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31代斎院 式子内親王

名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
しきし・しょくし のりこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後白河天皇(1127-1192)
母:藤原成子[高倉三位]
  (1126-1177)
久安5年(1149) 建仁元年(1201)1月25日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
二条(1158〜1165,異母兄)、
六条(1165〜1168,甥)、
高倉(1168〜1180,異母弟)
卜定:平治元年(1159)10月25日
   (四条東洞院)
初斎院:不明(大膳職?)
本院:永暦2年(1161)4月16日
退下:嘉応元年(1169)7月24日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
好子(1148?-1192,同母姉)
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:保元3年(1158)12月25日
初斎院:不明
野宮:不明
群行:永暦元年(1160)9月8日
   (長奉送使:宣房)
退下:永万元年(1165)6月25日
天皇譲位
休子(1157-1171,異母妹)
 父:後白河天皇
 母:平信重女
卜定:仁安元年(1166)12月8日
   (右馬助大江信忠家)
初斎院:仁安2年(1167)6月28日
   (大膳職)
野宮:仁安2年(1167)9月21日
群行:なし
退下:仁安3年(1168)2月19日
天皇譲位
惇子(1158-1172,異母妹)
 [堀川斎宮]
 父:後白河天皇
 母:藤原公能女
卜定:仁安3年(1168)8月27日
   (綾小路猪熊家)
初斎院:嘉応元年(1169)5月9日
   (一本御書所)
野宮:嘉応元年(1169)9月27日
群行:嘉応2年(1170)9月10日
退下:承安2年(1172)5月3日
薨去

略歴:
 久寿2年(1155)(7歳)7月24日、父後白河天皇践祚。


10月26日、後白河天皇即位。
 保元3年(1158)(10歳)8月11日、後白河天皇譲位、異母兄二条天皇践祚。


10月20日、二条天皇即位。
 平治元年(1159)(11歳)10月25日、内親王宣下。斎院に卜定。
 永暦2年(1161)(13歳)4月16日、本院に入る。
 永万元年(1165)(17歳)6月25日、二条天皇譲位、甥六条天皇践祚。


10月20日、六条天皇即位。
 仁安3年(1168)(20歳)2月19日、六条天皇譲位、異母弟高倉天皇践祚。


3月20日、高倉天皇即位。
 嘉応元年(1169)(21歳)7月24日、病により退下。
 安元3年(1177)(29歳)3月11日、母成子薨去。
 治承4年(1180)(32歳)5月26日、弟以仁王敗死。
 元暦2年(1185)(37歳)8月10日、准三宮。
 建久3年(1192)(44歳)4月26日、父後白河院崩御。大炊御門殿ほかを相続。
 建久7年(1196)(48歳)橘兼仲妻の託宣事件に連座、洛外追放の処罰を受ける。
 正治2年(1201)(53歳)1月25日、薨去。

号:大炊御門斎院、萱斎院、高倉宮
法号:承如法
同母兄弟:亮子内親王(1147-1216,斎宮,殷富門院)
     好子内親王(1148?-1192,斎宮)
     守覚法親王(1150-1202)
     以仁王(1151-1180,八条院猶子)
     ※休子内親王(1157-1171,斎宮)も従来同母とされてきたが、近年異説あり(下記参照)。

後白河天皇第三皇女。
 長らく生年不明で以仁王の妹とされてきたが、京都大学本『兵範記』断簡裏書(平松文書)で以仁王より2歳上の姉であることが判明した。
 母藤原成子(高倉三位)は、父後白河天皇の従姉。(成子の父季成と、後白河天皇の母待賢門院璋子が姉弟) 22歳で第一子亮子内親王をもうけ、24歳で第三子となる式子が誕生した。
 なお式子の同母妹とされてきた休子内親王について、供瀬明美氏は『帝系図』の記述「前左衛門尉平信重女」や『愚昧記』(仁安2年9月21日条)の「母儀右馬助(平)信忠妹」から、休子の生母は平信重女(坊門局、実父は大江範資)であろうとしている。

参考図書:
・『日記が開く歴史の扉』(京都大学総合博物館,2003)
  ※兵範記(断簡)嘉応元年7〜8月の写真・釈文を掲載

参考リンク:
・上横手雅敬「範国記・知信記・兵範記」(京都大学電子図書館)

