、齋王還本院給、
先從新院(鳥羽上皇)被奉夏扇、使兵衞佐公行給祿、<女裝束、>巳時許三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)御幸社神館邊、乍御車御覽、次立御車於知足院殿大門前、有御見物、殿下(摂政藤原忠通)<御車、>内大臣(源有仁)以下騎馬、<直衣、>殿上人、<衣冠、>
 垣下、中將實衡、少將公教、五位公能、政教、
抑御禊祭還三ヶ日無風雨難、神々與着晴以可知歟、

『長秋記』
<祭還立院御見物事、>(右頭書)
 晴、辰刻僕等來告云、御幸已成、前駈已在三條堀河辻云々、驚之●出間、又來云、前駈已還參了云々、然而尚●參間、於六角堂町辻、治部使來告云、已出御了、於今遮路可參者、仍◆軒於三條町乘馬、向參間、前駈等◆室町邊、公卿皆直衣、侍臣垣下外着衣冠、公卿大略同昨、但(藤原)伊通卿參、(藤原)能實(源)能俊二納言、次自三條西行、自堀川北行、皇后宮(令子内親王)乘御車、於西陣有御見物、昨日其由有御消息、經此路云々、宮内職事等着衣冠候御車近邊、自一條西行、至紫野輕幄邊前駈或下馬、或乍馬立、良久着御、留御車、暫◆御案、召家保朝臣、可覽神館之由被仰下、仍更騎馬爭行向神館、二御車渡橋進壇隆[際?]、此間別當左武衞大貮下向、殿上人三四人向使幄著膳、大略許退出、參御車邊但依未除服、心中成憚不渡橋、宰相中將更被◆此、此條下參進、不經幾程還御、先之所々使參神館給祿了云々、
 尚可有御覽者、渡御後可有此儀歟、
着輕幄御、以家保朝臣被仰せ別當左武衞等云、早參神館可▲御車、仍件兩卿乘車參仕、役了歸參、此後供奉輩渡如常、有賢朝臣於智足院北垣▼指縄渡御前、然而★末忠公正傳馬口渡、人々云、泥障復輪指縄分專不可然、今日山城介不渡、事了別當留本院、寄御車經本路還御、皇后宮如前有御見物、
今日自新院(鳥羽上皇)被調獻女房扇、<夏侍當色、>使公行着束帶持參云々、今日垣下四位實衡、公教、五位公能、政範、
抑祭間爲以齋王饗應之事、而神館無參人、本院又同、攝政(藤原忠通)以下率參可被行諸事也、

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
◆=𢌞(廻の異体字。こちらを参照(字源))
▲=䡨(さしよせる。こちらを参照(字源))
▼=縿(糸偏+參。こちらを参照(字源))
★=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記 大治4年
(1129)
11月12日 【斎院相嘗祭】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
11月24日 【斎院神楽】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
3月22日 【斎院(恂子)御禊前駈のこと】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
3月28日 【斎院(恂子)御禊前駈定のこと】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月2日 【斎院(恂子)御禊前駈定延引】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月3日 【斎院(恂子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月5日 【斎院(恂子)御禊出車定】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月7日 【斎院(恂子)御禊点地】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月11日 【斎院(恂子)御禊】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
9月1日 【斎院(恂子)の改名の可否を議論】
『中右記』
(未入力)

『長秋記』
 又仰云、斎院御名恂子也、而恂子二字進書時、其訓ヒトリ云々、可有其憚哉、将斎王御改名例、雖被相尋、無所見云々、此等間事可定申者、下官申云、先以雖申旨<別當雖云々>可被問撰申人、<敦光朝臣、>以彼陳状被問明経道、其上可定申也、
如定件恂子下、作非子候子云々、事若實者、不可及沙汰歟、源相公被申云、大略如下官申、先被問字様知人、可有其沙汰歟、近来明経必不知字様歟、諸卿皆如下官申、権大納言云、公家置明経道、被置書博士音博士、而背彼求字三人被勘、可無其謂歟、納言申旨叶下官愚案、
重仰云、如定申可被尋問、但自院可有沙汰歟、自公家可被尋問歟、又於有難、無其先例可有御改名歟、下官申云、此字様難漸数年、加之無先例者、於今無御改名矣何事候與、召勘文事已為斎王御事、自公家其沙汰候矣何事候與、諸人皆同下官、別當獨被申云、恂子字アナシコナリ、二宮薨給、若宮不成人給、是若依此字不吉歟、難申事是故大外記師遠也、彼雖已没、書尚例存、
関白(藤原忠通)云、以已去難書不可備時議、以彼男等可令申難旨歟、頭辨重仰云、上卿承宣示絛、無指本解可無便宜、只自院有其沙汰被尋問如何、諸卿皆申可然是由、
 此仰尤可然、但被下御名事、諸卿相定於陣被下畢、
 改定時又自公家有其沙汰矣、依可無其難、申此旨也、
長秋記 大治5年
(1130)
11月4日 【相嘗祭】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
11月16日 【藤原宗忠、斎院(恂子)に参上】
(未入力)
長秋記 大治6年
[天承元年]
(1131)
1月19日 【関白忠通大饗。斎院長官(源有賢)出席のこと】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
4月12日 【斎院(恂子)御禊の扇調進のこと】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
4月16日 【斎院(恂子)御禊】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
4月19日 【賀茂祭。鳥羽上皇と待賢門院、斎院(恂子)の行列を観覧】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
4月20日 【斎院(恂子)、野宮に遷御】
(未入力)
公卿補任 天承元年
(1131)
4月 【源有賢、斎院長官を辞任】
『公卿補任』
(保延2年)
非參議 從三位 源有賢<六十七>(中略)
<(前略)大治四四ー齋院長官。同五四三遷但馬守(大夫如元)。天承元四ー辞長官。(後略)>
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月8日 【叙位。斎院(恂子)申文】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
3月11日 【斎院怪異により軒廊御卜】
(未入力)
中右記
知信朝臣記
天承2年
[長承元年]
(1132)
4月8日 【斎院(恂子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
4月9日 【斎院の怪異により、賀茂社に奉幣】
(未入力)
公卿補任 天承2年
[長承元年]
(1132)
4月10日 【源資賢、斎院長官に任命】
(永暦2年)
非參議 從三位 源資賢<四十九>(中略)
<保安四十一十四從五下(禧子内親王給)。同五正廿二丹波守(院分。進納大嘗會間女房四十人装束功)。天承元十二廿四三川守。同日左兵衛權佐(兼)。同二四十齋院長官。長承二正五從五上(佐)。保延二正月廿二重任(三川。兼佐)。同三正五正五下(佐)。同四月十六兼左少將(廿五)。同十二月十六日越中守。同五正五四位(少將勞)。同十月廿六從四上(前齋院(統子?)御給。成勝寺供養)。(後略)>
中右記
知信朝臣記
天承2年
[長承元年]
(1132)
4月21日 【斎院(恂子)御禊】
『中右記』
 斎院(恂子)御禊也、
午後天陰雨下、院有御見物、従三条殿出御、立御車於東洞院西邊御覧云々、入夜之間雨脚殊甚、禊斎上卿新大納言(藤原)実行卿、宰相中将(藤原)宗能、左少弁公行、権少外記中原義収、史斎部孝隣、前駆左衛門佐経雅、右衛門佐季兼、左兵衛佐代下総守盛固、右兵衛佐盛章、右衛門権少尉平時作、検非違使左衛門権少尉源親康、検非違使左兵衛権少尉源行賢、右兵衛権少尉源次清、次第使右馬助源光成、左馬少允宮道式成、長官左兵衛佐参行寺[河守?](源)資賢初任、
今日所之前駆進参不渡大路、大略人々不催歟、甚雨之間、
院御車披此第屋一條門被引入之由、傳聞也、一條道之半休之間甚見苦、且又有巡労也、為後歟、無用事歟、

『知信朝臣記』
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
4月24日 【賀茂祭。藤原忠実、斎院(恂子)の車に随行】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
4月25日 【賀茂祭還立】
(未入力)
長秋記
帝王編年記
天承2年
[長承元年]
(1132)
6月29日 【斎院(恂子)退下】
『長秋記』
 下人云、斎院(恂子)依御悩可下給云々、仍以消息令申女院(待賢門院)又内(源)有賢朝臣、各返事云、極大事也、可奉出本院云々、相次候後[彼?]院姉字堀川公送消息云、只今斎院無術御坐、仍出本院着御長官宿所、依所狭少、人々多不可祇候、只今得迎車可退出者、仍送車、乃退出、相語云、自去十三日隔日發給、此三四日不醒給、自昨日萬死一生成給、今日未時以後、如亡自鼻血流出給、仍新大納言(藤原実行)右衛門督(源雅定)参仕寄御車、奉出長官曹司、其後頗如存時有御語、入夜大僧正参入奉祈云々、又有御卜云、官寮共参云々、

『帝王編年記』
(崇徳院)
 斎院恂子内親王<鳥羽院第二皇女大治二年四月六日卜定二歳 天承二年六月廿九日依病退出>
中右記 長承元年
(1132)
10月7日 【白河阿弥陀供養。一品宮(禧子)・前斎院(恂子)渡御】
(未入力)
中右記
兵範記
長承元年
(1132)
11月22日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)の三条京極亭に御幸
『中右記』
 有童御覽、内(崇徳天皇)御物忌也、(中略)
御覽之後、殿上人參前齋院(恂子)御所三條京極亭、院(鳥羽上皇)俄行幸此御所、是於一所御覽殿上人也、(後略)

