←前

戻る

次→ 



31代斎院 式子内親王

名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
しきし・しょくし のりこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後白河天皇(1127-1192)
母:藤原成子[高倉三位]
  (1126-1177)
久安5年(1149) 建仁元年(1201)1月25日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
二条(1158〜1165,異母兄)
六条(1165〜1168,甥)
高倉(1168〜1180,異母弟)
卜定:平治元年(1159)10月25日
   (四条東洞院)
初斎院:不明(大膳職?)
本院:永暦2年(1161)4月16日
退下:嘉応元年(1169)7月24日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
好子(1148?-1192,同母姉)
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:保元3年(1158)12月25日
初斎院:不明
野宮:不明
群行:永暦元年(1160)9月8日
   (長奉送使:宣房)
退下:永万元年(1165)6月25日
天皇譲位
休子(1157-1171,異母妹)
 父:後白河天皇
 母:平信重女
卜定:仁安元年(1166)12月8日
   (右馬助大江信忠家)
初斎院:仁安2年(1167)6月28日
   (大膳職)
野宮:仁安2年(1167)9月21日
群行:なし
退下:仁安3年(1168)2月19日
天皇譲位
惇子(1158-1172,異母妹)
 [堀川斎宮]
 父:後白河天皇
 母:藤原公能女
卜定:仁安3年(1168)8月27日
   (綾小路猪熊家)
初斎院:嘉応元年(1169)5月9日
   (一本御書所)
野宮:嘉応元年(1169)9月27日
群行:嘉応2年(1170)9月10日
退下:承安2年(1172)5月3日
薨去

略歴:
 久寿2年(1155)(7歳)7月24日、父後白河天皇践祚。


10月26日、後白河天皇即位。
 保元3年(1158)(10歳)8月11日、後白河天皇譲位、異母兄二条天皇践祚。


10月20日、二条天皇即位。
 平治元年(1159)(11歳)10月25日、内親王宣下。斎院に卜定。
 永暦2年(1161)(13歳)4月16日、本院に入る。
 永万元年(1165)(17歳)6月25日、二条天皇譲位、甥六条天皇践祚。


10月20日、六条天皇即位。
 仁安3年(1168)(20歳)2月19日、六条天皇譲位、異母弟高倉天皇践祚。


3月20日、高倉天皇即位。
 嘉応元年(1169)(21歳)7月24日、病により退下。
 安元3年(1177)(29歳)3月11日、母成子薨去。
 治承4年(1180)(32歳)2月21日、高倉天皇譲位、甥安徳天皇践祚。


3月9日、安徳天皇即位。


5月26日、弟以仁敗死。
 元暦2年/
 文治元年(1185)
(37歳)3月24日、壇ノ浦の合戦。安徳天皇崩御。
8月10日、式子准三宮。
 建久3年(1192)(44歳)4月26日、父後白河院崩御。式子、大炊御門殿ほかを相続。
 建久7年(1196)(48歳)橘兼仲妻の託宣事件に連座、洛外追放の処罰を受ける。
 正治2年(1201)(53歳)1月25日、薨去。

号:大炊御門斎院、萱斎院、高倉宮
法号:承如法
同母兄弟:亮子内親王(1147-1216,斎宮,殷富門院)
     好子内親王(1148?-1192,斎宮)
     守覚法親王(1150-1202,北院御室)
     以仁(1151-1180,八条院猶子)
 ※休子内親王(1157-1171,斎宮)も従来同母とされてきたが、近年異説あり(下記参照)。

斎院長官:高階為清(永暦2年(1161)4月1日〜仁安2年(1167)4月以前)
     源有房 (仁安2年(1167)4月2日以前〜?)

後白河天皇第三皇女。
 母藤原成子(高倉三位)は、父後白河天皇の従姉。
 (※成子の父季成と、後白河天皇の母待賢門院璋子が姉弟)
 高倉三位22歳で第一子亮子内親王をもうけ、24歳で第三子となる式子が誕生した。
 斎院長官源有房は、式子の祖父鳥羽天皇の再従兄弟にあたる(有房の祖父顕房と、鳥羽天皇祖母の白河中宮藤原賢子が兄妹)。

 長らく生年不明で以仁の妹とされてきたが、京都大学本『兵範記』断簡裏書(平松文書)で「御年廿一」とあることから、以仁より2歳上の姉であることが判明した。また『定家小本』(嘉応元年7月24日条)で従来「卅一」(=31代斎院の意)とされてきた箇所も、同じく「廿一」で年齢を表すものと訂正された。

 なお式子の同母妹とされてきた休子内親王について、伴瀬明美氏は『帝系図』の記述「前左衛門尉平信重女」や『愚昧記』(仁安2年9月21日条)の「母儀右馬助(平)信忠妹」から、休子の生母は平信重女(坊門局、実父は大江範資)であろうとしている。

参考図書:
・『日記が開く歴史の扉』(京都大学総合博物館, 2003)
  ※兵範記(断簡)嘉応元年7〜8月の写真・釈文を掲載
・『兵範記・範国記・知信記:翻刻・解説篇4-[2](京都大学史料叢書4)』(思文閣出版, 2020)
参考リンク:
・上横手雅敬「範国記・知信記・兵範記」(京都大学学術情報リポジトリ紅)
参考論文:
・兼築信行「式子内親王の生年と『定家小本』について」
 (『和歌文学研究彙報』(3), p11-12, 1994)
・伴瀬明美「『明月記』治承四五年記に見える「前斎宮」について」
 (『明月記研究』4, p125-135, 1999)
・米谷豊之祐「後白河院北面下﨟:院の行動力を支えるもの」
 (初出:『大阪城南女子短期大学研究紀要』11, p67-119, 1976)

  ┌─────┐
  |     |
 藤原季成   璋子=====鳥羽天皇
  |    [待賢門院]|
  |         |
  |         ├─────┬────┬────┐
  |         |     |    |    |
 藤原成子=====後白河天皇  崇徳天皇  禧子   統子
       |    |              [上西門院]
  ┌────┤    ├─────┬────┬───┐
  |    |    |     |    |   |
  好子  ◆式子  二条天皇  高倉天皇  休子  惇子
 (斎宮)        |         (斎宮) (斎宮)
            |
           六条天皇

 式子を含む高倉三位腹の三姉妹は全員が斎宮・斎院となり、このうち長女亮子は安徳天皇・後鳥羽天皇の准母となり、院号宣下を受け殷富門院と称した。しかし次女好子は斎宮として下向した伊勢からの帰途で苦難を強いられ、三女式子も父後白河院の死後は不運続きであった。また二人の皇子も、守覚法親王は11歳で出家し、以仁は親王宣下も受けられず、後に挙兵するも敗死しており、後白河院の子女でありながら平家全盛期は不遇なきょうだいであった。
 なお式子ら姉妹の内親王宣下は10〜11歳の頃で、いずれも斎宮・斎院卜定と同時であった。母高倉三位は女御に準ずる従三位に叙されたものの、終生正式な妃としての地位を与えられていない。また所生の皇子二人も、守覚法親王の宣下は出家後で、その弟以仁にはついに宣下はなかった。式子たち姉妹も卜定がなければ、あるいは宣下も受けられなかったかもしれない。
 式子たち同母姉妹三人の卜定は年齢順と思われ、さらに異母妹の休子と惇子も伊勢斎宮に卜定されており、後白河の皇女たちの中で式子のみが唯一賀茂斎院となった。なお長姉亮子内親王は父後白河の斎宮となるも、後白河が在位三年で譲位したため、伊勢への下向なく退下している。

※式子ら三姉妹のうち、好子内親王のみ生年不明だが、『山槐記』に以下の記録がある。
  • 永暦元年(1160)9月8日条「今日斎宮<院第二女、[二]品子、號高倉局>群行也」(斎宮好子伊勢下向)
  • 永暦2年(1161)4月16日条「今日初斎院<院第三女母儀三品季子高倉局是也>」(斎院式子御禊)
 これにより、好子が第二皇女、式子が第三皇女であることが判る。また第一皇女亮子内親王が1147年、第三皇女式子内親王が1149年の生まれであり、さらに1150年に守覚法親王、1151年に以仁が生まれている。つまりこの同母の5人姉弟は1147〜1151年の5年間に次々生まれていることになり、よって長女亮子と三女式子の間に生まれた次女好子の生年は、1148年である可能性が高い(『本朝皇胤紹運録』では式子を第二皇女、好子を第三皇女としているが、卜定の順から見ても同時代の記録である『山槐記』の方が信憑性は高い)
 ところで好子が1148年生まれとすれば、この年子のきょうだい5人はそれぞれ12〜15ヶ月前後の間隔を置いて誕生したことになる(※待賢門院の第3子から第6子出産も年子で、それぞれ12ヶ月・14ヶ月・14ヶ月の間隔である。また一条天皇以降の年子の同母きょうだいの例を見ても、年月日の確かなものはすべて13ヶ月以上の間隔を置いて誕生している)。よって第1子亮子を1147年1月、第5子以仁を1151年12月の誕生と仮定すると、第3子の式子は1149年の4月〜8月頃に生まれていたものか。
 なお『仁和寺御伝』等によれば、第4子の守覚法親王は1150年3月4日生まれとされる。これが正しければ、守覚の誕生から逆算して、姉の式子の誕生は1149年の1〜2月頃と推測される。
 しかし亮子が1147年生まれ、式子が1149年1〜2月の生まれとなると、好子が1148年生まれとなるには亮子・好子の二人も1〜2月の生まれでなければならず、不可能とは言えないがやや厳しい(この場合、母高倉三位は4年連続で約12か月おきに出産を繰り返したことになる)。また『大日本史料』掲載の『心記』(建久3年7月3日条、好子内親王薨伝)では、好子は後白河三女とされており、『明月記』(建久3年3月14日条)でも、後白河院の遺産処分で好子よりも式子が先に名前を挙げられている等、当時から好子と式子の順序を混同したように見られる記録があることから鑑みて、好子・式子は双子であった可能性も考えられる。

 式子の初度御禊時の記録はないため、初斎院がどこであったかは不明だが、『山槐記』(永暦2年4月16日条)の初斎院御禊の道順についての記録に「其路出大膳職北門」とある。式子の前後に斎院となった30代怡子女王32代僐子内親王は共に大膳職を初斎院としており、式子の場合も同様に大膳職を初斎院とした可能性が高いと思われる。

 斎院退下後の式子は始め四条殿に、次いで三条第に住んだ。なお「三条第」は母高倉三位の実家高倉三条第(左京三条四坊四町。現在の京都文化博物館周辺)とされてきたが、高柳祐子氏の説では三条実房(式子の再従兄弟)の「三条万里小路邸」であろうとする(「歌人式子内親王の揺籃期をめぐって」(2013)。ただし斎院卜定前は、姉妹らと共に高倉三条第で成長したのであろう)
 その後は父後白河院の法住寺殿内(萱御所)や、また一時期(1184〜1190頃)叔母八条院ワ子内親王の下にも身を寄せたが、八条院とその猶子(以仁姫宮、式子の姪)を呪詛したとの疑いをかけられる。このためか式子は押小路殿(白河押小路殿か)に転居、まもなく出家。法然と交流を結び、死の間際まで音信を交わした。



三条高倉第跡(2013年8月17日撮影)
石碑は東洞院通側北寄りにあり。地図はこちら


 父後白河院崩御により、大炊御門殿(左京二条四坊十町)・白川常光院と幾つかの荘園を遺領として譲られる。これらの財産は、当時准母立后や院号宣下を受けた他の不婚内親王に比べてそれほど豊かな方ではなく、また大炊御門殿は当時九条兼実が邸宅として住んでおり、明け渡しにも応じなかったらしい。このため建久7年(1196)の政変で兼実が失脚するまでの間、式子は主に後見・吉田経房(藤原定家の従兄弟)の吉田の別邸や、勘解由小路の本邸で暮らした(なお兼実失脚半年前の託宣事件では、一時洛外追放の処分に追い込まれかけている)
 建久7年暮から大炊御門殿に住み、これにより大炊御門斎院と号した(なお同8年(1197)3月に後鳥羽天皇が行幸した際は、一時吉田経房別邸に移っていた)。その後正治2年(1200)秋に、後鳥羽院の三男である東宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子とする話が出た(※「用語集」参照)。しかし当時式子は既に病(乳癌?)にあり、猶子は実現しないまま翌年薨去した(この結果、後に式子の長姉殷富門院亮子が順徳准母となった)


 京都市上京区の般舟院陵敷地内に残る塚の五輪塔が、式子の墓所と伝えられている。
 ※京都市営バス【千本今出川】下車すぐ(駒札・案内板等はない。開門は平日のみ)。


伝・式子内親王墓所(2013年8月19日撮影)

参考リンク:
京都地方裁判所〜大炊御門殿跡。発掘品の写真や式子についての説明もあり。
『天皇皇族実録107.後白河天皇 巻5』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※式子内親王については11〜19コマにあり

参考史料:
・「[資料紹介] 国立歴史民俗博物館所蔵『顕広王記』応保三年・長寛三年・仁安二年巻
・「[資料紹介] 国立歴史民俗博物館所蔵『顕広王記』承安四年・安元二年・安元三年・治承二年巻
 (高橋昌明・樋口健太郎、国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ提供)
参考図書:
・『式子内親王』(馬場あき子, ちくま学芸文庫, 1992)
・『式子内親王・永福門院』(竹西寛子, 講談社文芸文庫, 1993)
・『式子内親王集全歌注釈』(小田剛, 和泉書院, 1995)
・『式子内親王集全釈』(奥野陽子, 風間書房, 2001)
・『式子内親王』(平井啓子, 笠間書院, 2011)
・『式子内親王:その生涯と和歌』(小田剛, 新典社選書, 2012)
・『新古今集:後鳥羽院と定家の時代』(田渕句美子, 角川選書, 2010)
・『異端の皇女と女房歌人:式子内親王たちの新古今集』(田渕句美子, 角川選書, 2014)
・『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(奥野陽子, ミネルヴァ日本評伝選, 2018)
参考論文:
・吉岡眞之「『平治元年十月記』」
 (『古代文献の基礎的研究』吉川弘文館, p380-399, 1994)
・村井俊司「式子内親王の後見:吉田経房を中心として」
 (『中京国文学』(14), 1995)
・高柳祐子「晩年の式子内親王」
 (『和歌文学研究』(88), p16-27, 2004)
・三好千春「准母論からみる式子内親王」
 (『女性史学』(19), p15-31, 2009)
・奥野陽子「言葉集所収式子内親王周辺歌:高倉三位と前斎院帥の歌」
 (『大阪工業大学紀要. 人文社会篇』56(2), p52-46, 2011)
 [機関リポジトリ全文あり]
・岸辺誠「藤原定家と式子内親王―後見という観点からの一試案―」
 (『愛大史学:日本史学・世界史学・地理学』(24), p45-67, 2015)
 [機関リポジトリ全文あり]

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

【式子関係者系図】

   藤原成子
    *    ┌─亮子[殷富門院]
    *    |
    *────┼─式子
    *    |
    *    └─以仁─────姫宮(八条院猶子)
 ┌─後白河天皇
 |  *
 |  *──────高倉天皇──┬─安徳天皇
 |  *            |
 | 滋子[建春門院]       ├─後鳥羽天皇──┬─土御門天皇
 |               |        |
 ├─統子[上西門院]       └─範子[坊門院] ├─順徳天皇(守成)
 |                        |
 └─ワ子[八条院]                 └─昇子[春華門院]





【式子内親王の名前のこと】
『玉葉』(建久2年(1191)1月11日条)の女叙位記事に、「押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓歟」とある。ここでは「則子」と「範子」(34代斎院)の訓読みが同じであることが問題ではないかとされており、また外祖父の名が「成範(しげのり)」であることからも、「範子」の訓は「のりこ」の可能性が高いと思われる【範子内親王の名前のこと】参照)
 また同じ『玉葉』女叙位記事内には、範子の訓について触れる前に、以下のような記述がある。

「次取蔵人申文読申、欲叙之其名俊子云々、余問云、仁和寺一宮<後三条院御女、>名也、於斎宮斎院者憚之歟、於内親王者、先例不必避之、但件人頗有名人、又被尊崇歟、如此之人、雖有様有用捨、但若又為斎内親王哉、慥不覚悟先例、憚哉否、可問外記者、(藤原)定長置筆、召光綱問外記、々々申云、国母之外、先例不憚者、余云、非国母者、雖后宮名不可避歟、勿論申状也、只慥年、其年其人、分明可勘申也、<先是定長、自懐中被取出抄物申云、俊子ハ樋口斎宮也、余云、件斎宮ハ侚(人偏+旬)字歟如何、定長云、一定俊字也云々、仍不憚斎内親王名之例ヲ所尋問也、>

 この場合は前斎宮俊子内親王(樋口斎宮。1132没)と同名であることが問題にされているが、このように当時の官人たちは皇女の諱の先例によく通じていたことがわかる(※ただし兼実はこの時、俊子内親王とその同母姉聡子内親王(仁和寺一品宮。1131没)を混同しており、左大弁藤原定長が訂正している)。ここで兼実は「内親王の名前については(同名であっても)特に憚りはないが、斎内親王の場合は先例をよく知らないがどうなのか」と尋ね、外記に確認させている。結局、「(斎宮・斎院であっても)国母でない限り、原則として問題ではない」とされたようであるが、このため「則子(のりこ)」という名前が出た時も、「前斎院範子」と同訓であることを指摘されたのだろう。

 ところで当時は同じく前斎院の式子内親王も存命(43歳)であり、しかも「式子」も訓は「範子」と同じく「のりこ」であろうとされる(角田文衛『日本の女性名』)。よってこの時、範子以外にも存命の前斎院で同訓の人物がいるとなれば、当然式子の名も挙げられたはずだが、ここではまったく問題にされていない。こうした記述から見て、この時兼実らにはそもそも「式子」が「範子」と同訓であるという認識がなかった可能性が高いと思われる。
『玉葉』記事に姉亮子内親王(殷富門院)や弟守覚法親王(仁和寺宮)の名が散見されるのとは対照的に、式子当人の名は後の大炊御門第相続を巡る件を除いて殆ど登場しないことから見て、式子と兼実の間にはさほど接点はなかったと推測される(なお範子もこの点は同様で、後年範子が土御門准母として立后する前に兼実が失脚していたこともあってか、皇后宮となった後も『玉葉』で範子に関する記事は殆ど見られない)。しかし当時は式子の父後白河院が健在で、また式子自身これより5年前の文治元年(1185)に准后となっていた。姪の範子と同様に前斎院と呼ばれていたが、当時の式子は社会的地位の点でも範子よりも格上であり、また『吉記』の記述から見て、やはり文治元年(1185)頃には既に吉田経房(当時権中納言)が式子の後見にあたっていたと思われる。そんな式子の存在を、兼実だけでなく他の官人たちも(同じ前斎院で、さらには准后ですらない無品内親王の範子のことは認識していたにもかかわらず)失念していたというのは考えにくい。よって「範子」の訓が確実に「のりこ」だとすれば、「式子」の訓は「のりこ」ではなかったのかもしれない。

参考図書:
・奥野陽子『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(ミネルヴァ日本評伝選, 2018)
・角田文衛『日本の女性名』(教育社, 1980)※※2006年国書刊行会から復刊
・宮内庁書陵部編『九条家本玉葉(12)(明治書院, 2009)





【式子内親王と和歌】
 歴史上あまり重視されることのない式子内親王だが、国文学では『新古今和歌集』に44首入集、家集『式子内親王集』を遺し、小倉百人一首にも入るなど、鎌倉初期を代表する女流歌人として名高い。とりわけ「忍ぶ恋」の歌を多く詠んだが、その思慕の相手が誰であったかは諸説あり定かでない(恋歌はあくまで題詠であり、実際の恋愛を詠んだものではないとの説が近年有力である)
 藤原俊成に師事し、彼の著作『古来風躰抄』は式子に奉られたと言われる(同母弟の守覚法親王とする説もある)。俊成の娘の前斎院女別当と龍寿御前も式子内親王家に仕え、特に龍寿は式子の没後もその墓参を続けた。また龍寿の同母弟・定家も親しく出入りした記録をその日記『明月記』に遺しており、このため式子の恋の相手は定家であると長く信じられて、謡曲「定家」の題材にもなった。なお岸部誠氏は、『明月記』の記述からは式子と定家が直接の主従関係にあったとは考えにくく、俊成が経房と共に式子の後見を担っていたものかとしている(「藤原定家と式子内親王―後見という観点からの一試案―」)
 現在では式子・定家の恋仲説を否定する研究者が多いが、ともあれ『明月記』の記述や『新古今集』に入集した歌の多さから見て、定家が優れた歌人としての式子を高く評価し敬愛していたのは確かであろう。

 なお式子が東宮守成の准母に内定した理由について、三好千春氏は式子の和歌の才能を認めた後鳥羽天皇が、それゆえに式子を東宮准母にふさわしいと見なしたためとしている(ただしこれは上記の通り、式子の病死で実現しなかった)

詠歌:忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野辺の露のあけぼの(新古今集)
   ほととぎすその神山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ(新古今集)
   神山のふもとになれしあふひ草ひきわかれても年ぞへにける(千載集)
   みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞぬれにし(千載集)
   さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣(千載集)
   身にしむは庭火の影もさえのぼる霜夜の星のあけがたの空(式子内親王集)
   玉の緒よたえなばたえね長らへば忍ぶることのよわりもぞする(新古今集、百人一首)

 斎院時代を詠んだ式子内親王の歌は、斎院であることに肯定的な内容のものが多いとされる(奥野陽子『式子内親王集全釈』『式子内親王』)。姉好子内親王は斎宮となって遠い伊勢へ下向し、その帰途でも苦難を極めたが、都近い紫野斎院に入った式子は荒れる世俗を離れたことで穏やかな少女時代を送り、退下後の苦難の中でかつての斎院時代を懐かしく回想することも多かったと思われる。
 なお馬場あき子氏は、治承4年(1180)5月に式子の弟以仁が敗死したことに触れ、「式子は、この事件の後、かつてのように美しく時鳥を歌わず、さわやかに夏を歌うことをしなかった」と指摘し、「式子が、夏をなつかしく、美しく思い出すのは、斎院時代に限られていたということもできる」と述べている。

参考図書:
・『式子内親王』(馬場あき子, ちくま学芸文庫, 1992)
・『式子内親王集全釈』(奥野陽子, 風間書房, 2001)
・『式子内親王:その生涯と和歌』(小田剛, 新典社選書, 2012)
・『新古今集:後鳥羽院と定家の時代』(田渕句美子, 角川選書, 2010)
・『異端の皇女と女房歌人:式子内親王たちの新古今集』(田渕句美子, 角川選書, 2014)
・『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(奥野陽子, ミネルヴァ日本評伝選, 2018)
参考論文:
・高柳祐子「晩年の式子内親王」
 (『和歌文学研究』(88), p16-27, 2004)
・三好千春「准母論からみる式子内親王」
 (『女性史学』(19), p15-31, 2009)
・奥野陽子「言葉集所収式子内親王周辺歌:高倉三位と前斎院帥の歌」
 (『大阪工業大学紀要. 人文社会篇』56(2), p52-46, 2011)
 [機関リポジトリ全文あり]
参考リンク:
・『式子内親王集』(国際日本文化研究センター)
・「千人万首/式子内親王」(千人万首)





二条天皇
史料 月日 記述
兵範記
平治元年十月記
平治元年
(1159)
10月25日 【式子内親王、斎院卜定】
『兵範記』
(嘉応元年10月20日条、32代僐子内親王卜定記事内)
 平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、
  上皇(後白河上皇)々女、     二条院初、

