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25代斎院 禎子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
ていし/しんし よしこ・さだこ/さねこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:中宮藤原賢子<贈皇太后>
  (1057-1084)
永保元年(1081)4月17日 久寿3年(1156)1月5日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
堀河(1086〜1107,同母兄) 卜定:康和元年(1099)10月20日
   (源清実[越前守?]
    大炊御門南京極西宅)
初斎院:康和2年(1100)5月28日
   (侍従厨)
本院:康和3年(1101)4月13日
退下:嘉承2年(1107)7月19日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
善子(1077-1132,異母姉)
 [六角斎宮]
 父:白河天皇
 母:女御藤原道子
卜定:寛治元年(1087)2月11日
   (加賀守藤原家道
    三条烏丸宅)
初斎院:寛治元年(1087)9月21日
   (左近衛府)
野宮:寛治2年(1088)9月13日
群行:寛治3年(1089)9月15日
   (長奉送使:藤原公実)
退下:嘉承2年(1107)7月19日
天皇崩御

略歴:
 永保元年(1081)(1歳)4月17日、誕生。
 永保2年(1082)(2歳)3月1日、内親王宣下。
 応徳元年(1084)(4歳)9月22日、母藤原賢子崩御。
 応徳3年(1086)(6歳)3月25日、着袴?
 康和元年(1099)(19歳)10月20日、准三宮。兄堀河天皇の斎院に卜定。
 康和2年(1100)(20歳)5月28日、初斎院(侍従厨)に入る。
 康和3年(1101)(21歳)4月13日、野宮(本院)に入る。
 嘉承2年(1107)(27歳)7月19日、退下。(同日、兄堀河天皇崩御)
 天治2年(1125)(45歳)10月17日、出家。


12月25日、土御門高倉第に遷御。
 大治2年(1127)(47歳)8月14日、養母太皇太后寛子崩御。
 大治4年(1129)(49歳)7月7日、父白河法皇崩御。
 大治5年(1130)(50歳)11月8日、土御門高倉第焼亡。
 久寿3年(1156)(76歳)1月5日、薨去。

号:四条宮の姫宮、土御門斎院、枇杷殿斎院、宇治前斎院、東山前斎院
同母兄弟:敦文親王(1074-1077)
     媞子内親王(1076-1096,郁芳門院)
     令子内親王(1078-1144,24代斎院,二条太皇太后)
     堀河天皇(1079-1107)

斎院勅別当:源国信[伯父](康和5年(1103)10月17日〜?)
斎院長官: 藤原実隆[再従兄弟](康和3年(1101)4月10日同4年(1102)4月11日
      藤原長兼(康和4年(1102)4月11日嘉承2年(1107)7月19日(退下))

白河天皇第四皇女。名前の表記は「禎子」または「禛(示編+眞)子」の他、「慎子」とする史料もある(注:「禛」は常用漢字ではないため、ここでは「禎」を採用した)
 母藤原賢子は源顕房女で、後三条天皇の再従兄妹。関白藤原師実養女となり入内した。
 (※父方の祖母尊子が、後三条天皇の祖母上東門院彰子・三条天皇中宮妍子の異母妹。なお養父師実と実父顕房は従兄弟)
 斎院勅別当源国信は母賢子の異母弟で、24代令子(禎子の同母姉)の斎院長官も務めた。
 また斎院長官実隆の父実季は白河天皇の従兄弟であり、実隆は禎子の再従兄弟にあたる。

      藤原道長
       |
 ┌─────┴─────┬─────┬─────┬───┐
 |           |     |     |   |
 頼宗          彰子    妍子    尊子  頼通
 |          (一条中宮) (三条中宮)  |   |
 |           |     |     |   ├───┐
 |           |     |     |   |   |
 能長        後朱雀天皇===禎子   源顕房  師実  寛子
                 |       |      [四条宮]
 ┌───────┐       |       |
 |       |       |       |
藤原公実     茂子=====後三条天皇    |
 |           |        ┌──┴──┬────┐
 |           |        |     |    |
藤原実季 藤原道子===白河天皇=====藤原賢子  源雅実  源国信
 |   (能長女) |       |  (師実養女)      [勅別当]
 |        |     ┌─┴──┬────┬────┐
 |        |     |    |    |    |
藤原実隆      善子   堀河天皇  媞子   令子  ◆禎子
 [長官]       (斎宮)       [郁芳門院]

 永保元年(1081)、賀茂祭の日(4月17日、斎院は斉子女王)に生まれる。誕生後数ヶ月で、子のなかった四条宮寛子(太皇太后、後冷泉天皇皇后)に引き取られて猶子となり、「四条宮の姫宮」と称された『栄花物語』(40・紫野)『水左記』永保元年8月10日条。なお四条宮寛子は、禎子の養祖父師実の姉にあたる)
 24代令子内親王は禎子の同母姉であるが、令子もまた早くから養祖父母の藤原師実夫妻に養育されていたらしい。また令子・禎子の同母姉である媞子内親王(のち中宮、郁芳門院)は斎宮退下後に父白河院の手元で鍾愛されていたが、令子・禎子は早くから摂関家の後見を受けていたために、却って父や長姉との馴染みは薄かったようである。

 康和元年(1099)、姉令子が退下したことにより斎院となった禎子内親王は、兄堀河天皇崩御までの約8年間任にあった(※ただし退下理由は天皇崩御ではなく、禎子自身の病によるとされる)。在任中の消息を伝える記録は御禊や賀茂祭、相嘗祭に関する記事が殆どで、嘉承元年(1106)の賀茂別雷社火災以外には目立った事件もなく、概ね平穏な斎院生活だったと見られる。
 斎院を退下した後の禎子は再び養母寛子と共に暮らし、寛子亡き後はその遺産を相続した。禎子の没後、遺産の一部は高陽院や八条院に渡ったとされる(『兵範記』久寿3年(1156)1月5日条)

『今鏡』(7・有栖川)には、斎院退下の後に禎子内親王が仏道に心を入れていたことや、歌合わせを好みゆかしい暮らしぶりであったことが記されている。また歌人の待賢門院堀河(源顕仲女)は『金葉集』によれば始め「前斎院六条」と称したといい、この「前斎院」は禎子を指すと思われる(同母姉令子の御所にも「二条太皇太后堀河」と呼ばれた女房がいたらしいが、高野瀬恵子氏は「待賢門院堀河」と「二条太皇太后堀河」は別人であろうと考察している。「令子内親王家の文芸活動」)

参考論文:
・高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動−院政前期の内親王とその周辺−」
 (『総合研究大学院大学学術情報リポジトリ』(日本文学研究専攻), 2008)
 [機関リポジトリ全文あり]

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録85.白河天皇 巻5』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※禎子内親王については80〜89コマにあり





【応徳3年の姫宮着袴と堀川殿】
『後二条師通記』応徳3年(1086)3月25日条には、次のような記事がある。

(朱)「姫宮御着袴」(右頭書)
 今朝雨降、堀川殿也、姫宮御袴衣也、入夜天晴、着公卿座、暫間着関白殿(藤原師実)座給也、以治部卿(藤原)伊房大夫時成也、令度給之由也、結御袴腰畢、帰程笙送物、殿(見せ消ち)[取]中納言(藤原)家忠、入出居戸畢、

 この「姫宮」について個人名の記載はないが、着袴を挙行したのが関白師実であったからか、『大日本古記録』は「姫宮」を当時師実夫妻に養われていた令子内親王としている。
 しかし承暦2年(1078)生まれの令子はこの時9歳で、着袴にしてはかなり遅い年齢である。同じ白河天皇の子で、令子・禎子の異母姉にあたる善子内親王(白河第二皇女)は、永保元年(1081)11月28日に5歳で着袴を行っており(『水左記』『帥記』『為房卿記』)、また令子・禎子の同母兄弟である善仁親王(堀河天皇)は、同時代の記録はないものの『皇年代略記』『皇代暦』によれば、永保3年(1083)2月9日に堀川院において5歳で着袴を行ったとされる(ただし『後二条師通記』同日条によると、この日は大原野祭で、白河天皇は御遊の後中宮賢子と共に六条院に行幸しており、同日に着袴があったとは考えにくい。また同じく『師通記』同年11月8日条に二宮(善仁親王)が参内したとの記述があり、2月ではなく11月の誤記か)。また白河天皇の異母弟である東宮実仁親王も、承保2年(1075)8月16日に同じく5歳で着袴の記録があり(『水左記』『扶桑略記』)、この頃は5歳前後が着袴の標準的な年齢であったことが伺える。特に善子内親王は、中宮藤原賢子に押されて白河天皇の寵も薄かったという女御藤原道子所生であり、妹とはいえ中宮賢子所生の令子の処遇が善子に劣るとは考えにくい(※なお長女媞子内親王は史料に記録はないが、『栄花物語』(39・布引の滝)では承暦2年(1078)に3歳で着袴したとあり、彼女の場合は同年の斎宮卜定により他のきょうだいよりも早められたものか)
 また『栄花物語』(40・紫野)冒頭には、「殿(関白師実)には、宮たち、若君(忠実)の御袴着など、御いそぎのみしきる」とある。忠実の着袴は永保3年(1083)3月7日(当時忠実6歳)のことであり(『後二条師通記』)、「宮たち」と複数形であるから、この記述が正しいとすれば、前後2〜3年(1082〜1084頃?)の間に2回以上の皇子女の着袴があったと解釈できる。しかも師実主導であれば当然中宮賢子所生の皇子女であろうから、承暦4年(1080)に伊勢へ下向していた媞子を除けば、この「宮たち」は永保3年6歳の令子内親王と5歳の善仁親王の二人と思われる(永保元年(1081)に着袴を行ったことが明らかな善子内親王は内大臣藤原能長の外孫であり、ここでの「宮たち」には含まれないだろう。また「宮たち」に禎子内親王(永保3年3歳)も含めると、逆に応徳3年着袴の「姫宮」の該当者がいなくなってしまうので、やはり当てはまらないことになる)
 従って、年齢から言っても『栄花』で御袴着を急いだ「宮たち」には禎子は含まれず、応徳3年の着袴は当時6歳の禎子内親王であった可能性が高いと考えられる。

 ところで、禎子内親王は誕生から4カ月後に太皇太后藤原寛子の御所へ移り、そのまま寛子の猶子になったとされる。なお寛子がその名に冠する「四条宮」(左京四条三坊四町。現在の四条通・西洞院通交差点の北東)は、『百錬抄』によると承暦3年(1079)12月24日に焼亡しており、翌年寛子は東三条院に移ったらしい(『水左記』承暦4年(1080)1月14日条)。しかし当時の東三条院は摂関家の重要な邸宅ではあったものの、「日常生活のための常住の住宅」ではなかったとされる(飯淵康一『平安時代貴族住宅の研究』)。では四条宮焼亡の後、寛子はどこを御所としていたのか。
 そこで永保〜応徳年間の寛子に関する記録を辿ると、所在がわかるのは以下の記事である。

月日 史料/記事
永保元年(1081)8月10日
『為房卿記』
女二宮(令子内親王?)自堀川殿入御中宮(藤原賢子)<北政所(源麗子)同事。>、次子尅新姫宮(禎子内親王)渡御四条宮<同御堀川殿、>依可被奉養育也。
永保2年(1082)3月25日
『為房卿記』
又女三宮、<禎子、>自四條宮(藤原寛子)御所<坐堀川殿、>始御入内、
永保2年(1082)4月13日
『為房卿記』
今日太皇太后(藤原寛子)自堀川殿渡御近衛殿■■■常行啓引黄牛。
『諸院宮御移徙部類記(堀左記)』
此日太皇太后宮(藤原寛子)自堀河院渡華山院給、
応徳3年(1086)1月1日
『師通記』
殿(関白師実)立畢、左大臣(源俊房)暫留後參堀河殿、太皇太后宮(藤原寛子)・殿參、姫宮(令子内親王)・上(源麗子)、頃畢、
応徳3年(1086)4月7日
『師通記』
四条宮(藤原寛子)華山院令■給度也、

