その他考察



 ここでは、用語集に収めるには長すぎる(斎院からはちょっと脱線気味の)考察などを取り上げています。



御蔭祭にて(2003年5月12日撮影)





【卜定されなかった皇女たち】
 大抵の斎王卜定は、大原則である「未婚の皇女(特に内親王)」の中から選ばれたのは言うまでもない。恐らく年齢は数え2歳〜30歳の皇女に限定し、その中で姉妹の順などにより候補を絞り込んだものと思われる(なお死穢を禁じることから、上記条件に該当しても服喪中に当たっている皇女は除外されたと見られる)。
 しかし、上記の理由だけでは説明のつかない例も歴代にいくつか見られる。父天皇の寵愛が深い内親王や、母方に有力な後見を持つ内親王ほど斎宮・斎院に選ばれていない傾向が強く、中でも一品に叙された内親王は、恐らくは故意に卜定を避けたのではないかと思われるものがある。

  • 一品内親王
     平安時代から鎌倉時代初期にかけての歴代一品内親王は、以下の12人である。

    名  叙品の
    年齢
    備考
    儀子文徳天皇(第三皇女)女御藤原明子不明
    (20代?)
    斎院
    康子醍醐天皇(第十六皇女)中宮藤原穏子27歳藤原師輔室
    資子村上天皇(第九皇女)中宮藤原安子18歳
    選子村上天皇(第十皇女)中宮藤原安子61歳斎院
    脩子一条天皇(第一皇女)皇后藤原定子12歳
    禎子三条天皇(第三皇女)中宮藤原妍子11歳後朱雀皇后 
    章子後一条天皇(第一皇女) 中宮藤原威子4歳後冷泉中宮、
    二条院
    良子後朱雀天皇(第一皇女)皇后禎子内親王 13歳斎宮
    娟子後朱雀天皇(第二皇女)皇后禎子内親王11歳斎院、
    源俊房室
    聡子後三条天皇(第一皇女)御息所藤原茂子20歳
    禧子鳥羽天皇(第一皇女)中宮藤原璋子7歳斎院
    昇子後鳥羽天皇(第一皇女)中宮九条任子2歳春華門院


     このうち斎宮・斎院となったのは5人だが、卜定前に既に一品であった内親王は、29代斎院禧子内親王のみである。父鳥羽天皇はこの第一皇女を斎院として手放すのを惜しむほどに鍾愛したといい(『中右記』長承元年11月26日条)、中宮藤原璋子を母とする后腹の長女でもある彼女は最も高貴な内親王として、当初は候補外であったと思われる。
     しかし当時、禧子の同母妹統子内親王が先に28代斎院となったものの、統子退下の際には他に候補となる内親王がまったく存在せず、女王でも輔仁親王女の怡子(後三条皇孫、後の30代斎院)がいるのみであった。このため、一人でも未婚の(そして恐らくは30歳以下の)内親王がいる限りは内親王を優先して卜定するという本来の原則にのっとり、一品内親王としては例外的にやむをえず禧子を卜定したものと見られる。(ただし禧子は元々病がちであり、卜定から1年足らずで斎院を退下、その一月後に12歳の若さで夭折した)
    ※1132年存命の未婚の皇女は、堀河天皇皇女で後に斎宮となった喜子内親王もいたはずだが、当時はまだ内親王宣下を受けていない(1155年の斎宮卜定時に宣下)。また1107年崩御の堀河の娘であれば、斎宮卜定時の年齢が44歳以上と不自然であり、あるいは故白河院の落胤であったとも考えられる。
     ともあれ元々内親王への叙品は極めて少なく、中でも一品内親王はその殆どが皇后・中宮所生のいわゆる「后腹」の皇女(とりわけ長女が多い)に限られており、「一品宮」と呼ばれ皇女の中でも一際重んじられる存在であった。(文徳皇女儀子、後三条皇女聡子は后腹ではないが、いずれも天皇の同母姉妹の長女である) 特に脩子内親王以降の叙品年齢はすべて20歳以下であり、この時期に一品以外の殆どの内親王が斎宮・斎院とされた点から見ても、一品内親王は「斎宮・斎院にはならず、候補にも挙げない」とされた別格の存在だった可能性が考えられる。
    ※板倉則衣氏は、経済的に不遇な皇女や女王がいわば生活の保障のために斎王卜定を受け入れた(あるいは家族や後見者が求めた)可能性を指摘している。もしそうであったとすれば、強力な後見を持つ后腹内親王が斎王にならなかったのは経済的に恵まれていて「斎王になる必要がなかった」ためでもあったのかもしれない。

    関連論文:
    ・板倉則衣「伊勢斎宮の選定に関する小考」
     (『日本研究』42, p123-167, 2010) PDF全文データあり

  • 女院
     平安時代から鎌倉時代初期にかけての歴代内親王女院は、以下の11人である。

    院号備考
    禎子 陽明門院 三条天皇中宮藤原妍子後朱雀皇后、後三条母
    章子二条院後一条天皇 中宮藤原威子後冷泉中宮
    媞子郁芳門院白河天皇中宮藤原賢子斎宮、堀河准母
    統子上西門院鳥羽天皇中宮藤原璋子斎院
    暲子八条院鳥羽天皇皇后藤原得子
    姝子高松院鳥羽天皇皇后藤原得子二条中宮
    亮子殷富門院後白河天皇藤原成子(高倉三位)斎宮、安徳准母
    覲子宣陽門院後白河天皇高階栄子(丹後局)
    範子坊門院高倉天皇藤原成範女(小督局)斎院、土御門准母
    昇子春華門院後鳥羽天皇中宮九条任子一品
    礼子嘉陽門院後鳥羽天皇藤原信清女(坊門局)斎院


     院政期以降、准母立后などによる内親王の院号宣下が急増する。始めは「后妃にして国母」であることが女院の条件とされた(と見られる)が、二条院章子内親王の宣下でこの原則は早くも崩れ、以後不婚内親王の女院が増えて行くこととなった。
     なおこれに対応するように一品内親王が殆ど見られなくなるが、女院内親王も一品内親王と同様に后腹の皇女であることが多い。(そもそも院政期は后腹内親王と斎宮・斎院に卜定された皇女以外、殆ど内親王宣下を受けなくなっていた) このことから、女院制度は父天皇の鍾愛深く公式にも重んじられた内親王の優遇策の一環として、一品に替わる新たな制度として定着していったと見られる。(※一品内親王から後女院となったのは、二条院章子内親王と春華門院昇子内親王のみである)