『兵範記』
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月25日 【秋除目。前斎院(恂子)申文】
(前略)今日秋除目也、戌時許相具宰相中將、右中辨宗成等、參内、着陣奥座、(中略)
次下給院宮御申文、進寄指笏給之、復本座抜笏、竝置硯筥右邊、院(鳥羽上皇)、待賢門院、皇后宮(藤原泰子)、中宮(藤原聖子)、齋院(禧子)、前〔齋院〕二所(禎子、恂子)、某■■女御、<准后四所有、留懸紙有禮紙、>依仰一々任京官、<禧子申文前齋院<ニ>書之、予難之、殿下(摂政忠通)示給天、前齋院事分貴所也、只可成者、仍任之了、>此中禎子申文、女御基子申文不被成、仍返上、(後略)
長秋記 長承2年
(1133)
4月13日 【前斎院(恂子)読経】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
6月14日 【鳥羽院と待賢門院、前斎院(恂子)御所で田楽見物】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
7月14日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸】
(前略)院(鳥羽上皇)御幸前齋院(恂子)三條御所云々、(後略)
中右記
長秋記
長承2年
(1133)
7月23日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸】
『中右記』
(前略)院(鳥羽上皇)渡御前齋院(恂子)、夕還御上御所云々、

『長秋記』
 上皇(鳥羽)御幸女院、入夜御幸上殿云々、(後略)
長秋記 長承2年
(1133)
9月9日 【源師時、三条京極第で前斎院(恂子)と一品宮(禧子)を見る】
(前略)依女房召、参御簾内、先奉見前齋院(恂子)、端正美麗非所眼及、次奉見一品宮(禧子)、日來有御惱、無術御由、有其聞、御腹張、御足腫、身有温気、御目已暗御也、事躰雖其憑少、忽不可有其恐歟、是又容顔勝齋院給、有慮外事誠爲世遺恨也、(後略)
公卿補任 長承3年
(1134)
1月5日 【恂子内親王御給】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
1月9日 【前斎院(恂子)申文のこと】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
4月30日 【前斎院(恂子)改名のこと】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
6月21日 【前斎院(恂子)、統子に改名】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
8月25日 【前斎院(恂子?)記事】
(未入力)
中右記
長秋記
長承3年
(1134)
9月25日 【前斎院(統子)唐崎禊】
(未入力)
中右記
長秋記
長承3年
(1134)
10月5日 【前斎院(統子)唐崎禊】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
12月5日 【鳥羽上皇と待賢門院、前斎院(統子)・雅仁親王・本仁親王の髪削ぎの祝いに、令子内親王御所二条院へ御幸】
(未入力)
中右記
長秋記
長承4年
[保延元年]
(1135)
1月20日 【前斎院(統子)の三条京極亭、放火で焼亡】
(未入力)
知信朝臣記 長承4年
[保延元年]
(1135)
2月8日 【前斎院(統子?)、豊門前斎院のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
保延元年
(1135)
8月1日 【斎院(統子)、白河殿に渡御】
(未入力)
公卿補任 保延2年
(1136)
1月16日 【統子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 保延2年
(1136)
10月15日 【法金剛院御塔供養、前斎院(統子)御給】
(未入力)
台記 保延2年
(1136)
11月14日 【中宮(聖子)・前斎院(統子?)淵酔】
(未入力)
公卿補任 保延4年
(1138)
1月5日 【統子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 保延5年
(1139)
1月 【前斎院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 保延7年
[永治元年]
(1141)
3月8日 【鳥羽上皇、故源資成第に前斎院(統子)を訪問
(未入力)
近衛天皇
史料 月日 記述
本朝世紀 康治元年
(1142)
10月26日 【近衛天皇、大嘗祭御禊のため賀茂川に行幸。前斎院(統子)、鳥羽法皇と桟敷で観覧】
(未入力)
本朝世紀 康治2年
(1143)
7月11日 【前斎院(統子)、新造三条烏丸第に移徒】
(未入力)
台記
本朝世紀
康治2年
(1143)
9月30日 【前斎院(統子)の三条烏丸第焼亡】
(未入力)
台記 久安元年
(1145)
8月22日 【待賢門院崩御】
台記 久安元年
(1145)
10月11日 【待賢門院法会】
台記 久安2年
(1146)
1月1日 【内大臣藤原頼長、白川前斎院(統子)に拝賀】
 鶏鳴拜天地四方、申刻、參鳥羽安樂壽院、(中略)
參土御門前齋院(禎子)<召入簾中、>白川前齋院(統子)<待賢門院子、>、同姫君(姝子内親王)<皇后(藤原得子)子、>、歸宅、(後略)
公卿補任 久安2年
(1146)
1月5日 【統子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 久安2年
(1146)
5月19日 【統子内親王御給】
(未入力)
台記 久安2年
(1146)
7月30日 【円勝寺において待賢門院法事】
(未入力)
台記 久安2年
(1146)
8月22日 【待賢門院一周忌】
(未入力)
公卿補任 久安2年
(1146)
10月4日 【統子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 久安3年
(1147)
1月5日 【統子内親王御給】
(未入力)
台記
諸院宮御移徒部類記
久安3年
(1147)
3月19日 【前斎院(統子)、東三条洞院殿に渡御】
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
5月16日 【鳥羽院・崇徳院、比叡山に内親王(統子?)の病平癒祈願】
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
8月22日 【待賢門院忌日。崇徳院と前斎院(統子)、宝金剛院へ渡御】
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
9月20日 【前斎院(統子)、鳥羽院、崇徳院らと共に馬場殿で競馬御覧】
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
9月24日 【前斎院(統子)、鳥羽院、崇徳院らと共に馬場殿で競馬御覧】
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
9月26日 【前斎院(統子)、鳥羽院、崇徳院らと共に馬場殿で競馬御覧】
(未入力)
台記 久安4年
(1148)
1月11日 【崇徳院と前斎院(統子)、円勝寺へ渡御】
(未入力)
本朝世紀 久安4年
(1148)
4月19日 【前斎院(統子)、御悩】
(未入力)
台記 久安4年
(1148)
5月5日 【前斎院(統子)、御悩】
(未入力)
本朝世紀 久安5年
(1149)
7月1日 【崇徳上皇、前斎院(統子)御所に御幸】
(未入力)
兵範記 久安5年
(1149)
11月13日 【五節童御覧。公卿ら前斎院(統子)に参上】
(未入力)
兵範記 久安5年
(1149)
11月25日 【鳥羽法皇、稲荷祇園見物。前斎院(統子)渡御】
(未入力)
台記 久安7年
[仁平元年]
(1151)
1月2日 【統子内親王御給?】
(未入力)
公卿補任 久安7年
[仁平元年]
(1151)
1月7日 【統子内親王御給】
(未入力)
台記 仁平元年
(1151)
2月28日 【宰相中将藤原師長、統子内親王家へ慶申】
(未入力)
本朝世紀 仁平元年
(1151)
5月9日 【前斎院(統子)、日吉社に参詣】
(未入力)
本朝世紀 仁平元年
(1151)
5月25日 【前斎院(統子)の三条東洞院殿で火災】
(未入力)
台記 仁平元年
(1151)
9月27日 【統子内親王御給】
(未入力)
兵範記
公卿補任
仁平2年
(1152)
1月3日 【近衛天皇朝覲行幸。前斎院(統子)臨席、御給】
(未入力)
兵範記 仁平2年
(1152)
3月6日 【鳥羽法皇五十算賀により、鳥羽殿に行幸。前斎院(統子)行啓】
(未入力)
兵範記 仁平2年
(1152)
3月7日 【鳥羽法皇五十算賀。前斎院(統子)臨席】
(未入力)
兵範記 仁平2年
(1152)
9月27日 【城南寺祭。前斎院(統子)渡御】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
1月5日 【叙位。前斎院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
9月5日 【鳥羽殿彼岸御念仏結願。鳥羽法皇・崇徳上皇・前斎院(統子)、安楽壽院御所へ渡御】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
9月16日 【新宰相藤原兼長、慶申。両前斎院(禎子・統子)へ参上】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
9月18日 【従二位藤原師長、慶申。東山前斎院(禎子)・白川前斎院(統子)へ参上】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
閏12月27日 【権中納言右中将藤原兼長、慶申。白川前斎院(統子)・東山前斎院(禎子)へ参上】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
3月20日 【鳥羽法皇、父堀河院のために八講を催す。前斎院(統子)行啓】
(未入力)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
6月19日 【鳥羽法皇・崇徳上皇・美福門院・前斎院(統子)、高松殿に渡御】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
6月20日 【前斎院(統子)、故待賢門院のために御筆御八講を高松殿で行う】
(未入力)
台記
兵範記
仁平4年
[久寿元年]
(1154)
6月24日 【高松殿御八講結願】
(未入力)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
6月26日 【鳥羽法皇・美福門院・前斎院(統子)、白河殿に還御】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
8月10日 【鳥羽法皇・崇徳上皇、成菩提院に御幸。前斎院(統子)も行啓】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
8月17日 【前斎院(統子)、東殿に渡御】
(未入力)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
8月17日 【姝子内親王改名】
(未入力)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
8月21日 【右大将藤原兼長、慶申。前斎院(統子)と東山前斎院(禎子)に参上】
(未入力)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
9月29日 【競馬見物。三院、三内親王、二親王参列】
 午始、件右大將參馬場殿、先是、三院(鳥羽院、崇徳院、美福門院)、三内親王(統子、暲子、姝子)、二親王(雅仁、本仁)在之、有五番競馬、(後略)
台記
兵範記
久寿元年
(1154)
11月13日 【権中納言藤原師長、慶申。枇杷前斎院(禎子)、白河前斎院(統子)に参拝】
(未入力)
台記 久寿元年
(1154)
12月30日 【白河前斎院(統子)合爵文】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
1月6日 【叙位。統子内親王御給あり】
(未入力)
台記 久寿2年
(1155)
4月25日 【左大臣藤原頼長、統子内親王に参向】
(未入力)
台記
兵範記
山槐記
ほか
久寿2年
(1155)
7月23日 【近衛天皇崩御】
『台記』
 天子(近衛天皇)崩、年十七、余、并大將(藤原兼長)、中納言(藤原師長)中將(藤原隆長)參内、次余參宿高陽院、鶏鳴後、禪閤(藤原忠実)渡御、<自宇治參鳥羽自鳥羽渡御也、>別記、

