12代斎院 宣子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||
せんし | のぶこ | 不明 | ||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||
父:醍醐天皇(885-930)
母:更衣源封子(旧鑑女) |
延喜2年(902) | 延喜20年(920)閏6月9日 | ||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||
醍醐(897〜930,父) | 卜定:延喜15年(915)7月19日
初斎院:不明 本院:延喜17年(917)4月16(19?)日 退下:延喜20年(920)閏6月9日 |
薨去 | ||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||
柔子(959没,叔母) [六条斎宮] 父:宇多天皇 母:女御藤原胤子 |
卜定:寛平9年(897)8月13日 初斎院:昌泰元年(898)4月25日 野宮:昌泰元年(898)8月22日 群行:昌泰2年(899)9月8日 退下:延長8年(930)9月22日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||
同母兄弟:克明親王(903-927,三品兵部卿) 靖子内親王(915-950,藤原師氏室) 斎院長官:藤原兼茂(延喜17年(917)4月5日〜?) ※笹田遥子「成立期の斎院司長官」は、藤原清平(北家末茂流、後蔭(俊蔭)の子)を宣子の斎院長官(919-920)とする。『尊卑文脈』に「斎院長官」と記載があるが、任期等の詳細は不明。 醍醐天皇第二皇女。 母源封子は、父醍醐天皇の従姉妹にあたる。 (※母封子の父源旧鑑が宇多天皇の異母兄弟) 11代恭子内親王、13代韶子内親王、14代婉子内親王は異母姉妹。 斎院長官藤原兼茂は、宣子の祖母胤子(醍醐天皇母)の従兄弟にあたる。 ┌────────────────────┐ | | 藤原高藤 藤原利基 | | | ┌─────────┐ | | | | | 胤子===宇多天皇 源旧鑑 藤原兼茂 | | [長官] ├────┐ | | | | 柔子 醍醐天皇=====封子 (斎宮) | | ◆宣子 宣子の初斎院入りの年月日は不明。卜定から初斎院入りまでは大抵3〜5ヶ月で行われているので、宣子の場合も延喜15年(915)の内に行われたと思われる(ただし異母姉妹の11代斎院恭子内親王が11月8日薨去しているので、それ以前に初斎院入りしていなければ翌年にずれ込んだかもしれない)。その後は規定通り、3年目の延喜17年(917)4月に本院入りし、19歳まで5年間斎院の任にあった。 延喜20年に病に倒れ、『醍醐天皇御記』によると叔父敦固親王(醍醐天皇の同母弟)の桃園邸(一条大路北・大宮大路西)に移り、そのままそこで亡くなったものとみられる。なお6代儀子内親王がやはり病で本院から退出、4ヶ月半後に退下となった先例があることから、宣子も容体が落ち着くのを待って退下とする予定であったのかもしれない。しかし結局宣子は正式な退下のないまま薨去、2ヶ月後に斎院薨逝を奉告する奉幣使が賀茂社に遣わされた(『日本紀略』『扶桑略記』ほか)。 また関連は不明だが、宣子薨去と同日に大伯父にあたる一品式部卿是忠親王が出家した(※是忠は宣子の祖父宇多天皇の同母兄であり、また宣子の外祖父源旧鑑の異母兄弟でもある)。 参考リンク: ・『天皇皇族実録49.醍醐天皇 巻4』(宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム) ※宣子内親王については66〜69コマにあり 【宣子内親王退下後の斎院卜定について】 天皇崩御や諒闇等がない限り、斎院退下から新斎院卜定までの期間は大半が3〜5ヶ月である。しかし宣子内親王が退下の後、次の13代韶子内親王が卜定されるまで8ヶ月かかっている。 この一因として、宣子の薨去によりその後姉妹である醍醐天皇皇女は全員3ヶ月の服喪期間にあたっていたことが考えられる。しかし他に同年薨去した醍醐皇子・皇女がいたとの記録はなく、宣子の服喪が明けた10月以降も年内に卜定がなかった理由は定かでない。 延喜20年(920)当時、未婚で斎王経験のない醍醐皇女8人(勤子、都子、婉子、敏子、修子、雅子、普子、康子)を見ると、勤子、都子、雅子の母は更衣源周子、婉子、敏子の母は更衣藤原鮮子、修子、普子の母は更衣満子女王、康子の母は女御藤原穏子である(※敏子内親王については、源周子を母とする史料もある)。 このうち満子女王は、斎院宣子退下直前の920年6月27日に死去している(『貞信公記』同日条に「大輔更衣労中頓滅」とあり)。このため、修子・普子姉妹は母の喪中により候補外であった。 また藤原鮮子は915年既に死去しており、よって婉子、敏子姉妹は少なくとも母の喪中ではなかった。ただし同母姉恭子内親王が既に11代斎院となっており、他にも皇女が多くいたことから、この時の卜定では鮮子所生の皇女は避けられたものか(ただし後に婉子は14代斎院に卜定されている)。 残る源周子(935冬没)と藤原穏子(954/1/4没)については、当時存命なのは確実である。周子所生の勤子内親王は醍醐天皇鍾愛の皇女として知られ、周子への帝寵も深かったと言われている。このためか、周子所生の皇女の中で斎王となったのは、父醍醐の崩御後に卜定された雅子内親王だけであった。また穏子はいまだ立后前ではあったが、皇太子保明親王の母として醍醐後宮に重きをなす妃であり、年少ながら皇太子の同母妹である康子は事実上の候補外であった可能性は高いと思われる。 ところで『後撰和歌集』詞書によれば、近江更衣(源周子)は「母のふくにて里に侍りけるに」とあり、母の服喪のため宿下がりしていた時期があったらしい。当時の詠歌「五月雨にぬれにし袖にいとどしく露置添ふる秋の侘しさ」が残っており、このことから母の死去は5月であったと見られる。仮にこれが920年であったとすると、所生の皇子女にとって外祖母の喪は同年9月には明けているものの、生母周子は921年5月まで服喪中であり、母方で暮らす皇女たちの卜定に影響した可能性も考えられるが、確証はない。 |