歴代賀茂斎院のうち、10世紀前半の4人は醍醐天皇の娘(
恭子、
宣子、
韶子、
婉子)であった。さらに醍醐天皇には伊勢斎宮となった娘も3人おり(雅子、斉子、英子)、合計7人もの娘を斎王とした例は歴代天皇最多である。
ところがこの醍醐天皇の皇子女たちは、生年がはっきりせず出生の順序も史料により異なり明確でない点が多い。これについて、男子や源氏に降下した子女も含めて各史料を検討してみた。
(以下、『日本紀略』=紀略、『一代要記』=要記、と表記する)
皇子 |
名前 | 生年 | 没年 | 紀略 | 要記 | 宣下/降下 | 元服 | 母 |
克明 | 903 | 927/9/24 | 第一親王 | -- | 904/11/17 | 916/11/27 | 更衣 源封子 |
保明 | 903/11/30 | 923/3/21 | 第二皇子, 享年21 | -- | 904/2/10 | 916/10/22 | 皇后 藤原穏子 |
代明 | 904 | 937/3/29 | -- | -- | ? | 919/2/26 | 更衣 藤原鮮子 |
重明 | 906 | 954/9/14 | 第四親王 | -- | 908/5/7 | 921/11/24 | 更衣 源昇女 |
常明 | 906 | 944/11/9 | 第五親王 | 宣下3才, 享年39 | 908/4/5 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
式明 | 907 | 967/1/30 | 第六親王 | 宣下5才 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
有明 | 910 | 961/閏3/27 | 第七親王 | 宣下2才, 享年52 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
時明 | 912 | 927/9/20 | 第八親王, 享年18 | 宣下3才 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣 源周子 |
長明 | 912 | 953/閏1/17 | 第九親王 | 宣下3才, 享年31 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣 藤原淑姫 |
寛明(朱雀) | 923/7/24 | 952/8/15 | 第十一皇子 | 第十二皇子 | 923/11/17 | 937/1/4 | 皇后 藤原穏子 |
章明 | 924 | 990/9/22 | 享年67 | -- | 930/9/29 | 939/8/14 | 更衣 藤原桑子 |
成明(村上) | 926/6/2 | 967/5/25 | 第十四皇子 | -- | 926/11/28 | 940/2/15 | 皇后 藤原穏子 |
源高明 | 914 | 982/閏12/16 | 享年69 | -- | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣 源周子 |
(源)兼明 | 914 | 987/9/26 | 享年74 | -- | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣 藤原淑姫 |
源自明 | 917 | 958/4/27 | 朱雀兄, 婉子弟 | -- | 920/12/28 | ? | 更衣 藤原淑姫 |
源允明 | 918 | 942/7/5 | -- | -- | 920/12/28 | 934/12/27 | 源敏相女 |
源為明 | ? | 961/6/21 | -- | -- | 923 | 941/8/24 | 更衣 藤原伊衡女 |
(源)盛明 | ? | 986/5/8 | 第十五之子, 享年59 | -- | 923 | 942/11/23 | 更衣 源周子 |
皇女 |
名前 | 生年 | 没年 | 紀略 | 要記 | 宣下/降下 | 裳着 | 母 |
勧子 | 898-899頃 | 930以前? | 醍醐皇女 | -- | 899/12/14 | 914/11/19 | 妃 為子内親王 |
宣子 | 902 | 920/閏6/9 | 第二皇女 | 四女, 宣下2才 | 903/2/17 | ? | 更衣 源封子 |
恭子 | 902 | 915/11/8 | 第三(皇女) | 二女 | 903/2/17 | ? | 更衣 藤原鮮子 |
慶子 | 903 | 923/2/10 | 第三皇女 | -- | 904/11/17 | 916/11/27 | 女御 源和子 |
勤子 | 904 | 938/11/5 | 第二皇女 | 宣下2才, 享年34 | 908/4/5 | 918? | 更衣 源周子 |
都子 | 905 | 981/10/21 | 第六女, 享年77 | 宣下4才, 享年77 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣 源周子 |
婉子 | 904 | 969/9/11 | 第七皇女 | 三女, 宣下5才 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣 藤原鮮子 |
