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32代斎院 僐子内親王

※「ぜん(よし)」の字は、人偏+善。こちらを参照(字源)。

名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
ぜんし よしこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:二条天皇(1143-1165)
母:中原師元女[堀河局?]
平治元年(1159) 嘉応3年(1171)3月1日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
高倉(1168〜1180,叔父) 卜定:嘉応元年(1169)10月20日
   (五条坊門高倉少将
    高階泰通家)
初斎院:嘉応2年(1170)4月23日
   (大膳職)
本院:なし
退下:嘉応3年(1171)2月22日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
惇子(1158-1172,叔母)
 [堀川斎宮]
 父:後白河天皇
 母:藤原公能女
卜定:仁安3年(1168)8月27日
   (綾小路猪熊家)
初斎院:嘉応元年(1169)5月9日
   (一本御書所)
野宮:嘉応元年(1169)9月27日
群行:嘉応2年(1170)9月10日
退下:承安2年(1172)5月3日
薨去

略歴:
 永万元年(1165)(7歳)6月25日、父二条天皇譲位、弟六条天皇践祚。


7月26日、六条天皇即位。


7月28日、父二条上皇崩御。
 仁安3年(1168)(10歳)2月19日、六条天皇譲位、叔父高倉天皇践祚。


3月20日、高倉天皇即位。
 嘉応元年(1169)(11歳)10月20日、内親王宣下。高倉天皇の斎院に卜定。
 嘉応2年(1170)(12歳)4月22日、初斎院(大膳職)に入る。
 嘉応3年(1171)(13歳)2月22日、病のため退下。


3月1日、薨去。(『玉葉』では2月29日戌刻)

二条天皇第一皇女。28代統子内親王(上西門院)猶子。
 外祖父中原師元は、正四位上・大外記兼明経博士。日記『大外記中原師元記』等の著作を残した。

            後白河天皇
              |
              ├─────┬────┐
              |     |    |
 中原師元女=======二条天皇  高倉天皇  惇子
         |    |         (斎宮)
         |    |
        ◆僐子  六条天皇

『玉葉』(安元2年(1176)9月14日条)に「嘉応元年二月二十九日、前賀茂斎院倍子薨<主上姪子>」の記載があるが、この「前斎院倍子」は高倉天皇の姪にあたる僐子を指すもので、没年の嘉応元年は同三年の誤りと思われる(『九条家本玉葉 第4巻(安元二年春-安元二年冬)』宮内庁書陵部編, 明治書院, 1997)。
 なお同日、前斎宮休子内親王(後白河皇女)も薨去しており、前斎宮・前斎院が同日に薨去した例はこの時のみである。またこの直前、安倍時晴により「熒惑犯東井北轅第一執臣星、此変常不見」という天変が奏上されていた(『玉葉』同月27日条)。これは同月18日前後に熒惑(火星)が東井北轅第一執臣星(双子座のε星)に異常接近したもので、この直後に前斎宮・前斎院の同日薨去があったことから、九条兼実は『玉葉』(3月1日条)に「天変不定、豈不恐哉」と記している。この天変と凶事の連続は重厄とされ、4月21日に改元が行われた。

参考図書:
・斉藤国治『国史国文に現れる星の記録の検証』(雄山閣, 1986)

参考論文:
・湯浅吉美「『玉葉』に見える惑星記事の考察」(『政治と宗教の古代史』慶應義塾大学出版会, 2004)

参考リンク:
『天皇皇族実録108.二条天皇』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※僐子内親王については141〜145コマにあり