『平治元年十月記』
 初斎院令渡給、卜定御所給、出車進了、四條東洞院云々、
山槐記 永暦2年
[応保元年]
(1161)
4月1日 【初斎院司除目】
(前略)可被行初齋院司除目、仍人々申文書目六於折紙奏覽、仰云、早可申關白(近衛基実)、次以尹明給折紙、新大納言申中務丞遠範申兵部丞馬助事、
(藤原)顯時(藤原)顯長卿申正三位事、
(藤原)兼雅申四位事、
 已上四箇條(平)清盛卿傳奏也、然而此事可然之由非奏聞、依爲人々申事申達也云々、此事可申關白、予申云、不可申院歟如何、仰云、早可申也、
次參大殿(藤原忠通)覽折紙、仰云、早可申院(後白河)
次申關白殿、仰同前、
次申院司、有御合點、又被仰事多之、又賜御報書、可持參大殿、後見(藤原)成親朝臣中將事、(吉田)經房(平)時忠正五位下事也、
次參大殿進御書、申折紙子細、<付長定、>
 仰云、如被仰下任何事之有乎、
次於直廬如御合點、更書折紙持參院、
 仰云、此定早可仰下、
次參内奏聞、仰云、早可仰下、頗多々之由内々有天氣云々、
次取申文<兼引懸紙裏紙、只一通ツ、各巻テ不結シテ押合テ左右手ニ取合出陣、>出陣、於奥座下新中納言顯時卿被結一通、仰云、依請、
次被問子細、密々獻折紙畢竟、相尋齋院司請奏之處、敕別當付行事辨兼獻上卿了云々、此事如何、付職事可奏下歟、若又依齋院上卿獻上可、然者又上卿付職事可被奏、無其儀恒儀敕別當可付職事歟、於陣上卿密々被見件請奏於予、此儀不可相違由申了、
件請文書樣、<或康和記云、書齋院、其奥一字引下テ書所望人也、今度無齋院二字如何、可尋、>
前佐渡守從五位上高階朝臣爲清、
 望長官、
散位從五位下藤原朝臣親實、
正六位上菅原朝臣忠詮、
 望次官、
正六位上行少監物藤原朝臣光俊、
正六位上行右衛門少志豐原親國、
 望判官、
散位從五位下賀茂縣主義繼、
正六位上大江義康、
 望主典、
  永暦二年四月一日
有禮紙懸紙等、抑主典共前齋院(怡子)主典也、長元六年粟田秀高渡例不慥、仍尋其例後日被任、寛治義基又後日任之、但子細不分明、而康和、天仁、天治、大治、長承仲義基清同日任了、仍任近例今夜任了、且先例可憚之條不慥之故強不申出、二分又任判官有其例、次上卿被示云、前駈事先是已定申了、除目同日者恒例也、然而新大納言明日内々可修佛事者、仍明後日欲定申、而大外記(中原)師元申云、先々多々同日也、大納言有佛事憚者明日以後可催申、於定者何事之候乎者、仍定申了、此事如何、本自依私事、云神事云公事輙延引、不甘心、不可及沙汰事也、前駈者、
大納言(藤原)光頼、 中納言(藤原)實長、 參議(藤原)顯長、 (藤原)俊通、
四位隆輔、<周防守、> 頼輔、 基家、<右少將、> (藤原)實宗<同、>
五位國雅、<治部權大輔、> 實清、<右兵衛佐、> (源)定能<左少將、> (源)有房<侍従也、>
次第使、
左馬助(源)長定、<今夜辭申所職、仍●義憲了、更於陣被書●一紙、外記進紙、>
右馬允、
此事等申承上卿之後歸參殿上、
次上卿召内記、以詞被仰敍位、
正五位下藤(吉田)經房、<祖父爲隆卿去天承二年春日行幸行事賞、>
   平時忠、<前待賢門院去大治五年御給、>
從五位下中原政泰、<外記、>
   大江廣實、<史、已上臨時、>
   源親實、<氏爵、>
次除目被始行、
神祇權少副大中臣爲定、<父祭主爲仲擧申、自院令申給、>
左少史大江廣康、<文章生、自院令申給、> 右少史菅野頼仲、<出納一臈申廷尉、>
内舎人藤佐長、 同盛元、 同忠明、<已上還任、(平)清盛卿(平)教盛朝臣申由頭辨示之、>
  同範康、 中原安遠、 源憲親、<已上臨時内給、>
内匠少允中原宗親、<臨時内給、藏人少納言奏聞付予、>
太皇太后宮(藤原多子)少進藤憲定、
皇后宮(藤原呈子)大權進高階信章、 少進平範保、<已上本宮請、右付内々被申院云々、>
大學少允中原兼遠、<功、自院令申給、> 少屬高橋國盛、<寮奏、>
主計屬惟宗範行、<寮奏、(平)信範申定付予、>大藏少丞中原親基、<上西門院去年御給、>
主殿頭高階爲清、<自大殿令申給、>
采女佑中原師季、<父師元辭但馬權守申任、自院令申給、>
彈正少弼源保信、<自院令申給、>  右京少進平家兼、<女御殿(藤原育子)去年給、>
左近將曹大石光賢、<府奏、>  右近中將藤成親、<還任、自院令申給、>
左衛門少志中原國景、<府奏、自院令申給、>左兵衛少尉平信季、<藏人、>
   少志藤時兼、<府奏、>  左馬助藤義憲、<元右、>
右馬佐藤資能、<自關白殿令申給、>  齋院長官高階爲清、
次官藤親實、 菅原忠詮、 判官藤光定、
   豐原親國、  主典賀茂義繼、 大江義康、
勘解由判官三善仲康、<齋院御車功、>
山城介大江廣實、<史、> 下野守大江信遠、<前司、無故障任如何、自院令申給、>
但馬權守藤忠時、<大学廟器功、>  能登介源宗綱、<八幡行幸蔀屋功、>
筑後權守橘爲實、<齋院宮主、>
辭申所帶、
太皇太后宮少進源盛業、山城介中原盛康、
 左馬助源長定、
除書了上卿就御所被奏、依御寝只可返給之由、兼取内侍云々、仍自鬼間邊持歸、依爲御物忌先奏聞之由、上卿被命、予内覽有無内々取御氣色、不可然之由有關白殿仰、仍申其旨了、上卿被示神妙之由、近代可有如此用意也、及深更持參里亭内覽爲衆人不便事也、次被下二省、今夜書手左兵衛督(藤原)公保卿也、書聞書一通獻院了、以一通可進大殿、一通可進關白殿、一通可使大理之許之由、示藏人退出了、心肝如摧
公卿敕使神寶於左近衛府被始云々、行事藏人治部大輔行隆、右兵衛尉平時盛、出納右衛門少志中原清重、小舎人守時云々、

●=攺(改の異体字。こちらを参照(字源))
山槐記 永暦2年
[応保元年]
(1161)
4月16日 【斎院(式子)初斎院御禊】
 今日初斎院<院(後白河上皇)第三女(式子)、母儀三品(藤原)季子、高倉局是也>禊東河入御紫野院<所謂一条北本院也、>日也、藏人方事予日來申沙汰之、而去六日觸内裏穢了、<五體不具也、>穢中奉行神事太有恐、仍申事由仰付藏人少納言(平)信範了、但可供奉諸司云々、行事所事申皆沙汰具了、雖不可有殊沙汰、臨事有可奏事者可無便宜之故也、一昨日猶可還奉行之由有敕命、然而近日左目小患、仍辭申了、又同有所存之故也、申刻爲見物密々立車於西洞院一條邊相待之處、日脚漸没事太微々、日入之後適行事官等渡晴、
先行事左少辨(藤原)俊經駕車、<不切物見、黒鞦、>牛童縹濃●冬衣、黄單、不出衣、
 辨侍、  雜色六人、<白張不出衣、白衣、>  有笠持、
次外記中原長盛、<去十三日任、駕車不切物見、牛童香上下白衣、>
 小舎人童淺黄、  雜色四人、
次史大江高重賀車、<已上局外記、但牛童香白裏縹衣也、又不相具小舎人童、>
行事官駕車渡晴不渡事、初齋院禊了先例不同、或説今度公卿騎馬前行、彼以前駕車似無便之故用閑路云々、
次御祓物一荷、<可列京職後歟、>
次左右京職等、
次五位前駆、<下臈爲先、但行列太狼藉、一兩渡間擧松明、>
丹波守隆行、<小舎人童二人、萌黄●冬衣、上◆、雜色六人着白張、>
侍從(源)有房<小舎人童二人、朽葉萌木衣、無雜色、>
左兵衛佐實清<小舎人童二人、二藍●冬衣、随身二人、着蠻繪、指鞭、無雜色、>
治部権大輔國雅、<小舎人、雜色四五人、着白張、>
次四位、
右少將(藤原)實宗朝臣、<随身二人、着蠻繪、差鞭、>
右少將基家朝臣、<随身二人同前、着白張雜色四五人在共、常陸介(平)教盛朝臣歟、>
刑部大輔頼輔朝臣、<小舎人童、雜色四五人許、>
周防守隆輔朝臣、<小舎人童一人、雜色九人、>
次参議左近中將(藤原)俊通卿、<随身四人、着蠻繪、負平胡▲、佐爲左用鷲羽、皆取松明、二人在馬前、二人在馬副後、馬副不取松、無雜色、>
右兵衛督(藤原)顯長卿、<随身四人、着蠻繪負平胡▲、佐爲右用粛愼羽、皆取松明前行、馬副二人取松明在馬後、無雜色、>
次權中納言(藤原)實長卿、<馬副▼之外四人取松明、馬前後各二人也、無雜色、>
權大納言(藤原)光頼卿遅參在御輿後、▼外馬副皆取松明、二人左馬前、四人在後、雜色相具七八人、
  已上和鞍付杏葉、<鞦皆有總、無用楚鞦之人、>着靴、
次々第使左馬助義憲、<随身二人差鞭取松明前行、小舎人童一人、雜色不着當色、>
次長官主殿高階爲清、<雜色一人取松明前行、凡着當色雜色皆可取松明歟、>
次御輿、<無腰輿之例也、>
次藏人所陪從可供奉歟、而早以前行、雜色二人渡車、今度依爲初齋院、雜色四人<〃〃〃橘信保、>衆二人、<大江隆守、藤景忠、>供奉也、存例先日雜色二人衆四人出納相催之、予下知如此也、
次一車、
次院司次官加判官等、
次敕使典侍車、<在前駈、督別當典侍、(平)清盛卿女子也、非渡祭之典侍者不具女房車例也、>
次行列右馬允歟、黒暗之間不見及、
次女別當車、
次宣旨車、<其内童女一兩也、>
次出車六兩、女房裝束、三兩紅匂、<二四五車、>一兩紫匂、一兩萌黄匂、
次馬寮車歟、
其路出大膳職北門、待賢門、宮城東大路北行、一條東行也、月出事了帰畢、
可尋記事、
一、牛御覽事、
 殿下例獻一車牛給、出納仲政<二臈也、一人闕也、禊祭行事五位出納也、>引肥牛、小舎人着布袴引之云々、
一、所陪從御覽事、
 其儀同祭日云々、雜色信保遅參云々、已上頭辨(源)雅頼朝臣候簀子云々、
一、扇使事、
 行事藏人頼保云々、<一臈判官也、>
一、敕使典侍參北陣哉否事、
一、垣下殿上人事、
一、采女催獻列爲禊幄哉事、
一、餝馬車、
一、三車鞦事、
 殿下令獻給云々、
今日依爲凶會日、齋王(式子)不入御神殿云々、先例有凶會日禊、然而入御神殿否事無所見、仍以大殿(藤原忠通)御使行事左少辨俊經、同申中御門大納言、<(藤原)宗能、>大納言殿兩人、中御門大納言被申云、密々後日以吉日入御可宜歟者、大納言殿令申給、可准群行例、後日入御可宜者云々、仍今日不入御云々、見廿八日記、

●=欵(款の異体字。こちらを参照(字源))
「欵冬」=款冬(やまぶき)。
◆=絬(糸偏+舌。くくり。こちらを参照(字源))
▲=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
山槐記
兵範記
永暦2年
[応保元年]
(1161)
4月19日 【賀茂祭】
『山槐記』
(4月19日条)
 天晴、午終剋着束帶<巻纓懸●、帶剱、相具弓壺等、>參内、<自去夜宿大炊御門直廬、>所陪從參否相尋行事藏人頼保、<一臈判官、>皆以參上候所云々、藏人等下晝御座庇御簾、<大炊御門高倉寢殿南面儀、>第三間簾中供御圓座、<用大庄子圓座、>次令藏人申事由、未刻出御々座、召予、<帶弓箭、>參申事具之由、進第二間簀子、召藏人仰雜色所衆可參由、雜色四人衆二人<青色袴、二藍下重、鼻切沓、雜色二人衆二人着◆腋袍、隨尋得歟、>自東中門<用瀧口方也、>參進、<小舎人童各相具參上、予令藏人誡仰之退出了、>當御座間程跪居庭、<西上北面、>予仰云、南<ヘ>罷向<ケ>、各乍跪右廻、<早廻也、>如本歸向、予仰云、御馬取<テ><禮>、次各自本路退出、
取御馬參入、<馬部不相副、各一身▲參也、>三廻<巡廻右廻也、>引廻庭中、第一雜色當御前之時予仰云、罷乘<禮>、各騎也、<頗沛去引出東方乘之參上、所衆一人不騎、事外沛御馬云々、>三匝後下馬、<不必限三度可隨仰歟、而押下馬、又別仰、仍不仰左右 隨御氣色罷上ヨト可仰也、>引次第出了、入御、次予退出殿上了、申剋近衛使右近少將(源)通能朝臣參内、佇立弓場殿代、可巻御簾也、出御晝御座、可召使歟、予申案内、仰云、只可垂御簾、又奏云、使可候長押橋、自御座件所不見、其便不宜、可開西向妻戸歟、仰云、強雖不當御眼路何事之有哉、件戸只如常可閇也、信季云、保延(平)信範爲藏人之時里亭儀相叶今儀、件年開西戸巻庇御簾、出御晝御座、是師行入道爲使之時事也云々、然而可御簾中由有天氣也、正笏候長橋上圓座、<兼敷之、>次藏人菅定正源通定取衝重居使前、<便路自西在之、然而擬殿上戸方、經北渡殿、自寢殿西簀子往反、>次藏人治部大輔行隆於小板敷取盃進出<其路同前、>權使、藏人左兵衛平信季取瓶子相從、次頭右大辨(源)雅頼朝臣於鬼間方取敕祿、<紅打御單、>進出自寢殿西簀子賜使、<近代雖不召御前猶賜敕祿也、>舞後可給歟、次使退下、進出西廊砌外、懸祿於左肩舞踏、此間陪從等發歌笛、次舞人參進南庭、舞求子退出、先例賜祿<佐渡布、>云々、近年不然歟、次頭辨奏云、餝馬可經御覽歟、又於西門密々在御見物云々、不可有此儀歟、仰云、早於西面可御覽也者、<於御殿庭御覽之時、餝馬手振馬副隨身許歟、引馬不覽也、>仍予頭辨侍臣一兩參西面方候縁、主上於簾中御覽、先舞人前行、次使、次隨身手振及雜色等皆以御覽、餝馬▲遲參、仍舎人引之、引馬▲一人又遲參、仍兼成一人與舎人引之、皆入西面南門、出同北門也、
次車自北渡南、不過左衛門陣、自陣門北方更遣返了、先是女使參上北陣、行事藏人給祿、遣列見了、行事藏人頼保未剋相具女房扇參本院、歸參内、負壺、頭辨云、爲廷尉可負平胡▼歟、余答云、可然也、行事藏人云、源中納言(源定房)車誤遣典侍宅了、女房已駕之、次又遣新大納言車之處、申餘剩之由返了云々、仍命婦出車已闕如、爲之如何、予答云、慥遣尋猶可將向之由速可仰遣也者、宣命今朝内記持向典侍宅付之云々太奇恠、行事藏人尋取令付内侍所、彼女官獻内侍、々々給内藏寮使云云、次逐電下宿所、改裝束駕車、密々向油小路末、於埒北方見物、廷尉及行事官已渡了云々、頃之使々渡晴、
皇后宮(藤原忻子)使、
 大夫進平範保、<雜色當色、薄蘇芳狩衣袴、濃同色衣、>
太皇太后宮(藤原多子)使、
 大夫進藤憲定、<雜色當色、朽葉上下黄衣、>
  已上無▲引馬等、希代事、若有其例歟、或人云、還日可爲歩行歟如何、
近衛使、
右近少將源通能朝臣、<二藍半比下重、>
隨身蠻繪如恒、差鞭、<立南方、隨身懸敕祿於左方肩、>
小舎人童六人萌黄、<付藤花、>以紅薄様結髪付葵、不付物忌、馬副如恒、★葵懸冠、
雜色二藍上下、△冬衣、付藤丸、
笠付藤丸、
餝馬賜大殿御馬、<御厩舎人兼方着萌黄上下、付藤丸、>
▲、<院(後白河御隨身、右府生秦兼任唐綾袴括蛙目、有關白隨身左府生下毛野武成付平緒、)>
(下毛野)武成任日上臈也、然而院御隨身取上手引馬、<鏡鞍竹豹切付、予借送、>
▲、<左府生秦兼成、付彈碁馬、府官人也、大將隨身右番長下毛野友武付幡手、>
車透本文懸金銅伏輪、
牛自大殿給之、童太郎丸着赤色上下、付藤丸、
馬寮使、
右助藤資能、<雜色當色、萌黄△冬衣、>
内藏寮使、
 權助安倍泰茂、<雜色當色薄色白衣、>
山城介不見、早以渡畢歟、可尋、広實可供奉也、
次第使、
 左馬助藤義憲、<隨身二人、童一人許也、>
長官、
 主殿頭高階爲清、<雜色當色縹△冬衣、>
御輿、
次々官判官等、
次所陪從、
雜色四人之内二人渡車、有取物、殘二人衆、<二人皆無取物車、>
次出車五兩、女房衣打紅躑躅、
 童女車一兩、
次典侍出車五兩、白衣、
次命婦出車二兩、<今一兩頗相違之間遲々歟、尤以不便、>
次藏人出車二兩、
次々第使左馬允、次第頗違亂歟、女騎之類不能委記、日入程事了歸三條畢、
行事上卿新中納言、<(藤原)顯時、>宰相中將、<(藤原)資長、>
(藤原)俊經、<右少、>外記中原長盛、史大江高重、
院於故(藤原)信頼卿烏丸棧敷密々有御見物云々、
今日公卿敕使<來廿二日可被發遣、>宸筆宣命草被召仰大學頭(藤原)範兼朝臣<御師讀也、(藤原)永範朝臣爲下臈也、然而範兼朝臣坊學士也、>云々、頭辨談云、昨日可被召仰、仍參内、而申不知書様之由、令申大殿、給御返事云、件草不候、故顯業卿又永範朝臣皆於家始奉之草進、如彼等尋出可調進歟、又本自何不被仰永範哉云云、而間近日大殿令進草案給、仍去夜及深更之趣卿被召仰也、
(4月20日条)
 天晴、還立及晩頭云々、其故使將餝馬△右府生秦兼任裝束不調出之間如此遲々云々、垣下四位五位六位各二人也、而右中將(藤原)家通朝臣、少納言重雅、藏人頼保、<一臈判官、>信季<左兵衛尉、>許參候、右少將(藤原)實宗朝臣、侍従泰通、散位成經昨日申所勞不參、其後行事藏人雖相催遲參歟、如何也、(後略)

『兵範記』
 賀茂祭、
上皇(後白河)今朝自東山新御所、初御幸上西門院、前駈公卿以下殿上人直衣々冠人數々、儀式存晴、次密々御幸烏丸別當棧敷有御見物云々、但行事辨以下檢非違使等不下車馬、乍乘渡云々、

●=緌(糸偏+委。おいかけ。こちらを参照(字源))
◆=缼(缶+欠。欠の異体字。こちらを参照(字源))
▲=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
▼=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
★=鋂(金偏+毎。萌の異体字。こちらを参照(字源))
△=欵(款の異体字。こちらを参照(字源))
「欵冬」=款冬(やまぶき)。
山槐記 永暦2年
[応保元年]
(1161)
4月28日 【斎院(式子)初めて神殿に入る】
(前略)齋院(式子)始入御神殿云々、明日依凶會日不入御、去廿一日雖可入御本院有犬死穢、今日入給云々、
山槐記 応保2年
(1162)
10月28日 【秋除目】
(除目部類)
 巳始剋相具申文卅通許參關白殿(近衛基実)、今日被行秋除目也、(中略)
任人<諸國掾目兩三被任、不能記、>(中略)
 齋院(式子)判官平時成、<司奏、>
山槐記 長寛3年
[永万元年]
(1165)
1月21日 【除目。斎院(式子)に申文一通】
 除目始、
今夜不審事、院宮申文有十二通、近御[衛?]御給所十所也、其中大宮(藤原多子)不被獻、然者可有九通之處、院(後白河)八條院各二通、齋院(式子)一通云々、右大辨復座之後示曰、至此事宰相力不及、爲封、不知可留何文、仍皆獻之者、予答曰、於兩院(後白河、八条院)御申文實難進止、何爲至于齋院(式子)者非准后、更不可加院宮之中、不加封可付職事、可入公卿當年給之内歟、然者不可被取之歟、大丞尤可然之由緒、(後略)
山槐記
顕広王記
長寛3年
[永万元年]
(1165)
4月16日 【斎院(式子)御禊】
『山槐記』
 斎王(式子)禊如例、
左兵衛佐(藤原)雅隆<小舎人童一人、二藍●冬衣、隨身二人、着蠻繪着[差?]鞭、無雜色、>
伊賀守(藤原)資能、<小舎人童二人、萌黄●冬衣上括、雜色、六人着白張、>
左兵衛佐(藤原)頼實<小舎人、雜色四人、着白張、隨身二人、着蠻■■■[字数不明]>
右兵衛佐(藤原)隆房、<隨身四人、着蠻繪負平胡◆、依爲右用肅羽、皆取松明前行、馬副二人、取松明在馬後、無雜色、>
次四位、
右少將■■■■■[字数不明]<隨身二人、蠻繪着鞭、>
右少(以下不明)
[美]濃守■■■■■[字数不明]<■■■■■[字数不明]童一人、■雜色九人、>
■藏人五位六人、殿上六位二人、共兵衛尉爲前駈、■■■紅黄也、盡美麗也、■■■相具七八人、
皇后宮(藤原忻子)使權大進懷經、<淡路守也、>
引馬▲■■官人助弘、<公弘子息也、>
番長武助、<武道法師子息、>
■■■■■■■■■■[字数不明]不可用口取云々、

『顕広王記』
 斎王(式子)禊如例、左衛佐(藤原)雅隆、右衛佐代伊賀守(藤原)資能、左兵衛佐(藤原)頼実、右兵衛佐(藤原)隆房、(藤原)忠俊<院>(下毛野)武成<殿>為▲、車兼弥■、小舎[人脱?]童四人、随身美麗也、
霧雨今朝殊甚、及未刻雨脚止、威儀儀煩也、(後略)


●=欵(款の異体字。こちらを参照(字源))
「欵冬」=款冬(やまぶき)。
◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▲=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
山槐記
顕広王記
長寛3年
[永万元年]
(1165)
4月19日 【賀茂祭】
『山槐記』
■■[賀茂?]祭如例年、
使右中將(藤原)實守、■■■■■[字数不明]
重近、 兼頼、 兼任、 近種、 已上院(後白河)御隨身也、爲●大宮(藤原多子)使亮(平)經盛朝臣、
(秦)兼國、(秦)兼成爲引馬●、■■■[字数不明]

『顕広王記』
 祭如例、使右中将(藤原)実守・(藤原)公頼、美麗被渡了、<重近・兼頼・兼任・近種>、已上院御随身為●、大宮使亮(平)経盛朝臣也、(秦)兼成・(秦)兼国為引馬口取、是可然、皇后宮大進(藤原)懐経也、引馬口取、右近官人ヽヽ・近衛ヽヽ<武道子云々、>為口取、頗似去祭、大路壱所警■、其使者下劣、成出者云●衛府也、中弐人支、中宮使大進(藤原)光長也、殿下御随身四人為●、武成・(下毛野)師武・(下毛野)武安・(下毛野)忠武也、物具口取等甚花美也、

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
六条天皇
史料 月日 記述
師守記 永万2年
[仁安元年]
(1166)
4月24日 【賀茂祭】
(貞治4年4月13日条)
 諒闇年賀茂祭使〃參内儀事
仁安元年四月廿四日丁酉賀茂祭、近衞使左小將源顯信率舞人・陪從参弓場殿、不發哥笛付藏人奏聞、不給祿、依諒闇也、女使典侍以下參列北陣、於陣外給祿、嘉承例也、
山槐記
兵範記
愚昧記
仁安2年
(1167)
4月2日 【斎院出車定。賀茂祭・御禊の延引について】
『山槐記』
(前略)三條中納言(三条実房)曰、今日依可有齋院(式子)出車定、參本院之間、於路上頭辨<權右中辨(平)信頼朝臣也、禊祭行事云々、>送使曰、延引了者、仍廻車參内也、但可有前駈定、并供奉官可被任云々、六角宰相(藤原家通)爲書之被祇候、禊祭上宰相也、而頭辨參内、定除目又延哉云々、(後略)

『兵範記』
(前略)巳剋着白重參齋院(式子)、依可有出車也、上卿<實房(右傍書)>三條中納言<齋院出事、(右傍書)>未被參、暫候客殿、鋪設饗饌如去年、奉行史信時同參入、此間長官(源)有房稱女房仰、示云、去年七月奉仕故殿御事、一●中猶可有憚歟、公家沙汰異他、可有議定者、下官退出、(中略)
<出車定、(右傍書)>
今日於本院出車定了、於仗座可申行前駈定由、兼雖經奏聞、依無本院定、申延了、