修子 | ? | 933/2/5 | 第八皇女 | -- | ? | ? | 更衣 満子女王 |
敏子 | ? | ? | -- | 宣下6才 | 911/11/28 | ? | 更衣 藤原鮮子 |
雅子 | 910 | 954/8/29 | 第十皇女 | 宣下3才, 享年45 | 911/11/28 | ? | 更衣 源周子 |
普子 | 910 | 947/7/11 | 第十一皇女 | 宣下2才 | 911/11/28 | 925/2/24 | 更衣 満子女王 |
(源)靖子 | 915 | 950/10/13 | 第十二皇女 | 宣下16才, 享年36 | 930/9/29 | ? | 更衣 源封子 |
韶子 | 918 | 980/1/18 | 第十三皇女 | 六女 | 920/12/17 | ? | 女御 源和子 |
康子 | 920? | 957/6/6 | 第十四皇女 | 宣下2才, 享年38 | 920/12/17 | 933/8/27 | 皇后 藤原穏子 |
斉子 | 921 | 936/5/11 | 第十五皇女 | -- | 923/11/18 | ? | 女御 源和子 |
英子 | 921 | 946/9/16 | 第十六皇女 | 享年26 | 930/9/29 | 938/8/27 | 更衣 藤原淑姫 |
源兼子 | 914 | 972/9 | -- | -- | 920/12/28 | ? | 更衣 源周子 |
源厳子 | 915 | 930以前? | -- | -- | -- | ? | 更衣 満子女王 |
『日本紀略』が記載する出生順はほぼ矛盾はないと見られるので、一部の重複を除きこれに従った。
この出生順から明らかに誤りと思われる生年を訂正し、皇子・皇女すべての出生順に並べ替えると、次のようになる。
名前 | 生年 | 没年 | 紀略 | 要記 | 宣下/降下 | 元服/裳着 | 母 |
勧子 | 898-899頃 | 930以前? | 醍醐皇女 | -- | 899/12/14 | 914/11/19 | 妃 為子内親王 |
宣子 | 902 | 920/閏6/9 | 第二皇女 | 四女, 宣下2才 | 903/2/17 | ? | 更衣 源封子 |
恭子 | 902 | 915/11/8 | 第三(皇女) | 二女 | 903/2/17 | ? | 更衣 藤原鮮子 |
克明 | 903 | 927/9/24 | 第一親王 | -- | 904/11/17 | 916/11/27 | 更衣 源封子 |
保明 | 903/11/30 | 923/3/21 | 第二皇子, 享年21 | -- | 904/2/10 | 916/10/22 | 皇后 藤原穏子 |
慶子 | 903 | 923/2/10 | 第三皇女 | -- | 904/11/17 | 916/11/27 | 女御 源和子 |
代明 | 904 | 937/3/29 | -- | -- | ? | 919/2/26 | 更衣 藤原鮮子 |
勤子 | 904 | 938/11/5 | 第二皇女 | 宣下2才, 享年34 | 908/4/5 | 918? | 更衣 源周子 |
都子 | 905 | 981/10/21 | 第六女, 享年77 | 宣下4才, 享年77 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣 源周子 |
婉子 | 905-906 | 969/9/11 | 第七皇女 | 三女, 宣下5才 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣 藤原鮮子 |
重明 | 906 | 954/9/14 | 第四親王 | -- | 908/5/7 | 921/11/24 | 更衣 源昇女 |
常明 | 906 | 944/11/9 | 第五親王 | 宣下3才, 享年39 | 908/4/5 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
式明 | 907 | 967/1/30 | 第六親王 | 宣下5才 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
修子 | 907-909? | 933/2/5 | 第八皇女 | -- | ? | ? | 更衣 満子女王 |
敏子 | 907-910? | ? | -- | 宣下6才 | 911/11/28 | ? | 更衣 藤原鮮子 |
有明 | 910 | 961/閏3/27 | 第七親王 | 宣下2才, 享年52 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御 源和子 |
雅子 | 910 | 954/8/29 | 第十皇女 | 宣下3才, 享年45 | 911/11/28 | ? | 更衣 源周子 |
普子 | 910 | 947/7/11 | 第十一皇女 | 宣下2才 | 911/11/28 | 925/2/24 | 更衣 満子女王 |
時明 | 912 | 927/9/20 | 第八親王, 享年18 | 宣下3才 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣 源周子 |