 以上の通り、禎子が初めて四条宮寛子の元へ入った際の御所は堀川殿(別名堀河院。堀河殿、堀川院とも表記。以下、史料原文を除き「堀川殿」で統一する)であり、その後も応徳3年(1086)1月にやはり堀川殿にいたことがわかる。当時堀川殿は寛子の弟師実の邸宅であったから、関白の姉太皇太后の御所とされたのは当然であろう。
 周知の通り、堀川殿(左京三条二坊九・十町。現在の二条城東隣、二条通と御池通の間)は9世紀まで遡る歴史を誇り、また最初の里内裏となったことでも知られる、摂関家の代表的な由緒ある邸宅の一つであった。師実邸としての堀川殿は承暦3年(1079)に落成、同4年(1080)に白河天皇が里内裏とした際は短期間だったが、永保2年(1082)7月29日に内裏が焼亡した後、同年8月3日に白河天皇は「関白堀河院」へ移り、その後永保3年(1083)にかけて殆どの期間、堀川殿を里内裏としていた。この間に寛子が堀川殿にいたとの記録がない(そもそも寛子の動向を伝える記事自体が殆どない)ことから見て、恐らく寛子はこの頃別な邸宅を御所としていたと考えられる(『為房卿記』は永保3年(1083)10月18日条に「殿參候、太皇太后殿御座」と記しており、邸宅名は不明だが、やはり寛子は師実邸にいたらしい。なお『師通記』によると、同年7月3日に師実夫妻と令子内親王が大炊殿へ移転しているので、寛子も大炊殿にいたものか)。その後応徳元年(1084)落成した三条殿が新たな里内裏となり、それにより寛子も再び堀川殿へ戻ったのであろう。

月日 出来事
承暦3年(1079)8月19日
堀河院上棟。(『為房卿記』)
承暦3年(1079)12月24日
太皇太后寛子御所・四条院焼亡。(『扶桑略記』『百錬抄』)
承暦4年(1080)1月14日
太皇太后寛子、東三条院へ移転。(『水左記』)
永保元年(1081)4月17日
禎子内親王誕生。(『帥記』)
永保元年(1081)8月10日
太皇太后寛子、堀川殿に滞在。禎子内親王を迎える。(『水左記』『為房卿記』)
永保2年(1082)3月25日
禎子内親王と太皇太后寛子、堀川殿に滞在。(『為房卿記』)
永保2年(1082)7月29日
内裏焼亡。(『扶桑略記』『百錬抄』)
永保2年(1082)8月3日
白河天皇、堀河院へ遷御(以後里内裏)。(『百錬抄』)
永保3年(1083)10月18日
太皇太后寛子、師実第に滞在。(『師通記』)
応徳元年(1084)2月11日
白河天皇、三条殿へ遷御。(『師通記』)
応徳元年(1084)4月11日
師通、「殿下(関白師実)堀川殿」に参向。(『師通記』)
応徳元年(1084)9月17日
中宮藤原賢子崩御。(『師通記』ほか)
応徳3年(1086)1月1日
太皇太后寛子、堀河殿に滞在。(『師通記』)
応徳3年(1086)3月25日
姫宮着袴。(『師通記』)
応徳3年(1086)11月26日
堀河天皇即位。(『師通記』ほか)

 つまり寛子・師実姉弟は、同時期に白河天皇の皇女二人をそれぞれ引き取っただけでなく、当時同じ堀川殿で姉妹二人の姫宮たちと共に暮らしていたのである。というより、そもそも禎子内親王が寛子の元へ引き取られたのも、寛子が師実と同居しており、禎子の姉令子の側にいたことも大きかったのではないか。
 無論、堀川殿は二町を占める広大な邸宅であるから、現代の感覚で考える「同居」とは大違いであろうし、少なくとも師実一家と寛子はそれぞれ別々の建物に住んでいたと思われる(※『帥記』『師通記』『為房卿記』から、当時堀川殿には寝殿の他東対・西対等があったことが知られる)。とはいえ同じ敷地内ならば、お互いの行き来は比較的容易であったろう。
 また堀川殿は師実養女の中宮賢子の里第でもあったから、賢子存命の頃には宮中から退出した母后や善仁親王(堀河天皇)と、令子・禎子姉妹の対面もあったのではないか。令子・禎子姉妹は別々の所で養育されていたとされるが(高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動」)、この堀川殿時代は何と言っても同じ邸内だけに、時には幼いきょうだい三人が共に戯れる微笑ましい光景も見られたかもしれない。

 ところで記録を見ると、師実は応徳2年(1085)頃から大炊殿(左京二条三坊三町。現在の竹屋町通・西洞院通交差点の南東)を本邸としていたようである。恐らく師実も堀川殿(堀河院)が里内裏となったため、寛子と同様他の邸宅に転居したのであろう。大炊殿は一町の邸宅であるから、当然堀川殿より手狭であったと思われるが、その後も三条殿や高陽院等に転居を繰り返して堀川殿には戻っておらず、いつからか寛子との同居も解消されていたようである。
『師通記』応徳2年(1085)1月2日条には「太皇太后宮(寛子)参入、二姫宮・上(源麗子)伴、」とあり、この時記主師通は大炊殿から母麗子を伴い、当時堀川殿を御所としていた寛子の元へ参上したらしい。そして「二姫宮」は麗子と同伴であったことから見て明らかに令子内親王だが、『師通記』の他の記事に登場する令子の呼称は殆どがただ「姫宮」である。それがここでは「二姫宮」なのは、記事には現れないが寛子の元に妹の「三姫宮」禎子がいたためと思われる(※なお正確には異母姉の善子内親王が第二皇女(二姫宮)で、令子は第三皇女(三姫宮)、また禎子は第四皇女(四姫宮)だが、『為房卿記』も令子を「女二宮」、禎子を「女三宮」としている。かつて後朱雀皇女の祐子内親王も、異母姉二人がいながら「高倉一宮」と呼ばれた先例があり(『栄花』36・根あはせ)、令子・禎子も同様に「中宮所生の次女・三女」の意味でこう呼ばれていたらしい)
 更に『師通記』によれば、姫宮着袴前日の同3年3月24日条で、師実が師通に対して四条宮へ参上するように命じているが、時期的に見てこれは25日の着袴の儀式に関する打ち合わせのためではなかったか。また当時皇族の着袴では父天皇か摂関・大臣等が腰結役を務める場合が殆どであり、女性が腰結役となった先例は見られない(服藤早苗「平安王朝社会の着袴」)。とすれば、問題の「姫宮」が師実養女の令子ならば、父帝のいる内裏や養父関白の邸ではなく太皇太后御所であった堀川殿へわざわざ着袴のために渡る理由がない(※なお着裳については上東門院彰子が姪の禎子内親王(陽明門院)の腰結を務めた例があり、その際禎子は枇杷殿から彰子の土御門殿に渡っている(『小右記』『栄花』19・御裳ぎ)。また善子内親王は内裏麗景殿で着袴を行っており(『為房卿記』)、「主上渡御」とあるから腰結役は恐らく父白河天皇であろう)
 しかし禎子であれば、それは皇女であると同時に太皇太后養女の着袴ということになり、自ら腰結はしないまでも主催は当然養母寛子であろうから、関白自ら太皇太后御所(=堀川殿)へ参上して着袴を執り行ったのも不思議ではない。よってこの時、主役である「姫宮」が着袴のために堀川殿へ渡御したという記録がないのも頷けよう。
 以上の点から見て、やはり25日に堀川殿で着袴を行った「姫宮」は9歳の令子内親王ではなく、6歳の禎子内親王であったと思われる。
 なお記録に残る限りでは、当時の着袴は大半が秋から冬に実施されているが、禎子の着袴は6歳の春3月である。きょうだいの例を見ても、本来禎子の着袴も5歳の秋か冬が適当だったと思われるが、禎子内親王4歳の応徳元年(1084)9月22日、母中宮賢子が28歳で崩御した。よってその後1年、賢子所生の皇子女たちは母の喪に服すこととなり、しかもその服喪明けからわずか一月半後の同2年(1085)11月8日、今度は東宮実仁親王が15歳の若さで疱瘡により薨去するという悲劇が重なった(このため応徳2年は豊明節会も中止となっている)。父方のオジオバの服喪は「喪葬令」で3ヶ月と定められており、従って禎子とそのきょうだい達は母に続いて今度は叔父の服喪となったのである。このため禎子の着袴も当初は応徳2年の冬に予定していた(?)のが年内に行えなかった結果、翌年春にずれこんだ可能性が考えられる。
 また当時白河天皇は在位中であったから、本来は異母姉善子内親王の時のように、内裏に参上して父天皇が着袴の腰結をするのが通例であったと思われる(まして禎子は后腹内親王である)。しかし上記の通り中宮賢子が急死したことで、白河天皇の悲嘆が甚だしかったことは各史料にも記録が残っている。『栄花』(40・紫野)でも「故宮(賢子)うせさせたまひては、(白河天皇は)いづれの宮たちをも見たてまつらせたまふこともなく、なかなかに見たてまつらんにつけて催されぬべしとて、この二三年ばかり、かくいみじき御有様どもを見たてまつらせたまはざりつる」とあり、所生の子たちを見ればまた悲しみが甦るからと会わなかったというので、恐らくこれも禎子の着袴の遅れの一因であり、それで結局師実が父帝の代わりに腰結を勤めたのであろう。
 この着袴から3年後の寛治3年(1089)6月、禎子の姉令子は12歳で賀茂斎院に卜定された。翌年令子は宮中初斎院へ入り、10年後の康和元年(1099)に退下するが、その4か月後に今度は禎子が姉に続き19歳で斎院に立つこととなる。なお長姉媞子内親王は、既に永長元年(1096)他界していた。
 その後斎院を下りた令子は弟堀河天皇の暮らす宮中へ入り、堀河天皇の没後には甥鳥羽天皇の准母として立后した。しかし禎子には退下後も宮中入りの記事は見られず、天治2年(1125)に45歳で出家している。斎院退下後、姉妹は再び同じ邸宅で暮らすことはおろか、顔を合わせる機会すらも滅多になかったようである。
 四条宮寛子がいつまで堀川殿に暮らしたかは定かでなく、寛治5年(1091)に三条殿(『師通記』1月3日条、『為房卿記』閏7月25日条)、同7年(1093)に大炊殿(『師通記』6月10日条)にいた等の記録が散見されるものの、寛治年間以降に堀川殿にいたという記録はない。また『栄花物語』(40・紫野)では、令子の斎院卜定の前に「四条宮も宇治に御堂建てて通ひ住ませたまふ。故中宮の姫宮一所は、この宮におはします」とあり、師実と寛子が別々に暮らしていたことが伺える。これは応徳2年以降に師実一家が大炊殿にいたという記録にも合致するので、師実・寛子の同居は長くは続かなかったのだろう(なお師通は寛治2年(1088)11月から主に三条殿に住んでおり、令子卜定後の同5年(1091)頃には寛子と再び同居していたらしいが、三条殿が同6年(1092)火災で焼失した後は高陽院と大炊殿に別れたようである)
 また寛治2年(1088)の師実太政大臣就任の際には、師実が慶申で「院」に参上、まず「太后御方」に申し上げたとあるので(『寛治二年記』12月16日条)、この頃は白河上皇や媞子内親王と共に大炊殿にいたらしい。なお白河上皇はその後同5年(1091)まで大炊殿を院御所としていたが、堀河天皇の朝覲行幸等では寛子については何も触れられていないので、恐らく寛治2年の寛子滞在は一時的なものであったのだろう。そして禎子にとっては、この大炊殿滞在の短い期間が、父白河上皇や早世した長姉媞子との最初で最後の同居であったのではないか。

 ともあれ、生まれて間もなく父母と別れ、一時堀川殿で共に育った兄姉らともやがて離ればなれになった禎子内親王にとって、きょうだいと共に過ごした時期はあまりに短い歳月であった。特に堀川殿時代は数え2歳までのことであり、兄姉はともかく禎子は幼すぎて記憶に残ってさえいなかったろう。母亡き後も父の膝下で溺愛された媞子内親王や、親しく内裏住みを共にした令子内親王・堀河天皇とは対照的に、末娘の禎子は両親ともきょうだいとも縁薄い一生であった。
 その一方で、養母寛子が92歳という当時稀な長命を保ったことで、50近くまで寛子の庇護の元にあった禎子は、寛子の没後も摂関家の後見を受けて経済的にも恵まれた穏やかな余生を送っていたと思われる。もしかすると禎子には、父白河院や兄姉たちよりも養母とその一門の摂関家こそが身近な存在であり、身内と呼べる人々であったのかもしれない。