参考論文:
・供瀬明美「『明月記』治承四五年記に見える「前斎宮」について」
 (『明月記研究』4, p125-135, 1999)
・米谷豊之祐「後白河院北面下﨟:院の行動力を支えるもの」
 (初出:『大阪城南女子短期大学研究紀要』11, p67-119, 1976)
 ※PDF版全文あり(CiNii提供)

  ┌─────┐
  |     |
 藤原季成   璋子=====鳥羽天皇
  |    [待賢門院]|
  |         |
  |         ├─────┬────┬────┐
  |         |     |    |    |
 藤原成子=====後白河天皇  崇徳天皇  禧子   統子
       |    |              [上西門院]
  ┌────┤    ├─────┬────┬───┐
  |    |    |     |    |   |
  好子  ◆式子  二条天皇  高倉天皇  休子  惇子
 (斎宮)        |         (斎宮) (斎宮)
            |
           六条天皇

 式子を含む高倉三位腹の三姉妹は全員が斎宮・斎院となり、このうち長女亮子は安徳天皇・後鳥羽天皇の准母となり、院号宣下を受け殷富門院と称した。しかし次女好子は斎宮として下向した伊勢からの帰途で苦難を強いられ、三女式子も父後白河院の死後は不運続きであった。また二人の皇子も、守覚法親王は11歳で出家し、以仁王は親王宣下も受けられず、後に挙兵するも敗死しており、後白河院の子女でありながら不遇なきょうだいであった。
 なお式子ら姉妹の内親王宣下は10〜11歳の頃で、いずれも斎宮・斎院卜定と同時であった。母高倉三位は女御に準ずる従三位に叙されたものの、終生正式な妃としての地位を与えられていない。また所生の皇子二人も、守覚法親王の宣下は出家後で、その弟以仁にはついに宣下はなかった。式子たち姉妹も卜定がなければ、あるいは宣下も受けられなかったかもしれない。
 式子たち同母姉妹三人の卜定は年齢順と思われ、さらに異母妹の休子と惇子も伊勢斎宮に卜定されており、後白河の皇女たちの中で式子のみが唯一賀茂斎院となった。なお長姉亮子内親王は父後白河の斎宮となるも、後白河が在位三年で譲位したため、伊勢への下向なく退下している。

※式子ら三姉妹のうち、好子内親王のみ生年不明だが、『山槐記』に以下の記録がある。
  • 永暦元年9月8日条「今日斎宮<院第二女、[二]品子、號高倉局>群行也」(斎宮好子伊勢下向)
  • 永暦2年4月16日条「今日初斎院<院第三女母儀三品季子高倉局是也>」(斎院式子御禊)
 これにより、好子が第二皇女、式子が第三皇女であることが判る。また第一皇女亮子内親王が1147年、第三皇女式子内親王が1149年の生まれであり、さらに1150年に守覚法親王、1151年に以仁王が生まれている。つまりこの同母の5人姉弟は1147〜1151年の5年間に次々生まれていることになり、よって長女亮子と三女式子の間に生まれた次女好子の生年は、(亮子・式子どちらかと双子でない限り)1148年でほぼ間違いないと思われる(『本朝皇胤紹運録』では式子を第二皇女、好子を第三皇女としているが、卜定の順から見ても同時代の記録である『山槐記』の方が信憑性は高い)。
 ところで好子が1148年生まれとすれば、この年子のきょうだい5人はそれぞれ12〜15ヶ月前後の間隔を置いて誕生したと思われる(※待賢門院の第3子から第6子出産も年子で、それぞれ12ヶ月・14ヶ月・14ヶ月の間隔である。また一条天皇以降の年子の同母きょうだいの例を見ても、年月日の確かなものはすべて13ヶ月以上の間隔を置いて誕生している)。よって第1子亮子を1147年1月、第5子以仁を1151年12月の誕生と仮定すると、第3子の式子は1149年の4月〜8月頃に生まれていたものか。

 式子の初度御禊時の記録はないため、初斎院がどこであったかは不明だが、『山槐記』(永暦2年4月16日条)の初斎院御禊の道順についての記録に「其路出大膳職北門」とある。式子の前後に斎院となった30代怡子女王32代僐子内親王は共に大膳職を初斎院としており、式子の場合も同様に大膳職を初斎院とした可能性が高いと思われる。