長明 | 912 | 953/閏1/17 | 第九親王 | 宣下3才, 享年31 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣 藤原淑姫 |
源高明 | 913 | 982/閏12/16 | 享年69 | -- | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣 源周子 |
(源)兼明 | 914 | 987/9/26 | 享年74 | -- | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣 藤原淑姫 |
源兼子 | 914 | 972/9 | -- | -- | 920/12/28 | ? | 更衣 源周子 |
(源)靖子 | 915 | 950/10/13 | 第十二皇女 | 宣下16才, 享年36 | 930/9/29 | ? | 更衣 源封子 |
源厳子 | 915 | 930以前? | -- | -- | -- | ? | 更衣 満子女王 |
源自明 | 917 | 958/4/27 | 朱雀兄, 婉子弟 | -- | 920/12/28 | ? | 更衣 藤原淑姫 |
源允明 | 918 | 942/7/5 | -- | -- | 920/12/28 | 934/12/27 | 源敏相女 |
韶子 | 918 | 980/1/18 | 第十三皇女 | 六女 | 920/12/17 | ? | 女御 源和子 |
康子 | 920? | 957/6/6 | 第十四皇女 | 宣下2才, 享年38 | 920/12/17 | 933/8/27 | 皇后 藤原穏子 |
斉子 | 921 | 936/5/11 | 第十五皇女 | -- | 923/11/18 | ? | 女御 源和子 |
英子 | 921 | 946/9/16 | 第十六皇女 | 享年26 | 930/9/29 | 938/8/27 | 更衣 藤原淑姫 |
源為明 | 922以前? | 961/6/21 | -- | -- | 923 | 941/8/24 | 更衣 藤原伊衡女 |
(源)盛明 | 922以前? | 986/5/8 | 第十五之子, 享年59 | -- | 923 | 942/11/23 | 更衣 源周子 |
寛明(朱雀) | 923/7/24 | 952/8/15 | 第十一皇子 | 第十二皇子 | 923/11/17 | 937/1/4 | 皇后 藤原穏子 |
章明 | 924 | 990/9/22 | 享年67 | -- | 930/9/29 | 939/8/14 | 更衣 藤原桑子 |
成明(村上) | 926/6/2 | 967/5/25 | 第十四皇子 | -- | 926/11/28 | 940/2/15 | 皇后 藤原穏子 |
さらにこれを、同母のきょうだい別に分けると、次のようになる。
(※きょうだいのいない皇子女については、特筆事項がないものは除く)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 裳着 | 母 |
勧子 | 898-899頃 | ? | 899/12/14 | 914/11/19 | 妃為子内親王 |
母為子内親王は897年7月3日に入内、899年3月14日死去したことが判っているので、勧子の誕生は898年〜899年3月の間と思われる。
(※醍醐天皇の子女のうち、1歳で親王宣下されたことが確実な例は皇后所生の寛明[朱雀天皇]・成明[村上天皇]のみである。このことから、899年に宣下された勧子の生年は898年かと思われるが、醍醐天皇の第一子、しかも母は内親王の妃という特殊な立場から優遇された可能性も考えられる)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
宣子 | 902 | 920/閏6/9 | 903/2/17 | ? | 更衣源封子 |
克明 | 903 | 927/9/24 | 904/11/17 | 916/11/27 | 更衣源封子 |
(源)靖子 | 915 | 950/10/13 | 930/9/29 | ? | 更衣源封子 |
特に矛盾なし。靖子は921年?降下の後、930年に異母妹英子と共に内親王宣下された。
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
恭子 | 902 | 915/11/8 | 903/2/17 | ? | 更衣藤原鮮子 |
代明 | 904 | 937/3/29 | ? | 919/2/26 | 更衣藤原鮮子 |
婉子 | 905-906? | 969/9/11 | 908/4/5 | ? | 更衣藤原鮮子 |
敏子 | 907-910? | ? | 911/11/28 | ? | 更衣藤原鮮子 |
904年生まれの代明の宣下年は不明だが、仮に婉子と双子であれば同時に宣下されないのはおかしいと思われるので、婉子が生まれたのは905年以降と考える。また911年宣下の皇子女に907年生まれの式明がいることから、婉子の生年は905〜906年の間と思われる。