『兵範記』
 午刻、(近衛)天皇崩於近衛殿、春秋十七歳、在位十五年、太上法皇(鳥羽院)第ー宮、母美福門院、保延五年五月十八日降誕、同六月蒙親王宣旨、即爲皇嘉門院猶子、同八月九日立爲皇太子、永治元年十二月七日踐祚受禪、(後略)

『山槐記』
 天皇於近衛殿崩御、
後白河天皇
史料 月日 記述
台記
山槐記
兵範記
ほか
久寿2年
(1155)
7月24日 【後白河天皇践祚】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
9月17日 【鳥羽上皇、美福門院、鳥羽皇子女たち除服】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
10月23日 【御即位叙位。禎子内親王御給、統子内親王御給】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
11月5日 【女叙位。統子内親王御給、禎子内親王御給】
(未入力)
兵範記 久寿3年
[保元元年]
(1156)
1月6日 【叙位。統子内親王御給】
(未入力)
兵範記 久寿3年
[保元元年]
(1156)
3月2日 【姝子内親王、白川前斎院(統子)に行啓】
(未入力)
兵範記
ほか
久寿3年
[保元元年]
(1156)
3月5日 【姝子内親王着裳。腰結は養母統子内親王】
(未入力)
兵範記
百錬抄
帝王編年記
ほか
保元元年
(1156)
7月2日 【鳥羽法皇、安楽寿院御所で崩御】
『兵範記』
(前略)今日申剋、(鳥羽)法皇崩御御鳥羽安樂壽院御所、春秋五十四、(中略)
堀川天皇一皇子、(藤原)母女御茨子、康和五年正月降誕、同年六月爲親王、同八月立皇太子、嘉祥二年七月受禪、<五歳、>同十二月即位、天仁元年十一月大嘗會事、<近江、丹波、>天永四年正月上日元服、<十一歳、>保安四年正月讓位於第一親王(崇徳天皇)、(中略)
今日御瞑目之間、新院(崇徳上皇)臨幸、然而自簾外還御云々、渡御々塔之間、又不臨幸、(後略)

『百錬抄』
(未入力)

『帝王編年記』
(鳥羽院天皇)
(前略)保元々年七月二日崩御于鳥羽安樂壽院、<五十四、>聖體奉籠同御塔、遊[遜]位卅四年、
兵範記
保元物語
ほか
保元元年
(1156)
7月9日 【崇徳上皇、白川前斎院(統子)御所に御幸】
『兵範記』
 夜半、上皇(崇徳)自鳥羽田中御所、密々御幸白川前齋院(統子)御所、<齋院去二日渡御鳥羽殿了、>上下成奇、親疎不知云々、

『保元物語』
(未入力)
兵範記
保元元年
(1156)
7月11日 【合戦により、斎院(統子)御所並びに北殿焼失】
(未入力)
兵範記
保元元年
(1156)
閏9月2日 【前斎院(統子)未給合爵】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
6月3日 【鳥羽院法事。美福門院、前斎院(統子)、姫宮渡御】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
6月7日 【女御姝子内親王、前斎院(統子)三条烏丸宮に渡御】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
9月3日 【徳大寺実能(統子の伯父)薨去。前斎院(統子)、服喪により内裏から出御】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
10月8日 【新造内裏落成、後白河天皇遷幸。前斎院(統子)、弘徽殿へ行啓】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
10月27日 【秋除目。臨時内(統子)給】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
11月16日 【五節御前試。公卿ら、前斎院(統子)御方に参上】
(未入力)
兵範記
保元2年
(1157)
11月19日 【五節舞師に禄。中宮・前斎院(統子)から菓子六荷あり】
(未入力)
兵範記
保元3年
(1158)
1月14日 【後白河天皇行幸、前斎院(統子)行啓】
(未入力)
兵範記
帝王編年記
女院記
ほか
保元3年
(1158)
2月3日 【准母統子内親王、皇后に冊立】
『兵範記』
 有立后事、
 大[太]皇太后宮(藤原多子)<元皇太后宮、右大將(徳大寺公能)女、>皇太后宮(藤原呈子)<元皇后宮、左大臣(藤原伊通)女、>皇后宮(統子)<前斎院、>
依催巳剋參、<巡方帶螺鈿釼、不付魚袋、>午剋内大臣(藤原公教)、按察使、<重(藤原重通)、>別當、<經(藤原経宗)、>中納言中將、<基(藤原基房)、>新中納言、<公(藤原公通)、>參議右兵衛督、<光(藤原光頼)、>源宰相、<師(師仲)、>右宰相中將、<實(藤原実長)、>左大辨、<雅(藤原雅教)、>藤宰相、<光(光忠)、>參着仗座、内府召大内記信重、被覽宣命草、次以大内記被内覽之、大内記歸參之後、進弓場殿奏聞、即歸着令清書、重奏聞、返給被歸着仗座、次按察使以下起座、經宣仁敷政宣陽門等、被着外辨座、權右中辨雅頼朝臣下官等同引率、内府着靴被着兀、内侍出居東檻、内辨昇殿、開門召舎人、次下官替參、其儀、起座揖西行、昇承明門壇、自東扉入門、直趨出南庭、立版位南<一許丈、>深揖、起直小揖、此間公卿列立、鴈行被進壇上、内辨宣、<刀禰召、>下官深揖逆行起直、又揖稱唯、左廻出承明門、<尚出東扉、>下南壇下、出幔外、即歸入立壇下北面、<去壇七八尺許、>稱唯又出幔外、此間公卿以下列入門内、次下官退去、次内辨下殿、外辨公卿着標、次内辨召新中納言公通賜宣命、次内辨經庭中着標、次宣命使經庭中着版、宣制兩度[段?]、内辨以下再拝、次宣命使着標、次卿相退出、還着仗座、次内府依召被參殿上、有宮司除目、
 權大夫從三位藤原實定、<兼左近中將、>
 亮正四位下藤原憲方、<兼刑部卿、>
 權亮正四位下藤原信頼、<藏人頭左近中將、>
 大進正五位下平親範、<藏人右少辨、>
 權大進從五位上藤原經房、<兼伊豆守、>
    從五位下藤原爲綱、
 少進從五位下源清雅、
 權少進正六位上源頼朝、
 大屬從五位下伴廣重、
 少屬正六位上安倍資良、<出納一、左衛門志使、>
 權少屬ゝゝゝゝ安倍資弘、
除目了執筆還着仗座、被行清書事、參議左大辨(藤原雅教)執筆、次上卿(傍記<内府、>)進弓場奏聞、即返給還着仗座、召式部省下給除目、<依無武官不召兵部省、>
次内府以下率參皇后宮、<三條烏丸西、>
此間藏人左少辨俊憲出仗座、仰按察大納言(藤原重通)云、日吉明神(傍記<神位記請印、>)眷屬牛巫依御邪氣靈驗奉授敍爵、造位記即可令請印者、上卿召大内記信重仰之、令造進位記、<用黄紙、>上卿進弓場奏聞、直返給、還着仗座、有請印事、先召近衛將監、被仰可出印由、將監出敷政門之間、下官起床子座、相共經宜陽殿東南、行入日華門出盤、參進軒廊、列立儀如常、次上卿召中務輔、權大輔頼盛出宣仁門、於膝突給位記、來軒廊、置筥取位記、展印盤上、下官進寄指笏、請印儀如常、次輔如本納筥返上々卿、下官率印盤退去返納、此間上卿進弓場奏聞、位記留中云々、
次召社司於殿上口、密々給件位記云々、
 正六位上牛巫明神、
  今奉授從五位下、
   保元三年二月二日、
  此外無他状、先例云々、