 斎院退下後の式子は始め四条殿に、次いで母の実家高倉三条第(左京三条四坊四町。現在の京都文化博物館周辺)に母や弟以仁王らと住んだと見られる。その後は父後白河院の法住寺殿内(萱御所)や、また一時期(1184〜1190頃)叔母八条院ワ子内親王の下にも身を寄せたが、八条院とその猶子(以仁王姫宮、式子の姪)を呪詛したとの疑いをかけられる。このためか式子は押小路殿(白河押小路殿か)に転居、まもなく出家。法然と交流を結び、死の間際まで音信を交わした。



三条高倉第跡(2013年8月17日撮影)
石碑は東洞院通側北寄りにあり。地図はこちら


 父後白河院崩御により、大炊御門殿(左京二条四坊十町)・白川常光院と幾つかの荘園を遺領として譲られる。これらの財産は、当時准母立后や院号宣下を受けた他の不婚内親王に比べてそれほど豊かな方ではなく、また大炊御門殿は当時九条兼実が邸宅として住んでおり、明け渡しにも応じなかったらしい。このため建久7年(1196)の政変で兼実が失脚するまでの間、式子は主に後見・吉田経房の吉田の別邸や、勘解由小路の本邸で暮らした(なお兼実失脚半年前の託宣事件では、一時洛外追放の処分に追い込まれかけている)。
 建久7年暮から大炊御門殿に住み、これにより大炊御門斎院と号した(なお同8年(1197)3月に後鳥羽天皇が御幸した際は、一時吉田経房別邸に移っていた)。その後正治2年(1200)秋に、後鳥羽院の三男である東宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子とする話が出た。しかし当時式子は既に病(乳癌?)にあり、猶子は実現しないまま翌年薨去した(この結果、後に式子の長姉殷富門院亮子が順徳准母となった)。

 京都市上京区の般舟院陵敷地内に残る塚の五輪塔が、式子の墓所と伝えられている。
 ※京都市営バス【千本今出川】下車すぐ(駒札・案内板等はない。開門は平日のみ)。


伝・式子内親王墓所(2013年8月19日撮影)


【式子関係者系図】

   藤原成子
    *    ┌─亮子[殷富門院]
    *    |
    *────┼─式子
    *    |
    *    └─以仁王─────姫宮(八条院猶子)
 ┌─後白河天皇
 |  *
 |  *──────高倉天皇──┬─安徳天皇
 |  *            |
 | 滋子[建春門院]       ├─後鳥羽天皇──┬─土御門天皇
 |               |        |
 ├─統子[上西門院]       └─範子[坊門院] ├─順徳天皇(守成)
 |                        |
 └─ワ子[八条院]                 └─昇子[春華門院]

【式子内親王と和歌】
 歴史上あまり重視されることのない式子内親王だが、国文学では『新古今和歌集』に44首入集、家集『式子内親王集』を遺し、小倉百人一首にも入るなど、鎌倉初期を代表する女流歌人として名高い。とりわけ「忍ぶ恋」の歌を多く詠んだが、その思慕の相手が誰であったかは諸説あり定かでない(恋歌はあくまで題詠であり、実際の恋愛を詠んだものではないとの説もある)。
 藤原俊成に師事し、彼の著作『古来風躰抄』は式子に奉られたと言われる。俊成の娘の前斎院女別当と竜寿御前も式子内親王家に仕え、特に竜寿は式子の没後もその墓参を続けた。また竜寿の同母弟・定家も親しく出入りした記録をその日記『明月記』に詳細に遺しており、このため式子の恋の相手は定家であると長く信じられて、謡曲「定家」の題材にもなった。
 なお式子が東宮守成の准母に内定した理由について、三好千春氏は式子の歌人としての才能を認めた後鳥羽天皇が、それゆえに式子を東宮准母にふさわしいと見なしたためとしている(ただしこれは上記の通り、式子の病死で実現しなかった)。

詠歌:忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野辺の露のあけぼの(新古今集)
   ほととぎすその神山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ(新古今集)
   神山のふもとになれしあふひ草ひきわかれても年ぞへにける(千載集)
   みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞぬれにし(千載集)
   さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣(千載集)
   身にしむは庭火の影もさえのぼる霜夜の星のあけがたの空(式子内親王集)
   玉の緒よたえなばたえね長らへば忍ぶることのよわりもぞする(新古今集、百人一首)

 斎院時代を詠んだ式子内親王の歌は、斎院であることに肯定的な内容のものが多いとされる(奥野陽子『式子内親王集全釈』風間書房, 2001)。斎宮となって遠い伊勢へ下向した姉好子内親王とは異なり、都近い紫野斎院に入った式子は荒れる世俗を離れたことで穏やかな少女時代を送り、退下後の苦難の中でかつての斎院時代を懐かしく回想することも多かったと思われる。