【僐子内親王の名前のこと】
「僐子」の訓読みについては『兵範記』(嘉応元年(1169)9月24日条)にて、新斎院選出にあたり命名を討議した際に左大臣藤原経宗が「僐字、釈に云う、善なりと云々、善子斎宮と令子斎院は、その訓が共に僐と同じ」(※読み下しは斎宮歴史博物館コラムから引用。以下参考リンク参照)と述べており、24代令子内親王と同じく「よしこ」である可能性が高い。
 ただし、善子斎宮と令子斎院は共に白河天皇皇女であり、姉妹で同訓の名前であったかどうかは疑問が残る。また同じく白河天皇の子である堀河天皇の諱は善子斎宮と同字の「善仁」であり、『平安時代史事典』では「たるひと」としているが、これが正しければ善子斎宮は「たるこ」と読んだ可能性も考えられる。

参考リンク:
・「よしこさんがいっぱい」(斎宮歴史博物館)

関連ブログ:
・「伊勢斎宮の謎・2 お姫様の名前





高倉天皇
史料 月日 記述
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月12日 【斎院卜定について後白河院に奏上】
 参摂政殿(松殿基房)、内覧斎院卜定事、■[参?]院奏同事
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月14日 【斎院卜定の雑事を後白河院に奏上】
 早旦参院、奏斎院卜定雑事
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月21日 【斎院候補の検討】
 依召相構参院、為御使参摂政殿(松殿基房)、奏斎院卜定事也、仰云、鳥羽院姫宮(頌子内親王)<徳大寺左大臣(藤原実能)女春日殿腹>、二条院姫宮(※)<大博士(中原)師元朝臣女腹>、此両宮問可在卜定、而春日殿姫宮者、鳥羽院御存日有斎王議之時、出家以後令誕生給之宮也、可有卜定憚由令自称給。
至于二条院姫宮者已無憚、当時上西門院(統子)為御猶子、何様可有沙汰哉者、殿下御報云、上皇(鳥羽)御出家後、姫宮依法體子息可有其憚者、春日殿姫宮(頌子内親王)不可及沙汰、但被尋先例、可在御定歟者、帰参奏此旨、次依仰問大外記(清原)頼業眞人、無例之由所令申也、又奏院申殿下了

この時点で「二条院姫宮(僐子)」はまだ命名前である。
兵範記 嘉応元年
(1169)
8月22日 【斎院候補の検討】
 参殿下并院、申卜定間事、於内親王者、無左右可被定二条院■[姫?]宮(僐子)由、豫被仰下了
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月1日 【斎院卜定について、名字を選ぶよう指示】
 参摂政殿、内覧斎院卜定事、其中女王名字可撰申儒士、藤中納言資長、宮内卿(藤原)永範卿、左中弁(藤原)俊経朝臣<文章博士也、今一人成光朝臣重服>、等申事■[之]由之處、仰云、永範卿為式部大輔御侍読可宜歟、但可随院御定云々、次参院、執奏条々事
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月4日 【二条院姫宮の卜定内定】
 依召参院、仰云、故二条院姫宮(僐子)<御年十一歳、母大博士中原師元朝臣女、上西門院猶子>可奉卜定斎院由觸示
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月9日 【二条院姫宮の名字を検討】
 早旦参院、奏初斎院事御名字、式部大輔(藤原)永範卿申、彼姫宮(僐子)斎王内議已了、御坐法金剛院御所之絛有憚歟、又女院(上西門院統子)御同宿同前、被申仁和寺女院了、御返事云、女院大治二年卜定之時、白河院御同宿也、可被准據歟、於法金剛院御所者、尤可令避給云々、但康和元年枇杷殿斎院(ヮq内親王)卜定之間、姫宮内議以後、四条宮(太皇太后藤原寛子)入御宇治殿(藤原頼通)御同宿由、見家々記、彼是不同、猶可在時儀歟、神事習以重為先、可御坐各別由、殿下令計申給之由
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月12日 【斎院卜定の雑事を後白河院に奏上】
 参院■[奏?]斎院卜定雑事、次參上上西門院啓同事、
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月19日 【斎院卜定の事を後白河院に奏上】
 参院、申斎院卜定間事
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月21日 【上西門院(統子)より、斎院卜定について仰せあり】
 斎院卜定之間事、自上西門院(統子)令申之絛々被仰下也
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月23日 【斎院御名字勘文】
 参院、申斎院御名字勘文<先日内覧了>、宣云、両字中、猶可令申給、殿下(松殿基房)仰云、先々雖及仗儀、被尋仰上臈両三人、常例也
(中略)