  • 異なる皇統の皇女たち
     南北朝以前にも、平安時代の歴史の中で皇統はしばしば両統迭立(皇統が二系統に分かれること)や、別の皇統への転換を生じている。この結果、卜定に際して現天皇から血縁の遠い斎王が選ばれることもあったが、逆にそれを避けようとしたのではないかと思われる例が見られる。

    【9代直子女王卜定の場合】
     直子女王は文徳天皇の皇孫にあたり、父の従兄弟・宇多天皇の斎院として、寛平元年(889)2月6日に卜定された。
     当時宇多の姉妹(光孝皇女)は斎宮・斎院経験者を除く全員が臣籍降下しており、宇多天皇自身にもまだ皇女がなかった。このため、光孝系には斎王候補となりうる内親王自体が存在しなかったことになり(光孝の息子たちも宇多以外は臣籍に下っていたため、当然女王もいなかった)、必然的に文徳・清和系に斎王候補を求めざるを得ない状況だった。
     しかしこの時、清和天皇皇女で陽成天皇の姉妹にあたる包子内親王・孟子内親王(直子女王の従姉妹。当時共に20代半ばと思われる)の二人が存命だったにもかかわらず、斎宮にも斎院にも選ばれなかった。(※直子女王と同時期に伊勢斎宮となった元子女王も、仁明天皇の皇孫である) これについては、宇多天皇の斎王として陽成の姉妹を敢えて避けたか、あるいは内親王を斎王にできない事情があったとも考えられる。(これについて、榎村寛之氏は宇多天皇の王権の弱さを指摘している)
     ともあれ、包子は直子女王卜定直後の4月23日に死去、孟子も寛平9年(897)の斎宮交替でも卜定されないまま(この時斎宮に卜定されたのは、宇多皇女柔子内親王である)、昌泰4年(901)に没した。また陽成天皇にも二人の皇女があり、その兄弟である親王の娘たちもいたと思われるが、その後も清和系の皇女・女王で斎王に選ばれた者は存在しない。

  仁明──┬─文徳──┬─清和──┬─陽成──┬─長子
      |     |     |     |
      |     |     ├─包子  └─儼子
      |     |     |
      |     |     └─孟子
      |     |
      |     └─惟彦────直子(斎院)
      |
      ├─本康────元子(斎宮)
      |
      └─光孝────宇多

    【18代娟子内親王卜定の場合】
     後朱雀天皇即位に際しての斎王卜定(長元9年(1036)11月28日)では、共に禎子内親王(※卜定は立后前)所生の長女良子内親王と次女娟子内親王が斎宮・斎院に選ばれた。当時後朱雀の娘はこの二人だけであり、また一条系(=円融系)の皇統全体で残る章子内親王(当時一品)と嫄子女王(11月17日に女御代、頼通養女として既に入内確定か)は事実上候補外だったと見られるので、その意味では順当な選択であったと言える。(とはいえ禎子内親王は翌年立后しており、斎宮・斎院共に后腹内親王が同時に選ばれたのは歴史上でもこの時だけであった)
     しかし実はこの頃、三条系(=冷泉系)にも小一条院敦明親王の長女で、左大臣顕光女延子を母とする栄子内親王(祖父三条天皇猶子?)がいた。(なお小一条院の弟敦儀親王にも、のちに後朱雀中宮嫄子の女房となった娘がいたらしいが、「内親王」ではないので省略)
     栄子の生没年は不明とされるが、『小右記』長和4年(1015)12月11日条に「式部卿親王(敦明)北方申時産、<女子云々>」とあり、敦明親王に1015年生まれの娘(恐らく長女)がいたことが判る。また同じく『小右記』長和3年(1014)10月7日条に「去夜、式部卿宮北方産男子、<右大臣女>」とある。この時生まれた「男子」は長男敦貞親王で、その母「北方」が延子であることは確実なので、1015年生まれの女子も延子所生で栄子内親王を指すと考えられる。

      ※前田家本『帝王系図』では三条天皇の子女の最後に「栄子内親王<実小一条院御女、母同敦貞>」とあり、『栄花物語』巻32「謌合」でも、小一条院には「故左大臣殿の女御(延子)の御腹に、男二人、女一所」の子があると述べている。
       また『御堂関白記』寛仁3年(1019)3月4日条には、寛子腹の王女(儇子内親王、寛仁2年(1018)12月9日生)が親王宣下を受ける際「小一条院男一君、女二宮為三条院御子、被下親王宣旨、敦貞・儇子」とある。寛子と小一条院の結婚は寛仁元年(1017)11月で、儇子が寛子所生の第一子であることから見ても、延子を母とする「女一宮(=栄子?)」がいたのは確かと思われる。(なお『小右記』寛仁3年(1019)6月10日条には、左大臣顕光が道長に「院御子一人(敦貞親王)先日(3月4日)為親王、今二人可為親王者」と申し入れたとあり、この二人が敦昌と栄子であると考えられる)

       【小一条院の子女一覧】
      生年没年宣下
      敦貞親王長和3年(1014)
      10月6日
      康平4年(1061)
      2月8日
      藤原延子
      (寛仁3年(1019)
      4月10日没)
      寛仁3年(1019)
      3月4日
      女子
      (栄子内親王?)
      長和4年(1015)
      12月11日
      ?藤原延子?
      敦昌親王寛仁元年(1017)?長元2年(1029)
      以降
      藤原延子長元2年(1029)
      6月7日
      儇子内親王寛仁2年(1018)
      12月9日
      承徳元年(1097)
      12月28日
      藤原寛子
      (万寿2年(1025)
      7月9日没)
      寛仁3年(1019)
      3月4日
      王子寛仁3年(1019)
      12月6日
      寛仁4年(1020)
      6月9日
      藤原寛子--
      王子寛仁4年(1020)
      閏12月18日
      寛仁4年(1020)
      閏12月18日
      藤原寛子--
      敦元親王治安3年(1023)長元5年(1032)
      7月14日
      藤原寛子長元2年(1029)
      6月7日
      源基平万寿3年(1026)康平7年(1064)
      5月15日
      藤原頼宗女--
      敦賢親王長暦3年(1039)承暦元年(1077)
      8月17日
      藤原頼宗女天喜元年(1053)
      12月?
      嘉子内親王
      (斎宮)
      1027-1038?永承6年(1051)
      以降
      藤原頼宗女?永承元年(1046)
      以前?
      源信宗1030以前?1097源政隆女--
      女王(信子?)?1072以降?源政隆女--
      斉子女王
      (斎院)
      1045-1051?1089以降源政隆女--

