斎院関連用語集並びに考察





櫟谷七野神社境内(2003年9月26日撮影)





【賀茂斎院関連用語集】
 本来、賀茂神社に仕える女性の呼称は内親王であれば「斎内親王(さいないしんのう/いつきのひめみこ)」、女王であれば「斎王(さいおう/いつきのみこ)」とするのが正しく、斎内親王・斎王が住まうための御所を斎院と称した。ここから転じて、斎院(御所)にいる斎王(人物)のことも「斎院」と称するようになったもので、これは伊勢斎宮の場合も同様である(なお「院」とは「垣を巡らした大きな屋敷・建物」を意味し、斎宮の「宮(=宮殿)」よりも規模の小さな施設であることを示す)。
 平安時代には伊勢と賀茂の二つの斎王が存在したため、伊勢の斎王を斎宮(または伊勢斎宮)、賀茂の斎王を斎院(または賀茂斎院)と呼ぶのが一般化した。よって当サイトでも、賀茂の斎王=「斎院」で統一しているが、この【関連用語集】の説明に限り「人物としての斎院」と「御所としての斎院」を区別するために、人物を「斎王」、御所を「斎院」と表記する。


  • 賀茂神社(かものやしろ)
     山城国一宮。山城国葛野(現在の京都市)に鎮座する。上下両社があり、現在は上社が上賀茂神社(賀茂別雷神社、京都市北区)、下社が下鴨神社(賀茂御祖神社、京都市左京区)の名で知られる。
     祭神は下社が賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)と、その娘玉依媛命(たまよりひめのみこと)、上社が玉依姫の子賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)。
     古来京都盆地を勢力圏としてきた豪族・賀茂氏(鴨氏、賀茂県主(かものあがたぬし)とも)が氏神を祀った社であり、創建は紀元前(崇神天皇朝)という。また同じく山城国に定住した渡来系の秦氏とも縁が深く、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『山城国風土記』等に名前が見える。伝説では欽明天皇朝の飢饉で朝廷が祀るようになったと言われ、奈良時代には既に朝廷にも重んじられる有力な神社であった。
     その後長岡京遷都、続く平安京遷都に際して賀茂社に奉幣が行われ、807年には正一位の神階を受けて、以後王城鎮護の社として伊勢神宮に次ぐ篤い崇敬を集める。そして810年、嵯峨天皇により賀茂斎院制度が定められ、その後約400年35代に渡り「阿礼乎止女(あれおとめ)」として皇女たちが奉仕することとなった。



    上賀茂神社(2013年8月17日撮影)


    下鴨神社(2007年5月12日撮影)



  • 卜定(ぼくじょう)
     斎王となる内親王または女王を、占いによって選ぶこと。主に新天皇の即位、もしくは前斎王の任期終了(両親の死去や本人の病などによる)に伴い、新たな斎王が定められる。


  • 初斎院(しょさいいん)
     卜定の後に定められる、斎王が潔斎に籠るための便所(仮の場所)。大内裏の殿舎から占いにより選ばれ、斎王は東河(賀茂川)で潔斎の後、およそ1年あまりを初斎院で過ごす。(伊勢斎王は初斎院の後に野宮(平安以降は主に嵯峨野)へ移りさらに潔斎を続けるが、賀茂斎王は初斎院の後に直接紫野の本院へ入り、退下まで滞在した)
     文献上の初見は6代儀子内親王の記事(『日本三代実録』貞観元年(859)12月25日条)である。なお伊勢斎王も平安遷都後最初の記録は同時に卜定された恬子内親王であり、伊勢・賀茂共にこの頃までに制度として整えられたと思われる。
     初斎院入りの時期については、伊勢斎王は8〜9月頃であるが、賀茂斎王は卜定の時期によりまちまちである。記録が残るのは18例で、その内半分の9例が4月であり、これは伊勢斎王が群行と同時期の8〜9月としたのと同様に、賀茂斎王の場合は翌年の本院入りの4月(=賀茂祭)に合わせたものと思われる。また卜定と同年の初斎院入りは15代尊子内親王以前の3例のみで、大半が翌年に初斎院入りしている。
     なお初斎院の場所は、記録に残る例では左近衛府・大膳職などが多い。(文献上の初見は10代君子内親王の宮内省)


  • 本院(ほんいん)
     洛北の紫野に建てられた、斎王が生活するための御所。別名斎院紫野院紫野斎院紫野本院紫野宮野宮とも称する。(※伊勢斎王の「野宮」は伊勢へ群行する前に一時滞在する潔斎所を指すもので、賀茂斎王の「野宮」とは異なる)
     初期本院の所在地は不明で、紫野本院の文献上の初見は4代慧子内親王の本院入りの記事(『文徳天皇実録』仁寿2年(852年)4月19日条)である。複数の文献に残る記録から、本院は大宮末路に西面し、一条大路より北、雲林院より南にあったことが判っている。(角田文衛氏の研究では、現在の京都市上京区・櫟谷七野神社(Google Map)界隈が本院のあった場所であるという。また小山利彦氏は、有栖川との位置関係から櫟谷七野神社より南東側にあったとする)
     構造は内院と外院からなり、内院には神殿・寝殿(斎王の住まい)・対屋・汗殿(斎王が月経の際、穢れを避けるため篭る建物。「汗」は血の忌詞)・客殿、また外院には斎院司や炊殿、鳥居があったとされる。
     斎王は初斎院での潔斎を終えた後、卜定から3年目に本院へ入るものと定められ、卜定から本院入りまでの期間は2年以下が一般的であった。卜定と本院入りの年月日が判明している24例のうち、17例は2年未満で、最短は14代婉子内親王の1年3か月半である。また2年以上3年未満が5例、3年以上は2例のみで、最長の7代敦子内親王(3年2か月)から11代恭子内親王(2年2か月)までの連続5人が2年以上となった後は、2年以上かけて本院入りした斎王はほとんどいない。(なお残り11例のうち、本院入りが確実な4代慧子内親王以降の4例は本院入りの年月日が不明で、4例は本院入り自体がなかった)
     本院入り以降、斎王は賀茂祭などの例外を除き、在任期間の殆どを本院で過ごした。

