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33代斎院 頌子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
しょうし のぶこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:藤原実能女[春日殿]
天養2年(1145)3月13日 承元2年(1208)9月18日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
高倉(1168〜1180,甥) 卜定:承安元年(1171)6月28日
   (中御門京極)
初斎院:なし
本院:なし
退下:承安元年(1171)8月14日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
惇子(1158-1172,姪)
 [堀川斎宮]
 父:後白河天皇
 母:藤原公能女
卜定:仁安3年(1168)8月27日
   (綾小路猪熊家)
初斎院:嘉応元年(1169)5月9日
   (一本御書所)
野宮:嘉応元年(1169)9月27日
群行:嘉応2年(1170)9月10日
退下:承安2年(1172)5月3日
薨去

略歴:
 天養2年(1145)(1歳)3月13日、誕生。
 承安元年(1171)(27歳)6月28日、甥高倉天皇の賀茂斎院に卜定。


8月14日、病のため退下。
 承安5年(1175)(31歳)6月24日、高野山蓮華乗院に紀伊国南部荘の田10町を寄進。
 寿永元年(1182)(38歳)6月27日、甥の静恵法親王(後白河天皇皇子)を猶子とする。
 寿永3年/
 元暦元年(1184)
(40歳)9月20日、落飾。
 承元2年(1208)(64歳)9月18日、薨去。

号:春日姫宮、冷泉姫宮、五辻斎院
猶子:静恵法親王

鳥羽天皇第七皇女。
 母方の祖父実能は待賢門院璋子の兄で、鳥羽天皇の従兄弟。(実能の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹) 母春日殿は、31代式子内親王の母成子(高倉三位)の従姉妹にあたる。

         ┌───────┐
         │       │
 堀河天皇===藤原苡子    藤原公実
      │          │
      │          ├───────┬───────┐
      │          │       │       │
      │          実能   璋子[待賢門院]    季成
      │          │     (鳥羽中宮)     │
      │          ├────┬────┐     │
      │          │    │    │     │
     鳥羽天皇=======春日殿   公能   育子    成子
      │     │         │    (二条中宮) (式子母)
      │     │      ┌──┴──┐
      │     │      │     │
    後白河天皇  ◆頌子     忻子    多子
      │          (後白河中宮) (近衛・二条后)
  ┌───┴┬───┐
  │    │   │
 高倉天皇  惇子  式子
      (斎宮)

 1169年の32代僐子内親王卜定の際、僐子と共に頌子内親王も候補に挙げられていたが、頌子は父鳥羽院の出家後に誕生した皇女であったことから、仏事を忌む斎院には憚りありとして卜定されなかった。その後1171年に僐子が病のため退下(その後間もなく薨去)すると、当時斎王候補となりうる未婚・非女院の内親王は頌子一人しか残っていなかったため、頌子が33代斎院として卜定された。
 しかし頌子も病のため、結局二ヶ月足らずで退下(なお翌年、斎宮惇子内親王も伊勢で薨去)。その後1177年の34代範子内親王卜定まで、賀茂斎院は約6年間に渡り不在となった。





