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24代斎院 令子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
れいし よしこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:中宮藤原賢子(贈皇太后)
  (1057-1084)
承暦2年(1078)5月18日 天養元年(1144)4月21日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
堀河(1086〜1107,同母弟) 卜定:寛治3年(1089)6月28日
   (近衛萬利小路
    前越前守源高實宅)
初斎院:寛治4年(1090)4月9日
   (大膳職)
本院:寛治5年(1091)4月15日
退下:承徳3年(1099)6月20日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
善子(1077-1132,異母姉)
 [六角斎宮]
 父:白河天皇
 母:女御藤原道子
卜定:寛治元年(1087)2月11日
   (加賀守藤原家道
    三条烏丸宅)
初斎院:寛治元年(1087)9月21日
   (左近衛府)
野宮:寛治2年(1088)9月13日
群行:寛治3年(1089)9月15日
   (長奉送使:藤原公実)
退下:嘉承2年(1107)7月19日
天皇崩御

略歴:
 承暦2年(1078)(1歳)5月18日、誕生。
 承暦3年(1079)(2歳)4月26日、内親王宣下。
 応徳元年(1084)(7歳)9月22日、母藤原賢子崩御。


11月14日、准三宮。
 応徳3年(1086)(9歳)11月23日、父白河天皇譲位、弟堀河天皇践祚。


12月19日、堀河天皇即位。
 寛治3年(1089)(12歳)6月28日、弟堀河天皇の斎院に卜定。
 寛治4年(1090)(13歳)4月9日、初斎院(大膳職)に入る。
 寛治5年(1091)(14歳)4月15日、紫野本院に入る。
 康和元年(1099)(22歳)6月20日、病により退下。


以後、中納言源国信(叔父)の五条坊門東洞院家に滞在。
 康和4年(1102)(25歳)11月17日、宮中に入り、弘徽殿を御所とする。
 嘉祥元年(1106)(29歳)3月2日、二条堀河亭に移徙。
 嘉祥2年(1107)(30歳)7月19日、堀河天皇崩御、甥鳥羽天皇践祚。


10月12日、甥鳥羽天皇(5歳)の准母となる。


12月1日、皇后宮に冊立。
 大治4年(1129)(52歳)7月7日、父白河法皇崩御。


7月26日、出家。
 長承3年(1134)(57歳)3月19日、太皇太后。
 天養元年(1144)(67歳)4月21日、崩御。


4月29日、岩陰に葬られる。

号:二条大宮、二条太皇太后
鳥羽天皇准母、皇后宮
同母兄弟:敦文親王(1074-1077)
     媞子(ていし)内親王(1076-1096,郁芳門院)
      ※「てい」=女偏+是。字はこちらを参照(字源)。
     堀河天皇(1079-1107)
     禎子内親王(1081-1156,25代斎院)

斎院勅別当:源国信[叔父](寛治4年(1090)4月9日以前〜同5年(1091)4月以前)
斎院長官:源国信[叔父](寛治5年(1091)4月同7年(1093)2月22日
     藤原忠教(寛治7年(1093)4月承徳元年(1097)4月
     藤原惟信承徳元年(1097)4月14日以前〜同2年(1098)2月9日以降)

白河天皇第三皇女。
 母藤原賢子は源顕房女で、後三条天皇の再従兄妹。関白藤原師実養女となり入内した。
 (※父方の祖母尊子が、後三条天皇の祖母上東門院彰子・三条天皇中宮妍子の異母妹。なお養父師実と実父顕房は従兄弟)
 斎院長官源国信は、母賢子の異母弟。また同藤原忠教は関白師実の子で、母賢子・祖父後三条天皇の再従兄弟にあたる。

      藤原道長
       |
 ┌───┬─┴────────┬──────────┬────┐
 |   |          |          |    |
 頼宗  彰子===一条天皇  妍子===三条天皇  尊子   頼通
 |      |          |       |    |
 |      |          |       |    |
 能長   後朱雀天皇========禎子     源顕房   師実
 |            |            |    |
 |            |        ┌───┤    |
 |            |        |   |    |
 |          後三条天皇      |  源国信   忠教
 |            |        |  [長官]   [長官]
 |            |        |
 道子==========白河天皇=====藤原賢子
       |           |  (師実養女) 
       |    ┌────┬─┴──┬────┐
       |    |    |    |    |
       善子   堀河天皇  媞子  ◆令子   禎子
      (斎宮)       [郁芳門院]

 令子内親王が誕生した時、白河天皇は長男敦文親王を前年に大流行した疱瘡(天然痘)で亡くしたばかりであり、東宮実仁親王(白河天皇の異母弟)の次の世継ぎとなるべき皇子がいなかった。そのため再びの男子誕生が期待されていたが、女子であったことで周囲は落胆したという『栄花物語』(39・布引の滝)。この翌年、善仁親王(堀河天皇)が誕生した)
 誕生時より斎院卜定まで、令子内親王は摂政(関白)師実邸にて養祖母源麗子(師実室)に養育されていたとみられる(所京子「斎院令子内親王関係の和歌集成」)

 ところで『後二条師通記』(応徳3年(1086)3月25日条)によれば、堀川殿において「姫宮」の御着袴があり、『大日本古記録』はこの皇女を令子としている。ただこの時令子は数え9歳であり、着袴の年齢としては遅すぎる。また前日24日条には「殿下(関白藤原師実)四条宮不參之由御指也」とあるので、太皇太后藤原寛子の猶子となって四条宮に引き取られていた同母妹禎子(数え6歳)のことかと思われる。
 なお白河天皇の子女で着袴年齢がわかっている例では、令子より1歳上の異母姉善子内親王が承暦5年(1081)、また1歳下の同母弟善仁親王(堀河天皇)が永保3年(1083)にそれぞれ数え5歳で行っている(長男敦文親王は疱瘡のため4歳で薨去しており、恐らく着袴前であろう)。この頃は現存史料が少なく確かなことは言えないが、当時白河帝の唯一の男子であった善仁親王はともかく、寵愛篤いとは言えない女御藤原道子所生の善子内親王の着袴が5歳であったのに、中宮所生でしかも関白夫妻が後見する令子内親王の着袴がそれより4年も遅いというのは考えにくい(なお長姉媞子内親王は『栄花物語』(39・布引の滝)によれば承暦2年(1078)4月に着袴したとあり、当時3歳だった。媞子は同年8月伊勢斎宮に卜定されており、このため他のきょうだいより早められたものか)。よって令子内親王も、恐らく数え5〜6歳の永保元年(1081)〜同2年(1082)頃には着袴を済ませていた可能性が高いと推測される(※詳細は25代禎子内親王の【応徳3年の姫宮着袴と堀川殿】にあり。また平安時代の皇子女の着袴年齢については、小論「延長二年の着裳記事」を参照のこと)

 令子12歳の寛治3年(1089)、23代斎院斉子女王が母瑠璃女御(小一条院妾)の死により4月12日に退下、その2か月後に令子内親王が新たな賀茂斎院に卜定された。以後10年に渡る在任期間において、斎院御禊や賀茂祭以外で知られる令子の消息は少ないが、藤原師通が新年の拝賀や慶申等で令子の下に参向したことが日記『後二条師通記』から知られ、藤原宗忠も日記『中右記』に歌合の記録を残している。
 なお『師通記』承徳3年(1099)3月17日条4月3日条には、斎院での蹴鞠の記録がある。また『行宗集』詞書にも「まりのこと」にまつわる回想が記され、さらに斎院退下後も『殿暦』『中右記』等から、令子内親王御所で蹴鞠が行われたことが知られ、また『古今著聞集』にも白河斎院(令子?)での師通と蹴鞠の逸話がある。平安時代の蹴鞠の記録は圧倒的に春が多く、令子の場合も大抵2月から3月にかけてで、主に桜の季節に花見に合わせて楽しまれたものらしい(『遊庭秘鈔』でも「正月公事忩々。二月猶寒し。三月上旬たるべしといへり。(中略)春はをそくはじめて遅く蹴はつべし。夏はとく初めてとくはつべし」とあり、屋外の遊戯であるから気候の快適な春から初夏が好まれたのだろう)。もっともこれ以前にも皇妃や皇女の蹴鞠見物の記事は散見されるが、これほど長期に渡り特定の女性について複数の記録が残る例は珍しく、あるいは令子本人が特に蹴鞠見物を好んだのかもしれない。ことに10代の多感な時期の大半を賀茂斎院として過ごし、賀茂祭以外では外出など思うに任せぬ不自由な身の上であったろう令子にとって、『源氏物語』さながらの華やかな蹴鞠見物は、同母姉の媞子内親王(郁芳門院)が田楽を好んだように数少ない楽しみでもあっただろうか。

 ところでその媞子は、斎宮を退下し都に帰還して以降、父白河院に溺愛されて行動を共にすることが多かった。『今鏡』では「院(白河上皇)いづれをも(媞子、令子、禎子のどの娘も)おろかならず見たてまつらせたまふ」とは言いながら、「(斎院に)定まらせたまひなば、御対面も難かるべければ」とあるように、当時令子とはやはり現任の斎院という身分柄、父娘の対面も容易ではなかったらしい。少なくとも現存史料に限って言えば、寛治7年(1093)に花見御幸の一環で斎院御所に立ち寄った一回以外、白河院と斎院令子の対面の記録は見られない。一方で斎院令子の後見には養父母師実夫妻が摂関家を挙げて力を入れており、令子の在任中は斎院御神楽が特に盛んであったという指摘もある(野瀬惠子「令子内親王家の文芸活動」、中本真人「院政期の斎院御神楽と賀茂斎王」)。幼児期に両親と縁薄いまま成長した令子には、師実夫妻は実の親以上の頼もしい後見であったろう。
 その後中宮からさらに女院郁芳門院となった媞子は、令子が斎院を下りるのを待たずに永長元年(1096)21歳の若さで死去、父白河院は悲嘆のあまり出家を遂げた。しかし早くから別々の生活を送っていた令子や禎子にとっては、同母とはいえ馴染みの薄かった長姉との永別はそれほどの悲しみもなかったのか(あるいは白河院の悲嘆が激しすぎたためか)、『今鏡』には妹たちの感慨は何も語られていない。その3年後、斎院令子内親王は病により22歳で任を退いた。

 斎院退下後の令子は、始めは主に叔父の中納言源国信の五条坊門東洞院邸(左京五条三坊十五町)に滞在。後見であった師実の没後は弟堀河天皇と行動を共にすることが多く、年も近い二人は仲の良い姉弟であったようで、宮中での令子は主に弘徽殿を曹司としており、今上同母姉として重んじられている。嘉承元年(1106)里第の二条堀河邸が完成した後は、堀河院と里第を行き来していた他、しばしば方違えの記録も見られる。
 また令子のサロンにはすぐれた歌人である女房が多く仕えており、『今鏡』にも令子の御所が奥ゆかしい有様であったことが語られている(7・有栖川)。塚谷多貴子氏によれば、「令子歌壇の活動期は金葉集期に完全に一致している」(「皇后宮令子歌壇論」)とのことであり、その家風は「(立后後は)堀河院後宮の揺曳に加えて時の皇后宮の重々しさが備わっていたものであろう」とされるが、当の令子自身はそれほど歌を詠まなかったようで、本人の詠歌は伝わっていない。

 堀河天皇の没後は、白河院の命で生母を早くに亡くした甥鳥羽天皇の准母となり、皇后宮に立后した。しかし大治4年(1129)絶大な権力をふるった父白河院がついに崩御、その死を悼んだ令子は52歳で出家した。以後は仏事に専念する余生を送ったらしく、令子後宮歌壇の活動も殆ど知られない。さらに長承3年(1134)57歳で太皇太后となるが、晩年の消息は少なく、天養元年(1144)67歳でその生涯を終えた。
 なお幼年で即位した鳥羽天皇は誕生直後に生母と死別しており、叔母にして准母となった令子内親王を慕ったと言われる。令子が没した時には既に鳥羽の長男崇徳天皇も譲位し近衛天皇の御代であったが、葬送に際しても鳥羽上皇は実の父母と同等の礼を尽くし、葬礼には数百名が参列した(『台記』4月26日条同29日条。葬送場所の岩陰は、現在の京都市北区衣笠鏡石町付近)
 墓所は上醍醐陵(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山。醍醐寺女人堂から登山約60〜80分)




上醍醐陵・令子内親王墓所(2022年9月16日撮影)
母藤原賢子(白河天皇中宮)、姉郁芳門院媞子内親王、29代斎院禧子内親王も合葬。


 皇后→皇太后→太皇太后の順に寄らず、皇后からいきなり太皇太后となったのは、令子内親王が最初である。

参考論文:
・塚谷多貴子「皇后宮令子の歌壇――金葉集期の女房歌壇――」
 (『国語国文研究(北海道大学)』(52), p24-35, 1974)
・朧谷寿「王宮人の遊び――王朝期の蹴鞠――」
 (『同志社女子大学学術研究年報』38(4), p329-350, 1987)
・所京子「斎院令子内親王関係の和歌集成」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』(15), p86-74, 1989)
 [機関リポジトリ全文あり]
・高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動―院政前期の内親王とその周辺―」
 (『総合研究大学院大学学術情報リポジトリ』(日本文学研究専攻), 2008)
 [機関リポジトリ全文あり]
・中本真人「院政期の斎院御神楽と賀茂斎王」
 (『アジア遊学』(174), p211-224, 2014)
 ※『内侍所御神楽と歌謡』(p71-83, 武蔵野書院, 2020)改題収録

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録85.白河天皇 巻5』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※令子内親王については56〜79コマにあり





【媞子・令子姉妹と准母立后について】
 天皇の准母として立后した初例は、令子の同母姉・郁芳門院媞子内親王である。
 父白河院鍾愛の内親王だった媞子は、同母弟堀河天皇の養母格の「中宮」として、前例がないとする周囲の反対を押し切り立后された。しかしその後媞子は21歳の若さで病のため早世。悲しみのあまり出家した白河院は強引に媞子を立后させたことを後悔し、大神宮に謝罪したという(『中右記』嘉承2年11月26日条)
 その後、令子が甥にあたる鳥羽天皇の准母として立后するか否かについても反対があったが、「前斎院」では即位する天皇の輿に同乗はできないなどの反論もあり、結局令子の宣命は姉・媞子と同じ「中宮」ではなく「皇后宮」に決定した。これがいわゆる「尊称皇后」の始めである。
 以後、不婚内親王が天皇准母として立后する際には、令子の例に倣って必ず「皇后宮」とされる決まりとなった。橋本義彦氏はその根拠について、「太皇太后まで転上し、六十七年の生涯を平穏裡に終えた令子内親王の事例が、最吉の佳例として後世の規模とされたためであろう」(「中宮の意義と沿革」)としている(歴代尊称皇后については、用語集・考察を参照)

参考論文:
・橋本義彦「中宮の意義と沿革」
 (『平安貴族社会の研究』p117-150, 吉川弘文館, 1976)
・鈴木英雄「天皇養母考 白河院政の成立をめぐって」
 (『中世日本の諸相(上巻)』p437-455, 吉川弘文館, 1989)
・栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」
 (『日本史研究』465, p1-24, 2001)
 ※『中世王家の成立と院政』(p75-112, 吉川弘文館, 2012)収録





【令子内親王の名前のこと】
「令子」の訓読みについては『兵範記』嘉応元年(1169)9月24日条にて、新斎院選出にあたり命名を討議した際に藤原経宗が「僐字、釈に云う、善なりと云々、善子斎宮と令子斎院は、その訓が共に僐と同じ」と述べており、「よしこ」である可能性が高い(なおこの討議の結果、「僐」の字が採用されて32代僐子内親王が新斎院に決定した)。ただし善子斎宮と令子斎院は共に白河天皇皇女であり、異母姉妹の二人がどちらも同訓の「よしこ」であったかはやや疑問が残る(ちなみに善子・令子の弟である堀河天皇の諱は「善仁(たるひと)」とされており(『平安時代史事典』)、善子斎宮も「たるこ」であった可能性が考えられる)

参考リンク:
・「よしこさんがいっぱい」(斎宮歴史博物館)
 ※『兵範記』読み下し文は、斎宮歴史博物館の上記記事を参照した。





【令子内親王と今様】
 令子内親王の同母姉媞子は田楽を好んだことで知られ、同母弟の堀河天皇も音楽好きであったが、令子内親王もまた今様との接点が多いことが、沖本幸子氏により指摘されている(「今様の場をつくった人々」)
 特に令子の場合、斎院在任中だけでなく退下後も御所で淵酔が数多く行われた記録がある。淵酔は主に宮中で行われた酒宴で、朗詠や今様、歌舞が楽しまれたといい、宮廷行事の中でも砕けた無礼講なものだった。令子の斎院時代には神楽も多かったことから見て、令子自身もそうした賑やかな宴や芸能を好んだらしい。斎院は神に仕えるという性質上、紫野本院にあっても清浄に身を慎む生活を送っていたというイメージが強く、『今鏡』に語られる退下後らしき令子御所の様子も貴婦人らしい優雅な佇まいが強調されているが、令子は関白夫妻の養女ということもあり、斎院御所では無聊を慰めるための華やかな催しも多く行われていたようである。
なお、沖本氏は淵酔の一例として『中右記』(寛治5年(1091)11月19日条)の記事を挙げており、この時の淵酔を「野宮での潔斎中」としているが、この場合の「野宮」は伊勢斎宮で言う卜定2年目の潔斎のための野宮ではなく、既に潔斎を終えて入った紫野本院を指す。無論、本院は神に仕える斎王の住まいとして初斎院や野宮以上に厳しい清浄さを守るべき御所であり、相嘗祭の神楽等はあっても、本来は淵酔のような無礼講の宴とは無縁であったと思われる。