     参考図書:
     ・角田文衛『王朝文化の諸相』(法蔵館, 1984)
     ・小山利彦『源氏物語と皇権の風景』(大修館書店, 2010)


  • 賀茂祭(かもさい/かものまつり)
     賀茂神社の例祭。毎年旧暦四月に行われ、石清水祭・春日祭と並ぶ三勅祭の一つである。現在は葵祭と呼ばれ、太陽暦五月十五日に行われる。朝廷により行われる主な儀式と日程は以下の通り。

    • 斎王御禊〜中午日。斎王の禊。詳細は後述。
    • 賀茂警固儀〜中申日(後に中未の日)。祭にあたり宮中の警護を命じる。
    • 摂関賀茂詣〜中申日。摂政または関白の賀茂社参詣。
    • 宮中の儀〜中酉日。勅使派遣の儀式。(以下還立の儀まで同日)
    • 路頭の儀〜内裏から上下社までの行列。斎王も途中で加わる。
    • 社頭の儀〜下社と上社での奉幣、祭文奏上、牽馬、舞楽奉納など。
    • 還立の儀〜内裏へ帰還、報告。
    • 解陣の儀〜中戌日、警護の解散。


  • 斎王御禊(さいおうごけい)
     祭に先立ち、斎王は四月中午日に鴨川の川辺で禊(みそぎ)を行う。(現在の葵祭では上社・下社の境内で禊を行うが、この慣習は古代にはなかった) 本院を出発して大宮末路を一条まで南下、一条大路を東に進んで申刻に鴨川に至り、酉刻に御禊を行い、日没の頃斎院に還御した。(『京の葵祭展』(京都文化博物館)より。原史料は調査中)
     斎王御禊は賀茂祭の中でも、路頭の儀と並んで斎王が人々の前に姿を現す数少ない機会であった。行列は多くの文官武官を従えて総勢240名あまりに達することもある華やかさで、通り道の一条大路には貴族たちも桟敷や牛車で見物に繰り出し、大変賑わった。
     なおこの斎王御禊は、厳密には三種類に区分される。(呼称は『延喜式』による)

    • 初度御禊〜新しい斎王が決められて、初斎院(宮中の潔斎所)に入る際の御禊。勅使は参議1人。(4月以外のことが多い)
    • 初斎院御禊〜卜定から3年目の4月、賀茂祭を前に斎王が初めて本院へ入る際の御禊。この時のみ、斎王は輿(恐らく葱花輦(*1))に乗った。勅使は大納言1人・中納言1人・参議2人の計4人で、最も大規模な御禊であった。
      (※資料により「二度の御禊」「再度の御禊」とも称する)
    • 尋常四月御禊〜本院へ入って以降の、賀茂祭を前に行う4月の通常の御禊。勅使なし。

    「初度御禊」「初斎院御禊」は斎王一代につき一度きりで、後はすべて「尋常四月御禊」である。
    『源氏物語』(葵)で光源氏(当時右大将兼宰相)が供奉し、その晴れ姿を見ようとした正室葵の上と六条御息所の車争いが起こったのが、この斎王御禊の行列見物の時である。作中の描写から賀茂祭の直前、即ち4月であることが判るが、16代選子内親王以前の「初度御禊」の記録で4月に行われたものはなく、また「上達部など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど」とあることから、勅使が参議1人と定められた「初度御禊」である可能性は低い。また「尋常四月御禊」には勅使は参列しないので、この御禊は「初斎院御禊」であると言われる。(『花鳥余情』ほか)

     なお同日、上社で御阿礼祭、下社で御蔭祭がある。どちらも両社の神体山から神の御魂を神社へ迎える神迎えの儀式であり、現在も継承されているが、上社の御阿礼祭は秘祭で一般には公開されていない。

    *(1)葱花輦(そうかれん)〜天皇用の略式の輿。葱華輦とも表記する。屋根の頂に葱の花の形をした金の宝珠を載せていることから、この名がある。主に天皇が神事や行幸等で使用した他は、皇后・東宮・斎王のみに許されたもので、伊勢斎王の群行でも使用された。
    (※なお、天皇用で最も格式の高い輿は鳳輦。頂に金の鳳凰を載せており、即位や大嘗会等の晴の行幸に使用される)



    葱花輦・風俗博物館にて(2013年8月19日撮影)


  • 路頭の儀(ろとうのぎ)
     中酉の日は賀茂祭の当日である。
     まず内裏で「宮中の儀(内蔵寮の役人が、天皇より幣物と宣命を賜り、天皇が神馬をご覧になる)」が行われる。その後勅使が出発、斎王も本院を出て、一条大路で勅使の行列と合流して賀茂神社へ向かう。これを「路頭の儀」と称し、斎王御禊と並んで多くの見物客で賑わった。(『源氏物語』で車争いの後日、光源氏が紫の上と共に見物に行ったのがこの「路頭の儀」である)