≪付記:「善仁親王」の所在のこと≫
 禎子の同母兄堀河天皇は、禎子の着袴から8カ月後に堀河院(=堀川殿。以下、史料原文・引用を除き「堀河院」で統一する)で践祚・即位しており、その後も堀河院を里内裏としていたことはよく知られている。だが生誕の地こそ「但馬守橘俊綱宅(東洞院四条坊門)」と判明しているものの(『帥記』他)、即位前の善仁親王時代にどこにいたかについては、意外にも殆ど記録が残っていないのである。
「堀河天皇は堀河院で成長した」等と紹介されることが多いが(『平安京提要』他)、当時の一次史料を見る限り、そもそも本当に堀河院にいたかどうかも定かではない(『皇年代略記』は「堀川院」で着袴したとするが、当時堀河院は里内裏であったので、着袴を行うためだけに一時的に内裏入りした可能性もある)。また践祚の際も、『扶桑略記』によれば「従関白従一位藤原朝臣(師実)大炊第。御堀河院」であり、元々堀河院にいたのではなく、大炊殿から堀河院に移りそこで践祚したとされている。父白河天皇が堀河院を里内裏としていた期間は短く、また母后の養父師実も堀河院が里内裏でなくなった後は大炊殿に住んでいたらしいことから見て、堀河院が内裏でも母后の里第でもなかった応徳2年(1085)以降に善仁親王が堀河院に滞在していた可能性は低く、恐らく即位まで内裏(三条殿)か関白邸(大炊殿)にいたものと思われる(『栄花』40・紫野では中宮賢子崩御のため「宮々も殿(関白師実邸)に出でさせたまひぬ」とあり、善仁親王が当時母と共に宮中にいたことが伺える。また「宮々」と複数形であるので、時折参内した記事のある姉令子もやはりこの時善仁と共に宮中におり、その後師実邸へ退出したらしい)

 なお誕生と践祚以外で善仁親王の居場所が判る数少ない記録とされる一つが『水左記』永保元年(1081)12月2日条の記事で、それによると「戌剋宮并■■御方令渡新作高倉殿給」とある。これについて『史料綜覧』は高倉殿に渡御した「宮」を善仁親王としており、またこの時同伴した「■■御方」について、朧谷寿氏は大叔母の祐子内親王(後朱雀皇女、当時44歳)であろうとする(『平安貴族と邸第』『堀河天皇吟抄』)
 しかし『為房卿記』同日条では、この時高倉殿入りした人物について「今夕高倉殿上并一宮渡御」と記している。どちらも個人名は記載していないものの、言うまでもなく善仁親王は白河天皇の「二宮」であり、『為房卿記』の「一宮」が誤りでないとすれば、明らかにこれは善仁親王ではない。そもそも問題の邸宅が高倉殿であることを考慮すれば、「御方」ではなくこの「一宮」が「高倉一宮」「高倉宮」とも称された祐子内親王である可能性が高い。また問題の人物が親王と内親王二人であるなら、一人を「宮」としながらもう一方に「御方」の敬称をつけるのは考えにくく、この場合「御方=(高倉殿)上」、即ち「高倉殿北政所」と号し(『本朝世紀』)、祐子の養祖父藤原頼通の正室であった隆姫女王(当時87歳)であろう。
 またもう一件、『後二条師通記』応徳3年(1086)1月3日条に「申剋許殿(関白師実)参、堀川殿宮参入」とあり、『大日本古記録』はこの「堀川殿宮」を善仁親王とする。しかしこれも個人名がないため断定はできず、また2日前の元日の記事から、当時師実が大炊殿にいたこと、また「堀川殿」は寛子が御所としていたらしいことがわかる。さらに翌2日には師通は「牛丸」即ち息子忠実を同車して一宮(祐子内親王)に参った後、「堀川殿牛丸留」て「内(三条殿)」へ参上している。そして3日に再び「堀川殿」へ参上したのは、記載はないが恐らく前日残していった牛丸を迎えに行ったものであろう。よってこの「堀川殿宮」は善仁親王やその姉妹の皇女たちではなく、牛丸を預けていた「太皇太后宮」寛子を指していると考えられる(※なお忠実は堀河天皇より1歳上、令子内親王と同年であった。また忠実は後に寛子の猶子となっており、従って禎子とはいわば義兄妹であるから、幼少の頃は祖父師実や大伯母寛子の元で、年の近い白河の皇子女たちと共に遊ぶこともあったのではないだろうか)
 このように、当時白河天皇の唯一の皇子でありながら、何故か善仁親王の居場所を伝える確かな記録は殆どなく、永保3年(1083)の賀茂祭見物(『師通記』4月16日条)や参内記事(『師通記』11月8日条)等、行き先のわかる記事も数えるほどしかない。即位後の堀河天皇が堀河院に好んで滞在していたことは確かだが、その理由が幼少期を過ごし慣れ親しんだ邸宅であったためというのは、現存史料から知られる限りではあくまで想像の域を出ないものと思われる。

 ところで堀河院は嘉保元年(1094)に焼亡してしまったため、その後しばらく堀河天皇は閑院や高陽院等の里内裏を転々としていた。一方堀河院の跡地は中宮篤子内親王の所有となり、長治元年(1104)に篤子の里邸として堀河院が再建されると、以後嘉承2年(1107)の堀河天皇崩御まで再び主な里内裏となっている。
 また嘉保元年の堀河院焼亡の折、一時避難した堀河天皇は寛子の御所大炊殿へ遷幸し、そのため太皇太后寛子は急遽高陽院へ移転している。堀河即位の際にこのような記録はないので、当時寛子は堀河院とは別の邸宅にいたのかもしれないが、当然里内裏となった堀河院に戻ることはなかったと考えられる。
 この結果、寛子に養育されていた禎子も恐らく堀河院入りすることはなく、寛治3年(1089)次姉令子の斎院卜定で久々に姉妹三人が父白河院の元へ集った際も、当然ながらそこに堀河天皇が加わったという記述はない(『栄花』40・紫野)。そしてその後康和元年(1099)禎子が卜定され、8年後に堀河天皇が29歳の若さで世を去るまで、今上である兄天皇と現任の斎院である妹が再び会うことはついになかった。恐らく禎子には物心つく前に別れた兄の面影すら朧げであり、そして堀河天皇の記憶にある妹もまた、いまだ着袴前のあどけない姿のままだったのであろう。


≪太皇太后寛子・関白師実・天皇の所在年表≫
 (※邸宅の名称は原史料によるが、【】内は里内裏を堀河院、それ以外を堀川殿で統一した)
太皇太后寛子 関白師実 天皇
(白河→堀河)
承暦3年(1079)
【四条宮→?】
12月24日/太皇太后(寛子)御所四条宮焼亡(『扶桑略記』『百錬抄』)
【堀川殿】
8月19日/堀河院上棟(『為房卿記』)
11月26日/関白師実、堀河院で安鎮法(『安鎮法日記』)
【内裏→高陽院?】 11月4日/殿上逍遥(『水左記』)
承暦4年(1080)
【東三条院→?】
1月14日/寛子、東三条院へ移転(『水左記』)
【堀川殿→?】
2月10日/師実の高倉第焼亡(『百錬抄』)
3月19日/関白師実、堀川第へ移転(『類聚雑要抄』)
4月23日/関白堀河第へ行幸(『百錬抄』)
【高陽院→内裏】
2月6日/白河天皇、高陽院焼亡により内裏へ遷御(『扶桑略記』『百錬抄』)
5月11日/白河天皇、堀河院へ遷御(『水左記』『帥記』『百錬抄』)
11月3日/白河天皇、内裏へ還御(『水左記』『十三代要略』)
永保元年(1081)
【堀川殿】
4月8日/寛子(堀川院)灌仏(『帥記』)
8月10日/寛子、堀川殿に禎子内親王を迎える(『為房卿記』)
【堀川殿】
5月8日/師実、堀川(第)で千部法華経を供養(『帥記』)
【内裏】
10月14日/白河天皇、石清水八幡宮へ行幸、内裏へ還御(『為房卿記』)
永保2年(1082)
【堀川殿】
3月25日/禎子内親王、寛子御所(堀川殿)から入内(『為房卿記』)
【堀川殿】
5月14日/師実、堀河院で八講(『百錬抄』)
【内裏→堀河院】
3月26日/白河天皇、石清水八幡宮へ行幸、内裏へ還御(『為房卿記』)
7月29日/内裏焼亡(『扶桑略記』『百錬抄』)
8月3日/白河天皇、堀河院へ遷御(『百錬抄』)
永保3年(1083)
【?】
10月18日/寛子、師実第に滞在(『師通記』)
【?→大炊殿】
7月3日/師通、大炊殿へ渡御(『師通記』)
【堀河院】
1月12日/白河天皇、法成寺へ行幸、堀河殿へ遷御(『師通記』)
応徳元年(1084) 【?】
【堀川殿】
4月11日/師通、殿下(師実)堀川殿に参向(『師通記』)
【堀河院→三条殿】
2月11日/白河天皇、三条殿へ遷御(『師通記』)
9月17日/中宮賢子、三条殿で崩御(『師通記』ほか)
応徳2年(1085) 【?】
【大炊殿】
1月1日/師通、師実(大炊殿)に拝礼(『師通記』)
3月10日/師実、大炊殿へ渡御(『師通記』)
【三条殿】
1月3日/師通、三条院に参内(『師通記』)
応徳3年(1086)
【堀川殿→花山院?】
1月1日/師通、堀河殿の寛子に拝礼(『師通記』)
3月25日/姫宮(禎子?)堀川殿で着袴(『師通記』)
4月7日/寛子、花山院へ行啓(『師通記』)
【大炊殿】
1月1日/師通、師実(大炊殿)に拝礼(『師通記』)
【三条殿→堀河院】
2月13日/師実、三条院に参候(『師通記』)
11月26日/堀河天皇、堀河院で践祚(『師通記』ほか)
寛治元年(1087)
【?】
【大炊殿→三条殿】
8月26日/摂政師実と令子内親王、高階為家第(三条殿)へ移転(『為房卿記』)
8月28日/白河上皇と媞子内親王、摂政殿大炊殿へ渡御(『為房卿記』『中右記』『本朝世紀』)
【堀河院】
10月16日/堀河天皇、大嘗会御禊のため、堀河院より大膳職に行幸(『本朝世紀』)
10月26日/堀河天皇、堀河院に還御(『中右記』『本朝世紀』)
寛治2年(1088)
【大炊殿?】
12月14日/師実、寛子・白河上皇・媞子内親王に慶申(『寛治二年記』)
【三条殿】
1月1日/師通、師実(三条殿)に拝礼(『師通記』)
10月28日/師実、六条殿へ移転(『師通記』)
11月2日/師実、三条殿へ渡御(『師通記』『帥記』『中右記』)
12月16日/師通、師実(三条殿)へ慶申(『師通記』)
【堀河院】
1月19日/堀河天皇、大炊殿へ朝覲行幸(『中右記』)
寛治3年(1089)
【?】
【三条殿】
1月2日/師実、三条殿で臨時客(『師通記』)
6月25日/令子内親王、六条殿へ渡御(『師通記』)
6月26日/師実、三条殿へ帰還(『師通記』)
6月28日/令子内親王、斎院卜定(『師通記』)
【堀河院】
1月5日/堀河天皇、堀河院で元服(『師通記』『中右記』)
寛治4年(1090)
【?】
【三条殿】
1月2日/師実、三条殿で臨時客(『中右記』)
【堀河院】
12月6日/師通、堀川殿内に参上(『師通記』)
寛治5年(1091)
【三条殿】
1月3日/師通、三条殿へ参候、寛子に拝礼(『師通記』)
3月16日/六条水閣(六条殿)で曲水宴。寛子見物(『中右記』)
閏7月25日/寛子、三条殿へ還御(『為房卿記』)
【三条殿】
1月2日/師実、三条殿で臨時客(『師通記』『中右記』)
【堀河院】
3月8日/堀河天皇、日吉社行幸の後、堀河殿に還御(『中右記』)
寛治6年(1092)
【?】
5月3日/寛子、前大僧正房(?)へ還御(『師通記』)
【三条殿→高陽院】
1月2日/師実、三条殿で臨時客(『師通記』『中右記』)
3月6日/三条殿焼亡。師実、六条殿へ移転(『為房卿記』『中右記』)
7月10日/師実、新造高陽院へ移転(『中右記』『師通記』)
【堀河院】
1月29日/中納言忠実、初めて陣座(堀河院)につく(『師通記』)
寛治7年(1093)
【六条坊門亭→大炊殿】
1月1日/師通、寛子御所六条坊門亭へ拝礼(『中右記』)
6月10日/寛子、大炊殿へ移転(『師通記』)
【高陽院】
1月1日/関白家高陽院拝礼(『師通記』『中右記』)
2月22日/篤子内親王、師実高陽院で立后(『師通記』『中右記』)
【堀河院】
1月1日/公卿ら、堀河院に参る(『師通記』)
寛治8年(1094)
【大炊殿→高陽院】
1月13日/師実、寛子御所大炊殿へ移転(『中右記』)
3月10日/関白師通、大后御所大炊殿へ慶申(『中右記』)
10月24日/堀川院焼亡により、寛子高陽院へ遷御(『中右記』)
【高陽院】
1月1日/師実、高陽院で拝礼(『中右記』)
8月19日/師実、高陽院歌合を主催(『中右記』)
【堀河院→大炊殿】
10月24日/堀川院焼亡。寛子御所大炊殿へ遷御(『中右記』『百錬抄』)