       敦昌の生年については、長男敦貞と長女(恐らく栄子)の生年月日がはっきりしていることから、順当に考えて1017年以降であることはほぼ確実である。また『小右記』寛仁4年(1020)12月26日条に「小一条院以判官代永信朝臣被仰云、明日可参入王子著袴者」、翌27日条に「今夜院王子著袴」とある。藤原寛子腹の王子二人は、上の王子が寛仁4年(1020)6月9日死去、下の王子は同年閏12月18日誕生であり、どちらも該当しないことから、この時着袴を行った敦昌を指すと見られる。当時着袴は3歳で行った例が多く、これ以前に2歳以下で行った記録はないため、生年の上限を考えあわせると敦昌も着袴時に3歳であった(即ち1017年生まれであった)可能性が高い。
       また『栄花物語』巻13「ゆふしで」の巻末には、1018年正月の場面で「(延子腹の)一、二の宮は人に抱かれさせたまひて…」とある。よってここからも「二の宮(=敦昌)」は1017年〜1018年1月の間に生まれていたと推測される。
      ※なお「ゆふしで」で小一条院と寛子の婚姻(1017年11月)直後、小一条院が延子を見舞う場面に「宮達のたち騒ぎ見送り奉らせ給ふに(中略)御乳母ども召して、抱かせ奉らせ給て」とある。この描写から、二人以上の「宮達」が父小一条院を慕いつきまとっている様子が想像されるが、敦昌は当時既に生まれていたとしてもまだ乳飲み子のはずで、当然立ち歩くことはできない。よってここでの「宮達」は、4歳の長男敦貞と3歳の長女を指すと思われる。

     栄子に関する史料は少なく、名前の確かな一次史料が殆どない。また内親王宣下を受けた年も不明だが、元々れっきとした二世女王で母方の血筋も確かな皇族である(延子の母は村上皇女盛子内親王なので、延子は小一条院の父三条天皇の従妹にあたる)。また1015年生まれとすれば、1036年当時は22歳で年齢的にも斎王候補に該当したはずであり、場合によっては栄子が斎宮または斎院に選ばれたかもしれない。(なお『栄花』巻32「謌合」は1035年の話で、誤りでなければ当時栄子が健在であったらしいことが伺える)
     しかし1036年の斎王卜定では、斎院の娟子内親王はともかく、斎宮に后腹長女の良子内親王が選ばれている(厳密には当時禎子内親王は立后前であったが、時期的に見ても立后そのものは確定していたと思われるので、事実上「后腹」と同様と見なす)。この時斎宮に栄子内親王を選ぶこともできたはずでありながら、敢えて良子を選んだのは「三条系の皇女を避けるため」か(特に栄子の母延子は、道長一家を恨んで亡くなりその後寛子やその子どもたちに祟ったと思われていた)、それとも従来言われてきたように「良子・娟子姉妹の母禎子内親王への圧迫(あるいは道長家からの切り捨て?)を狙ったため」かは不明である。(もっとも栄子は適齢期であり、既婚であれば当然斎王候補にはなりえないが、『栄花』にも婿取りをした等の記述はない) いずれにせよ、后腹の姉妹二人が同時に斎宮・斎院に卜定されるのは極めて異例であった。
     なお後年、23代斉子女王や斎宮嘉子内親王(共に生年不明)のように、小一条院の娘たち(即ち栄子の異母妹たち)から斎王に選ばれた例もある。斉子女王は他に候補の内親王がまったく存在しない状況での卜定であり、また斎宮嘉子内親王は関白頼通を外戚に持つ内親王(後朱雀皇女祐子、正子)を避けた結果選ばれたと見られ、その意味では順当な選択であったと言えよう。

     その後の栄子の消息は不明だが、『栄花』によれば後冷泉天皇後宮における皇后藤原寛子(1050年入内)の下へ「小一条院の左の大殿の御腹の姫君も(寛子の女房として)参らせたまへり」とあり、この「姫君」が栄子であるとされる(当時36歳か)。しかし『栄花』でも「花山院御女ぞ女院(彰子)にさぶらひたまひしかど、それは御乳母子の腹にて、さてもよろしかりき。これはいとやむごとなく、かかるたぐひままたなかりつることなり」とあるように、皇孫とは言え宣下を受けた「内親王」の宮仕えなどは前代未聞であった。(あるいは父小一条院没後(1051年1月8日死去)で後見を失くした後のことであったかもしれないが、『栄花』は小一条院の死去には触れていない)

     なお嘉子内親王を延子所生の王女(女一宮)ではないかとする説もあるが、嘉子が1015年生まれとすれば1046年の斎宮卜定当時32歳であり、卜定の上限年齢と思われる30歳を既に越えていたことになる。
     延子は長和4年(1015)12月に王女を出産後、恐らく寛仁2年(1017)に次男敦昌親王を出産、同3年(1019)4月10日に死去している。また先述のとおり、『小右記』寛仁3年(1019)6月10日条の記述から、当時延子所生の子女が長男敦貞親王以外に少なくとも二人いたことは明らかである。
     一方小一条院は寛仁元年(1017)8月9日に東宮を辞退、同年11月20日に寛子と結婚したため、以降延子とは疎遠になったらしい(『栄花物語』)。延子が敦昌誕生後の約2年間(1017〜1019)にもう一人の女子を懐妊・出産した可能性も否定できないものの、そうであれば時期的に見て延子の懐妊中に小一条院と寛子が結婚したことになり、実際には考えにくい(『栄花』は小一条院の訪れの途絶えで延子が悲嘆に暮れる様を繰り返し述べており、それが懐妊中の出来事であればいっそう悲劇性を高める逸話として書き留めたと思われるが、作中では心痛のあまり病に伏したとするのみである)。
     また嘉子の斎宮退下は1051年で、少なくとも寛子入内の1050年には、まだ斎宮の任にあったことになる。1051年以降に出仕したとすれば辻褄は合うが、斎宮を降りた途端の出仕というのも無理があり(※敦儀親王女が後朱雀中宮嫄子に出仕した先例はあるが、前斎王の出仕は歴史上知られていない)、よってやはり栄子が延子所生の第一王女であったと考えるのが妥当と思われる。