     当日の斎王は路頭では牛車に乗り、装いは五衣に裳唐衣、垂髪に平額と釵子を付ける正装であったと推測される。なお下社に到着した後は、清服に改めて葱華輦に乗り替えた。(『江家次第』。現在の葵祭では、斎王代は御所出発時から輿に乗る)
     行列はまず下社、次いで上社に入り、それぞれ内蔵使(くらつかい)が神前に幣物を捧げる「社頭の儀」が行われる。(後には近衛使が行ったらしい) なお社に入った斎王は、境内の斎院御所で禊を行った。(現在下鴨神社境内に残る「斎院御所跡」は、この禊が行われた御所のことであり、紫野の本院のように斎王が日常の生活を送った場所ではない)
     上下両社での奉幣が終了すると、勅使の一行は宮中へ帰還して「還立(かえりだち)の儀」で報告を行い、翌日の中戌日に「解陣の儀」で警護を解き、朝廷が行う賀茂祭は終了した。



    斎王代の腰輿・京都御所にて(2004年5月15日撮影)


     ところで「社頭の儀」の後、斎王も同様に斎院に帰還したが、遅くなった場合は上社境内の神館に宿泊、帰還が翌日となることもよくあったらしい。この帰りの行列は「祭のかへさ」とも称し、清少納言は『枕草子』203段で「見るものは行幸。祭のかへさ。御賀茂詣」と挙げて、行列や見物の様子を以下のように記している。
     祭のかへさいみじうをかし。きのふは萬の事うるはしうて、一條の大路の広う清らなるに、日の影もあつく、車にさし入りたるもまばゆければ、扇にて隱し、居なほりなどして、久しう待ちつるも見苦しう、汗などもあえしを、今日はいと疾く出でて、雲林院、知足院などのもとに立てる車ども、葵かつらもうちなえて見ゆ。(中略)
     いつしかと待つに、御社の方より、赤き衣など著たる者どもなど連れ立ちてくるを、「いかにぞ、事成りぬや」などいへば、「まだ無期」など答へて、御輿、腰輿など持てかへる。これに奉りておはしますらんもめでたく、けぢかく如何でさる下司などの侍ふにかとおそろし。はるかげにいふ程もなく帰らせ給ふ。葵より始めて、青朽葉どものいとをかしく見ゆるに、所の衆の青色白襲を、けしきばかり引きかけたるは、卯の花垣根ちかうおぼえて、杜鵑もかげに隱れぬべう覚ゆかし。昨日は車ひとつに数多乗りて、二藍の直衣、あるは狩衣など乱れ著て、簾取りおろし、物ぐるほしきまで見えし公達の、斎院の垣下にて、ひの裝束(束帯)うるはしくて、今日は一人づつ、をさをさしく乗りたる後に、殿上童のせたるもをかし。(後略)


  • 退下(たいげ)
     斎王が任期を終え退くこと。主として天皇の代替わり(譲位・崩御)によると定められたが、賀茂斎王の場合は伊勢斎王とは異なり据え置きのことが多かった。この他、斎王は死の穢れを忌避することから、斎王の父母が死去すると斎王も退下した。また、賀茂斎王は本人の病気による退下も多く、稀に斎王の死亡による交替もあった。(9代直子女王と12代宣子内親王が在任中に死去、10代君子内親王も退位即日(または翌日)に亡くなっている)
     なお退下に際し、斎王は本院を出た後に近江国の唐崎へ赴いて禊(唐崎祓)を行い、その後帰京する習わしであったらしい。(最古の記録は16代選子内親王の例だが、それ以前からあったものと思われる) 伊勢斎王にも同様のしきたりがあり(伊勢斎王退下の禊は難波津で行われた)、この禊は斎王が神に奉仕する神聖な存在からただ人へ戻るために必要な儀式であったと見られる。

     参考論文:
     ・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」
      (『古代文化』31巻10号, 1979)


【皇族関連用語集】
  • 内親王(ないしんのう)
     親王宣下(しんのうせんげ/皇族に親王・内親王の称号と資格を与えること)を受けた女性のこと。主に天皇の娘(皇女)または姉妹である。
     平安時代は親王宣下を受けた皇女のみが内親王となり、天皇の娘でも宣下を受けなかった皇女は源氏などの姓を賜り臣籍に降下した。なお天皇の娘・姉妹以外でも、天皇(主に祖父)の養子になった場合、例外的に親王宣下を受け「内親王」とされることもあった。(斎院では30代怡子が皇孫内親王である)
     内親王以下皇族女性の婚姻相手は本来皇族に限られ、臣下との婚姻(降嫁)は許されなかった。しかし平安時代に嵯峨天皇が臣籍降下した皇女と藤原氏の婚姻を許可した(初例は藤原良房と嵯峨皇女源潔姫)ことで、徐々に規制が緩和されていった。そして平安中期、藤原師輔が(私通という形ながら)醍醐皇女勤子内親王と結婚したのを初例に、以後主に摂関家と内親王の縁組がしばらく続いたが、院政期に入ると准母立后(後述)などによる不婚内親王の増加で降嫁は消滅した。


  • 女王(じょおう・にょおう)
     親王の娘のこと。奈良時代までは天皇から数えて四世(玄孫)までの子孫について皇族と見なし、男子を王・女子を女王と称したが、平安時代の女王は殆どが二世の皇孫(天皇の孫)であった。これは皇孫の男子(王)も臣籍降下が一般的になり、その結果三世(曾孫)以下の皇族が殆ど消滅したためである。(ただしその場合も、親王の娘(女王)は息子(王)のように降下せず皇族に留まることが多かった)
     なお女王は元々内親王同様、臣下との婚姻は許されていなかったのだが、桓武天皇の時代に初めて藤原氏と皇孫(女王)の婚姻が許可された。以後、藤原北家との婚姻が次第に増加していったが、このため皇族女性の少ない時期には斎王候補も減少することとなった。