なお敏子は911年に6歳で宣下とされるが、906年生まれとすると重明と同年である。重明は婉子と同じ908年に宣下されており、同年ならば敏子も908年に宣下されないのは矛盾するので、敏子の生年は907〜910年頃と思われる。(注:『皇胤系図』は敏子の母を更衣源周子としており、その場合は周子所生の雅子内親王が910年生なので、敏子と雅子が双子でない限り敏子は909年以前の生まれということになる)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
保明 | 903/11/30 | 923/3/21 | 904/2/10 | 916/10/22 | 女御藤原穏子 (後皇后) |
康子 | 920? | 957/6/6 | 920/12/17 | 933/8/27 | 女御藤原穏子 (後皇后) |
寛明(朱雀) | 923/7/24 | 952/8/15 | 923/11/17 | 937/1/4 | 皇后藤原穏子 |
成明(村上) | 926/6/2 | 967/5/25 | 926/11/28 | 940/2/15 | 皇后藤原穏子 |
特に矛盾なし。保明・康子は母穏子の立后前に誕生。
なお寛明・成明は1歳で親王宣下を受けている。(皇后所生である故か?)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
慶子 | 903 | 923/2/10 | 904/11/17 | 916/11/27 | 女御源和子 |
常明 | 906 | 944/11/9 | 908/4/5 | 921/11/24 | 女御源和子 |
式明 | 907 | 967/1/30 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御源和子 |
有明 | 910 | 961/閏3/27 | 911/11/28 | 921/11/24 | 女御源和子 |
韶子 | 918 | 980/1/18 | 920/12/17 | ? | 女御源和子 |
斉子 | 921 | 936/5/11 | 923/11/18 | ? | 女御源和子 |
特に矛盾なし。式明の宣下が5歳と遅いのは、同母弟有明の誕生により遅れたものか?
なお源和子は光孝天皇皇女で、醍醐天皇の叔母にあたる。
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
勤子 | 904 | 938/11/5 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣源周子 |
都子 | 905 | 981/10/21 | 908/4/5 | 919/8/29? | 更衣源周子 |
雅子 | 910 | 954/8/29 | 911/11/28 | ? | 更衣源周子 |
時明 | 912 | 927/9/20 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣源周子 |
源高明 | 913 | 982/閏12/16 | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣源周子 |
源兼子 | 914 | 972/9 | 920/12/28 | ? | 更衣源周子 |
(源)盛明 | 922以前? | 986/5/8 | 923 | 942/11/23 | 更衣源周子 |
特に矛盾なし。ただし勤子が「女四宮」とされる理由は不明。
また雅子の裳着が不明だが、同年生まれの普子内親王と同様925年頃と思われる。(『御遊抄』には記載がないが、『貞信公記抄』には「八九親王又
公主等加元服事也」とある)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 裳着 | 母 |
修子 | 907-909? | 933/2/5 | ? | 925/2/24 以前? | 更衣満子女王 |
普子 | 910 | 947/7/11 | 911/11/28 | 925/2/24 | 更衣満子女王 |
源厳子 | 915 | 930以前? | -- | -- | 更衣満子女王 |
特に矛盾なし。修子が第8皇女、普子が第11皇女で、この二人は明らかに双子ではないことから、修子は909年以前の生まれと思われる。
また源厳子は生母不明とされるが、『吏部王記』記載の醍醐天皇崩御の諷誦(ふうじゅ)に「女八親王弟源氏」の記載があり、第8皇女修子と同腹の女源氏がいたことがわかるので、源厳子がこれに該当すると思われる。
※参考資料:安田政彦「醍醐皇子女」(『
平安時代皇親の研究』(1998, 吉川弘文館)所収)
名前 | 生年 | 没年 | 宣下 | 元服・裳着 | 母 |
長明 | 912 | 953/閏1/17 | 914/11/25 | 925/2/24 | 更衣藤原淑姫 |
(源)兼明 | 914 | 987/9/26 | 920/12/28 | 929/2/16 | 更衣藤原淑姫 |
源自明 | 917 | 958/4/27 | 920/12/28 | ? | 更衣藤原淑姫 |
英子 | 921 | 946/9/16 | 930/9/29 | 938/8/27 | 更衣藤原淑姫 |
特に矛盾なし。英子の裳着が19才と遅いのは、父醍醐天皇没後のためか?