『帝王編年記』
(後白河院)
 後宮(中略)
皇后●[統]子内親王。<保元々年二月三日「薨三十二」准母儀>

『女院記』
 上西門院 保元三年二月三日皇后宮。<年三十二。准母儀。>

●=綩(糸偏+宛。こちらを参照(字源))
兵範記 保元3年
(1158)
2月9日 【皇后(統子)入内】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
2月21日 【臨時除目
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
4月27日 【鳥羽殿御遊。後白河天皇・皇后宮(統子)の女房たち乗船】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
5月6日 【臨時除目叙位。皇后宮(統子)権大進名前】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
7月3日 【鳥羽院国忌。東宮(守仁)・皇后宮(統子)行啓】
(未入力)
保元三年記 保元3年
(1158)
7月20日 【皇后(統子)、七条朱雀右京大夫藤原信輔の堂に方違行啓】
(未入力)
兵範記
公卿補任
保元3年
(1158)
8月1日 【権中納言藤原実定を皇后宮大夫に、参議藤原信頼を皇后宮権大夫に兼任】
(未入力)
山槐記 保元3年
(1158)
8月5日 【皇后(統子)権大属名前】
(未入力)
山槐記 保元3年
(1158)
8月11日 【後白河天皇譲位、二条天皇即位。皇后(統子)大夫名前】
(未入力)
二条天皇
史料 月日 記述
兵範記 保元3年
(1158)
8月13日 【皇后宮(統子)一品経供養】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
8月15日 【皇后宮(統子)三条烏丸御所のこと】
(未入力)
山槐記 保元3年
(1158)
8月25日 【皇后宮(統子)三条烏丸御所のこと】
(未入力)
保元三年記
山槐記
保元3年
(1158)
9月11日 【後白河上皇と皇后(統子)、鳥羽に御幸・行啓】
(未入力)
山槐記 保元3年
(1158)
9月17日 【皇后(統子)権大夫名前】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
10月16日 【後白河上皇・皇后(統子)・女御(姝子内親王)、宇治小松殿に御幸】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
10月20日 【後白河上皇・皇后(統子)・女御(姝子内親王)、還御。忠通、琵琶・笙を皇后・女御に献上】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
12月8日 【皇后宮(統子)日吉社参詣のこと】
(未入力)
兵範記
北院御室日次記
百錬抄
保元3年
(1158)
12月10日 【皇后(統子)、日吉社に参詣】
(未入力)
兵範記 保元3年
(1158)
12月17日 【叙位。皇后宮(統子)御給】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
1月1日 【皇后(統子)記事】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
1月7日 【皇后(統子)、三条殿へ行啓】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
1月9日 【後白河上皇、皇后(統子)三条御所へ御幸】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
1月18日 【皇后(統子)大進名前】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
1月22日 【関白大饗。皇后(統子)大夫名前】
(未入力)
山槐記
参議成頼卿記
女院記
ほか
保元4年
[平治元年]
(1159)
2月13日 【皇后(統子)の院号を定め、上西門院とする】
『山槐記』
(未入力)

『参議成頼卿記』
(未入力)

『女院記』
 上西門院 平治元年二月十三日上西門院ト申。
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
2月18日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
2月19日 【上西門院(統子)殿上始】
(未入力)
山槐記 保元4年
[平治元年]
(1159)
2月20日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
(未入力)
山槐記
古今著聞集
保元4年
[平治元年]
(1159)
2月25日 【上西門院(統子)、高松殿に御幸】
(未入力)
百錬抄 平治元年
(1159)
12月9日 【平治の乱。後白河上皇と上西門院、一本御書所に軟禁される】
夜。右衛門督信頼卿、前下野守義朝等謀反。放火上皇(後白河上皇)三條烏丸御所。奉移上皇上西門院(統子)於一本御書所。
帝王編年記
女院次第
ほか
永暦元年
(1160)
2月17日 【上西門院(統子)出家】
『帝王編年記』
(二条院)
 前后(中略)
<●子(右傍書)>
上西門院。<鳥羽院皇女母待賢門院 平治元年十二月十三日院号元皇后宮永暦元年「十」二月十七日出家年三十五。>

『女院記』
 上西門院 永暦元年二月十七日爲尼。<年卅五。>

●=侚(人偏+旬。こちらを参照(字源))
山槐記 永暦元年
(1160)
7月1日 【上西門院(統子)、鳥羽に御幸】
(未入力)
公卿補任 永暦元年
(1160)
8月14日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
山槐記 永暦元年
(1160)
8月21日 【上西門院(統子)、五十日御逆修を行う】
(未入力)
兵範記
仙洞御移徒部類記
永暦2年
[応保元年]
(1161)
4月19日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
(未入力)
山槐記 永暦2年
[応保元年]
(1161)
8月3日 【上西門院(統子)、法住寺殿に御幸】
(未入力)
公卿補任 応保2年
(1162)
1月5日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
公卿補任 応保3年
[長寛元年]
(1163)
1月5日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
公卿補任 長寛元年
(1163)
12月20日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
六条天皇
史料 月日 記述
公卿補任 長寛3年
[永万元年]
(1165)
7月25日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 仁安元年
(1166)
10月27日 【大嘗会】
(未入力)
兵範記 仁安元年
(1166)
11月14日 【叙位。上西門院(統子)御給】
(未入力)
兵範記
公卿補任
仁安2年
(1167)
1月5日 【叙位。上西門院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
1月7日 【除目。上西門院(統子)縁故者】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
1月11日 【後白河上皇と上西門院(統子)、円勝寺に御幸】
(未入力)
顕広王記 仁安2年
(1167)
2月13日 【後白河院と上西門院、熊野御精進座に入る】
(未入力)
山槐記 仁安2年
(1167)
2月14日 【太政大臣平清盛、慶申
(未入力)
山槐記
愚昧記
仁安2年
(1167)
2月15日 【上西門院(統子)の中御門烏丸宮、焼亡】
(未入力)
愚昧記 仁安2年
(1167)
7月2日 【鳥羽天皇忌日の法会を鳥羽殿で行う。後白河上皇、上西門院(統子)ほか御幸】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
閏7月2日 【上西門院(統子)御悩】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
10月30日 【一代一度大仁王会定。上西門院(統子)参列】
(未入力)
玉葉
愚昧記
兵範記
ほか
仁安2年
(1167)
12月4日 【上西門院(統子)御懺法結願】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
12月13日 【秋除目。上西門院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 仁安2年
(1167)
12月30日 【叙位。上西門院(統子)御給】
(未入力)
高倉天皇
史料 月日 記述
兵範記 仁安3年
(1168)
1月6日 【叙位。上西門院(統子)年給】

(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
1月8日 【院宮申文。上西門院(統子)】
(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
1月11日 【上西門院(統子)二分代】

(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
1月15日 【叙位。上西門院(統子)年給】

(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
2月28日 【滝口大寄。上西門院(統子)】
(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
3月14日 【女院号先例。上西門院(統子)】
(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
7月2日 【鳥羽院国忌。上西門院(統子)】
(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
9月12日 【上西門院(統子)判官代】
(未入力)
兵範記 仁安3年
(1168)
12月13日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
兵範記 仁安4年
[嘉応元年]
(1169)
1月7日 【叙位。上西門院(統子)未給】
(未入力)
兵範記 仁安4年
[嘉応元年]
(1169)
2月12日 【日吉行啓のこと。上西門院(統子)御使】
(未入力)
御室相承記 仁安4年
[嘉応元年]
(1169)
2月16日 【仁和寺観音院灌頂、上西門院(統子)臨御】
(未入力)
兵範記 嘉応元年
(1169)
4月8日 【灌仏なし。上西門院(統子)】
(未入力)
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月8日 【法皇御逆修結願。上西門院】
(未入力)
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月21日 【斎院候補の検討】
 依召相構参院、為御使参摂政殿(松殿基房)、奏斎院卜定事也、仰云、鳥羽院姫宮(頌子内親王)<徳大寺左大臣(藤原実能)女春日殿腹>、二条院姫宮(僐子)<大博士(中原)師元朝臣女腹>、此両宮問可在卜定、而春日殿姫宮者、鳥羽院御存日有斎王議之時、出家以後令誕生給之宮也、可有卜定憚由令自称給。
至于二条院姫宮者已無憚、当時上西門院(統子)為御猶子、何様可有沙汰哉者、殿下御報云、上皇(鳥羽)御出家後、姫宮依法體子息可有其憚者、春日殿姫宮(頌子内親王)不可及沙汰、但被尋先例、可在御定歟者、帰参奏此旨、次依仰問大外記頼業眞人、無例之由所令申也、又奏院申殿下了
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月4日 【二条院姫宮の卜定内定】
 依召参院、仰云、故二条院姫宮(僐子)<御年十一歳、母大博士中原師元朝臣女、上西門院猶子>可奉卜定斎院由觸示
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月9日 【二条院姫宮の名字を検討】
 早旦参院、奏初斎院事御名字、式部大輔(藤原)永範卿申、彼姫宮(僐子)斎王内議已了、御坐法金剛院御所之絛有憚歟、又女院(上西門院統子)御同宿同前、被申仁和寺女院了、御返事云、女院大治二年卜定之時、白河院御同宿也、可被准據歟、於法金剛院御所者、尤可令避給云々、但康和元年枇杷殿斎院(ヮq内親王)卜定之間、姫宮内議以後、四条宮(太皇太后藤原寛子)入御宇治殿(藤原頼通)御同宿由、見家々記、彼是不同、猶可在時儀歟、神事習以重為先、可御坐各別由、殿下令計申給之由
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月12日 【斎院卜定の雑事を後白河院に奏上】
 参院■[奏?]斎院卜定雑事、次參上上西門院啓同事、
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月21日 【上西門院(統子)より、斎院卜定について仰せあり】
 斎院卜定之間事、自上西門院(統子)令申之絛々被仰下也
兵範記 嘉応元年
(1169)
10月3日 【斎院卜定について、先例(25代禎子)を検討】
 次参姫宮(僐子)謁、皇后宮亮師家曰、申入■[卜?]定間雑事、此宮日来上西門院(統子)同宿、御于法金剛院御所、云御同宿、云仏閣、依旁無便、去月廿八日出御皇后宮(藤原忻子)御所也、彼女院猶留御于仁和寺殿也、先例、康和元年枇杷殿斎院(禎子)卜定之時、四絛宮(太皇太后藤原寛子)同宿、有憚沙汰、太后入御宇治殿(藤原頼通)由、有所見、今度申入其例、有此沙汰也
兵範記
愚昧記
ほか
嘉応元年
(1169)
10月20日 【僐子、内親王宣下並びに斎院卜定】
『兵範記』
 可有斎院卜定事、午剋許参殿下(松殿基房)、先申卜定間次第、次参内、尋行卜定所雑事、出納尚親、小舎人宗時、自今朝参向彼所、請渡御簾畳以下雑物於本宮、侍令鋪設装束也、未剋権大納言(三条)実房、権中納言(藤原)邦綱、(藤原)宗家、左衛門督(滋野井)実国、修理大夫(藤原)成頼卿等参会。(中略)
入夜、斎王自大炊御門亭、行啓卜定所、出御之間、有御反閇事、在憲朝臣奉仕之、上西門院(統子)庇御車<御車副、御牛、同前>、権大納言(徳大寺)公保卿被候御車寄、後即納言、左衛門督(藤原)実国、三位中将(藤原)実家等扈従、前駈十餘輩<皆女院殿上人、衣冠>、出車五両、右中将頼定、実宗、左少将基家、光能、泰通朝臣等獻之、文官衛府侍等、毎車二人副之<各衣冠>、女房廿人、出白衣袖妻等<蘇芳表着濃袴>。(後略)