    ※小一条院の子女について取り上げた研究に、永田和也氏の「敦明親王とその子供たち」(『日本古代の国家と祭儀』雄山閣出版, p710-736, 1996)があり、嘉子の生母は寛子・頼宗女のいずれかであろうとしている。また林陸朗氏は「賜姓源氏の成立事情」(『上代政治社会の研究』吉川弘文館,1969)で小一条院の子女を取り上げているが、嘉子内親王の母は不詳としており、倉田実氏の「養子になった皇子たち 小一条院の場合」(『王朝摂関期の養女たち』翰林書房,2004)も、栄子内親王と嘉子内親王の二人については「素性が明白でない」とし、深くは触れていない。なお山中智恵子氏は『続斎宮志』(砂子屋書房, 1992)で、斎宮嘉子が伊勢への群行中に月事のあったことを指摘しており、1048年当時最低でも10歳以上とすれば1039年以前の生まれと思われる。
    『栄花物語』巻32「謌合」では、小一条院の娘は延子所生の王女(栄子?)、寛子所生の王女(儇子)に加えて頼宗女にも「男、女あまた」いたとあり、さらに『帝王系図』は嘉子の生母を「母同敦賢(=頼宗女)」とする(※『伊勢斎宮部類』は嘉子の母を備前守源長経女とするが、江戸時代成立の史料で信頼性は低い)。『栄花』によれば、延子・寛子所生の王女はそれぞれ一人であるので、頼宗女の産んだ女の一人が嘉子であると考えるのが最も順当であろう。
     なお嘉子が頼宗女所生であったとすれば、長子と思われる源基平の生年(1026年)から見て嘉子の誕生は1027年以降と思われる。また次男敦賢親王の生年(1039年)も考慮すれば、嘉子の生年はほぼ1027〜1038年に絞られることになり、1036年の候補に含まれていた可能性もある。

     【1036年当時未婚の皇女】
    
     村上──┬─冷泉───三条──┬─小一条院─┬─栄子
         |          |      |
         |          |      └─(嘉子)※生年不明
         |          |
         |          └─敦儀─────女子(女王)
         |
         └─円融───一条──┬─敦康─────嫄子(女御代)
                    |
                    ├─後一条──┬─章子(一品)
                    |      |
                    |      └─馨子(前斎院)
                    |
                    └─後朱雀──┬─良子(斎宮)
                           |
                           └─娟子(斎院)
    
【醍醐天皇の子どもたち】
 歴代賀茂斎院のうち、10世紀前半の4人は醍醐天皇の娘(恭子宣子韶子婉子)であった。さらに醍醐天皇には伊勢斎宮となった娘も3人おり(雅子、斉子、英子)、合計7人もの娘を斎王とした例は歴代天皇最多である。
 ところがこの醍醐天皇の皇子女たちは、生年がはっきりせず出生の順序も史料により異なり明確でない点が多い。これについて、男子や源氏に降下した子女も含めて各史料を検討してみた。
(以下、『日本紀略』=紀略、『一代要記』=要記、と表記する)

皇子
名前生年没年紀略要記宣下/降下元服
克明903927/9/24第一親王--904/11/17916/11/27更衣
源封子
保明903/11/30923/3/21第二皇子,
享年21
--904/2/10916/10/22皇后
藤原穏子
代明904937/3/29----?919/2/26更衣
藤原鮮子
重明906954/9/14第四親王--908/5/7921/11/24更衣
源昇女
常明906944/11/9第五親王宣下3才,
享年39
908/4/5921/11/24女御
源和子
式明907967/1/30第六親王宣下5才911/11/28921/11/24女御
源和子
有明910961/閏3/27第七親王宣下2才,
享年52
911/11/28921/11/24女御
源和子
時明912927/9/20第八親王,
享年18
宣下3才914/11/25925/2/24更衣
源周子
長明912953/閏1/17第九親王宣下3才,
享年31
914/11/25925/2/24更衣
藤原淑姫
寛明(朱雀)923/7/24952/8/15第十一皇子第十二皇子923/11/17937/1/4皇后
藤原穏子
章明924990/9/22享年67--930/9/29939/8/14更衣
藤原桑子
成明(村上)926/6/2967/5/25第十四皇子--926/11/28940/2/15皇后
藤原穏子
源高明914982/閏12/16享年69--920/12/28929/2/16更衣
源周子
(源)兼明914987/9/26享年74--920/12/28929/2/16更衣
藤原淑姫
源自明917958/4/27朱雀兄,
婉子弟
--920/12/28?更衣
藤原淑姫
源允明918942/7/5----920/12/28934/12/27源敏相女
源為明?961/6/21----923941/8/24更衣
藤原伊衡女
(源)盛明?986/5/8第十五之子,
享年59
--923942/11/23更衣
源周子
皇女
名前生年没年紀略要記宣下/降下裳着
勧子   898-899頃930以前?醍醐皇女  --    899/12/14914/11/19
為子内親王
宣子902920/閏6/9第二皇女四女,
宣下2才
903/2/17?更衣
源封子
恭子902915/11/8第三(皇女)二女903/2/17?更衣
藤原鮮子
慶子903923/2/10第三皇女--904/11/17916/11/27女御
源和子
勤子904938/11/5第二皇女宣下2才,
享年34
908/4/5918?更衣
源周子
都子905981/10/21第六女,
享年77
宣下4才,
享年77
908/4/5919/8/29?更衣
源周子
婉子904969/9/11第七皇女三女,
宣下5才
908/4/5919/8/29?更衣
藤原鮮子
修子?933/2/5第八皇女--??更衣
満子女王
敏子??--宣下6才911/11/28?更衣
藤原鮮子
雅子910954/8/29第十皇女宣下3才,
享年45
911/11/28?更衣
源周子
普子910947/7/11第十一皇女宣下2才911/11/28925/2/24更衣
満子女王
(源)靖子915950/10/13第十二皇女宣下16才,
享年36
930/9/29?更衣
源封子
韶子918980/1/18第十三皇女六女920/12/17?女御
源和子
康子920?957/6/6第十四皇女宣下2才,
享年38
920/12/17933/8/27皇后
藤原穏子
斉子921936/5/11第十五皇女--923/11/18?女御
源和子
英子921946/9/16第十六皇女享年26930/9/29938/8/27更衣
藤原淑姫
源兼子914972/9----920/12/28?更衣
源周子
源厳子915930以前?------?更衣
満子女王

『日本紀略』が記載する出生順はほぼ矛盾はないと見られるので、一部の重複を除きこれに従った。
 この出生順から明らかに誤りと思われる生年を訂正し、皇子・皇女すべての出生順に並べ替えると、次のようになる。