『愚昧記』
 今日禊祭出車并禊前[駈]定、また平座也、依未刻束帯、先為定出車本院之間、於大炊御門堀川頭弁(平信範)<禊祭弁也>、雑色云、今日定延引了、

●=闋こちらを参照(字源))
山槐記
兵範記
仁安2年
(1167)
4月9日 【斎院(式子)御禊前駈定】
『山槐記』
 有出車并御禊前駈定、禊祭事三條中納言<實房、>所被奉行也、而觸院穢了、<去月二十三日夜乞食宿院中死去之穢也、>可奉行之由、今朝有院宣、<藏人右衛門權佐(吉田)經房奉行、>以不肖之身奉行嚴重神事、旁有恐之上、任納言之後未行諸社祭之由申、而藏人右衛門權佐(経房)云、無他人可奉行、仍被仰下了、猶可致思慮者、仍申可奉行之由了、
大納言五人、<(源)雅通、(藤原)師長、(源)定房、(徳大寺)公保(經服)、(平)重盛、>
中納言八人、<(藤原)隆季、(三条)實房、(藤原)光忠、(藤原)宗家、(已上觸院穢)、(滋野井)實國、(初斎宮上)、(藤原)成親(所勞)、(藤原)資長(輕服)、予(中山忠親)、>
大納言如右、仍被仰云々、
神態以前行此事如何之由、申合内大臣殿(藤原忠雅)、被仰云、如聞及者、他人多障、神態以前奉行外事吉例多歟、早可奉行歟者、昨日右中辨(藤原)長方<藏人左衛門權佐也、禊祭行事也、>示送曰、出車定日次相尋陰陽頭(賀茂)在憲朝臣之處、九十兩日可宜之由所申也、可隨命者、予答曰、期日近々、雖一日早速可宜歟、明日可定申者、
又示曰、前駈定可何樣哉、藏人方事頭辨<(平)信範、>奉行也者、此間予候内、便招頭辨問子細、答曰、官方事本奉行之、而自本院可有憚之由申上、<懸故攝政殿御骨一周忌内、>仍改定、然者又藏人方不存可奉行之由、前駈注文相加出車注文、遣右中辨之許了者、此旨答右中辨了、去夕又示送曰、藏人方事可奉行之由不存事也、仍前駈折紙已返遣頭辨之許了者、凡此事上卿不可知、然而若有可申上事者、爲之如何、猶申事由可被定奉行之人歟之由、昨日示頭辨、頗有承諾之氣、未剋右中辨被來、<帶野剱、平緒、持笏、>示曰、禊祭藏人方事相兼可奉行之由、今朝有院宣、<少納言泰經奉行、近習者也、>前而辭申了、官方事奉行之上、勤仕御禊前駈之故也、若又奉行職事被定仰、又有任官事者、明日々次宜云云、今日定可思案歟者、予答曰、前駈定事奉行職事雖未定有何妨哉、若明日有任官事、兩日出仕雖可有其煩、毎事下知了、猶今日可定申也者、仍右中辨參本院了、辨出之間覺悟、付定輔朝臣被返上覆奏文、<齋院司申禊祭料雜物事也、昨日相加内藏寮申祭幣料、藏人源仲盛於禁裏所下也、>相次予參本院、<用毛車、>入東門<大宮面平門也、可用南歟、然而近例如此云々、>并内鳥居、<東向鳥居也、>辨并左大史中原信時降立客殿巽庭、<辨西、史東、其間二許丈、已上北面、>予當史前程下裾、<雜色留鳥居外、>西行當辨南向相揖、西進經客殿北、至于西第一間北砌下揖、昇沓脱、々沓懸膝昇長押、着西庇北茵、次辨史着南庇座、<外記座雖相儲不參、>

 客殿圖(図解)

次長官散位(源)有房、次官元定、<五位、>某、<六位、>判官某着東庇座、<長官以下頗遲着、予示辨令催之、>座前兼各居饌、<内府仰云、先着殿上、經南庭出門着客殿、退出時東行者、而下給次第無其儀、又強無用事歟、若早參之時、客殿裝遲々者、所爲如此歟、隨宜今日直着客殿了、>
次一獻、長官勸盃、<常盃也、大土器下重耳土器、>次官取瓶子、<土瓶、>經庇來予座上前方勸之、長官取次杓、予擬盃於辨、々起座來巽方、挿笏受之、<予不下座授之、>復座傳史、此間判官取次瓶子、史起座、經座前來辨前受之、復座止盃、<件盃巡行事辨有不審氣、傳盞之儀如何之由、史々申不知之由、可傳院司歟之由疑歟、予示曰、盃擬史、々止之歟、辨諾了、>
次可有定之由催之、次官<五位、>取例文、<盛柳筥、結付之、一巻出車定文、一巻出馬定文、長寛以後定文也、當院卜定以後歟、>經東北庇置予前、
次判官取硯、<居折敷加紙、>經南庇、置辨前、
次予取笏目辨、次辨摺墨巻紙、伺予氣色、<染筆伺之、>
次予披出車例文與奪之、<先讀上瑞一行也、今年可入定文人々辨書風聞持之、件注文立紙、予兼日入此内、而依奉上卿可被改定之由、兼示辨、仍改入源宰相也、件注文書改可令加例文之由、辨仰史、々令史生書之、而早以遣例文之後、史生令辨侍付史、予曰、爲同事、只召取可被書入也者、仍辨召之、史生取之自座後進、辨令書之、辨示其旨、予示奥状等、>
定文書樣
 可被出禊祭兩日檳榔毛車六兩事、
 源大納言(源雅通)家、
 右衛門督(平重盛)家、
 源宰相(源資賢)家、
 大宮權大夫(藤原俊盛)家、
 左大辨(源雅頼)家、
 右大辨(藤原実綱)家、
  車副各六人、<可着冠、>
   褐衣袴布帶自院可受、
  仁安二年四月九日
書樣如此、右大辨雖四位、書樣無差列也、布帶下<爾>先々皆書等字、今度不書之、依無強用不問子細、又見先々定文、院字或闕字、去年頭辨(平)信範所書之定文、(藤原)家明<ヲ>從三位家<ト><テ>、注<ニ><ト>書、先々書藤三位、可尋、又(藤原)顯長(藤原)資長卿共書權中納言<テ>、注<爾>顯、又資<ト>注、行隆書時六兩事三字次行引下書之、依字大也、自余皆一行書之、
次辨又巻紙氣色、
次予披出馬例文與奪之、<其儀如出車、>
 書樣
  可被勞祭日童女騎馬四疋事、
   讃岐守朝臣、
   土佐守朝臣、
   備前守朝臣、
   ヽヽ守朝臣、
    陪從各二人、  口付各二人、
     可副菅笠雨衣深沓等、
    仁安二年四月九日
書樣如此、皆雖五位書朝臣字、是皆殿上受領也、先々書樣皆如此、但朝方卿書時口付<テ><ニ>書、其理不可然歟、
次書了辨取副定文二通於笏、經南西庇<加受盃路、>持來之、<去年(平)信範朝臣撤硯盛折敷云々、>予取之披見之、
次予取笏目長官、々々來予前、<置笏於本座、爲奇、>
次予定文并例文授長官、仰可被催之由、長官取之復座下之、<主典歟、可尋、>此事予失也、今度定文許可授長官、於例文者召次官可令撤也、至愚也、
次判官撤硯、
次二獻、汁居、可下箸也、予示合辨曰、可有二獻歟、辨曰、近代只一獻歟、仍予起座、
此間長官以下降立北屏下、<西上南面、>史又立前所、辨不列屋南方微行、予正笏東行、於屏東邊取裾、於東門乘車、於此所史信時來曰、大夫司可進此宣旨之由申者、予取披見、可奉行禊祭宣旨也、
書樣
  權中納言藤原朝臣忠親、
右中辨藤原朝臣長方傳宣、權中納言藤原朝臣實國宣、奉勅、中納言藤原朝臣實房辭退替、宣令件人■賀茂齋院禊祭事者、
  仁安二年四月九日
<修理左宮城判官左大史兼備前權介>小槻宿禰隆職<奉>
宣下之後須行諸事也、然而如此卒爾非仰事不可守株、仍所定行也、此文不可返給歟、而思渡返史了、其後夜陰又持來里亭、仍留文返筥了、
次參内、<五條殿、>依可有前駈定也、昨日奉仰之後、今日可有定之由、書消息示告大外記(清原)頼業眞人、又前駈注文頭辨渡右中辨云々、仍可渡觸外記歟之由、昨日示送彼辨、仰外記云々、然而此事以辨不可傳、仍直又所仰大外記也、先着奥座、六角宰相(藤原家通)相次着座、件人禊祭宰相也、次予令官人召藏人、々々左兵衛尉橘親長來、予申云、前駈定候、
次藏人奏聞、返來仰聞食之由、予微音唯、
次着端座、<予扇忘置車、密乞取相公扇、爲直沓也、件人無内外之故也、於他人不可然、以笏可直也、>召官令敷膝突、便仰云、外記召<セ>
次少外記中原師高跪小庭、予仰云、例文、<レイフミト召也、是内府仰也、或又レイモント召、>硯、外記稱唯退出、
次師高持例文筥置予前、<武官補任帳一巻、是爲例見前駈衛府等歟、例文一巻仁平以後定文也、四府并左右寮差文等重巻之、一巻代官注文一通等也、>
次權少外記大江景良持硯置參議座前、<當時座前、仍予示之令置第一宰相座程、>
次予目宰相、々々着第一座、
次宰相氣色、予目之、宰相摺墨巻紙、取副笏氣色、予目之令書、
次予取例文讀上之、取差文又讀上、其人令書之、書様、<一通書連之、>
 賀茂齋内親王(式子)禊日、
  前駈、
   左衛門權佐藤原朝臣長方、
   刑部大輔藤原朝臣憲實、
   對馬守高階朝臣俊成、
   佐渡守藤原朝臣重頼、
   左衛門少尉中原清教、
   右衛門少尉藤原友實、
   左衛門尉紀宗時、
   右兵衛尉藤原遠平、
  次第使、
   左馬權助源仲房、
   右馬允ヽヽヽヽ
    仁安二年四月九日
件代官文注文<ニ>書其人、傍<ニ>其佐代<ト>注也、仍次第令書也、先々定文披見之處、不論位階、從下五位<ヲモ>爲右衛門佐者、正下五位<ノ(右傍書)>左兵衛佐上<ニ>書也、
書了宰相持來定文於予前、予取之披見、宰相歸座、次例文以下文書皆取之置帖上、<筥奥方、>留定文許、令官人召外記、次外記師高跪小庭、予目之、外記着膝突給筥、仰云、内覽、外記取之<不唯、可尋、>持參攝政(松殿基房)御直廬、<五條坊門高倉陣中也、>頃之返來返上之、
次令官人召外記、權少外記景良跪小庭、予目之、景良着膝突、予如元加入例文等於定文下給之、仰云、令催<ヨ>、次外記取重宰相座硯於例文退入、<外記退之時予且示仰其由於外記、>
次召官人令撤膝突、先是宰相復本座、
次予退出之間、於陣腋持來頭辨消息、披見之處、前駈定明日可被行之由、有御氣色、件次可有除目者、此事如何、猶藏人方事奉行歟、前駈事定申了、於今者勿論、但爲被行除目明日之由被命歟、愚案如此、仍明夕可參陣之由申了、退出之間、於四條烏丸邊、見巽方有火、春日京極縫殿頭賀茂宣憲朝臣宅云々、
自今日立札潔齋、後日尋申、被仰云、或自朔日潔齋、不獻灌佛布施、是全不可然之由、故宇治左府被命、或自如前駈定潔齋、或自御禊日齋、我付宇治左府命、自御禊日齋之、予又雖付彼御説、今更難止之、未案得之間、猶自奉日齋之、又被仰云、佛經月水等他屋不可憚、又如腰護不可撤、予無此仰以前佛經送隣宅、又出月水女了、

『兵範記』
 參院門、禊祭供奉官未被任事、奏外記申状等、即爲御使參殿下、次歸參院、申御返事、
<禊祭、(右傍書)>
今日禊祭、上卿新中納言(中山)忠親、右中辨(藤原)長方參齋院(式子)、定申出車事、次參内申行御禊前駈事、參議(藤原)家通朝臣執筆云々、
但出車定辨書之、仍參議者不參本院、
山槐記
兵範記
仁安2年
(1167)
4月10日 【斎院(式子)御禊・賀茂祭除目】
『山槐記』
 天晴、可被行祭除目、<去夕頭權右中辨(平)信範示送參陣之由、>仍秉燭之後參陣、六角宰相<(藤原)家通、>同着、<座半許并宰相座前有掌燈、大臣參陣之時有三燈、又主殿寮立明云々、今夜無立明、>丑剋<于時鐘對、>頭辨(平信範)來奥座、下折紙申文等、<先下折紙、次自懷中取出申文下之、廿三通、無裏紙懸紙、以紙捻結之、予結之了後又自懷中取出申文三通下之、巻籠一懸紙、止位記辭書讓功等也、愚案、申文等不可懷中、空手出陣、自懷中取出種々文不甘心、於折紙者爲備忘物也、尤不可出現、於申文者雖多々持手可出也、又先下折紙不可然歟、先下申文後可下折紙歟、定有彼家習歟、>予頗居直座下方、置笏於左方、披見折紙、懷中之下申文、又解紙捻結申文一通、如元結之、又申文<辭書等也、見上、>解結緒展之、其上披懸紙、次第結之、奉仰詞、如元巻之結之後、申文等置座前方、如元向端<後日内府(藤原忠雅)被御云、猶雖多々可取副笏也、(右傍書)>座方、取副申文於笏楫<除目申文太多、仍懷中之、被後下申文許取副之也、但無他申文者、雖除目申文多可取加笏也、>起座着端座、々[令?]敷軾、召外記、少外記中原師澄跪小庭、<内府被仰云、紙ト召何事之有哉、但折堺ト可召也、(右傍書)>仰云、硯紙、外記取硯<入折堺紙、>置宰相座、予目相公、相公着第一座、予目相公、々々來、予授申文折紙等、相公書除目、置申文於硯前外方、<先摺墨染筆置之、巻返紙取副笏氣色、予目相公、置紙撰置申文一兩置硯右方、披申文一通讀上小伏、予曰、乍披申文置硯左方、書除目、鉤申文、副硯筥置左方、讀上之、此後只守折紙書之、>此間大外記(清原)頼業、大夫史(小槻)隆●密來宰相座後、見折紙退歸、於宣仁門代邊頼業眞人云、<件勘文或上卿召之云々、(右傍書)>史可有轉任歟、此事宰相取上卿氣色可召勘文也、又予存知、且可示宰相也、而臨其時忘却、至愚也、頼業内々不見折紙者有後煩歟、自今以後必可覺悟事也、仍相公召外記、々々師澄參相公後、召轉任勘文、即持參之、召大外記、々々々頼業着軾、下左馬允源季經辭書、從五位下藤親行止位記申文、<二通文籠一禮紙、仰親行去正月敍爵、令下名之後歴數月止位記、今度始例也、彼申文所載之例者、左兵衛尉忠清等也、件忠清七日節會被止之、是先例未曾有事歟、>頼業挿笏給之、抜笏取副之、<外記不結文云々、但師元尚結之、>仍予仰云、左馬允源季經辭申所帶官、<又被仰云、雖不結、只仰詞許可仰歟、(右傍書)>藤親行被止位記、各依請、頼業稱唯退入、<又被仰云、下官文ニ可加懸紙、是故中院入道右府説也、(右傍書)>次召辨、頭辨着軾、予下以大江國時兵衛尉功讓平盛業申文、<無禮紙、頭辨下之時巻籠辭書禮紙下之、仍無禮紙也、>辨結之、予仰云、依請、辨稱唯退入了、相公書了除目之後、整成柄等、予示曰、已及曉天了、内覽之間可被整、先可給除目也、仍相公持來、予取之置座前取笏、相公復座、此後予披見除目、<須先披見其後取笏令復座宰相也、然而存省略早々令復座也、>以中宮職書皇太后宮職上、予示此旨返授相公、<有起座之煩之上、依其程近突遣之、不可爲例、便省略也、>相公召外記師澄、令切續之書改、々々書[畢?]先挿懷中、此間又成柄整了、<以本紙捻結之、直結其上引墨、此後相公談曰、猶可用他紙捻歟、此紙捻續目不捻續之故也、又成柄一度ニ皆鉤了、差加轉任勘文突點、>相加除目授予了復座、予召外記、々々師澄跪小庭、予仰云、筥、<是如儀也、但令官人外記筥可持參之由仰、猶如此、及曉天之時可用件儀歟、>師澄進筥、予巻任式<爾>兵并敍位等<ヲ>巻籠、<無禮紙、>賜師澄、仰云、封、師澄自懷中取出紙捻小刀、眞結切紙捻末、了又自懷中取出筆、取加除目進之、予取之、結目<ニ>引墨、入筥返給筆於外記、又取筥給外記、仰云、内覽、<攝政坐外直廬也、雖自陣口内、依爲門外令封之、是内府仰也、>頃之持歸之、置予前、予取除目給外記、令解封、外記解之、取副三通返上、予取之、又入筥給外記、々々取之立小庭、予起座、就御所付藏人左兵衛尉橘親長、<相尋頭辨、早以退出云云、又他職事不候也、>予挿笏、外記跪進筥、予取之付藏人、即返給、予又挿笏、取筥返給外記、復座、外記置筥於予前退入、予又召外記、々々師澄跪小庭、予仰云、式<ノ>省兵省(右傍書:ツカサツハモノ、ツカサ)<ヤ><フ>、外記申云、式省候<フ>、兵省録(右傍書:サウクワン)陣外<ニ>候、予不仰左右、外記稱唯退出、即又師澄跪小庭、只伺予氣色、更無申事、予仰云、可有三度事也、師澄不存歟、申云、三度申<ト>問予、々示可申之由、只退入了、又參入無申事、云々[予?]曰、式省兵省候由可申也、而又只稱唯退入了、總不存歟、凡三度申作法、初度外記依召跪小庭、上卿仰云、式省兵省<ヤ><フ>、外記稱唯退入、第二度外記參上申云、式省兵省候<フ>、上卿仰云、令候<ヨ>、外記稱唯退入了、第三度外記參上申云、式省兵省候<フ>、上卿仰云、召<セ>、已上三度申予所存也、此事又有説々、初度上卿云、式省兵省<ハ><ヤ>、外記申云、式省兵省候<フ>、上卿目、外記唯退、次外記又申候之由、上卿無答、又外記申候之由、上卿仰云、召<セ>、此説一也、又上卿毎度仰云、召<セ>云々、是又一説也、又初度問、外■[記?]三度申也云々、雖有説々、未知今夜外記作法者也、次予奥方居筥、成柄二同引寄前方、此後式部丞參入立小庭、入宣仁門代之間、予取文官除目副笏<内府被仰云、次第所書如此、自袖外目尻ニ見下テ宛テ可下云々、(右傍書)>持之、予問云、誰<曾、>式部丞稱名、<依爲夜陰問之也、>予仰云、<マウコ、依一省參如此召也、兩省參之時、式省ト可召也、>式部丞稱唯着軾、予以右手取文首三寸許、自右腋下微々給之、<笏當胸不搖之、>式部丞給之立本所、予仰云、<マケタベ、>式省退出、不唯如何、此後予居直座下方、引寄筥召外記、入武官除目許於筥下給之、<兵部丞不參、仍傳給録也、>次召内記下給敍位、令撤膝突、此次成柄令官人賜從者、退出歸家之間天晴、(後略)

『兵範記』
 依召參院門、可被行小除目事、奉仰豫仰官外記、又告申禊祭上宰相、任人事等注申文目録、先覽殿下(摂政松殿基房)、次奏院(後白河)、有御點事等、又注折紙申定了、其中可勤祭使之左馬助長[以下欠文]
 左馬少允藤原爲信、
 齋院判官源範澄、      權判官源久盛、
 山城權守藤原邦康、<臨時内給、> 介大江久兼、<史、>
 肥後權守藤原宗長、<臨時内給>
 武藏介中原盛實、<同、>
敍位、
 從四位平信範、<臨時、>
 從五位下大江景良、<外記、>  大江久兼、
今夕大神祭使立如例、

●=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源))
山槐記
兵範記
愚昧記
顕広王記
仁安2年
(1167)
4月14日 【觸穢により、賀茂祭・御禊を延引】
『山槐記』
(4月14日条)
 去月廿三日夜院中<法住寺殿、>有卅日穢、天下不可混合之由、雖被仰下、觸穢之輩十之及八九、依有其疑、於藏人所有御卜、藏人右衛門權佐(吉田)經房奉仰問之云々、時晴來申此旨、卜形書取之、
院中有穢氣、觸來内裏否、并被行賀茂祭如何、
右今辛巳、時加午、功曹臨子爲用、將大裳、中天岡、大陰、終勝光、天<○一缺歟、>
御行年已[之?]上小吉●▲、卦遇嵩矢、
 推之穢氣觸來内裏、被行賀茂祭不吉乎、
  仁安二年四月十四日
          陰陽博士賀茂朝臣濟憲
          主税助 安部朝臣時晴
          陰陽頭 賀茂朝臣在憲
未刻參内府(藤原忠雅)、藏人權佐送書曰、禊祭延引了者、後聞、賀茂祭中山祭下酉日、日吉祭下申日、吉田祭擇吉日可行之由、藏人權佐書口宣、向左大臣(藤原経宗)亭下云々、
(4月15日条)
 依穢御禊延引、子細昨日記、
(4月18日条)
 依穢賀茂祭延引、子細見去十三日記、

『兵範記』
(4月14日条)
 院中穢氣殊被誡仰、去朝平野梅宮祭等、守式日被行了、近日天下風已有不浄疑、禊祭難被行之由議定出來、藏人右衛門<(吉田)經房(右傍書)>權佐奉仰、禊祭<藏人所御卜、(右傍書)>延否尋問先例於外記、依不分明、於藏人所被行御占、陰陽頭(賀茂)在憲朝臣以下兩三人參入、推申不浄由、仍御占趣内覽攝政殿(松殿基房)、次奏院、可延引由有仰、即<(藤原)經宗(右傍書)>左府、宣下禊祭可延引由、左府召大外記(清原)頼業眞人被仰下云々、
(4月15日条)
<賀茂祭延引例事、(右傍書)>
 御禊延引來二十七日云々、參院、於門外、如日來先奏事、可參上由伺御氣色之處、仰云、依不浄疑被行御占、依其趣雖延禊祭、至于内裏院中混合者、猶憚思食、不可參入者、仍不昇堂上、歸參殿下、申此旨、又参内披露了、
(4月18日条)
 不出仕、賀茂祭延引日也、

『愚昧記』
 禊祭延引云々

『顕広王記』
(4月15日条)
 依穢気賀茂祭被仰下延引用下酉日之由、仍斎院(式子)御禊延引、

●=螣(架空の蛇。こちらを参照(字源))
▲=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
「螣虵」=騰蛇(とうだ)。中国の伝説上の蛇。
山槐記
兵範記
愚昧記
顕広王記
仁安2年
(1167)
4月27日 【斎院(式子)御禊】
『山槐記』
 今日斎院御禊也、<去十五日中午日也、而去月廿三日夜、乞食參宿法住寺院御所死去、後朝見付之、件穢不混合世間、仍被行平野梅宮等祭了、其後穢氣自然遍滿、猶依有其疑、去十四日於藏人所被行脚卜、申不吉之由、仍今日所被行也、>午終剋沐浴解除、參齋院(式子)<申請内府(藤原忠雅)御車乘之、去二月任大臣之時被新調車也、雜色十二人、牛飼青仁上下●冬衣、車副二人、賜裝束立烏帽子也、>入東面門、經北方鳥居着殿上、于時無人、招六位次官某相尋之處、申云、長官未參、(三善)康光<太皇太后宮屬也、齋院(式子)年預云々、>依女子死去候門外者、<後長官(源)有房云、康光女先年不孝了、明法申不可有服之由云々、然而猶不可參入之由、院中有沙汰者、>可觸遣長官之許之由仰次官、頃之六角宰相<(藤原)家通事也、>參入、同候殿上、相次又長官參入、示毎事可被催行之由、行事辨(藤原)長方<藏人右中辨左衛門權佐也、>早旦參上、早以退出在騎馬所、<一條北大宮西、式部大輔(藤原)永範朝臣宅、>依勤前駈不可候客亭座之由、兼所觸予也、未終剋着客殿座、<于時見日景、客殿西第一間第二板有日景、>起殿上、出西方障子、經東屋西縁、於南妻着沓、<仰召使令脱沓於此所、召使欲置沓縁上、予令置地上着之、神殿方當眼敬也、>出中門、<或出入東屏戸、先日申内府、可出入中門之由被仰、仍用之、>於客殿北面第一間沓脱下揖、昇沓脱々沓、懸膝於長押昇板敷上、徐歩立予座上、此間宰相經予座後着座、予又居座、是故實也、件座逼軟障敷之、仍上卿先居定者、參議經其後太無便宜之故也、權少外記物部宗言、左大史中原信時着座、院司等遲着、仍令召使催之、又前駈參否問外記、皆申候列見邊由、近代不參本院也、此間外記太未練、似無成敗、良久長官以下着座、
次一獻、長官取盃、次官元定<五位、>取瓶子、予盃傳宰相、々々留盃於座下、<件盃可傳辨也、而辨不着座、爲之如何之由相公示予、々答先例不詳之由、相公曰、直傳外記頗凡歟、予答曰、有猶豫者、只被留座下、何事之有哉者、>

(図解あり)