 ところで『今鏡』(10・敷島の打聞)には、次のような逸話が紹介されている。
 いづれのいつきのみやとか、人の参りて、今様うたひなどせられけるに、末つ方に、四句の神歌うたふとて、
  植木をせしやうは 鴬住ませむとにもあらず
と歌はれければ、心とき人など聞きて、「憚りあることなどや出で来む」と思ひけるほどに、
  くつくつかうなが並め据えて 染紙よませむとなりけり
とぞ歌はれたりけるが、いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども、えつる道になりぬれば、かくぞ侍りける。この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが、さらば理(ことわり)なるべし。
 従来この「刑部卿」は平忠盛(1096-1153)、侍従大納言は藤原成通(1097-1162)とされ、「いつきのみや」については白河皇女の斎宮恂子内親王や斎院官子内親王等諸説ある(宇津木言行「四句神歌享受の一態」)。一方で沖本氏は今様の名手であった藤原敦兼(1079-?)を刑部卿、斎宮は同時代に斎院であった令子内親王ではないかと推測している。
 しかし、ただ「いつきのみや」と言えば、通常はまず「斎の宮」即ち伊勢斎宮を指す。『今鏡』の他の箇所では賀茂斎院はすべて「斎院」や「賀茂の斎院(いつき)」等の用語で呼ばれており、この「いつきのみや」だけが例外的に賀茂斎院を指すものとは断定できない。
 また問題の逸話は斎宮で仏教関連の言葉を憚ることから、「法師」→「かうなが(髪長)」、「経」→「染紙」と斎宮忌詞に置き換えた機転を称賛したものとされる。しかし『延喜式』が定める斎院忌詞は「凡忌詞、死称直、病称息、泣称鹽垂、血称汗、完称菌、打称撫、墓称壌」となっており、仏教用語は含まれていない点が斎宮忌詞と大きく異なる(宇津木説・沖本説はこの点を指摘していない)。時代は『延喜式』成立から200年あまり後のことだが、当時も『延喜式』の通りであったとすれば、そもそも仏教用語を禁忌とする規定のない斎院御所(紫野本院)ではこうした逸話自体が生まれなかったはずである。
 斎宮は言うまでもなく卜定から群行までの2年あまりを除けば殆どは伊勢にいるもので、斎宮の交代も白河院の存命中は媞子(1078〜1084)、善子(1087〜1107)、恂子(1108〜1123)、守子(1123〜1141)と任期の長い斎宮が続いており、従って当時の都においては斎宮忌詞も滅多に意識されることはなかったであろう。一方で大内裏からほど近い紫野の斎院御所は公卿らもしばしば出入りしており、また斎院在任中は賀茂祭に伴う斎王御禊も毎年行われていたから、忌詞の決まりについてはむしろ斎宮よりも馴染んでいたはずで、斎宮忌詞と斎院忌詞を誤った可能性は低いのではないか。なお『紫明抄』『河海抄』が同様の逸話に触れており、そちらは「成通卿斎院に参りて」(『紫明抄』)としているが、この両書は斎院制度が既に廃絶した後に成立したものである。一方『今鏡』は平安末期成立とされ、現実に賀茂斎院が存在していた時代の作なのはほぼ確実であることから見ても、やはりこの「いつきのみや」は伊勢斎宮であったと思われる。

 ともあれ、忌詞にこだわるところから見てもこの「斎宮」が「前斎宮」ではなく、当時現任の斎王であったのは確かであろう。そして忠盛は言うまでもなく「伊勢平氏」の出であった。ただし伊勢平氏の祖となった維衡(伊勢守)はともかく、その玄孫である忠盛の頃には伊勢よりも伊賀を基盤としていたようだが(飯田悠紀子「伊勢平氏の領主的性格」)、伊賀は伊勢の隣国であり、忠盛の子清盛の家人にも伊勢の武士たちがいたことから見て、伊勢においても先祖伝来の影響力を有していたのは確からしい。その縁から伊勢の斎宮御所に親しく出入りした可能性も高く、そうした中でこの逸話の出来事があったとするのは、ごく自然なことと思われる。
 ただし「いとその人歌詠みなどには聞えざりけれども」という点は、歌人としても名を遺す忠盛には当てはまらず不審であるとする指摘もある(※竹鼻績『今鏡全訳注』(1984)。なお忠盛は仁平3年(1153)没、『今鏡』は嘉応2年(1170)頃成立とされる)。これについては、宇津木説では「この逸話が『金葉集』成立以前の成通、忠盛ともまだ歌人として名声を確立していない若年時のこと」であったかとしている(忠盛の刑部卿任官は仁平元年(1151)であり、その2年後に死没した彼の最終官位だったので、刑部卿=忠盛ならば『今鏡』の執筆時期と上記逸話にはかなりの時差があったことになる)。竹鼻氏は逸話の前半が伝承、後半が『今鏡』作者またはその同時代の説を付会したものとするが、むしろ『今鏡』の頃には既に歌人として知られていた忠盛(?)の往時の逸話を敢えて無名の人物として語り、最後にその名を明かすことで聞き手を驚かせ、なるほど若い頃からその歌才の片鱗を見せていたのかと得心させるのが作者の狙いであったのかもしれない。
 ところでここで今一つ可能性として考えられるのは、「斎宮」の御所は必ずしも伊勢とは限らず、問題の逸話は下向前の宮中初斎院や野宮での潔斎中の出来事だったのではないか、ということである(※宇津木説や沖本説も、明記はないもののこちらを想定していると思われる)。そして「刑部卿」が沖本説の藤原敦兼だとすれば、年齢的に見て斎宮善子内親王(1087卜定、1089群行)でも早すぎるため、上限は斎宮恂子内親王(1108卜定、1110群行)ということになろうが、いずれにしても断定はしがたい。

 とはいえ、従来「刑部卿」が平忠盛とされてきたのは彼が伊勢と深い結びつきを持つ人物とされ、従って伊勢斎宮にまつわる逸話があっても不思議ではないと思われたことが大きな理由であろう。今一人の候補として侍従大納言(成通)も挙げられるが、成通ではなく忠盛の名が先に挙げられたのも、同様に伊勢に繋がりの強かった忠盛の立場故と思われる。
 なお問題の斎宮が「いづれのいつきのみやとか」とされたのは、内容から見て個人を特定することに不都合があったようには思われないので、伝承が時代を経るうちにどの斎宮であったか忘れられてしまったため、伝聞した作者も本当に知らなかったのであろう(ただしこれは、既に述べたように逸話の主役を特定する手がかりを敢えて伏せたのかもしれないが、斎宮の名は最後まで明かされないので、やはり作者も知らなかった可能性が高いと考える)。それは「この事刑部卿とか人の語られ侍りしに、侍従大納言と申す人も侍りしが」とする点も同様で、言い換えれば『今鏡』のこの文章が書かれたのは問題の出来事から長い時間を経て人々の記憶も曖昧になっていた頃であった証明とも考えられる。だとすれば、既に故人となっていた忠盛の当時の官職も恐らく作者は知る由もなく、従って忠盛の家集が別名『故刑部卿集』『故刑部卿詠』とも呼ばれたように『今鏡』においてもよく知られた最終官位で記されたのであろう。

参考論文:
・宇津木言行「四句神歌享受の一態――『今鏡』所載説話から――」
 (『文化女子大学室蘭短期大学研究紀要』(19), p1-9, 1996)
・沖本幸子「今様の場をつくった人々――白河院皇女と今様」
 (『国語と国文学』81(4), p30-42, 2004)
 ※『今様の時代――変容する宮廷芸能』p43-60, 東京大学出版会, 2006)収録
・飯田悠紀子「伊勢平氏の領主的性格」
 (『学習院史学』(3), p65-87, 1966)[機関リポジトリ全文あり]





白河天皇
史料 月日 記述
扶桑略記 承暦2年
(1078)
5月18日 【皇女令子誕生】
 中宮(賢子)誕生皇女(令子)
水左記
為房卿記
ほか
承暦3年
(1079)
4月26日 【皇女令子内親王宣下、家司を補す】
『水左記』
 今日中宮(賢子)可入内給也、定令參給歟、又可有内親王宣旨事次第等可令尋具者也、答申承之由、戌刻着束帯參中宮、今夜入内給之故也、先之人々參入、々給之後下官着陣座、頃之頭辨(藤原)實政朝臣來仰云、皇女令子宜爲内親王者、<書御名二字於檀紙一枚所下也、>下官奉之、即下同辨了、是左大辨不參之間所下也、依爲同大辨也、相次又同辨來仰云、以左大將藤原朝臣(師通)可爲令子内親王別當者、即仰藏人辨伊家了、

『為房卿記』(※『天皇皇族実録』による)
(前略)又以今上女三宮(令子)可爲内親王之由、被下宣旨、<全[令?]子、>被下勅別當宣旨、<左大將(藤原師通)、>又被補家司、<道良、基綱、>
職事<公家等也、左大將被書下之、>
為房卿記 承暦3年
(1079)
7月27日 【中宮賢子入御。姫宮(令子)同行】
(※『天皇皇族実録』による)
 今夕中宮入御、<二宮(善仁親王)同以入御、御車乘御、一車殿北政所(源麗子)、又姫宮(令子内親王)同車入御、>

当時の白河天皇皇女三人のうち、長女の媞子内親王は承暦2年(1078)斎宮に卜定されており、既に宮中初斎院(大膳職)に入っていた。また次女の善子内親王は女御藤原道子所生だが、この「姫宮」は同月9日に善仁親王を出産したばかりの中宮賢子の宮中入りに同行しており、さらに師実室麗子と同車であることから見て、三女令子内親王であろう。
水左記 承暦4年
(1080)
1月26日 【令子内親王預授給】
 早旦着直衣參關白(藤原師実)御直盧、(中略)
申一點歸宿所、着束帶欲向陣之間、頭辨(藤原実政)來仰云、善仁親王令子内親王預巡給別巡給、即於陣仰大外記定俊、先之外記章貞持來闕官帳一巻、除目事具在別、
帥記 承暦4年
(1080)
5月27日 【姫宮(令子)不例】
(前略)此間中宮(賢子)御方寄御車、仍源中納言(資綱)相共渡南庭參向、新中納言、<(藤原)宗俊、>宰相中將、<(源)師忠、>右衛門督、<(源)俊明、>左兵衛督、<(源)家賢、直衣、>殿上人等參會、是依姫宮(令子内親王)不沙[例?]坐出御東三條云々、寄御車於東廊北面出御、<源中納言■扈從、次返北參陣、同予出門下■參、人々參後御堂、>外記參小庭云、民部卿(藤原俊家)者今■■■■■立參入、罷出之後亂心地、已相違、不能參候者、皇太后宮大夫(藤原祐家)、源中納言被申可被參由、治部卿(藤原経季)者所■[勞?]猶難堪、不被參、東宮大夫(藤原能長)被奏此由、仰云、可令定申者、然間皇太后宮大夫、源中納言被參、又扈從姫宮御共、罷■■宰相中將別當參入、
水左記 承暦4年
(1080)
閏8月14日 【姫宮(令子)入内のこと】
(前略)今日事右相府所被奉行也、依前例、同日被定之云々、此間新中納言、右衛門督、宰相中將、兩兵衛督等參博陸(関白藤原師実)、依姫宮(令子)可入内給也、良久姫宮入給、上達部扈從、殿上人爲前駈、頃之人々着陣、(後略)
為房卿記 永保元年
(1081)
8月10日 【女二宮(令子)参内、姫宮(禎子内親王)四条宮へ移徙】
(裏書)
 女二宮(令子内親王?)自堀川殿入御中宮(藤原賢子)<北政所(源麗子)同事。>、次子尅新姫宮(禎子内親王)渡御四条宮<同御堀川殿、>依可被奉養育也。
後二条師通記 永保3年
(1083)
7月3日 【関白師実、御前(源麗子)・姫宮(令子)と大炊殿へ渡御】
(朱)「殿下(関白藤原師実)大炊殿御渡儀」(右頭書)
 天晴、殿下渡戌剋許、其間先御車御前(師実室源麗子)、次殿下・姫宮(令子内親王)乘了、大炊下間門中砌下給、陰陽師
(朱)「兩府引出物儀」(右傍書)
如常御車●、左大臣(源俊房)・右大臣(源顕房)率物馬、退出了、(後略)
後二条師通記 永保3年
(1083)
7月14日 【姫宮(令子)、師実室源麗子と内裏から退出】
(7月11日条)
 天晴、御前(関白藤原師実室源麗子)内入給者也、
(7月14日条)
(1)天晴、(源麗子)自内出給者也、姫宮(令子内親王)同車乘了、
(2)姫宮自内出給、御同車、
後二条師通記 応徳元年
(1084)
9月10日 【宮(令子?)、七条へ渡御】
『後二条師通記』
(1)<宮(令子?)・殿下(関白師実)・御前(源麗子)、>(右傍書)
 天晴、春宮[大夫脱]七条令渡給、
(2)<(朱)殿下(関白師実)・大宮・北政所(源麗子)、依天王寺詣渡給東宮大夫七条宅>(右傍書)
 晴、殿下・大盤所等渡御七條亭、件家春宮大夫(藤原実季)家也、

『大日本古記録』は(2)「大宮」の「大」を衍字とするが、『師通記』の他の記事では令子は「姫宮」と表記されることが多い。また「宮」は天王寺参詣に際して法華経を供養しており、この時の「(大)宮」は太皇太后寛子か?
後二条師通記
扶桑略記
栄花物語
ほか
応徳元年
(1084)
9月22日 【母中宮賢子崩御】
『後二条師通記』
 中宮(賢子)極重煩給、於三條殿已以薨給、萬參人泣涕難止、

『扶桑略記』
 中宮源賢子三條内裡崩。于時年二十八歳。主上(白河天皇)悲泣。數日不召御膳。

『栄花物語』(40紫野)
(前略)御遊びなどあるべきを、中宮(賢子)例ならずおはしますといふ事ありて、華やかなるはとまりぬ。(中略)
宮の御心地重くおはしますとて、十七日に急ぎ帰らせ給ひぬ。いと重くおはしましけり。日を経て重くならせ給ひて、九月廿二日うせさせ給ひぬ。(後略)
十三代要略 応徳元年
(1084)
11月14日 【令子内親王を准三宮とする】
(白河院)
 皇女(中略)
  令子内親王<母同媞子。>
   承暦三年四月廿六日。爲内親王。
   応徳元年十一月十四日。准三宮。
後二条師通記 応徳2年
(1085)
1月2日 【藤原師通、太皇太后宮(寛子)に拝礼】
(朱)「參所牛丸(忠実)相具」(右頭書)
 天晴、如例先殿下(藤原師実)參、牛丸同車、太皇太后宮(藤原寛子)參入、二姫宮(令子内親王)・上(源麗子)伴、(後略)
後二条師通記 応徳2年
(1085)
1月3日 【藤原師通、太皇太后宮(寛子)に参候】
(1)(朱)「參所〃」(右頭書)
 天晴、如例先殿下(藤原師実)參、次太皇太后宮(藤原寛子)參、二姫(令子内親王)、次三条院内參、(後略)
(2)(朱)「參殿上方退出」(右頭書)
 晴、參殿(藤原師実)、參四[條脱]宮(藤原寛子)、參内、(後略)
後二条師通記 応徳3年
(1086)
1月1日 【藤原師通、姫宮(令子)らに拝礼】
(裏書)
元日二条裝束畢、大炊殿參、拝候、事畢左大臣(源俊房)以左衞門(源師忠)案申外可始之日候、關白殿(藤原師実)左大臣・内大臣師通二人卒[率]宮御方(媞子内親王)參、戸下置二内大臣無圓、殿立畢、左大臣暫留後參堀河殿、太皇太后宮(藤原寛子)・殿參、姫宮(令子内親王)・上(源麗子)、頃畢[脱アルカ?]、
公卿補任 応徳3年
(1086)
1月7日 【令子内親王御給】
(未入力)
堀河天皇
史料 月日 記述
為房卿記 寛治元年
(1087)
8月20日 【令子内親王家及び摂政家政所所充】
(※『大日本史料』による)
 自去夜候殿、依御物忌也、早旦奏文書等、次爲御使參院、今朝被補前齋宮(媞子)家司●事等、(中略)
次參殿政所、有所充、依爲侍中不著之、次有姫宮(令子)所充、參著、深更歸。

●=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源))
為房卿記 寛治元年
(1087)
8月26日 【令子、高階為家第に移徙】
(※『大日本史料』による)
(中略)今夜姫宮(令子)并殿下(摂政藤原師実)渡御(高階)爲家朝臣三條宅、<去二十一日始令宿彼宅給、>
中右記 寛治元年
(1087)
10月27日 【姫宮(令子)、鳥羽殿に移徙】
 ■[院](白河上皇)・齋宮(媞子)・姫宮(令子)遷御御鳥羽殿、
中右記 寛治元年
(1087)
10月30日 【姫宮(令子)、鳥羽殿から帰還】
 院(白河上皇)・齋宮(媞子)・姫宮(令子)遷御、有臨時祭定、
後二条師通記 寛治2年
(1088)
1月18日 【姫宮(令子)、院に入る】
 天晴、院參、姫宮(令子)入給院(白河上皇御所大炊殿)云々、(後略)
中右記 寛治2年
(1088)
1月19日 【堀河天皇、大炊殿へ朝覲行幸】
 初有行幸院大炊殿、(中略)
次勸賞、(中略)從四位上 源高實姫宮<姫宮(令子)職事、>(後略)
後二条師通記 寛治2年
(1088)
4月7日 【宮(令子?)、宇治に渡御】
(前略)宮(令子?)令度宇治殿給也、