勘申、
 御名字事、
   僐、
    陸法言云、之善反、孫●云、説文作姿態、
    又善也、字書或為▲字、▲好、
   祇、
    陸法言云、旨夷反、敬也、或作◆、
    尚書曰、社稷宗廟罔弗祇粛、
 右勘申如件、
   嘉応元年九月十七日、
        宮内卿式部大輔藤原朝臣永範、
     書檀紙、有裏紙懸紙、

即日内覧殿下、次日院奏、無分明仰、仍今日申驚也、
左府<(藤原)経宗>、按察使(藤原)公通、左大将(藤原)師長
各副書札令尋申了

※●=偭(人偏+面)。こちらを参照(字源)。
 ▲=嫸(女編+善)。こちらを参照(字源)。
 ◆=𥙥(示編+弖)。こちらを参照(字源)。
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月24日 【斎院御名字勘文】
 皇女(僐子)御名字、人々被申趣等、
 左大臣(藤原経宗)
  僐字頗雖為難字、強無巨難歟、
  祇字被用御名之時、訓読不快歟、
  追申、僐字、釈云、善也云々、
  善子斎宮、令子斎院、其訓共同僐字、
  然而訓同字異之例、不可勝計、
  祇字、釈云、敬也、恭経之心歟、
  恭字者、延喜(醍醐天皇)之皇女(恭子内親王)也、
  雖備斎居[宮]、無程退出、此等之例案之、僐字何事候哉
 按察使、
  僐字、其音善、斎宮善子同名無憚歟、可被用僐字歟
 左大将、<師長、>
  僐祇両字共無殊難歟、但神斎之事、敬粛為宗、
  斎王御名被用祇字可宜歟、
今日雖承此旨趣、御念仏奉行、不能他事之間、不内覧院奏
兵範記 嘉応元年
(1169)
9月27日 【斎院卜定と名字について、後白河院に奏上】
 参院、奏斎院卜定日皇女(僐子)御名字等事、次参摂政殿(松殿基房)
申院御旨等
兵範記 嘉応元年
(1169)
10月1日 【宮中に触穢】
 禁中穢気、依奉初斎院事、不参内
兵範記 嘉応元年
(1169)
10月3日 【斎院卜定について、先例(25代禎子)を検討】
 次参姫宮(僐子)謁、皇后宮亮師家曰、申入■[卜?]定間雑事、此宮日来上西門院(統子)同宿、御于法金剛院御所、云御同宿、云仏閣、依旁無便、去月廿八日出御皇后宮(藤原忻子)御所也、彼女院猶留御于仁和寺殿也、先例、康和元年枇杷殿斎院(禎子)卜定之時、四絛宮(太皇太后藤原寛子)同宿、有憚沙汰、太后入御宇治殿(藤原頼通)由、有所見、今度申入其例、有此沙汰也
兵範記
愚昧記
ほか
嘉応元年
(1169)
10月20日 【僐子、内親王宣下並びに斎院卜定】
『兵範記』
 可有斎院卜定事、午剋許参殿下(松殿基房)、先申卜定間次第、次参内、尋行卜定所雑事、出納尚親、小舎人宗時、自今朝参向彼所、請渡御簾畳以下雑物於本宮、侍令鋪設装束也、未剋権大納言(三条)実房、権中納言(藤原)邦綱、(藤原)宗家、左衛門督(滋野井)実国、修理大夫(藤原)成頼卿等参会。
申剋左大臣(藤原経宗)参着仗座<直被着端座、>権大納言以下同着、摂政(松殿基房)参内、令候朝餉方給、次下官奉仰、出仗座、仰左大臣云、以無品僐子女王、可為内親王。
左府称唯、下官欲起座之間、左府目給、即複座、宣云<仰詞如下官、>即退去、於庄子座仰左大史(小槻)隆職宿禰、即令成承知官符等、次下官又出仰云、斎院卜定日時令勘申、又左府被仰下官、々々於庄子、召右大史大江広盛仰之、広盛仰陰陽寮令勘申。