参考論文:
・増渕徹「藤原寛子とその時代」
 (京都橘女子大学女性歴史文化研究所編『京都の女性史』p3-34, 思文閣出版, 2002)
・服籐早苗「平安王朝社会の着袴」
 (『平安王朝の子どもたち:王権と家、童』p225-261, 吉川弘文館, 2004/2003初出)
・西山良平「平安京と貴族の住まいの論点」
 丸山義広「里内裏の庭園遺構」
 (西村良平・藤田勝也編『平安京と貴族の住まい』京都大学学術出版会, 2012)
・樋口健太郎「居所からみた白河・鳥羽院政期の王権」
 (『中世王権の形成と摂関家』p57-83, 吉川弘文館, 2018/2017初出)
参考図書:
・太田清六『寝殿造の研究』(吉川弘文館, 1987)
・詫間直樹編『皇居行幸年表』(続群書類従完成会, 1997)
・朧谷寿『平安貴族と邸第』(吉川弘文館, 2000)
・古池由美『堀河朝の文学』(新典社, 2002)
・飯淵康一『平安時代貴族住宅の研究』(中央公論美術出版, 2004)
・朧谷寿『堀河天皇吟抄』(ミネルヴァ書房, 2014)
参考史料:
・駒澤大学大学院史学会古代史部会「史料紹介 翻刻『為房卿記』自延久四年至永保二年」
 (『史聚』(10), 67-136, 1979)
参考リンク:
京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2007-17『平安京左京三条二坊十町(堀河院)跡』京都市埋蔵文化財研究所
堀河天皇里内裏跡フィールド・ミュージアム京都
堀河院跡平安京探偵団
寝殿造の全体像、堀河殿北道倶楽部※2021年10月27日確認
HOTEL THE MITSUI KYOTO(左京三条二坊九町)
ANAクラウンプラザホテル京都(左京三条二坊九町)
京都市立京都堀川音楽高等学校(左京三条二坊十町)





【禎子内親王の呼称のこと】
 禎子内親王は養母寛子の御所枇杷殿(左京一条三坊十五町)に住んだことから「枇杷殿斎院」と号し、『山槐記』『兵範記』の薨去記事にもこの名称で記載されている。また寛子と共にしばしば宇治を訪れたことから、史料では「宇治前斎院」の呼称も見られる。
 出家後は叔父源雅実(母賢子の弟)の土御門高倉第(左京北辺四坊三町)を御所としたことから「土御門(前)斎院」とも号し、この呼称が最もよく知られている(『今鏡』『一代要記』)。しかし土御門高倉第は大治5年(1130)11月8日に火災で焼失しており(『中右記』『長秋記』ほか)、この前年に父白河院が崩御したこともあってか、以後禎子の消息を伝える史料は少ないが、藤原頼長やその息子たちによる新年の拝賀や慶申(よろこびもうし)の記事に時折登場しており(『台記』『中右記』『兵範記』)久安3年12月には「大町」、久安6年1月には「世尊寺辺」に滞在していたことがわかるので、何度か居場所を変えていたらしい。
 なお頼長の父忠実も寛子の猶子となっており、しばしば寛子に故実を仰いでいた。こうした背景から、寛子の没後も禎子は白河皇女としてよりも寛子養女として、即ち摂関家の一員として遇され、拝賀や慶申を受けていたのであろう。

 ところで『兵範記』には仁平3年(1153)から同4年(1154)にかけて、「東山前斎院」と呼ばれる人物が幾度か登場する。この「東山前斎院」は「白河前斎院(28代統子)」と並んで頼長の子息たちの慶申を受けており、特に右大将藤原兼長の慶申記事(仁平4年8月21日条)に「令參東山前齋院給、<枇杷殿齋院也、>」とあることから、この「東山前斎院」が禎子であることが判る。
 また『台記』(仁平4年(1154)1月)の記事には、藤原頼長・兼長・隆長らが禎子内親王に参向した記録があり、「禎子内親王家<法住寺邊>」と注がある。さらに禎子の薨去を伝える『山槐記』(久寿3年(1156)1月7日条)では「枇把殿前齋院於七條末御堂崩給、」とあり、また『一代要記』にも禎子内親王が「法住寺御所」で亡くなったとあることから、禎子は恐らく久安4年(1148)〜仁平3年(1153)の間に七条大路の東の末、即ち法住寺の敷地内かその近隣に居を構え、東山の地で晩年を送ったものと思われる。

 なお現在の法住寺は三十三間堂東隣にあり、三十三間堂を含む一帯に後白河院の譲位後の御所「法住寺殿」があったとされる。後白河が法住寺に関わったとされる文献上の初見は、『山槐記』『兵範記』保元元年(1156)1月7日条の方違行幸記事で、これは禎子内親王薨去のわずか2日後のことであった。法住寺殿についての諸研究では禎子内親王御所のことは殆ど指摘されていないが、『山槐記』は行幸記事注で「七条末御堂」で禎子が薨去したことを記載している。なお『今鏡』によれば、前斎院で子のなかった禎子の没後、その後に姪の悰子内親王(堀河皇女、27代斎院)が住んだと言うが、悰子と法住寺を結びつける記録はなく、他の皇族が禎子の御所を相続したという記録もない。
 また法住寺殿成立以前には、この一帯には信西の邸宅や法住寺堂もあった。『仙洞御移徙部類記』所収の『右禅記』(永暦2年4月13日条)には、「今夜上皇(後白河院)東山御所移徙也、<其地故入道信西居也、去年乱逆之時、舎屋為灰燼、令壊渡故(藤原)信頼卿中御門西洞院雑屋被造之、(後略)>」とあり、信西邸が平治の乱(1159)で焼失した跡地が東山御所(法住寺殿)となったことがわかる。禎子内親王御所との関連については記録がなく定かでないが、禎子の死からわずか半年後に保元の乱が勃発、禎子と縁の深かった藤原頼長は敗死しており、その後権威の失墜した摂関家に渡ったとは考えにくい。立地から考えても、禎子の御所が没後に親族である後白河に渡り、法住寺殿の敷地の中に取り込まれた可能性が高いと思われる。

参考資料:
・竹鼻績『今鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫, 1984)
参考論文:
・朧谷寿「平安京にみる村上源氏の邸第管見」
 (『奈良平安時代史の諸相』高科書店, 1997)
・上村和直「法住寺殿の成立と展開」
 (『京都市埋蔵文化財研究所・研究紀要』(9), p39-78, 2004)
 [機関リポジトリ全文あり]
参考リンク:
『平家物語』を読むための六波羅・法住寺殿復元図平安京探偵団





【堀河天皇崩御と禎子内親王退下】
 嘉承2年(1107)7月19日、同母兄堀河天皇の崩御と同日に禎子内親王は退下したとされる。『中右記』同日条には「斎院日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事、誠以希有也」とあり、病による急な退下であったようである。これに従えば、禎子内親王の斎院退下は堀河天皇の崩御によるものではなかったと取れる(堀河天皇崩御は『殿暦』『中右記』によれば巳刻で、禎子の退出は上記『中右記』の通り亥時であるから、禎子の退出の方が遅い)
 堀河天皇は在位のまま崩御したが、当時の慣例としてこうした場合も「如在之儀」により、名目上は天皇譲位の後退位・崩御したものと見なされた。このため、本来天皇譲位では斎院退下とはならない(※天皇崩御の場合も、斎院が天皇の娘でなければ退下はない)はずであったが、禎子の病状悪化により結果として譲位(崩御)と同日に退下となったものと思われる。

 ところでこの時禎子は「今日危急、運命殆欲盡」とまで言われて斎院退下となったが、その後は結局歴代斎院の中で最高齢の76歳という長寿を全うしており、あるいはこの退下時の病というのはあるいは形ばかりの口実で、帝崩御の混乱に乗じての退下であった可能性も考えられる。ただし禎子の退下時の病は日頃からのものであったらしく、またその後もたびたび病臥したとの記録もあり、19代禖子内親王同様に長命ながら病弱なのは事実だったようである。また兄堀河天皇崩御の際は、宮中が大混乱であった様子が『中右記』『讃岐典侍日記』等諸記録にも残されている。病床で兄帝の死を知った禎子が精神的衝撃から危篤状態に陥り、急遽退出となったものであろうか。

 なお歴代斎宮・斎院の中で、在任中または退下即日に死去した斎王は斎宮が4人、斎院が3人いるが、天皇崩御と同時期に死去した斎王はいない。ただ約60年後の嘉応3年(1171)3月1日、前斎宮休子内親王(後白河院皇女)と前斎院僐子(二条院皇女)が同日に相次いで死去するという事件が起こった。この直前には火星が双子座に接近する天変が奏上されており、右大臣九条兼実は日記『玉葉』(2月27日条)に「天変不定、豈不恐哉」と述べている。あるいは斎院禎子の場合も、天皇崩御に加えて現任の斎院薨去という凶事が重なることを恐れ、退下を急いだのかもしれない。

参考論文:
・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」
 (『史林』81(1), p38-69, 1998)[機関リポジトリ全文あり]





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白河天皇
史料 月日 記述
帥記 永保元年
(1081)
4月17日 【皇女禎子誕生】
(前略)是依中宮(賢子)御産氣也云々、仍歸來之路遣使尋問宮邊、歸來云、有御氣色云々者、申刻更參彼宮、<殿下(藤原師実)右大將(源顕房)別當祇候、此後人々漸參、>入夜左馬頭告殿下有召之由、即參西、大宮大夫被候、宣云、山階寺多武峯等事且可申行者、<山階別當法印經任威儀師兼明停止、又法印目代々々被拂御寺、入道源覺召名、又多武峯檢校圓壽被停檢校職出事、僧經譽追補宣旨、>僧三人<召搦山階寺少綱事、>給檢非違使云々、予候東面之間、藏人辨伊家仰云、威儀師兼明可停任者、予目辨云、可被仰下者、辨稱唯退了、予終日祇候、依力屈、示付少納言云、若御産氣急者可告者、仍白地退出了、子刻許少納言遣人告云、御産欲成者、即馳參入門之間御産成了、春宮大夫(藤原実季)并殿上人五六人下立、予昇候、大宮大夫(源俊房?)、左大將(藤原師通)、新中納言、別當同昇候、給布施於僧等、又給勤仕御祓陰陽師等了、陰陽頭道言注獻勘文、<子二點、女宮(禎子)云々、>有頃退出了、<于時鶏鳴、>左衛門督(源俊明)被行解陣云々、
水左記
帥記
永保元年
(1081)
4月19日 【禎子の御湯殿始、御三夜儀】
『水左記』
 中宮(賢子)今夜御産三夜也、上達部着座、今夜無六十坏物、