『大日本史料』『大日本古記録』は「宮」を令子とするが、この場合は太皇太后寛子か?(他に令子が宇治を訪れた記事は、康和2年(1100)2月15日に師実夫妻と同行した1回しかない)
中右記 寛治2年
(1088)
11月11日 【春日祭使藤原忠実出立。前駈に斎宮(媞子)・姫宮(令子)より摺袴下賜】
 雨下、午後天晴、今日春日祭使立、中將殿(藤原忠実)於東三條<東對、>令出立給、(中略)
 前駈諸大夫廿五人、<四位六人・五位十五人・六位四人、>(中略)
 從齋宮(媞子)并姫宮(令子)被獻摺袴、<紅打重袴、綾羅綿[錦]繍、美麗過差也、不給舞人、還立之日又給近友・敦季也、>
公卿補任 寛治3年
(1089)
1月5日 【令子内親王御給】
(未入力)
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月5日 【姫宮(令子)、六条殿へ渡御】
 天晴、姫宮(令子)令渡六条殿給事也、
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月15日 【斎院卜定のこと】
(裏書)
 申剋許殿(藤原師実)令渡給之、斎院卜斎[定?]事被仰云々
後二条師通記 寛治3年
(1089)
6月25日 【姫宮(令子)、六条殿に渡御】
 姫宮(令子)令渡六条殿給事也
後二条師通記
中右記
ほか
寛治3年
(1089)
6月27日 【令子内親王、賀茂斎院卜定】
『後二条師通記』
(朱)「斎院卜定」(右頭書)
 姫宮(令子)御駈束帯也、摂政殿(藤原師実)宿御裝束也、御駈束帯、上達部上臈源大納言<師忠>、左衛門督(藤原)家忠、人[ゝ脱?]可入尋欤

『中右記』
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治3年
(1089)
6月28日 【斎院卜定儀】
『後二条師通記』
 裏書、
(朱)「斎院卜定儀」(右頭書)
  勅使四位少將(源)國實[信]申家道
入中門候南面、先是疊一枚上有加茵、着座、女裝束取、左衛門督給勅使之、有筥、
入筥、付頭弁奏聞、<座乍居、>還來即下弁、今案者猶開推合可付宣旨事●、其次仰座敷由、召外記、小庭候、召神祇官、五位三人、六位二人、次三人被立●、三人不可着云々、着座了、召外記召硯筥、即奉之、本筥置左、硯筥置右、外記猶座有、紙二枚重巻入筥、取紙一枚書二字云々、畢一枚表巻整了下、外記給之、以小刀封了、外記起、其之次下筥、次惟季稱唯進給之、左大臣(源俊房)密事被仰、承給了着座、惟季封解、左大臣不解、如本被封、猶可先例尋●、卜畢進之置前、召外記下筥給、了候小庭、左大臣起了、經神祇官座前云々、付御所奏聞、經座前事可尋云々、候座神祇官還陣、外記更入、今案猶着膝突、隨氣力可還、乍持退出、了被候座、召神祇官上臈、告其由云々、撤座了左大臣・右大臣(源顕房)・内大臣(藤原師通)以下引參院云々、
先直衣參院云々、 殿御前乗御車(見せ消ち)立賢木之間、人々立座云々、
<殿御前(源麗子)乗御車、暫門外云々、>(右傍書)
先神祇官給禄、入中門三拜了、<暫門外云々、>(見せ消ち)了還御云々、兩社<先下社司給禄、立拜、上社司如前之、>

『中右記』
 令子内親王爲齋院由被卜定、

『賀茂斎院記』
 令子内親王
白河院第八之皇女也。母中宮賢子。太政大臣師実之女也。<実右大臣顕房女。>
寛治二年卜定。(後略)

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
後二条師通記 寛治3年
(1089)
7月20日 【賀茂斎院奉幣】
(朱)「齋院奉幣」(右頭書)
 天晴、午剋大雨降、暫晴、申剋有雲雨下、發雷聲、酉剋■[許]晴了、賀茂齋院(令子)奉幣也、可尋云々、
後二条師通記 寛治3年
(1089)
8月17日 【斎院前駈のこと】
 齋院(令子)、次渡御三条殿云々、
後二条師通記 寛治3年
(1089)
10月9日 【師実、斎院(令子)へ参候】
 天晴、殿參御齋院(令子)前駈事被行之、右衞[門脱カ]督(源家賢?)云々、
中右記 寛治3年
(1089)
11月13日 【斎院(令子)相嘗祭】
 貫首以下參集、如形淵酔、已及三獻、無童御覽并中院行幸、
今夕斎宮[院?]相嘗云々、去一日依日蝕延引也、
後二条師通記 寛治4年
(1090)
1月2日 【師通、斎院(令子)に拝礼】
 雨降、殿下(関白藤原師実)臨時客如常、(中略)
次參内、次參院、參齋院(令子)云々、
後二条師通記 寛治4年
(1090)
4月1日 【斎院(令子)幣被立】
 斎院(令子)幣被立云々
中右記 寛治4年
(1090)
4月8日 【御灌仏停止】
 御灌佛、依斎院(令子)禊前之日止之、有先例也、(後略)
中右記
後二条師通記
寛治4年
(1090)
4月9日 【斎院(令子)御禊、初斎院入り】
『中右記』
 斎王(令子)初度御禊也、禊東河、入御大膳職也、御所近衛万利小路前越前守(源)高實朝臣宅也、其道自近衛御門大路、經洞院東大路并二條、便以二條末爲御禊所也、午時攝政殿下(藤原師実)<著御衣冠、御檳榔、>・左大臣(源俊房)<衣冠、>・内大臣(藤原師通)<束帶、今日始出仕、先被著陣也、>・治部卿(源)俊明<今日上卿、>・左衛門督<(藤原)家忠、>・左兵衛督<(源)俊實、>・左大辨<(大江)匡房、>・三位侍從<(藤原)能實、已上束帶、>及殿上人數輩參會、未時自(白河)上皇被奉御扇一雙、<以右少將(藤原)顕實朝臣爲御使、>頃而自内被奉女房扇廿枚・童女扇四枚、<置柳筥三枚、小舎人着衣冠捧之、>以藏人右少將(藤原)俊忠爲勅使、<暫徘徊中門邊、>以勅別當左少將(源)國信朝臣召勅使、<先敷座於諸卿座上、高麗端(見せ消ち)畳一枚、其上加茵、院職司諸大夫二人役之、>勅使執扇筥參着、<扇筥置御簾前、>其外二筥殿上五位二人<(源)成宗・(藤原)通輔、>執之置御簾下、左兵衛督取禄<女装束一具、>給勅使、〃退坐、於南庭二拜歸參、申一點、勅使宰相右大弁(藤原)通俊以下、前駈者皆參會、<件座儲西廊、須皆參着此座、有盃酌事也、仍皆在便所云々、>仍寄御車於南階、<先是女房(見せ消ち)乘出車、立南庭東頭也、>斎王乘御了、
攝政殿下以下<左大臣同車、>相引到二條大路富小路御[見脱?]物、雲客飛花軒次第扈從、攝政北政所(源麗子)御車立其西方、<檳榔毛、前駈十人、布袴、>先是上皇有御見物、二條東洞院辻也、庇御車、<御車副八人、>北面立之、其西立輕幄、爲前駈上卿并侍臣座、前駈諸卿、權中納言<宗、>(藤原宗俊)・右衛門督<(源)家賢、>・皇后宮權大夫<(藤原)公實、>・參議左中將、<(藤原)保實、已上直衣、>藏人・判官代已上殿上人卅人許、<衣冠、>御隨身將曹・府生・番長、<冠狩衣裝束、>舎人、<布衣、>左兵衛少將尉平爲俊、<布衣、帶狩胡●、在御車之後、>先神寶、宮主、左右京職、<左右相分、>前駈、<左兵衛尉大江兼則、佐代相模守(高階)經敏・左兵衛尉<某、>・佐代侍從藤實隆・右衛門尉藤親實・佐藤基信・左衛門尉藤成實<藏人、>・佐源盛長、>參議右大弁、勅別當左少將(源)國信朝臣、藏人所雜色二人・同衆四人、<着白重、下襲今日二藍也、往年雜色四人・同衆二人也、可尋之、>馬助源邦家、次第使、同允(紀)久俊、<行列使、>御車、次典侍、<(藤原)師子、糸毛、以下無前駈并私出車、>齋院女別當、<同、>宣旨、<糸毛歟、>次出車五兩、<女房廿人、裝束躑躅重云々、蘇芳衣、<五、>紅染打衣、蘇芳織物唐衣、青單衣歟、>童女車一兩、
攝政殿下以下追參川原御所、有御禊、國信朝臣陪膳、家司通輔・俊忠役供、御禊了給社司禄、次供御膳、事了入御大膳職、了於此所給前駈禄、已上官行事所沙汰也、
 御河原之間、右少將(源)顯雅朝臣爲院御使參來、被申不審之由、(見せ消ち)國信朝臣取禄、<女裝束、>則歸參了、行事弁右中弁(源)師頼也、今日前駈人々無取物也、先例皆取物如何、今日内(堀河天皇)御物忌也、仍雜色・所衆不御覽也、

『後二条師通記』
(4月10日条)※9日裏書?
(朱)「御禊十日▲、將十一日▲、可被尋」(右頭書)
裏書、參齋院、内勅使令持女房扇、立庭、以(源)國實[信]朝臣上達部座上<方>居示、女房告其由、藏人少將(藤原)俊忠挿笏■[持]御扇、有疊一枚上茵云々、着之、國實■■裝束、頃之下座再拜了、 寄御車、立御中門外程、攝政殿(藤原師実)・左大臣(源俊房)同車、内大臣(藤原師通)・左衛門督(藤原家忠)同車、次爲見物云々、
川原次第、御車寄■有平帳、中御車無輪居之、秡此間御手洗間南也、女房一車、女房下云々、院有御使、(源)顯雅朝臣、有被物云々、祓行[間]也、殿下拜承了、
攝政殿不居飯汁物、内〃也、(右傍書)
■殿御裝束宿裝束也、左大臣同之云々、院御見物也、二条南被立御車之、有平帳[張]花足也、東大路東也、左大弁記可被相尋云々、

●=籙(竹冠+禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▲=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
後二条師通記
中右記
寛治4年
(1090)
4月14日 【賀茂祭】
『後二条師通記』
(朱)「祭儀」(右頭書)
 天晴、祭事如■[常]、使爲左[少脱?](源)師隆、●人南方(播磨)信貞取之、不依府次第、依院(白河上皇)御隨身如此、爲作法也、 事始以前、外記許只今事告遣其由、外記列見不候、命(見せ消ち)婦車無之、仍車三位侍從(藤原能実)許被申、殿下(摂政藤原師実)仰事、早可獻上之、頭弁(藤原季仲)俊忠(見せ消ち)[懈怠]由、被仰之(見せ消ち)、申初度云々、

『中右記』
 天晴、賀茂祭如常、使左少將源師隆、自鴨井被出立、母屋不懸簾、被立五尺屏風也、

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
為房卿記 寛治4年
(1090)
5月25日 【摂政藤原師実、斎院(令子)へ参向】
(※『大日本史料』による)
 依召參殿下(摂政藤原師実)、爲御使參院、殿下令參齋院(令子)<大膳[職脱カ]、>給者、即又參入、次又參院、次歸畢、(後略)
中右記 寛治4年
(1090)
11月18日 【殿上淵酔の後、公卿ら斎院(令子)へ参向】
 殿上有淵酔、三獻、事了人々被參齋院(令子)、今日不召物、
公卿補任 寛治5年
(1091)
4月 【源国信、斎院長官に任命】
(承徳二年)
 參議 正四位下 源國信(中略)
<年月日叙爵。承暦三十一ー信濃權守。承保[永保?]元八ー右兵衛佐。同三正ー從五上<勞>。同十二月ー右少將。同四月ー遷左近。同四正ー兼美作權介。應徳三正五正五下<勞>。同月十四日補藏人。同十一月廿六更補藏人<受禪日>。寛治二正ー從四下<勞>。同三正五從四上<無品媞子内親王御給>。同月兼備後介。同五正ー叙正四下<院御給>。同月ー轉左中將。同四月ー兼齋院長官。同七二ー兼中宮權亮<止長官>。(後略)>
後二条師通記 寛治5年
(1091)
4月15日 【斎院(令子)御禊、紫野本院入り】
(朱)「斎院御禊<大膳職>」(右頭書)
 晴、御禊日也、五行物忌也、予宿衣參大膳職、上達部座敷筵、其上有高麗端三枚、傍御簾立四尺御屏風、件所神殿西廂也、庭中曳所司幔、立蔀令[今](右傍書)日不見之、御輿立庭、次有糸毛御車、<件所西方設之云々、>前駈座設侍所、<筵并畳等四尺御屏風等立之、>右大臣退出云々(見せ消ち)
右大臣退出云々、(右頭書)
此間屐子着南面御覽焉、于時寄三車、 此間仰治部卿(源俊明)、内々院令申案、<御使隨身也、>乘女房了、未剋許<有御秡事、>(右傍書)寄御輿於南簾、此間無驚[駕?]丁者、于時斎院被揚御髪、有御裳、御乘、御共候女房不向前令乘者、候左方向右、北政所(源麗子)寄御車云々、乘御了、于時殿下(摂政藤原師実)・左大臣(源俊房)北政所前、次殿下御車、<左大臣同車、>次予・民部卿(源経信)同車見物、大宮大路到列見、更打[折?]渡一条西洞院、一条邊南方車立、 辨・外記・史下車、渡御車前、殿下御箔被下云々、 予箔不下、<違例也、>次第如常、前駈渡、〃了殿西洞院自南到土御門、更東折到左府(源俊房)家給、外門左下留、予留車、民部卿車下了、烏丸南行一町許、東折參河原、<一条也、>寄御輿東、<後三条殿[院]齋院御時寄西、上達部諾[議?]云、可寄東云々、>先之掃部寮令敷筵、下御了、御輿宿舁居之、即令催御禊具等、從北第二間院御坐、膝突置庭中、<今日■[令]遅置云々、>供御秡、長官(源)國實[信]、別當有資、次官(藤原)惟信、各毎手持御秡、北二第御簾下跪、付女房、又取傳奉之、<御祓具居四本、猶一本可令居也、治部卿説也、日記等可見也、>(右傍書)此間神祇奉御麻、長官取之進之、即返給、神祇給之、宮司進庭中、<東方御云々、>(右傍書)御麻被給之後、着膝突、此間東河原徃反人不令渡、仰檢非違使制止、御禊了宮司退、
<「御禊間殿下」(右頭書)>
初人々進就御簾、御秡具給了、于時殿下仰召有資朝臣、御膳早々可被(見せ消ち)供之云々、殿西方平張之裏御坐、高坏物令借供(右傍書)者、權大納言(藤原家忠)・治部卿依被召候御前、汁物等了、水漬了、已及秉燭、又召有資朝臣、人々事能可被沙汰者、砂小所敷也、御屏風<白、被立、>・輕幄立、御床子如常、<御几帳立也、>前駈幄着座、<別事又仰事、高坏物可遣也、>東山纔望月、于時寄御輿、巻上御簾懸、輿左右立几帳、裏入殿給、予外簾所候也、乘御了、自本路到列見、更北折、入御自院南門、殿下同車、東門入給、北政所前駈下渡南門、入自西門北邊寄御車、御輿入自御簾、女房參之後下御云々、予候簀子敷、此間前駈有禄法事、予不見、
(朱)「小除目<藏助許云々>」(右傍書)
治部卿更參内、除目被行、内藏助許被補●、同巳時殿下還給、
(朱)「女房裝束」(右頭書)
女房裝束、薄色上紅打并薄色織物也、扇等殿上人等奉之、
(朱)「殿下御裝束」(右頭書)
殿下御裝束直衣、左大臣・右大臣(源顕房)宿衣、民部卿束帶、三位侍從(藤原能実)等也、
(朱)「前駈事」(右頭書)
北政所前駈布袴、六位宿衣、 殿下前駈束帶、御檳榔毛、
(朱)「長官鞍事」(右頭書)
長官杏葉銀面被着者、自餘無之者、
院前駈 權大納言 右衛門督(藤原公実) 二位宰相(藤原経実) 右兵衛督(源雅俊) 殿上人(藤原)顯實朝臣 (源)有家朝臣 有信<諸大夫> (藤原)俊忠 (源)有賢
烏丸一条辻立御〃車、三位中將(藤原忠実)出絹之、
出車、
(朱)「御車事」(右頭書)
今年車副褐衣也、 寛治四年褐衣也、
  <家綱男子也、>(右傍書)
雜色一人渡車、先例可被尋、
(朱)「武忠裝束」(右頭書)
府生(下毛野)武忠着褐衣、白布袴、毛履、帶釼角帶、▲笏、有老懸云々、
(朱)「殿下北政所前駈事」(右頭書)
殿下四位前駈一人也、 北政所四位前駈一人也、

   ◆ <(下毛野)敦貞、<近衛>>
左少將有賢
   隨身   同

◆二人<(府生(播磨)信貞、<院隨身、>番長(秦)公種、>
左少將(源)師隆
   隨身   同

◆ <敦久、<番長、殿隨身、>>
右少將俊忠
    隨身   同
     藏小舎人 一人

◆ <關白殿御隨身時久、<白布衣、濃打袙、>>
左衛門權介有信
    案主隨身 同 <二人>
    隨身   同 <二人>
    看督長  同
    同    同 <四人>
    火長   同 <二人>