陰陽寮
 擇申、可被卜定賀茂斎内親王日時、
 今月廿日壬寅、  時酉二點、
  嘉応元年十月廿五日、漏刻博士安倍朝臣経明、
            陰陽博士賀茂朝臣済憲、
            主税助安倍朝臣時晴、
            主計頭兼頭賀茂朝臣在憲
(以下、勘申本文略)

今斎王(僐子)、二条先帝皇女、母当時大博士(中原)師元朝臣女。
彼院御宇官仕、斎王御年十一歳、卜定并次第行事、准寛治三年令子太后、平治元年<先斎院式子>例、可奉行由、預被仰下左大臣了。

 十月卜定例、
  貞観元年十月五日丁亥、儀子内親王卜定、
   文徳天皇々女、   清和天皇初、
  康和元年十月廿日戊午、ヮq内親王卜定、
   白川院皇女、    堀川院御宇、
  平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、
   上皇々女、     二条院初、
 寅日卜定例、
  天延三年六月廿五日丙寅、卜定選子内親王、
   斎王間歴五代、  最吉例也、
  天仁元年十一月八日丙寅、是殊吉例也、
   此間延喜三年、承平元年、長元九年在其例、併吉例云々。

卜定所、右近少将泰通朝臣五条坊門高倉家、兼日借召、土佐守雅賢加修理致掃除、此外卜定日、神祇官、賀茂下上社司、并行事官饗禄、及自今月至于明後年四月御相[作]料米、毎月四十石、油二斗等、募重任功勤進之、御簾、御畳、几帳帷、所々雑具等、右馬允藤原成募行靱負尉超越功調進之、又有諸司勤事等、
  已上条々、委細在別注文。

入夜、斎王自大炊御門亭、行啓卜定所、出御之間、有御反閇事、在憲朝臣奉仕之、上西門院(統子)庇御車<御車副、御牛、同前>、権大納言(徳大寺)公保卿被候御車寄、後即納言、左衛門督(藤原)実国、三位中将(藤原)実家等扈従、前駈十餘輩<皆女院殿上人、衣冠>、出車五両、右中将頼定、実宗、左少将基家、光能、泰通朝臣等獻之、文官衛府侍等、毎車二人副之<各衣冠>、女房廿人、出白衣袖妻等<蘇芳表着濃袴>

太政官符、
   僐子内親王、
右左大臣(藤原経宗)宣、奉勅、件親王、定賀茂斎王畢、官宣承知依宣行之、
符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符中務省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符式部省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符民部省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符兵部省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符大蔵省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符宮内省、
   僐子内親王、
右太政官今日下神祇官符称、左大臣宣、奉
勅、件親王定賀茂斎内親王畢、
官宜承知依宣行之者、省宜承知符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符中務省、
   僐子内親王、
右内親王所定如件、省宜承知依例行之、符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符式部省、
   僐子内親王、
右内親王所定如件、省宜承知、依例行之、符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符民部省、
   僐子内親王、
右内親王所定如件、省宜承知依例行之、符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符大蔵省、
   僐子内親王、
右内親王所定如件、省宜承知依例行之、符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日
太政官符宮内省、
   僐子内親王、
右内親王所定如件、省宜承知依例行之、符到奉行、
    正四位下行権右中弁平朝臣<在判>
  修理左宮城判官正五位下行左大史兼備前前権介小槻宿禰<在判>
  嘉応元年十月廿日