  • 三后(さんこう)
     皇后(中宮)・皇太后・太皇太后のこと。三宮(さんぐう)とも称する。
     平安時代中期には「后(きさき/天皇の正妻または母)」は三后即ち3人までと定められており、先帝以前の后が3人いれば、制度上現帝には皇后が立てられないことになっていた。しかし一条天皇の時代、三后が太皇太后昌子内親王(冷泉中宮)・皇太后藤原詮子(一条母)・中宮藤原遵子(円融中宮)で塞がっていた際に、中宮藤原遵子を「皇后宮」とし、藤原定子(一条天皇女御)を「中宮」とする「四后」が初めて登場する。(注:「中宮」は本来「皇后」の別称、つまり同一のものを差していたが、この時は「先帝の皇后」と「現帝の皇后」は別と見なして現帝皇后を「中宮」とした) さらに一条女御藤原彰子の立后で彰子が中宮、定子が皇后宮という「一帝二后」の四后の例が開かれ、その後院政期には「尊称皇后」という新たな形で継承されていくこととなった。(※なお後冷泉天皇の代に一度だけ、一帝三后の例があった)


  • 尊称皇后(そんしょうこうごう)
     天皇の嫡妻ではない(=婚姻関係にない)、称号のみの后のこと。「非妻后の皇后」とも称する。幼い天皇の姉やオバにあたる不婚内親王(生涯独身の内親王)が、天皇の母代わり(准母)として冊立されることが多い。このように内親王が尊称皇后に立つことを「准母立后」と呼び、院政期から鎌倉末期まで9人の尊称皇后が存在した。(後記【退下後の斎院について】参照)


  • 女院(にょいん・にょういん)
     太上天皇(上皇)に準ずる待遇を受けた女性。歴史上最初の女院は東三条院藤原詮子(円融女御、一条母)で、始めは国母(天皇の生母)となった后妃に院号が与えられるものとされた。その後国母でない天皇の正妃(皇后・中宮)や天皇准母の不婚内親王、后妃ではない天皇生母などに範囲が拡大され、江戸時代末期まで制度として続いた。なお平安時代後期には、前斎王の不婚内親王が准母立后の後に女院とされる例が多く、斎院では28代統子内親王(上西門院)・34代範子内親王(坊門院)・35代礼子内親王(嘉陽門院)の3人がいる。(※ただし礼子内親王は准母立后していない)



付記・続柄について
 当サイトでは、斎王と天皇との血縁を表現するにあたり、あまり馴染みのない続柄の呼称を用いていることもあります。そのいくつかについて、簡単な説明を以下にあげておきます。
  • いとこおじ・いとこおば〜父母のいとこ。5親等。
  • いとこ甥・いとこ姪〜いとこの子。5親等。
  • いとこ孫〜いとこの孫。6親等。いとこ大甥、いとこ大姪とも称する。

 曽祖父===曾祖母
     |
     ├───────┬─────────────────┐
     |       |                 |
    大伯父      祖父===祖母          大叔父
                |              │
   ┌───┬───┬────┴─┬───┐        ├──────┐   
   |   │   │      │   │        │      │
   伯父  伯母  父===母  叔父  叔母     いとこおじ  いとこおば
   │         |                 │
   │         ├──┬──┬───┬──┐    │
   │         │  │  │   │  │    │
  いとこ        兄  姉  本人  弟  妹  またいとこ
   │         │
   ├────┐    ├──┐
   │    │    │  │
  いとこ甥 いとこ姪  甥  姪
   │         │
   │         │
  いとこ孫       甥孫


※なお、上記の言葉には漢語表現(いとこ甥=従甥など)もありますが、判りにくいのでここでは載せていません。また、用語中に含まれる「おじ(伯父/叔父)」「おば(伯母/叔母)」や「いとこ(従兄弟・従姉妹)」などは同音異字で混乱を招きやすいので、ひらがな表記で統一しました。
注:伯父・伯母は父母の兄姉(年上のきょうだい)、叔父・叔母は父母の弟妹(年下のきょうだい)のこと。年齢が判るものについては漢字表記を用いるが、年齢不明の場合は仮名表記とする。


【斎院卜定とその背景について】
  • 内親王と女王
     賀茂斎院は伊勢斎宮と同様、皇族の未婚女性(内親王または女王)から選ばれる。元々は内親王から選ぶのが原則で、「若無内親王者(もし内親王無くば)」、即ち候補となりうる内親王が不在の場合に限り、次善の策として女王を選ぶという方針であった(この「不在」は内親王が存在しないだけでなく、いても喪中である場合や、既に結婚している、また年齢が高すぎるなどの理由で候補に該当しない場合も含む)。
     しかし平安時代中期以降になると、急に女王出身の斎宮が増えた。これは候補となる内親王が存在する場合でも、敢えて女王から選んだと見られることから、斎宮の存在意義の低下や卜定への忌避を指摘する研究者もいる。
     これに対し、斎院は原則の通りに極力内親王から選ぶという不文律があったと見られ、女王出身の斎院は9代直子女王、23代斉子女王、30代怡子女王の3人のみである(※怡子は内親王宣下を受けていたらしい)。このうち直子女王を除き、斉子・怡子の例は記録に残る限りでは候補となる内親王が「本当に一人も存在しなかった」らしく、本来の「若無内親王者」に従ってやむを得ず女王を卜定したと見られる。