【歴史と文学における斎院】
- 『源氏物語』桐壺帝斎院の退下事情について
『源氏』における最初の斎院は桐壺帝斎院だが、この人物については出自不明であるだけでなく、退下の事情も一切作中に記されない。また退下の時期も明確でなく、「葵」冒頭で「そのころ、斎院も下りゐたまひて」とあることから、通説の年立てでは桐壺帝譲位に伴っての退下とされる。
しかしこの桐壺帝譲位→朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を共に「花宴」翌年(源氏20歳)のことと考えると、卜定から2年目の「葵」で新斎院(桐壺帝女三宮)が早くも初斎院御禊→本院入りしており、「卜定から3年目(つまり翌々年)に本院入り」が通例であった史実に比べて1年早いことになる。ちなみに10世紀以前の最短例である14代婉子内親王は931年12月卜定→932年3月初斎院→933年4月本院入り(つまり1年4ヶ月)で、斎院の制度上、これより短期間での本院入りはありえない。
また作中で桐壺帝女三宮は両親鍾愛の皇女であったと述べられており、特に母弘徽殿女御(大后)の人柄を考えても、敢えて通例より早く愛娘を本院入りさせることに同意したとは考え難い。しかし逆に桐壺帝譲位を「花宴」の年とすると、今度は伊勢斎宮下向の年が合わず、斎宮・斎院の卜定を同年と考えるのは矛盾する。
なお『源氏』以前の時代、斎院退下理由の最多は天皇または上皇の崩御(合計6例)であった。逆に天皇譲位により退下したことが確かな斎院は歴史上存在せず(2代時子内親王のみ可能性がありうるが、現存史料からは断定できない)、また『源氏』が執筆された当時の斎院は、既に円融・花山二代の天皇譲位を経ていた16代選子内親王である。こうしたことから考えて、当時の社会常識としても「天皇譲位=斎院退下」と結びつける発想は薄かったのではないだろうか。
従って、桐壺帝斎院の退下は伊勢斎宮とは異なり、桐壺帝譲位によるものではない可能性が高いと思われる。恐らくは桐壺帝譲位の前年、初斎院御禊から逆算して「花宴」と同年(夏から冬の間)であったとみなすのが最も矛盾がない。(ただし「そのころ、斎院も下りゐたまひて」という記述から見て、斎院交替から桐壺帝譲位まではそれほど長い期間ではなかったのだろう)
なお桐壺帝斎院が亡くなったのが「須磨」の頃(「蓬生」にて後述)とすれば、退下から5〜6年後であり、桐壺帝斎院は恐らく病を得たかまたは老齢のため退下しその後亡くなったものかと考えられる。(仮に桐壺院の異母姉妹とすれば、父?一の院の崩御は作中に登場しないため、母の喪であった可能性もある)
『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て
帖名 | 光源氏年齢 | 出来事 |
花宴 | 20 | 夏以降、桐壺帝斎院退下。
桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。 |
-- | 21 | 桐壺帝譲位。前坊王女(後の秋好中宮)、新斎宮に卜定。
桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。 |
葵 | 22 | 4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
秋、新斎宮、初斎院入り。9月、野宮入り。 |
賢木 | 23 | 9月、新斎宮と母六条御息所、伊勢へ下向。
11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。 |
関連過去ログ:
・「賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院」
参考論文:
・今井上「源氏物語の死角──賀茂斎院考」(『国語国文』81巻8号, p15-30)
※さらに詳しくは、小論「賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論」をご覧ください。
- 『狭衣物語』源氏の宮の卜定事情について
『狭衣』に登場する源氏の宮は主人公狭衣大将が想いを寄せるヒロインとしてよく知られるが、一方でその背景には謎の多い人物である。