名前生年没年紀略要記宣下/降下元服/裳着
勧子   898-899頃930以前?醍醐皇女  --    899/12/14914/11/19
為子内親王
宣子902920/閏6/9第二皇女四女,
宣下2才
903/2/17?更衣
源封子
恭子902915/11/8第三(皇女)二女903/2/17?更衣
藤原鮮子
克明903927/9/24第一親王--904/11/17916/11/27更衣
源封子
保明903/11/30923/3/21第二皇子,
享年21
--904/2/10916/10/22皇后
藤原穏子
慶子903923/2/10第三皇女--904/11/17916/11/27女御
源和子
代明904937/3/29----?919/2/26更衣
藤原鮮子
勤子904938/11/5第二皇女宣下2才,
享年34
908/4/5918?更衣
源周子
都子905981/10/21第六女,
享年77
宣下4才,
享年77
908/4/5919/8/29?更衣
源周子
婉子905-906969/9/11第七皇女三女,
宣下5才
908/4/5919/8/29?更衣
藤原鮮子
重明906954/9/14第四親王--908/5/7921/11/24更衣
源昇女
常明906944/11/9第五親王宣下3才,
享年39
908/4/5921/11/24女御
源和子
式明907967/1/30第六親王宣下5才911/11/28921/11/24女御
源和子
修子907-909?933/2/5第八皇女--??更衣
満子女王
敏子907-910??--宣下6才911/11/28?更衣
藤原鮮子
有明910961/閏3/27第七親王宣下2才,
享年52
911/11/28921/11/24女御
源和子
雅子910954/8/29第十皇女宣下3才,
享年45
911/11/28?更衣
源周子
普子910947/7/11第十一皇女宣下2才911/11/28925/2/24更衣
満子女王
時明912927/9/20第八親王,
享年18
宣下3才914/11/25925/2/24更衣
源周子
長明912953/閏1/17第九親王宣下3才,
享年31
914/11/25925/2/24更衣
藤原淑姫
源高明913982/閏12/16享年69--920/12/28929/2/16更衣
源周子
(源)兼明914987/9/26享年74--920/12/28929/2/16更衣
藤原淑姫
源兼子914972/9----920/12/28?更衣
源周子
(源)靖子915950/10/13第十二皇女宣下16才,
享年36
930/9/29?更衣
源封子
源厳子915930以前?------?更衣
満子女王
源自明917958/4/27朱雀兄,
婉子弟
--920/12/28?更衣
藤原淑姫
源允明918942/7/5----920/12/28934/12/27源敏相女
韶子918980/1/18第十三皇女六女920/12/17?女御
源和子
康子920?957/6/6第十四皇女宣下2才,
享年38
920/12/17933/8/27皇后
藤原穏子
斉子921936/5/11第十五皇女--923/11/18?女御
源和子
英子921946/9/16第十六皇女享年26930/9/29938/8/27更衣
藤原淑姫
源為明922以前?961/6/21----923941/8/24更衣
藤原伊衡女
(源)盛明922以前?986/5/8第十五之子,
享年59
--923942/11/23更衣
源周子
寛明(朱雀)923/7/24952/8/15第十一皇子第十二皇子923/11/17937/1/4皇后
藤原穏子
章明924990/9/22享年67--930/9/29939/8/14更衣
藤原桑子
成明(村上)926/6/2967/5/25第十四皇子--926/11/28940/2/15皇后
藤原穏子


 さらにこれを、同母のきょうだい別に分けると、次のようになる。
 (※きょうだいのいない皇子女については、特筆事項がないものは除く)


名前生年没年宣下裳着
勧子898-899頃?899/12/14 914/11/19妃為子内親王

 母為子内親王は897年7月3日に入内、899年3月14日死去したことが判っているので、勧子の誕生は898年〜899年3月の間と思われる。
(※醍醐天皇の子女のうち、1歳で親王宣下されたことが確実な例は皇后所生の寛明[朱雀天皇]・成明[村上天皇]のみである。このことから、899年に宣下された勧子の生年は898年かと思われるが、醍醐天皇の第一子、しかも母は内親王の妃という特殊な立場から優遇された可能性も考えられる)


名前生年没年宣下元服・裳着
宣子902920/閏6/9903/2/17?更衣源封子 
克明903927/9/24904/11/17916/11/27更衣源封子
(源)靖子915950/10/13930/9/29?更衣源封子

 特に矛盾なし。靖子は921年?降下の後、930年に異母妹英子と共に内親王宣下された。


名前生年没年宣下元服・裳着
恭子902915/11/8903/2/17?更衣藤原鮮子
代明904937/3/29?919/2/26更衣藤原鮮子
婉子905-906?969/9/11908/4/5?更衣藤原鮮子
敏子907-910??911/11/28?更衣藤原鮮子

 904年生まれの代明の宣下年は不明だが、仮に婉子と双子であれば同時に宣下されないのはおかしいと思われるので、婉子が生まれたのは905年以降と考える。また911年宣下の皇子女に907年生まれの式明がいることから、婉子の生年は905〜906年の間と思われる。
 なお敏子は911年に6歳で宣下とされるが、906年生まれとすると重明と同年である。重明は婉子と同じ908年に宣下されており、同年ならば敏子も908年に宣下されないのは矛盾するので、敏子の生年は907〜910年頃と思われる。(注:『皇胤系図』は敏子の母を更衣源周子としており、その場合は周子所生の雅子内親王が910年生なので、敏子と雅子が双子でない限り敏子は909年以前の生まれということになる)


名前生年没年宣下元服・裳着
保明903/11/30923/3/21904/2/10916/10/22女御藤原穏子
(後皇后)
康子920?957/6/6920/12/17933/8/27女御藤原穏子
(後皇后)
寛明(朱雀)923/7/24952/8/15923/11/17937/1/4皇后藤原穏子
成明(村上)926/6/2967/5/25926/11/28940/2/15皇后藤原穏子

 特に矛盾なし。保明・康子は母穏子の立后前に誕生。
 なお寛明・成明は1歳で親王宣下を受けている。(皇后所生である故か?)