『愚昧記』
(未入力)
兵範記 嘉応元年
(1169)
10月28日 【一代一度大仁王会定のこと。上西門院(統子)】
(未入力)
玉葉
百錬抄
承安元年
(1171)
10月8日 【上西門院、金剛院内小堂を供養】
『玉葉』
(未入力)

『百錬抄』
 上西門院(統子)供養法金剛院内小堂。太上法皇(後白河法皇)、建春門院御幸。守覚法親王為導師。<巽角傍池畔建立一間四面精舎。安置丈六阿弥陀像。>
玉葉 承安2年
(1172)
4月8日 【灌仏。上西門院(統子)、布施不進のこと】
(未入力)
玉葉 承安2年
(1172)
5月12日 【後白河法皇仁和寺に御幸、上西門院(統子)の病を見舞う】
(未入力)
弁官補任 承安3年
(1173)
1月5日 【上西門院(統子)御給】
(未入力)
玉葉 安元元年
(1175)
12月8日 【京官除目。上西門院御給】
(未入力)
百錬抄 安元2年
(1176)
2月20日 【上西門院の蔵人平盛方・僧宴済等、殺人の嫌疑により使庁に拷訊】
 ◆害為綱者僧宴済召出使応拷問。承伏已畢。
同類上西門院(統子)前蔵人平盛方也。(後略)
玉葉 安元2年
(1176)
3月4日 【中宮(平徳子)行啓。上西門院のこと】
(未入力)
百錬抄 安元2年
(1176)
3月19日 【上西門院の蔵人平盛方、佐渡に流罪】
(未入力)
玉葉 安元2年
(1176)
11月21日 【上西門院不例】
(未入力)
玉葉 治承元年
(1177)
12月17日 【蓮華王院斎会。上西門院参列】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
1月1日 【九条兼実、後白河法皇に拝礼。上西門院同宿】
(未入力)
玉葉
山槐記
治承2年
(1178)
1月2日 【上西門院不例。左近衛大将藤原実定拝賀
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
1月5日 【叙位。上西門院申文】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
1月27日 【除目中日。上西門院御給停のこと】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
1月28日 【除目入眼。上西門院二分代のこと】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
7月8日 【最勝光院八講。上西門院参列】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
10月5日 【上西門院不例】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
11月20日 【中宮平徳子御産九夜。上西門院使】
(未入力)
玉葉 治承2年
(1178)
12月6日 【上西門院御仏名】
(未入力)
公卿補任 治承3年
(1179)
1月2日 【上西門院御給】
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
1月5日 【叙位。上西門院御給】
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
1月17日 【除目。上西門院申文】
(未入力)
山槐記 治承3年
(1179)
1月19日 【除目入眼。上西門院(統子)任給】
(未入力)
百錬抄 治承3年
(1179)
1月26日 【高倉天皇、法住寺殿で呪師を御覧。上西門院(統子)と八条院臨幸】
(未入力)
山槐記 治承3年
(1179)
6月14日 【祇園御霊会
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
7月1日 【上西門院(統子)・八条院、鳥羽に御幸】
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
7月3日 【上西門院(統子)・八条院、鳥羽より還御】
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
9月10日 【法皇(後白河)・上西門院(統子)・八条院・皇太后、四天王寺に御幸】
(未入力)
玉葉 治承3年
(1179)
9月21日 【法皇(後白河)・上西門院(統子)・八条院、四天王寺より還御】
(未入力)
山槐記 治承3年
(1179)
11月1日 【権中納言藤原師家直衣始
(未入力)
安徳天皇
史料 月日 記述
吉記 治承5年
[養和元年]
(1181)
3月1日 【上西門院(統子)、法皇(後白河)御所に渡御】
(未入力)
吉記
百錬抄
治承5年
[養和元年]
(1181)
5月21日 【法金剛院中の上西門院(統子)御所、火災】
(未入力)
公卿補任 治承5年
[養和元年]
(1181)
5月26日 【上西門院御給】
(未入力)
玉葉 寿永元年
(1182)
7月8日 【上西門院(統子)、松殿基房の子家房を猶子とする】
(未入力)
愚昧記
公卿補任
寿永元年
(1182)
7月20日 【松殿家房、上西門院(統子)御所にて元服】
(未入力)
愚昧記 寿永元年
(1182)
7月30日 【三条実房、上西門院に参向】
(未入力)
玉葉 寿永2年
(1183)
1月16日 【上西門院、日吉詣】
(未入力)
玉葉 寿永2年
(1183)
1月23日 【除目聞書のこと。上西門院】
(未入力)
吉記 寿永2年
(1183)
6月2日 【上西門院(統子)不予】
(未入力)
吉記 寿永2年
(1183)
6月22日 【上西門院(統子)不予】
(未入力)
吉記 寿永2年
(1183)
7月18日 【上西門院(統子)、法金剛院御所へ御幸】
(未入力)
安徳天皇・後鳥羽天皇
史料 月日 記述
吉記 寿永2年
(1183)
11月18日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、兵乱を避け双輪寺の辺りに渡御】
(未入力)
吉記 寿永2年
(1183)
11月20日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、五辻御所に渡御】
『吉記』
 上西門院(統子内親王)可有臨幸五辻御所之由、自前斎院(頌子)有其仰、仍逐電参上、申尅、女院、皇后宮(亮子内親王)、前斎院(式子内親王)等、御同車渡御、偏略儀也、宮大夫、<御車寄、>右京大夫光雅朝臣、基宗朝臣等扈従、以御堂御所為御所、予加検知、謁人々之後、晩頭退出、于時別當宮権大夫等参入、
吉記 寿永2年
(1183)
11月26日 【女院(上西門院)と両宮(亮子・式子)、斎院(頌子)の五辻御所に渡御】
 午時許参院、<五條殿、>(中略)
次參五辻宮、今日女院(上西門院)両宮(亮子・式子)令同宿斎院(頌子)御方給、<日来御坐御堂御所、>鋪設雑事御菓子等類、
<「鋪設已下奔筥事、」>
予一向奔營、予遅参之間、先令催参子息令行之、折節如大宮、人以嗟嘆云々、院宮以御輿渡御、予入夜退出、
吉記 寿永2年
(1183)
12月13日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、五辻殿より前参議藤原基家の持明院第に渡御】
(未入力)
玉葉
山槐記
歴代皇紀
寿永3年/
元暦元年
(1184)
8月26日 【上西門院(統子)不予祈祷の勤賞により、僧正昌雲を大僧正に任命】
(未入力)
山槐記 寿永3年/
元暦元年
(1184)
9月17日 【如法仁王会。上西門院(統子)参列】
(未入力)
吉記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
1月3日 【吉田経房、後白河上皇・八条院・前斎院(式子)・上西門院・五辻斎院(頌子)に拝賀】
(前略)午斜先參院(後白河)、八條院前齋院(式子)等御同宿云々、入女房見参、(中略)
次參上西門院、次參五辻斎院(頌子)、次參内、(後略)
吉記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
1月5日 【法皇(後白河)、上西門院(統子)御所に御幸】
(未入力)
玉葉 元暦2年
[文治元年]
(1185)
1月21日 【九条良経、上西門院(統子)に拝賀】
(未入力)
玉葉
ほか
元暦2年
[文治元年]
(1185)
3月24日 【壇ノ浦の合戦。安徳天皇崩御】
(未入力)
後鳥羽天皇
史料 月日 記述
玉葉 元暦2年
[文治元年]
(1185)
6月10日 【除目。入道関白、上西門院知行能登を賜る】
(未入力)
玉葉 文治元年
(1185)
10月3日 【上西門院、大原に籠る】
(未入力)
玉葉 文治2年
(1186)
6月2日 【上西門院御悩】
(未入力)
玉葉 文治2年
(1186)
7月23日 【上西門院記事】
(未入力)
玉葉 文治3年
(1187)
2月9日 【上西門院判官代のこと】
(未入力)
玉葉
仲資王記
文治5年
(1189)
5月22日 【上西門院(統子)不予】
(未入力)
玉葉 文治5年
(1189)
5月29日 【上西門院(統子)不予】
(未入力)
玉葉 文治5年
(1189)
6月14日 【上西門院(統子)不予】
(未入力)
仲資王記
玉葉
百錬抄
皇代暦
女院記
ほか
文治5年
(1189)
7月20日 【上西門院(統子)崩御】
『仲資王記』 (※『大日本史料』による)
(7月20日条)
 上西門院崩御云々、法皇御遭喪云々、今日首忌如常、
(7月21日条)
 上西門院御喪送、<法金剛院邊火喪云々、>大納言實家卿、前中納言基家卿、右大辨重方入道等行事云々、