次欲勸二獻、予示止之、
次本院事具否由問長官、答具之由、
次示長官令引牛、<御車牛一頭牛童引之、肥牛十頭史小童部等引之、二三車遲々、仍且令引也、此間又二車牛將來、先々強雖滿員數、且令引云々、>入東鳥居、經客殿南西、自北引出東鳥居了、<長官曰、三匝可引歟、予示一廻之由、>
次屐子糸鞋出中門之東方屏戸、經客殿北方西行、廻南方出東鳥居了、<此事有不審、近年之儀相尋之處、屐子牛皆經客殿北方西行、廻南方云々、申内府之處、共經南方西行之由覺悟之旨被仰、予雖 見舊記、未見出此儀、仍只可隨先例之由、示長官、於牛者經南方西行、屐子同欲進行之間、六位次官某申云、於牛如此、至于屐子等先々經北庭東行也者、予慥不覺悟、仍只可隨先例之由仰了、猶々可尋、又可勘見也、但巡逆兩端、猶不甘心、如牛可令廻歟、又糸鞋先出來、予示長官曰、屐子先可渡歟、長官承諾遂返了、屐子出來之間、傳官人等出來、猶扶絲鞋先可渡之由申、是可候一御車後也云々、此事如何、屐子糸鞋共可候也、又下仕遲參、未及成敗之間、群集走渡了、事可及遲々、仍強不仰、抑糸鞋等欲渡之間、傳官人等來長官座後、訴申云、不下給雨具、仍難罷渡者、仍抑留不令渡之、予問子細於長官、申旨如此、予問云、件事院家沙汰歟、然者早可有沙汰之由、先被仰含、速可罷渡之由可被仰也者、長官仰其旨、仍官人等扶持之、笠一未下云々、>此後外記史起座、雜人等走昇客殿、奪取饗饌、太狼藉、次官等云、先々無如此事、上卿起座之後昇云々、無人禁遏、爲之如何、次早可被寄御車之由示長官、々々以下起座、次予起座、<於溜下揖之時相公揖起座、>入中門立南庭東邊、<遣水西、相公同列此所、北上西面也、辨外記史可立遣水東、然而各兼向列見了、>先是令立御車於南庭、<兼在中門、>右衛門督、<(滋野井)實國、束帶劔笏、相具隨身、駕網代、>自殿上方參進、寄御車、衣冠廳官兩三候御車邊、又御車副等寄之、予問廳官云、廳官不付轅如何、答曰、乘御之時付也、予曰、被寄御車已乘御之儀也、御車副付轅太凡也者、仍廳官等付之、被立御屏風之間、予出中門并東門、向列見、相公從、于時申剋、次立車於列見、<一條大路北方行、堀河西季利堂門前也、頗向坤方、放牛立榻、不解歟、簾可巻哉否先日申内府、被仰云、可巻也、更[「不」脱?]可下事也、或云、宰相車過前之後上之云々、然而今日隨内府仰了、>召使等來車邊、宰相經予車前立東方、次々第使馬助<左馬助源仲房也、>可立猪熊辻、<一条南猪熊東也、>而未參、令召使相尋之處、不知在所云々、寮馬部等雖候近邊、申不知之由、件馬助隨身私相具、不召具馬部、仍馬部等有怨怒之氣云々、又令召使仰外記尋之、在齋院南邊、已遣召了云々、其後良久不參、仍且令催渡之、
先辨車、<或曰、勤前駈之時渡彼列云々、不切物見黒鞦、今日外記前渡了、牛童赤色●冬衣、黒牛、賜院(後白河)御牛云々、仍裝束不守法歟、>
次外記車、
次史車、<史侍遲來、一町餘渡之後追來、>
次可渡前駈車也、而今日無渡之人、
次左右京兵士、職掌、史生、屬等、左右近又各一人、
次御禊物、<前掃二人、冠退紅、着半比下重藁脛巾等、又着千波也、持須枝、又着烏帽子者退紅仕丁一人荷外居、>
次宮主、
次左衛門權佐(藤原)長方、<藏人右中辨也、即行事辨也、日景欲暮、仍不論次第先渡了、>螺鈿細劔、馬、<自院給、相具居飼、>(後白河)御隨身左府生秦兼國相副、<虫襖、紅打付布帶、>
次辨侍、<立南方、持笏之扇、>
次御藏人小舎人宗時、<立北方、>
次門部随身二人、<褐壺脛巾、>
次随身二人、<蠻繪青朽葉半比下重、萌木末濃袴、藁脛巾、縹懸緒、負胡◆、>
次看督長四人、次火丁二人、
次雜色六人、<白張、>次取物四人、<槿淺黄雨衣、熊皮行騰、淺沓、菅笠、>
 檜笠八本、着白當色八人人取之、副路北、是看督長等料也、(秦)兼國馬令引之、又門部随身馬欲引、侍出來止之、猶不拘之引了、今一疋猶止之、
此間馬寮車渡、<或前行、或▲末可渡也、>
次左兵衛尉藤宗言、<有取物、毎事華美、>
 右兵衛尉某遲參、仍且令催渡了、右衛門尉渡之間右兵衛自傍前行、
次右衛門尉藤ゝゝ<不具雜色、>
次左衛門尉大江清教、<有雜色無取物、>
次右兵衛佐代宮内少輔重頼、<佐渡守也、相具童許、但着白張雜色三人遙在後、>
次左兵衛佐代刑部大輔憲實、<相具童許、>
次右衛門佐代對馬守(高階)俊成、<相具童許、已上蘇芳綾手綱、>
次々第使左馬助仲房、
次所衆四人、<代始二人、雜色四人云々、可尋、>
次雜色二人、
次長官、
次御車、<此間下予車簾、又取榻令置鎭木於地、令過給了後又立榻、>
次次官以下、御辛▼など、
次女別當車、
次宣旨車、
次次第使馬允、
次出車六兩、<女房五兩、童女一兩、>
次字猪隈歸亭、於近衛堀河擧松明、(後略)

『兵範記』
 巳剋參院、奏法勝寺卅講事、次參内、<齋院御禊、(右傍書)>今日御禊也、先是主上(六条天皇)出御晝御座、<垂南庇御簾、第三間御簾中敷大庄子圓座、爲御座、>春宮(憲仁親王)<邦綱(右傍書)>權大夫候簀子、有斎院(式子)牛御覽事、一車料攝政(松殿基房)牛出納引之、山城近江兩牛各五頭、小舎人率、<牛御覽事、(右傍書)>御覽了奉本院了、下官遲參之間、主上出御上覽之、行事藏人行事云々、
 此間所前駈等遲參、再三蒙催、申剋參着藏人所、賜懷紙了、次主上出御、下官候第二間簀子、次前駈雜色藤原宗基、同俊宗、非雜色藤高經、平盛親、宮道隆重、紀重行、<各着白重巡行帶、濃裝束淺黄、>候西中門、下官行事、(藤原)光能召之、次六人引据參進、列居前庭、東上北面、<大内儀、自瀧口戸參入里内、隨便宜也、>次下官仰云、南罷向、御覽事了本向北、次仰云、取御馬參來、前驅等退歸、取御馬參入、<此度懸裾尻前等、>一兩廻之後、仰云、罷乘、<第一御馬到御前之間仰之、>雜色以下、於御前騎之、但沛物引寄中門、付馬部乘之、頗非例也、五六廻之後仰云、罷下、次下了前駈退出、早可令參本院由仰含了、次主上入御、下官退去、行事藏人前文章得業生藤原光能<着青色、>爲扇使參本院如例、次歸參行禁中事也、
今日垣下、
 侍従俊光朝臣、  備後守雅隆朝臣、
 讃岐守季能、   備前守隆成、
 藏人(藤原)光能、  藤原邦兼、(後略)

『愚昧記』
 今日御禊也、為見物向一条大路、(藤原)朝宗・(平)親宗同車、申終外記■■渡如常、弁(藤原)長方也、而依為前駈騎馬渡、行列外記・史後、前駈等前也、今日前駈等左衛門佐(平信基)外皆以代官、如何々々

『顕広王記』
 斎院(式子)御禊也、行事右中弁(藤原)長方、兼左衛門権督也、渡車、次左右京職、次左衛門権佐、依為行事弁所渡前陣歟、自余三佐皆用代也、右兵[衛脱?]代左馬守(藤原)重頼、左兵衛佐対馬守(藤原)俊成、右衛門佐代ヽヽ、院御随身府生(秦)兼国為★、

●=欵(款の異体字。こちらを参照(字源))
「欵冬」=款冬(やまぶき)。
◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▲=㝡(最の異体字。こちらを参照(字源))
▼=樻(櫃の異体字。こちらを参照(字源))
「辛樻(からびつ)」=唐櫃。衣類等を納める蓋つきの箱。
★=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
山槐記
兵範記
玉葉
愚昧記
顕広王記
仁安2年
(1167)
4月30日 【賀茂祭】
『山槐記』
 天陰、巳剋以後甚雨、今日賀茂祭也、<中酉依穢延引、子細見御禊記、>已終剋沐浴解除參齋院(式子)<車副以他車副令差笠、>候殿上、六角宰相(藤原家通)兼在此所、頃之右衛門督<(滋野井)實國、>爲御輿寄被參、被命曰、御禊日參河原、但還御之時不參本院、今夜可參下上并神館、又明日可參神館云々、長官(源有房)參入、其後着客亭<裝束如禊日、以前駈座爲使之座、今日又居粉熟、>座出南并小戸、内府(藤原忠雅)可出中門之由被仰、仍存其旨、而召使云、御輿安中門、無其所、仍用此戸、或又用此戸云々、後見中門有出入路、如何、召使取笠、予懸裾、至于溜下揖、昇沓脱下裾、着辨座、<辨依警固巻纓、康和三年顯隆巻之、次年(藤原)爲房諷諫垂之、依有信時範巻之、依彼例巻之、而參結政人垂之、奉使之人又垂之、參入神社之人以之以案可垂之由爲房示云々、不隨先祖案如何、>外記史兼在座、予着座之間下立南庭、令催着院司、檢非違使等不見、雖有一獻、示合辨止之、依雨餝馬屐子絲鞋不覽、御禊日者雖雨下牛許御覽之、與辨相議止了、予間使々參否於外記■[申?]皆候列見之由、<實者不候歟如何、>又問本院事具否於長官、答曰、大略具了、但出車一兩未參、予示曰、隨參入早可被寄也、其間定參會歟、又予示曰、於今者出車且被寄歟、早申事由可被寄御輿也、其間定駕了歟、日景漸下、早可罷向列見、於彼所又可及數剋、其間少々遲怠事可被催具也者、仍長官參御所、予起座、於溜下懸裾入中門、立東屋南庇、北上西面、相公從、辨入東小戸、有後列、外記史早以向列見了、列予後可向歟、早可寄御輿之由、以召使下知之、歸來曰、未覆雨皮、示辨令召廳沙汰者、康光令尋之、駕輿丁等食物未下、仍抑留雨皮云々、康光譴責之、令覆寄御輿、此後予出中門向列見、先置辨乞請暇向列見了、次第使遲參、行事官渡之後出來、先辨<不出袖、依甚雨不可出歟之由、於本院有所示、牛飼着檜笠、辨侍、御倉小舎人、府隨身二人、已上着白柄笠、看督長、召人、火丁二人差檜笠、白張雜色六人、南第一雜色持平胡◆張弓御禊日所相具之物等、止蠻繪隨身看督長今二人取物等也、>於予車前抑車、令召使早可被過之由示之、次外記、次史、<今日改牛、>次看督長、<早可渡之由令仰、申云、檢非違使雖一人以打出渡也、>次檢非違使、<府生季光、於予車前留馬、早可渡之由以笏示之、仍過了、先例廷尉下馬也、然而近代無其儀云々、>此後更不存行列、依甚雨使々供奉諸司懈怠、相待次第者可及深更、且院御棧敷<密々渡御修理大夫頼盛朝臣棧敷云々、>早可令渡之由有御使、<召使、>仍隨出來列見、且云々催次第使了、而寮使、兵衛使、内藏使、車、騎兵、春宮(憲仁親王)使、中宮(藤原育子)使、此間又檢非違使一兩相交、凡行列散々、無例事、
近衛使右少將(藤原)光能
 ▼、<左府生秦頼文、院御隨身、右府生秦兼仲、大將殿御隨身、>
 引馬▼、<左番長秦公景、院、右番長中臣近文、> 中宮使權亮國雅朝臣、
 ▼、<左府生中臣季近、右府生秦兼清、>
 引馬、<左番長下毛野敦景、右番長ゝゝゝゝ武成子、已上四人攝政(松殿基房)御隨身也、>
春宮使(平)教盛朝臣、<車不見如何、>
 ▼、<左將曹秦兼頼、右府生秦兼國、已上院、>
引馬、<左府生秦兼成(太政大臣隨身)、右府生下毛野敦經(左大將隨身)、>
馬寮使能賢、
内藏寮使貞經、
山城介久兼、
長官(源)有房、有手振取物等、
秉燭齋王(式子)渡御、女使車過了、予自大宮歸亭、

『兵範記』
 自晨甚雨、賀茂祭也、去十九日院中觸穢、天下流風有不浄疑、被行脚占之處、如案推申、仍被延行今日也、蓋是先例云々、巳剋許凌甚雨、先參殿下(摂政松殿基房)、申定今日禁中儀、仰云、不當御物忌者、近衛使御前召常事也、所前駈御覽如禊日歟、其間事、任例可沙汰行、聊有御恙、不可令參内給者、即參内、此間所前駈六人參集、行事出納給懷紙、<白薄様一、>
内藏寮使助定經參入、就内侍所奏聞事由、次召<内侍賜宣命事、(右傍書)>御湯殿方、内侍給宣命、次向列見、
<祭宣命奏、(右傍書)>
 件宣命、去夕内記付内侍所先例也、而今度今朝内記持參殿上口、付藏人獻内侍、是又近例云々、猶前夕可奉内侍所也、
近衛府使右少將(藤原)光能參内、徘徊西中門、哥人發者聲、次下官奏事由、此間、西廊南弘庇敷菅圓座爲使座、<擬長橋也、極無便宜歟、>御殿南庇西向戸開之垂簾、次主上出御簾中、次下官召使、々參着圓座、次居肴物、<藏人頭勸盃例、(右傍書)><衝重二前、無飯、藏人邦兼、非藏人貞光役之、>次下官勸盃、藏人親長取瓶子、<五位藏人可勸盃也、而(吉田)遲參、他人不候之上、保延年中頭中將(藤原)季成勸之、已近例也、>此間、陪從於中門南掖發哥笛、舞人於中門砌舞求子、退入之間、下官於鬼間取紅打衣、進寄給使、々纒頭退去、於中門<晴日庭中、(右傍書)>邊拜舞、次率舞人陪從退出、渡五條面門前、准北陣也、此間甚雨如沃、次中宮(藤原育子)使權亮國雅朝臣參入、於御所西面有御禊、簾中敷小筵半帖、立廻五尺屏風、西釣屋中立案倚幣、敷宮主使等座、亮重家朝臣爲陪膳、權大進信國勤役、<即行事也、>宮主獻大麻、其儀次第如常、攝政(松殿基房)御牛、并兩國肥牛雖參陣頭、依甚雨不能御覽、加之禊日御覽了、仍任數直被獻齋院(式子)了、不可爲例歟、
雜色所衆雖參會西中門邊、同依雨不及御覽、直參向列見了、
 今日各着青色袍二藍半臂下襲等、
典侍以下女使參陣外、藏人與祿掛、<出納取之給女官也、>次發向、
近衛使、
 闕腋袍、 二藍半臂下襲、 瑩表袴、 巡方、 魚袋、 餝劔、 紫●平緒、
門部隨身二人、 蠻繪袍、 平胡◆、 朽葉末濃袴、 半臂下襲、 布帶、 黒劔、 藁脛巾、
馬副六人、緑衫狩襖袴、他事如常、
小舎人童六人、紗二藍狩襖袴、 紅打衵、結髪、
 付物忌、 着毛沓、 有傳舎人、
雜色六人萌木狩襖袴、 山吹打出衵
取物舎人四人同前、
手振十二人如例、<▲塵褐、二藍半臂下重、朽葉末濃袴、>
<故實甚雨日不渡車事、(右傍書)>
馬引馬不見、依甚雨歟、車同前、故實云、甚雨日不渡車云々、
中宮使、
 裝束如常、二藍半臂下襲、 巡方、<鴛通天、申殿下云々、>
 馬副八人、例褐衣、他事如例、
 雜色八人、萌木裏白狩襖、薄色出衵
 取物同前、 手振如常、
春宮(憲仁親王)使、亮(平)教盛朝臣、
右馬寮使、助藤原能資

『玉葉』
(4月30日条)
 賀茂祭也、近衛使少将(藤原)光能、東宮使亮(平)教盛朝臣云々、今日甚雨以外他、自右大将許、今年馬射々手闕如、御随身等催賜院以下、如此申請也、余答可相催之由了、
(5月1日条)
 賀茂還立也、上皇(後白河)密々幸紫野、有御見物云々、(後略)

『愚昧記』
 爲見祭向白川尼公棧敷、入道在其後、事〃如常、但近衛使(藤原光雅)・中宮(藤原育子)使(源国雅)渡車、又有取物等、如何、有不審、春宮(憲仁親王)使(平教盛)不渡、存式法歟、

『顕広王記』
 院(後白河)御見物賀茂祭也、巳時以後雨下、使右少将(藤原)光能・中宮使権亮(源)国雅・春宮亮(平)教盛也、蔵馬助等、
大雨終日不止、今日姫御前白地退出、家神祭也、公連所勤也、

●=緂(糸偏+炎。こちらを参照(字源))
◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▲=麴(麹の異体字。こちらを参照(字源))
▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
山槐記 仁安2年
(1167)
5月1日 【賀茂祭還立】
 天晴今日賀茂祭還也[立?]、(中略)
相尋別當<隆季、>之處、今日不及廣云々、仍不參、後聞内藏助貞經祭日落馬、仍今日不渡紫野云々、
兵範記
顕広王記
仁安2年
(1167)
11月3日 【斎院相嘗祭】
『兵範記』
 齋院相嘗云々、
式部大輔(藤原)永範朝臣注進准后御了名字、
書様、
 勘申、
  御名字事、
  專、
  盛、
右勘申如件、
 仁安二年<十一月三日、 式部大輔兼春宮(憲仁)學士藤原朝臣永範、>
持參院(後白河)、付右兵衛督奏覽了、可有議定云々、

『顕広王記』(※『伯家五代記』による)
 院(後白河)御見物、賀茂祭也、巳時以後雨下、使右少將(藤原)光頼、中宮使權亮(源)國雅、春宮亮(平)教盛也、
高倉天皇
史料 月日 記述
兵範記 仁安3年
(1168)
2月28日 【滝口大寄。斎内親王(式子)のこと】
(前略)今夕瀧口大寄事、兼日定日次并給人所々、被仰下名被獻名簿、今朝内覽、次奏院(後白河)、(中略)
  齋内親王(式子)與白川准后上下有議、親王可爲上由、
  大外記(清原)頼業眞人注申、公卿同議定畢、(後略)
兵範記 仁安3年
(1168)
4月6日 【斎院(式子)不替奉幣告、御禊前駈定】
(前略)今日右衛門督(藤原)實國卿參著仗座、進發齋院(式子)不替給由奉幣使、參議(藤原)家通朝臣書使定文、即爲使參向、左中辨(藤原)俊經朝臣奉行、下官申定仰上卿了、
俊經朝臣被聽昇殿、女叙位申文議定之間、家司可加職事座之故也、下官依院宣下之、次右衛門督(実国)被定申御禊前駈事、右兵衛督(平時忠)執筆、治部少輔奉行、
兵範記
愚昧記
餝抄
仁安3年
(1168)
4月15日 【斎院(式子)御禊】
『愚昧記』
「御禊(頭書)」
 昨日自殿示給云、今日(見せ消ち)明日有見物之志者、可來者、仍午刻許欲參仕之處、有遲參之命、即●參入、先是人〃多以參■■相乘予車向棧敷、左大弁以下多以扈從、(見せ消ち)此棧敷能登守(藤原)頼實所相儲也、獻種〃破子等、又盃酌一兩<巡(右傍書)>及申刻齋王(式子)渡給、行事弁左少弁重方、<八葉車、有物見、懸赤鞦、多是君達弁所爲也、但爲地下之間、依可混合上官等如此歟、>前駈右兵衛佐(平)保盛<蠻繪随身二人、不具雜色、依度〃勤仕歟、>・左兵衛(平)通盛<随身二人、小舎人童二人、雜色、<朽葉■■■青打出衣付轅、有取物等、■[一]院(後白河)左番長中臣近武爲◆、褐衣、反付款冬花、>>・右衛門權佐(藤原)盛隆 <院右府生泰頼文相副、褐衣、反付■■扇、門部、二人(見せ消ち)火長、二人■■■■雜色白襖、取物四人、薄花田、>右[左]衛門佐(平)信基、不具雜色、■ ■昨日奉仰云々、日來(左衛門)權佐(吉田)經房可勤仕之儀也、而<皇(右傍書)>(見せ消ち)后宮(藤原忻子)使依可闕如、俄勤仕云々、仍被催改也、

『兵範記』
 天晴、御禊、左衛門佐向騎馬所、下官依去夕勘氣、出行不存之間、大臣家牛、所前駈等御覽之間、藏人頭必候御前、而頭藏頭(平)教盛朝臣依兵衛佐(平)通盛前駈出立、不可參内云々、頭不候之條違例之由、號攝政仰、藏人少輔告送、無左右參入依有恐憚、内々啓皇太后宮(平滋子)、勘氣不重歟、是非罪過之故也、代始禁中儀違例不便之由有御返事、仍★參内、此間毎事集會藏人少輔行事、未剋主上出御、<垂南庇御簾、階當間敷大庄子圓座、此御馬御覽也、>此間教盛朝臣參入候第二間簀子、次牛御覽、攝政(松殿基房)御牛也、出納盛俊牽之、近江山城肥牛十頭、御藏小舎人十人著布袴引之、前庭三匝畢引出畢、各奉齋院畢、次雜色二人所衆四人參入、先帶御覽、次騎馬、其儀如例、此間下官退出、故被召藏頭、御氣色尚不快歟、爲恐蟄居畢、
上卿右衛門督(藤原)實國、 參議右兵衛督(平)時忠、
右少辨重方、<地下、>
  中八葉車、緋鞦、
  雜色白張白衣、
少外記中原宗尚、 右大史惟宗盛直、
前駈、
 左衛門佐信基、垂纓冠、闕腋袍、二藍半臂下襲、紅
  打衵、同張單、帷、巡方帶、木地螺鈿長劔、▲平緒、淺沓、院御馬、<葦毛、>沃懸地螺鈿鞍、小豹下鞍、連著鞦、泥障、<懸伏輪、>楝▲手綱、白差縄、<已上鞍皆入道大相國(平清盛)借給、>御厩舎人貞澤、二藍狩襖袴、山吹打衵、<不出、>青單衣、
居飼如常、
小舎人童二人、朽葉狩襖袴、青打衵、<不出、>生單衣、著藁沓、
門部随身二人、蠻繪袍、<熊文、>二藍半臂下襲、蘇芳末濃袴、濃打衵、同張單、布帶、藁脛巾、差鞭、紅打赤緒、<無文、>淺沓、
   依卒爾不具雜色、不調渡車、加之去已年整式法勤畢、
 尉平盛隆、
 右衛門権佐盛隆、 尉藤原重季、
 左兵衛佐通盛、 尉■■■
 右兵衛佐保盛、 尉源親■

『餝抄』
(下・御禊前駈車)
 仁安三四十五御禊。左兵衛佐(平)通盛車。透蝶。圓文。雜色車。付松藤水鳥。

●=忩(公+心。怱(いそぐ)の異体字。こちらを参照(字源))
◆=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
★=憗こちらを参照(字源))
▲=緂(糸偏+炎。こちらを参照(字源))
兵範記
愚昧記
百錬抄
餝抄
仁安3年
(1168)
4月18日 【賀茂祭】
『愚昧記』
「賀茂祭(頭書)」
 午刻參殿、即相乘予車令向棧敷、參仕人〃如一日、右大弁雖有招引不參、檢■[非]違使八人渡、皇「太」后宮(平滋子)使左衛門權佐(吉田)經房、亮・權亮等依故障■ ■勤仕之、●等、餝馬、<院右將曹秦兼頼、褐衣、襖袴、如常、付走馬、不置鞍、有指縄等、左府生同兼任、<候府、>裝束如先、付笙・横笛等、各相具袋、>引馬(見せ消ち)<黒地鞍、虎皮切付、不染、蘇芳鞦、無鞍覆、>●、<右府生秦兼清、<殿下随身、>冠褐衣、反上下、紅打衣、付胡◆杓、件杓<如(右傍書)>銀、脛巾(見せ消ち)以白堅文紗爲巾、左番長中臣■■[近武]、■白唐綾上下、付■師裝束等近衛使左近將(条範)■ ■、餝馬●、<左將曹中臣重近、如付風流、右府生秦頼文、<已上候院、>付龍王、>引馬<銀地鞍、青瑠瑠[璃]、雖置葵形、無鞍覆、>●、<左府生中臣末[季]■[近]、<院随身、>褐衣冠、普通(見せ消ち)引馬」「●」普通有衣冠也、着褐衣事不足言等閑事云々(以上見せ消ち)者閑等事云々、右番長秦公景、花田上下、付夾形、>馬寮使(源)仲房、不具手振・雜式等、猶可相具雜色歟、内[「蔵」脱]寮又如此、近衛使車唐墻・唐花・螺等也、兼又如此、頗似稻荷祭笠車、■中■雜色二藍、付唐花、

『兵範記』
 賀茂祭、山城介三善頼行、内藏助賀茂尚榮、近衛使左少將脩範朝臣、左馬助
皇太后宮權大進(吉田)經房、同女使權少進經仲出之、
中宮使少進(藤原)光能依本宮穢不渡之、