本文冒頭には「故先帝の御末の世に、中納言の御息所の御腹にたぐひなくうつくしき女宮のむまれ給へりし」とあり、皇女であるのは確かである。しかしそもそも彼女が何故「源氏の宮」と呼ばれるのか、明確な説明はない。(歴史上の例では住まいとした邸の名に基づいて呼ばれたものが多く、『狭衣物語』の頃では19代禖子内親王は「六条斎院」、その同母姉祐子内親王は「高倉宮」と号した)
狭衣の父・堀川大臣は皇子の生まれながら臣籍に下った源氏であり、源氏の宮自身もその養子となって源氏に臣籍降下したためであろうとする説もあるが、ともあれ源氏の宮が正式に親王宣下を受けた皇女(=内親王)であるのかどうか(またあるとすれば、いつ宣下されたのか)は不明である。(※なお一度親王宣下を受けた皇子・皇女が後にそれを剥奪されたものとして、奈良時代の不破内親王や廃太子他戸親王の例があるが、いずれも重大な反逆罪のためであり、源氏の宮にはありえない)
作中で堀川大臣は「まだ二葉よりただ人にならせたまひにしかば(源氏の宮は幼い頃から、既に臣下となられていたのだから)」と述べている。この「ただ人にならせたまひにし」が臣籍降下(当然源姓)を意味しており、卜定にあたって改めて皇族に復帰したのだとすれば、当時他に候補となる皇女がいなかったとはいえ、歴史上にも例のない極めて特異な斎院卜定であったことになる(*1)(ただし作中には、卜定にあたって内親王宣下されたと示唆する描写はない)。これについては、「ただ人でも内親王になり斎院卜定は可能」とする説(倉田実氏)と、「源氏の宮は堀川の上(前斎宮)の養子だが臣籍降下しておらず、内親王宣下を受けた皇女であった」とする説(加藤幹子氏)がある。(※共に関連書籍・論文参照のこと)
*1:『類聚符宣抄』では延喜20年(920)に臣籍降下した醍醐天皇の皇子女の中に「源雅子」(7歳)の名があり、これが後に斎宮となった雅子内親王のこととすれば、史上唯一の臣籍から斎王に卜定された例となる。しかし『日本紀略』では雅子が延喜11年(911)に内親王宣下を受けたとあり(『一代要記』ではこの時3歳とする)、仮に911年生まれとしても920年には既に10歳で『類聚符宣抄』とは年齢が合わない。また一度臣籍降下した皇子女の皇族復帰はあるが(昭平親王や兼明親王など)その逆は平安時代では考えにくく、さらに932年の斎宮卜定の記録でも『日本紀略』『小右記』等に「雅子内親王」とあり、卜定に際して特に宣下の記録も見られないことなどから、「源雅子」は誤りであろう。(これについては異母妹の靖子(930年内親王宣下)とする説があり、年齢その他から見て適当と思われる)
関連論文:
・安田政彦「雅子内親王と醍醐皇子女の源氏賜姓」
(『日本歴史』721, p51-54, 2008)
なお歴史上、11世紀前半の天皇家の養子では、次の例がある。
- 花山天皇皇子〜花山院出家後に誕生。祖父冷泉天皇の養子となり、親王宣下を受けた。
(皇女も4人いたが、宣下なし)
- 小一条院王子・王女〜祖父三条天皇の養子となり、親王宣下を受けた。
(※ただし三条天皇は既に故人)
- 敦康親王女・嫄子女王〜後朱雀天皇中宮、19代禖子内親王の母。
藤原頼通の養子となり、藤原姓で入内したので「藤原嫄子」とも称する。
以上のうち、上皇または上皇に準ずる二人の子女は、いずれも天皇(=実の祖父)の養子となって親王宣下も受けている。一方嫄子女王の場合は、源氏でさえない藤原氏の養子となって姓も変えていることから、変則的ながら臣籍降下の一種と考えられる。(頼通の妻隆姫が嫄子の伯母であることからの養子縁組だったが、隆姫自身は二世女王の皇族で姓はないので、藤原姓を名乗った嫄子が頼通とも直接養子関係にあったことは間違いない)
これらを比較すると、源氏の宮の例は嫄子女王に近いことが既に指摘されているが、二世女王である嫄子に対して源氏の宮は先帝を父に持つれっきとした「皇女」である。天皇の子で親王宣下を受けた皇子・皇女が親王・内親王のまま臣下の養子となった例は、『狭衣物語』が成立した時代にはまだ存在しなかった。
また従来、源氏の宮は「堀川大臣の養子」であるとされてきたが、実は本文中ではこの事実は明確でない。これについて、倉田氏はあくまで大臣の妻・堀川の上だけの養子で、堀川大臣は源氏の宮と養親・養子関係は結んでいないとしている。仮に源氏の宮が「養子」とは無関係に賜姓源氏となっていたのなら、その上で(一世源氏である)堀川大臣の養子となるのに支障はないが、上記の通り「皇女」が「臣下」の養子になることはなかったろうと思われる。