『玉葉』
(8月6日条)
(前略)「上西門院御事挙哀過礼事、」
今日、以宗頼朝臣奏院云、<付定能卿申之、然而称未承可伝奏之仰、直不申、付女房令申云々、>上西門院御事、挙哀過礼、人感其御志深、凡太上天皇者、同正帝絶傍朞、然而依養母之儀、御着服、又有天養之例、<二条大宮(令子内親王)崩御例、鳥羽院依養母御着服、>不能左右、其上、御遭喪之条、無例之由、天下傾之、其上、閉門戸下格子、已経旬日云々、准天子不事親之儀者、不可過三日、数日被閉門之条、事渉禁忌、加之、諸奏事等、職事成憚不奏聞、適雖参入無伝奏之人、自門外空帰、大略奏事不通了、(後略)

『百錬抄』
 上西門院崩。<春秋六十四。>

『皇代暦』
(後鳥羽天皇)
 前后
上西門院<元尼>
一院(後白河)姉文治五年七月九日崩<六十五>于六条院御所

『女院記』
 上西門院 文治五年七月廿日御事アリ。<年六十四。>
玉葉 文治5年
(1189)
8月24日 【上西門院(統子)穢以後初参院】
(未入力)
仲資王記
吉部秘訓抄
文治5年
(1189)
8月25日 【上西門院(統子)五七忌】
(未入力)
玉葉 文治5年
(1189)
10月10日 【上西門院(統子)遺令のこと】
(未入力)
百錬抄 文治5年
(1189)
11月11日 【上西門院(統子)遺令により廃朝】
 権大納言(藤原)実家参入。奏上西門院(統子)遺令。自今日廃朝三ヶ日。
百錬抄 文治5年
(1189)
11月17日 【後白河法皇、姉上西門院の服喪を終える】
 法皇令除上西門院御服給。
玉葉
建久二年祈雨日記
百錬抄
建久2年
(1191)
6月10日 【京火災。故上西門院御所焼失】
『玉葉』
(未入力)

『建久二年祈雨日記』
(未入力)

『百錬抄』
 未刻。六條萱御所并上西門院終焉御所等焼亡。
明月記 正治2年
(1200)
7月19日 【宣陽門院、仁和寺に御幸。上西門院御遠忌】
(未入力)



史料 記述
十三代要略
鳥羽院
(皇女)
 絢子内親王<母同(中宮璋子)。>
  大治元年八月十七日。爲親王。
  同二年四月六日。爲齋院。
  同日。准三后後改爲胤子。

崇徳院
 大治二年 四月六日。卜定賀茂斎院。<恂子内親王太上天皇(鳥羽院)第二皇女。>先被下准后勅書。
一代要記
鳥羽天皇
(皇女)
 統子 <母待賢門院、/上西門院、>

崇徳天皇
(賀茂)
 恂子内ヽヽ[親王]<上皇二女、母同崇徳院、大治二ー卜定、長承元ー退出、改統子、上西門院、>

二條院天皇
(前后)
 上西門院<■[尼?]前齊宮[院]、恂子、或統子云々、/鳥羽二女、母待賢門院、>

六條院天皇
(前后)
    <統子、>
 上西門院<尼、鳥羽二女、元齊院、次皇后宮、>

高倉院天皇
(前后)
 上西門院<尼、上皇(後白河)同母、鳥羽御女、<元(右傍書)>齊院、次皇后宮、>

安徳天皇
(前后)
 上西門院<尼、統子、本名恂子、鳥羽二女、一院(後白河)同母、/元齊院、皇后宮、>

後鳥羽院天皇
(前后)
 上西門院<統子、尼、文治五ー七月二十日崩、年六十五[四]、法皇(後白河)姉也、>
帝王編年記
鳥羽院
(皇女)
 上西門院●子<母同崇徳院/賀茂齋院>

崇徳院
(齋院)
 恂子内親王<鳥羽院第二皇女大治二年四月六日卜定二歳/天承二年六月廿九日依病退出>

後白河院
(前后)
 皇后●子内親王<保元々年二月三日「薨三十二」准母儀>

二條院
(前后)
 <◆子>
 上西門院<鳥羽院皇女母待賢門院/平治元年十二月十三日院号元皇后宮永暦元年「十」二月十七日出家年三十五>

六條院
(前后)
 上西門院

高倉院
(前后)
 上西門院<鳥羽院皇女母待賢門院/永暦元年出家>

安徳天皇
(前后)
 上西門院

後鳥羽院
(前后)
 上西門院<文治五年七月廿五日崩/御年六十四>

●=綩(糸偏+宛。こちらを参照(字源))
◆=侚(人偏+旬。こちらを参照(字源))
二中歴
(齋院)
 恂子<改統子鳥羽女 大治三年號上西門院>

(女院歴)
 上西門院<統子本名恂子 鳥羽女 母待賢門院平治元年二十三(或保元四)院號永暦元年出家 文治五年七月廿日崩六十四>
皇代暦
崇徳天皇
(齋院)
 恂子内親王 上皇二女大治二年卜定長承元年退出

二條天皇
(前后)
 上西門院 元前齋院鳥羽院女母待賢門院年月日爲皇后宮年月日改皇后宮爲上西門院女恂子也

六條天皇
(前后)
 上西門院 出家

高倉天皇
(前后)
 上西門院 恂子出家鳥羽院女元齋院次皇后宮上皇同母

安徳天皇
(前后)
 上西門院<元尼>

後鳥羽天皇
(前后)
 上西門院<元尼>一院姉文治五年七月九日崩<六十五>于六條院御所
本朝皇胤紹運録
(鳥羽院子)
(403)上西門院[統子。本恂子。永暦元出家。法名眞如理。母同崇徳]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
恂子内親王 大治三年卜定。鳥羽院御女。上西門院。
賀茂斎院記
恂子内親王<恂系譜作詢>
鳥羽院之皇女也。母待賢門院璋子。権大納言公実之女也。
大治三年卜定。
号上西門院。
女院記
<統子>
上西門院 鳥羽院御女。母待賢門院。後白河院准母儀。
<本名恂子>
 大治元年七月廿三日誕生。同年八月十七日内親王。同二年四月六日卜定。齋院。准三宮。保元三年二月三日皇后宮。<年三十二。准母儀。>  平治元年二月十三日上西門院ト申。永暦元年二月十七日爲尼。<年卅五。> 文治五年七月廿日御事アリ。<年六十四。>
女院小伝
上西門院<統子。本名恂子。大治四五改之。>二條准母。鳥羽第二女。母大納言公實卿女。待賢門院。大治元年八十七爲内親王。<年一。勅別當權中納言實行。>同二四六准三宮。同日爲賀茂齋院。同三正廿七著袴。<三。>天承二六廿九退下。<依病也。年七。>保元二八十四入内。<卅二。>同三二三爲皇后宮。<准母義也。年三十三。>同四二十三戊戌院號。。<卅四。>永暦元二十七爲尼。<真如理。卅五。>文治五七廿御事。<六十四。>
今鏡
(3・大内わたり)
 大嘗会など過ぎて、年もかはりぬれば、院の姫宮(姝子内親王)東宮(守仁親王、後の二条天皇)の女御にまゐり給ふ。高松の院と申す御事なり。
 前の斎院(統子)とて、今の上西門院のおはしまししを、(姝子の)御母にしたてまつらせ給ふと承りし。
 母后美福門院おはしませば、別の御母なくてもおはしましぬべけれども、いますこしねんごろなる御心にや侍りけむ。(後略)
今鏡
(6・宮城野)
 この(鳥羽天皇と待賢門院の)宮たち、親の御子におはしませば、ことはりとは申しながら、なべてならぬ御姿なむおはしまする。
 誰もと申しながら、院の御姉におはしますなる女院(統子)こそ、すぐれておはしますさまは、並ぶ御方々かたくおはしますなるに、今の皇后宮(後白河后忻子)にや、いづれにかおはしますらむ、参らせ給へりけるに、人の見くらべ参らせけるこそ、とりどりにいとおかしく見えさせ給ひけれ。
 女院は白き御衣十にあまりて重なりたるに、菊のうつろひたる小袿、白き二重織物(ふたへおりもの)のうはぎたてまつりて、三尺の御几帳のうちに居させ給へりけるに、皇后宮は、うへ赤色にて、したざま黄なる櫨紅葉の、十ばかり重なりたるに、うはぎは同じ色に、やがて濃き葡萄染(えびぞめ)の小袿の、いろいろなる紅葉うち散りたる二重織物たてまつりたりけるを、見参らせたる人の語りけるとなむ。
今鏡
(6・志賀のみそぎ)
 次の姫宮は、また先の斎院とて、恂子の内親王と申しし、のちには統子とあらためさせ給ひたるとぞ聞えさせ給ひしは。大治元年七月二十三日に生れさせ給ひて、八月に親王の宣旨かぶり給ひて、長承元年六月三十日、斎院(いつき)出でさせ給ひて、保元三年二月皇后宮に立たせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永暦二年二月十七日御髪おろさせ給ふと聞えき。后に立たせ給ふと聞えしは、帝(後白河天皇)の御母になぞらへ申させ給ふとぞ聞えさせ給ふ。六条院(郁芳門院)の例にや侍らむ。
 この女院の前の斎院とて、唐崎の御祓へせさせ給ひし時、御をぢの太政の大臣(実行)の詠み給へる、