参考リンク:
・『式子内親王集』(国際日本文化研究センター)
京都地方裁判所〜大炊御門殿跡。発掘品の写真や式子についての説明もあり。

※式子内親王の東宮准母計画については、「用語集」の考察を参照のこと。

参考図書:
・『式子内親王』(馬場あき子, ちくま学芸文庫, 1992)
・『式子内親王・永福門院』(竹西寛子, 講談社文芸文庫, 1993)
・『式子内親王集全釈』(奥野陽子, 風間書房, 2001)
・『式子内親王』(平井啓子, 笠間書院, 2011)
・『式子内親王:その生涯と和歌』(小田剛, 新典社選書, 2012)
・『新古今集:後鳥羽院と定家の時代』(田渕句美子, 角川選書, 2010)
・『異端の皇女と女房歌人:式子内親王たちの新古今集』(田渕句美子, 角川選書, 2014)

参考論文:
・三好千春「准母論からみる式子内親王」
 (『女性史学』19, p15-31, 2009)
・村井俊司「式子内親王の後見:吉田経房を中心として」
 (『中京国文学』14, 1995)
・奥野陽子「言葉集所収式子内親王周辺歌:高倉三位と前斎院帥の歌」
 (『大阪工業大学紀要. 人文社会篇』56(2), p52-46, 2011) ※機関リポジトリ全文あり
・吉岡眞之「『平治元年十月記』」
 (『古代文献の基礎的研究』吉川弘文館, p380-399, 1994)




二条天皇
史料 年月日 記述
兵範記
平治元年十月記
平治元年10月25日 【式子内親王、斎院卜定】
『兵範記』(嘉応元年10月20日条、32代僐子内親王卜定記事内)
 平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、
  上皇々女、     二条院初、
『平治元年十月記』
 初斎院令渡給、卜定御所給、出車進了、四條東洞院云々、
山槐記 永暦2年4月1日 【斎院司除目】
山槐記 永暦2年4月16日 【斎院(式子)初斎院御禊】
 今日初斎院<院(後白河)第三女(式子)<母儀三品季子高倉局是也>禊東河、入御紫野院<所謂一条北本院也>日也(中略)
申刻為見物密々立車於西洞院一條邊相待之處(中略)
其路出大膳職北門、待賢門、宮城東大路北行、一條東行也、月出事了帰畢(後略)
山槐記
顕広王記
長寛3年4月16日 【斎院(式子)御禊】
六条天皇
史料 年月日 記述
愚昧記 仁安2年4月2日 【賀茂祭・御禊の延引について】
 今日禊祭出車并禊前[駈]定、また平座也、依未刻束帯、先為定出車本院之間、於大炊御門堀川頭弁(平信範)<禊祭弁也>、雑色云、今日定延引了、
山槐記、兵範記 仁安2年4月9日 【斎院(式子)御禊前駈定】
愚昧記
山槐記
兵範記
顕広王記
仁安2年4月14日 【觸穢により、賀茂祭・御禊を延引】
『愚昧記』
 禊祭延引云々
愚昧記
山槐記
兵範記
顕広王記
仁安2年4月27日 【斎院(式子)御禊】
『愚昧記』
 今日御禊也、為見物向一条大路、[藤原]朝宗・親宗同車、申終外記■■渡如常、弁長方也、而依為前駈騎馬渡、行列外記・史後、前駈▲前也、今日前駈▲左衛門佐(平信基)外皆以代官、如何々々