    ※なおこの他、卜定時に女王であったが、退任後に父の即位により内親王宣下を受けた2代時子内親王と、同じ理由で在任中に宣下を受けた8代穆子内親王の例がある。(また18代娟子内親王も厳密には卜定時に女王だったが、父後朱雀天皇は既に即位しており、卜定の僅か7日後に内親王宣下を受けていることから事実上内親王の卜定と考えられるので除外) この2人を含めれば、厳密な意味での女王斎院は5人となる。
     しかし時子女王(当時)が卜定された時、時子の父正良親王(後の仁明天皇)は既に皇太子であり、いずれは父の即位で内親王宣下を受けることが確定していた。よってこれも、事実上は(未来の)皇女の卜定同然であったと考えられる。(※逆に穆子内親王の場合は、卜定当時父光孝天皇の即位はまったく予想外であった)
     ともあれ、生涯皇孫もしくは在任中全期間女王であった「女王斎院」は合計4人ということになるが、言うまでもなく斎宮に比べて大幅に少ない。(斎宮は平安時代だけで女王が10人いた)

     また斎院は生母の出自が高い例が多く(ただし平安中期から後期限定)、歴代の内以下8人がいわゆる后腹(きさいばら/皇后・中宮が産んだ皇子女の意味)である。なお斎宮で后腹内親王は、平安時代では輔子内親王(村上皇女)・当子内親王(三条皇女)・良子内親王(後朱雀皇女)・媞子内親王(白河皇女)の4人である。

     ・16代選子内親王(母・村上中宮藤原安子)
     ・17代馨子内親王(母・後一条中宮藤原威子)
     ・18代娟子内親王(母・後朱雀皇后禎子内親王)
     ・19代禖子内親王(母・後朱雀中宮藤原嫄子)
     ・24代令子内親王(母・白河中宮藤原賢子)
     ・25代ヮq内親王(母・白河中宮藤原賢子)
     ・28代統子内親王(母・鳥羽中宮藤原璋子)
     ・29代禧子内親王(母・鳥羽中宮藤原璋子)

     この他、天皇同母姉妹の斎院は以下11人である。(特に院政期に多い)

     ・6代儀子内親王(清和天皇妹)
     ・7代敦子内親王(陽成天皇妹)
     ・15代尊子内親王(花山天皇姉)
     ・16代選子内親王(冷泉天皇・円融天皇妹)
     ・18代娟子内親王(後三条天皇姉)
     ・21代佳子内親王(白河天皇妹)
     ・22代篤子内親王(白河天皇妹)
     ・24代令子内親王(堀河天皇姉)
     ・25代ヮq内親王(堀河天皇妹)
     ・28代統子内親王(崇徳天皇妹・後白河天皇姉)
     ・29代禧子内親王(崇徳天皇妹・後白河天皇姉)


  • 年齢
     斎院の年齢(※生年の判明しているものに限る)については、卜定時の最年少が2歳(11代恭子内親王、28代統子内親王(満11か月)、34代範子内親王(満7か月)の3人)、最年長が28歳(14代婉子内親王。ただし26〜27歳の可能性もあり)である。伊勢斎宮もほぼ同様であったことから、およそ30歳前後が斎王の卜定年齢の上限であったと思われる。
    ※堀河天皇の皇女とされる斎宮喜子内親王は年齢不詳だが、堀河天皇の崩御(嘉承2年(1107)7月19日)から44年後の仁平元年(1151)に卜定されている。年齢の確実な歴代斎宮・斎院の卜定はすべて30歳以下であり(最高齢は斎宮利子内親王の30歳)、また喜子内親王の卜定当時他にも斎王候補は存在したので、あるいは「堀河皇女」は誤りかとも考えられる(※当時の史料で喜子を堀河皇女とするのは『台記』のみで、『本朝世紀』には誰の皇女か記載がない)。
     また退下年齢は、最年少が5歳(34代範子内親王)、最年長は68歳(16代選子内親王)であり、特に上限はなかったものと見られる。


  • 退下理由
     斎宮・斎院が退下するのは天皇の譲位・崩御が基本であり、斎宮は(途中で交替がない限り)必ず天皇一代に一人の原則が貫かれたが、斎院は天皇の代が替わってもそのまま据え置きとされることが多かった(理由は不明だが、斎院は斎宮と異なり都から遠く離れた場所に行くわけではなく、また人員不足もあったかもしれない)。また斎王の両親の喪も退下理由として多く見られるが、逆に卜定の時点で既に両親が死去していた斎院の場合、在任期間が長いことが多い(特に16代選子内親王は56年、14代婉子内親王は35年と、歴代1位と2位の長さだった)。
     しかし一方では、斎院本人の病などにより任期途中で退下した例も多く、在任中または退下後間もなく亡くなった斎院が歴代で6人もいる(9代直子女王の項参照)。しかもいずれも年齢は非常に若く、このことから斎院の退下にはよほどの理由がなければ許可が下りなかった可能性も考えられる(注・斎院の平均在任期間はおよそ10年である)。

     堀口悟氏は、斎院の退下理由として「1.父の喪、2.母の喪、3.自身の死、4.斎院の任に堪え得ないと判断された病」の4点を挙げており、ここには天皇の譲位・崩御が含まれていない。確かに斎院は斎宮と異なり、二代またはそれ以上の天皇の斎王であった例が多いが、14代婉子内親王の場合は村上天皇(異母弟)の崩御によるものである可能性が高い(※婉子は937年に同母兄弟の代明親王が薨去した時、兄弟の喪により賀茂祭へ参るか否かが詮議された記録があるが、退下については取り沙汰されていない。これにより、村上天皇の場合も「兄弟の喪」が退下理由ではなかったと考えられる)。
     『養老律令』喪葬令によれば、「現天皇(=君)の崩御」は父母と同じく1年の服喪に相当し、とりわけ次代の天皇が崩御した天皇の子であった場合、崩御から1年の間諒闇となり大嘗祭を始めとする神事の多くが中止(または延期)とされた。この点からも「現天皇の崩御」=「次代天皇の諒闇」であった場合、父ではない天皇の崩御が斎院退下の理由の一つになりえたことを完全に否定はできないと思われる。