  昨日までみたらし川にせし禊ぎ志賀の浦波たちぞかへたる

と侍りけるとなむ。秋の事なりけるに、狩衣おのおの、萩、龍胆(りうだん)などいとめづらしきに、逢坂の関うち越えて、山のけしき、湖など、いとおもしろくて、御祓への所は、形(かた)のやうなる仮屋(かりや)に、斎垣(いがき)の朱(あけ)の色、水の緑見えわきて、心あらむ人は、いかなる言の葉もいひとどめまほしきに、大臣の御歌たけたかく、いとやさしくこそ聞え侍りしか。
今鏡
(8・腹々の御子)
 また讃岐の院の皇子は、それも仁和寺の宮(覚性法親王)におはしまする、法印にならせ給へるとぞ聞えさせ給ふ。それも真言よく習はせ給ひて、勤め行はせ給へりとぞ。上西門院御子(猶子)にし申させ給へるとぞ。
愚管抄
(巻第五)
 カヽリケル程ニ平治元年十二月九日夜、三條烏丸ノ内裏、院(後白河)御所ニテアリケルニ、信西子ドモグシテツネニ候ケルヲ押コメテ、皆ウチコロサントシタクシテ、御所ヲマキテ火ヲカケテケリ。サテ中門ニ御車ヲヨセテ、師仲源中納言同心ノ者ニテ、御車ヨセタリケレバ、院ト上西門院ト二所ノセマイラセタリケルニ、信西ガ妻成範ガ母ノ紀ノ二位(藤原朝子)ハセイチイサキ女房ニテアリケルガ、上西門院ノ御ゾノスソニカクレテ御車ニノリケルヲ、サトル人ナカリケリ。上西門院ハ待賢門院ノ一ツ御腹ニテ、母后ノヨシトテ立后モアリケルトカヤ。(中略)

 夜ニ入テ惟方ハ院ノ御書所ニ参リテ。小男ニテ有ケルガ直衣ニククリアゲテ。フト参テソソヤギ申テ出ニケリ。車ハ又ソノ御料ニモマウケタリケレバ。院ノ御方ノ事ハサタスル人モナク。見アヤム人モナカリケレバ。覚束ナカラズ。内ノ御方ニハコノ尹明候ナレタル者ニテ。ムシロヲ二枚マウケテ。莚道ニ南殿ノ廻廊ニ敷テ。一枚ヲ歩マセ給フ程ニゾ一枚ヲシキシキシテ。内侍ニハ伊与内侍。少輔内侍ノ二人ゾ心得タリケル。コレヲ為先シルシノ御筥宝劔トヲバ御車ニイレテケリ。支度ノ如クニテ焼亡ノ間。サリゲナシニテヤリ出シテケリ。サテ火消テ後。信頼ハ焼亡ハ別事候ハズト申サセ給ヘト。蔵人シテ伊与内侍ニ云ケレバ。サ申候ヌトテ。コノ内侍ドモハ小袖バカリキテカミワキトリテ出ニケリ。尹明ハシヅカニ長櫃ヲ設ケテ。玄象。鈴鹿。御笛ノハコ。ダイトケイノカラ櫃。日ノ御座ノ御太刀。殿上ノ御倚子ナドサタシ入テ。追ザマニ六波羅ヘ参レリケレバ。武士ドモヲサヘテ。弓長刀サシチガヘサシチガヘシテカタメタルニ。誰カ参ラセ給ゾト云ケレバ。タカク進士蔵人尹明ガ御物持セテ参テ候ナリト申サセ給ヘト申タリケレバ。ヤガテ申テトク入レヨトテ参リニケリ。ホノボノトスル程也ケリ。ヤガテ院ノ御幸。上西門院。美福門院御幸ドモナリ合セ給テ有ケリ。大殿(藤原忠通)。関白(近衛基実)相具シテ参ラレタリケリ。

 主上ノ母后建禮門院ヲバ海ヨリトリアゲテ。トカクシテイケ奉リテケリ。神璽内侍所ハ同キ四月廿五日ニカヘリイラセ給ニケリ。寶劔ハ海ニシヅミヌ。其シルシノ御ハコハウキテ有ケルヲ。武者トリテ尹明ガムスメノ内侍ニテ有ケルニ見セナンドシタリケリ。内侍所ハ大納言時忠トテ二位ガセウト有リキ。具シテアル者ドモノ中ニ。時信子ニテ仕ヘシ者ニテ。サトシキ事ノミシテ。タビタビ流サレナンドシタリシ者取テ持タリケリ。コレ皆トリ具シテ京ヘ上リニケリ。二宮(守貞親王)モトラレサセ給テ上西門院(統子)ニ養ハレテゾヲハシケル。

(巻第六)
 同(建久)三年三月十三日ニ法皇ハ崩御アル。前ノ年ヨリ御病アリテ少シヨロシクナラセ給ナドキコヘナガラ。大腹水●ト云御悩ニテ。御閇眼ノ前日マデ御足ナドハスクミナガラ。長日護摩御退転ナクヲコナハセヲハシマシケリ。御イミノ間ノ御仏事ナドハ近比ハキカズ。アマリナル迄ニゾ聞ヘケル。大方コノ法皇ハ男ニテヲハシマシシ時モ。袈裟奉リテ護摩ナドサヘ行ハセ給テ。御出家ノ後ハイヨイヨ御行ニテノミ有ケリ。法華経ノ部数ナド。数萬部ノ内ニ百部ナドニモヲヨビケリ。ツネハ舞猿楽ヲコノミセサセツツゾ御覧ジケル。御イモウトノ上西門院モ持経者ニテ。イマスコシハヤクヨマセ給ケレバ。ツネハ読アイマイラセンナド仰ラレケリ。

●=痟(やまいだれ+肖。こちらを参照(字源))
千載和歌集
  • (雑歌)上西門院賀茂の斎院(いつき)と申けるを、替らせ給て唐崎に祓へし給ける御供にて、女房のもとにつかはしける
          八条前太政大臣(藤原実行)
(972)きのふまでみたらし川にせし禊志賀の浦浪立ちぞかはれる

作者は統子の伯父(母待賢門院璋子の兄)
山家集
  • (春)上西門院の女房法勝寺の花見侍りけるに、雨の降りて暮れにければ帰られにけり。またの日、兵衛の局の許へ、花のみゆき思ひ出でさせ給ふらんとおぼえて、かくなん申さまほしかりしとて、遣はしける
(101)見る人に花も昔を思ひいでて恋ひしかるべし雨にしをるる

  返し
(102)いにしへをしのぶる雨と誰か見ん花もその世の友しなければ
   若き人々ばかりなん。老いにける身は風のわづらわしさにいとはるることにて、とありける、やさしく聞えけり。

  • (雑)十月中(なか)の頃、宝金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはします由聞きて、待賢門院の御時思ひ出でられて、兵衛殿の局にさし置かせける
(797)紅葉見て君がためとや時雨(しぐ)るらん昔の秋の色をしたひて

  返し
(798)色深き梢を見ても時雨(しぐ)れつつふりにしことをかけぬ日ぞなき

  • (雑)遠く修行することありけるに、菩提院の前(さき)の斎宮(※)にまゐりたりけるに、人々別れの歌仕うまつりけるに
(1142)さりともとなほ逢ふことをたのむかな死出の山路を越えぬ別れは
  • (雑)同じ折、坪の桜の散りけるを見て、かくなんおぼえ侍ると申しける
(1143)この春は君に別れの惜しきかな花のゆくへを思ひ忘れて
  • (雑)かへしせよと承りて、檜扇に書きてさし出でける
          女房六角の局
(1144)君が往なん形見にすべき桜さへ名残りあらせず風誘ふなり

菩提院(仁和寺)の前斎宮は統子(上西門院)のことで「斎宮」は誤りとされるが、宇津木言行氏は殷富門院亮子内親王であろうとする(「西行伝再考:「菩提院斎宮」と初度四国の旅」2008)。また五味文彦氏は、西行と縁の深い頌子内親王(33代斎院)との繋がりから、伏見斎宮守子内親王の可能性が高いとする(『西行と清盛』新潮選書, 2011)。
林下集
(徳大寺実定)
  • 上西門院仁和寺におはしますころ、まゐりて花みなんどして、いまはあをばのをりになんまゐるべきと申したりしに、兵衛局のもとより
(49)あかざりし花よりも猶わすられずあをばをまてといひしひとこと
 (飽かざりし花よりも猶忘られず青葉を待てと言ひし一言)