※▲=片仮名の「ホ」に似た字。こちらを参照(字源)
兵範記 仁安2年11月3日 【斎院相嘗祭】
高倉天皇
史料 年月日 記述
兵範記、愚昧記 仁安3年4月6日 【斎院(式子)不替奉幣告、御禊前駈定】
兵範記、愚昧記 仁安3年4月15日 【斎院(式子)御禊】
兵範記 仁安4年4月6日 【斎院(式子)御禊前駈定】
兵範記 仁安4年4月14日 【斎院(式子)出車定】
兵範記 仁安4年4月20日 【斎院(式子)御禊。後白河上皇、高倉桟敷に臨幸して御覧】
兵範記 仁安4年4月24日 【賀茂祭還立】
兵範記(断簡) 嘉応元年7月23日 【斎院(式子)病悩】
 ■[廿]三日丁丑、(中略)斎王(式子)俄御悩云々
兵範記(断簡) 嘉応元年7月24日 【斎院(式子)退出】
 早旦依召参院、仰云、斎王昨日未剋以後御悩■■■夜■■■■■■殿、其後(中略)
帰参奏殿下(藤原基房)御報、此次下官申云、斎王御退出由、可有奉幣歟、仰云、尤可然之、次第事等、可申沙汰之、代々例、遺尋大外記頼■行■、
或人云、斎王午剋御退出、院御車、前駈諸大夫三四人■■左兵衛督(藤原成範)扈従渡■■■■■■宣旨家了云々、
検非違使左衛門尉大江遠業■■■■■■依院宣、斎王出御之間、禁制■■■■■■
【裏書】
■斎王、高倉三位腹、御年廿一
兵範記(断簡) 嘉応元年7月25日 【斎院(式子)退出後の報告】
 ■■[廿五]日己卯、(中略)次下官参殿下、申斎王退出、斎王昨日退出之後、夜間別事不坐云々
皇帝紀抄 嘉応元年7月26日 【斎院(式子)退下】
 高倉院(中略)
 斎院。式子内親王。<如故。嘉応元年七月廿六日。依病退下>
兵範記(断簡) 嘉応元年8月3日  早旦参院、申斎院(式子)之定間事■■■■■■就
兵範記(断簡) 嘉応元年8月6日 【斎院(式子)退下の賀茂社奏上文草案?】
 ■■草
天皇<我>詔旨<良万と>、掛畏<支>某皇大神<乃>広前<尓>、恐<美><美毛>申給<辺と><久>、皇太神<乃>阿礼<乎止女>御■[杖]代<尓>令侍<留>式子内親王、身<乃><美><と之弖>、去月廿四日<尓>、退出<勢利と>聞食<之>、驚給<不古と>、叡襟無聊<之>、若是神慮<乃>所許<カと>思食<シ弖奈弖>、故是以、官位姓名<乎>差使<之>、礼代<之>大幣<乎>令捧持<弖>、奉出給<布>、斎内親王<波>、令卜食、定<弖><尓>令■、内親王退<弖>可進状■■■■■■■■■■■■給<覧と>令申給<布>、皇太神平<久>聞食<勢と>、恐<美><美毛>申、
嘉応元年八月 日
愚昧記 安元3年3月12日 【11日、母高倉三位(藤原成子)薨去】
 傳聞、高倉三品去十一日暁薨逝云々、歳五十二云々、臨終甚吉云々、十念不誤云々、可尊々々、同暁移丘崎堂了云々、是判眼行仁堂也
安徳天皇
史料 年月日 記述
玉葉
山槐記
明月記ほか
治承4年5月26日 【弟以仁王敗死】
玉葉
愚昧記
吉記ほか
寿永元年8月14日 【姉亮子内親王、安徳天皇皇后宮に冊立】
後鳥羽天皇
史料 年月日 記述
百練抄 文治3年6月28日 【姉亮子内親王、殷富門院の院号を受ける】
 被定院号。皇后宮(亮子内親王)為殷富門院。
百練抄
玉葉
明月記ほか
建久3年3月13日 【父後白河法皇崩御。御領を処分】
『百錬抄』
 寅時法皇(後白河)崩于六條殿。
玉葉 建久3年5月1日  前斎院(式子)可被渡此亭<依法皇処分也>、云々、仍以兼親為使、触遺右大臣並経房仰<件卿、為彼斎院後見云々>
玉葉 建久3年5月2日 【式子、吉田経房の邸へ転居】
加行事 建久5年6月5日 【前斎院(式子)、道法法親王に十八道を受ける】
伏見宮御記録 建久7年12月20日 【前斎院(式子)、大炊御門殿に移御】
明月記 建久9年1月7日 【前斎院(式子)、吉田殿に移御】
土御門天皇
史料 年月日 記述
明月記 正治元年5月1日 【式子内親王御悩】
明月記 正治元年5月12日 【式子内親王御悩】
明月記 正治元年9月6日 【式子内親王、八条院に渡御】
明月記 正治元年12月4日 【式子内親王御悩】
明月記 正治元年12月8日 【式子内親王御悩】
明月記 正治2年2月30日 【式子内親王御悩】
明月記 正治2年閏2月24日 【式子内親王御悩】
明月記 正治2年3月6日 【式子内親王御悩】
明月記 正治2年10月1日 【大炊殿修理の打ち合わせ】
明月記 正治2年12月7日 【式子内親王御悩】
明月記
源家長日記ほか
建仁元年1月25日 【式子内親王薨去】