『帥記』
 雨下、巳刻參中宮(賢子)、殿下(関白藤原師実)御坐、左右大將(藤原師通、源顕房)別當(源俊明)被候、午時有若宮(禎子)御湯事、<四位廿人、五位十人、六位十人、>未申刻許退出了、今夜三夜也、秉燭之後參宮、<鴨院、>被於東面庇懸簾、西北立亘四尺白屏風、居白高器饗、<各三本、以南爲上、殿下御絶席云々、>東又庇敷紫端帖置机、<殿上人、>參入之後良久人々參會、<大宮大夫(源俊房)、右大將(源顕房)、左大將(藤原師通)、新中納言(藤原宗俊)、左衞門督(源師忠)、別當、左京大夫(藤原公房)、左大辨(藤原実政)、右兵衞督(源俊実)、三位中將(藤原家忠)、政長朝臣、師仲朝臣、實宗朝臣、道時朝臣、基綱、重資、俊頼、通輔、>先供御前物、<陪膳三位中將、欲供之間脱劔挿笏、而殿下宣旨劔不可脱者、可尋、>次舁御衣案、立南面庇、<二脚、殿上人供、>次羞上達部膳、一獻殿下、把盃下給、次二獻右兵衞督、次居汁、次三獻、予召短燈臺敷圓座、<撤殿御前物、>次置筒采、次置紙、次殿上人自下置圓座、<不拔笏、後後不然、>次上達部起置之、<今度拔笏復座、>次第進參、<大宮大夫被人來、今夕事本宮被儲云々、>次撤紙各給從者、次退出了、啜粥如例、問口爲家朝臣、
帥記 永保元年
(1081)
4月21日 【禎子の御五夜儀】
 五夜也、事儀如三日夜、宮陪膳新中納言(藤原宗俊)、役供諸大夫、四位舁御衣案、新中納言<宗俊、>、宰相中將<(藤原)公實、>、左衞門督<(源)師忠>、三位中將<(藤原)家忠、>、采女等供例御前、■■■■庭中云々、殿下(関白師実)御坐、上達部、大宮大夫(源俊房)、右大將(源顕房)、新中納言、左衞門督、別當(源俊明)、左京大夫(藤原公房)、左大辨(藤原実政)、右兵衞督(源俊実)、新宰相中將、三位中將等也、供御前物之後羞上達部以下膳、次有啜粥事、此間人々或以退出、
帥記 永保元年
(1081)
4月23日 【禎子の御七夜儀】
 昨日内府(藤原能長)被示云、欲參七夜、取氣色可相示者、又少納言來云、左近大夫能遠被處重科云々、是殿不令奏子細之所致也、可取案内者、巳刻許參中宮(賢子)、令申見參於殿下(関白師実)、(中略)
入夜參中宮、内大臣、右大將(源顕房)、治部卿(藤原経季)、新中納言(藤原宗俊)、左衞門督(源師忠)、別當(源俊明)、左兵衞督(源家賢)、左京大夫(藤原公房)、右兵衞督(源俊実)、新宰相中將、三位中將(藤原家忠)參會、殿下御坐、別當招予云、殿被仰云、今夜事自内所被行也、仍有内藏寮例許、而内府被參、若自宮可被加他物歟、於遍加給上達部事先[者?]本自無其儲、爲之如何者、予申云、遍雖可被加給、若其儲不候者被物許、殿御祿并内大臣祿何難之候乎、次殿下着御、上達部同着、頭以下在長押下座、彼宮權亮來申殿下云、内(白河天皇)御使參入由、次御覽被獻雜物目録、下給同亮了、先供御前膳、<陪膳左衞門督、>殿上人役供、次被始座事、一獻了後上達部未敷茵、使亮召敕使、令藏人少納言(源)基綱着座、殿下宣人々云、盃者誰人可取乎、人々指無被申、予申云、上達部取時候歟、仍右兵衞督取盃就敕使上勸之、次彼宮大夫<(源)俊明、>取祿授敕使、々々取祿起座、經南廊下砌再拜出了、次居上達部以下産[座?]膳、食了第二獻後殿下宣云、可有朗詠歟、頗有氣色、予詠佳辰令月一兩度了、三獻了置紙有攤、次給祿、殿下御祿、<殿上四位取之、被加本宮御祿、>内府、<同被加本宮祿、>自餘上達部給内藏寮大褂、殿上人疋絹、次人々退出、次有粥事、
帥記 永保元年
(1081)
6月16日 【禎子の御五十日儀】
 今日若宮(禎子)御五十日也、酉刻許參内、先參殿御宿所、<二條殿御上被薨云々、>先是宰相中將<(藤原)公實、>所候也、及昏殿下昇給、<此間新中納言、別當、左兵衛督(藤原家賢)、左京大夫(藤原公房)、左大辨(藤原実政)、三位中將(藤原公実)參入、先是春宮大夫(藤原実季)參入本宮御方、>其儀如常、<有上達部禄、又殿上人疋絹云々、>
水左記
為房卿記
永保元年
(1081)
8月2日 【禎子の御百日儀】
『水左記』
 今日今上第四姫宮(禎子)御百日云々、

『為房卿記』
(8月2日条?)
<百日儀>
 如此事如去五[六]月十六日御五十日儀<御装束同前>
水左記
為房卿記
永保元年
(1081)
8月10日 【禎子、内裏から四条宮御所へ移徙】
『水左記』
 今夜東宮(実仁親王)令入内給昭陽舎、來廿一日可有御元服之故也、博陸候■■車給云々、又今上第四姫宮(禎子)出自内給、參太皇太后宮(後冷泉后寛子)了、依是爲御子可被養也、兩大將(左大将藤原師通、右大将源顕房)被參云々、

『為房卿記』
(裏書)
 女二宮(令子内親王?)自堀川殿入御中宮(藤原賢子)<北政所(源麗子)同事。>、次子尅新姫宮(禎子内親王)渡御四条宮<同御堀川殿、>依可被奉養育也。
為房卿記 永保元年
(1081)
8月27日 【皇女禎子の家司を補す】
(※『天皇皇族実録』による)
 今日被補女三宮(禎子)家司以下<坐四條宮(藤原寛子)御方、>勅別當、<右衛門督(源)俊明卿、>家司<實宗朝臣、師仲朝臣、>(後略)
十三代要略
一代要記
永保2年
(1082)
3月1日 【皇女禎子、内親王宣下】
『十三代要略』
(白河院皇女)
 禎子内親王<母同媞子。>
  永保二年三月一日。爲内親王。

『一代要記』
(白河院天皇)
 皇女 愼子ヽヽヽ[内親王]
 <永保二ー三月一日為内親王、二歳、>(後略)
(堀河院天皇)
 斎院 禎子ヽヽヽ[内親王]
 <白河院三[四]女、永保二ー三月一日爲内親王、<二才、>>(後略)
為房卿記 永保2年
(1082)
3月25日 【禎子内親王、初めて入内】
(※『天皇皇族実録』による)
 今夕春宮(実仁親王)、一品宮(聡子内親王)、自北野宮遷御左大辨四條坊間[門]第、又女三宮、<禎子、>自四條宮(藤原寛子)御所<坐堀川殿、>始御入内、前駈束帶、有輦車宣旨、藏人右衛門殿盛長仰之、小舎人二人、令著袍冠可前行、而一人布衣相隨、不似前例、又向御車右還、頗向巽仰之、而今夜左還向坤、仰如何云々
後二条師通記
扶桑略記
栄花物語
ほか
応徳元年
(1084)
9月22日 【母中宮賢子崩御】
『後二条師通記』
 中宮(賢子)極重煩給、於三條殿已以薨給、萬參人泣涕難止、

『扶桑略記』
 中宮源賢子三條内裡崩。于時年二十八歳。主上(白河天皇)悲泣。數日不召御膳。

『栄花物語』(40紫野)
(前略)御遊びなどあるべきを、中宮(賢子)例ならずおはしますといふ事ありて、華やかなるはとまりぬ。(中略)
宮の御心地重くおはしますとて、十七日に急ぎ帰らせ給ひぬ。いと重くおはしましけり。日を経て重くならせ給ひて、九月廿二日うせさせ給ひぬ。(後略)
為房卿記
一代要記
応徳2年
(1085)
8月25日 【禎子内親王に封三百戸】
『為房卿記』(※『天皇皇族実録』による)
 女三宮、<鎮子、>本封之外、被宛三百戸、此由殿下(関白藤原師実)以予被奏、勅許之後、宣下申左府(源俊房)了、

『一代要記』
白河院天皇
(皇女)
 愼子ヽヽヽ[内親王]
 <永保二ー三月一日為内親王、二歳、應徳二ー八月廿五日給別封三百戸、承徳元ー十「一」月十四日准三后、/保元 [元]ー正月五日薨、<七十六、>于時坐法住寺御所、>
後二条師通記 応徳3年
(1086)
3月25日 【姫宮(禎子?)着袴】
(3月24日条)
 雨降、殿下(関白藤原師実)四条宮(藤原寛子)不參之由御指也、云者老年也、代内大臣(藤原師通)可參入也仰指、
(3月25日)
(朱)「姫宮御着袴」(右頭書)
 今朝雨降、堀川殿也、姫宮(禎子内親王?)御袴衣也、入夜天晴、着公卿座、暫間着關白殿(藤原師実)座給也、以治部卿(藤原)伊房大夫時成也、令度給之由也、結御袴腰畢、歸程笙送物、殿(見せ消ち)[取]中納言(藤原)家忠、入出居戸畢、

詳細は【応徳3年の姫宮着袴と堀川殿】を参照のこと。
堀河天皇
史料 月日 記述
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
12月19日 【姫宮(禎子)不例】
『後二条師通記』
(頭書)
「太皇太后姫宮(禎子)於左手■[有]標[●]疽云々、自昨■[日]小宜之■[由]所申也」

『中右記』
(前略)此四五許太后之姫宮(禎子)不例御歟、<今上(堀河)妹、太后養爲子、>(後略)

●=瘭(やまいだれ+票。こちらを参照(字源))
瘭疽(ひょうそ)=手足の指の化膿性炎症。
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
2月14日 【太皇太后(寛子)と姫宮(禎子)、疱瘡に罹患】
(前略)近日太皇太后(藤原寛子)并姫宮<禎子、>御皰瘡云々、(後略)
本朝世紀
中右記目録
長秋記目録
兵範記
賀茂斎院記
帝王編年記
十三代要略
本朝女后名字抄
ほか
康和元年
(1099)
10月20日 【禎子内親王、准三宮並びに斎院卜定】
『本朝世紀』
 左大臣(源俊房)已下参入、被定行善子内親王<伊勢斎王>、禎子内親王、准三宮勅書事、左大将(藤原忠実)依重服無内覧事、勅書奏下了、大臣以下進弓場殿、被拝賀准后事、次還著仗座、有斎院卜定事<禎子内親王、今上同胞、太后(太皇太后寛子)被収養、今夜自枇杷第被渡清実大炊御門南京極西宅>、蔵人頭左中将(源)顕通朝臣為勅使、行事<権中納言(源)俊実、左少将顕隆、史>勅別当<権大納言(藤原)家忠、左馬頭師隆朝臣>次行事上卿、被定申奉幣大祓日時<来十[廿]三日可有両事>、又今日被始行事所<神祇官>

『中右記目録』
 春[齋]宮(善子内親王)并禎子内親王准后、 齋院卜定、<有具書、>

『長秋記目録』
 齋院卜定事、齋宮(善子)齋院(禎子)准后事、敕使事、御禊事、指榊事、禄給主殿司事、

『兵範記』
(嘉応元年10月3日条)
 先例康和元年枇杷殿斎院(禎子)卜定之時、四条宮(太皇太后寛子)御同宿有憚沙汰、太后入御宇治殿由有初見、今度申入其例、此沙汰也

『賀茂斎院記』
(未入力)

『帝王編年記』
(未入力)

『十三代要略』
(未入力)

『本朝女后名字抄』
(未入力)
本朝世紀 康和元年
(1099)
10月23日 【賀茂社へ奉幣使を定める】
 被立賀茂奉幣使、依斎王卜定事也、参議(源)師頼以下為使、又於八省東廊、有同由大祓事
朝野群載 康和2年
(1100)
3月27日 【左近衛少将藤原実隆を斎院別当に補す】
(※大日本史料による)
 四 朝儀上 補齋院勅別當
從四位下行左近衞權少將兼備前介藤原朝臣實隆
 可爲齋院別當、<師隆朝臣辭退替、>
    康和二年三月廿七日     藏人中宮權大進藤原朝臣(為隆)<奉>
殿暦
中右記目録
長秋記目録
康和2年
(1100)
5月28日 【斎院(禎子)御禊、初斎院(侍従厨)に入る】
『殿暦』
 今日初斎院御禊、申時許令入諸司給也、件諸[司]侍従厨云々、件厨無屋、而周防守経忠為重任不日作進、御禊公卿前駈宰相中将(源)顕通云々

『中右記目録』
 初斎院御禊、<入御諸司、>
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月6日 【斎院(禎子)、物忌により硯蓋・銀器を内裏に返上】
 自齋院被返上御硯蓋等於内事、齋院返上銀器等、依御物忌預藏人事、
中右記目録 康和3年
(1101)
4月7日 【斎院(禎子)御禊定のこと】
 斎院(禎子)御禊定、
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月8日 【斎院(禎子)御禊前駈のこと】
(前略)御禊前駈雖着出居座、不献布施事、
殿暦
公卿補任
康和3年
(1101)
4月10日 【賀茂祭除目。藤原実隆を斎院長官に任命】
『殿暦』
 祭除目也、今日服魚、(斎院)長官(藤原)實隆、史[次?]官(源)師隆、六位史[次?]官(藤原)兼長、判官季兼并俊■云々、

『公卿補任』
(天永2年)
參議 正四位下 藤實隆<三十三>(中略)
<康和二正五從四下(少將勞)。同三四十兼齋院長官。同四四十一止長官。(後略)>
殿暦
中右記
中右記目録
長秋記目録
吉記
年中行事秘抄
康和3年
(1101)
4月13日 【斎院(禎子)御禊、紫野本院に入る】
『殿暦』
(前略)今日御禊須有式日也、雖然依吉日今日被行之、初齋院(禎子)也、

『中右記』
(長承4年3月13日条)
 從殿下、(関白藤原忠通)被仰云、初齋院年灌佛例、
康和三年(1101)四月八日灌佛、<十三日初斎院入紫野院、>(後略)