近衛天皇
史料 年月日 記述
台記 天養2年3月13日 【頌子内親王誕生】
台記 天養2年3月14日 【頌子内親王、御湯殿始】
六条天皇
史料 年月日 記述
兵範記 仁安3年1月19日 【頌子内親王、院旨により、一条北辺五辻宮の券契を内に奉献】
兵範記 仁安3年1月28日 【六条天皇、五辻宮に方違行幸】
高倉天皇
史料 年月日 記述
兵範記 嘉応元年8月21日 【斎院卜定について協議。頌子内親王は除外】
 依召相構参院、為御使参摂政殿、奏斎院卜定事也、仰云、鳥羽院姫宮[頌子内親王]<徳大寺左大臣女春日殿腹>、二条院姫宮<大博士師元朝臣女腹>、此両宮問可在卜定、而春日殿姫宮者、鳥羽院御存日有斎王議之時、出家以後令誕生給之宮也、可有卜定憚由令自称給。
至于二条院姫宮者已無憚、当時上西門院為御猶子、何様可有沙汰哉者、殿下御報云、上皇御出家後、姫宮依法體子息可有其憚者、春日殿姫宮不可及沙汰、但被尋先例、可在御定歟者、帰参奏此旨、次依仰問大外記頼業眞人、無例之由所令申也、又奏院申殿下了
玉葉ほか 承安元年6月28日 【頌子内親王、賀茂斎院卜定】
『玉葉』
 此日賀茂斎王卜定也、(中略)
次蔵人右衛門権佐光雅来就軾、仰云、賀茂斎院卜定日時、仰陰陽寮令択申<与>、与揖之、光雅退帰、次余以官人召左少弁、則経房参軾、余仰云、賀茂斎院卜定日時勘申せ、経房微唯退了、頃持来日時勘文、余披見之後、経房退了、<件日時、今月廿八日、時戌二点云々、>
次余召官人、伝仰外記筥可持参之由、則六位外記持筥参上、余入勘文於件筥、
「摂政依物忌不可内覧之由有仰旨光雅示之事、」
以官人召光雅付之、<光雅申云、摂政殿依御物忌、不可持参由有仰、>小時奏聞了、帰来返給筥、余結申如恒、光雅仰云、依勘申行之、余微唯、巻文入筥、光雅退了後、召経房下之、<余誤乍入筥欲給之、経房示気色、更覚悟、取出下之、先年又如此、重愚其上也、>経房結申之、余仰同職事、経房唯、巻文退了、次召外記返給筥了、
次光雅来軾、仰云、頌子内親王可為賀茂斎院哉之由令卜申<与>、余揖之、光雅退下、
次余以官人召経房、則参軾、余仰可敷神司官人座之由、経房退下、仰掃部寮令敷之、先敷筵、其上」敷畳、陣北砌也、<柱外也、>次置水火如恒、次余召外記、仰神司官人可罷寄座之由、
(頭書、墨書)「神官着座後、持来覧筥一合置座末、納卜具也、」
外記唯退下、則神祇権大副卜部兼康以下、神官四人参上着座、<自西方参也、>
次余以官人召外記、々々参候小庭、余仰硯紙可持参之由、外記唯退下、則持硯筥、置余前、<入紙二枚、>
次余摺墨、取紙、先巻取礼紙、置硯筥、<硯下方也、>次巻返紙、取筆書之、<頌子内親王五字、紙端四寸許、上二寸許置之、不書年号月日、>了如本巻之、更加礼紙置前、以官人召外記、々々参入、余給名簿、仰可封之由、(見せ消し)外記乍候軾挿笏、自懐中取出封紙、<不襪如何、>以小刀封之了返上、外記退出了、余取之、其上書封字、<封目上也、>取副名簿於笏、召云、神司(カムツカサ)ノ権大副ノ朝臣、
「卜時召第一者子細事、」
<被聞程微音召之、四位召官朝臣、五位召名朝臣、恒例也、或説、雖他社事尚召中臣云々、普通之説、伊勢事、不依位階召中臣、他社事、召第一座者也、而旧記、斎院卜定、度々召中臣也、但其時参入神官座次不載、仍尚不審、問申摂政之処、召中臣例、自然中臣為第一之故欤、忽雖勘得云々、今度付普通例、召第一座者也、守一説之輩、定致疑難欤、>
則兼康経座後并末、<東也、>参軾、余給名簿、<先例、或召筥入之下給、長元九年、天仁元年等例也、然而治暦五年斎宮卜定、故大殿(藤原師実)以手給之、准彼儀不召筥也、加之申摂政之処、以手給之由、覚悟云々、>兼康取之」
復座、次第取下、卜申了、封上(カミ)書卜乙下合之由、<或封下書之云々、>入板筥蓋、兼康持参、余取之置前、返筥蓋了、
次召外記、仰神祇官可起座之由、則聞之、神祇官等起退了、仍外記不能仰、則掃部寮出来撤座、次余以官人、外記可持参筥之由仰之、則外記持参筥、余入卜形於件筥、給外記、々々取之立小庭、
次余起座、相具件外記進中門、<経小庭并立蔀西頭等如恒、>
「光雅返賜筥於上卿子細事、」