一方堀川の上は、先帝の姉妹でまた前斎宮でもあるから紛れもなく内親王である。(臣籍に下った皇女が斎王に卜定された例はない) 養母が皇族であれば親王や内親王が養子となった例は歴史上にも見られるので、この点からも倉田氏の指摘通り「源氏の宮は堀川の上のみの養子である」と見なしてよいと考える。
※なお倉田氏は嵯峨院女一宮について、入内にあたって堀川大臣の養子になったと見なしているが、女一宮もまた「前斎院」であり、即ち「内親王」であることは明らかである。堀川大臣は女一宮について「斎院(源氏の宮)の御代りに扱ひきこえさせん」と言っており、源氏の宮が堀川の上のみの養女であるとする氏の説に従えば、いかに実の姪(嵯峨院と堀川大臣は兄弟である)とはいえ、后腹内親王として源氏の宮以上に格式高く、しかも父嵯峨院がいまだ健在の「皇女」を養子にするのは矛盾している。本文には「(堀川大臣が女一宮を)まことの御むすめのやうに扱ひきこえたまへり」とあるが、「堀川大臣が女一宮を(法的に正式に)養子にした」と断言するには根拠として弱く、里邸を提供し出産や立后の世話もする等の後見にあたったのも、あくまで「親代わり」に留まるものであったと考えられる。(なお女一宮と直接の血縁関係にない堀川の上は、息子の狭衣とは異なりこの後見に関与している描写はない。このことからも、堀川の上が実の姪である源氏の宮を養女としたように、堀川大臣も血縁の叔父として女一宮を親代わりに後見したことが伺える)
ところで倉田氏は堀川の上の身分について、生まれは内親王であるとしつつ、堀川大臣との結婚で臣籍降下したとする。しかし現代と異なり、当時の内親王の「臣下への降嫁」はイコール「臣籍への降下」ではない。(*2)
冒頭に「(堀川大臣は)斎宮をば親ざまに預かりきこえたまひにしかば」とあるが、この場合は法的に正式な形で源家に迎えるような「養女」としたわけではなく、『源氏物語』で光源氏が若紫を引き取った(そして後に妻とした)例に近いと考えられる(※なお光源氏の父桐壺帝は、藤壺を妃に迎える際「ただ、わが女皇女(おんなみこ)たちの同じ列に思ひきこえむ(私の娘たちと同様に思ってお世話しましょう)」という口実で入内を勧めている)。
ましてや堀川の上は、「前斎宮」たる特別な内親王である。歴史上で臣下と結婚した前斎宮は10世紀の雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人だが、『西宮記』には雅子の死去について「天暦八年九月四日、丙子、奏雅子内親王薨状」とあり、降嫁により臣籍に下ったとする記録はない(※『西宮記』の筆者は雅子内親王の同母弟・源高明である)。さらに『高光集』(雅子の息子藤原高光の歌集)においても、母雅子の死を悼む哀悼歌の詞書に「はは宮(雅子)うせ給て」とあり、即ち雅子は結婚後も「宮」=内親王であったと見てよいだろう。
また前斎院では18代娟子内親王の例が有名だが、この場合も『少外記重憲記』(康和5年3月12日条)の死亡記事に「前斎院娟子内親王薨」とある。娟子の結婚はまさに『狭衣物語』が執筆されたのと同時代であり、その彼女が降嫁の後も内親王であり続けたことは明確である(しかも娟子の結婚は元々許可を得ずしての密通という不祥事であったにもかかわらず、蟄居した俊房はともかく娟子には公式の処罰はなかったらしい)。となれば、いかに物語世界でも(『狭衣物語』の作者が六条斎院禖子内親王に仕えた人物ならばなおさら)前斎王たる内親王の臣籍降下は考えにくく、よって「内親王」堀川の上の養女である源氏の宮も、養子縁組により臣籍に下ることはなかったと思われる。
*2:倉田氏は『源氏物語』の大宮(桐壺院姉妹)と女三宮(朱雀院皇女)についても「降嫁により皇族を離れた一世女源氏」と見なし、臣籍に下っても(皇女の生まれを示す)「宮」の呼称は使われたものとして、「源氏の宮」の場合もこれと同様であるとしている。しかしあの光源氏ですら(この場合は男性だが)、臣籍に下った後は「ただ人」として「宮」の呼称は決して使われていない。『宇津保物語』では臣下の女性でも「あて宮」「いぬ宮」等の呼称の例があるが、この点に関して『源氏物語』は厳密に「宮=皇族」として使用していると思われる。(※なお天皇の子でなくとも、朝顔斎院や宇治大君・中の君のように「宮」と呼ばれる例もあるが、彼女たちもれっきとした二世女王の皇族である)