『中右記目録』
 初斎院御禊、<入野宮>

『長秋記目録』
 御禊儀、勤仕前駈、

『吉記』
(治承4年4月1日条)
(前略)今日賀茂初齋院(範子)、禊東河可入紫野院定事、(中略)
 徃亡日事、
  婉子  承平三年四月十二日戊午、<式日、>
  馨子、 長元六年四月九日甲辰、
  禎子、 康和三年四月十日庚子、(後略)

『年中行事秘抄』
 四月 初斎院御禊年雖八日不當神事灌佛停止●(中略)
康和三年四月八日。灌佛如常。同十三日。初齋院入御紫野。

●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源))
殿暦 康和3年
(1101)
4月19日 【賀茂祭】
 天晴、不出行、依賀茂■<祭(右傍書)>日、有障女房不來一屋、巳剋許中弁(平)時範來、酉剋中宮大夫(源師忠)三男大夫來、
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月26日 【斎院(禎子)御禊口取禄】
 御禊日口取給祿、
長秋記目録 康和3年
(1101)
4月27日 【斎院(禎子)御禊車金文沙汰】
 御禊車金文沙汰事、
左府(源俊房)辭申期日近公事、<爲後極大事、>
殿暦 康和3年
(1101)
5月28日 【右大臣藤原忠実、斎院(禎子)に参向】
 依吉日服後初參齋院(禎子)、頃之參内、頃之退出、
殿暦 康和3年
(1101)
6月2日 【右大臣藤原忠実、斎院(禎子)に参向】
 今日參院、頃之申下程參齋院(禎子)、頃之退出、
殿暦 康和3年
(1101)
7月2日 【斎院(禎子)御悩】
 天晴、齋院(禎子)穢氣、依斎院不例<ニ>御也、仍公家并彼院<ニ>[有脱?]御奉幣、仍不參内、
中右記目録 康和3年
(1101)
11月23日 【斎院(禎子)相嘗祭】
 斎院(禎子)相嘗御神楽、
殿暦 康和3年
(1101)
12月12日 【右大臣藤原忠実、斎院(禎子)御封を沙汰】
 天晴、午剋許(平)時範朝臣頃之退出、申剋許(藤原)爲隆來云、齋院(禎子)御封此間諸國不成、以檢非違使被催如何、余申云、事神事也、極不便也、以檢非違使被催何事候乎、雖然可成國〃、依或御願事、依或他公事免了、所殘國數極少、而殘國或進御祈物、或又國司出家者、何様<に>(※崩し字。字母は「尓」)可候乎、(後略)
殿暦
中右記
公卿補任
康和4年
(1102)
4月11日 【賀茂祭御禊前駈定。藤原実隆の斎院長官を停め、藤原長兼を任命】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
(前略)先有御禊前駈定、大納言(藤原経実)令頭弁奏此旨、被移着外座令置膝突、召外記令進例文、外記例文・差文等入筥進上卿前、<舊定文一巻・衛府夾名一巻・四府差文・次第使差文・諸衛佐有障文、>又硯筥置參議座前、<依御物忌入宿紙、〃屋也、>令下官書禊日前駈并次第使、<一紙、>乍在仗座付頭弁奏、<入筥、依御物忌、申請内覽以前奏聞、>次被行小除目、
齋院長官從四位下藤原朝臣長兼、<一紙、>左馬助從五位下源朝臣經良、<一紙、>從五位下賀茂朝臣守言<譲、一紙、>

『公卿補任』
(天永2年)
參議 正四位下 藤實隆<三十三>(中略)
<康和二正五從四下(少將勞)。同三四十兼齋院長官。同四四十一止長官。(後略)>
殿暦 康和4年
(1102)
4月15日 【斎院女房装束を諸国に催す】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
4月22日 【斎院(禎子)御禊】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
4月23日 【斎院(禎子)御障あり】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
4月25日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
4月26日 【斎院還御】
(未入力)
長秋記目録 康和4年
(1102)
11月11日 【斎院(禎子)御神楽】
 齋院(禎子)御神楽、不憚當月姙者、
中右記
重憲記
康和5年
(1103)
4月8日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
『中右記』
(未入力)

『重憲記』
 権中納言(源)国信、参議(源)基綱被定給御禊前駈、并小除目、(後略)
殿暦 康和5年
(1103)
4月10日 【賀茂祭除目】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
4月19日 【忠実、斎院(禎子)御禊に御車牛の進献を辞退】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
4月20日 【御車牛の進献決まらず】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
4月21日 【内大臣源雅実、御車牛を進献】
(未入力)
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年
(1103)
4月22日 【斎院(禎子)御禊】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
4月25日 【賀茂祭、斎院(禎子)御悩】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
5月2日 【斎院御所に穢、神事を停止】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
10月17日 【源国信を斎院勅別当に補す】
(前略)又以源中納言<國信、>爲齋院(禎子)勅別當之由被仰下、<左大臣(源俊房)宣、>
中右記 康和5年
(1103)
11月1日 【斎院(禎子)相嘗御神楽】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
11月8日 【斎院(禎子)・前斎院(令子)のこと】
(未入力)
中右記 康和6年
[長治元年]
(1104)
1月20日 【斎院(禎子)夢のこと】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
2月17日 【右大臣藤原忠実、斎院(禎子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
玉葉
長治元年
(1104)
4月7日 【斎院の觸穢を軒廊御卜す】
(未入力)
『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p44-47に解説あり。
中右記 長治元年
(1104)
4月10日 【賀茂社に奉幣、斎院の觸穢を奉告】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
4月18日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月24日 【斎院神殿のことにより軒廊御卜】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月24日 【斎院に盗賊、女房の衣を盗む】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
5月2日 【斎院の盗賊追補の賞のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
8月13日 【斎院(禎子)御悩】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
10月7日 【斎宮・斎院(禎子)記事】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
11月22日 【斎院(禎子)御神楽】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
2月14日 【園・韓神祭延引。斎院(禎子)で穢れのため】
(未入力)
『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p129に解説あり。
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
4月10日 【賀茂祭除目、斎院(禎子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
4月15日 【斎院(禎子)御禊】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
4月18日 【賀茂祭】
(未入力)
永昌記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
4月1日 【斎院(禎子)御禊準備】
(未入力)
永昌記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
4月6日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
(未入力)
永昌記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
4月8日 【斎院の侍闘争】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
4月10日 【斎院(禎子)御禊前駈沙汰】
(未入力)
殿暦
中右記
永昌記
百錬抄
嘉承元年
(1106)
4月13日 【賀茂社焼亡】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
4月14日 【斎院(禎子)御禊前駈沙汰】
(未入力)
『穢と大祓』(山本幸司著, 平凡社, 1992)p50-51に解説あり。
永昌記 嘉承元年
(1106)
4月17日 【斎院(禎子)御禊前駈未定】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
4月18日 【斎院(禎子)御禊延引を検討】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
4月20日 【斎院長官藤原長兼、次官敦遠等を蔵人所に召して推門】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
4月21日 【賀茂別雷社炎上の穢により、斎院(禎子)御禊を延引】
(未入力)
永昌記
殿暦
中右記
嘉承元年
(1106)
4月22日 【斎院(禎子)御禊】
(未入力)
永昌記
殿暦
中右記
嘉承元年
(1106)
4月24日 【賀茂祭】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
4月25日 【斎院(禎子)還御】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
10月22日 【斎院(禎子)相嘗祭沙汰】
(10月21日条)
 爲御使始以退出參院、尊勝寺庄園公驗被納本寺事、明日御祈齋院相嘗等沙汰了、入夜歸參宿侍、
永昌記 嘉承2年
(1107)
4月2日 【斎院(禎子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月4日 【斎院(禎子)御禊前駈のこと】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
4月5日 【賀茂祭除目】
(未入力)
永昌記 嘉承2年
(1107)
4月8日 【斎院(禎子)御禊祭行事】
(未入力)
永昌記 嘉承2年
(1107)
4月11日 【斎院(禎子)御禊点地】
(未入力)
殿暦
中右記
永昌記
嘉承2年
(1107)
4月14日 【斎院(禎子)御禊】
(未入力)
殿暦
中右記
永昌記
嘉承2年
(1107)
4月17日 【賀茂祭】
(未入力)
永昌記 嘉承2年
(1107)
5月16日 【斎院長官に相折の相違を推問】
(未入力)
中右記
殿暦
帝王編年記
嘉承2年
(1107)
7月19日 【斎院禎子、病により退出。同日堀河天皇崩御】
『中右記』
(前略)斎院(禎子)日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)
斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事(天皇崩御と斎院退出)、誠以希有也

『殿暦』
(未入力)

『帝王編年記』
堀河院(中略)
 齋院 禎子内親王<同(白河法皇)第四皇女康和元年十月廿日卜定嘉承二年七月十九日依病退出>
鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記 嘉承2年
(1107)
7月22日 【前斎院(禎子)、枇杷殿へ渡御】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月12日 【大嘗会瀧口名簿のこと】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月1日 【前斎院(禎子)、摂政忠実の賀陽院で拝賀を受ける】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月3日 【藤原宗忠、大后(寛子)・前斎院(禎子)に参上】
(未入力)
公卿補任 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月14日 【藤原顕頼、禎子内親王未給】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月24日 【除目。前斎院禎子入眼】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月2日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月10日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、五条京極房へ還啓】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月24日 【落雷により、太皇太后と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
(未入力)
殿暦
永昌記
天仁3年
[天永元年]
(1110)
6月17日 【前斎院(禎子)、唐崎で御禊】
『永昌記』(6月24日条)
<辛崎御祓事、>
 今日上皇(白河法皇)以左中辨爲使、被申去十七日辛崎御祓毎事不請人々可令處勘者、近江致遠被下院廰、雅職廣房泰兼召籠、盛雅被立門前、仲兼隨追却、後又免雅職、召籠仲兼、國司懈怠御宿所鋪設用舊者、但無實云々、諸大夫等不取松明、任意前行者、
中右記 天永2年
(1111)
1月1日 【藤原宗忠、摂政藤原忠実に拝礼】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
1月24日 【右中将藤原忠通、権中納言に任官、太后(藤原寛子)と前斎院(禎子)に慶申】
(未入力)
長秋記 天永2年
(1111)
10月15日 【仁和寺十種供養。前斎宮(善子)と前斎院(禎子)臨席】
(未入力)
朝野群載(巻4) 天永2年
(1111)
12月26日 【禎子内親王家給爵のこと】
諸宮未給爵請奏
無品●子内親王家
 正六位上藤原朝臣盛通
右去年給爵未叙。所請如件。
天永二年十二月廿六日  別當正二位行權大納言源朝臣雅俊
今案。當年給有大夫名。只書下封之上。書名上字也。未給者。奥有大夫名。不封之。但注名之事。年号下若傍。是家之説<云々>。若當大嘗會御即位朔旦▲者。注其字。

●=稹(禾偏+眞。こちらを参照(字源))
▲=䒭(等の異体字。こちらを参照(字源))
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
3月24日 【白河院六十の算賀。前斎院(禎子)出席】
 殿下於東三條可御覧御賀童舞也、仍今朝、殿下(藤原忠実)、并太后(寛子)、前斎院(禎子)、大北政所殿、已上渡給也、(後略)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月2日 【源師時、枇杷殿の大宮(寛子)・前斎院(禎子)に参上】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
6月29日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
(未入力)
中右記
殿暦
永久2年
(1114)
6月24日 【前斎院(禎子)病悩、土御門亭へ渡御】
『殿暦』(6月25日条)
 先斎院(正子)此両三日不例御、而自申許重悩給、而間彼自大将軍祟由示給也、是件大将軍堂有此南、仍今夜忩可令他所給也、内府(源雅実)家云々、承由令申了、件事極物さはかしく思給由奏宮了、仍宮止給、先斎[院脱?]渡給内府家、<院御事云々、>来頭、有行幸沙汰、