     なお、20代正子内親王と30代怡子内親王は、在任中に天皇崩御(後冷泉天皇と近衛天皇)があったにもかかわらず退下していない。ただし掘裕氏の説によれば、後一条天皇以降の時代は天皇が在位中に崩御した場合であっても、死去する直前に譲位したと見なす「如在之儀」により、名目上はあくまで「譲位後の崩御」とされたという。つまり正子・怡子の場合は天皇崩御ではなく天皇譲位であったことになり、これは堀口氏の「天皇譲位で斎院は退下しない」とする説とも一致している。
     また25代ヮq内親王の場合、兄堀河天皇の崩御と同日に病により退下したとされる。これも堀河天皇が「如在之儀」で譲位した後に崩御したと見なされ、本来であれば斎院が退下することはなかったためと思われる。こうした例から、18代娟子内親王の退下理由についても、父後朱雀天皇の譲位ではなく崩御によるものであった可能性が高いと考えられる。

    参考論文:
    ・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」
     (『古代文化』31巻10号, p608-631, 1979)
    ・堀裕「天皇の死の歴史的位置:「如在之儀」を中心に」
     (『史林』81(1), p38-69, 1998)


  • 交替
     斎宮・斎院退下→新斎王選出にあたり、天皇崩御による(と思われる)交替の場合は、大抵服喪(諒闇)の明けた1年以上後に次の斎王が卜定された。しかし先代斎王が母の喪で退下した時は次の斎王卜定まで間がないことが多く、その場合先代の同母姉妹が新斎王となった例がないことから、服喪期間中の内親王・女王も死穢を避けるため候補にはならなかったと見られる。


  • 姉妹の場合
     同母姉妹の内親王で斎院候補が複数存在する場合、姉よりも妹が斎院に選ばれる例が多い。この傾向は平安中期以降に顕著で、特に后腹内親王の長女は一品に叙される例が多く、姉妹の中で姉が優遇される傾向にあったらしい。また斎宮・斎院に選ばれることは、内親王本人やその周囲からも敬遠されたらしいことが史料から伺える(都を遠く離れる斎宮は言うまでもないが、斎宮・斎院は仏教を禁じられたことも理由の一つである)。
     なお、板倉則衣氏は斎宮・斎院が同時に卜定された場合について、斎宮に年長者を選ぶ傾向があることを指摘している。また斎院と同時でない場合にも、斎宮は候補者の中から最年長者を選ぶ例が多い(ただし全てではない)ことに着目しており、斎院選定にあたっては后腹内親王の姉妹で妹(年少者)が選ばれる例が多いのとは対照的である。

     関連論文:
     ・板倉則衣「伊勢斎宮の選定に関する小考」
      (『日本研究』42, p123-167, 2010)PDF全文あり


    ※なお、卜定されなかった皇女たちについては「その他考察」にて、もう少し踏み込んで考察しています。


【退下後の斎院について】
  • 結婚
     前斎院が退下した後、どのような生活を送っていたかについて詳しい史料の残る例は少ないが、恐らく殆どは前斎院であっても通常の内親王や女王とさほど変わらない生活を送っていたものと思われる。結婚についても完全に禁じられていたわけではないが、やはり天皇・皇族以外の相手との結婚は望ましくなかったとみられ、臣下と結婚した例は極めて少ない。
     天皇との結婚の例では、前斎院のうち15代尊子内親王(円融天皇女御)、17代馨子内親王(後三条天皇中宮。ただし結婚は皇太子時代)、22代篤子内親王(堀河天皇中宮)の3人がいる。また13代韶子内親王は源清蔭・橘惟風に、18代娟子内親王は源俊房に降嫁した(ただし娟子は密通の末の駆け落ちで世間や家族からもかなりの非難を浴びたらしく、最終的には許されたものの夫俊房は一時蟄居を余儀なくされた)。

    ※なお平安時代に天皇と結婚した内親王16人のうち、7人が皇后または中宮になっているが、逆に他に臣下(藤原氏)の妃が立后したため皇后になれなかった内親王が3人いる。

     ・桓武天皇妃酒人内親王(前斎宮)
     ・嵯峨天皇妃高津内親王
     ・円融天皇女御尊子内親王(前斎院)
     (注:醍醐天皇妃為子内親王については、皇后穏子の立后前に死去しているので数えない)

     このうち、妃を廃された高津を除く2人が前斎王である。特に酒人内親王は母井上内親王が皇后を廃されるという不遇な立場にあり、それを除いてもこの3人はいずれも早くに両親を亡くしているという共通点があった。彼女たちの立后が叶わなかったのも、高貴な前斎王の内親王といえども後ろ盾なくしては後宮で力を持ち得なかったことの反映であろう。

    【天皇と結婚した平安時代の皇女一覧】(夫帝の即位前または退位後の結婚も含む)