付光雅奏之、頃之光雅帰来、返給筥、<卜形留御所、>余云、先例或自御所直返給者也、
「斎院卜定之由帰陣可被仰之由子細事、」
或又有給上卿之度、光雅無所申、余取之給外記了、<外記取之退下了、>余又云、斎院卜定之由、帰陣之後可被仰欤、然者待其仰、可仰中臣并弁等也、此次被仰、又先例欤如何、光雅云、同事也、此次令申、又先例也、然者只可令仰御云々、余帰陣、以官人召外記、々々参小庭、余仰可召定隆之由、<中臣也、>外記唯退下、小時定隆参軾、余仰云、以頌子内親王卜定賀茂斎院了、任例可令行者、定隆退了、次召弁、経房来、余仰、大略同仰中臣之詞、」
「仰初斎院行事官事、」
但仰可成官符之由也、経房微唯退出了、次光雅来仰云、令権大納言藤原朝臣・左少弁藤原朝臣・右大史中原長倫等、行初斎院事<与>、散位平朝臣時盛可為勅別当者、余揖之、光雅退了、次余以官人召経房、仰此旨了、<延久五年斎宮卜定、上卿大殿、召他弁被仰之、仍欲召他弁之処不候、依不可黙止、則仰行事弁了、>
「召光雅問子細事、」
次余召光雅、密々問云、於今者無被仰事欤、光雅云、不可候、
「退出之次参院事、」
奉幣・大祓日時、斎院上卿可被勘下云々、<先例或卜定上勘之、或斎院上勘之、仍密々所為也、斎院上勘之、恒例也、>(中略)
卜定所中御門京極云々、
皇帝紀抄ほか 承安元年8月14日 【斎院(頌子)、病により退下】
高野山文書 承安5年6月24日 【前斎院(頌子)、田拾町を高野山蓮華乗院に寄進】
安徳天皇
史料 年月日 記述
玉葉
吉記
寿永元年6月27日 【後白河法皇、園城寺宮静恵法親王を前斎院(頌子)の猶子とする】
『吉記』
 未剋参五辻斎院、<直衣>、今日院(後白河)寺宮(静恵法親王)<母儀丹波局也、是無品法親王弟子也、故斎院宣旨局奉養、其後無乳母>為斎院御猶子令渡給
安徳天皇・後鳥羽天皇
史料 年月日 記述
玉葉
吉記
寿永2年2月1日 【白河宮、五辻斎院(頌子)に渡御】
吉記
百練抄
寿永2年11月20日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、五辻御所に渡御】
『吉記』
 上西門院可有臨幸五辻御所之由、自前斎院有其仰、仍逐電参上、申尅、女院、皇后宮、前斎院等、御同車渡御、偏略儀也、宮大夫、<御車寄、>右京大夫光雅朝臣、基宗朝臣等扈従、以御堂御所為御所、予加検知、謁人々之後、晩頭退出、于時別當宮権大夫等参入、
吉記 寿永2年11月26日 【両女院(上西門院・八条院)、斎院(頌子)の五辻御所に渡御】
 午時許参院、<五條殿、>(中略)
次參五辻宮、今日女院両宮令同宿斎院御方給、<日来御坐御堂御所、>鋪設雑事御菓子等類、
<「鋪設已下奔筥事、」>
予一向奔▲(螢の冠に呂)、予遅参之間、先令催参子息令行之、折節如大宮、人以嗟嘆云々、院宮以御輿渡御、予入夜退出、
吉記 寿永2年11月27日  次官自斎院退出、<去夜宿侍、>御所事末[来?]談[等?]也、三方男女房各稱美云々、
山槐記 寿永3年/元暦元年9月20日 【前斎院(頌子)出家】
後鳥羽天皇
史料 年月日 記述
高野山文書 文治2年8月21日 【前斎院(頌子)丁、紀伊南部荘を高野山蓮華乗院の仏聖灯油及び談義僧供料に充てる】
高野山文書 文治2年9月9日 【紀伊南部荘領家藤原某、斎院(頌子)丁の下文により、荘官に令して高野山御塔の仏聖灯油を供える】
高野山文書 建久5年4月 【前斎院(頌子)、紀伊南部荘を高野山蓮華乗院に寄進】
土御門天皇
史料 年月日 記述
自暦記 建久9年10月25日 【頌子内親王の醍醐第焼亡】
百練抄
今鏡ほか
承元2年9月18日 【前斎院頌子内親王薨去】
『百錬抄』
 五辻前斎院(頌子)薨。<御年六十四。鳥羽院皇女。>


史料 記述
一代要記

高倉天皇
斎院 頌子内親王 鳥羽第七女、承安元年卜定

今鏡
(8・腹々の御子)

 また徳大寺の左の大臣の御娘とて、鳥羽の院に候ひ給ひけるが、女御子(頌子)生み給ひて、春日の姫宮と聞え給ふ。冷泉の姫宮と申すにや。その母を春日殿と申すなるべし。



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