◆ <不具、>
左少將有家
    隨身   同

◆一人<近衛(秦)助久、<左大將、>>
右少將顯實
    隨身   同

◆二人<將曹(大中臣)近友、同 (下毛野)敦末、>
左近中將(藤原)宗通
    隨身   同
    同    同

◆二人<府生武元、<院隨身、>府生(下毛野)武忠、<左大將、>>
右中弁(源)師頼
    弁侍着冠裝束如布衣、
    雜色

   ◆二人
右兵衛督(源)雅俊
    馬副   同
    隨身   同
    同    同

   ◆二人
二位宰相中將經實
    馬副   同
    隨身   同
    同    同
     雜色等

   ◆二人
右衛門督公實
    馬副   同
    同    同
    隨身 四人
     馬副 六人
     雜色等布(見せ消ち)

   ◆二人
權大納言家忠
    馬副   同
    同    同
    同    同
     馬副以上數八人、
     雜色不具、

長官(源)國信<中將、<左、>>
      <蠻繪袍、>
    隨身<粛愼羽、>
      <平胡録、>
    同    同

御輿

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
▲=搢(手偏+晉。こちらを参照(字源))
◆=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
後二条師通記 寛治5年
(1091)
4月20日 【賀茂祭】
(朱)「祭儀」(右頭書)
 朝間陰、 賀茂祭、 ●[廢]務、 余午剋參斎院、<予宿衣、 前駈布袴、 隨身褐衣、檳榔毛車也、>自内(堀河天皇)有使、
(朱)「從内被獻扇儀」(右頭書)
藏人少將俊忠、爲女房扇、<束帶、>東戸前臨期敷疊一枚、有共上茵云々、候座、自東妻戸女房裝束出、即給之、透渡殿南方下流水東方立、去砌五丈許、再拜、經公卿座出云々、暫之院(白河上皇)使被參、香爐
(朱)「從内被獻扇儀」(右傍書)
筥有薫物、又有御扇、<二具、>如手洗筥盖云々、推●有薄樣、御使<能俊、少將、>如初女房裝束被給云々、再拜了出、此間雨脚纔散、雨脚密、申刻許雨止、出車乘了、不申案内、上卿<治部卿俊明>・參議<二位中將經實>・辨(源)重資・外記・史、庭中東方上卿・參議・等辨立、寄御輿於南階、御簾巻、御几帳左右各一本立、無御屏風云々、乘御間、上・参議・辨等出自南門、此間近衞使・馬寮使等列見邊候、乘御了御輿暫居云々、殿下(摂政藤原師実)・左大臣(源俊房)・予・民部卿(源経信)出自東門、殿下・左大臣同車、予・三位中將(藤原忠実)乘後之、一条東院邊被立、使〃渡事如恒、 長官女使前渡事違例、<御輿可近候云々、>已及黄昏下御社御、馬場下設御所、寄御輿於東、無簷之、無御秡<腰輿暫被寄本所云々、>御服被改云々、<腰輿内奉御服云々、遲、>黄裝束驚[駕?]丁候、他驚[駕?]丁不供奉云々、寄腰輿、女別當候、<腰輿御裝束次第可尋辨之、>道路馬場◆開路云々、女房乘出車云々、<御共候人皆近邊、宿衣云々、>几帳日本追奉之者、南幔内敷疊、四面曳所司幔、懸燈爐、<六位次官懸之云々、>
(朱)「殿下御裝束 齋院女房衣色」(右頭書)
女房絹色花款冬色也、 殿直衣、 左大臣・余衣冠、<余前駈布袴、>殿下還御、予帰宅、 齋院長官(源国信)帶餝釼・巡方等也、淡平緒自殿被給之、

●=沉(さんずい+冗。沈の異体字。こちらを参照(字源))
◆=垺(こちらを参照(字源))
後二条師通記 寛治5年
(1091)
4月21日 【賀茂祭還立】
(朱)「還儀」(右頭書)
 晴、午刻殿下(摂政藤原師実)・北政所(源麗子)令參紫野神館給、北政所紫野邊留給、予參院(白河上皇)、已及未剋、俄雨降、雷發聲、雨脚密、暫之雨止、院乘車御〃車、余騎馬云々、右大臣(源顕房)直衣、 紫野被立御車、更
(朱)「神館●」(右傍書)
上達爲御覽度御、已事成由、更歸紫野御車立、度事如恒、此間雨纔散云々、齋院東門下騎馬、于時寄御車<糸毛車、>於南階、下御了、女房絹出云々、庭中南階西方敷筵、其上有紫疊二枚、衝重四饌、流水東方敷筵、有疊二枚、◆殿上人爲座、後所衆又有座、屏去五丈爲座、事具了内藏助着座、近衞使又着之、馬寮着了殿上人着座、<弁(源)師頼、中將宗通、少將俊忠、少將師隆、藏人(源)盛雅、(藤原)永實、>着了所衆供奉雜色二人、所衆二人着、勸盃三度、了近衞使起座、舞人陪從等相引立庭中、求[子脱?]舞、〃了大褂取之、次第被給、<先近衞給之、違例云々、>所雜色・所衆禄給了、退出了、
(朱)「予裝束」(右傍書)
予直衣也、
舞間殿下坐簀子敷、予又候云々、
院長官帶螺鈿釼云々、甘[紺]地平緒等、

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
◆=伇(人偏+几+又。役の異体字。こちらを参照(字源))
後二条師通記
為房卿記
寛治5年
(1091)
8月28日 【斎院(令子)不例により御卜】
『後二条師通記』
(朱)「參院聊不例御云々」(右頭書)
 參齋院(令子)、承不例之由所參也、有御占云々、依榊事推之、釜殿所爲●、付檢非違使被爲沙汰云々、

『為房卿記』(※『大日本史料』による
(8月28日条)
 次參齋院(令子)、自一昨日不豫坐也、殿下(摂政藤原師実)坐于此院也、
(9月4日条)
 參院(白河上皇)并殿下、齋院、
(9月6日条)
 參齋院、<殿下參給、>
(9月8日条)
 參齋院、<殿下參御、又參院、>
(9月10日条)
(中略)次參齋院、

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
為房卿記
中右記
寛治5年
(1091)
11月7日 【斎院相嘗祭】
『為房卿記』(※『大日本史料』による
(11月7日条)
 今夜齋院(令子)相嘗祭者、
(11月8日条)
(前略)今日齋院御神楽、殿下(摂政藤原師実)依入道(藤原忠家)御服暇、不參御、民部卿(藤原経信)以下依仰參仕、本院儲饗饌、以子午納殿屋爲其座云々、

『中右記』
(11月8日条)
 齋院(令子)御神楽、
中右記 寛治5年
(1091)
11月19日 【童女御覧。殿上人、斎院野宮(紫野)に参上】
 申剋有童御覽、女御(篤子内親王)并北政所(源麗子)御坐御殿中、右大臣(源顕房)・源大納言<師(師忠)、>・中宮大夫<雅(源雅実)、>・新大納言<家(藤原家忠)、>・三位中將<忠(藤原忠実)、>令候簾前給、秉燭之程事了、殿上人等引參齋院(令子)野宮、有盃酌三獻、一獻、<源少將師隆、>二獻、<兵部大輔(藤原)通輔、>三獻、<權弁基綱、是本院職事也、>此後朗詠・散樂、入夜退出了、<今日付童殿上人、宰相中將、<新中納言宗通一人也、>右兵衛督(源雅俊)、>
後二条師通記
為房卿記
中右記
寛治6年
(1092)
1月3日 【師通拝賀。斎院(令子)に参る】
(未入力)

後二条師通記 寛治6年
(1092)
1月27日 【中納言慶賀。斎院(令子)に参向】
(未入力)
為房卿記 寛治6年
(1092)
2月7日 【斎院(令子)死穢のこと】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
3月20日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
4月2日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
4月13日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
4月18日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
4月21日 【賀茂祭、白河上皇紫野草合】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
4月24日 【斎院(令子)長官記事】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
6月27日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
7月20日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
9月5日 【斎院(令子)御物忌、賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
11月13日 【斎院(令子)相嘗御神楽】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
1月9日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記
公卿補任
寛治7年
(1093)
2月22日 【篤子内親王立后。源国信、斎院長官を停止し中宮権亮となる】
『中右記』
 天陰、時々小雨、午後得晴、今日有立后事、(中略)
權亮、<左中將源朝臣國信、/去齋院長官任權亮也、>

『公卿補任』
(承徳二年)
 參議 正四位下 源國信(中略)
寛治二正ー從四下<勞>。同三正五從四上<無品媞子内親王御給>。同月兼備後介。同五正ー叙正四下<院御給>。同月ー轉左中將。同四月ー兼齋院長官。同七二ー兼中宮權亮<止長官>。(後略)>
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月10日 【白河上皇、斎院(令子)御所に御幸】
(未入力)
公卿補任 寛治7年
(1093)
4月 【藤原忠教、斎院長官に任命】
(康和二年)
參議 正四位下 藤忠教<二十六> (中略)
<年月日叙爵。寛治二七ー民部權大輔(剰闕)。同三正ー美作守。同四八ー尾張守。同五八ー左權少將<守如元>。同七二十六正五位下<郁芳門院入内日賞>。同四ー齋院長官<少將守等如元>。同八三卅從四位下<郁芳門院去寛治元年御給>。同十二月十七日叙從四上。嘉保二正二正四下<院行幸賞>。同月ー兼尾張守。同三正ー轉中將<守如元>。永長元年四八禁色。承徳元四ー辭長官。(後略)>
後二条師通記 寛治7年
(1093)
4月10日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
4月12日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
4月15日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
4月18日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
5月1日 【諸社奉幣、賀茂社禰宜禄の後斎院へ入る】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
5月5日 【郁芳門院根合。斎院(令子)に薬玉と根を献上】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
11月6日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
12月10日 【師通、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
1月5日 【叙位。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
2月25日 【白河院御幸。師実、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
3月9日 【師通関白就任。斎院(令子)に慶賀】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
閏3月22日 【大殿下(師実)、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月12日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月16日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月18日 【斎院(令子)御神楽】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
10月17日 【斎院の穢により、斎院相嘗祭を延引】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
11月7日 【斎院(令子)相嘗延引】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
11月18日 【斎院(令子)相嘗御神楽】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
1月3日 【師実・師通、斎院(令子)へ拝賀】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
2月3日 【除目。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月5日 【賀茂祭御禊前駈定】
(未入力)
中右記
餝抄
嘉保2年
(1095)
4月17日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月20日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月24日 【斎院御神楽】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
11月22日 【殿上淵酔。宗忠、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
11月23日 【斎院相嘗祭】
(未入力)
長秋記目録 嘉保2年
(1095)
11月29日 【御神楽なし】
(未入力)
後二条師通記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
1月3日 【師通、斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
2月11日 【春日祭。斎院(令子)奉幣なし】
(未入力)
後二条師通記
中右記
園太暦
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月2日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
長秋記目録
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月11日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月14日 【賀茂祭】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
5月8日 【斎院令子内親王家歌合】
(未入力)
後二条師通記
中右記
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
5月15日 【斎院令子内親王家歌合により賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
11月6日 【斎院御神楽】
(未入力)
後二条師通記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
12月8日 【師通、斎院(令子)に参向。地震】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
1月5日 【叙位。斎院(令子)御給】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
1月12日 【斎院中放火】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
3月25日 【藤原忠実、慶申。斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
公卿補任 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月 【藤原忠教、斎院長官を辞任】
(康和二年)
參議 正四位下 藤忠教<二十六> (中略)
<年月日叙爵。寛治二七ー民部權大輔(剰闕)。同三正ー美作守。同四八ー尾張守。同五八ー左權少將(守如元)。同七二十六正五位下(郁芳門院入内日賞)。同四ー齋院長官(少將守等如元)。同八三卅從四位下(郁芳門院去寛治元年御給)。同十二月十七日叙從四上。嘉保二正二正四下(院行幸賞)。同月ー兼尾張守。同三正ー轉中將(守如元)。永長元年四八禁色。承徳元四ー辭長官。(後略)>
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月5日 【斎院(令子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月8日 【斎院(令子)御禊点地】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月11日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月14日 【賀茂祭】
 天陰、終日雨下、賀茂祭也、仍午時許行向使少將出立所、 <藏人右少將(源)師時、越前々司(源)清實朝臣京極大炊門宅、今朝左府(源俊房)令渡給、[依脱カ]爲祭使歟、>人々未被來、次參内、參中宮(篤子内親王)御方、<内(堀河天皇)御物忌也、>勤御禊陪膳、<大夫進(源)實房行事、>藏人少將被參内、依内御物忌不召御前也、但使少將・中宮使大進時範<藏人左[右]少弁、左衞門權佐兼也、>・雜色并所衆等被渡北陣、於渡殿密々御覽、祭行事藏人式部宗仲・典侍以下參北陣、依御物忌不御覽所前駈也、次參齋院(令子)、兩殿下(藤原師実・師通)・左大將殿(藤原忠実)以下公卿五六輩被參也、此間雨脚殊甚、人々自懈怠歟、未時許從齋院退出、不見餘儀、<行向藏人少將騎馬所、則歸出、>
後聞、藏人少將出立所、一獻右少將(藤原)顯實朝臣、二獻中宮大夫(源師忠)、三獻民部(源俊明)、無隱[穩]座、依雨脚無庭中舞也、
近衞使、<藏人右少將宗輔[源師時]、>右馬寮使、<助藤敦雅、>
内藏寮使、<助菅原實清、>中宮使、<藏人右少弁さ衞門權佐兼大進平時範、>
本院長官、<(藤原)惟信朝臣、物具等美麗也者、今年初成也、>次第使左馬助家信、
<惟信頗風流、世不甘心歟、>
  今年使々強不及風流過差也、又一條大路無大棧敷、<依故女院御朞年(郁芳門院一周忌)也、>
 典侍藤原房子、<新内侍助、>命婦、<ナラ井テ、>藏人、<オホスケ、>
齋院女房扇、依殿下仰調進、付小舎人吉友送式部丞藏人許了、
申時許地震、
殿暦 承徳2年
(1098)
2月9日 【斎院長官藤原惟信、春日使のこと】
(前略)次戌剋許有奉幣事、春日使齋院長官藤原朝臣惟信、率川使(藤原)宗仲、各有告文、作者(藤原)正家朝臣、奉幣間人〃弁[并?]予不參會云々、
殿暦
中右記
長秋記目録
承徳2年
(1098)
4月16日 【斎院(令子)御禊】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
4月19日 【賀茂祭】
(未入力)
長秋記 承徳2年
(1098)
4月27日 【斎院御神楽】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
11月22日 【藤原宗忠、斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記
長秋記目録
承徳2年
(1098)
11月23日 【斎院相新御神楽】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
12月23日 【慶申。藤原師実、斎院(令子)に参上】
(未入力)
後二条師通記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
3月17日 【藤原師実・師通等、斎院(令子)御所で花見】
(3月17日条)
(前略)參齋院(令子)、白[百?]花神妙ゝ也、先小弓一度了、左大將諸矢科的、懸物給了、次擧鞠之間余立加、此間花散如雪下、萬人驚目、感深交深、<是宇治殿(藤原頼通)於白川殿擧御鞠、權帥<經信>所語也、>了黄昏雨降、着饌、絲竹各置前云々、秉燭之間事了分散、
裏書、雪盛硯●歌書薄體
女房(二条太皇太后宮大弐)讀之、
 はなさくらちりしくにはをはらはねはきえせぬゆ■[き]となりにけるかな
中宮大夫(源師忠)返事、
 しめのうちにちりしくにはの花なれとちとせのはるもなにかかはらむ
(3月18日条)
(藤原)惟信朝臣爲斎院御使申云、昨日遊事所被仰也、承了之由可令申也、
後二条師通記
千載和歌集
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月1日 【斎院(令子)御所歌合】
『後二条師通記』
(前略)於齋院(令子)可有和哥、題者余所釋<擇(右傍書)>申也、<松葉映水>、(後略)

『千載和歌集』
(未入力)
後二条師通記
時範記
中右記目録
長秋記目録
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月3日 【斎院(令子)御所に小弓、蹴鞠、管絃、和歌御会】
『後二条師通記』
 未剋參京極殿、〃人〃參會、參齋院小弓、次鞠、殿上人以下所勤仕也、酒希[肴?]了於簀子敷有■■[管絃]事、秉燭之後稱[講]和哥、中宮大夫(源師忠)・權大納言(藤原家忠)・左大將(藤原忠実)・二位中納言(藤原経実)・頭弁(藤原)宗忠、

『時範記』
 早旦進発、入夜入洛、先参関白殿(藤原師通)、次参大殿(藤原師実)、今日於斎院(令子内親王)有和謌御遊、両閣(藤原師実・師通)参御云々、

『中右記目録』
 於齋院御遊、<兩殿下(藤原師実・師通)參、>

『長秋記目録』
 齋院宴遊事、
後二条師通記
時範記
中右記目録
本朝世紀
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月9日 【斎院(令子)御禊前駈定】
『後二条師通記』
 爲方違渡(源)有賢八条、有賀茂詣定事、執筆左少弁時範、頭弁來覽申文了、新大納言(藤原家忠)參陣、定前駈事、(後略)