名前生年没年宣下元服・裳着
慶子903923/2/10904/11/17916/11/27女御源和子 
常明906944/11/9908/4/5921/11/24女御源和子
式明907967/1/30911/11/28921/11/24女御源和子
有明910961/閏3/27911/11/28921/11/24女御源和子
韶子918980/1/18920/12/17?女御源和子
斉子921936/5/11923/11/18?女御源和子

 特に矛盾なし。式明の宣下が5歳と遅いのは、同母弟有明の誕生により遅れたものか?
 なお源和子は光孝天皇皇女で、醍醐天皇の叔母にあたる。


名前生年没年宣下元服・裳着
勤子904938/11/5908/4/5919/8/29?更衣源周子 
都子905981/10/21908/4/5919/8/29?更衣源周子
雅子910954/8/29911/11/28?更衣源周子
時明912927/9/20914/11/25925/2/24更衣源周子
源高明913982/閏12/16920/12/28929/2/16更衣源周子
源兼子914972/9920/12/28?更衣源周子
(源)盛明922以前?986/5/8923942/11/23更衣源周子

 特に矛盾なし。ただし勤子が「女四宮」とされる理由は不明。
 また雅子の裳着が不明だが、同年生まれの普子内親王と同様925年頃と思われる。(『御遊抄』には記載がないが、『貞信公記抄』には「八九親王又公主等加元服事也」とある)


名前生年没年宣下裳着
修子907-909?933/2/5?925/2/24
以前?
更衣満子女王
普子910947/7/11911/11/28925/2/24更衣満子女王
源厳子915930以前?----更衣満子女王

 特に矛盾なし。修子が第8皇女、普子が第11皇女で、この二人は明らかに双子ではないことから、修子は909年以前の生まれと思われる。
 また源厳子は生母不明とされるが、『吏部王記』記載の醍醐天皇崩御の諷誦(ふうじゅ)に「女八親王弟源氏」の記載があり、第8皇女修子と同腹の女源氏がいたことがわかるので、源厳子がこれに該当すると思われる。

 ※参考資料:安田政彦「醍醐皇子女」(『平安時代皇親の研究』(1998, 吉川弘文館)所収)


名前生年没年宣下元服・裳着
長明912953/閏1/17914/11/25925/2/24更衣藤原淑姫
(源)兼明914987/9/26920/12/28929/2/16更衣藤原淑姫
源自明917958/4/27920/12/28?更衣藤原淑姫
英子921946/9/16930/9/29938/8/27更衣藤原淑姫

 特に矛盾なし。英子の裳着が19才と遅いのは、父醍醐天皇没後のためか?




【歴史と文学における斎院】
  • 『源氏物語』桐壺帝斎院の退下事情について
    『源氏』における最初の斎院は桐壺帝斎院だが、この人物については出自不明であるだけでなく、退下の事情も一切作中に記されない。また退下の時期も明確でなく、「葵」冒頭で「そのころ、斎院も下りゐたまひて」とあることから、通説の年立てでは桐壺帝譲位に伴っての退下とされる。
     しかしこの桐壺帝譲位→朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を共に「花宴」翌年(源氏20歳)のことと考えると、卜定から2年目の「葵」で新斎院(桐壺帝女三宮)が早くも初斎院御禊→本院入りしており、「卜定から3年目(つまり翌々年)に本院入り」が通例であった史実に比べて1年早いことになる。ちなみに10世紀以前の最短例である14代婉子内親王は931年12月卜定→932年3月初斎院→933年4月本院入り(つまり1年4ヶ月)で、斎院の制度上、これより短期間での本院入りはありえない。
     また作中で桐壺帝女三宮は両親鍾愛の皇女であったと述べられており、特に母弘徽殿女御(大后)の人柄を考えても、敢えて通例より早く愛娘を本院入りさせることに同意したとは考え難い。しかし逆に桐壺帝譲位を「花宴」の年とすると、今度は伊勢斎宮下向の年が合わず、斎宮・斎院の卜定を同年と考えるのは矛盾する。
     なお『源氏』以前の時代、斎院退下理由の最多は天皇または上皇の崩御(合計6例)であった。逆に天皇譲位により退下したことが確かな斎院は歴史上存在せず(2代時子内親王のみ可能性がありうるが、現存史料からは断定できない)、また『源氏』が執筆された当時の斎院は、既に円融・花山二代の天皇譲位を経ていた16代選子内親王である。こうしたことから考えて、当時の社会常識としても「天皇譲位=斎院退下」と結びつける発想は薄かったのではないだろうか。
     従って、桐壺帝斎院の退下は伊勢斎宮とは異なり、桐壺帝譲位によるものではない可能性が高いと思われる。恐らくは桐壺帝譲位の前年、初斎院御禊から逆算して「花宴」と同年(夏から冬の間)であったとみなすのが最も矛盾がない。(ただし「そのころ、斎院も下りゐたまひて」という記述から見て、斎院交替から桐壺帝譲位まではそれほど長い期間ではなかったのだろう)
     なお桐壺帝斎院が亡くなったのが「須磨」の頃(「蓬生」にて後述)とすれば、退下から5〜6年後であり、桐壺帝斎院は恐らく病を得たかまたは老齢のため退下しその後亡くなったものかと考えられる。(仮に桐壺院の異母姉妹とすれば、父?一の院の崩御は作中に登場しないため、母の喪であった可能性もある)

    『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て
    帖名 光源氏年齢出来事
    花宴20夏以降、桐壺帝斎院退下。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    --21桐壺帝譲位。前坊王女(後の秋好中宮)、新斎宮に卜定。
    桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。
    224月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
    秋、新斎宮、初斎院入り。9月、野宮入り。
    賢木239月、新斎宮と母六条御息所、伊勢へ下向。
    11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。


     関連過去ログ:
     ・「賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院
     参考論文:
     ・今井上「源氏物語の死角──賀茂斎院考」(『国語国文』81巻8号, p15-30)

    ※さらに詳しくは、小論「賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論」をご覧ください。


  • 『狭衣物語』源氏の宮の卜定事情について
    『狭衣』に登場する源氏の宮は主人公狭衣大将が想いを寄せるヒロインとしてよく知られるが、一方でその背景には謎の多い人物である。
     本文冒頭には「故先帝の御末の世に、中納言の御息所の御腹にたぐひなくうつくしき女宮のむまれ給へりし」とあり、皇女であるのは確かである。しかしそもそも彼女が何故「源氏の宮」と呼ばれるのか、明確な説明はない。(歴史上の例では住まいとした邸の名に基づいて呼ばれたものが多く、『狭衣物語』の頃では19代禖子内親王は「六条斎院」、その同母姉祐子内親王は「高倉宮」と号した)
     狭衣の父・堀川大臣は皇子の生まれながら臣籍に下った源氏であり、源氏の宮自身もその養子となって源氏に臣籍降下したためであろうとする説もあるが、ともあれ源氏の宮が正式に親王宣下を受けた皇女(=内親王)であるのかどうか(またあるとすれば、いつ宣下されたのか)は不明である。(※なお一度親王宣下を受けた皇子・皇女が後にそれを剥奪されたものとして、奈良時代の不破内親王や廃太子他戸親王の例があるが、いずれも重大な反逆罪のためであり、源氏の宮にはありえない)