また加藤氏が指摘するように、女三宮は降嫁後に兄今上帝から「二品」に叙されており、結婚しても身分は「内親王」のままである(しかもむしろ格上げされている)ことは明白である。さらに『狭衣物語』でも、二世源氏である狭衣に降嫁した一条院女一宮の呼称「一品宮」は結婚後も一貫して変化していない。こうした点から、『狭衣物語』作者も「降嫁=降下ではない」と認識していたと考えられる。
もう一点、斎王に選ばれる「皇女」は必ず親王宣下を受けている(もしくは卜定の前後に受ける)のが前提であったと見られ、親王宣下のないまま斎院となった皇女は歴史上存在しない。『狭衣物語』作中にも前斎院退下後に世間で「源氏の宮の内裏参りや、いかが(他に候補の内親王がいないのに、このまま源氏の宮が入内なされていいのだろうか)」と噂されたという記述があり、斎院候補として当然と見なされていた様子が伺える。よって、源氏の宮は「ただ人同様に」育ったが正式に臣籍降下したことはなく、「内親王」であったと見るのが妥当であろう。
※嫄子女王が斎院に選ばれる可能性があったのは、1029年(14歳)の16代選子内親王退下と、1036年(21歳)の後一条天皇崩御・後朱雀天皇即位の際の2回である。特に1036年は、10月の大嘗祭御禊で女御代をつとめていたことから既に翌年の入内が確定していたと見られ、源氏の宮の例と酷似しているが、結局11月の卜定で新斎院に決定したのは18代娟子内親王であった。(源氏の宮も女御代をつとめるはずだったが、一条院崩御で大嘗祭も延期となりそのまま斎院に卜定されている)
ところで源氏の宮の両親は、彼女の卜定当時既に故人であった。よって源氏の宮自身の病か死去、または時の帝の崩御以外に斎院退下はありえない。(※ただし天皇崩御については、歴史上の例を見ると必ずしも斎院退下とはなっていない。特に後一条天皇以降は、在位中の崩御も譲位後に没したと見なす「如在之儀」により、「天皇崩御」自体がないものとされたためと見られる。詳細は20代正子内親王の【天皇崩御と斎院退下】を参照)
倉田氏は「養母の堀川の上が亡くなれば、源氏の宮の退下もありうる」としているが、養父母の喪は天皇・父母より軽い五月であり、これによる斎院退下も歴史上例がない。(この点は金澤典子氏も「血縁という意味では養母にすぎない堀川上の死に際しても、源氏宮が斎院を退下することは考えられない」と指摘している。詳細は関連論文参照)
よって源氏の宮は後一条帝の退位とそれに代わる狭衣の即位でも引き続き斎院の任にあり続け、将来狭衣が退位したとしても、そのために斎院を降りることはないのである。これは卜定の時点で既に明らかであり、しかも源氏の宮自身が「見るを逢ふにては止むべきものと思しめしつるを、思ふさまにうれしき御ありさまながら…」と、別れを惜しみつつも狭衣からの求愛から逃れられることに安堵しているのでは、病にかこつけて退下という可能性も低いだろう。始めは入内の中止を喜んだ狭衣も、自らが即位することで源氏の宮との別れがいよいよ決定的になったことを自覚し、ままならぬ宿世を深く悲しんだのである。
とはいえ、そもそも『狭衣物語』は主人公狭衣が二世源氏でありながら皇位につくという設定自体、歴史上にはありえなかった構成である(臣籍から即位した例に宇多天皇がいるが、降下は父光孝天皇の即位後なので一世源氏である)。それであれば、ヒロイン源氏の宮の設定も過去の実例のないものであってもおかしくはないかもしれない。しかし狭衣即位を批判した『無名草子』は「ありぬべき事ども」として源氏の宮の境遇その他については触れておらず、詳細についてはなお検討を要する問題であろう。
関連書籍:
・倉田実『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、2004)
関連論文:
・加藤幹子「『狭衣物語』斎院卜定から見る源氏の宮の「養女」性」
(『中京国文学』30, p19-34, 2011)
・金澤典子「『狭衣物語』源氏宮像:狭衣はなぜ源氏宮に恋するのか」
(『文学研究論集』(33), p245-258, 2010, 機関リポジトリ全文あり)