史料 記述
一代要記

後白河天皇
皇女 式子内親王 前斎院

二条天皇
斎院 式子内親王 上皇三女、母同亮子、平治元年卜定

賀茂斎院記

式子内親王
後白河院之皇女也。母従三位成子。季成之女。
平治元年卜定。
号大炊御門斎院。能倭歌。出家。法名承如法。

今鏡
(8・腹々の御子)

 今の一院(後白河天皇)の宮たちはあまたおはしますとぞ。
 后腹のほかには、高倉の三位(藤原成子)と申すなる御腹に、仁和寺の宮(守覚法親王)の御室伝へておはしますなり。まだ若くおはしますに、御行ひの方(かた)も、梵字などもよく書かせ給ふと聞えさせ給ふ。
 次に御元服せさせ給へる(以仁王)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。その宮も、宮たちまうけさせ給へるとぞ。
 同じ三位の御腹に、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢の斎宮にて、姉妹(あねおとうと/亮子内親王、好子内親王)おはしますと聞えさせ給ひし。妹の宮は六条の院の宣旨養ひたてまつりて、かの院伝へておはしますとぞ聞えさせ給ふ。また、賀茂の斎院(式子内親王)にもおはすなるべし。

源家長日記

建久九年
 正月になりぬ。(後鳥羽天皇が)御くらゐゆづり申させ給て、おほゐ(大炊)の御門の前さい院(式子内親王)の御所ニうつりすませたまう[ふ]。
 いまだ布衣はじめなき程なれば、かはる所なきすがたども也。
 内侍所のかへらせ給しぞ、思しよりげにわかれの涙ところせきまで侍し。
 御剣しるし[璽]のはこ内侍とりて、御こしよりおりてわたしたてまつりし程、いでさせ給ふままに内侍所をやぶりののしりなどせし、さばかりあしたゆうべにはい(拝)したてまつりなどせし物を、あらぬさまなることかなとあきれてぞおぼえ侍し。(後略)


建仁二年
 ひととせぜん(前)さい院(式子)はかなくならせ給しことは、いえばおろかなり。かずのそひゆくにつけても、みちのれうち(陵遅)なれば、こころまうけのみぞおぼゆる。


建仁元年(式子内親王にまつわる回想)
 斎院(式子)うせさせ給にしまへのとし、百首の歌(正治二年院初度御百首)たてまつらせ給へりしに、「軒端の梅もわれをわするな(式子内親王作「ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな」)」と侍りしか、大炊殿(大炊御門殿、式子内親王御所)の梅の、つぎのとしのはるここちよげに咲たりしに、ことし斗は(引歌「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」古今集)とひとりごたれ侍し。
 ひととせやよひ(弥生)の廿日ごろに、御まり(鞠)あそばさせ給とてにはかに(後鳥羽院が)御幸侍りしに、庭のはな(花)跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうがう(名香)の香の花の匂ひに争ひたるさま、御ぢ(持)仏堂のかう(香)のかもを[お]とらずにほいいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍りき。
 ものふりたる軒に、忍わすれ草みどりふかくしげりて、あたらしくかされるよりも中々にぞみえ侍りし。
 御まりはじまりて人がちなる庭のけしきを、さこそはあれ、人かげのうちしてここかしこのたてじとみにたちかかりのぞく人も見えず。
 人のするかとだにおぼえで、日のくるるほどにおくふかく鈴のこゑして、打ならしたるかねのこゑも、心ぼそくたうと(尊)かりき。
 いくほどのとし月もへだたらで、ぬし(主=式子)なきやと見るぞかなしく、涙もとどまらずおぼゆる。
 きやうこく殿(京極殿、後鳥羽院御所)へあしたゆうべに参りかへれば、今は馬車よりを[お]りなとすることもなくてすぎありき侍に、つい(築)地のくづれより(大炊殿の様子を)見いれはべれば、庭のよもぎは軒をあらそひ、一村すすきも処えてぞ見え侍。
 ちかきほどなるに京極殿へ参りたれば、玉かがみとみがきたれられるれば、さもと[か]はりたるものかなとぞおぼえ侍。



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