『百錬抄』
(六条天皇)
 賀茂祭也。
 皇后宮使藏人左衛門權佐兼(皇太后宮)大進(吉田)經房
  餝馬●<院右將曹秦兼頼<雖五位給將曹之條希代也>/同左府生秦兼國>
  引馬●<殿下右府生秦兼清<自院召給之>/院左番長中臣近武>
 近衛使左少將兼美濃守修範朝臣
  餝馬●<院左將曹中臣重近<無風流>/同右府生秦頼文>
  引馬●<殿下左府生中臣季近/院右番長秦公景>

『餝抄』
(下・賀茂祭使車)
 仁安三四十八太皇大后<(藤原)多子(右傍書)>使大進右衛門權佐(吉田)経房車。<不施風流。>近衛使右少將信範。<風流殊美麗。唐牆畫。付唐花。>

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
兵範記 仁安4年
[嘉応元年]
(1169)
2月12日 【舞人陪従装束のこと】
(前略)今日可分給舞人陪從裝束、西對代東庇副柱引亘打交綱、懸裝束、其儀如臨時祭、權大進(藤原)光雅●知之、自所々被獻舞人摺袴等、
 院御使別當中務權大輔(藤原)經家朝臣參入、摺袴入濃打裏、權大進光雅請取之、付女房進覽、即返給、懸其裝束、院司歸參、上西門院御使皇后宮亮師家、其儀同前、八條院高松院自掖被獻歟、
 白川殿御使兵部少輔信國、
 齋院(式子)御使讃岐守重季、
 攝政殿(松殿基房)、太政大臣(藤原忠雅)、右兵衛督(藤原)兼雅卿、右衛門督(平)時忠卿、
  已上十腰加各襲袴、紅五倍打重之、或三倍濃打袴、又五重六重、或淡泥、惣件袴色法、付金銀文、施黄丹繪、津加利并表差貫珠玉、用練糸、風流美難録筆端、(後略)

●=撿(こちらを参照(字源))
兵範記 仁安4年
[嘉応元年]
(1169)
4月6日 【斎院(式子)御禊前駈定】
(前略)次右兵衛督(藤原)兼雅卿被定申御禊前駈事、修理大夫成頼卿執筆、
 左衛門權佐(吉田)經房、 右衛門權佐盛隆、
 右[左?]兵衛佐季能、 右兵衛佐雅賢、
  此外尉并次第行列使不遑記録、(後略)
兵範記 嘉応元年
(1169)
4月14日 【斎院(式子)出車定】
(前略)右兵衛督(藤原兼雅)被參齋院了、今日可有出車定云々、(後略)
兵範記 嘉応元年
(1169)
4月20日 【斎院(式子)御禊。後白河上皇、高倉桟敷に臨幸】
 自依甚雨、御禊也、午剋許參内、攝政殿(松殿基房)御牛并山城近江國牛等儲陣頭、出納并御藏小舎人十人<布袴、>同候、前駈雜色二人所衆四人參入、先給懷紙、此間雨脚不止之上、頭中將(藤原実守)遲參、行事藏人奉仕御覽御裝束、<如御馬御覽、>待申彼參也、下官依非奉行、爲[向?]見物棧敷了、
藏人右衛門尉藤原親光隨身行事所扇等、參齋院(式子)、其儀如例云々、上皇(後白河)密々渡御權大納言高倉棧敷御見物、
行事官、
 上卿右兵衛督(藤原)兼雅、 參議右大辨(藤原)実綱卿、
 右中辨(藤原)長方朝臣、以下渡大路、
 中八葉車、<切物見、打立縁、>赤鞦黒黄牛、<私、>牛童、<私、>著虫色狩襖袴、山吹衵、黄單、例遣繩、
  辨侍貞時、<如例、>
  雜色八人、薄色裏白狩襖袴、黄衵、生單、
 少外記中原盛季、
 左大史三善尚光、
次車三兩渡、
 左衛門權佐、 讃岐兵衛佐、 土佐兵衛佐、
 右衛門權佐不渡、土佐兵衛佐車雖雨下不張筵、但牛童令末仕差笠、
 左衛門權佐(吉田)經房、<五位藏人、>
 闕腋袍、赤色下襲、黒半臂、縮線綾袴、他事如例、院(後白河) 御馬御厩舎人著萌木狩襖袴山吹衣、
  居飼如例、
 ●院右府生秦頼文、著紺青仁紅打衣付白繩小魚等、
 府隨身二人、蠻繪隨身二人、看督長四人、火長二人、<冠、>雜色六人、<白襖白衣、>取物四人、<花田白衣、>
尉源康信、
右衛門權佐盛隆、 尉源季國、
左兵衛佐季能、  尉藤原宗高、
右兵衛佐雅賢、  尉ーー兼宗、
次第使右馬助信業、
藏人所前駈長官等渡之間及秉燭、仍不見齋王御車以下、歸六條了、

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
兵範記 嘉応元年
(1169)
4月23日 【賀茂祭】
「賀茂祭、(頭書)」
 天晴、賀茂祭、巳剋向典侍(平清子)出立所、<姉小路烏丸、典侍宰相中將(平宗盛)室家也、>先是新中納言、<邦綱、>六角宰相、<(藤原)家通、>左京大夫<定隆、>被坐、頃之別當來坐、勘解由次官相共行事、此間童女二人著裝束、<清職雅亮令裝束、>子著八人、糸鞋著八人、同著装束、糸毛車立南庭、車副十二人、<著褐襖袴、藁脛巾、>手振廿人<●塵袍、襖半臂下襲、黄單衣、朽葉末濃袴、布帶藁脛巾、>等相從、次女房乘車、毛車四兩、々別四人乘之、
 山吹匂、 紅打衣、 二藍表著出之、皆持扇、
童女毛車一兩二人乘之、<依納言車、懸下簾、巻上前簾、>
 已上五兩、車副各四人、皆布衣、
次寄典侍車、先在反閇、(賀茂)在憲朝臣勤之、垂母屋簾、典侍坐其中云々、陰陽師與祿、藏人所前駈參集、依御物忌無御覽云々、内藏寮使助安倍有親參御湯殿方、内侍下給宣命、即使向列見了云々、
藏人文章得業生基光爲扇直視參齋院(式子)了云々、未剋典侍參陣、以西洞院面北門准北陣、向其門立糸毛車、行列次第、先掃仕丁、次前駈藏人判官資綱、散位信廣、美作守時家、越後守時實、刑部大輔信季、兵部少輔信國、勘解由次官親宗、左衛門輔信基、木工頭親雅、<已上下藤爲先、>此外次諸大夫六人同前駈、次典侍糸毛車、次手振廿人、<下臈取物、>次屐子著八人、次糸鞋著八人、次出車四兩、次童女車、糸毛以下攪放牛立榻、前駈列車邊、此次命婦藏人國司參入、同可連車、而遲參未見、仍令六位藏人奏事由、主上密々渡御北對東妻有御覽事、召入屐子糸鞋等也、別當宰相中將被候、下官以下雲客四五輩同候、次賜典侍祿褂一領、藏人取之、寄糸毛邊、女官受取了、次被向列見了、此間親昵人々猶騎馬前駈、次下官向棧敷了、次近衛府使右中將(藤原)實宗朝臣率行列參内、依御物忌、雖無御前儀、<雖無御前儀賜紅打御衣、(右傍書)>奏事由之時賜紅打御衣、是爲路頭見目云々、近例也、

●=麴(麹の異体字。こちらを参照(字源))
兵範記 嘉応元年
(1169)
4月24日 【賀茂祭還立】
 今日公事重疊之上、依祭還立無試樂、是天仁二年四月廿四日例也、(中略)
祭還儀如例、女使典侍去夜宿神主重忠朝臣堂廊、今日巳剋整行列、率參神館、連車入齋王(式子)見參、社司獻葵於齋王御所、即給祿、次奉典侍、<於車前付典侍、>又神主以下與祿、親昵前駈等及諸大夫取之、次向柏社了、下官向彼宿所訪申儀式、參内、不向神舘、以男共説注之、(中略)
今日無行幸試樂、寛治二年三月九日、代始八幡行幸、七日有試樂、天仁二年(1109)四月廿六日同行幸、廿四日賀茂祭還立之上、他公事等指合、被止試樂、今日准彼吉例無試樂、有御馬御覽事也、
兵範記(断簡) 嘉応元年
(1169)
7月23日 【斎院(式子)病悩】
 ■[廿]三日丁丑、(中略)
斎王(式子)俄御悩云々
兵範記(断簡) 嘉応元年
(1169)
7月24日 【斎院(式子)退出】
 早旦依召参院、仰云、斎王(式子)昨日未剋以後御悩■■■夜■■■■■■殿、其後(中略)
帰参奏殿下(摂政松殿基房)御報、此次下官申云、斎王御退出由、可有奉幣歟、仰云、尤可然之、次第事等、可申沙汰之、代々例、遺尋大外記頼■行■、
或人云、斎王午剋御退出、院御車、前駈諸大夫三四人■■左兵衛督(藤原成範)扈従渡■■■■■■宣旨家了云々、
検非違使左衛門尉大江遠業■■■■■■依院宣、斎王出御之間、禁制■■■■■■
【裏書】
■斎王、高倉三位(藤原成子)腹、御年廿一
兵範記(断簡) 嘉応元年
(1169)
7月25日 【斎院(式子)退出後の報告】
 ■■[廿五]日己卯、(中略)
次下官参殿下(摂政松殿基房)、申斎王(式子)退出、斎王昨日退出之後、夜間別事不坐云々
皇帝紀抄 嘉応元年
(1169)
7月26日 【斎院(式子)退下】
 高倉院(中略)
 斎院。式子内親王。<如故。嘉応元年七月廿六日。依病退下>
兵範記(断簡) 嘉応元年
(1169)
8月3日 【斎院(式子)退下のこと?】
 早旦参院、申斎院(式子)之定間事■■■■■■就
兵範記(断簡) 嘉応元年
(1169)
8月6日 【斎院(式子)退下の賀茂社奏上文草案】
 ■■草
天皇<我>詔旨<良万と>、掛畏<支>某皇大神<乃>広前<尓>、恐<美><美毛>申給<辺と><久>、皇太神<乃>阿礼<乎止女>御■[杖]代<尓>令侍<留>式子内親王、身<乃><美><と之弖>、去月廿四日<尓>、退出<勢利と>聞食<之>、驚給<不古と>、叡襟無聊<之>、若是神慮<乃>所許<カと>思食<シ弖奈弖>、故是以、官位姓名<乎>差使<之>、礼代<之>大幣<乎>令捧持<弖>、奉出給<布>、斎内親王<波>、令卜食、定<弖><尓>令■、内親王退<弖>可進状■■■■■■■■■■■■給<覧と>令申給<布>、皇太神平<久>聞食<勢と>、恐<美><美毛>申、
嘉応元年八月 日
兵範記
ほか
嘉応元年
(1169)
10月20日 【僐子内親王斎院卜定】
『兵範記』
(前略)今斎王(僐子)、二条先帝皇女、母当時大博士(中原)師元朝臣女。
彼院御宇官仕、斎王御年十一歳、卜定并次第行事、准寛治三年令子太后、平治元年<先斎院式子>例、可奉行由、預被仰下左大臣了。

 十月卜定例、
  貞観元年十月五日丁亥、儀子内親王卜定、
   文徳天皇々女、   清和天皇初、
  康和元年十月廿日戊午、ヮq内親王卜定、
   白川院皇女、    堀川院御宇、
  平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、
   上皇々女、     二条院初、
 寅日卜定例、
  天延三年六月廿五日丙寅、卜定選子内親王、
   斎王間歴五代、  最吉例也、
  天仁元年十一月八日丙寅、是殊吉例也、
此間延喜三年、承平元年、長元九年在其例、併吉例云々。(後略)
玉葉 承安元年
(1171)
9月12日 【斎院候補者なし、式子の再任を検討】
(前略)申刻蔵人右衛門権佐光雅為法皇(後白河)御使来、則余着冠直衣相逢、光雅仰云、斎院両度卜定、已不叶神慮、尤有其恐事也、而当時其人不御坐、何様可被行哉、可令計申者、余申云、已是朝家大事也、以短慮輙不能定申之上、如仰詞者、子細不分明、於其人不御坐之条者、何様可令申哉、奉沙汰之趣之後、可計申事●、光雅云、此事被仰下之時、人々定被申此旨●、聊存子細可答申之由、再三雖申事由、只先可申此趣之由、有御定、仍所参啓也、只内々旧斎院(式子)(※)可卜定哉否之由、被問先例、仍其勘例各可令見申●之由、雖令申、又以不可然由有仰、仍力不及候、余云、一切至于其人不御者、争黙止哉、然者以旧斎院被卜定之条、雖可然事、無先例之上、其運已尽了人也、今及沙汰之条、非無神慮之恐●、但是就職事之密語、令答之詞也、専非可被奏聞、尚有恐事●、光雅申云、可存此旨、密事此事仰詞之次第、頗以不審也云々、余内心案之、院御子(以仁)被加元服之宮御坐、其御子子息女宮両人被坐云々、何其人々不被卜定哉、或人云、非親王之人子息、無為斎宮・斎院之例、若父宮被下親王之宣旨者、其又不可然云々、此尉尤神慮難測事也、乍置可然之人、被行無先例事之条、非愚意之所及、人々皆雖存此旨、一切無其人之由被仰下之上、不能申出●、末代之政、只在小人之心●、可哀々々、又孫王卜定有先例也、(後略)

当時非后・女院の前斎院で生存が確実なのは、式子内親王(23歳)のみである(29代禧子32代僐子は死去、28代統子は上西門院)。なお30代怡子内親王も1170年頃まで存命と見られるが(『今鏡』)、既に60歳を越える高齢であったとされ、生存していたとしても候補になったとは考えにくい。

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
愚昧記 安元3年
[治承元年]
(1177)
1月1日 【前斎院(式子)へ拝賀】
(1月1日条)
「参院事(頭書)」
 千秋万歳幸甚〃〃、未刻着束帶<諒闇、>參向殿、則相率參院、(中略)
<參前齋院(式子)事(右傍書)>■[歸]家之後、及秉燭着直衣<吉服、>參前齋院(式子)、先於■■[西廂]謁女房、次依女房命參東■[對]舎、先■■[見小]兒(実房二女)<■[小]兒戴餅事(右傍書)>次於同屋東庇■■[面妻]戸、有小兒■■[戴餅]事、別當局<(藤原)俊盛卿女、(右傍書)>抱之、左衛門佐<家行女、>持餅、
(1月2日条)
(前略)次參齋院(式子)、有戴餅事、其後退出歸家、(後略)
愚昧記 安元3年
[治承元年]
(1177)
2月24日 【前斎院(式子)へ参向】
(前略)入夜參前齋院(式子)、依聞小兒(実房二女)病悩之由也、次歸家、
愚昧記 安元3年
[治承元年]
(1177)
3月11日 【母高倉三位(藤原成子)薨去】
(3月12日条)
 傳聞、高倉三品(藤原成子)去十一日暁薨逝云々、歳五十二云々、臨終甚吉云々、十念不誤云々、可尊々々、同暁移丘崎堂了云々、是判眼行仁堂也
愚昧記 安元3年
[治承元年]
(1177)
7月25日 【斎院(式子)へ参向】
 參院、于時朝座説■[法]之間也、兩座了取布施、則退出之歸參前齋院、依聞煩給邪氣之由也、謁女房別當局(藤原俊成女)了、參向殿、」則退出了、(後略)
愚昧記 治承元年
(1177)
10月28日 【功子内親王斎宮卜定。斎院式子先例】
(前略)今日伊勢齋王卜定也、(中略)以功子内親王爲伊勢齋王之由令卜定申<ヨ>、(中略)
<然而多書此字、勝保元三年齋宮(好子)卜定・平治元年齋院(式子)卜定、兩度故殿(藤原公教)令書此字也、>(後略)
愚昧記 治承元年
(1177)
12月9日 【斎院(式子)へ参向】
(前略)入夜着直衣、先參女御殿(藤原j子)、其後參向齋院(式子)、是二女魚味之故也、前物<臺六本・盤二枚、銀器、>并女房衝重<廿前云々、>(藤原)行國所調也、役料、(源)盛信・泰貞・俊宗・朝行・仲信・(源)通清等參仕、
山槐記 治承3年
(1179)
1月10日 【東宮帯刀給所を宣下
(前略)今日被仰下帶刀給所等云々、(中略)
帶刀給所、
 院(後白河)
 上西門院
 八條院
 中宮(平徳子)
 本宮(言仁親王)
 關白(松殿基房)
 太政大臣(藤原師長)
 左大臣(藤原経宗)
 右大臣(九条兼実)
 内大臣(平重盛)
 大夫(平宗盛)
 權大夫(藤原兼雅)
 二位(平時子)
   二位者中宮母儀也、
  大宮(藤原多子)<近衛院后、(徳大寺)公能公娘、>
  皇太后宮(藤原忻子)<法皇(後白河)后、同居儀久絶、公能公女、>
  女御(藤原j子)<同然、(三条)公教公女、>
  斎宮(功子)<當今(高倉)宮、故公重朝臣孫、>
  齋院(範子)<當今宮、左兵衛督成範孫、>
  前齋院(式子)<法皇宮、高倉三位腹、>
  前齋院(頌子)<鳥羽院宮、春日殿腹、>
   已上不被給之、皇后宮不御座也、(後略)
安徳天皇
史料 月日 記述
玉葉
山槐記
明月記
愚管抄
ほか
治承4年
(1180)
5月15日 【弟以仁配流】
『玉葉』
(5月15日条)
(前略)
「三条宮配流事、」
今夜三条高倉宮(以仁)<院第二子、>配流云々、件宮八条女院御猶子也、此外縦横之説雖多、難取信、(後略)
(5月16日条)
「隆職注送三条宮配流事、(頭書)」
隆職宿祢注送三条宮(以仁)配流事、其状如此、
 源以光、<本御名以仁、忽賜姓改名云々、>
  宜処遠流、早令追出畿外、
 高倉宮配流事、被仰下之状如此、但不被作官府[符]者、配流人不作官府何例哉、然者不可被仰上卿也、始維光王可配土佐国之由宣下云々、而後被改仰●、只今奉行史申旨如此云々、
「三条宮逃去之事、(頭書)」
伝聞、高倉宮去夜檢非違使未向其家以前、竊逃去三井寺、彼寺衆徒守護、可奉将登天台山、両寺大衆可企謀叛云々、又件宮子若宮<候八条院之女房腹也、自所生之時女院被養育、即祇候其宮中、>逐電之由有其聞候、仍武士等打圍彼女院御所、捜求其中、先是於女院御一身者、奉出(平)頼盛卿家<即件卿妻参上奉相具、>了者、即件若宮奉求出女院還御云々、素被隠置太以愚耳、(後略)

『山槐記』
(前略)亥剋自京下人走來云、高倉宮(以仁)<一院(後白河上皇)御子、故高倉三位腹、新院(高倉上皇)御兄也、>有配流事、只今檢非違使兼綱、<大夫尉、>光長向三條北高倉西亭、武士等圍之者、後聞、今日可有免物之由被仰下、仍官人等着冠參陣、<大内、>三條大納言<實房、>依召參内、實者無免物、被仰下宮(以仁)御事、仍官人忽召寄烏帽、於陣邊着之、晩頭參向彼宮之處、皆閉門、無答之人、仍光長令踏開高倉面小門之間、左兵衛尉信連射之、被疵者有兩三人、宮不御坐、早以令遁出給畢云々、今夜猶武士圍之、女房等裸形東西馳走、可悲々々、抑彼宮御名以仁也、而仁字有憚之由有沙汰、改仁字、爲光字被仰下云々、宮乘張藍摺之輿、令持幣、如物詣人令向寺給云々、或云、着浄衣御騎馬給、又乘馬者有二人、御共人凡四五人云々、未知一定歟、渡御平等院寺也、(後略)

『明月記』
(5/16条)
 今朝伝聞、三条宮(以仁)配流事、日来云々、夜前、検非違使相具軍兵、囲彼第<賜源氏之姓、其名以光云々>、先是主人逃去<不知其所>、同宿前斎宮<亮子内親王>、又逃出給、如漢主出成皐与勝公共車歟、巷説云、源氏入園城寺、衆徒等槌鐘催兵云々、平中納言頼盛卿、参八条院、捜検御所中、申請彼孫王(道尊?)、依遅〃、及捜求云々、良久孫王遂出給、重実<称越中大夫>一人相随、但納言相具向白河、宮出家云々、
一昨日、法皇、自鳥羽、渡御八条坊門烏丸<八条院旧御所云々、>

孫王については異説あり(『明月記研究(4)』「「彼孫王」について」)。

『愚管抄』
(未入力)


●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
玉葉
山槐記
明月記
愚管抄
治承4年
(1180)
5月22日 【源頼政戦死】
『玉葉』
(5月22日条)
 去夜半、頼政入道引率子息等<正綱・宗頼不相伴、>参籠三井寺、已天下大事●、余尋問此事、相扶病参院、(後略)
(5月26日条)
 卯一点人告云、奈良大衆已上洛云々、又云、衆徒僻事也、坐三井寺宮、頼政入道相共、去夜半許逃去向南都、依得其告武士等遂攻云々、(中略)
午刻検非違使(源)季貞為前大将使参院、(平)時忠卿相逢、申云、頼政党類併誅殺了、切彼入道・兼綱并郎徒十餘人首了、(後略)

『山槐記』
 今曉源三位入道<頼政、>卒、男伊豆守(源)仲綱以下五十餘騎向三井寺、參高倉宮(以仁)云々、聞可蒙罪之由、仍逃去云々、行舜律師來云、昨日朝園城寺僧綱等赴如意嶺逃歸、衆徒全不用敕定、不可奉出宮云々、(中略)
戌剋自大内行幸八条坊門櫛笥二品亭云々、(中略)行幸之間東北方有火、頼政入道家<近衛南、河原東、>云々、曉逃去、不令爲見其跡、自令指火云々、(後略)

『明月記』
 今朝云々説、(源)頼政卿<入道、年七十七>、引率子姪、入三井寺云々、今夕、俄行幸八条坊門匣亭、新院(高倉上皇)又遷御于東第、北方有火、頼政卿家放火云々、

『愚管抄』
(未入力)


●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
玉葉
山槐記
明月記
愚管抄
ほか
治承4年
(1180)
5月26日 【弟以仁敗死】
『玉葉』
(5月26日条)
(前略)小時平等院執行良俊奉使者申云、殿上廊内自殺之者三人相残、其中有無首之者一人、疑者宮●云々、(後略)
(5/27条)
(前略)彼宮(以仁)被誅伐之由、只今自南都所申長者也、(後略)

『山槐記』
(5/26条)
 去夜半許高倉宮(以仁)出園城寺、令向南都給、日來延暦寺衆徒有同心之疑、而昨朝座主僧正明雲登山制止此事、一向承伏、聞此旨忽被向南都云々、又日來有同心之聞也、聞其告、飛騨景家上總守忠清等發向宇治之間、宮先渡橋給、彼方甲兵引橋、景家責寄於橋上合戰之間、忠景又追來、伴類十餘騎作時、打入馬於河中、橋上方有渡瀬、或又雖深淵、以馬筏郎等二百餘騎渡河、於平等院前合戰、景家得頼政入道頸、忠清得兼綱、<大夫尉、>頸、平等院廊自害者有三人、其人一人着浄衣無頸、有疑、頼政男伊豆守仲綱死生不詳、又宮(以仁)遁入南都給云々、藏人頭(平)重衡朝臣、左少將(平)惟盛朝臣追向宇治、各不構城郭之前直可進責者、忠清等云、臨晩着南都之條、可有思慮、若人々不知軍陣之子細、所被示也、不可然者、仍相具首卅餘、返洛、在前右大將<(平)宗盛、>亭、<八條北、高倉東、>予着直衣、辰終剋馳參親院(高倉上皇)<八条坊門南、大宮西、主上御西町、>公卿五六輩、殿上人十餘人參入、予參入之後多以參入、七條邊武士有五十餘騎、門内外無武士、合戰之間事一定未聞其説區分、午剋惟盛朝臣<衣冠、重服着橡袍、>自東門方參入、重衡朝臣<着冑、>自西門方參入、惟盛朝臣所語子細大慨如右、巳剋許叡山衆徒參御方在祇園、隨仰可發向之由申云々、暫可候之由被仰下、亦召藏人頭左中辨(吉田)經房朝臣、於新院御前被仰云、可候警固、經房朝臣申云、如此之時不及宣下、武官可存知歟、然而猶可問外記之由奏聞、於西南方問之、歸參申云、非常警固各可存知、不可被宣下者、仍經房朝臣告旨於人々、及申剋藏人左少辨行隆奉仰云、人々明日有可議定事、巳剋可參入者、此後諸卿退出、(後略)

『明月記』
 謀反之輩、引率三井寺悪徒、夜中過山階、赴南京、官軍追之、於宇治合戦、遂奔至于南京、賊徒多梟首、蔵人頭(平)重衡朝臣・右少将(平)惟盛朝臣、帰参献俘云々、有夾名、