『時範記』
(前略)申刻参斎院(令子)、先是新大納言被参著客殿座、下官著、(小槻)祐俊宿禰先在座、院司参上、盃酌之後被定出車、出馬事、下官書之、事了上卿退出、直被参内、下官参内、上卿被著陣座、宰相不参、外記進例文并硯、次下官依上命著宰相座、定申御禊前駈、次第司等、定了覧上卿、々々以外記(中原)有清被内覧、是則秉燭之後也、有清未帰参以前、頭弁(藤原宗忠)奉勅仰下除目事、下官依上仰著宰相座書之、其儀先被下申文等、随上卿仰書之、除目四枚、<史并山城介一枚、勧[勘]解由長官一枚、依公卿兼官書別紙、修理宮城使一枚、已上可賜式部、兵庫助一枚、可賜兵部、>叙位一枚、已上書五枚、除目各 (アキママ)太政官計奏、叙位不注如例、召名書了、奉上卿、々々覧了、下官退座、上卿以頭弁被内覧、次参御所辺奏了、復仗座被下二省、先是被奏被奏前駈定文如例、
左少史紀盛言、<転任、> 右少史大江忠時、<出納、>
勘解由長官源基綱、 兵庫助平盛兼、<前陽明門院未給、>
修理左宮城使源能俊、山城介惟宗盛親、<即叙従五位下、>

『中右記目録』
 祭除目、<參議不參、>

『本朝世紀』
 權大納言家忠參入。被定申御禊前駈。次有祭除目事。依參議不參。左少弁(平)時範書之。(後略)
後二条師通記
時範記
中右記目録
長秋記目録
本朝世紀
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月22日 【斎院(令子)御禊】
『後二条師通記』
 閇門、物忌也、召(源)盛家、御禊・祭・賀茂詣事等所令案内也、事〃聞食了、近衞使少將茵已闕候、付少將(源)顯雅所申請也、(後略)

『時範記』
(前略)巳刻参斎院(令子)、依為行事也、大殿(藤原師実)参御、申刻関白殿(藤原師通)令参給、先是上卿新大納言(藤原家忠)、宰相、<新宰相中将>(源国信)、被著客殿座、走孺等渡客殿前、頃之出御、下官率上官渡大路如恒、行列次第如例、
左衛門、<佐代周防守(藤原)孝清、尉藤原定遠、>右衛門、<権佐(藤原)俊信、尉藤原親定、>左兵衛、<佐(源)顕重、尉豊原貞平、>右兵衛、<佐代常陸守(源)国房、尉中原季兼、>次第使、<左馬助(藤原カ)兼信、右馬允平資範、>蔵人所前駈<雑色家重、国盛、>
本院宮主有故障、仍用代官、<津守広重、>
  御禊之儀如例、

『中右記目録』
 齋院御禊、

『長秋記目録』
 御禊事、

『本朝世紀』
 賀茂齋王禊東河。
後二条師通記
時範記
中右記目録
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月25日 【賀茂祭】
『後二条師通記』
(25日条)
 差隨身一人候於内、向頭弁許、諸司等早可催之、午刻訖參齋院、裝束并先駈如御禊日儀、女房一人未參、殿被仰云、宣旨稱故障由所不參也、余云、逐日乱入何爲乎、中宮使(源顕通)餝馬<院御馬也、>驚鏡刑[形]破損、遲〃剋限如例、余渡棧敷」了、<中將車乘之、>明日御扇一枚、并女房廿四枚、<之中四枚童●>、付(藤原)朝輔奉齋院了、近衞使(源家定)帶・劔・平緒<紫▲>・餝馬・曳馬釼鞍」一具所遣也、口取(下毛野)厚時所遣也、武正所勞出來不遣之、俄殿近衞兼貞今朝申案内遣之、府生(下毛野)敦重・物節敦清、馬権頭信貞<本(右傍書)>、口取(下毛野)武忠<隨身>・忠久、<殿、>曳馬公里・助久物節也、餝馬鞍一具・曳馬鞍一具・曳馬從殿所被給也、又釼・平緒<紫▲、甘[紺]地、>二具所遣也、於帶者依地下人不遣之、可尋、
(26日条)
 午剋許參神館、殿本自所御坐也、近衞使并中宮使所參也、給(見せ消ち)祿退出了、未剋事始、御車人〃棧敷前立給、去年間院御車立所也、不經幾程車立、有其憚者、御見物了出車、次付遣參院、近衞使・馬寮使所參也、自餘不見、垣下殿上五位」不參、仍藏人所參也、申剋事了、殿參内給、余所歸來也、瀧口▼着布衣■■■[毛履者]、

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
▲=緂(糸偏+炎。こちらを参照(字源))
▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))

『時範記』
 祭也、巳刻参斎院(令子)、先是大[衍カ]是大殿(藤原師実)令参給、申刻上卿新大納言、宰相(源)国信卿、下官以下著客殿、走孺等渡客殿、使々不参、頃之寄御輿、此間禊祭上卿以下相率退出前行、次禊祭上卿、宰相烈[列]見辻立定車、次下官率上官列車而渡、於万里小路辺見物、次検非違使渡、次使々如例、王輿未渡以前、々行向河原幄、勧盃之後参鳥居外屋、次斎王著御祭服、移腰輿入御社頭、次下官直向神館了、
内蔵寮使、<助行仲、>近衛府使、<右少将(源)家定、>
馬寮、<左権頭(源)信忠、> 中宮使、<権高[亮](源)顕通朝臣、>
山城介、<(惟宗)盛親、> 次第使、<左馬助(藤原カ)兼信、>
行列使、<右馬允平資範、>

『中右記目録』
 祭、<使左少將(源)家定、中宮使(源)顯通、>

『長秋記目録』
(25日条)
 祭事、社頭事、
(26日条)
 神館事、齋院垣下事、

『本朝世紀』
 賀茂祭。右少將(源)家定爲府使。中宮權亮(源)顯通朝臣爲本宮使。
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月26日 【斎院(令子)不例】
 早旦参斎王(令子)御所、自去夕不例御云々、午刻大殿(藤原師実)令参給、申刻使々参上、給禄退出、先是関白殿(藤原師通)参御、近衛府使参上、先著幄床子、次起座、東遊、給禄退出、次行事弁以下賜禄退出、次寄御車、下官於栢杜扣車、頃之渡大路、申斜参紫野院、斎王還御、前庭敷使以下座、一如恒例、近衛府、馬寮使著座、長官伝喚、垣下侍臣逓以勧盃、二献之後、近衛府使起座、立於屏下令舞求子、三献之後、賜使以下禄、次両殿(藤原師実・師通)出御、下官帰了、入夜参中宮(篤子内親王)宿侍、
長秋記目録 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月29日 【斎院御神楽】
 齋院御神樂事、
時範記
中右記目録
承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月17日 【斎院(令子)不例】
(6月17日条)
 早旦参関白殿(藤原師通)、次参大殿(藤原師実)、次参宮(篤子内親王)、申刻依大殿召参斎院(令子内親王)、大殿参御、依御物忌令立門外給、自去四月祭夜不例御、而近日殊以発御、殆可及危急、頃之令落居給、仍帰御、
(6月18日条)
 早旦参両殿(藤原師通・師実)、次参宮(篤子内親王)、今日斎院(令子内親王)御心地尚以不例、仍大殿令営参給、下官参上、臨昏退出、
(6月19日条)
(前略)今日有軒廊御卜云々、依斎院(令子内親王)御悩也、

『中右記目録』
(6月19日条)
 軒廊御卜、<齋院不例事、>
後二条師通記
時範記
中右記目録
本朝世紀
帝王編年記
承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月19日 【令子内親王、斎院退下】
『後二条師通記』(※『大日本史料』による)
 仁王經御八講可令候之處、齋院(令子内親王)不例御坐已及數日、一兩日間、●▲衰疲御坐之由、從齋院所申也、申院之後、可奏事由、

●=顦(焦+頁(やつれる)。こちらを参照(字源))
▲=顇(卒+頁(やつれる)。こちらを参照(字源))

『時範記』
(6月20日条)
 伝聞、今日斎院(令子内親王)依病辞退令退出給、大殿(藤原師実)、左大将(藤原忠実)令営参給、移御々車之間、殆如危急、即出御土佐守(藤原)有佐朝臣宿所、其後令落居給云々、
(6月21日条)
 今日未明斎院渡御法成寺南座主房云々、(後略)

『中右記目録』
(6月20日条)
 齋院退下、<依病惱也、>

『本朝世紀』
(6月20日条)
 賀茂斎王<令子>依病退出本院。

『帝王編年記』
(堀河院)
齋院(中略)
<准三宮>
 令子内親王<法皇(白河院)第三皇女寛治三年六月廿八日卜定/承徳三年六月廿一日依病退出>
殿暦 康和2年
(1100)
1月11日 【前斎院(令子)、京極殿へ渡御】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1100)
2月15日 【前斎院(令子)、前関白(師実)夫妻と宇治へ渡御】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1100)
7月19日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向。琵琶を賜る】
(未入力)
殿暦
中右記目録
長秋記
ほか
康和3年
(1101)
2月13日 【前関白太政大臣藤原師実薨去】
『殿暦』
 天晴、寅剋入道殿下(藤原師実)御入滅、御所僧都澤房云々、此間万事不覺、仍不能委記、

『中右記目録』
 曉大殿(藤原師実)令薨給、<御年六十、>

『長秋記目録』
 大殿(藤原師実)薨給事、
殿暦 康和3年
(1101)
3月21日 【藤原師実法事。中宮(篤子)・前斎院(令子)より御誦経】
(未入力)
朝野群載 康和3年
(1101)
4月10日 【斎院禊祭料返抄のこと】
(未入力)
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月23日 【前斎院(令子)、河原で除服】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
6月22日 【令子内親王御所付近で火災】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
7月21日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月8日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月16日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年
(1101)
9月25日 【前斎院(令子)、辛崎祓】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
12月1日 【前斎院(令子)御給のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
1月17日 【前斎院(令子)御悩】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
2月13日 【師実忌日法会。中宮(篤子)・前斎院(令子)御誦経】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
8月6日 【前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
8月25日 【藤原師実室麗子、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
9月6日 【前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
9月12日 【前斎院(令子)御所を予定していた安芸守藤原経忠第焼亡】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
11月7日 【前斎院(令子)参内、五節における女房装束のこと】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
11月9日 【前斎院(令子)参内、右大臣忠実に使者を賜う】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月17日 【前斎院(令子)参内、弘徽殿を曹司とする】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月20日 【堀河天皇、前斎院(令子)御所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記目録
康和4年
(1102)
11月29日 【堀河天皇、弘徽殿で舞楽を御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
12月12日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
12月20日 【鳥羽天皇御仏名。前斎院(令子)御方】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
1月1日 【右大臣藤原忠実、右大弁藤原宗忠、弘徽殿前斎院(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記
重憲記
御産部類記
康和5年
(1103)
1月24日 【前斎院(令子)、宗仁親王産養九夜主催】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
2月2日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
朝野群載(巻4) 康和5年
(1103)
2月27日 【斎院司請奏上】
齋院司
 従五位下行主税允播磨宿禰行貞
  望主典
右可被兼任院主典之状。所請如件。
    康和五年二月廿七日  従四位下行長官藤原朝臣長兼
殿暦 康和5年
(1103)
3月5日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
6月16日 【令子の御方に女房管絃】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月1日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月20日 【堀河天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
中右記目録 康和5年
(1103)
7月26日 【令子、安芸守藤原経忠第に還御】
(前略)今夕前齋院(令子)還御經忠宅、
殿暦
中右記目録
康和5年
(1103)
9月4日 【前斎院(令子)、藤原有佐の三条町尻第(鬼殿)に移徙】
『殿暦』
 依御不例、前齋院(令子)(藤原)有佐家、<三条町尻、>戌剋許余參、依遲參、參有佐朝臣家參會、不」渡御以前<尓(崩し字)>余參也、如房(源師子)一車先參云々、頃之渡御、御車寄後余退出、參内侍宿、

『中右記目録』
 前齋院(令子)還御(藤原)有佐宅、
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
10月4日 【前斎院(令子)禁中に還御】
(未入力)
重憲記 康和5年
(1103)
10月12日 【前斎院(令子)のこと】
(未入力)
殿暦
高階仲章記
康和5年
(1103)
10月21日 【堀河天皇、令子内親王の御座所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月29日 【堀河天皇、令子内親王の御座所弘徽殿に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
11月1日 【前斎院(令子)、紀伊守藤原有佐第に御方違】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月8日 【斎院(禎子)・前斎院(令子)のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
11月11日 【前斎院(令子)禁中に還御】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月14日 【五節参入。殿上人、前斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月16日 【殿上人、前斎院(令子)と斎院(禎子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月9日 【藤原忠通昇殿。中宮(篤子)・前斎院(令子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月21日 【前斎院(令子)、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
中右記 康和6年
[長治元年]
(1104)
1月2日 【藤原宗忠、斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
2月23日 【前斎院(令子)、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
3月9日 【石清水臨時祭。前斎院(令子)参列】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
4月5日 【前斎院(令子)御方で小弓あり】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月8日 【令子、越後守藤原敦兼第に方違】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
5月22日 【最勝講結願。公卿ら、前斎院(令子)に参集】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
7月27日 【相撲。前斎院(令子)参内】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月1日 【弘徽殿御八講。中宮(篤子)、前斎院(令子)参列】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月10日 【令子方違】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
11月3日 【令子、紀伊守藤原有佐第に渡御】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
2月17日 【勅使、前斎院(令子)御所のこと】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
2月28日 【前斎院(令子)禁中に入る】
(前略)今夕前齋院(令子)令入禁中給、内大臣(源雅実)・源中納言(俊実)・宰相中將(源顕通?)被扈從、殿上人前駈、上御曹司渡殿并殿下本御直廬北對方爲御所、(後略)
殿暦 長治2年
(1105)
2月29日 【前斎院(令子)御所に御鞠】
(前略)今日無別事、齋院(令子)御方聊有鞠事、(後略)
殿暦 長治2年
(1105)
閏2月11日 【右大臣藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
3月14日 【前斎院(令子)、藤原有佐第に移徙】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
4月5日 【藤原宗忠、斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月8日 【前斎院(令子)御所上棟】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月26日 【中宮御願寺御堂及び前斎院令子内親王の新造御所堀河院上棟】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月29日 【前斎院(令子)禁中に移る】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
7月2日 【前斎院(令子)御所堀河院上棟のこと】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
8月10日 【前斎院(令子)方違】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
9月15日 【藤原師実室麗子、宮中前斎院(令子)に参上】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
9月18日 【堀河天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
9月24日 【前斎院(令子)方違】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
9月30日 【前斎院(令子)、紀伊守藤原有佐第に渡御】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
10月14日 【前斎院(令子)禁中に移る】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
12月28日 【右大弁藤原宗忠、斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月11日 【前斎院(令子)御渡定】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月13日 【前斎院(令子)弘徽殿に入る】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月19日 【藤原師実室麗子、前斎院(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月23日 【前斎院(令子)渡御のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
3月2日 【前斎院(令子)、堀河院に移徙】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
3月3日 【前斎院(令子)饗饌】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
4月27日 【前斎院(令子)、禁中に移る】
『永昌記』
 今曉前齋院(令子)入御、以K戸上御局等爲御所、今夕東宮(宗仁親王)又入御、以弘徽殿爲御所、藏人廣房仰輦、傳内府以下啓陣、宮司等供奉如例、亮有所勞不被扈從、宮即昇御上御局、前齋院有仰[御?]奉謁、被獻銀馬形御本等、依可有猶子之義、自去年有御奉謁之議、度々延引也、今夜宿侍、