    名前 后位 父  母    夫帝  夫帝との
    血縁   
    夫帝の 
    皇后
    備考   
    酒人妃(ひ)光仁皇后
    井上内親王
    桓武異母妹藤原乙牟漏前斎宮
    朝原桓武
    酒人内親王
    平城異母妹藤原帯子
    (贈皇后)
    前斎宮、
    二品
    大宅女御
    藤原正子
    三品
    甘南備 宮人
    藤原東子
    藤原薬子姪
    高津桓武宮人
    坂上又子
    嵯峨異母妹橘嘉智子後廃位
    高志東宮妃桓武皇后
    藤原乙牟漏
    淳和異母妹正子内親王贈一品
    正子皇后嵯峨皇后
    橘嘉智子
    ----
    綏子上皇妃光孝女御
    班子女王
    陽成再従姉妹--釣殿宮、
    三品
    為子光孝女御
    班子女王
    醍醐叔母藤原穏子贈一品
    昌子皇后朱雀女御
    熙子女王
    冷泉従姉妹----
    尊子女御冷泉女御
    藤原懐子
    円融藤原煌子、
    藤原遵子
    前斎院
    禎子皇后三条中宮
    藤原妍子
    後朱雀従姉妹藤原嫄子
    (中宮)
    陽明門院
    章子中宮後一条 中宮
    藤原威子
    後冷泉従姉妹藤原寛子
    (皇后)
    二条院
    馨子中宮後一条中宮
    藤原威子
    後三条従姉妹--前斎院
    西院皇后
    篤子中宮後三条東宮妃
    藤原茂子
    堀河叔母--前斎院
    姝子中宮鳥羽皇后
    藤原得子
    二条叔母--高松院

     以上に見られるように、平安後期の内親王たちはむしろ、有力な摂関家を外戚に持ち立后している例が多い。

     関連論文:
     ・芝野眞理子「前斎宮・前斎院の生涯:その入内と降嫁を中心に」
      (『史窓』37, p21-27, 1980)



  • 准母立后から女院へ
     院政期に入ると、未婚のまま天皇の母になぞらえて非配偶の后(※天皇の妻ではない、名目上の皇后のこと)に立つ、いわゆる「准母立后」をとげる皇女たちが現れる。前斎院で最初に准母立后したのは24代令子内親王(鳥羽天皇皇后宮)で、最終的に太皇太后へと進み「二条太皇太后」と称した。
     その後令子の例に倣い、前斎宮・斎院で天皇の准母から立后、さらに女院宣下を受ける内親王が急増する。斎院では28代統子内親王(上西門院)、34代範子内親王(坊門院)の2人が、准母立后を経て女院宣下を受けた(※35代礼子内親王は、准母立后なく准三宮から女院[嘉陽門院]となっている)。
     准母立后の意義については、幼帝即位の補佐としての表向きの役割の他にも、白河→堀河→鳥羽の王統の権威づけや不婚内親王の優遇対策など諸説あり、以上のような様々な要素が複合していたと考えられる。最初は天皇生母の后のみに限られた女院も、准母立后により不婚内親王(=生涯独身を通した内親王)から相次いで誕生し、やがて父母から相続した多数の荘園等の財産を独自に所有して政治的な影響力をも得るに至った(特に前斎院では、上西門院統子が後白河院や平氏・源氏との深い繋がりを指摘されている)。

    ※准母立后の初例として通常挙げられるのは、令子の同母姉媞子内親王(前斎宮、郁芳門院)で、媞子は同母弟堀河帝の「中宮」であった。これは父白河院が周囲の反対を押し切って強引に実現したものだが、その後媞子は若くして病死、白河院も立后を後悔したという。
     しかしその後、鳥羽帝が5歳という幼年で即位した際、叔母にあたる令子が鳥羽の准母として「皇后宮」に冊立される。これが後世の範とされ、以後准母立后の内親王はすべて「皇后宮」であったことから、これらを総称して「尊称皇后」(または「非妻后の皇后」)と呼ぶのが通例である。歴代9人中、令子内親王を除く8人が院号宣下を受けて女院となった。

    【准母立后した皇女一覧】

    名前 后位  女院号  父    天皇天皇との血縁  立后前  
    媞子中宮郁芳門院白河堀河同母姉(后腹)前斎宮
    令子皇后宮なし白河鳥羽伯母(后腹)前斎院
    統子皇后宮上西門院鳥羽後白河 同母姉(后腹)前斎院
    亮子皇后宮殷富門院後白河安徳
    後鳥羽
    順徳
    伯母
    伯母
    大伯母
    前斎宮
    範子皇后宮坊門院高倉土御門伯母前斎院
    邦子皇后宮安嘉門院後高倉院後堀河同母姉特になし
    利子皇后宮式乾門院後高倉院四条伯母前斎宮
    曦子皇后宮仙華門院土御門後嵯峨異母妹前斎宮
    奨子皇后宮達智門院後宇多後醍醐同母姉前斎宮
    ※この他、春華門院昇子内親王(後鳥羽皇女)についても従来は順徳准母としての立后であったと言われてきたが、近年これを否定する説が有力であることから除外した。また遊義門院姈子内親王についても、後二条准母とされてきたがやはり疑わしいとされることから同じく含めないものとする。

     なおこの他、八条院暲子内親王(鳥羽皇女、二条叔母・准母)が立后なくして女院となっている(ただしこの場合は、二条准母となった当時暲子が既に出家しており、立后は不可能だったためである)。また史料に記載はないが、月華門院綜子内親王(後嵯峨皇女)についても同母弟亀山天皇の准母と見る説がある。

     参考論文:
     ・山田彩起子「天皇准母に関する一考察」
      (『中世前期女性院宮の研究』思文閣出版, 2010)