『愚管抄』
(未入力)
明月記 治承5年
[養和元年]
(1181)
1月3日 【藤原定家、式子三条第へ初参】
(前略)次参三条前斎院(式子)<今日初参、依仰也、薫物馨香芬馥>(後略)
玉葉
明月記
愚管抄
百錬抄
ほか
治承5年
[養和元年]
(1181)
1月14日 【高倉上皇崩御】
(未入力)
明月記 養和元年
(1181)
9月27日 【藤原俊成・定家、萱御所斎院(式子)へ参上】
「入道殿参萱斎院(式子)斎院弾箏給事(頭書)」
 入道殿(俊成)、如例引率、令参萱御所斎(見せ消ち)[院](右傍書)給、有御弾筝事云々、
愚昧記 寿永元年
(1182)
8月10日 【三条実房、前斎院(式子)に参上】
(前略)秉燭之後退出、歸路之次、參前齋院(式子)、小女出謁、頃之退去了、
玉葉
山槐記
吉記
一代要記
ほか
寿永元年
(1182)
8月14日 【姉亮子内親王、安徳天皇皇后宮に冊立】
『玉葉』
 此日前斎宮亮子内親王<法皇(後白河)第一女、母同仁和寺宮(守覚法親王)、>有立后事、<皇后宮、依天仁二条大宮(令子内親王)例被行之、>内弁左大臣云々、余不出仕、右大将可参入之処、雖番長事申院、日来無沙汰、(後略)

『山槐記』
(8/22条)
 今日有政、皇后宮(亮子)御封請求印云々、 <去十四日立后、>、傳聞、皇后宮權大夫、<實方、>左大辨宰相、<經房、>左少弁光長、少納言仲家參入、上卿遲參之間及戌剋、(後略)

『吉記』
(前略)今日有冊命皇后事、<無品亮子内親王(前齋宮、自野宮退下、)法皇第一皇女、母從三位藤原成子、春秋三十六、准當今母儀有此事、但未入内給、無御謁見、>(後略)

『一代要記』
(安徳天皇 後宮)
 皇后 亮子<寿永元ー八月十四日立之、前齊宮、准國母、爲御禊同輿也、文治三ー六月 [廿八]日號殷富門院、>
安徳天皇・後鳥羽天皇
史料 月日 記述
吉記 寿永2年
(1183)
11月20日 【法住寺合戦(19日)により、上西門院(統子)・皇后(亮子)・前斎院(式子)、五辻御所に渡御】
 上西門院(統子内親王)可有臨幸五辻御所之由、自前斎院(頌子)有其仰、仍逐電参上、申尅、女院、皇后宮(亮子内親王)、前斎院(式子内親王)等、御同車渡御、偏略儀也、宮大夫、<御車寄、>右京大夫光雅朝臣、基宗朝臣等扈従、以御堂御所為御所、予加検知、謁人々之後、晩頭退出、于時別當宮権大夫等参入、
吉記 寿永2年
(1183)
11月26日 【女院(上西門院)と両宮(亮子・式子)、斎院(頌子)の五辻御所に渡御】
 午時許参院、<五條殿、>(中略)
次參五辻宮、今日女院(上西門院)両宮(亮子・式子)令同宿斎院(頌子)御方給、<日来御坐御堂御所、>鋪設雑事御菓子等類、
<「鋪設已下奔筥事、」>
予一向奔營、予遅参之間、先令催参子息令行之、折節如大宮、人以嗟嘆云々、院宮以御輿渡御、予入夜退出、
吉記 寿永2年
(1183)
12月17日 【三条前斎院(式子)、八条院に同宿】
(前略)次予參入八條院、三條前齋院(式子)御同宿、入兩方見參退出、久不參之上、元三不可出仕之故也、(後略)
山槐記 元暦元年
(1184)
7月17日 【中山忠親、三条万里小路に参向。前斎院(式子)不在】
(前略)小兒行始、吉方東也、仍向三條万里小路斎院(式子)御■[所?]齋院不御坐、密々示留宮人也、用參儀隆仲朝臣一人在共、
吉記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
1月3日 【吉田経房、後白河上皇・八条院・前斎院(式子)に拝賀】
(前略)午斜先參院(後白河)、八條院前齋院(式子)等御同宿云々、入女房見参、(後略)
後鳥羽天皇
史料 月日 記述
吉記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
7月12日 【大地震。八条院と前斎院(式子)、被災し避難】
 天晴、地震猶度々有、午剋先參最勝光院、(中略)
次參八條院、寢殿已下御所皆悉傾倚、内作併破損、當時女院并前齋院(式子)御北對前庭、打屋取儲御■■有事也、(後略)
山槐記 元暦2年
[文治元年]
(1185)
8月10日 【前斎院(式子)、准后の御封】
(前略)又有内文、別當<家通、>行之、前齋院(式子)准后之御封事云々、
山槐記 文治元年
(1185)
8月14日 【前斎院(式子)、後白河法皇御所へ渡御
(前略)頭右大辨光雅朝臣示送曰、今夜前齋院(式子)准后之後初可渡御院(後白河)御所、人々可被扈從、(中略)
次參八條院、<八條北、烏丸東、八條院御所、東洞院面爲前齋院(式子)御方、>前齋院<故高倉三位腹、法皇御女、>准后之後初渡御院御所、<六條北、西洞院西、>頃之寄御車、<院御車也、物見上有庇、袖網代也。>御車副不賜當色、出車三兩、殿上人車也、予、大宮中納言、<實宗、網代車、>左兵衛督、<頼實、>平宰相<親宗>扈從、左武衛候御車寄、殿上人十餘輩前駈、左將曹中臣近部<黄木賊上下、帶釼、立烏帽子、>在御車後、出車於院在六條面築垣外、御車入東門、奉寄寝殿南階、下御之後予逐電歸東山、(後略)
玉葉
百錬抄
一代要記
女院小伝
皇帝紀抄
ほか
文治3年
(1187)
6月28日 【姉亮子内親王、殷富門院の院号を受ける】
『玉葉』
 此日有院号事、停皇后宮職<法皇(後白河)第一女、有当今国母之儀、御名亮子、>為殷富門院、(後略)

『百錬抄』
 被定院号。皇后宮(亮子内親王)為殷富門院。

『一代要記』
(安徳天皇 後宮)
 皇后 亮子<寿永元ー八月十四日立之、前齊宮、准國母、爲御禊同輿也、文治三ー六月 [廿八]日號殷富門院、>

『女院小伝』
 殷富門院<亮子>。後鳥羽准母。後白川第一女。母從三位成子。元播磨局。字高倉三位。久壽三四十九爲内親王。即日爲伊勢齋宮。保元三八十一退下。<依天祚改成。未向伊勢。年十(六)>壽永元八十四爲皇后宮。<依准母成。年卅六>文治三六二十八<戊戌>院號。<四十三。>建久三十一九爲尼。眞如觀。建保四四一御事。<七十。>法金剛院東新御堂。

『皇帝紀抄』
(後鳥羽)
前后(中略)
 殷富門院<文治三年六月廿八日。院号。<四十一。>元皇后宮。建久三年十一月九日。出家。>
公卿補任 文治4年(1188) 1月6日 【源通光、式子内親王御給】
(建仁元年)
従三位 源通光(中略)
<文治四正六叙爵(式子内親王給)>(後略)
愚昧記 文治6年
[建久元年]
(1190)
1月3日 【三条公房、各所へ拝賀】
 今日中将(三条公房)令申慶於所〃、予相具参内、(中略)
次参院、<此次殷富門院、御同宿>、次八条」院、<前斎院(式子)同所>(後略)
玉葉 文治6年
[建久元年]
(1190)
1月11日 【九条任子、後鳥羽天皇に入内】
 此日有入内事、<余(九条兼実)長女(任子)、生年十八、余四十二、>蓋依長保・永久例行之、(中略)
次奉行家司蔵人頭大蔵卿(藤原)朝臣来申云、八条院御使参入者、余仰可敷座之由、即透渡殿敷之、(中略)次召宗頼朝臣、仰女院(八条院)御使可召之由、即八条院御使左少将(藤原)成家朝臣、持薫物、置余前、着座、(中略)
次殷富門院御使、次前斎院(※)御使、次姫宮(覲子内親王)御使、<已上儀同前、但殷富門院給装束、而不納衣筥、納辛櫃、仍不能持来、余直可持參内裏之由仰之、可欠南衣架之故也、>已上、公卿各給禄、御使皆来了、(後略)

『九条家本玉葉(12)』(明治書院)はこの前斎院を範子内親王(1181年退下)とするが、文治6年に存命の「前斎院」は式子・頌子・範子の3名がいる。このうち頌子は建久5年1月6日条に「五辻斎院」の名称で記載があるが、式子と範子は別記事でも共に「斎院」または「前斎院」とあるのみで、名称だけでは判別がつかない(なお範子は建久9年に土御門天皇准母として立后、以後の『玉葉』記事では「皇后宮」と記載されるが、斎院退下から立后までの間の消息は殆ど不明で、『玉葉』でも特に触れられていない)。
またここでは共に名前の挙がる殷富門院(亮子内親王)と姫宮(覲子内親王)がいずれも後白河皇女であり、よって「前斎院」も同じく後白河皇女の式子である可能性も考えられる(当時式子は八条院と同居しており、この日は八条院も使者を出して薫物を届けさせた他、母屋の調度のことにも関わっていた)。
明月記 建久3年
(1192)
3月10日 【前斎院(式子)女房達、定家を訪問】
 前斎院(式子)女房達<女別当・大納言殿>被来、臨昏帰参、(後略)
玉葉
明月記
百錬抄
建久3年
(1192)
3月13日 【後白河法皇崩御。御領を処分】
『玉葉』
 此日寅刻、太上法皇<「第七十七代後白河院」(右傍書)>崩御于六条西洞院宮、<御年六十六、>鳥羽院第四皇子、御母待賢門院、二条・高倉両院父、六条・先帝(安徳)・当今三帝祖、保元以来四十餘年治天下、(後略)

『明月記』
(3月13日条)
「院(後白河)崩御事(頭書)」
 未明、雑人云、院(後白河)已崩御、或説云、亥刻許御気絶了、而被秘之間、人不知云々、(後略)
(3月14日条)
(前略)
「御処分等事(頭書)」
人々云、殷富門院御処分 押小路殿<彼御後、可為主上御領>
宣陽門院<六条殿・長講堂已下事、庄〃等>
前斎院(式子)<大炊殿・白河常光院、其外御庄両三被分奉云々、>
前斎宮(好子) 花園殿<仁和寺>
法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽等、惣可為公家御沙汰、即宝倉以下、被付殿下御封云々、(後略)

『百錬抄』
 寅時法皇(後白河)崩于六條殿。
明月記 建久3年
(1192)
3月23日 【定家、斎院(式子)御方へ参向】
 参院<布衣、>(中略)
即参斎院(式子)御方、相次参七条院、又参八条院、(後略)
明月記 建久3年
(1192)
4月20日 【殷富門院(亮子内親王)御仏事】
(前略)又帰参六条殿、殷富門院御仏事也、導師澄憲、(後略)
明月記 建久3年
(1192)
4月21日 【仁和寺宮(守覚法親王)・宣陽門院御仏事】
「仁和寺宮御仏事(頭書)」
 辰時許参院<束帯>、仁和寺宮(守覚)御仏事也、講師澄憲、公卿已下取布施、(中略)
宣陽門院御仏事、又取布施、(後略)
明月記 建久3年
(1192)
4月28日 【定家、前斎院(式子)に水晶の念珠を献上】
(前略)今朝、進水精念珠十二於前斎院(式子)御方、(後略)
明月記
心記
建久3年
(1192)
4月29日 【斎院(式子)・斎宮(好子)・仁和寺御弟子(道法)法親王御仏事】
『明月記』
(前略)今日、斎院(式子)・斎宮(好子)・仁和寺御弟子法親王(道法)御仏事、衣冠・」布衣相交云々、

『心記』(※『大日本史料』による)
 懺法、次修理大夫定輔御佛事、(中略)
次仁和寺宮(道法)御佛事、等身彌勒、金泥一部、素紙十一部、導師雅縁、布施卅、請僧七、内鈍色各有短尺、預ヽヽ、次前齋院(式子)、同等身普賢、導師澄憲、布施卅五、請僧七、金泥普賢十願御自筆、次前齋宮(好子)、等身阿彌陀、導師澄憲、布施卅四、請僧六、預ヽヽ、(後略)
明月記 建久3年
(1192)
4月30日 【八条院・殷富門院・宣陽門院・諸親王御仏事】
「八条院御仏事(頭書)」
 午時許参六条殿、八条院御仏事也、殿上人殊以不参、朝参布衣之輩多云々、素服公卿等評定、殷富・宣陽両院御仏事日、布衣不交、諸親王御仏事、布衣・冠相交、(後略)
玉葉 建久3年
(1192)
5月1日 【後白河院処分のこと】
(前略)前斎院(式子)可被渡此亭<依法皇処分也、>云々、仍以兼親為使、触遺右大臣(藤原兼雅)(吉田)経房卿、<件卿為彼斎院後見云々、>入夜帰来云、右大臣云、公家御沙汰、法住寺萱御所、若西八条泉御所等、斎院暫御坐、尤可然、但彼宮事不能進退、可被触仰戸部(経房)云々、経房云、日来可申事由旨、頗有仰、然而依無心不申出、今有此仰、早申彼宮可申御返事、若可渡御者、五月有忌、六月可渡給云々、(後略)
玉葉
明月記
心記
建久3年
(1192)
5月2日 【後白河七々日。斎院(式子)、吉田経房邸へ転居】
『玉葉』
(前略)此日法皇(後白河)四十九日御法事、雖当復日、依陽明門院例不被憚、公家不遣度御誦経使、依復日、是又先例也、余不参法会之筵、依風病猶不快也、(後略)

『明月記』
(前略)昏黒、改着布衣、参六条殿、被寄殷富門院御車間也、即騎馬、六条西行、猪隈北行、御幸泰経卿家、(中略)
入御之後退出、雖欲参会斎院(式子)御共、已出御了、仍自六条殿退出、宣陽門院、今夜御幸左金吾中院亭、明日還御云々、斎院(式子)遷御戸部(吉田経房)吉田、」殿上人騎馬供奉云々、下官献出車了、基宗兄弟今夜帯剱、

『心記』(※『大日本史料』による)
(前略)歸參有七々御佛事、六十僧、此内七僧參會、西中門廊南北、(中略)
今夕兩女院(殷富門院・宣陽門院)齋宮(好子)齋院(式子)皆御分散也、兩女院以下供奉、齋院殿上人供奉云々、宣陽門院明日可有還御云々、此御所(六条殿)有御傳領故也、(後略)
心記 建久3年
(1192)
5月13日 【後白河御月忌。斎院(式子)、仏事を行う】
(※『大日本史料』による)
 故院(後白河)御月忌也、朝間先參法花堂、午終著衣冠<橡袍、>參六條殿、右府(藤原兼雅)已下公卿十七人著座、御導師澄憲、御講了、(中略)
例時了僧侶退下、但自本留僧六人暫祇候、是可有齋院(式子)御佛事故也、即有御佛事、繪像■■、御導師公胤、布施一重一●、餘僧一●、此後又讀阿彌陀經、此間置布施了、今日初御月忌、(後略)

●=褁(『大日本史料』では果+衣。こちらを参照(字源))
心記 建久3年
(1192)
6月13日 【後白河御月忌。斎院(式子)、仏事を行う】
(※『大日本史料』による)
 御月忌也、雅具中將參入、<皆橡衣冠也、>雅縁爲導師、右府(藤原兼雅)不取布施、大宮大納言(藤原実宗)已下取之、又其後最舜御佛事、極樂曼多羅、導師澄憲、布施廿許、請僧五、又八幡別當成清令進引物、來[委?]可尋注<炭薪等、(右傍書)>、予退出、此後例齋院(式子)御佛事云々、
吉部秘訓抄 建久3年
(1192)
6月30日 【斎院(式子)、六月祓を行わず】
(※『大日本史料』による)
 今日六月祓、於齋院(式子)御方者、御出家已後不被行也、若宮御方事、年預仲良申云、御除服以前也、不可被行之由、(後略)
心記 建久3年
(1192)
7月3日 【前斎宮好子内親王薨去】
(※『大日本史料』による)
(7月18日条)
 前齋宮(好子)<故院(後白河)第三御女、故高倉三位腹、>薨奏、藤大納言<實家、>奉行云々、去三日薨給也、
吉記
(吉部秘訓抄)
建久3年
(1192)
7月27日 【前斎院(式子)、南亭へ転居】
(※『大日本史料』による)
 前齋院(式子)遷御南亭、<予日來居侍分也>築改築垣、塗腋壁、貴人渡御凡人家、雖一兩日留御之時、先例必塗之、近代上下忘禮、絶而無此事、先人七條亭法性寺殿渡御之昔被塗之、仍申合内府<(中山)忠親公、>之處、去元三寄宿左大辨(藤原)定長之許、雖示可塗之由、家主好儉約不承引、令塗之條、不可及異議之由被示之、仍塗之、前庭掘小池、搆秋野、出居并南面押色紙形、内府<忠親公、>按察使<(藤原)朝方、>藤大納言<實家、>等書、客殿色紙形南面平中納言<親忠、>新宰相<(藤原)光雅、>左大辨<定長、>伊經朝臣等書之、
吉記
(吉部秘訓抄)
建久4年
(1193)
3月8日 【前斎院(式子)行啓】
(※『大日本史料』による)
 前齋院(式子)先有行啓、入御西門<不放御牛>并南向中門藤宰相中将<公能、>候御車寄、
御車、
    右大将<頼實、>久車所被借召也、依爲勅別當也、保元上西門院、被用徳大寺左府<實能、>車服御時不被用御車例也、是可爲服御車之故也、今度兩女院無其儀、知案内人、頗相儲歟、
御車後、被出綾白衣歟、練貫白唐衣裳用白絹無引腰、近代諒闇之時如此、右府<兼雅公、>被談云、自身重服人無引腰、於諒闇物可有之、而安元諒闇已後如此歟云々、相國禪門<忠雅公、>命又以同前、尤可然、然而當時内(高倉天皇)中宮(平徳子)兩女院、皆以如此、仍且就時議、且依傍例如此歟、
百錬抄 建久4年
(1193)
3月13日 【故後白河院一周忌】
(後鳥羽院)
 故院(後白河)御忌日也。於六條殿被修曼荼羅供。權僧正勝賢爲阿闍梨。讃衆卅口。
加行事 建久5年
(1194)
6月5日 【前斎院(式子)、道法法親王(異母弟)に十八道を受ける】
(※『大日本史料』による)
 北院御室(守覚)日記云、同(建久五年)六月五日、甲午、宮(道法法親王)被詣前齋院(式子)御所、<勘解由小路信房卿宅、>被奉授十八道次第、有御贈物、<水精念珠一連、付銀蓮枝、>
明月記 建久5年
(1194)
11月11日 【定家、斎院(式子)に参向】
 暁騎馬、見白川方、参梶井宮、見参退出、
卯時許、参歓喜光院、(中略)
参大炊殿(九条兼実)、又参斎院(式子)、帰家、
明月記 建久5年
(1194)
11月25日 【定家、斎院(式子)に参向】
(前略)入夜参大炊殿<殿下(兼実)御九条殿>、謁女房、参斎院(式子)、(後略)
公卿補任 建久7年
(1196)
1月6日 【藤原経賢、式子内親王給により叙爵】
(嘉禎3年)
從三位 藤原經賢(中略)
建久七年正月六日叙爵(式子内親王當年御給)(後略)
明月記 建久7年
(1196)
6月9日 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】
 巳時、参内大臣殿(九条良経)、御共参大炊殿(兼実)、(中略)
参勘解殿、臨昏帰参殿、(後略)
明月記 建久7年
(1196)
6月16日 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】
 入夜参殿、今夜御参内云々、(中略)
参勘解殿、入夜退出、(後略)
明月記 建久7年
(1196)
6月17日 【勘解小路殿(経房亭)に鵺の風説】
 去夜、勘解小路殿●鳴云々。仍可令立給之由、人〃申之云々、

●=鵼(空+鳥。ぬえ(鵺)。こちらを参照(字源))
明月記 建久7年
(1196)
6月18日 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】
 夕参勘解殿(経房亭)、(後略)
明月記 建久7年
(1196)
6月19日 【斎院(式子)、七条坊門大納言局旧宅に移御】
 巳時参大炊殿(兼実)、御共参内、(中略)
今夜、斎院(式子)、密〃渡御七条坊門大納言(式子女房。定家の姉龍寿御前)旧宅、依無其所、戸部(吉田経房)可然由<被(右傍書)>申云々、(後略)
平戸記 建久7年
(1196)
12月20日 【前斎院(式子)、大炊御門殿に移御】
(※『諸院宮御移徙部類記』による)
 朝間雪下、午後天晴、申■雪又散乱、然而即晴、申刻着衣冠、先参六条殿、謁女房退出、次参大炊御門宮、戌斜退出、次参前斎院(式子)<勘解由小路>、今夜依可有移徒大炊殿<後白河院崩■[御?]時、件御所令譲申前斎院(式子)給了、而日来前関白殿(九条兼実)被申請、暫令坐給之処、籠居之間、所被返進也、>也、先是月卿等少々参集、治部少輔(藤原)為季<故右中弁為親朝臣息>催行雑事、子刻●御車<御車副『六人』并召次等被申請宣■[陽?]門院、仍自彼御方所被召進也、>於南営業<右大将(大炊御門頼実)束帯寄之、>、公卿<東上南面、頭亮(藤原)定経朝臣在此列>・侍臣<東上北面>列立中門裏、次乗御了出御、<自万里小路出中御門大路、西行至東洞院、更折南々行、出大炊御門大路東行、>家司職事<権中将伊輔朝臣以下十有余輩、騎馬供奉、或束帯、或衣冠、>勤仕前駆、<頭亮定経朝臣騎馬供奉、>公卿<右大将『束帯』、民部卿(吉田)経房卿、中宮権大夫(徳大寺)公継卿『束帯』、宰相(藤原)実明卿、皇太后宮大夫(藤原)成経卿、三位(藤原)経家卿『束■[帯?]、大蔵卿(藤原)親雅卿、三位中将(三条)公房卿、』>乗車<右大将駕毛車>扈従、先到門外税御車、引入門中央立榻、公卿以下列立中門中、<公卿西上南面、侍臣西上北面、>次陰陽師縫殿頭(賀茂)宣平朝臣■[進]出奉仕反閇、漸歩之」間引入御車、別当治部少輔為季<在南>、勘解由次官清長<在北>、秉燭前行、次●御車於南栄<右大将同寄■>、此間宣平朝臣退出、於中門辺、賜禄、<宮内少輔能光取之、>下御之後人々昇殿、<右大将・民部卿被着公卿座、>次供五菓<自北面密々供之、>、次頭亮定経朝臣着障子上座、次庁年預宗遠<衣冠>持参吉書進頭亮、々々取之、披見了如元巻之、返入覧筥、挿笏進出公卿座前、献右大将、々々々取之、覧了之後返給頭亮、々々経二棟廊并寝殿東面簀子、跪寝殿南面階間簀子、進簾中<女房兼相儲此所、>啓、了之後経本路、又献右大将、々々々今度不披見、直給頭亮、々々持之帰出本所、書下書返給宗遠、々々成返抄、即進之頭亮、又加判返給了、丑刻許人々分散、予又退出、
今夜出車<三両、>前駆侍着衣冠、」

●=𨌅(さしよせる。こちらを参照(字源))
三長記 建久7年
(1196)
12月25日 【除目。前斎院(式子)御給】
 今日被行除目、爲申文内覽參殿下、<近衛亭、>(中略)
玄番允三善宗友、<無品式子内親王當年〔御〕給、>(後略)
皇帝紀抄 建久8年
(1197)
3月 【橘兼仲夫妻、妖言により流罪】
(後鳥羽)
(建久)八年三月之比。藏人大輔橘兼仲并妻女。依謀計事。被配流國々。又一心房上人歡心依同意事。被召禁武士許。前齋院式子内親王<後白川院皇女。>同意此事之間。不可坐洛中之由。雖有沙汰。有議被止了。
玉葉
猪隈関白記
建久8年
(1197)
3月16日 【後鳥羽天皇、前斎院(式子)御所大炊御門第へ遷御】
『玉葉』
 従閑院遷御大炊御門斎院(式子)御所云々、或云、為蹴鞠云々、或云、有御夢想事、但秘蔵云々、

『猪隈関白記』
(前略)今夜行幸於前斎院(式子)大炊御門第云々、殿下例參給、
源家長日記 建久8年?
(1197?)
3月20日? 【後鳥羽天皇、蹴鞠のため大炊殿(式子邸)へ行幸】
(建仁元年)
(前略)ひととせやよひの廿日ごろに、御まりあそばさせ給とてにはかに御幸[行幸の誤り?]侍りしに、庭のはな跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうがうの香の花の匂ひに争ひたるさま、御ぢ仏堂のかうのかもを[お]とらずにほいいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍りき。(後略)
三長記 建久8年
(1197)
4月22日 【後鳥羽天皇、大炊御門亭より七条院御所に行幸】
(※『玉葉別記』による)
 今日行幸于国母仙院(七条院藤原殖子)、蓋朝覲■■■■[字数不明]暦三年(正暦三年?)四月、朝覲于東三条院(一条母后藤原詮子)、被逐彼■■■■[字数不明]<蘇芳襲、縮線綾表袴、黒半臂、巡方、>即参内、<相具馬■■■■[字数不明]袙祭以後可■之由存之、左大弁(藤原宗頼)之処、帷・袙共不可有難、仍令着袙、人々童又多着袙、舎人同前、>于時前斎院<式子>、大炊御門亭為皇居、南殿御殿通用、仍垂母屋御簾、上庇御簾、南階構御輿寄也、予(藤原長兼)候下侍辺、近衛次■両三人在此所、各帯弓箭、召仰了云々、右大将(藤原頼実)着陣、頭中将(源)通宗朝臣下日時、仰召仰并留守左大弁■■■■[字数不明]等事云々、此間、供奉諸司漸参集、■■■■[字数不明]御装束等了、(中略)
次還御、寄御輿於南階、有鈴奏、於大炊殿鈴奏・名謁如常、于時亥刻、予帰宿所暫休息、次帰薬及深更、(後略)