『中右記』
(前略)夜半前斎院(禎子)依御悩重、渡給内府(源雅実)土御門亭、日者御成信房之間、在南大将軍成祟云々、
殿暦 永久2年
(1114)
6月28日 【四条宮、土御門第へ渡御】
 四条宮内府(源雅実)[家脱?]渡給、
中右記 永久2年
(1114)
7月3日 【四条宮、土御門第へ渡御】
 次参大后(藤原寛子)御所、<内府(源雅実)亭、夜渡御也、>
殿暦 永久2年
(1114)
9月19日 【前斎院(禎子)御悩】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
10月9日 【前斎院(禎子)不例】
(前略)今朝参院(白河法皇)、次参前斎院(禎子)、不例御坐也、(後略)
殿暦 永久2年
(1114)
10月22日 【前斎院(禎子)御悩】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
11月28日 【前斎院禎子渡御のこと】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
2月6日 【新大納言藤原忠通、前斎院禎子に慶申、琵琶を賜る】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
5月19日 【四条宮寛子と前斎院禎子、土御門亭へ還御】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
6月21日 【関白藤原忠実、四条宮寛子と前斎院禎子に参向】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
7月30日 【前斎院(禎子)御悩】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
8月6日 【前斎院(禎子)御悩】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
11月12日 【忠通、五節舞姫を奉仕。前斎院(禎子)より装束を賜る】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
1月3日 【関白藤原忠実、前斎院禎子に拝賀】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月2日 【藤原宗忠、太皇太后(寛子)御所に参上】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月4日 【太皇太后(寛子)と前斎院(禎子)、宇治へ行啓】
(未入力)
公卿補任 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月6日 【禎子内親王御給】
(未入力)
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月19日 【前斎院(禎子)記事】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
5月 【前斎院(禎子)令爵申文】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
9月14日 【前斎院(禎子)渡御】
(未入力)
殿暦
中右記
元永元年
(1118)
閏9月22日 【太皇太后寛子、十種供養。禎子臨席】
(未入力)
長秋記 元永元年
(1118)
10月21日 【前々斎院(禎子)、梁園(輔仁親王邸)に渡御】
(未入力)
長秋記 元永元年
(1118)
10月22日 【斎院(禎子)、六条坊門に還御】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
10月4日 【御八講五巻。前斎院より捧物】
 天晴、御八講五巻也、(中略)
舞間被置捧物於佛前南廣庇、<行香机暫立長押上、>太后(藤原寛子)<忠長朝臣、>一條殿(藤原全子)<(藤原)宗能朝臣、>前齋院(佳子または禎子内親王?)<資信、>仁和寺宮(聡子内親王<資信、>殿下(藤原忠実)、北政所(源師子)<(源)師俊、>右大臣(源雅美)<家定朝臣、>内大臣殿(藤原忠通)<成道朝臣、>同上<重通、>、捧物等、殿上人取之置、又上達部捧物、諸大夫取之置、殿上人諸大夫自各取我捧物運置也、(後略)
中右記 保安元年
(1120)
12月2日 【前斎院(禎子)御病】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月8日 【前斎院(禎子)、右大臣源雅実の木我山荘へ移徙】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月20日 【前斎院(禎子)、淀に方違】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月26日 【前斎院(禎子)、淀に方違】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
12月28日 【前斎院(禎子)、右大臣源雅実の土御門第に移徙】
(未入力)
崇徳天皇
史料 月日 記述
永昌記 保安5年
[天治元年]
(1124)
4月1日 【土御門前斎院(禎子)、平野御禊】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
4月9日 【前斎院(禎子)のこと】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
4月21日 【前斎院(禎子)御封点定のこと】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
4月28日 【前斎院(禎子)御荘のこと】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
5月2日 【前斎院(禎子)のこと】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
5月5日 【前斎院(禎子)に菖蒲を献上】
(未入力)
永昌記 天治元年
(1124)
5月10日 【前斎院(禎子)職事のこと】
(未入力)
中右記目録
皇代暦
天治2年
(1125)
10月17日 【前斎院(禎子)出家】
(未入力)
中右記 天治2年
(1125)
12月25日 【前斎院(禎子)、土御門第へ還御】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
2月8日 【皇后令子、土御門前斎院(禎子)御所へ行啓】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
5月5日 【蔵人藤原隆能叙爵。前斎院(禎子)給爵による】
(未入力)
中右記 大治2年
(1127)
8月14日 【太皇太后藤原寛子崩御】
(未入力)
長秋記 大治3年
(1128)
1月 【禎子内親王給】
(未入力)
公卿補任 大治4年
(1129)
1月7日 【無品祐子(禎子?)内親王給】
(未入力)
中右記
長秋記
仁和寺史料
大治4年
(1129)
3月12日 【前斎院(禎子?)土御門御堂供養】
『中右記』
(未入力)

『長秋記』
(未入力)

『御室相承記』
 土御門齋院堂、 大治四年三月十二日庚寅、 色衆廿口、 阿闍梨、
長秋記 大治4年
(1129)
4月6日 【源師時、前斎院に参向】
(未入力)
中右記
長秋記
ほか
大治4年
(1129)
7月7日 【白河法皇崩御】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月15日 【故白河院葬送。皇后(令子)・前斎院(禎子)・前斎宮(善子)ら、素服麻布を着用】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
7月22日 【土御門前斎院(禎子)御悩重】
(未入力)
中右記 大治4年
(1129)
9月29日 【土御門前斎院(禎子)白河御所へ入る】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
1月6日 【叙位。前斎院(禎子)申文】
(未入力)
中右記 大治5年
(1130)
5月7日 【後三条院国忌。前斎院(禎子)御誦経】
(未入力)
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
9月28日 【前斎院(禎子)申文】
(未入力)
中右記
長秋記
百錬抄
大治5年
(1130)
11月8日 【前斎院(禎子)御所土御門高倉第焼亡】
『中右記』
 亥時図許当北有焼亡、下人云、前斎院(禎子)御所土御門高倉第也、是入道太政大臣(源雅実)宅所如法家也、先年彼相府有大饗、其後被進斎院、数年為御所、今夜焼亡、南至残了、是壊渡枇杷殿被成小堂也、斎院御坐南堂廊云々

『長秋記』
(前略)此間北方有焼亡、前々齋院禎子御所也、院御坐御堂輦御車程也、先是無一人、寄予車乘女房、御所已爲灰燼、御堂僅雖除、破損殊以甚、但以不焼爲善歟、此後別當右衛門督(源雅定)左大辨等參、經數剋退出、

『百錬抄』
 前斎院<禎子。>土御門第焼亡。<故入道大相國(源雅実)第也。>
中右記
長秋記
大治5年
(1130)
12月3日 【前斎院(禎子)五十講結願】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月2日 【藤原宗忠、前斎院(禎子)に拝礼】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月5日 【叙位。前斎院(禎子)申文。御給なし】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月8日 【前斎院(禎子)申文】
(未入力)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
1月20日 【前斎院(禎子)申文】
(未入力)
中右記 長承元年
(1132)
12月25日 【秋除目。前斎院(禎子)申文】
(前略)今日秋除目也、戌時許相具宰相中將、右中辨宗成等、參内、着陣奥座、(中略)
次下給院宮御申文、進寄指笏給之、復本座抜笏、竝置硯筥右邊、院(鳥羽上皇)、待賢門院、皇后宮(藤原泰子)、中宮(藤原聖子)、齋院(禧子)、前〔齋院〕二所(禎子、恂子)、某■■女御、<准后四所有、留懸紙有禮紙、>依仰一々任京官、<禧子申文前齋院<ニ>書之、予難之、殿下(摂政忠通)示給天、前齋院事分貴所也、只可成者、仍任之了、>此中禎子申文、女御基子申文不被成、仍返上、(後略)
中右記 長承2年
(1133)
1月4日 【藤原宗忠、土御門前斎院に参上】
(未入力)
中右記 長承2年
(1133)
7月7日 【皇后宮(令子)前斎院(禎子?)、御誦経御経供養なし】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月5日 【無品禎子内親王御給】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
1月9日 【無品禎子内親王御給】
(未入力)
中右記 長承4年
[保延元年]
(1135)
2月13日 【右大将(藤原頼長)慶申。土御門斎院に拝賀】
 大將(藤原頼長)被申慶、仍依大殿(藤原忠実)仰向右衛門督(徳大寺実能)亭大炊御門亭、此中宮權大夫(藤原宗能)、左大辨(源師俊)來、前駈廿人、本府將監以下隨身四人、殿上人五六人連車扈從、院(鳥羽上皇)、女院(待賢門院)<前齋院(統子内親王)、>太后(令子内親王)、皇后宮(藤原泰子)、土御門前齋院(禎子内親王)、關白殿(藤原忠通)、同北政所(藤原宗子)、車副可警蹕之由、新<ニ>三位時、雖車副一人警蹕事也者、
台記 保延2年
(1136)
12月13日 【内大臣藤原頼長、慶申。大宮(太皇太后令子)・土御門斎院(禎子)に参向】
 今日予慶申也、(中略)
院示聞食了由、次二拜、此間、予車引過南門南也、爲參大宮也、次參大宮、<御所白河也、院御所也、本是法印信縁大泉亭也、>自西面欲參入之處、宮侍出來、示自南門可參之由、仍入自南門、立庭中門下、以亮實兼申事由、示聞食了由、二拜之後、定兼示有召由、予居殿上、次參簾中、女房擡簾、頃之、退出時、女房擡簾、又欲着履之間、女房●簾招實兼、實兼參、女房、入大刀於錦袋差出、實兼取之授予、左手乍持笏、以右手取之、給顯親云、以亮可返進也、顯親給實兼、實兼給女房、次參前齋院、<土御門(禎子)、>入自万里小路西門、■石履脱下、、<依無中門立此所也、>以權辨雅綱申事由、歸出示聞食了由、予二拜了、雅綱示有召由、予昇自件石履脱、參御前、女房擡簾令參入也、出時同擡、欲着履之時、雅綱、持錦小袋横笛、授左馬權頭顯定、予示可返上之由、仍返上畢云々、(後略)

●=褰(こちらを参照(字源))
公卿補任 保延3年
(1137)
1月5日 【禎子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 保延6年
(1140)
1月7日 【無品禎子内親王当年御給】
(未入力)
公卿補任 永治元年
(1141)
1月7日 【無品禎子内親王給】
(未入力)
近衛天皇
史料 月日 記述
台記 康治2年
(1143)
1月1日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に拝賀】
(前略)午斜、本院、<小六條、>攝政、及左大臣不參、拜禮時、余爲首、次皇后拜禮舞踏、次參新院、<三條、>拜禮了、(中略)
參土御門前齋院(禎子)、歸家、(後略)
台記 康治3年
[天養元年]
(1144)
1月1日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に拝賀】
 ●鳴四方拜如常、(中略)
次參土御門、前齋院(禎子)、依召入簾中、即退出、(後略)

●=雞(鶏の異体字。こちらを参照(字源))
重憲記
本朝世紀
天養元年
(1144)
12月17日 【禎子内親王年爵申文の事を勘申】
『重憲記』
 雨、早旦参別当亭申今日政定否并相公不被参事、仰云、今日延引者、数剋之後参京極大納言御許、依召也、以左近将監仲盛下給无品禎子内親王家合爵申文一通、<去大治二年給爵未給申以藤原家教被叙爵事、>仰可勘申給否并先例者、持向長者許之処、即被進勘文、仍相副申文返上了、
 无品禎子内親王家
  正六位上藤原朝臣家教
   望爵
 右去大治二年未給所請求如件、
  天養元年十二月十四日
別当正二位権大納言兼左近衛大将皇后宮大夫源朝臣雅定
   勘申無品禎子内親王給爵給否事
 右去大治二年給爵未敍所如件、仍勘申、
天養元年十二月十四日 大炊頭兼大外記助教 中原朝臣師安勘申

『本朝世紀』
 上卿給无品禎子内親王年爵未給申文。勘給。不令返上。
台記 天養2年
[久安元年]
(1145)
1月1日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に拝賀】
 未刻伴兩相公<忠基、教長、>參院、<六條烏丸新造宮、院及皇后居之、>有院并皇后拜禮、(中略)
次參立土御門前齋院(禎子)、依召參簾中退出、(後略)
台記 久安2年
(1146)
1月1日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に拝賀】
 鶏鳴拜天地四方、申刻、參鳥羽安樂壽院、(中略)
參土御門前齋院(禎子)<召入簾中、>白川前齋院(統子)<待賢門院子、>、同姫君(姝子内親王)<皇后(藤原得子)子、>、歸宅、(後略)
台記 久安2年
(1146)
11月11日 【内大臣藤原頼長、五節舞姫を献上
(未入力)
台記 久安3年
(1147)
12月18日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に参向】
 戌刻、詣土御門前齋院(禎子)<今在大町、而言土御門者、本所之號也、>、是今年元三不參之代也、依召入簾中、(後略)
台記 久安4年
(1148)
1月1日 【内大臣藤原頼長、土御門斎院(禎子)に参向。禎子病悩】
 午四刻、伴兩相公、<經定、教長、>參院、(中略)
詣土御門前齋院(禎子)、依召入簾中、其疾病、<自去年疾、>言語不詳、即歸家、(後略)
台記 久安4年
(1148)
6月23日 【侍従藤原兼長、土御門斎院(禎子)に慶申】
(未入力)
台記 久安4年
(1148)
10月13日 【右近少将藤原兼長、土御門斎院(禎子)に慶申】
(未入力)
台記 久安6年
(1150)
1月2日 【左大臣藤原頼長、土御門前斎院(禎子)に拝賀】
 及暗著衣、參高陽院、土御門前齋院(禎子)<今在世尊寺邊、>
台記 久安6年
(1150)
1月19日 【藤原多子、近衛天皇に入内】
(前略)次上覽沃懸地調度、<余所申行也、>此間、女房中將取燭盃、候御前、<著打出厚衣之、>頃之遷御、<余役之、>其後徹沃懸地調度、立前齋院(禎子)調度、<與母屋調度一具也、明日使盛憲返奉沃懸地調度於宇治、>(後略)