『愚昧記』
<齋院奉定事(左傍書)> 晴、此日可有賀茂齋王卜定事、仍未刻沐浴解除<依可奉齋院事也、先日頭弁(平信範)内〃告之、>參内、於小板敷招右少便(藤原)重方、<可奉行齋院事云々、>談齋院雜事、其後於鬼間与左金吾(藤原実国)談話、小時<依聞(右傍書)>左大臣(藤原経宗)參入之由、相共着陣、<於宣仁門外請益、>先是被下親王宣旨云々、次頭弁(平)信範進齋王卜定日時、<此以前予未着座之前奉之歟、>左府披見之、了信範退去、次召外記筥入之、以信範被内覽并奏、<攝政(松殿基房)候給御前(高倉天皇)云々、>返給之後、即給同弁、■次頭弁仰云、以僐子内親王可爲賀茂齋王由、令卜申<与>次召信範仰云仰所司神祇官座令敷<ヨ>次掃部寮敷座主殿主水等司設火水等(以上見せ消ち)次召外記仰可進硯之由、次少外記(中原盛季)持參硯、置上卿前、<硯下方入紙二枚、件紙自中央押折<天>、巻之■■入之、後日左大臣云、自奥ひとへニまきて可入也云々、>上卿書親王名、<僐子、此二字許也、先例或加内親王字、>更加懸帋一枚、召外記給之令封、外記於軾封之、了返上、<刀・封帋等、外記入懷中參入、>上卿取之、其上書封字、了給硯筥、外記取之退出、次召頭弁仰云、仰所司、神祇官座令敷、次掃部寮敷座、<西上南面、相當軾程敷始之、>主殿・主水等設火水等、次召外記、仰云(以上見せ消ち)少[外脱]記某候小庭、大臣仰云、神祇官人等令候座<ヨ>、外記稱唯退去、即(大中臣)師親已下參着、次上卿召外記筥、入卜串、召師親<官朝臣云々、依爲四位也、>給之、<後日左府云、先例或入筥、或不入給之、而不入筥可給之由存之處、失錯入筥給之、失也云々、(藤原)實資大臣入筥給之、近例不入、而入筥給之、不審之間、已散蒙了、>次卜了進之、<先封字上■卜食由、乙下合・丙合之間、可尋注、>次召外記仰云、神祇官罷退<ヨ>、次神[祇脱]官退出、<所司撤座、>次召外記給筥、外記給之立小庭、上卿就御所奏聞之、了復座云、卜形留御所、其筥<ハ>後日(以上見せ消ち)外記就藏人所請之、而職事返給上卿、如何、次頭弁來仰云、<其詞不聞>職事退去之後左府云奏聞卜串之時被仰御覽之由(以上見せ消ち)僐子内親王卜定賀茂齋王了、可差遣神祇官人、并成承知府[符]、官府[符]即仰彼弁、次召、令外記召師親朝臣、〃〃〃〃參軾、左府仰云、以僐子内親王卜定賀茂齋王了、件間事任先例令沙汰、師親奉仰退出、次頭弁仰云、以(源)師家爲初齋院別當、令權大納言藤原(実房)朝臣・右少弁重方・■史某(大江広盛)行初齋院事、<則被仰同弁、(右傍書)>次召外記被仰之(以上見せ消ち)次左府退出、被示可參卜定所之由、次頭弁來仰予云、齋王卜定由可被告申賀茂社、奉幣日時并大祓等日時令勘申、予奉勅移外座、令官人下軾、<左府不令取、退出之故也、>次召右少弁重方仰〃旨、次持來日時等、予披見之、次召外記筥入之、令重方内覧・奏聞、了返給之、次召大外記(清原)頼業下給之、即仰可相催奉幣遣參議并次官一人之由、■次重方<次仰弁令勘行事所始日時、弁覽之、予披見了。返給<今日也>、弁結之、(右傍書)>覽宮主差文并神祇官請奏、予披見了」返給、弁結之、次參卜定所、此間(以上見せ消ち)<齋院未渡給、(右傍書)>敷設裝束之間、狼藉甚多、予入寢殿見之、南面●雖懸御簾、其内未敷疊、懈怠之至也、頃之右少弁參入、稱着行事之所由、<大炊了、寛治令例(令子内親王)、>催行■■[南]■■[外]衛懈怠事、此間(以上見せ消ち)予着寢殿西渡殿座、<其座二行敷之、其末敷紫端帖、行事弁着之、>諸大夫(以上見せ消ち)<予前(右傍書)>居饌、<土高坏六本、諸大夫役之、>弁前<欲(右傍書)>居饌、<机、>弁不例居之、是省略之儀也、此間神祇官人〃中聊有口論事云々、(卜部)兼康依訴申、弁申上之、予成敗了、其後和平云々、良久齋院渡給、予寄御車、<大宮大夫(藤原公保)・左衛門督(藤原実国)爲御車寄扈從、而連出車等後之間、<頗(右傍書)>遲參、仍予參入寄之、是自然懈怠之故也、>下御之後、着西廊座、大宮大夫・左衛門督同着、御湯殿了之後、有御禊事(以上見せ消ち)直視左少將(藤原)雅長朝臣參入、<行啓以前參入、甚早速歟、>立中門■申事由、