『図書寮叢刊 九条家本玉葉(14)』(明治書院, 2013)に収録。
猪隈関白記 建久8年
(1197)
4月30日 【後鳥羽天皇、大炊御門殿(式子邸)より閑院内裏へ還御】
(前略)此夜天皇(後鳥羽)自大炊御門殿(式子邸)還御御閑院也、(後略)
明月記 建久9年
(1198)
1月6日 【叙位。式子内親王年給】
(前略)従五位下(中略)
平仲忠<式子内親王当年給>(後略)
明月記 建久9年
(1198)
1月7日 【前斎院(式子)、吉田殿に移御】
(前略)去五日、被申渡御之由於斎院(式子)、仍又渡給吉田云々、(後略)
猪隈関白記
玉葉
三長記
建久9年
(1198)
1月9日 【後鳥羽天皇、大炊御門殿へ遷幸】
『猪隈関白記』
 今夜天皇(後鳥羽)自閑院行幸於大炊御門殿(式子邸)、是明後日可有御譲位事新帝(土御門天皇)可御坐閑院之故也、殿下供奉給、

『玉葉』
(1月6日条)
 或人云、可有譲位云々、明後日許[行]幸大炊殿(式子邸)、以閑院可為新帝云々、十一日廿一日之間、可有譲国之儀云々、(後略)
(1月9日条)
 此夜、行幸大炊御門第云々、(後略)

『三長記』
 秉燭以前參内、今日可有行幸于大炊御門殿、<前齋院(式子)前兼被申子細、>是爲十一日讓位也、即以此内裏可爲新帝皇居之故也、行幸以前、殿下、左大臣、右大臣、土御門大納言、民部卿別當等、於鬼間邊、豫議定讓位事、(後略)
玉葉
明月記
猪隈関白記
三長記
ほか
建久9年
(1198)
1月11日 【後鳥羽天皇譲位、土御門天皇践祚】
『玉葉』
 此日、譲位也、自大炊御門宮(式子邸)、被渡剣璽於閑院、頭中将(藤原)公経捧璽、右中将(藤原)成定持昼御座御剣云々、関白(近衛基通)供奉、右大将(藤原頼実)同前、見出仕公卿、大略供奉、皆浅履也、(後略)

『明月記』
(1月8日条)
(前略)今日云々説、明夕行幸大炊殿(式子邸)、十一日暁行幸大内、其日譲位、其夜御幸大炊殿、(後略)

『猪隈関白記』
 此日天皇(後鳥羽)有譲位第一皇子(為仁親王)事、<年四歳>、(後略)

『三長記』
 今日有御讓位事、午上參内、<束帶、縮綾袴、丸鞆帶、>于時御大炊御門殿、<大炊御門北、富小路西、富小路南、前齋院式子御所也、而以閑院殿可爲新帝皇居、仍暫被借用此御所也、>人々未參、今日奉行頭中將通宗朝臣也、(後略)
土御門天皇
史料 年月日 記述
明月記 建久9年
(1198)
1月15日 【定家、吉田殿に参向】
 午時許参吉田殿、申時許退出帰家、日入了、入夜参八条殿<依一品宮御節供也>、(後略)
明月記 建久9年
(1198)
1月20日 【定家、吉田殿に参向】
(前略)参吉田殿、即帰家、依病気不快、不参他所、
猪隈関白記
明月記
建久9年
(1198)
1月21日 【後鳥羽上皇、三条殿へ御幸】
『猪隈関白記』
 此日院(後鳥羽上皇)御幸七條院三條第、初度御幸也、午時殿下參院給、余候御共、未時出御、余於門外騎馬、殿下令供奉給、於三條殿寄御車於中門廊下御、殿下以下人〃候上達部座、余同之、即余退出、依有勞事不供奉還御也、(後略)

『明月記』
 今日、大上天皇(後鳥羽上皇)初度御幸云々、路大炊御門西行、東洞院南行、三条西行、可入御三条殿<烏丸西>東門云々、(後略)
三長記 建久9年
(1198)
2月14日 【後鳥羽上皇、石清水八幡へ御幸】
 今日上皇(後鳥羽)令參詣石清水給、<于時大炊御門殿、>早旦供御浴、又奉仕御裝束、寢殿垂母屋御簾、中央間敷禊座、<敷小筵半帖等、>南庭敷薦、其上立高机一脚、倚御幣、其西立朱漆辛櫃一合、<納金銀幣、>幣案北頭置軾一枚、爲陰陽師座、辰剋出御、即著御々禊座、<御束帶、赤色御袍、●文、>(後略)

●=窠(穴冠+果。こちらを参照(字源))
三長記 建久9年
(1198)
2月17日 【後鳥羽上皇、大炊殿に還御】
(前略)今夕院(後鳥羽上皇)還御于大炊殿、公卿殿上人著布衣云々、御隨身布衣著毛沓、御直衣御烏帽云々、是初度布衣御幸也、(後略)
明月記 建久9年
(1198)
2月24日 【前斎院(式子)、定家に桜の木を下賜】
 巳時許、参上大臣殿、御参<(藤原)有家朝臣御共>、其後向坊門、又参三条<入道殿>、見参之後、帰坊門、(中略)
今日請并[斎?]院(式子)桜木、栽此宅、(後略)
猪隈関白記
吉大記
師直記
ほか
建久9年
(1198)
4月21日 【後鳥羽上皇、大炊御門殿から新造二条殿へ移徒】
『猪隈関白記』
(前略)今夕上皇(後鳥羽)遷御新造二條東洞院第、<于時御在所大炊御門殿(式子邸)也、>(後略)

『吉大記』(※『諸院宮御移徙部類記』による)
 陰晴不定、今夜院(後鳥羽上皇)新造二条殿御移徒也、仍秉燭之後参大炊殿、<脱●以後所御坐前斎院(式子)御所、大炊殿也、用無文帯、>此間人々或祇候、或参上、予(吉田経房)候殿上、聞出御之由、降立中門辺、此際有御反閇、主税頭賀茂在憲朝臣奉仕之、<賜禄如例、但此事不見及、>公卿列南庭<北上西面、左大将外皆懸裾、>先是左右兵衛引陣、主殿了奉仕立明、次◆御車於南階<諸司二分十人着束帯役之、>、左近少将(藤原)実宣朝臣・右近少将(源)雅為啓将候之、次上皇<御冠御直衣、二藍御指貫、被尋寛治例▲、>駕御々車<殿下令候御簾給、人々用無文帯給、>公卿以下於東門外次第騎馬供奉、路頭行烈(後略)

『師直記』(※『大日本史料』による)
 今日太上天皇(後鳥羽)渡御新造二條東洞院御所、(中略)
亥刻許出御大炊殿、遷御新造二条殿、有御反閇、其儀如常、(後略)

●=屣(こちらを参照(字源))
◆=𨌅(さしよせる。こちらを参照(字源))
▲=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
1月5日 【定家、大炊殿(式子邸)に拝賀】
(前略)午時許参宮、相次参八条院、今年御給、(中略)
参大炊殿(式子邸)、申時許参三条、昏退出帰宅、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
1月23日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参角殿、見参之後退下、参大炊殿(式子邸)、奈良僧都出京、在近辺宿所云々、行向相謁、権別当不被補事、無術計由被語、申時許退出、
参八条殿、入夜参宮、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
1月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 早旦、参角殿退下、午時許参大炊殿(式子邸)<於北宿所(右傍書)>謁僧都、入道殿令渡給、申承退出、参八条殿、昏帰、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
2月5日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許、参大炊殿(式子邸)<夕(右傍書)>参宮、
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
2月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 依召参御堂、聊蒙仰、相次参八条院、又参大炊殿(式子邸)、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
3月4日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許、参大炊殿(式子邸)、昏依召参角殿、見参、深更退下、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
3月17日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 早旦参大炊殿(式子邸)、午時許帰、申後参上<御堂(右傍書)>、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
4月18日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)先参大炊殿(式子邸)、昏黒帰九条、(後略)
明月記 建久10年
[正治元年]
(1199)
4月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
<巳時許参大炊殿(式子邸)、未時帰家(右傍書)>
静闍梨来、晴光来臨、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
5月1日 【式子発熱のこと】
 大炊殿(式子)女房告送云、雑熱事御之間、召医師等云々、
明月記 正治元年
(1199)
5月4日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子平癒】
 為上格子参宮、午時許退下、参大炊殿(式子邸)、御雑熱、■[昨]今無御増云々、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
5月12日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子発熱】
 巳時許、参大炊殿(式子邸)、御肩雑熱、自一日、止大黄、被付膏薬之間、又左御臂下〔被見出小瘡、〕仍又被付大黄云々、依此事驚参、〔女房云、但別事不候、〕(後略)
明月記 正治元年
(1199)
5月20日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参御堂、取布施退下、参大炊殿(式子邸)、未時許退出、依召■参上、於御前将碁、入夜退下、
明月記 正治元年
(1199)
5月29日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参大炊殿(式子邸)、申時許帰家、入夜、宮女房参大炊殿<達(右傍書)>被入云々、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
6月10日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許、参大炊殿(式子邸)、申時帰家、
明月記 正治元年
(1199)
7月9日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参大臣殿、(中略)
酉時許参大炊殿(式子邸)、戌時許退出、参八条殿、又参宮退下、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
7月18日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 辰時許参大臣殿、巳一点御出、令参院給、(中略)
参大炊殿(式子邸)<資家少将在御供、仍事不可闕>、良久雑色奔来、告御退出之由<令参御所給云々>、即乗車、大炊御門西行、於二条壬生奉仕待御車、■御供殷富門院<仁和寺安井殿>、小時退出、漸及西日、車中如焼、大宮南行、令参八条院給、又無程還御、自宮御所退下、依暑気難堪也、
「出羽守基定妻嫉妬間事(頭書)」
人云、出羽守基定妻君代<院御時髪上>、依嫉妬、行向常光院<斎院(式子)御領>、引入件女、打調之、件女従女、参斎院(式子)侍、訴申此子細、民部卿聞之、仰執行召出彼院領、勘発及■検非違使云々、刑罰過法歟、共以不思儀、雖下女心操、可弾指、女髪多落散彼御堂廊云々、
明月記 正治元年
(1199)
7月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 早旦参大炊殿(式子邸)、午時許向坊門、未時参八条殿、即帰廬、女房此間向西九条、帰来之後、参御所、大臣殿御坐、無程退下、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
8月9日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)巳時参大臣殿、
午時許退出、参大炊殿(式子邸)、申時許又退出、参八条殿、秉燭以後帰廬、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
8月14日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 早旦参大臣殿、承仰、参僧正御房、(中略)
参大炊殿(式子邸)、申時許帰家、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
9月5日 【斎院(式子)、八条院に渡御】
(9月6日条)
 光資来、昨日斎院(式子)渡御、〃八条殿云々、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
9月12日 【龍寿御前(式子女房)、健御前(八条院女房)を訪問】
 龍寿御前被渡、健御前又同会合、夕両人被帰了、(中略)
 光資来、昨日斎院(式子)渡御、〃八条殿云々、(後略)
龍寿御前、今日物語之次云、所召仕之女房<号信濃>、為令吐■[瘧]、令入御所<大炊殿>東車寄南細所、而有怖畏気色、依奇思、強問其故、甚雖秘蔵、強問之間、語云、去年七月之比、為伺見舞女、一身入彼細所之間、同形寸分不違物、六人並坐、与我問答、其詞之内、我約束云、奉為御所、不成凶、不奔散、
「大炊殿東車寄有異躰物歟事(右傍書)」
被坐此所者、何事在乎、全不可語人<ト>申了、仍此事一切不可披露之由、存之云々、重雖問其容躰物様、委事一切(見せ消ち)<依(右傍書)>成怖畏秘之、不可申之由称之云々、但非法師、非尼、非女、非児之由、称之云々、所推量人<ヨリハ>小物歟、雖極不審、不語之間力不及、抑件女房、雖(見せ消ち)如泥尾籠、不好虚言、仍所信受也云々、今聞此事、奇而猶可奇、若非虚言者、末代奇特、何事過之乎、仍記之、惣彼御所、於事有如此之聞、院(後白河)御所之時、女房等見尼、成怖畏云々、又斎院(式子)、先年御寝殿之時、女房周防有驚事、申其事之後、■[宿?]御寝殿云々、予値遇彼御所十五年、云禁裏、云射山、云槐門・椒房、日夜相馴、未嘗見不審事、聞此事、大奇驚者也、
殿下(九条兼実)御坐之時、又女房達、時々称怖畏之気、今思合、頗有云々説等歟、後日問之、全無別事云々、
又云、民部卿参間、為謁周防、在簾中之間、尼来坐傍、存別当殿来由、不驚、又見遣之時、忽然不見云々、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
9月14日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午終許、凌雨参大炊殿(式子邸)、夜部還御云々、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
9月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許、依召参南殿、於庭有御祓御拝、即令参北殿給、(中略)
秉燭之程退出、参大炊殿(式子邸)<乗駄>、亥時許帰廬、
明月記 正治元年
(1199)
12月4日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】
 鶏鳴以後、御造作所、巳時許帰参御所、午時許、北政所御〃堂、寄御車、相伴此尼御前、御法性寺、即参御共、御所置失■之由申之、不足言、仍直御最勝金剛院、殿下御此所、即賜仮退出、相具女房参大炊殿(見せ消ち)行三条坊門、
参大炊殿(式子邸)、令悩給事、逐日如増云々、酉時許退出、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
12月8日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】
(前略)入夜参大炊殿(式子邸)<騎馬>、御不例猶有増無減、又依雑熱、被付御薬云々<被充御焼石之間、火フクレ出来之間、又被冷之云々、>、(後略)
明月記 正治元年
(1199)
12月10日 【除目。式子御給】
 聞書不見来、巳時許、右少将任中将由、(中略)
縫殿允紀行光<式子ーー>(後略)
明月記 正治元年
(1199)
12月21日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)未時許、向坊門、病頗似宜、相次参大炊殿(式子邸)、秉燭以後、行向春日小家、帰廬、
明月記 正治2年
(1200)
1月1日 【定家、大炊殿(式子邸)に拝賀】
(前略)午終許、着装束之間、大臣殿已御出、自宮御退出了云々、追参途中、前駈十二人、一員被召具、移馬八疋<葦毛雖異様、今朝此料引進了>、与資家少将在御共、令参院給之間、成定中将参会、院中人未参、此間私退出、参大炊殿(式子邸)、相次参押小路斎宮、退出、(後略)
明月記
公卿補任
正治2年
(1200)
1月6日 【除目。式子内親王(御給)】
『明月記』
 見聞書、(中略)
従五下(中略)藤公俊<式子内親王>(中略)
巳時許参八条殿、為申中将殿御慶也、先是参御所、即退出、未時許参大炊殿(式子邸)、入夜帰廬、(後略)

『公卿補任』
(建保6年)
從三位 藤原公俊(中略)
正治二正五從五位下(式親[子]内親王當年御給)(後略)
明月記 正治2年
(1200)
1月11日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参大炊殿(式子邸)、申時許帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
1月29日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参大炊殿(式子邸)、酉時帰廬、(中略)
戌時許、<欲(右傍書)>、参法性寺之間、行啓已了由聞之、仍参御所、
亥時許、大臣殿還御、〃共後退下、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
2月11日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許、相具女房・小児等、行向三条坊門、下置、参大炊殿(式子邸)、申時許退出、行向坊門、昏帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
2月22日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)参大炊殿(式子邸)、戸部(吉田経房)参入、於殿上相逢、称時行、不修仏事之条、甚奇躰也、更不可有之由、被称之、即被出了、俄而予退出、向坊門、又退出、直参御所、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
2月30日 【定家、式子邸に参向。式子御悩】
 早旦参大炊殿(式子邸)、自一昨日、御足又被休薬之由、聞之、仍驚参、女房云、戸部(吉田経房)所労如待時云々、於今者天下古老也、可惜可痛、
午時許退出、向坊門、相次八条院、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
閏2月11日 【吉田経房薨去】
(閏2月12日条)
(前略)戸部(吉田経房)、昨日一定入滅云々、是猶末代之重臣也、可惜〃〃、
明月記 正治2年
(1200)
閏2月13日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 今日欲出京日也、辰時許、青侍等云、坤方竹内有穢物、人頭也、喚木守丸令見、実正云々、適出京、又穢気、極無骨者也、(中略)
未時許出嵯峨、入京、路次参大炊殿(式子邸)、此御所本目[自]不被忌穢、仍所参也、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
閏2月16日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参大炊殿(式子邸)、刑部三品、姉小路(見せ消ち)<三条坊門(右傍書)>京極堂<悲田北、雅俊卿堂跡也、称源氏跡押取云々>供養云々、門前成市、上下挙首云々、
申時許退出、向坊門、問所悩、夕帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
閏2月19日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許、向白川<借雖聖已講車>、尊勝寺多人、御月忌云々、仍入法勝寺、又雑女等群衆、花未盛、向東山之墟、申時許、又入尊勝寺、相次参大炊殿(式子邸)、女房向三条坊門、昏黒又次其所、相具帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
閏2月24日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】
(前略)参大炊殿(式子邸)、御乳御薬猶無減云々、小時退出、帰廬、
明月記 正治2年
(1200)
3月2日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参大臣殿、相次参八条殿、取布施退出、参大炊殿(式子邸)、酉時許帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
3月6日 【定家、式子邸に参向。式子御悩】
 今日直物也、
大臣殿、未時許御院参云々、資家少将在御共、酉時許、予向坊門、相次参大炊殿(式子邸)、御乳物猶六借御之由、聞之、秉燭以後参内<為替資家、依仰也>、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
3月9日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 今日、御幸六条殿<御八講始云々>、午時許参南殿、依御幸、令参会六条殿給、無御共人、与州相共、御出以後退下、午終向五条、入道殿令渡給、小時中将被来向、供奉御幸云々、束帯、但導師<聖覚>、御八講訖可来云々、予退出、参大炊殿(式子邸)、申終許還到之間、聖覚律師同時来臨、即説法了、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
3月13日 【定家、式子邸に参向。仏事(後白河追善)あり】
 辰時参大炊殿(式子邸)、御心[仏?]事被●云々、先是事始、範円律師説法了、有例時<請僧三口>、読了後、取布施退出<于時午時>、還九条、更着束帯、参大臣殿、(後略)

●=忩(公+心。怱(いそぐ)の異体字。こちらを参照(字源))
明月記 正治2年
(1200)
7月8日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 今日不能念誦、心神猶悩、三名参御所、
夕、扶病参大炊殿(式子邸)、心神有若亡、手足振甚●、入夜帰、

●=尫(こちらを参照(字源))
明月記 正治2年
(1200)
7月25日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参御堂、中将殿見参、酉時許参東御所、即退下、権京兆来臨、為示合百首事也、弃置之身、更不及其沙汰歟、依昏謝返、即参大炊殿(式子邸)、夜半許退出、
明月記 正治2年
(1200)
8月1日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)騎馬、参北野、今日御輿迎云々、雖頗晴、猶於閑所<廻廊東>、奉幣、出御之間奉礼、信心殊深、年来常相障不参、適厳重之日奉拝也、殊以感悦、別有祈請申事、神輿出御之後、漸退出、自馬場埒東、大宮南行、帰京、於大御門前、日入了、
斎宮参人々、公卿以下、多出陽明門、各出了後、漸行於待賢門辺、暫待昏黒、中御門東行、参大炊殿(式子邸)<浄衣雖有恐、自閑所参>、戌終許退出、帰九条、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
8月6日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 早旦、依番上格子<院号始参>訖、光資来、相乗参大炊殿(式子邸)、未時許退出、向三条坊門、謁内供、即帰家、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
8月13日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 未時参詣北野、自歌一巻<入箱>、預祝申僧、可奉納之由語付了、先日参詣、心中祈願已以満足、仍重所詠進也、凌雨昇降退出、参大炊殿(式子邸)、入夜帰廬、
明月記 正治2年
(1200)
8月17日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許参院<布衣>、申入女房、退出、参大炊殿(式子邸)
申時許退出、
明月記 正治2年
(1200)
8月25日 【定家、後鳥羽上皇に『正治百首』詠進。大炊殿(式子邸)に参向】
 又持参歌於殿御前、撰定書連之、午時許退下、猶三首許不甘心之由、被仰、雖案不出来、又一二首許書之、付女房経御覧、宜由有仰、
又申合大臣殿了書連、秉燭以後持参院、
「百首進入事(右傍書)」
付右中弁進入了、(藤原)、隆房卿、同参入進之云々、
当時進人
 白川僧正 権大納言 両三位<経家・季経>
 隆信朝臣 生蓮<師光> 寂蓮
 入道左府 入道殿<已上今朝(右傍書「二人」)云々、>
尚書参御前後、退出、参大炊殿(式子邸)、夜半許退出、
明月記 正治2年
(1200)
8月28日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 今日、女房等向東山、
午時許、参大炊殿(式子邸)、帰路、行向四条三名乳母宅、入夜帰、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
9月5日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子の『正治百首』を拝見】
 巳時参大臣殿、■■[小時]退下、中将殿、令還八条殿給、仍参御堂、又退出、参大炊殿(式子邸)、給御歌見之、皆以神妙、秉燭之程帰廬、又参大臣殿、又見御歌、殊勝不可思議、深更退下之後、大雨雷鳴、
今日、延寿御前<少納言上(左傍書)>被渡<被相具女子>、謁健御前被帰了、
明月記 正治2年
(1200)
9月9日 【大炊殿(式子)重悩のこと】
 辰時許出京、参詣法輪寺<過四条末田中、出大井河、深泥落馬>、入嵯峨、下人等令食了、参御堂、帰京、(中略)
大炊殿(式子)、自昨日殊重悩御云々、自去二日御鼻垂、此両三日温気御云々、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
9月13日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳一点、参大炊殿(式子邸)、以雑色尋右中弁、只今参由相示、仍参院<春日殿>、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
9月17日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許、参大炊殿(式子邸)、酉時許、実宣少将参会<帯■[剱]>、参七夜云々、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
9月23日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許、凌雨参八条院<束帯>、(中略)
退出、参大炊殿(式子邸)、」
入夜退出、向押小路御匣殿亭、訪申退帰、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
9月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 依召参南殿、申時許退下、参大炊殿(式子邸)、於三条辺、見火<白川>、入夜帰廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
10月1日 【定家、式子邸に参向。東宮猶子、大炊殿修理のこと】
 巳時参御堂、(中略)
参大炊殿(式子邸)、女房云、春宮(守成親王)御猶子渡御事、已以一定、御所修理事并女房等出立、旁御大事云々、昏■[黒]退出、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
10月22日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許参八条院、以女房、申入吉富所課事、
午時許参院、未時許、御幸馬場殿云々、(中略)
参大炊殿(式子邸)、秉燭以後帰宅、
明月記 正治2年
(1200)
10月24日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)相扶未時許参院、御幸馬場殿云々、酉時許退出、参大炊殿(式子邸)、秉燭帰家、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
10月27日 【除目。式子内親王当年給】
(前略)除目叙人、下名以前拝賀、又有例歟、未勘見、仰云、恒事也<但御幸ハ依雨不足>、於除目者、即請印者也、何事在乎、早可申也、即退下、馳参院<布衣>、以右中弁家長・女房<相模等>、返〃畏申之由奏達、無程退出<于時未時、雨脚止、日影僅漏>、参八条殿、長経朝臣相逢云、御幸依雨延引明日由、只今披仰、申三位中将殿御慶事、即退出、(中略)
左京少進藤宗光<式子内親王当年給>(後略)
明月記 正治2年
(1200)
11月11日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)日入之間参内、勤了参大炊殿(式子邸)、亥時許還廬、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
11月16日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 朝行三名乳母宅、髪<ヲ>ソリ、巳時許還来、即布衣参院、謁女房、櫛小〃志之、参大炊殿(式子邸)、即退出、
秉燭之程、着節会装束参内、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
11月24日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参春宮(守成)、七条院、今夜御幸此院云々、南山之間、可御此御所云々、
今日大原野祭、始可有御拝云々、(中略)
御禊已前退出、参大炊殿(式子邸)、二位<公時>参会、被語此御大事闕如事等、入夜退出、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
11月25日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許参大炊殿(式子邸)、未時参春宮(守成)、始勤陪膳、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
11月27日 【定家、斎院(式子邸)に参向】
 巳時許参上、御馬・手箱等被刷之間、良久承仰参鳥羽、(中略)
昏参春宮(守成)・斎院(式子)
明月記 正治2年
(1200)
11月29日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 取御懺法散花<番>、夜前始二座、取了<此間参東殿>、退下、洗髪、申時参春宮(守成)、物詣仮触女房、秉燭退下、依有申事、参大炊殿(式子邸)、又参八条院、深更帰廬、風病更発、極無術、
明月記 正治2年
(1200)
12月5日 【大炊殿(式子)御悩のこと
 夜雪僅積、不穏地、今日奉書終経<三巻、仁王二巻・金剛般若経>、京使便聞、大炊殿(式子)御足大腫御云々、驚不少、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月7日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩、御灸あり】
 暁更帰洛、日出以後、拝入高倉、大炊殿(式子)大事御之由、宗[家?]衡来告、
巳一点参入、今日有御灸云々、此事極有怖、折節浅猿、偏此大[天]魔所為也、此吉事定難被遂、御所修理掃除、御悩之間、始不相応歟、
近代医家、於事不可憑、雅基偏申御熱之由、奉許冷、頼基申御風脚気由、而不被用云々、午時許被始御灸、但更熱不思食云々、此条又有恐、此御辺本目[自]無御信受、惣無御祈、今日、人々依申、如形被御祈等<二位土而[公?]御祭、予咒詛御祭、女房参[泰]山府御祭之、又御修法一壇事、申行事未定、申時許退出>
参春宮(守成)、戸部参会、今日七瀬御祓云々、
謁女房退出、帰九条、昏参上、大臣殿御南殿云々、即参不見参、秉燭以後退下、
明月記 正治2年
(1200)
12月8日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 辰時参大炊殿(式子邸)、実快法眼・二品(高階栄子)参会、御有様大略同事云々、午終許退出、給御願書、進日吉、未時許参八条殿、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月10日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 参大臣殿、見参之後退出、参大炊殿(式子邸)、御足只同事也云々、夕参春宮(守成)、入夜帰参大炊殿(式子邸)、今夜、宿候乾角進物 屋北方、光資等来宿所、
今夜、内裏有詩歌云々、毎事無興、称病不参、詩、松間望雪月、歌、池辺冬月、暁千鳥、寒草待春云々、
明月記 正治2年
(1200)
12月13日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許参大炊殿(式子邸)、昨日頼基参、但申間又不被用云々、雅基奉加火針、今日無別事、
申時許退出、参春宮(守成)、秉燭以前帰廬、
明月記 正治2年
(1200)
12月14日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。高階栄子(丹後局)と対面】
(前略)巳時許大臣殿、見参後、未時許退下、
参北殿退下、束帯参内、陪膳事蔵人示之、但隆雅朝臣勤了云々、仍退出、参春宮(守成)、秉燭以後参大炊殿(式子邸)、二位(高階栄子)謁談、良久述懐、此御事猶以増、更以不足言、卿典侍、以少納言内侍、有被伝申事、仍申入之、承御返事、又参二条殿、達之退出、此事始終不去[吉?]歟、吉事之聞、折節魔姓所為、猶〃不足言、傍家定解 歟、可哀云々、
明月記 正治2年
(1200)
12月15日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 巳時許、上皇御稲荷之由、聞雑人説、此間参大炊殿(式子邸)、上下相待時成朝臣帰洛、遣侍於稲荷、令待之云々、二位(高階栄子)謁談、此次被語云、去比仲国妻<二品縁者>、奉託後白川院、世間事種〃雑言、懇望述懐等称之、其事粗世間風聞云々、日入以前、時成参入、殊無申間云々、日来療治宜之由申云々、退出云々、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月18日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)巳時参大臣殿、未時許参大炊殿(式子邸)、先入三条坊門、昨日大略同御方云々、
申時許参院、御馬場殿了、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月19日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
(前略)巳時許、[依脱?]召参大臣殿、
申時退下、参御堂、取例講布施、資頼朝臣以下五六人、事了即退下、束帯参院、参春宮(守成)御方、面入見参、秉燭以後退出、参大炊殿(式子邸)、昨今御有様只同事也、但人気色頗似宜、小時退出、
参内、御仏名也、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月26日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子小康】
(前略)未時許、向高倉大納言亭、聊有招請、清談移漏、退出、参大炊殿(式子邸)、御足事、大略御減之由、医家申之云々、喜悦無極、(後略)
明月記 正治2年
(1200)
12月28日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子小康】
 巳時許参八条院、相次参院、又参大炊殿(式子邸)、事外御減之由、医家申之云々、承悦無極、申時許退出、(後略)
明月記 正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月14日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子病状重し】
 早旦、依召参大臣殿、見参之後退下、(中略)
未時許参院、御馬場殿了云々、参春宮(守成)御方、入見参退出、参大炊殿(式子邸)、二位(高階栄子)参会、御悩已重云々、秉燭退出、(後略)
明月記 正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月15日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】
 午時許、布衣参院、(中略)
参大炊殿(式子邸)、帰坊門、相具女房、帰九条、(後略)
明月記 正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月17日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子病状変わらず】
 早旦、参御所<大炊殿(式子邸)>、御悩只同事也、(後略)
明月記 正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月21日 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子病状変わらず】
(前略)参大炊殿(式子邸)、只同事云々、即退出、(後略)
明月記
源家長日記
正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月25日 【式子内親王薨去】
『明月記』(建仁2年1月25日条)
 参大炊御門旧院、今日御正日也、(後略)