     作中で堀川大臣は「まだ二葉よりただ人にならせたまひにしかば(源氏の宮は幼い頃から、既に臣下となられていたのだから)」と述べている。この「ただ人にならせたまひにし」が臣籍降下(当然源姓)を意味しており、卜定にあたって改めて皇族に復帰したのだとすれば、当時他に候補となる皇女がいなかったとはいえ、歴史上にも例のない極めて特異な斎院卜定であったことになる(*1)(ただし作中には、卜定にあたって内親王宣下されたと示唆する描写はない)。これについては、「ただ人でも内親王になり斎院卜定は可能」とする説(倉田実氏)と、「源氏の宮は堀川の上(前斎宮)の養子だが臣籍降下しておらず、内親王宣下を受けた皇女であった」とする説(加藤幹子氏)がある。(※共に関連書籍・論文参照のこと)

      *1:『類聚符宣抄』では延喜20年(920)に臣籍降下した醍醐天皇の皇子女の中に「源雅子」(7歳)の名があり、これが後に斎宮となった雅子内親王のこととすれば、史上唯一の臣籍から斎王に卜定された例となる。しかし『日本紀略』では雅子が延喜11年(911)に内親王宣下を受けたとあり(『一代要記』ではこの時3歳とする)、仮に911年生まれとしても920年には既に10歳で『類聚符宣抄』とは年齢が合わない。また一度臣籍降下した皇子女の皇族復帰はあるが(昭平親王や兼明親王など)その逆は平安時代では考えにくく、さらに932年の斎宮卜定の記録でも『日本紀略』『小右記』等に「雅子内親王」とあり、卜定に際して特に宣下の記録も見られないことなどから、「源雅子」は誤りであろう。(これについては異母妹の靖子(930年内親王宣下)とする説があり、年齢その他から見て適当と思われる)

       関連論文:
       ・安田政彦「雅子内親王と醍醐皇子女の源氏賜姓」
        (『日本歴史』721, p51-54, 2008)


     なお歴史上、11世紀前半の天皇家の養子では、次の例がある。

    • 花山天皇皇子〜花山院出家後に誕生。祖父冷泉天皇の養子となり、親王宣下を受けた。
      (皇女も4人いたが、宣下なし)
    • 小一条院王子・王女〜祖父三条天皇の養子となり、親王宣下を受けた。
      (※ただし三条天皇は既に故人)
    • 敦康親王女・嫄子女王〜後朱雀天皇中宮、19代禖子内親王の母。
      藤原頼通の養子となり、藤原姓で入内したので「藤原嫄子」とも称する。

     以上のうち、上皇または上皇に準ずる二人の子女は、いずれも天皇(=実の祖父)の養子となって親王宣下も受けている。一方嫄子女王の場合は、源氏でさえない藤原氏の養子となって姓も変えていることから、変則的ながら臣籍降下の一種と考えられる。(頼通の妻隆姫が嫄子の伯母であることからの養子縁組だったが、隆姫自身は二世女王の皇族で姓はないので、藤原姓を名乗った嫄子が頼通とも直接養子関係にあったことは間違いない)
     これらを比較すると、源氏の宮の例は嫄子女王に近いことが既に指摘されているが、二世女王である嫄子に対して源氏の宮は先帝を父に持つれっきとした「皇女」である。天皇の子で親王宣下を受けた皇子・皇女が親王・内親王のまま臣下の養子となった例は、『狭衣物語』が成立した時代にはまだ存在しなかった。
     また従来、源氏の宮は「堀川大臣の養子」であるとされてきたが、実は本文中ではこの事実は明確でない。これについて、倉田氏はあくまで大臣の妻・堀川の上だけの養子で、堀川大臣は源氏の宮と養親・養子関係は結んでいないとしている。仮に源氏の宮が「養子」とは無関係に賜姓源氏となっていたのなら、その上で(一世源氏である)堀川大臣の養子となるのに支障はないが、上記の通り「皇女」が「臣下」の養子になることはなかったろうと思われる。
     一方堀川の上は、先帝の姉妹でまた前斎宮でもあるから紛れもなく内親王である。(臣籍に下った皇女が斎王に卜定された例はない) 養母が皇族であれば親王や内親王が養子となった例は歴史上にも見られるので、この点からも倉田氏の指摘通り「源氏の宮は堀川の上のみの養子である」と見なしてよいと考える。
    ※なお倉田氏は嵯峨院女一宮について、入内にあたって堀川大臣の養子になったと見なしているが、女一宮もまた「前斎院」であり、即ち「内親王」であることは明らかである。堀川大臣は女一宮について「斎院(源氏の宮)の御代りに扱ひきこえさせん」と言っており、源氏の宮が堀川の上のみの養女であるとする氏の説に従えば、いかに実の姪(嵯峨院と堀川大臣は兄弟である)とはいえ、后腹内親王として源氏の宮以上に格式高く、しかも父嵯峨院がいまだ健在の「皇女」を養子にするのは矛盾している。本文には「(堀川大臣が女一宮を)まことの御むすめのやうに扱ひきこえたまへり」とあるが、「堀川大臣が女一宮を(法的に正式に)養子にした」と断言するには根拠として弱く、里邸を提供し出産や立后の世話もする等の後見にあたったのも、あくまで「親代わり」に留まるものであったと考えられる。(なお女一宮と直接の血縁関係にない堀川の上は、息子の狭衣とは異なりこの後見に関与している描写はない。このことからも、堀川の上が実の姪である源氏の宮を養女としたように、堀川大臣も血縁の叔父として女一宮を親代わりに後見したことが伺える)