●=纔こちらを参照(字源))
兵範記 嘉応元年
(1169)
10月24日 【斎院卜定による、賀茂社への奉幣宣命のこと】
 下官帰参内、斎院卜定由賀茂奉幣宣命辞別可有哉否事、申殿下(松殿基房)、令申上卿了、任寛治三年(令子内親王)例、可令草宣命由也
兵範記
愚昧記
嘉応元年
(1169)
10月25日 【斎院(僐子)卜定を賀茂社に奉告、大祓を行う】
『兵範記』
 次斎院卜定有大祓事、修理大夫(藤原成頼)奉幣使了帰路、於建礼門東廊奉行云々、
  件奉幣大祓、去廿日卜定夜被勘下日時了、右少弁奉行、
(中略)
陰陽寮
 擇申、賀茂斎内親王(僐子)神殿入御日時、
 十一月十九日辛未、  時戌二點、
  嘉応元年十月廿五日、漏刻博士安倍朝臣経明、
            主税助兼安芸守安倍朝臣時晴、
            主計頭兼頭賀茂朝臣在憲

『愚昧記』
<齋院卜定之由被申本社事(右傍書)>
 天晴、齋王卜定之由、可被申賀茂社日也、(中略)
仍午刻許參内、<依奉幣事沐浴解除、>直着陣端座、召内記、少内記參入、仰云、齋王卜定之由、可被告申賀茂社、依寛治三年例可奉草」宣命、内記稱唯退出、其後不參入、相尋之處、大内記(藤原光範)依犬死穢不參、少内記(藤原)貞親依爲非成業者不草、秀才藏人(藤原)基光可草之云々、予謂修理大夫(藤原成頼)<依可勤仕使役、在横敷座、>儒者弁草之時、召作者仰云、藏人草之時、不覺先例、仍如何、匠(成頼)作有不審之氣、予召外記問之、外記之[云]、近例召作者被仰之歟、仍召基光仰之、即基光草進之、予披見之、召内記筥入之、令内記内覽、<殿下(基房)坐里亭、>次着御所奏聞、返給仰可清書之由、即進清書、予披見之、依(見せ消ち)前字例入之後、參弓場奏之、<依被免不内覽、>次返給、覆仗座目修理大夫、〃〃起座來居予前、予授宣命、匠作取之覆座、即退出、(中略)
於宣仁門外右少弁覽齋院神殿入御之日時、可付直別當(以上見せ消ち)披見了返授了、
玉葉
兵範記
嘉応2年
(1170)
4月14日 【斎院(僐子)御禊なし】
『玉葉』
 此日無斎王禊事、