『源家長日記』(建仁二年)
 ひととせぜんさい院(前斎院=式子)はかなくならせ給しことは、いえばおろかなり。(後略)
玉葉 正治3年
[建仁元年]
(1201)
1月30日 【前斎院(式子)と霊託のこと】
 暁鐘之後還御、余同之、今夜下名云々、見聞書、辰剋程■■云々、(中略)
又衛府一度<ニ>被補廿餘人、(山科)教成任中将、被恐霊託●、趙高始不信此霊託、仲国殆欲処科云々、而依前斎院(式子)<同霊託ニ被猜仰之人也、>御事、始以有信伏之気云々、仍驚而有此恩●、天下之為躰、如赴冥途他界●、不能■右々々々々、■■々々、辛酉之年可被行善政云々、此事等可叶天意哉、(後略)

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
猪隈関白記 建仁元年
(1201)
4月18日 【賀茂祭。皇后範子内親王軽服のこと】
 晴、
此日賀茂祭也、殿下密〃御見物、下官同之、近衞使渡間雨頗下、」近衞使右少將(藤原)忠信、東宮使權大進(藤原)宣房、皇后宮(範子内親王)依輕服無使云々、

範子内親王は式子の姪(父高倉天皇が式子の異母弟)。
明月記 建仁元年
(1201)
4月26日 【斎院(式子)中陰のこと】
 巳時許、先参大臣殿、今日御歌、昨日被仰合、(中略)
二位公時<今日出仕、頗無所拠、和歌非要須、笛被催他人、吉事日、斎院(式子)中陰事奉行之人、何故参乎、>(後略)
明月記 建仁2年
(1202)
1月25日 【式子内親王一周忌】
 参大炊御門旧院、今日御正日也、
「入道左府経営事(右傍書)」
入道左府(三条実房)被経営<云〃>、彼一門人済〃、予不交衆、謁尼大納言殿(龍寿御前)、退出、<今日出此院、可被害済左女牛小家、仍借車>
明月記 建仁2年
(1202)
4月25日 【龍寿御前、式子墓参】
(前略)龍寿御前、借車参常光院、帰路又来臨、別当殿・防州等相具来臨、夕被還了、(後略)
明月記 建仁2年
(1202)
5月25日 【龍寿御前、式子墓参】
 早旦行冷泉、龍寿御前来坐、被参常光院、(後略)
明月記 建仁2年
(1202)
8月22日 【以仁姫宮呪詛の噂について】
(前略)一品宮(昇子内親王)御目病、此間忽御平癒、自広隆寺、直可御院御所云々、此等事皆故歟、末代人口只如狂、彼姫宮(以仁娘)、於日吉、奉咒詛人々之由、権門辺人々、謳歌披露云々、近代生老病死、只悉有咒詛之聞、非咒詛者、無老<病(右傍書)>死之恐之由、人存歟、此皆<業(右傍書)>報耳、故前斎院(式子)、御八条殿之間、依思御付属事、<奉(右傍書)>咒詛此姫宮并女院(八条院)、彼御悪念、為女院御病之由、種〃雑人狂言、依之、斎院(式子)漸無御同宿、於押小路殿<御(右傍書)>出家■[之]間、故院(後白河)猶以此事、御不請、次故院御病最後之間、女院并三位局、咒詛邪気■[之]由、丹二品(高階栄子)謳歌、其間式法難尽筆端、次斎院(式子)奉迎春宮(守成)給、此故丹二品咒詛之由、又宮中謂之、次一品宮・三位中将殿、<并其御妻(右傍書)>近日連〃病悩、是皆彼姫宮咒詛云々、一事以上無益、可悲世也、抑仁和寺宮(守覚法親王)御病、弟子法親王(道法)方人咒詛云々<仁和寺法師又称之云々(左傍書)>、末代之極也、御祈偏祭祓也、悲哉〃〃、(後略)
明月記 建仁2年
(1202)
9月25日 【龍寿御前、式子墓参】
 龍御前被渡、参常光院実云々、
明月記 建仁3年
(1203)
11月4日 【定家、故斎院周防(式子女房)を訪問】
 招時成朝臣、目加針、入夜、白河近衛末有火、行向之間、清水谷尼上<大丞養母、亜相御姉>、御許不遠、寄門前、示参由、帰路次、間故斎院(式子)周防、
順徳天皇
史料 年月日 記述
明月記 建暦3年
(建保元年]
(1213)
1月13日 【後鳥羽上皇御幸。故斎院(式子?)墓所のこと】
(前略)秉燭之程、少将(為家)束帯、御幸供奉料、先参内、除目事伺得者、先可告由示付了、即参院了云々、内裏事未始、御幸被●、初夜鐘程御幸已成、大炊御門東、出河原云々、新院(土御門上皇)御所門前歟、雖幸路、太上皇前、頗珍事歟、今夜、去年所来之醍醐尼、来談之間、不見御幸、内大臣殿遅参、令参会東洞院大路給云々、後聞、資平中将被寄御車云々、暁鐘之程帰来、(中略)
路大炊御門東、河東又同、是古来幸路也、
(吉田)経房卿申行、為故斎院(式子?)御墓所(白川常光院?)、被弃此路了、今復古事、定有沙汰歟、

●=忩(公+心。怱(いそぐ)の異体字。こちらを参照(字源))
後堀河天皇
史料 年月日 記述
明月記 嘉禄2年
(1226)
12月18日 【定家の娘因子、禁色を聴される。定家姉妹のこと】
 早旦、相門恩札云、女房(因子)禁色事、一昨日殊申入、恩許之由、只今有其告、殊悦思者、男女両息(為家・因子)、依吹挙之恩、各遂生涯之望、感悦余身之由申之、予姉妹十一人、面〃官仕、悉有此恩、是被優祖父歟、於身無此事、年来之鬱訴也、縦雖沈淪之家、可被優外家之由、月来所申付也、今有此恩、不肖之身、男女之栄、分已以満足、
後白河院<母(藤原)為忠朝臣女(左傍書)>京極局<自仁安至于治承、唯一人祇候、乗御車後、近習奏者無余人、申仮出家之後、以三条局<(源)通親公姉>為替、 内三位・公佐等之母>
八条院坊門<母民部少輔(藤原)顕良女(左傍書)>  同院三条<予一腹、後為(藤原)盛頼朝臣妻>  同按察<已下皆一腹(左傍書)><後為大納言(藤原)宗家卿室、>  同権中納言(延寿御前)<後(源)頼房民部大輔妻>  同中納言<始終官仕、御没後着服、>
高松院新大納言(祇王御前)<乗御車後、時道・敦通朝臣母、後為左衛門督(藤原)家通室、>
建春門院中納言(健御前)<八条院同人、立后時初参、崩御以後参八条院、>  上西門院五条<在仁和寺、為五宮御乳母養子、>
前斎院<式子内親王>女別当<乗禊祭御車■[後?]、他腹>
同斎院大納言(龍寿御前)<当時存生、乗御車後、> 承明門院中納言(愛寿御前)<存生、已上皆禁色、>
先、為籠居之人、官途遂雖沈淪、法皇、於事有思食之故歟、女子禁色、男子昇殿、付時其恩異他、於下官身、以此恩許、為微望之満足、(後略)
四条天皇
史料 年月日 記述
明月記 天福元年
(1233)
3月20日 【定家、物語月次を選ぶ。故斎院(式子)下賜の絵を宮(中宮九条竴子)に献上】
(前略)此絵、如聞者、可為末代之珍歟、典侍(因子)往年幼少之時、令参故斎院(式子)之時、所賜之月次絵二巻<年来所持也>、今度進入宮(後堀河中宮竴子)、詞同彼御筆也、垂露殊勝珍重之由、上皇(後堀河院)有仰事云々、件絵、被書十二人之歌<被充月〃>
正月<敏行云々>、      二月<清少納言・斉信卿、参梅壺之所、但無歌>
三月<天暦、藤壺御製>     四月<実方朝臣、祭使神館歌>
五月<紫式部日記、暁景気>   六月<業平朝臣、秋風吹告鴈>
七月<後冷泉院御製>     八月<道信朝臣、虫声>
九月<和泉式部、帥宮叮門>   十月<馬内侍、時雨>
十一月<宗貞少将、未通女之姿> 十二月<四条大納言、北山之景気>
二巻絵也、表紙<青紗●有絵>、軸<水精>、(後略)

●=鏄(金偏+専。こちらを参照(字源))
後嵯峨天皇
史料 年月日 記述
平戸記 寛元3年
(1245)
10月24日 【故斎院(式子)大炊御門第のこと】
(未入力)



史料 記述
一代要記
後白河院天皇
(皇女)
 式子内ヽヽ[親王]<前斎■[院]>(以下、字数不明欠字あり)

二條院天皇
(賀茂)
 式子内ヽヽ[親王]<同三女、母同亮子、平治元ー卜定、>

六條院天皇
(賀茂)
 式子内ヽヽ[親王]<元、同三女、>
帝王編年記
後白河院
(皇女)
 式子内親王<賀茂齋院/母同上(高倉三位殿)>

二條院
(齋院)
 式子内親王<上皇々女/平治元年十月廿五日卜定>

六條院
(齋院)
 式子内親王<如元>

高倉院
(齋院)
 式子内親王<如元/嘉應元年七月廿六日依病退下>
二中歴
(齋院)
 式子<一院(後白川)女 平治元年>
皇代暦
二條天皇
(齋院)
 式子内親王 一院女平治元年卜定
本朝皇胤紹運録
(後白河天皇子)
(420)式子内親王[齋院。准三后。高倉宮。母同(以仁母・從三位成子。季成卿女)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
式子内親王<准三后(右傍書)><高倉宮(左傍書)> 平治元年卜定。後白川院第十一御女。母從三位成子。季成卿女。
賀茂斎院記
式子内親王
後白河院之皇女也。母従三位成子。季成之女。
平治元年卜定。
号大炊御門斎院。能倭歌。出家。法名承如法。
今鏡
(8・腹々の御子)
 今の一院(後白河天皇)の宮たちはあまたおはしますとぞ。
 后腹のほかには、高倉の三位(藤原成子)と申すなる御腹に、仁和寺の宮(守覚法親王)の御室伝へておはしますなり。まだ若くおはしますに、御行ひの方(かた)も、梵字などもよく書かせ給ふと聞えさせ給ふ。
 次に御元服せさせ給へる(以仁)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。その宮も、宮たちまうけさせ給へるとぞ。
 同じ三位の御腹に、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢の斎宮にて、姉妹(あねおとうと/亮子内親王、好子内親王)おはしますと聞えさせ給ひし。妹の宮は六条の院の宣旨養ひたてまつりて、かの院伝へておはしますとぞ聞えさせ給ふ。また、賀茂の斎院(式子内親王)にもおはすなるべし。
源家長日記
建久九年
 正月になりぬ。(後鳥羽天皇が)御くらゐゆづり申させ給て、おほゐ(大炊)の御門の前さい院(式子内親王)の御所ニうつりすませたまう[ふ]。
 いまだ布衣はじめなき程なれば、かはる所なきすがたども也。
 内侍所のかへらせ給しぞ、思しよりげにわかれの涙ところせきまで侍し。
 御剣しるし(璽)のはこ内侍とりて、御こしよりおりてわたしたてまつりし程、いでさせ給ふままに内侍所をやぶりののしりなどせし、さばかりあしたゆうべにはい(拝)したてまつりなどせし物を、あらぬさまなることかなとあきれてぞおぼえ侍し。(後略)

建仁二年
 ひととせぜん(前)さい院(式子)はかなくならせ給しことは、いえばおろかなり。かずのそひゆくにつけても、みちのれうち(陵遅)なれば、こころまうけのみぞおぼゆる。

建仁元年(式子内親王にまつわる回想)
 斎院(式子)うせさせ給にしまへのとし、百首の歌(正治二年院初度御百首)たてまつらせ給へりしに、「軒端の梅もわれをわするな(*1)」と侍りしか、大炊殿(大炊御門殿、式子内親王御所)の梅の、つぎのとしのはるここちよげに咲たりしに、ことし斗は(*2)とひとりごたれ侍し。
 ひととせやよひ(弥生)の廿日ごろに、御まり(鞠)あそばさせ給とてにはかに(後鳥羽院が)御幸侍りしに、庭のはな(花)跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうがう(名香)の香の花の匂ひに争ひたるさま、御ぢ(持)仏堂のかう(香)のかもを[お]とらずにほいいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍りき。
 ものふりたる軒に、忍わすれ草みどりふかくしげりて、あたらしくかされるよりも中々にぞみえ侍りし。
 御まりはじまりて人がちなる庭のけしきを、さこそはあれ、人かげのうちしてここかしこのたてじとみにたちかかりのぞく人も見えず。
 人のするかとだにおぼえで、日のくるるほどにおくふかく鈴のこゑして、打ならしたるかねのこゑも、心ぼそくたうと(尊)かりき。
 いくほどのとし月もへだたらで、ぬし(主=式子)なきやと見るぞかなしく、涙もとどまらずおぼゆる。
 きやうこく殿(京極殿、後鳥羽院御所)へあしたゆうべに参りかへれば、今は馬車よりを[お]りなとすることもなくてすぎありき侍に、つい(築)地のくづれより(大炊殿の様子を)見いれはべれば、庭のよもぎは軒をあらそひ、一村すすきも処えてぞ見え侍。
 ちかきほどなるに京極殿へ参りたれば、玉かがみとみがきたれられるれば、さもと[か]はりたるものかなとぞおぼえ侍。

*1:ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(式子内親王/新古今集)
*2:深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今集)
千載和歌集
  • (夏歌)賀茂の斎院(いつき)をりたまひてのち、祭のみあれの日、人の葵をたてまつりて侍けるに書きつけられて侍ける(1170〜1187年頃)
          前斎院式子内親王
(147)神山のふもとになれし葵草ひきわかれても年ぞへにける

  • (雑歌)賀茂の斎院(いつき)替り給てのち、辛崎の祓へ侍ける又の日、双林寺の御子(鳥羽皇女阿夜御前)のもとより、きのふは何事かなど侍ける返事(かへりごと)につかはされ侍ける
          式子内親王
(973)みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞぬれにし

  • (神祇歌)百首歌の中に、神祇歌よみ給ひける
          式子内親王
(1272)さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣
新古今和歌集
  • (夏歌)斎院に侍りける時、神館にて(1161-1169頃)
          式子内親王
(182)わすれめや葵を草にひき結びかりねの野べの露のあけぼの

  • (雑歌)いつきの昔を思ひ出でて(1188年以降?)
          式子内親王
(1486)ほとゝぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ

成立年は馬場あき子氏説「これほどの名歌が「千載集」に採録されていないのは、その撰進(1188年)以降の作であると考える方が妥当であろう」に従う。

  • 左衛門督(藤原)家通中将に侍りける時(1162-1164頃?)、祭の使にて、神館に泊りて侍けるあか月、斎院(式子)の女房の中よりつかはしける
          読み人しらず
(1487)立ち出づるなごり有明の月かげにいとゞかたらふ郭公(ほととぎす)かな

  返し      左衛門督家通
いく千代とかぎらぬ君が御代なれどなをおしまるゝけさの曙

馬場あき子氏は応保2年(1162)または長寛元年(1163)頃かとする。
なお家通の中将在任は、永暦元年(1160)2月から永万2年(1166)6月。また賀茂祭の近衛使は、応保元年(1161)右少将源通能、永万元年(1165)右中将実守、永万2年(1166)右少将源顕信。

林下集
(徳大寺実定)
  • 斎院(式子)の女房の元より、本院の桜ををりてこれはみるやと申しつかはしたりしかば(1162-1165頃)
(29)ひとえだのにほひはあかず神がきやはなのこずゑをゆきてながめむ
 (一枝の匂ひは飽かず神垣や花の梢を行きて眺めむ)

  返事
(30)ひとえだをあかずおもはばさくらばなこずゑにのこるほどをすぐすな
 (一枝を飽かず思はば桜花梢に残る程を過ぐすな)
  • かくてのちとしへだたりて、またかの女房のもとより
(31)たのめしをなほぞまたるるとしをへてかはらぬ花の心ならひに
 (頼めしを猶ぞ待たるる年を経て変はらぬ花の心ならひに)

  返事
(32)年をへてはるはわがみのよそなればかはらぬ花を如何がみるべき
 (年を経て春は我が身のよそなれば変はらぬ花を如何が見るべき)

  またおなじ人のもとより
(33)しめのうちのかみのめぐみにかかりなばはなさく春をよそにしもみじ
 (標の内の神の恵みにかかりなば花咲く春をよそにしも見じ)

式子の先代斎院であった30代怡子は、平治元年(1159)実定が21歳の時に退下している。また式子の後、32代僐子33代頌子は本院入りしておらず、34代範子は治承4年(1180)4月に本院入りしたが、翌養和元年(1181)1月に退下のため、本院で桜の季節を迎えたことはない。
なお実定は永万元年(1165)8月に権大納言を辞した後、治承元年(1177年)3月大納言に還任するまで長く散位となっている。「春は我が身のよそなれば」はこの失意の頃と思われ、従って上記歌の「斎院」は式子であろう。
(参考論文:高柳祐子「歌人式子内親王の揺籃期をめぐって」)

実家集
  • こ(故)大納言さねくに(滋野井実国)の卿の、いまださい(宰)相の中将ときこえしとき(1162-1164頃)、はなみ(花見)むといざなはれしを、さは(障)る事ありておそくゆきたりしかば、雲林院のかた(方)へと人いひしに、そなたをさしてゆきたるに、斎院(式子)にまゐ(参)りて、人人、はな(花)のうたいまみあ(見合)はせんとせしほどなり、ただあらむよりはとて、ふかくもおもはず
(34)はる風ははなさそふらしなみのうへにきえせぬゆきのありすがはかな
 (春風は花さそふらし波の上に消えせぬ雪の有栖川かな)
  • 女ばう(房)こと(琴)ひきなどして、あそびて、ふけゆくほどにまかりいでしに、このたびはつれづれなるにとて、あつまりのりたるに、おほみや(大宮)すこしやりすぐすほどに、本院よりさぶらい(侍)をはしらせていひたるうた
(35)心ざしひくかたならぬはななればいかなることのはにもとまらず
 (心ざし引く方ならぬ花なればいかなる言の葉にもとまらず)

  かへりごと
(36)ことのはもはなもひくかたしかはあれどいへぢをながくわするべしやは
 (言の葉も花もひく方しかはあれど家路を長く忘るべしやは)

実国の宰相中将(参議)在任は、永暦元年(1160)4月から永万元年(1165)1月まで。
季節が春で、また式子が本院入りした永暦2年(1161)4月16日(夏)より後と見られることから、1162〜1164年の間と思われる。

建礼門院右京大夫集
  • 大炊御門の斎院(式子)、いまだ本院におはしましし頃(1162-1169頃) 、かの宮の中将の君のもとより、「御垣(みかき)の内の花」とて、折りてたびて、
(72)しめのうちは身をもくだかず桜花をしむこころを神にまかせて

  かへし
(73)しめのほかも花としいはむ花はみな神にまかせて散らさずもがな

これも春の歌で、式子の本院入りは永暦2年(1161)4月16日(夏)であるから、翌1162年以降。
 また退下は嘉応元年(1169)7月24日につき、下限は同年春までとなる。

言葉和歌集
  • 本院の藤さかりなりけるを、「こころあらん人にみせばや」と女房申しあひたりければ、高倉三位の御許へよみてたてまつりける(1161-1169頃)
          前斎院帥
みせばやないろもかはらぬこのもとのきみまつがえにかかるふぢなみ
(見せばやな色も変はらぬ木の元の君松が枝にかかる藤波)

  返し      高倉三位
しめのうちにのどけきはるのふぢなみはちとせをまつにかかるとをしれ
(標の内にのどけき春の藤波は千歳を待つにかかるとを知れ)

  • としごろさぶらいけるところに、ひさしくまゐらで、あからさまにまゐりけりたるに、「かきたえたるかはりに、びは(琵琶)をひきていでよ」とて、たまはせたりければ
          前斎院帥
むつごともいまはたえたるよつのをはなにによりかはものがたりせん
(睦言も今は絶えたる四つの緒は何によりかは物語せん)

  御返(式子?)
むつごとも■のかはせんよつのをのむかしのこゑをきかばこそあらめ
(睦言も■の交わせん四つの緒の昔の声を聞かばこそあらめ)


 ←前

戻る

次→