     ところで倉田氏は堀川の上の身分について、生まれは内親王であるとしつつ、堀川大臣との結婚で臣籍降下したとする。しかし現代と異なり、当時の内親王の「臣下への降嫁」はイコール「臣籍への降下」ではない。(*2) 冒頭に「(堀川大臣は)斎宮をば親ざまに預かりきこえたまひにしかば」とあるが、この場合は法的に正式な形で源家に迎えるような「養女」としたわけではなく、『源氏物語』で光源氏が若紫を引き取った(そして後に妻とした)例に近いと考えられる(※なお光源氏の父桐壺帝は、藤壺を妃に迎える際「ただ、わが女皇女(おんなみこ)たちの同じ列に思ひきこえむ(私の娘たちと同様に思ってお世話しましょう)」という口実で入内を勧めている)。
     ましてや堀川の上は、「前斎宮」たる特別な内親王である。歴史上で臣下と結婚した前斎宮は10世紀の雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人だが、『西宮記』には雅子の死去について「天暦八年九月四日、丙子、奏雅子内親王薨状」とあり、降嫁により臣籍に下ったとする記録はない(※『西宮記』の筆者は雅子内親王の同母弟・源高明である)。さらに『高光集』(雅子の息子藤原高光の歌集)においても、母雅子の死を悼む哀悼歌の詞書に「はは宮(雅子)うせ給て」とあり、即ち雅子は結婚後も「宮」=内親王であったと見てよいだろう。
     また前斎院では18代娟子内親王の例が有名だが、この場合も『少外記重憲記』(康和5年3月12日条)の死亡記事に「前斎院娟子内親王薨」とある。娟子の結婚はまさに『狭衣物語』が執筆されたのと同時代であり、その彼女が降嫁の後も内親王であり続けたことは明確である(しかも娟子の結婚は元々許可を得ずしての密通という不祥事であったにもかかわらず、蟄居した俊房はともかく娟子には公式の処罰はなかったらしい)。となれば、いかに物語世界でも(『狭衣物語』の作者が六条斎院禖子内親王に仕えた人物ならばなおさら)前斎王たる内親王の臣籍降下は考えにくく、よって「内親王」堀川の上の養女である源氏の宮も、養子縁組により臣籍に下ることはなかったと思われる。

      *2:倉田氏は『源氏物語』の大宮(桐壺院姉妹)と女三宮(朱雀院皇女)についても「降嫁により皇族を離れた一世女源氏」と見なし、臣籍に下っても(皇女の生まれを示す)「宮」の呼称は使われたものとして、「源氏の宮」の場合もこれと同様であるとしている。しかしあの光源氏ですら(この場合は男性だが)、臣籍に下った後は「ただ人」として「宮」の呼称は決して使われていない。『宇津保物語』では臣下の女性でも「あて宮」「いぬ宮」等の呼称の例があるが、この点に関して『源氏物語』は厳密に「宮=皇族」として使用していると思われる。(※なお天皇の子でなくとも、朝顔斎院や宇治大君・中の君のように「宮」と呼ばれる例もあるが、彼女たちもれっきとした二世女王の皇族である)
       また加藤氏が指摘するように、女三宮は降嫁後に兄今上帝から「二品」に叙されており、結婚しても身分は「内親王」のままである(しかもむしろ格上げされている)ことは明白である。さらに『狭衣物語』でも、二世源氏である狭衣に降嫁した一条院女一宮の呼称「一品宮」は結婚後も一貫して変化していない。こうした点から、『狭衣物語』作者も「降嫁=降下ではない」と認識していたと考えられる。

     もう一点、斎王に選ばれる「皇女」は必ず親王宣下を受けている(もしくは卜定の前後に受ける)のが前提であったと見られ、親王宣下のないまま斎院となった皇女は歴史上存在しない。『狭衣物語』作中にも前斎院退下後に世間で「源氏の宮の内裏参りや、いかが(他に候補の内親王がいないのに、このまま源氏の宮が入内なされていいのだろうか)」と噂されたという記述があり、斎院候補として当然と見なされていた様子が伺える。よって、源氏の宮は「ただ人同様に」育ったが正式に臣籍降下したことはなく、「内親王」であったと見るのが妥当であろう。

    ※嫄子女王が斎院に選ばれる可能性があったのは、1029年(14歳)の16代選子内親王退下と、1036年(21歳)の後一条天皇崩御・後朱雀天皇即位の際の2回である。特に1036年は、10月の大嘗祭御禊で女御代をつとめていたことから既に翌年の入内が確定していたと見られ、源氏の宮の例と酷似しているが、結局11月の卜定で新斎院に決定したのは18代娟子内親王であった。(源氏の宮も女御代をつとめるはずだったが、一条院崩御で大嘗祭も延期となりそのまま斎院に卜定されている)

     ところで源氏の宮の両親は、彼女の卜定当時既に故人であった。よって源氏の宮自身の病か死去、または時の帝の崩御以外に斎院退下はありえない。(※ただし天皇崩御については、歴史上の例を見ると必ずしも斎院退下とはなっていない。特に後一条天皇以降は、在位中の崩御も譲位後に没したと見なす「如在之儀」により、「天皇崩御」自体がないものとされたためと見られる。詳細は20代正子内親王【天皇崩御と斎院退下】を参照) 倉田氏は「養母の堀川の上が亡くなれば、源氏の宮の退下もありうる」としているが、養父母の喪は天皇・父母より軽い五月であり、これによる斎院退下も歴史上例がない。(この点は金澤典子氏も「血縁という意味では養母にすぎない堀川上の死に際しても、源氏宮が斎院を退下することは考えられない」と指摘している。詳細は関連論文参照)
     よって源氏の宮は後一条帝の退位とそれに代わる狭衣の即位でも引き続き斎院の任にあり続け、将来狭衣が退位したとしても、そのために斎院を降りることはないのである。これは卜定の時点で既に明らかであり、しかも源氏の宮自身が「見るを逢ふにては止むべきものと思しめしつるを、思ふさまにうれしき御ありさまながら…」と、別れを惜しみつつも狭衣からの求愛から逃れられることに安堵しているのでは、病にかこつけて退下という可能性も低いだろう。始めは入内の中止を喜んだ狭衣も、自らが即位することで源氏の宮との別れがいよいよ決定的になったことを自覚し、ままならぬ宿世を深く悲しんだのである。

     とはいえ、そもそも『狭衣物語』は主人公狭衣が二世源氏でありながら皇位につくという設定自体、歴史上にはありえなかった構成である(臣籍から即位した例に宇多天皇がいるが、降下は父光孝天皇の即位後なので一世源氏である)。それであれば、ヒロイン源氏の宮の設定も過去の実例のないものであってもおかしくはないかもしれない。しかし狭衣即位を批判した『無名草子』は「ありぬべき事ども」として源氏の宮の境遇その他については触れておらず、詳細についてはなお検討を要する問題であろう。

     関連書籍:
     ・倉田実『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、2004)
     関連論文:
     ・加藤幹子「『狭衣物語』斎院卜定から見る源氏の宮の「養女」性」
      (『中京国文学』30, p19-34, 2011)
     ・金澤典子「『狭衣物語』源氏宮像:狭衣はなぜ源氏宮に恋するのか」
      (『文学研究論集』(33), p245-258, 2010, 機関リポジトリ全文あり)






五月雨の空なつかしきたもとかな軒のあやめの香るしづくに


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