『兵範記』
 ■斎院(僐子)禊、去年十月卜定、六月吉日可入給諸司御所云々
兵範記 嘉応2年
(1170)
4月17日 【賀茂祭、斎院渡御せず】
 賀茂祭、刑部大輔来著、法皇(後白河)俊盛卿桟敷有御見物、路頭行列、(中略)
斎王(僐子)不渡御云々、
愚昧記
兵範記
嘉応2年
(1170)
4月18日 【御禊点地】
『愚昧記』
 今日御點地、大炊御門以南云々、

『兵範記』
 在知足院、紫野無還儀、斎王(僐子)未入本院之故也
愚昧記
兵範記
嘉応2年
(1170)
4月23日 【初斎院(僐子)御禊】
『愚昧記』
 初斎院御禊事
 今日初斎院禊鴨川、入御諸司之日也、卜定時奉行此事、而去二日依障出來辭退之後、源中納言雅頼卿奉仰奉行之、去三日定前駈并出車等了、而件卿又有障依辭退、去比猶奉可奉行之仰也、仍戌刻許着束帯<先沐浴解除、>参斎院、<卜定所五条坊門高倉少将(高階)泰通家也、)>欲着客殿之處、上卿并勅使参議座對座敷之、先例一行敷之、當時已無便宜、又非無其所、仍示勅別當(源)師家令改之<東上南面、>着、左大弁(藤原實綱)同着座、<勅使也、>此座先例多用高麗端帖、而敷繧繝、如何、又座後可立屏風、而不立之、又不」
敷前駈座事々違例、喚勅別當問女房乗車哉、又屐子・糸鞋令装束之哉事、各答沙汰了由、予云、然者早可有御解除也、師家諾退去、即有此事、<陪膳左少将(藤原)基家、役供師家、陰陽師掃部頭(安倍)季廣[広]奉仕御祓、寛弘[治、四年四月九日]例也、>此間予召外記、問前駈并次第司参否、次又仰道事、<自高倉至四条、自四条至東洞院、東大路北行、自京極至郁芳門大路(大炊御門大路)、更東行御川原幄御、諸司道ハ、自郁芳門大路西行、至宮城東大路(大宮大路)北行、入待賢門、>外記着座、須参候南縁歟、而不着座、参立庭中也、御祓寄御車、予從此事、出御之後、予自閑路参會川原幄、女房先下車、<寄蔀屋艮角、不可然、件方依敷爲御禊座、須寄坤方歟、>次寄御車、<巽下寄之、西面云々、>次御手水、次御禊、<陪膳勅別當師家、
役供(高階)仲重、蔵人五位職事云々、>次可供腋御前、而御臺盤取落了、取遣之間遅々尤甚、御禊了給中臣・宮主等祿、(「中臣〜」の横に「諸大夫役之云々、」)<先々衾、而寛治單重云々、仍今度可給單重之由、一日兼光示也、>又賀茂社司進見参、即給祿云々、師家云、典侍祿於何所可給う哉、予云、打任於諸司可給歟、或又於川原有給之例云々、可隨宜也、予以前駈示御膳事於師家、答云、已供也、仍予前行参大膳職、小時右少弁参入、神祇官奉仕大殿祭、<右少弁供奉、>頃之斎王(僐子) 渡給、寄御車於東面妻戸、下御之後予退出、不知後事、於此處可給前駈祿也、」
依甚雨不覽屐子・糸鞋、
於川原或預禊歟、而寛治此事不見之上、依甚雨無此事、