参考論文:
山田彩起子「四条宮藤原寛子の摂関家における位置-『中外抄』・『富家語』の言談を糸口として-」(2005) [機関リポジトリ全文あり]
※『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版, 2010)収録
台記 仁平元年
(1151)
9月27日 【禎子内親王御給】
(未入力)
公卿補任 仁平2年
(1152)
1月9日 【禎子内親王御給】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
3月24日 【土御門前斎院令爵のこと】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
9月16日 【新宰相藤原兼長、慶賀を申す。両前斎院(禎子・統子)へ参上】
(未入力)
兵範記 仁平3年
(1153)
9月18日 【従二位藤原師長、慶賀を申す。東山前斎院(禎子)・白川前斎院(統子)へ参上】
(前略)今夕、二位宰相中將(藤原師長)被申慶賀、一員随身騎移馬如例、前駈八人、<散位政業、馬助忠正、清則、前下野守盛邦、出羽守泰盛、馬助盛業、參川權守業行、散位仲行、以上五位、>
晩頭出京、左中將成雅朝臣、前少納言俊長朝臣、左馬權頭顯定朝臣等、駕車扈從、先被鳥羽殿、於一御所被申三方、<一院(鳥羽院)、美福門院、姫宮(暲子内親王?)、奏者可尋、>次於入道殿御宿所被申兩法、<入道殿、成雅朝臣申達、左府御方、顯定朝臣、>次東山前齋院(禎子)<顯定朝臣啓之、>次白川前齋院(統子)、職事宮内少輔重方啓之、<束帶、>次參内、左近中將成雅朝臣奏聞、次高陽院、<成雅朝臣別當也、>次皇后宮(藤原多子)云々、
兵範記 仁平3年
(1153)
閏12月27日 【権中納言右中将(藤原兼長)、慶賀を申す。白川前斎院(統子)・東山前斎院(禎子)へ参上】
 中納言中將(藤原兼長)御慶申也、(中略)
次被申美福門院、別當丹後守俊盛啓之、舞踏如初、以同朝臣被申、姫宮(暲子内親王?)再拝、次退出、令參前齋院(統子)給、<白川、>左少將公保朝臣啓之、再拝令退出給、(中略)
次令參前齋院(禎子)給、<東山、>(後略)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
1月3日 【藤原兼長、禎子内親王家に拝賀】
(前略)兼長參禎子内親王家、<法住寺邊、>院、高陽院、内裡、新院、皇后宮、(後略)
台記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
1月4日 【藤原頼長・隆長、禎子内親王家に拝賀】
(前略)入夜、伴隆長詣禎子内親王家、<法住寺邊、>次參院、次參法成寺、<先是、隆長詣統子内親王家、次參法成寺、>(後略)
兵範記 仁平4年
[久寿元年]
(1154)
8月21日 【右大将藤原兼長、慶賀を申す。東御堂御所に参上、前斎院(統子)に言上。東山前斎院(禎子)に参上】
 新大將(藤原兼長)御慶賀申、(中略)
更還北、經北殿北大路、參東御堂御所、被參啓前齋院(統子)、職事紀伊守頼憲啓之、再拝了退出、自東路經河原、令參東山前齋院(禎子)給、<枇杷殿齋院也、>次歸路、(後略)
兵範記
台記
久寿元年
(1154)
11月13日 【権中納言藤原師長、慶賀を申す。枇杷前斎院(禎子)、白河前斎院(統子)に参拝】
『兵範記』  新中納言(藤原師長)御慶賀申、(中略)
參拜所々、
 一院(鳥羽院)<別當家長朝臣奏聞、>美福門院、<同俊盛朝臣奏之、>枇杷前齋院(禎子)、白河前齋院(統子)、母堂(源信雅女)御許、高陽院、<成雅朝臣、>(近衛天皇)<同、>新院(崇徳院)<別當實清朝臣、>皇后宮(藤原多子)<亮師國朝臣、>太政大臣(藤原実行)家、<答拜引出物、>内大臣(徳大寺実能)家、<同、>(後略)

『台記』
(未入力)
兵範記
台記
久寿元年
(1154)
11月16日 【禎子内親王より薫物】
(未入力)
後白河天皇
史料 月日 記述
兵範記 久寿2年
(1155)
10月23日 【(後白河天皇)御即位叙位。禎子内親王御給、統子内親王御給】
(未入力)
兵範記
帝王編年記
一代要記
ほか
久寿2年
(1155)
10月26日 【後白河天皇即位式】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
11月5日 【女叙位。統子内親王御給、禎子内親王御給】
(未入力)
兵範記 久寿2年
(1155)
11月22日 【大嘗会叙位。禎子内親王未給】
(未入力)
山槐記
兵範記
一代要記
久寿3年
[保元元年]
(1156)
1月5日 【前斎院禎子内親王薨去】
『山槐記』
(1月5日条)
(前略)枇杷殿前齋院(禎子)今曉薨御云々、
(1月7日条)
(前略)<然枇批把殿前齋院(禎子)於七條末御堂崩給、>(後略)

『兵範記』
(前略)今日枇杷殿前齋院(禎子)、令薨逝給了、御邪氣云々、御年七十六、故白川院皇女、四條宮(藤原寛子)猶子、宇治殿(藤原頼通)御物并庄園多令相傳給、而此後如何、歿後事、中院右府入道(源雅定)御沙汰云々、

『一代要記』
(白河院天皇)
 皇女 愼子内親王(中略)
<永保二ー三月一日為内親王、二歳、應徳二ー八月廿五日給別封三百戸、承徳元ー十「一」月十四日准三后、/保元 [元]ー正月五日薨、<七十六、>于時坐法住寺御所、>
(堀河院天皇)
 斎院 禎子ヽヽヽ[内親王]
<白河院三[四]女、永保二ー三月一日爲内親王、<二才、>應徳元ー十「一」月十四日准三宮、保元 [元]ー正月五日薨、<七十六、>號土御門齊院、>
高倉天皇
史料 月日 記述
玉葉 承安3年
(1173)
2月11日 【土御門斎院御所のこと】
 依旬日沐浴解除、陰陽師周平也、作事了地、令占吉凶、一、二条万里小路、<当時領也、>二、土御門高倉、<土御門斎院(禎子)御所略[町?]也、本主(藤原)定隆卿御家、申可相博之由也、>以今月五日酉時令占之、一、不吉、二、吉云々、(後略)
安徳天皇
史料 月日 記述
百錬抄 養和元年
(1181)
11月15日 【前斎院の世尊寺亭炎上】
(安徳天皇)
 前齋院(※)世尊寺亭炎上。

当時存命で非皇后・女院の前斎院は、式子頌子範子の三人。いずれも世尊寺に邸宅を持っていた記録はなく、『台記』(久安6年1月2日条)に土御門前斎院(禎子)が「世尊寺辺」に滞在していたとあることから、この「前斎院」は故禎子内親王か。


史料 記述
十三代要略
白河院
(皇女)
 禎子内親王<母同媞子(中宮賢子関白左大臣女)。>
  永保二年三月一日。爲内親王。

堀川院
 康和元年 十月廿日。卜定賀茂齋王。<禎子内親王今上(堀河)弟。>
 嘉承二年 七月十九日。辰刻。(堀河)天皇崩于堀河院。<年廿九。>(後略)

崇徳院
 大治二年 八月十四日。太后寛子崩御于宇治別業。<九十二。>
一代要記
白河院天皇
(皇女)
 愼子ヽヽヽ[内親王]
 <永保二ー三月一日為内親王、二歳、應徳二ー八月廿五日給別封三百戸、承徳元ー十「一」月十四日准三后、/保元 [元]ー正月五日薨、<七十六、>于時坐法住寺御所、>

堀河院天皇
(斎院)
 禎子ヽヽヽ[内親王]
 <白河院三[四]女、永保二ー三月一日爲内親王、<二才、>應徳元ー十「一」月十四日准三宮、保元 [元]ー正月五日薨、<七十六、>號土御門齊院、>
帝王編年記
白河院
(皇女)
 禛子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/号土御門齋院>

堀河院
(齋院)
 <准三宮>
 禛子内親王<同(白河院)第四皇女康和元年十月廿日卜定/嘉承二年七月十九日依病退出>
二中歴
(齋院)
 禎子<同(白河)女土御門齋院 康和五年>
皇代暦
堀河天皇
(齋院)
 禎子内親王 白川院第四女依病退之
本朝皇胤紹運録
(白河院子)
(287)禎子内親王[齋院。准后。母同(中宮賢子)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
禛子内親王<准三后(右傍書)> 康和元年卜定。同(白河院)第九御女。母同上(中宮賢子)。土御門齋院。
賀茂斎院記
禎子内親王
白河院第九皇女也。母同令子。
康和元年卜定。
号土御門斎院。
栄花物語
(39・布引の滝)
【禎子内親王誕生】
 中宮(白河后賢子)には、このたび女宮(禎子)にておはします。四条宮(後冷泉皇后寛子)に、つれづれにおはしますにとて渡したてまつらせたまひつ。
栄花物語
(40・紫野)
【四条宮寛子と禎子内親王の様子】
 四条宮(後冷泉皇后寛子)も宇治に御堂(みどう)建てて通ひ住ませたまふ。故中宮(白河后賢子)の姫宮一所(禎子)は、この宮におはします。かしづきたてまつらせたまふさまおろかならず。(中略)

 一院(白河院)の姫宮(令子内親王)、殿におはします、斎院にゐさせたまひぬ。いと華やかにめでたき御有様なり。
定まらせたまひなば御対面難(かた)かるべければ、院に渡らせたまふ。四条宮の姫宮(禎子)も渡らせたまふ。若き人々、薄物、綾、かとり(※)の単襲(ひとへがさね)の色々なるに、裳、唐衣などめでたくをかしう、花の色々を織りつくして十人、さらに大人などは織りたる五重なる三重なる、浮線綾など着たるもあり。四条宮の姫宮の御方にも四人ばかりぞさぶらはせさせたまふ。かたち、有様心ことに選らせたまへり。斎宮(媞子内親王)の御方もおろかならんやは。院いづれもおろかならず見たてまつらせたまふ。

※「かとり」=糸偏に兼。絹を固く織った平織りの布地のこと。
 字はこちらを参照(字源)。
今鏡
(7・有栖川)
 また土御門の斎院と申して、禛子内親王と申すおはしき。その斎院は、常に法(のり)の筵(むしろ)などひらかせ給ひて、法文のことなど、僧参りあひて、尊きことども侍りけり。(源)雅兼入道中納言など参りつつ、もてなし聞え給ひけるとかや。
 歌なども、人々参りて詠む折も侍りけり。「水の上の花」といふ題を、時の歌詠みども参りて詠みけるに、女房の歌、とりどりにをかしかりければ、木工頭(むくのかみ)俊頼も席(むしろ)につらなりて、
「この歌は、囲碁ならば互先(かたみせん)にてぞよく侍らむ」など、とりどりに誉められけるとぞ。その一人は、堀河の君(待賢門院堀河)とて、(源)顕仲伯の娘のおはせし歌、

  雪と散る花の下行く山水のさえぬや春のしるしなるらむ

また、

  春風に岸の桜の散るままにいとど咲きそふ浪の花かな

このほかも聞き侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿(雅兼)の「嵐や峰をわたるらむ(花さそふ嵐や峰をわたるらむ桜波よる谷川の水)」と詠み給ふ、そのたびの歌なり。白河院、歌ども召し寄せて、御覧じなどせさせ給ひけり。
 一院(いちのいん=白河院)の御娘なればにや、ことのほかにあるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房、中臈になりぬれば、みづから侍に物いひなどはせざりけりとぞ聞え侍りし。
 この斎院(禎子)かくれさせ給ひて後、そのあとに、堀河の斎院(27代悰子)つぎて住み給ひけるこそ、昔思し出でて、中院の入道大臣(源雅定)詠み給ひける、

  有栖川同じ流れと思へども昔のかげの見えばこそあらめ
新古今和歌集
  • (哀傷)ヮq内親王かくれ給ひて後、悰子内親王(27代斎院)かはりゐ侍りぬと聞きてまかりてみれば、何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて女房に申し侍りける
          中院右大臣(源雅定)

(827)ありす川おなじ流はかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ


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