  返歌
(50)くやしくも花よりのちとたのめおきてたづねぬなをもちらしつるかな
 (悔しくも花より後と頼めおきて訪ねぬ名をも散らしつるかな)

  • 上西門院仁和寺におはしますころ、兵衛がもとへ山ちかきすみかは郭公はひとりさきにやきかせ給ぬらんと、申しおくりたる返事に
(64)あけがたにはつねはききつほととぎすまつとしもなきおいのねざめに
 (明け方に初音は聞きつほととぎす待つ年もなき老いの寝覚めに)

  返歌
(65)まつとしもなきにききけるほととぎすひとりねどこになぞおともせぬ
 (待つ年もなきに聞きけるほととぎす一人寝どこになぞ音もせぬ)

  • 上西門院にまゐりて人人歌よみ侍りしに、松をだいにて
(307)人しれずたのむみぎはのそなれまつまつことあれやあはれかけなむ
 (人知れず頼む水際のそなれ松待つことあれや憐れかけなむ)

  かくてつぎのひ、女房兵衛殿のもとより
(308)むかしよりたのむみぎはのまつなればなみもあはれをかくとしらずや
 (昔より頼む水際の松なれば波も憐れをかくと知らずや)

  返し
(309)なみだにもあはれをかけばきしちかきまつにはなさくよにもあひなむ
 (涙にも憐れをかけば岸近き松に花咲く世にも逢ひなむ)

  又       兵衛
(310)なみかけてたのむかひあるきしちかみ花さくまつはちよぞさかえん
 (波かけて頼む甲斐ある岸近み花咲く松は千代ぞ栄えん)

  • 兵衛、上西門院女房達ともなひて法勝寺の花をなんみたりしと申されたりし返事に、申しおくりし
(325)いにしへのみゆきのあとをたづぬればはなときみこそかたみなりけれ
 (古の行幸の後を尋ぬれば花と君こそかたみなりけれ)

  返事      兵衛
(326)君のみぞみぬ世の花をしのびつつふりぬるみをもかたみとはいふ
 (君のみぞ見ぬ世の花を忍びつつふりぬる身をもかたみとは言ふ)

  又、申しおくりし
(327)こころあらばあはれとおもへさくらばなひとりながむるやどのけしきを
 (心あらば憐れと思へ桜花一人ながむる宿の景色を)

  返事
(328)はなならぬ我もあはれはしりぬべしかれにしえだをおもひやりつつ
 (花ならぬ我も憐れは知りぬべし枯れにし枝を思ひやりつつ)

  兵衛、又申したりし
(329)などか君かぜのつてにもとはざらんまちしこずゑのはなさきぬやと
 (などか君風のつてにも問はざらん待ちし梢の花咲きぬやと)

  返事
(330)はなをこそまたでちらさめ君にあはでわぶとはつげよ心あひのかぜ
 (花をこそ待たで散らさめ君に逢はで詫ぶとは告げよ心あひの風)

  又あれより
(331)あはれとはおもひおこせよこころあひのかぜもつたはぬみちになるとも
 (憐れとは思ひ起こせよ心あひの風もつたはぬ道になるとも)
寂然法師集
  • 上西門院の女房、法勝寺へ花見にまかるとききて、京へいでたるけるついでに、したしき女房のもとへ遣しける
(81)花みにときくにこころのたぐふかなすがたはこけにやつれはつれど
 (花見にと聞くに心のたぐふかな姿は虚仮に窶れ果つれど)
実家集
  • 上西門院女房、はなみむとていざなひてのち、あめ日かずふりて、とまるよしありしかへりごとに
(30)けふもなほふるはるさめをいとふとてはなみぬひとやなたてなるべき
 (今日もなほ降る春雨を厭ふとて花見ぬ人や名立てなるべき)

  かへりごと   兵衛
(31)あまぐものはれまをまつといひちらせはなゆゑたたむなをばをしまじ
 (雨雲の晴れ間を待つと言ひ散らせ花故立たむ名をば惜しまじ)

  • はなみ(花見)にまかりいでたりしほどに、上西門院女房もしらかは(白河)にゆきてたづねけるに、いでぬるよしいひければ
          兵衛
(39)さそへどもきみもこずゑの花みにとひとりぞまどふはるのひぐらし
 (誘へども君も梢の花見にと一人ぞ惑ふ春の日暮らし)

  つぎの日かへりて、申しつかはしはべりし
(40)さそふともけふぞききつるおなじくはひとつこずゑのはなをたづねて
 (誘ふとも今日ぞ聞きつる同じくは一つ梢の花を訪ねて)

        <四位中将にてありし時の事なり>
  • はなのころ、上西門院みやしろにこもらせたまひたる御ともにて、あらしのけはしきあしたに、京へいへのはなぼつかなきよし申して
(41)しめのうちのまつのあらしにおどろきぬやどにさくらはいかがなりぬる
 (標の内の松の嵐に驚きぬ宿に桜はいかがなりぬる)

  • ゆふべに山のはなをたづぬといふ事を、人人、上西門院にてよみはべりしに
(52)みやまべのはなをみすててはしはとるしづぞわが身にいでかはりぬる
 (深山辺の花を見捨ててはしは取る倭ぞ我が身に出で変はりぬる)
  • おなじ院(上西門院)にて、のこりの花客をとどむといふことを、人人よみしに
(53)はがくれにひとえだのこるはなみては心もちらぬものにぞありける
 (葉隠れに一枝残る花見ては心も散らぬものにぞありける)

  おなじだい、いださぬうた(同じ題、出ださぬ歌)
(54)ちらぬまのはなみしよりもたちうきはしづえにのこるこかげなりけり
 (散らぬ間の花見しyりもたち憂きはしずえに残る木陰なりけり)
(55)なほもやと心ぞはなをたづねけるこのひとえだにわれはとまれど
 (猶もやと心ぞ花を訪ねけるこの一枝に我はとまれど)

  • はしのうへの月といふことを、上西門院にて人人よみ侍りしに
(138)をちこちの人ぞかよはぬすみわたる月にとだえのはしなかりけり
 (をちこちの人ぞ通はぬ澄み渡る月に途絶えの橋なかりけり)

  • 上西門院、ほうぢゅうじどの(法住寺殿)におはしますに、九月十三日夜月いとあかきよ、人人まゐりてうたよみしに
(140)あまのがはあすもみるべき月なれどなにながるるはただこよひのみ
 (天の川明日も見るべき月なれど何流るるはただ今宵のみ)

  • こひはみやづかへのさまたげといふことを、上西門院にて、人人よみ侍りしに
(273)からくににきみにしられしくつのおともいもがりゆかぬよはぞならひし
 (からくにに君に知られし沓の音もいもがりゆかぬ夜半ぞならひし)

  • 上西門院に、しらかはの院の御時、ふるき人人のよみたるくわいのありしを、申したまはりて、ひさしくまゐらせざりしかば、兵衛どののもとより
(309)ちりはてむはなこそあらめふりにけることのはをさへをしむきみかな
 (散り果てむ花こそあらめふりにける言の葉をさえ惜しむ君かな)

  返し
(310)ちるはなはまたもさきなむふりにけることのはのみぞめかれせられぬ
 (散る花はまたも咲きなむふりにける言の葉のみぞ目離れせられぬ)

  • おなじころ(※)、女院(上西門院)にはじ(仁和寺)におはしますにまゐりて、みだう(御堂)のかたのはなをみて、兵衛どののもとへ
    (315)の詞書に「たかくらの院のかくれさせ給ひて、よの中いろなるとし」とある
(317)すみぞめにはなもやさくとみるとしもやどからちよのはるぞかわらぬ
 (墨染に花もや咲くと見る年も宿から千代の春ぞ変わらぬ)

  かへし
(318)やどからはちよへむすゑのはるごとににほはんはなはきみぞかざさん
 (宿からは千代へむすゑの春ごとに匂はん花は君ぞかざさん)

  • 九月つごもりごろに、仁わじ(仁和寺)に女院(上西門院)おはしますほど、二三日候ひてあそびなどして、まかりいでたるに
          兵ゑどのの
(327)ひたぶるにあかぬなごりをこふるまにすぎゆく秋ををしみやはする
 (ひたぶるに飽かぬ名残を恋ふる間に過ぎゆく秋を惜しみやはする)

  かへし
(328)きみがためなれぬるこころおもふにも秋をばいかがをしまざるべき
 (君がため馴れぬる心思ふにも秋をばいかが惜しまざるべき)
  • おなじ院(上西門院)に、かむだちめ(上達部)などあまたまゐりてあそびしに、あしがらといふうたをあながちにすすめられしかば、おろおろうたひて、まかりいでたりしあしたに、兵衛どののもとより
(329)いつよりもこころとまりしあしがらのせきはいかでかまたもこゆべき
 (いつよりも心とまりし足柄の関はいかでかまたも越ゆべき)

  かへし
(330)あしがらのこえやりがたきせきなれどゆるさばまたもおもひたちなむ
 (足柄の声やりがたき関なれど許さばまたも思ひ立ちなむ)


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