『兵範記』(嘉応2年4月22日条)
 賀茂初斎院、自卜定所禊東河、入給大膳職、上卿大納言(三条)実房卿、
右少弁兼光、外記中原康宗、史大江広盛奉行、
 前駈、
  左右京進以下一員、
  左衛門佐代中務権少輔光実、
     尉藤原信景、
  右衛門佐代中務大輔長明、
     尉大江光重、
  左兵衛佐家光、
     尉平家国、
  右兵衛佐代上総守基輔、
     尉大江公景、
 次第司右馬助能資、
 行列使左馬允満季、
 勅使参議左大弁実綱卿
玉葉 嘉応2年
(1170)
12月27日 【斎院(僐子)の病により、賀茂社に奉幣】
(前略)
「依斎院不例有賀茂奉幣事、」
又依斎院(僐子)不例、有賀茂奉幣云々、此事等源中納言(源雅頼)所示送也、
皇帝紀抄
帝王編年記
嘉応3年
[承安元年]
(1171)
2月22日 【斎院(僐子)、病により退下】
『皇帝紀抄』
(高倉院)
 齋院 式子内親王(中略)
  僖子内親王<二條院皇女。母博士中原師光朝臣女。嘉應元年十月廿日卜定。<十一。>同三年二月廿二日依病退下。>(後略)

『帝王編年記』
(高倉院)
 齋院式子内親王(中略)
  僐子内親王<二條院皇女。母博士中原師光朝臣女 嘉應元年十「一」月廿日卜定十一同三年二月廿二日依病退下。>(後略)
玉葉
ほか
嘉応3年
[承安元年]
(1171)
3月1日 【前斎院(僐子)薨去】
『玉葉』
(3月1日条)
「前斎宮斎院両人令隠給事、」
 前斎宮<院御女(休子内親王)>・前斎院<二条院御女(僐子)>、今日之中、両人令隠給、天変不定、豈不恐哉、<或云、斎院昨日戌刻隠給云々、>
(安元2年9月14日条)
 嘉応元[三]年二月二十九日、前賀茂斎院僐子薨<主上(高倉天皇)姪子>
玉葉 嘉応3年
[承安元年]
(1171)
3月2日 【前斎院(僐子)薨去のこと】
(前略)昨日斎宮(休子)・斎院(僐子)隠給、今日執政臣遊覧洛外、是可然哉、就中女院聊不例坐、又斎宮御事者、為院中頗可驚●、莫言々々

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))



史料 記述
一代要記
二條院天皇
(皇女)
 僐子内親王<前齋院、母大外記中原師元女、>

高倉院天皇
(賀茂)
 僐子内ヽヽ[親王]<二条一女、嘉応元卜定、>
帝王編年記
二條院
(皇女)
 僖子内親王<母中納言師基女/賀茂齋院>

高倉院
(齋院)
 僐子内親王<二條院皇女母博士中原師元朝臣女/嘉應元年十「一」月廿日卜定十一同三年二月廿二日依病退下>
二中歴
(齋院)
 僖子<二條女 嘉應元年>
皇代暦
高倉天皇
(齋院)
 僐子内ー 二條女嘉應元年卜定
本朝皇胤紹運録
(二條院子)
(408)繕子内親王[齋院。母師元朝臣女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
僐子内親王 嘉應元年卜定。二條院第二御女。母師元朝臣女。
賀茂斎院記
僖子内親王
二条院之皇女也。母師元之女。嘉応元年卜定。
今鏡
(8・腹々の御子)
 二条の帝の宮たちも、男宮女宮聞えさせ給ふ。
 その女宮(僐子)は内の女房生みたてまつり給へるとぞ。中原の氏の博士(師元)の娘にぞおはすなる。
古今著聞集
【(461)二条院崩御の後、中納言実国白河院に参りて詠歌の事】
 二条院かくれさせ給ひて、中納言実国卿、白河の宮(僐子?)に参りて見まゐらせけるに、故院(二条院)にあさましく似まゐらさせ給ひたりければ、あはれにおぼえて、つぎの日、前(さき)の左衛門の督公光卿のもとへ申し送りける、

  みしま江のたづのけしきぞなつかしきなれし雲ゐに思ひなされて


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