『中右記』
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
10月22日 【前斎院(令子)、禁中に移る】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
11月14日 【公卿ら、前斎院(令子)弘徽殿へ参上】
(未入力)
殿暦 嘉承元年
(1106)
11月15日 【関白藤原忠実と威徳(忠通)、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
12月9日 【前斎院(令子)、二条殿に還御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
1月2日 【関白藤原忠実、前斎院(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
1月6日 【前斎院(令子)尊勝寺に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月8日 【前斎院(令子)、師実室麗子御方に方違】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月21日 【関白藤原忠実、前斎院(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
7月6日 【白河法皇、令子内親王御所に御幸】
(未入力)
殿暦
中右記
為房卿記
ほか
嘉承2年
(1107)
7月19日 【堀河天皇崩御】
(未入力)
鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記 嘉承2年
(1107)
8月27日 【即位式において、前斎院(令子)准母同輿のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
10月6日 【前斎院(令子)立后の沙汰】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月12日 【前斎院(令子)を鳥羽天皇の母儀に准ずる】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月15日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
10月18日 【前斎院(令子)入内定】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月20日 【鳥羽天皇、宮御方(令子?)に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
10月26日 【前斎院(令子)入内】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
10月28日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月8日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
閏10月9日 【前斎院(令子)立后のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月11日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月15日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
閏10月20日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
閏10月28日 【鳥羽天皇、前斎院(令子)御所に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
11月7日 【前斎院(令子)立后のこと】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
11月8日 【皇后宮(令子)同輿のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
11月26日 【摂政忠実の第にて立后・即位の事を議する】
(未入力)
殿暦
中右記
水牙記
嘉承2年
(1107)
11月29日 【前斎院(令子)立后兼宣旨を賜る】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月1日 【鳥羽天皇即位の儀。准母令子内親王を皇后と為す】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月2日 【皇后宮(令子)で饗あり】
(未入力)
殿暦
中右記
公卿補任
嘉承2年
(1107)
12月5日 【皇后宮司除目。大納言藤原家忠、皇后宮大夫に任命】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
12月8日 【皇后宮(令子)行啓定】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
12月9日 【皇后宮(令子)、二条堀河殿に渡御】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
12月28日 【藤原忠通、昇叙の慶申。皇后宮(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月2日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月3日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)二条堀河御所に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月7日 【皇后(令子)入内】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月10日 【鳥羽天皇、皇后(令子)御所に行幸】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月5日 【皇后御封官符請印】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月15日 【鳥羽天皇、皇后(令子)御所に渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
公卿補任
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月20日 【皇后(令子)、二条第に行啓】
(未入力)
中右記
朝野群載
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月23日 【皇后(令子)、岩清水八幡他に奉幣、立后を奉告】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月7日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月8日 【皇后宮(令子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月17日 【賀茂祭(斎王不参)。皇后宮使あり】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月20日 【皇后(令子)、六条内裏に入御】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月4日 【皇后(令子)、堀河殿に方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月16日 【皇后(令子)、二条堀河院に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月17日 【皇后宮(令子)大進源仲正、刃傷の罪により捕えられる】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月19日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月13日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月17日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月1日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
岩清水文書 天仁元年
(1108)
8月10日 【皇后(令子)、陰陽助賀茂光平に勘申を命ずる】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
8月20日 【皇后(令子)、六条殿に入御】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
8月21日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、内裏へ還御】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
10月3日 【鳥羽天皇御悩、皇后(令子)祇候】
(未入力)
殿暦
中右記
江記
天仁元年
(1108)
10月21日 【鳥羽天皇大嘗会。皇后宮(令子)入御】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
11月2日 【春日祭
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
11月8日 【大嘗会で皇后(令子)同輿のこと】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
11月21日 【童御覧。皇后宮(令子)列席】
(未入力)
殿暦
中右記
天仁元年
(1108)
11月28日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、大炊殿へ還御】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
12月15日 【鳥羽天皇物忌。皇后(令子)参上】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
1月30日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
3月14日 【皇后(令子)、二条に滞在のこと】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
4月8日 【右中将藤原忠通、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
5月2日 【皇后(令子)不例】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
5月20日 【皇后(令子)、内大臣源雅実の土御門第に移徙】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月16日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月19日 【皇后(令子)、土御門第より内裏に還啓】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
8月18日 【白河法皇、鳥羽殿で御塔供養。皇后(令子)参列】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
11月14日 【右中将藤原忠通、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月2日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦
永昌記
天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月11日 【一切経供養。白河法皇と皇后(令子)、法勝寺に臨御】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
5月21日 【皇后宮(令子)不例】
(未入力)
殿暦 天永元年
(1110)
9月8日 【斎宮群行。鳥羽天皇出御、皇后(令子)同輿】
(未入力)
殿暦 天永元年
(1110)
12月28日 【中宮(篤子)・皇后(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
1月2日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
1月14日 【御斎会結願。蔵人を補す】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
1月24日 【右中将藤原忠通、権中納言に任官、皇后(令子)に慶申】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
2月1日 【権中納言藤原忠通、従二位。皇后(令子)に慶申】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
2月2日 【春日祭。皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
2月20日 【皇后(令子)の御方に管絃】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
2月23日 【皇后宮(令子)、内裏へ遷御】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
3月5日 【皇后(令子)、祭の使いのことで攝政藤原忠実に沙汰】
(未入力)
長秋記 天永2年
(1111)
3月8日 【白河法皇、皇后(令子)女房を勘当】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
3月18日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
3月21日 【皇后(令子)、阿波守藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月1日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 天永2年
(1111)
4月8日 【皇后(令子)御悩】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
4月9日 【皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月17日 【賀茂祭。皇后(令子)使のこと】
『殿暦』
 天晴、近衞使許<ニ>隨身(中臣)兼近<府生、>遣之、皇后宮(令子内親王)使引馬・同鞍・隨身番長(佐伯)國重遣之、今日賀茂祭也、終日天陰雨下、仍 (白河法皇)御見物俄止之、使右少將(藤原)伊通、皇后宮使大進(藤原)重隆、

『中右記』
 天陰雨下、賀茂祭也、午時許參齋院(官子)、先參東廊、右中辨參會、相催懈怠事等、(中略)
内藏寮御幣、皇后(令子)御幣、本院御幣等相渡、皇后宮使大進右衛門權佐重隆牽馬口、(後略)
中右記
長秋記
天永2年
(1111)
5月25日 【皇后(令子)、三条第より内裏に入御】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
5月29日 【皇后宮(令子)行啓賞のこと】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
6月14日 【祇園御霊会。皇后(令子)の御封物押取により、祇園神人を赦免】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
6月30日 【皇后(令子)の御封物のこと】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
8月17日 【皇后(令子)入内】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
8月20日 【相撲節会】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
9月3日 【御燈のこと】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
9月16日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
9月20日 【鳥羽天皇と皇后(令子)、土御門殿より高陽院東対に移御】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
9月25日 【皇后(令子)不予、二条殿に行啓】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
10月23日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)・中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
10月26日 【摂政藤原忠実、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
11月1日 【春日祭。皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
12月8日 【皇后宮(令子)鎮魂祭】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
12月21日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
12月22日 【皇后(令子)、二条第より高陽院に還啓】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
1月1日 【藤原忠実、皇后宮(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
1月13日 【皇后宮(令子)女房、法勝寺に参拝】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
2月9日 【春日祭。皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
3月18日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
体源抄
天永3年
(1112)
3月22日 【皇后(令子)、童舞を高陽院東対で観覧】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
3月28日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月1日 【皇后(令子)二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月8日 【内及び皇后宮(令子)の灌仏を停止】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
4月23日 【賀茂祭。皇后宮(令子)使等のこと】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
5月8日 【摂政藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
5月11日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)・中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
5月13日 【内裏焼亡。皇后宮(令子)女房退出のこと】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
5月15日 【皇后宮(令子)御所のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
6月30日 【皇后宮(令子)、二条殿より藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
8月18日 【皇后宮(令子)の御方に御修法】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月19日 【皇后宮(令子)、母后のために五部大乗経供養】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月22日 【皇后宮(令子)御読経供養】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月23日 【皇后宮(令子)御読経供養結願】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
9月27日 【皇后(令子)不予】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月28日 【皇后宮(令子)行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
10月1日 【皇后(令子)、三条第より内裏に還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
10月11日 【皇后(令子)不予により、阿波守藤原忠長三条第に行啓】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
10月16日 【鳥羽天皇元服のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
11月13日 【殿上人ら、皇后(令子)に参向】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 晩頭依有陣定參内、此間兩貫首以下、殿上淵酔及五獻、廻五節所之後、參皇后宮(令子)御所三條(藤原)忠長宅、有盃酌、<上達部不參也、>
中右記 天永3年
(1112)
11月16日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)御所へ参上】
 從殿下(摂政藤原忠実)御所有召、可參逢東三條者、雖物忌未時許參東三條、殿下未令渡給、暫參南皇后宮(令子)御所之間、未時許殿下令渡給、(後略)
中右記 天永3年
(1112)
12月26日 【皇后(令子)御仏名】
(前略)次又參皇后宮(令子)御佛名也、右金吾以下參入、及曉更事了歸家、<三條忠長宅爲御所、>
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
12月28日 【皇后(令子)内裏に還啓】
『殿暦』 (未入力)

『中右記』
(前略)今夕皇后宮(令子)行啓、三箇日連々騎馬、誠以難堪事歟、(後略)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月2日 【源師時、皇后(令子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月7日 【源師時、皇后(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月8日 【皇后(令子)大炊殿に行啓】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月14日 【鳥羽天皇、皇后宮(令子)に渡御】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
3月14日 【皇后宮(令子)昇給】
(未入力)
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
4月23日 【賀茂祭。皇后(令子)使いのこと】
(未入力)
殿暦
長秋記
永久元年
(1113)
7月13日 【皇后(令子)京極殿に行啓、源麗子見舞う】
(未入力)
長秋記 永久元年
(1113)
7月14日 【皇后(令子)還啓】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
10月5日 【皇后(令子)御方に落書のこと】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
11月13日 【殿上人ら、皇后(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
11月25日 【皇后(令子)不予により、二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
12月6日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
1月2日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)に拝礼】
 天晴、内(鳥羽天皇)(白河院)共御物忌也、殿下(関白藤原忠実)無御行、午時許參京極殿、<大北政所(源麗子)座南堂方對面女房達、>次參一條殿西御方并土御門殿、次參皇后宮(令子)<二條堀川御所、>參中宮(篤子内親王)<堀川院、>參太皇太后(藤原寛子)<萬里小路高辻成信法橋房、>(後略)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
1月3日 【関白藤原忠実、皇后宮(令子)に拝礼】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 天陰雪散、未時許參關白殿(藤原忠実)、終日爲御共參院、内(鳥羽天皇)、京極殿(源麗子)、皇后宮(令子)、中宮(篤子内親王)、中納言中將、右兵衛督、宰相中將、<家、>殿上人七八人連車扈從、<今日(白河)院御物忌也、>入夜令歸給之後歸家、(後略)
殿暦 永久2年
(1114)
1月29日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
2月12日 【皇后(令子)堀河殿に行啓】
 皇后宮(令子)從内出御、進出車、依神心屈不供奉行啓、(後略)
中右記 永久2年
(1114)
2月13日 【皇后(令子)還啓】
(前略)今夕皇后宮(令子)又令入内給云々、昨今物忌、仍不供奉行啓、
中右記 永久2年
(1114)
2月27日 【皇后(令子)、二条殿に方違行啓】
(前略)今夕皇后宮(令子)爲御方違、白地從皇居行啓本御所二條殿、権大夫、<顕(源顕通)、>予、源中納言、<能(能俊)、>左大辨、<重(源重資)、>供奉殿上人七八人、曉更可入御者、仍留近隣法性寺座主房、
中右記 永久2年
(1114)
2月28日 【皇后(令子)還啓】
 鶏鳴之間皇后宮(令子)令還入給、予権大夫二人外無他上達部、此間雨脚殊甚、
中右記 永久2年
(1114)
3月8日 【皇后宮(令子)行啓のこと】
(前略)又門前●害人之下人走來、搦取給左獄了、明後日皇后宮(令子)行啓道可作之由仰檢非違使等了、

●=欿の誤字?(こちらを参照(字源))
中右記 永久2年
(1114)
3月10日 【皇后(令子)、二条殿に方違行啓】
(前略)今夜皇后宮(令子)依御方違從禁中出御二條殿云々、
中右記 永久2年
(1114)
3月12日 【皇后(令子)、二条殿より還啓】
(前略)今夕皇后宮(令子)又令還入内給云々、権大夫右兵衛督供奉云々、(後略)
中右記 永久2年
(1114)
3月22日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)に参向】
(前略)晩頭事了有行香、<件行香檢校治部卿、右宰相中將顯雅、>次參皇后宮(令子)御方、次參院(後略)
中右記 永久2年
(1114)
4月5日 【故関白藤原師実室源麗子薨去(4/3)により、皇后宮(令子)、二条殿に行啓】
(前略)依有催入夜参皇后宮(令子)行啓、今夜從皇居出御御二條本御所、是依京極殿北政所(源麗子)事、出御禁中也、此皇后宮年來被養育彼北政所給也、仍爲有憚、俄出御禁中、予巻纓、随身胡●、参入之處、源中納言<能(能俊)、>被参、示云、今夜行啓不可有尋常儀之由、今朝於院被沙汰了、(後略)

●=籙(竹冠+禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
中右記 永久2年
(1114)
4月8日 【皇后宮(令子)の灌仏を停止】
(前略)今日依大神使立日、公家并皇后宮(令子)無御灌佛、
中右記 永久2年
(1114)
4月16日 【賀茂祭。皇后宮(令子)、養祖母源麗子の喪により使なし】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
5月16日 【京極殿(源麗子)法事。中宮(篤子内親王)・皇后宮(令子)御誦経】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
8月3日 【皇居(大炊殿)焼亡】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
8月20日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
8月30日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向】
中右記 永久2年
(1114)
10月7日 【皇后宮(令子)行啓のこと】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
11月1日 【春日祭。中宮篤子崩御(10/1)により、皇后宮(令子)使立たず】
(未入力)
殿暦
中右記
為房卿記
白川御堂供養記
ほか
永久2年
(1114)
11月29日 【法勝寺阿弥陀堂供養。皇后(令子)行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
12月13日 【藤原忠実、皇后宮(令子)御所を検分】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
12月15日 【皇后宮(令子)御所を皇居とする】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
12月19日 【皇居移転のこと】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
 今夜皇后宮(令子)御佛名云々、(後略)
殿暦 永久3年
(1115)
1月2日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
2月6日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に参向、琵琶を賜る】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
11月12日 【権大納言藤原忠通、五節舞姫を奉仕。皇后(令子)より装束を賜る】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
11月26日 【皇后(令子)新造内裏大炊殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
1月3日 【関白藤原忠実、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
4月8日 【皇后(令子)灌仏】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
8月17日 【内裏焼亡。皇后(令子)、二条殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
11月8日 【宮(皇后令子)使と陪膳不参のこと】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
12月29日 【皇后(令子)内裏に参入】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
4月15日 【賀茂祭。皇后宮(令子)使のこと】
(未入力)
殿暦
百錬抄
永久5年
(1117)
9月14日 【皇后(令子)御所二条殿焼亡】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
12月12日 【皇后(令子)白河殿に行啓】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
12月13日 【皇后(令子)、藤原璋子の着裳の腰結を務める】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月2日 【藤原宗忠、皇后(令子)御所に参上】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月16日 【皇后(令子)年給記事】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月23日 【皇后宮(令子)少進名前】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
2月7日 【春日祭。皇后宮(令子)使】
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
2月28日 【皇后宮(令子)に蹴鞠及び和歌の会】
(2月29日条)
(前略)或人談云、昨日依仰宰相中將三人、殿上人十人許參皇后宮(令子)御所六條、先上鞠、次官■[管絃?]、又講和歌、盃酌之間宰相中將實隆持盃之程被出和歌、已無返歌、頗以興醒云々、(後略)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
3月15日 【皇后(令子)尊勝陀羅尼を供養】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
4月3日 【除目。皇后宮(令子)進】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
4月21日 【賀茂祭。皇后宮(令子)使】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
6月19日 【皇后(令子)、西六条殿の怪異により、忠長の三条第に遷御】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
7月1日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
7月25日 【伊勢皇后宮(令子)領のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
元永元年
(1118)
8月8日 【皇后(令子)内裏に還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
元永元年
(1118)
8月9日 【皇后(令子)三条殿に行啓】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
8月29日 【小除目。皇后宮(令子)職】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
9月1日 【権中納言藤原宗忠、白河院に皇后宮(令子)御領の事を奏上】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
閏9月15日 【皇后(令子)、新作の箏を藤原宗忠に試弾させる】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
閏9月21日 【藤原宗忠、皇后宮権亮と共に宇治へ出立】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
11月11日 【春日祭使記事。皇后宮権亮名前
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
11月23日 【皇后(令子)新写大般若経を供養】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
1月3日 【関白忠実、皇后宮(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
1月8日 【皇后宮(令子)権亮少将記事】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
1月28日 【皇后宮(令子)功役瀧口別功賞のこと】
(未入力)
中右記
法性寺殿御記
元永2年
(1119)
2月2日 【皇后宮(令子)権亮源顕国宅に火災】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
2月7日 【春日祭。皇后宮(令子)使】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
2月9日 【皇后宮(令子)三条町尻御所のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
2月15日 【皇后(令子)里亭のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
3月22日 【皇后(令子)糸毛車のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年
(1119)
4月8日 【灌仏。皇后(令子)布施】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
4月22日 【賀茂祭。皇后宮(令子)使】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
5月2日 【中宮(璋子)御産沙汰】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
5月28日 【皇子(顕仁)誕生】
(未入力)
中右記
長秋記
御産部類記
元永2年
(1119)
6月6日 【皇子(顕仁)九夜。皇后(令子)主催】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
7月16日 【皇后宮権大進藤原説雅卒去】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
7月22日 【皇后宮(令子)権亮名前】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
7月30日 【皇后宮(令子)大進藤原有成のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
11月5日 【春日祭。皇后宮(令子)使】
(未入力)
長秋記 元永2年
(1119)
12月25日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
1月11日 【白河院、法勝寺御幸。皇后宮(令子)女房参入】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
2月2日 【朝覲行幸。皇后(令子)御所にて対面あり】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
4月3日 【小除目。皇后宮権少進】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
11月17日 【宗忠、皇后令子御所へ参向】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月19日 【円宗寺法花会始】
(未入力)
中右記
朝野群載
保安元年
(1120)
12月25日 【皇后(令子)御仏名】
(未入力)
中右記
不知記
源礼記
百錬抄
保安2年
(1121)
12月13日 【皇后(令子)、二条堀河殿に移徙】
『中右記』
(未入力)

『不知記』
(未入力)

『源礼記』
(未入力)

『百錬抄』
 皇后宮(令子)遷御新造二條堀川第。
永昌記 保安3年
(1122)
12月19日 【藤原為隆、皇后宮(令子)に慶申】
(未入力)
法性寺関白記
百錬抄
十三代要略
帝王編年記
一代要記
ほか
保安4年
(1123)
1月28日 【鳥羽天皇譲位】
『法性寺関白記』
(未入力)