    ≪補足・実現しなかった准母女院≫
     上記8人には含まれないが、31代斎院
    式子内親王も1200年暮に甥孫の東宮守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする計画があり、その準備も進められていた(『明月記』正治2年10月1日条)。もしこれが実現していれば、式子もやがて順徳即位に伴い天皇准母となり、その後女院宣下を受けていたものと思われる(ただし八条院同様、式子も当時既に出家していたため立后はなかったろう)。
     しかしこの猶子は式子の病で実現しないまま、式子は翌1201年に薨去。その後順徳が1210年に即位すると、翌1211年に式子の同母姉・殷富門院亮子内親王が准母となった。殷富門院は過去安徳・後鳥羽両帝の准母でもあり、また既に女院となった内親王の准母の例は珍しい(よって当然立后もなかった)。
     なお当時は順徳伯母の前斎宮・潔子内親王(1179-1227以降没)も健在であったが、何故か彼女の准母立后はなく、その後女院宣下を受けることもなかった。また式子の異母妹・宣陽門院覲子内親王(1191年院号宣下)は、1200年に東宮守成の同母弟・雅成親王を養子とした(『猪隈関白記』正治2年10月8日条)ものの、天皇准母となることはなかった(なお雅成親王は後年、承久の乱で父後鳥羽院・兄順徳院らと同様但馬に配流となっている)。また順徳即位より前の1208年、後鳥羽皇女・昇子内親王(順徳異母姉、后腹一品内親王)が非斎王・非准母の皇后宮として前例のない立后を遂げ、その後女院(春華門院)となっている。
     こうした御鳥羽天皇の周辺における異例の准母・立后事情について、三好千春氏は「後鳥羽は不婚内親王の処遇をそれまでとは変え「准母」と「立后」を分割するのが意図だったため、立后の不要な式子や亮子を選んだ」と考察している(なお御鳥羽生母の七条院や、後鳥羽の妃で天皇生母となった承明門院・修明門院らも、准三后から立后を経ずに女院となっている)。

     参考論文:
     ・三好千春「准母論からみる式子内親王」
      (『女性史学』19, p15-31, 2009)
     ・三好千春「後鳥羽院政における春華門院昇子内親王の位置」
      (『女性歴史文化研究所紀要』18, p25-50, 2010)

  • 出家
     平安時代の貴族たちは極楽往生を願って晩年に出家したが、斎宮と同様斎院も在任中の仏事は厳しく禁じられていたため、これを罪深いことと考えて退下後に若くして出家した前斎院も多かった。記録に残る中で最も古い例は14代婉子内親王であり、少なくとも13人の前斎院が出家している。(以下、()内は出家した年齢)

     ・14代婉子内親王(66歳)
     ・15代尊子内親王(17歳)
     ・16代選子内親王(68歳)
     ・17代馨子内親王(45歳)
     ・19代禖子内親王(不明,20歳以降)
     ・20代正子内親王(不明,25歳以降)
     ・22代篤子内親王(48歳)
     ・24代令子内親王(52歳)
     ・25代ヮq内親王(45歳)
     ・28代統子内親王(35歳)
     ・31代式子内親王(42歳頃)
     ・33代頌子内親王(40歳)
     ・35代礼子内親王(21歳)


  •  内親王の死去(通常は「薨去」、また皇后・皇太后・太皇太后及びそれを経た女院は「崩御」と称する)は薨伝(死亡記事)が残ることが多く、生年の判らない斎院も殆どは没年月日が判明している。また女王でも、斎院在任中に死去した9代直子女王については、享年は不明ながら没年月日の記録がある(もちろん斎王本人の死去は、死穢を忌避する性格上最大級の穢れと見なされたと考えられ、直子女王以外で退下間もなく亡くなった斎院は5人いる)。
     しかし23代斉子女王、30代怡子内親王(女王)については退下後の消息自体が殆ど知られず、また内親王でも唯一26代官子内親王のみ没年が不明である。官子は『今鏡』によれば嘉応2年(1170)頃に70代で生存していたらしいが、元々生母の身分も低く、また源平の争乱等による時代の混乱の中に埋もれ忘れられたものであろうか。

     なお歴代斎院中、年齢が判っている人物で70代まで生きたのは、最高齢の25代ヮq内親王(76歳)以下、21代佳子内親王と35代礼子内親王(74歳)、16代選子内親王と18代娟子内親王(72歳)、20代正子内親王(70歳)の6人である。また60代が7人、50代が3人、その他生年不明でも50代以上と見られるものが3人おり、前斎院のおよそ半数は当時としては比較的長命を保ったようである。平安時代の女性の死因には出産による死亡が多く見られたが、前斎院は殆どが生涯独身であったことも長寿の一因であろうし、何より皇族という最高貴の身分ゆえに、退下の後も何不自由ない生活が保障されていたことが想像される(先述の出家した前斎院に長生きした人物が多いことからも、彼女たちの境遇が出家生活を支えうるだけの恵まれたものであったことが伺える)。
     もっとも、中には病に苦しんだ19代禖子内親王や、政争で身内の不幸を経験した10代君子内親王・31代式子内親王・35代礼子内親王のような例もあり、特に平安末期は内親王といえども激動の時代に少なからず翻弄された(そもそも院政期となると、后腹の皇女以外は斎宮・斎院に選ばれない限り内親王宣下さえ受けない者さえいた)。とはいえ中宮となった17代馨子内親王・22代篤子内親王、准母立后した24代令子内親王・28代統子内親王、34代範子内親王を始め、生母の一族や兄弟などの後見の確かな前斎院の多くは、退下後もひそやかに安泰な余生をまっとうしたと思われる。







下鴨神社境内(2007年5月12日撮影)


戻る