『百錬抄』
 天皇讓位於第一親王顯仁。<五歳。>先爲皇太子之由戴宣命。

『十三代要略』
(未入力)
崇徳天皇
史料 月日 記述
百錬抄 保安4年
(1123)
12月15日 【皇后(令子)、堀河第内の御堂を供養】
 皇后宮(令子)供養堀川第内堂。
長秋記 保安5年
[天治元年]
(1124)
1月5日 【崇徳天皇、上皇御所二条殿に朝覲行幸。皇后(令子)参列、同輿】
(未入力)
有仁公記
永昌記
御産部類記
天治元年
(1124)
6月7日 【通仁親王産養九夜】
(未入力)
中右記目録
十三代要略
天治元年
(1124)
11月28日 【皇后(令子)、賀茂に行啓】
(未入力)
中右記目録 天治2年
(1125)
3月15日 【皇后宮(令子)御読経】
(未入力)
中右記目録 天治2年
(1125)
3月25日 【皇后宮(令子)御読経結願】
(未入力)
為隆卿記
御産部類記
天治2年
(1125)
6月3日 【鳥羽上皇皇子(君仁)第九夜御養産】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
1月1日 【藤原宗忠、皇后(令子)に拝礼】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
2月8日 【皇后(令子)、二条殿怪異により土御門第へ行啓】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
2月11日 【春日祭。皇后(令子)使】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
3月3日 【源雅実の薨去により、皇后宮(令子)の御燈停止】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
4月14日 【賀茂祭。皇后(令子)使】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
5月18日 【臨時給爵(皇后宮(令子)御給による)】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
8月20日 【皇后(令子)、堀河第に渡御】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
9月11日 【雅仁親王誕生】
(未入力)
中右記
御産部類記
大治2年
(1127)
9月19日 【雅仁親王産養九夜】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
11月9日 【春日祭。皇后(令子)使】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月1日 【崇徳天皇元服。皇后宮(令子)大夫・権大夫】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
1月8日 【皇后(令子)、扇を藤原聖子入内の料に進める】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月9日 【摂政藤原忠通女聖子入内。皇后宮(令子)、薫物を贈呈】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
1月12日 【后宮(令子?)、女御聖子に卯杖を贈る】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
1月25日 【皇后(令子)、呪師御覧】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
2月18日 【皇后宮(令子)、二条御堂修二月会】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
2月10日 【春日祭。皇后宮(令子)使】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
2月29日 【源師時、皇后宮(令子)に参向】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
3月7日 【皇后宮(令子)、尊勝陀羅尼供養】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
3月12日 【前斎院(禎子)土御門御堂供養。皇后宮(令子)御誦経使】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
4月25日 【賀茂祭。皇后宮(令子)御幣等のこと】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
5月27日 【皇后宮(令子)御懺結願】
(未入力)
中右記
長秋記
ほか
大治4年
(1129)
7月7日 【白河法皇崩御】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月8日 【待賢門院御産、皇后(令子)九夜のこと】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月15日 【故白河院葬送。皇后(令子)・前斎院(禎子)ら、素服麻布を着用】
(未入力)
中右記
長秋記
永昌記
ほか
大治4年
(1129)
7月26日 【皇后宮(令子)出家】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月30日 【皇后宮(令子)より、阿弥陀三尊供養】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
8月6日 【皇后宮大夫藤原能実、除服】
(未入力)
長秋記 大治4年
(1129)
8月28日 【皇后宮(令子)所充】
(未入力)
中右記
長秋記
大治4年
(1129)
9月27日 【皇后宮(令子)、白河殿に行啓】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
9月28日 【結縁供養。皇后宮(令子)、北庇を御所とする】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
12月23日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
1月6日 【叙位。皇后(令子)申文】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
1月21日 【皇后宮(令子)乳母子記事】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
2月26日 【皇后宮(令子)、三条殿に渡御】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
3月7日 【皇后宮(令子)、本宮に還御】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
5月25日 【皇后宮(令子)記事】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
5月27日 【皇后宮(令子)合爵】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
6月1日 【皇后宮(令子)合爵】(6/7条)
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
6月7日 【皇后宮(令子)の侍者等闘乱、侍長実清を投獄】
(未入力)
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
6月28日 【皇后宮(令子)と待賢門院、三条殿で御経御仏を供養】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
7月2日 【鳥羽上皇・待賢門院・皇后宮(令子)、御誦経】
(未入力)
長秋記
中右記
大治5年
(1130)
7月12日 【皇后宮(令子)、御喪服を除く】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
9月7日 【皇后(令子)記事】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
9月23日 【皇后(令子)御堂供養】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
10月5日 【皇后宮(令子)御給】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
10月10日 【中将(藤原頼長)慶申。皇后宮(令子)に参上】
(未入力)
十三代要略 大治5年
(1130)
10月25日 【法金剛院供養。鳥羽院、待賢門院、皇后宮(令子)渡御】
(未入力)
長秋記 大治5年
(1130)
12月15日 【皇后(令子)所司記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
6月8日 【皇后宮(令子)属記事】
(未入力)
長秋記 天承元年
(1131)
8月22日 【皇后宮(令子)所宛】
(未入力)
今鏡
尊卑分脈
天承元年
(1131)
9月20日 【皇后宮亮藤原有佐卒去】
(未入力)
中右記 天承2年
(1132)
1月8日 【皇后宮(令子)申文】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月22日 【除目。皇后宮(令子)権亮名前】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
5月9日 【禁中御物忌
(未入力)
中右記
長秋記
天承2年
[長承元年]
(1132)
6月1日 【皇后宮(令子)、得長寿院に行啓】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
8月18日 【皇后宮(令子)大夫藤原能実出家】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
9月10日 【皇后宮(令子)大夫藤原能実薨去】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月17日 【皇后宮(令子)御仏名】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月25日 【皇后宮(令子)申文】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月26日 【権中納言中将(藤原頼長)慶申。皇后宮(令子)に参上】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
1月5日 【皇后宮(令子)申文】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
1月22日 【春除目。皇后宮令子申文】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
2月15日 【皇后宮令子、法金剛院へ渡御】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
2月18日 【皇后宮(令子)と待賢門院、仁和寺より還御】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
7月7日 【皇后宮(令子)・前斎院(禎子?)、御誦経御経供養なし】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月24日 【皇后宮(令子)と鳥羽上皇・待賢門院、北殿へ渡御】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月25日 【皇后宮(令子)と待賢門院、鳥羽より還御】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
8月28日 【皇后宮(令子)所宛】
(未入力)
長秋記 長承2年
(1133)
9月22日 【皇后宮(令子)御仏経供養】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
1月9日 【皇后宮(令子)御給】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
2月17日 【一切経会。皇后宮(令子)布施、参列】
(未入力)
中右記
長秋記
十三代要略
一代要記
帝王編年記
皇代暦
ほか
長承3年
(1134)
3月19日 【皇后宮令子内親王を太皇太后とする】
『中右記』
(未入力)

『長秋記』
(未入力)

『十三代要略』
(崇徳院 後宮)
太皇太后令子内親王
  大治四年七月廿二日。出家。
  三月廿九日。爲太皇太后。

『一代要記』
(崇徳天皇)
大皇大后宮 令子内親王<長治[承]三ー三月十九日改皇后爲大皇大ヽヽ[后宮]、泰子立后日、大治五ー七月廿六日落餝爲尼、>

『帝王編年記』
(崇徳院 後宮)
皇后令子内親王<長承三年三月十九日爲太皇太后>

『皇代暦』
(崇徳天皇 後宮)
皇后宮令子内親王
長承三年爲太皇太后大治五年出家
長秋記 長承3年
(1134)
9月6日 【鳥羽御念仏結願。太皇太后(令子)と鳥羽上皇・待賢門院、鳥羽より還御】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
12月4日 【源師時、大宮(令子)へ参上】
(未入力)
長秋記 長承3年
(1134)
12月5日 【恂子内親王・本仁親王、太皇太后(令子)御所に渡り髪削】
(未入力)
中右記 長承3年
(1134)
閏12月15日 【秋除目。三后(中宮藤原聖子、皇后藤原泰子、太皇太后令子)申文】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月5日 【太皇太后宮(令子)御給】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月9日 【太皇太后宮侍貞利、修理進国兼を傷く】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月26日 【除目。后三所(中宮藤原聖子、皇后藤原泰子、太皇太后令子)】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
2月3日 【源師時、太皇太后(令子?)へ参向】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
2月13日 【大将藤原頼長、太后(令子)へ慶申。】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月8日 【大宮(令子?)御消息記事】
(未入力)
長秋記 長承4年
[保延元年]
(1135)
3月24日 【太皇太后(令子)舞御覧】
(未入力)
中右記 保延2年
(1136)
1月6日 【叙位。太后宮(令子)申文】
(未入力)
長秋記 保延2年
(1136)
1月26日 【太后(令子)亮記事】
(未入力)
中右記 保延2年
(1136)
3月23日 【鳥羽上皇、鳥羽御堂供養。太皇太后宮(令子)布施】
(未入力)
台記 保延2年
(1136)
12月13日 【内大臣藤原頼長、慶申。大宮(太皇太后令子)・土御門斎院(禎子)に参向】
 今日予慶申也、(中略)
院示聞食了由、次二拜、此間、予車引過南門南也、爲參大宮也、次參大宮、<御所白河也、院御所也、本是法印信縁大泉亭也、>自西面欲參入之處、宮侍出來、示自南門可參之由、仍入自南門、立庭中門下、以亮實兼申事由、示聞食了由、二拜之後、定兼示有召由、予居殿上、次參簾中、女房擡簾、頃之、退出時、女房擡簾、又欲着履之間、女房●簾招實兼、實兼參、女房、入大刀於錦袋差出、實兼取之授予、左手乍持笏、以右手取之、給顯親云、以亮可返進也、顯親給實兼、實兼給女房、次參前齋院、<土御門(禎子)、>入自万里小路西門、■石履脱下、、<依無中門立此所也、>以權辨雅綱申事由、歸出示聞食了由、予二拜了、雅綱示有召由、予昇自件石履脱、參御前、女房擡簾令參入也、出時同擡、欲着履之時、雅綱、持錦小袋横笛、授左馬權頭顯定、予示可返上之由、仍返上畢云々、(後略)

●=褰(こちらを参照(字源))
中右記 保延3年
(1137)
12月29日 【小除目。太皇太后宮少進藤原定兼】
(未入力)
公卿補任 保延5年
(1139)
8月3日 【大納言源師頼、大宮大夫を辞任】
 大納言正二位 源師頼<七十二> 大宮大夫。七月十六爲躰仁親王勅別當。八月三辭大夫。同日勅授帶釼。十二月四薨(先是出家)。依喉所勞也。
兵範記(人車記) 保延7年
[永治元年]
(1141)
3月8日 【鳥羽上皇、六条万里小路の故源資成第に大宮(令子?)を訪問】
(未入力)
近衛天皇
史料 月日 記述
台紀 永治2年
[康治元年]
(1142)
1月3日 【太后宮(令子?)拝礼】
(未入力)
本朝世紀 康治2年
(1143)
4月8日 【盗賊、太皇太后宮大進藤原清兼を負傷】
(未入力)
台記
重憲記
本朝世紀
帝王編年記
一代要記
ほか
天養元年
(1144)
4月21日 【太皇太后令子内親王崩御】
『台記』
 太皇太后(令子)崩、權大夫忠基卿、承法皇詔、行喪事、

『重憲記』
 未剋、太皇太后宮、<令子>崩給、<春秋六十七、>十余ヶ日以来令煩物気給云々、

『本朝世紀』
 未時。太皇太后宮(令子)崩給。<春秋六十七。>

『帝王編年記』
(近衛院 後宮)
 太皇太后令子内親王<天養元年四月廿一日崩于二條堀川亭>

『一代要記』
(近衛院天皇)
 大皇大后宮 令子<天養元ー四月廿一日崩、尼也、<六十七、>>
台記 天養元年
(1144)
4月26日 【鳥羽法皇、養母令子の喪に服す】
 親隆來語曰、太后(令子)葬雜事、明日可被定云々、法皇(鳥羽院)、自明日可令觸穢給、忽依有養母之義、可有五月御服、<衣色、同喪父母、>喪、禮、偏法皇所令沙汰給也、君子曰、明王以孝治天下、此之謂也、昔喪白川太上法皇、哀容過于禮、今喪太后、又不失節矣、孝道之美、豈有所加哉、
重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月27日 【故太皇太后(令子)入棺】
『重憲記』
 今夜、大宮(令子)御入棺云々、

『本朝世紀』
 今夜、有大宮(令子)御入棺事。
台記
重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
4月29日 【故太皇太后令子を岩陰に葬送】
『台記』
(前略)葬太皇太后(令子)石陰、入夜、乘女車、向中御門大宮、見太后葬禮、卿已下、會葬之數百、

『重憲記』
(前略)次召大外記仰云、依太皇太后宮(令子)崩給事、今日以後廃朝五ケ日、兼又可停音奏由、宜仰内竪者、還腋陣以司人助正不可音奏由召仰内竪大主鈴伴為忠了、(中略)
今夜、大宮御葬送也、予為見物竊向待賢門辺、新中納言、権大夫、堀川宰相已下、蔵人五位諸大夫卅人許、并衛府諸司等自院被催進云々、戌剋、有此事、其路壊冷泉面築垣、<御所、二条北油小路東、>自油小路北行、大炊御門西折、出大宮北行自一条北行、至香隆寺、左少将光忠著●麻与権大夫在御車後、(中略)
今夜、仙院(鳥羽院)著御紵[錫脱]給云々、<五ケ日歟、>依御養母儀也、出家之人為傍親可有御服哉事、有其沙汰云々、但外記不知事也、

『本朝世紀』
 次召大外記仰云。今日以後五箇日間。可為廃朝。又可停音奏由。可伝仰内竪者。次召諸衛官人有警固召仰。<四府。>依大宮(令子)御葬送也。

●=縗(糸偏+衰。喪服またはその衣のこと。こちらを参照(字源))
台記 天養元年
(1144)
5月9日 【太皇太后令子崩御による鳥羽院穢のこと】
 寅刻、下人云、法皇御所<北白川殿、>火、即與大將軍、同車參入、先之、渡御南殿、法皇觸太皇[后?]穢、仍先日、公卿、不可昇堂上之由被仰、然而、今日皆昇、(後略)
台記 天養元年
(1144)
5月28日 【故太皇太后令子御法事】
 太后(令子)御法事云々、欲參入、而法皇不幸、仍會葬之人外、卿相不參云々、依不參入、
台記 天養元年
(1144)
6月10日 【故太皇太后令子御法会】
 法皇(鳥羽院)、幸尊勝寺阿彌陀堂、請百僧行太皇太后(令子)正日之事、法皇服斬衰、群臣吉服、但權大夫忠基卿、服●衰、導師興福寺別當覺譽、事畢行香、布施、予共預此役、法皇已致母義、臣不能忌憚也、請實範聖人、令供養銅像如意輪、依願成就、所奉鋳也、可爲本尊、

●=緦(糸偏+思。喪服に用いる目の粗い麻布のこと。こちらを参照(字源))
台記 天養元年
(1144)
9月17日 【太皇太后令子崩御の除服】
 參院(鳥羽法皇)、高陽院、除太后服之後、今日初幸歓喜光院、(後略)
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
3月6日 【太后(令子)法事のこと】
(未入力)
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
4月21日 【法皇(鳥羽)、故太皇太后(令子)一周忌の法会を修す】
(未入力)



史料 記述
十三代要略
白河院
(皇女)
 令子内親王<母同媞子(中宮賢子関白左大臣女)。>
  承暦三年四月廿六日。爲内親王。
  應徳元年十一月十四日。准三宮。

堀川院
 寛治三年 六月廿八日。卜定令子内親王。爲賀茂齋院。
 嘉承二年 七月十九日。辰刻。(堀河)天皇崩于堀河院。<年廿九。>(後略)
      十一月一日。(鳥羽天皇)即位大極殿。<年五。>令子内親王准母儀蒙立后宣旨。

鳥羽院
 天仁元年 十月二十日。大嘗會御禊也。皇后同■[輿?]。
(後宮)
 皇后 令子内親王<太上法皇(白河院)第三女/母中宮賢子。>
  嘉承二年十二月一日。爲皇后擬母儀。

崇徳院
 天治元年 (十一月)廿八日。皇后宮行啓賀茂。
 大治四年 (七月)七日。辰刻。<白川>法皇俄崩御。于三條室町亭。<七十七。>
      廿六日。皇后宮出家。
 大治五年 (十月)廿五日。女院(待賢門院)御願。法金剛院供養也。上皇(鳥羽院)女院皇后宮渡御。
 長承三年 二月十七日。上皇(鳥羽院)於法勝寺今自供養金泥一切經。(崇徳)天皇行幸。女院(待賢門院)皇后宮同渡御。有勤賞。
(後宮)
 太皇太后 令子内親王
  大治四年七月廿二日。出家。
  三月廿九日。爲太皇太后。
一代要記
白河院天皇
(皇女)
 令子内親王<賀茂斎、><准宮、承暦三ー四月二十六日爲内親王、<二才、>同四ー三月十六日給別封五百戸、/應徳元ー十一月十四日准三宮、 年 月 日薨、號二条大宮、>

堀河院天皇
(斎院)
 令子内ヽヽ[親王]
 白河院二女、承暦三ー四月廿六日爲内親王、<二才、>寛治七ー六月廿八日卜定、應徳元ー十一月十四日准三后、號二條大宮、>

鳥羽院天皇
(皇后)
 令子内親王嘉承二ー十二月一日爲皇后、天皇即位日擬母儀、>

崇徳天皇
(大皇大后宮)
 令子内親王<長治[承]三ー三月十九日改皇后爲大皇大ヽヽ[后宮]、泰子立后日、大治五ー七月廿六日落餝爲尼、>

近衛院天皇
(大皇大后宮)
 令子<天養元ー四月廿一日崩、尼也、<六十七、>>
帝王編年記
白河院
(皇女)
 令子内親王<母同堀川院/号二條大宮>

堀河院
(齋院)
<准三宮>
 令子内親王<法皇(白河院)第三皇女寛治三年六月廿八日卜定/承徳三年六月廿一日依病退出>

鳥羽院
(後宮)
 皇后宮令子内親王<法皇(白河院)第二皇女>

崇徳院
(後宮)
 皇后令子内親王<長承三年三月十九日爲太皇太后>

近衛院
(後宮)
 太皇太后令子内親王<天養元年四月廿一日崩于二條堀川亭>
二中歴
(齋院)
 令子<白河女後鳥羽御母代 寛治三年(號一[二]條大齋院)>

(后妃)
 令子<皇后令子内親王 鳥羽殿女房>
皇代暦
堀河天皇
(齋院)
 令子内親王 白川院第三女依病退之

鳥羽天皇
(後宮)
 皇后宮令子

崇徳天皇
(後宮)
 皇后宮令子内親王 長承三年爲太皇太后大治五年出家

近衛天皇
(後宮)
 太皇后宮令子 天養元年四月廿一日崩尼也年六十七
本朝皇胤紹運録
(白河院子)
(286)令子内親王[齋院。准三宮。皇后鳥羽准母。母同堀河院(中宮賢子)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
令子内親王<准三后皇后(右傍書)> 寛治三年卜定。白河院第八御女。母中宮賢子。鳥羽院准母。二條大宮。
賀茂斎院記
令子内親王
白河院第八之皇女也。母中宮賢子。太政大臣師実之女也。<実右大臣顕房女。>
寛治二年卜定。其後為鳥羽院之准母。
号二条大宮。
栄花物語
(39・布引の滝)
【令子内親王誕生】
 中宮(白河后賢子)、五月十八日、いとやすらかに女宮(令子)を生みたてまつらせたまへり。口惜しきこと(男子でなかったこと)を誰も誰も思し嘆く。殿の上(師実室麗子)とりわきかしづきたてまつらせたまふ。
栄花物語
(40・紫野)
【中宮賢子崩御、皇子女たち退出】
 御遊びなどあるべきを、中宮例ならずおはしますといふことありて、華やかなることはとまりぬ。(中略)宮(中宮賢子)の御心地重くおはしますとて、十七日に急ぎ帰らせたまひぬ。
 いと重くおはしましけり。日を経て重くならせたまひて、九月二十二日うせさせたまひぬ。あさましなども世の常なり。いづ方にも思し嘆かせたまふさま、いひやる方なし。右の大殿の上(右大臣源顕房室、賢子生母)、殿の上(関白師実室源麗子)など、ただ思ひやるべし。内の御前(白河天皇)にはことわりとは申しながら、いふ方なくたぐひなく思しめし入らせたまへり。またこれをいみじき嘆きに、殿(関白師実)よりはじめ嘆かせたまふ。東宮大夫(藤原実季)など思ひ嘆きたまふことかぎりなく、宮々(善仁親王・令子内親王?)も殿(師実邸)に出でさせたまひぬ。斎宮(媞子内親王)おりさせたまひぬ。(中略)殿にも、宮たちの恋ひたてまつらせたまふを見たてまつらせたまふも、あはれなり。

【白河院の行幸、令子内親王の斎院卜定】
 故宮(中宮賢子)うせさせたまひては、いづれの宮たちをも見たてまつらせたまふこともなく、なかなかに見たてまつらんにつけて催されぬべしとて、この二三年ばかり、かくいみじき御有様どもを見たてまつらせたまはざりつるを、御禊のほどより、斎宮(媞子内親王)をも見たてまつり、内(堀河天皇)をも、御禊の後、行幸もたびたびありなどして、殿(師実邸)におはします姫宮(令子)見たてまつらせたまふなりけり。日一日(ひひとひ)もてあそび、よろづのをかしきことを尽して御覧ぜさせたてまつらせたまひて、還らせたまひぬれば、名残恋しく思しめさるらんかし、ただ斎宮の御方にのみおはします。(中略)

 かくて瑠璃女御と聞えしうせたまひぬれば、斎院(斉子女王)おりさせたまひぬ。(中略) 一院(白河院)の姫宮(令子)、殿におはします、斎院にゐさせたまひぬ。いと華やかにめでたき御有様なり。
 定まらせたまひなば御対面難(かた)かるべければ、院に渡らせたまふ。四条宮(太皇太后藤原寛子)の姫宮(禎子内親王)も渡らせたまふ。若き人々、薄物、綾、かとり(※)の単襲(ひとへがさね)の色々なるに、裳、唐衣などめでたくをかしう、花の色々を織りつくして十人、さらに大人などは織りたる五重なる三重なる、浮線綾など着たるもあり。四条宮の姫宮の御方にも四人ばかりぞさぶらはせさせたまふ。かたち、有様心ことに選らせたまへり。斎宮(媞子)の御方もおろかならんやは。院いづれもおろかならず見たてまつらせたまふ。
 かくて六月つごもり方にゐさせたまひぬ。人の家(源高実邸。近衛万里小路)におはします。またの年の御禊にぞ、大膳職にわたらせたまふ。御禊の有様などいとめでたし。屐子(けいし、履物の一種)はきなどさえ選らせたまへり。

※「かとり」=糸偏に兼。絹を固く織った平織りの布地のこと。
 字はこちらを参照(字源)。
古今著聞集
(408)
【後二条師通、白河の斎院にて鞠の会の事】
 後二条殿(関白藤原師通)、三月の比(ころ)、白河の斎院(令子内親王)へ参り給ひて、御鞠会(おんまりゑ)ありけるに、しばしありて、汗衫きたる童、扇をさして、片手に蒔絵の手筥の蓋に薄様敷きて雪をおほく盛りて、日隠(ひがくし)の間の御縁に置きて帰り入りにけり。(師通は)御あせなどたりげにて、日隠の間に沓(くつ)はきながら御尻かけて、御手などにては(雪を)とらせ給はで、檜扇のさきにてすこしすくひ給ひけるが、しみたる雪にて、御直衣にかかりたりけるがとけて、二重裏にうつりていでて、むらむらに見えける。さて御鞠ありける、いとうつくしうやさしくなん侍りける。
富家語
(一一)
 仰云、上臈<ハ>黄生下袴<ハ>不令著用。故伏見修理大夫(橘)俊綱朝臣、後冷泉院御時、四条宮(皇后藤原寛子)<ニ>、衣冠<ニ>黄生衣并同下袴<ヲ>著タリケレハ、主上御覧<シテ>、松苔<ト><トコソ>有勅定<シカト>、四条宮令語給<キ>。又故殿(藤原師実)祭帰日、故二条太宮(令子内親王)斎院<ニテ>御坐時、引率人々毎年<ニ>令参給<シニ>、二位大納言(藤原経実?)著黄生衣頻御平給(ヘイキフ)<キ>
讃岐典侍日記
(上)
【白河院、前斎院(令子)御所へ渡る】
 日の暮るるままに、耐へがたげにおぼしめしたれば、院(白河法皇)にかくと案内(あない)申さする。
「おどろかせたまひて、近くて御有様聞かんとて、にはかに北の院(令子内親王御所。堀河院の北隣)に御幸ありて」と奏す。
讃岐典侍日記
(下)
【萩の戸の花】
 明けぬれば、いつしかと起きて、人々めづらしき所々見んとあれど、具してありかばいかが物のみ思い出でられぬべければ、ただほれて居たるに、御前のおはしまして、いさいさ、黒戸のみちをおれら知らぬに教へよと仰せられて引きたてさせ給ふ。参りて見るに、清涼殿・仁寿殿いにしへに変らず。台盤所・昆明池の御障子、今見れば見し人にあひたる心ちす。弘徽殿に皇后宮(令子内親王)おはしまししを、殿(摂政藤原忠実)の御とのゐどころになりにたり。黒戸の小半蔀の前に植ゑおかせ給ひし前栽、心のままにゆくゆくと生ひて、御春の有輔が、
  君がうゑし一むらすすき蟲のねのしげき野辺ともなりにけるかな
といひけむも思い出でらる。

【鳥羽天皇、大嘗会御禊】
 十月十一日大嘗会の御禊とて天の下の人いとなみあいたり。其の日になりて播磨守(藤原)長実御びんづらに参りたり。内の大臣殿(源雅実)朝餉の御簾まきあげて、長押の上に殿(摂政藤原忠実)さぶらはせ給ふ。縁に、左衛門佐いと赤らかなるうへのきぬ着て、事おきてて、しばしありて御びんづらはてかたになりて蔵人参り「女御たいめんに参らせ給へり」と奏すれば、「聞かせ給ひぬ。事どもすすめよ」といそがせ給ふ。事なりて皇后宮(令子内親王)などめでたくしたせさせ給へり。

【雪の思い出】
 一とせ、限のたびなりければにや、常より心に入れもて興じて、参りの夜よりさわぎありかせ給ひて、その夜帳台の試などに夜ふけにしかば、つとめて御あさひの例よりもありしに、雪降りたりと聞かせ給うておほとのごもり起きて、皇后宮(令子内親王)もその折におはしまししかば、御かたがたに御ふみ奉らせ給ふとて、御前に侍ひしかば、日かげをもろともに作りて結びゐさせ給ひたりし事など、上の御局にて昔思い出でられて物ゆかしうもなき心地してまでなど。わらはのぼらんずる長橋、例の事なれば、うちつくり参りて作を、承香殿のきざはしより清涼殿のうしとらの隅なるなかはしとのつままで渡すさま昔ながらなり。

【几帳のこと】
 皇后宮(令子内親王)の御方つねよりは心ことに、細殿の几帳などにも織物の三重の几帳に菊を結びなどして、袖口、菊・紅葉いわいわにこぼし出されたりしかば、過ぎにしかた、例はさやうに乱れさせ給ふこともなかりしが、一昨年も「上の御局に、人々のきぬどもの中によしと御覧ぜんを、上臈・下臈ともいはず、それかれを出ださん。わざと出だしたるとはなくて、はづれてゐあひたるやうにせよとて、御手づから人たち引きすゑて、一のまには出せと仰せられしかば、皆人の袖口もりうたん(竜胆)なるに我が唐衣の赤色にてさへありしかばひとりまじりたらんがけしきおぼえて、「これこそ見苦しくや」と申ししかば、「遠くては何か見えむ、あへ、など、其の人といふふみ付けてもなし、よも見えじ」あながちにせんとおぼしめしたりし事なれば、咎なきやうにいひなさせ給ひて、すべて黒戸の傍につづきたる、小半蔀より御覧じて、「あの袖今少しさし出せ、これ少し引入れよ」など、もて興ぜさせ給ひし有様、いかでか思い出でざるべきぞなど覚えて目とどめらるれ。
今鏡
(2・白河の花宴)
 その後、いづれの年にか侍りけむ(大治元年十二月十六日?)、雪の御幸せさせ給ひしに、たびたび晴れつつ、今日今日ときこえけるほど、にはかに侍りけるに、西山船岡の方御覧じ巡りて、法皇(白河院)も院(鳥羽院)も、都の内には一つ御車にたてまつりて、新院(鳥羽院)御直衣に紅のうち御衣出ださせ給ひて、御馬にたてまつりけるこそ、いとめづらしく、絵にもかかまほしく侍りけれ。
 二条の大宮(令子)の女房、いだし車に、菊紅葉の色々なる衣ども出だしたるに、上下に白き衣を重ねて縫ひ合はせたれば、ほころびは多く、縫ひめは少くて、厚衣(あつぎぬ)の錦などのやうにて、こぼれ出でたるが、菊紅葉の上に雪の降り置けるやうにて、五つ車たて続け侍りけるこそ、いと見所おほく侍りけれ。
今鏡
(7・有栖川)
 故中宮(賢子)の姫宮、二条の大宮とて、女院(郁芳門院媞子)の御おとうとおはしましし、令子内親王とて、斎院になり給ひて、後には、鳥羽院の御母にて、皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちと聞き侍りしは。
 侍従大納言(藤原成通)、三条の大臣(藤原公教)など、まだ下臈におはせし時、月の明(あか)かりける夜(よ)、さまやつして、宮ばらを忍びて立ち聞き給ひけるに、あるはみな寝入りなどしたるもありけり。この宮(令子の邸)に入り給ひければ、西の対の方(かた)、静まりたるけしきにて、人々みな寝たるにやとおぼしかりけるに、奥の方に、わざとはなくて、筝の琴のつま鳴らしして、たえだえ聞えけり。いとやさしく聞えけるに、北の方のつまなる局、妻戸たてたりければ、「月も見ぬにや」とおぼしけるに、うちに源氏(物語)読みて、
「榊こそいみじけれ」
「葵はしかあり」など聞えけり。台盤所の方(かた)には、さざれ石まきて、乱碁(らんご)ひろふ音など聞えけるをぞ、「昔の宮ばらもかくやありけむ」と侍りける。
京極大殿御集
  • 閏三月侍リケルトシ斎院(令子内親王)ニマイリタマヒテ女房ノナカニノタマハセケル
(31)ハルハナヲノコレル物ヲサクラハナシメノウチニハチリハテニケリ(藤原師実)
(春はなを残れる物を桜花しめの内には散り果てにけり)

令子内親王在任時に「閏三月」のあった年とわかることから、寛治8年(1094)と推測される。(『藤原頼宗集 師実集 全釈』花鳥社)
  • 康和元年(1099)四月三日斎院ニテ松映水
(32)チハヤフルイツキノ宮ノアリスカハマツトゝモニソカケハスムヘキ(師実)
(ちはやぶるいつきの宮の有栖川松と共にぞ影はすむべき)

『千載集』に京極前太政大臣作として載る。
  • 二条太皇太后宮(令子内親王)高陽院ニハシメテウツリワタラセ給ケル年祝ノ歌講セラレケルヲノチニマウシイテラルトテ摂津カモ〔   〕ツカハシケル
(34)コノトノゝハルカニサカユマツノ葉ヲチヨノチトセニイハヒコメツゝ(師実)
(この殿の遥かに栄ゆ松の葉を千代の千歳に祝ひ籠めつつ)
  御返シ 摂津
  (一行分空白)
(35)八千年モスムヘキヤトノアルシヲハヨロツヨマテモキミソミルヘキ
(八千年もすむべき宿の主をば万代までも君ぞ見るべき)

摂津(斎院摂津)は令子内親王に仕えた女房歌人で、『摂津集』に同じ贈答が載る。なお「この殿の」の前にもう一首あり、詞書に「人々に祝ひの歌詠ませさせたまひしに」と最高敬語で記されることから、最初の歌は白河天皇の作で、それに続いて師実、摂津が詠んだものか。(『藤原頼宗集 師実集 全釈』花鳥社)
金葉和歌集
  • (雑部)皇后宮(令子内親王)弘徽殿におはしましけるころ、俊頼西面の細殿にて立ちながら人に物申けるに、夜のふけゆくまゝに苦しかりければ、土に居たりけるを見て、畳を敷かせばや、と女の申ければ、畳は石畳敷かれて侍り、と申を聞きてよめる
          皇后宮大弐
(593)石畳ありける物を君にまたしく物なしと思ひけるかな
行宗集
  • 皇后宮(※)斎院にておはしまししとき(1091-1099頃)、故源中納言など人人あまたまゐりて、まりのことなどありて、三月つごもりのことにや、まかりかへりしに、ものにもかかでさぶらひしてかくありし
(23)いかにしてたちかへるらむ神がきにかかれるふぢのいろをみすてて
(いかにして立ち返るらむ神垣にかかれる藤の色を見捨てて)

  かへし
(24)さらぬだにかへるそらなきゆふざれにむすびとどむる神がきのふぢ
(さらぬだに帰る空なき夕ざれに結び留むる神垣の藤)

所京子氏はこの「皇后宮」を28代統子内親王(上西門院)とする(『斎王和歌文学の史的研究』1989)が、源行宗(1064-1144。30代斎院怡子内親王の外祖父)は統子立后(保元3年(1158))の10年以上前に死去している。『行宗集』の歌の配列は詠まれた年代に規則性がないため、個人名のない官職のみの詞書から人物や年代を特定するのは困難だが、この詞書は年代こそ不明ながら後年往時を回想して書かれたことが伺える。『行宗集』には他にも個人名と官職や「堀川院御時」「郁芳門院かくれさせたまひて」等の詞書から、堀河天皇時代に詠まれたことが明らかな歌が複数あり、一方で保延年間とする詞書から晩年の作とわかる歌も見られるが、詞書は行宗自身が生前に記した(または行宗の記録に基づいた)と考えられる。
 また統子の皇后宮時代は、保元3年(1158)〜同4年(1159)のわずか1年と極めて短かった。その1年の間に『行宗集』が他撰により成立した可能性も否定はできないが、行宗の生前において統子は「皇后宮となった前斎院」ではなく、逆に成立が統子の立后後とすれば、むしろその後の上西門院時代の方が30年とはるかに長く、確率としてはかなり低いのではないか。よってこの皇后宮は、嘉祥2年(1107)に立后して以降24年間皇后宮であり続けた前斎院令子内親王と思われる(なお令子は「二条太皇太后」の呼称でも知られるが、太皇太后時代は10年あまりで皇后宮時代よりも短かった)。また「まりのこと」の詞書や歌の描写から本院での催しと推測され、従って行宗28歳から36歳の頃であろう。
 なお「故源中納言」は、令子が太皇太后になる(長承3年(1134))以前に中納言で死去した源氏の公卿と推測される。令子斎院在任中の公卿では源家賢(1048-1095)がいるが、この場合は行宗と同年代で『行宗集』にも「頭中将国信朝臣」の名で登場する歌人の源国信(1069-1111,康和4年(1102)権中納言)である可能性が高いと思われる(国信は令子の叔父で斎院長官(1091〜1093)でもあった)。

【追記】塚谷多貴子氏の「皇后宮令子歌壇論――金葉集期の女流歌壇――」(1974)は上記の二首を(源)国信と行宗の贈答としており、従って「皇后宮」を令子と見なしている。また、高野瀬恵子氏も「令子内親王家の文芸活動―院政前期の内親王とその周辺―」(2008)で、斎院時代の令子内親王家での歌会に含めている。



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