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14代斎院 婉子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
えんし つやこ 三品
両親 生年月日 没年月日
父:醍醐天皇(885-930)
母:更衣藤原鮮子<従五位上>
  (915没)
延喜4年(904)? 安和2年(969)9月10日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
朱雀(930〜946,異母弟)
村上(946〜967,異母弟)
卜定:承平元年(931)12月25日
初斎院:承平2年(932)9月25日
   (左近衛府)
本院:承平3年(933)4月12日
退下:康保4年(967)5月25日?
天皇崩御?
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
雅子(910-954,異母妹)
 [西四条斎宮]
 父:醍醐天皇
 母:更衣源周子
卜定:承平元年(931)12月25日
初斎院:承平2年(932)6月10日
   (宮内省)
野宮:承平2年(932)9月28日
群行:承平3年(933)9月26日
退下:承平6年(936)3月7日
母死去
斉子(921-936,異母妹)
 父:醍醐天皇
 母:女御源和子
卜定:承平6年(936)春?
初斎院:不明
野宮:なし
群行:なし
退下:承平6年(936)5月11日
薨去
徽子女王(929-985,姪)
 [斎宮女御]
 父:重明親王
 母:藤原寛子
卜定:承平6年(936)9月12日
初斎院:承平7年(937)7月13日
   (雅楽寮)
野宮:承平7年(937)9月27日
群行:天慶元年(938)9月15日
   (長奉送使:藤原師輔)
退下:天慶8年(945)1月18日
母死去
英子(921-946,異母妹)
 父:醍醐天皇
 母:更衣藤原淑姫
卜定:天慶9年(946)5月27日
初斎院:なし
野宮:なし
群行:なし
退下:天慶9年(946)9月16日
薨去
悦子女王(942-?姪)
 父:重明親王
 母:藤原寛子
卜定:天暦元年(947)2月26日
   (父中務卿重明親王家)
初斎院:天暦元年(947)9月25日
   (主殿寮)
野宮:天暦2年(948)9月26日
群行:天暦3年(949)9月23日
   (長奉送使:藤原在衡)
退下:天暦8年(954)9月14日
父死去
楽子(952-998,姪)
 父:村上天皇
 母:女御荘子女王
卜定:天暦9年(955)7月17日
初斎院:不明
野宮:天暦10年(956)?
群行:天徳元年(957)9月5日
   (長奉送使:藤原朝忠)
退下:康保4年(967)5月25日
天皇(父)崩御

略歴:
 延喜8年(908)(5歳)4月5日、内親王宣下。
 延喜15年(915)(12歳)4月30日、母鮮子卒去。


(これにより同母姉の11代恭子内親王が斎院を退下)
 延長8年(930)(27歳)9月22日、父醍醐天皇譲位、弟朱雀天皇践祚。


9月29日、父醍醐上皇崩御。


11月21日、朱雀天皇即位。
 承平元年(931)(28歳)7月19日、祖父宇多法皇崩御。


12月25日、斎院に卜定(異母妹雅子内親王(斎宮)と同日)、三品。
 承平2年(932)(29歳)9月25日、初斎院(左近衛府)へ入る。
 承平3年(933)(30歳)4月12日、野宮(本院)へ入る。
 天慶9年(946)(43歳)4月13日、朱雀天皇譲位、異母弟村上天皇践祚。


4月28日、村上天皇即位。
 康保4年(967)(64歳)5月25日、村上天皇崩御、甥冷泉天皇践祚。同月退下か。
 安和2年(969)(66歳)8月13日、甥冷泉天皇譲位、甥円融天皇践祚。


9月23日、円融天皇即位。
 

9月7日、出家。
 

9月10日(または11日)、薨去。
  ※年齢は『一代要記』に基づいたが、これは不正確と思われる。詳細は後述。

号:大斎院
同母兄弟:恭子内親王(902-915,11代斎院)
     代明親王(904-937,三品中務卿)
     敏子内親王(906-?)

斎院長官:源興平(承平6年(936)11月6日以前〜天慶3年(940)4月以前)
     藤原成国[おじ](天慶3年(940)4月6日〜?)

醍醐天皇第七?皇女。
 母藤原鮮子は、醍醐天皇の従姉妹。
 (※祖母源礼子が光孝天皇皇女で、醍醐の父宇多天皇の姉妹)
 12代宣子内親王、13代韶子内親王は異母姉妹。
 斎院長官藤原成国は、母鮮子の兄弟。
                         ┌─────────┐
                         |         |
                 仁明天皇===藤原沢子      藤原直道
                      |            |
                      |            |
                     光孝天皇          |
                      |            |
                      ├─────┐      |
                      |     |      |
                     宇多天皇  源礼子=====連永
                      |         |  |
                      |         |  |
                     醍醐天皇======鮮子  成国
                      |     |      [長官]
  ┌────┬────┬───┬───┬─┴─┐   ├────┐
  |    |    |   |   |   |   |    |
 朱雀天皇 村上天皇  重明  雅子  斉子  英子  恭子  ◆婉子
       |    |   (斎宮) (斎宮) (斎宮)
       |    ├───┐
       |    |   |
       楽子   徽子  悦子
       (斎宮)  (斎宮) (斎宮)

詠歌:なみながらそでぬれぬる海人小舟のりおくれたるわが身とおもへば(古今和歌六帖)

 卜定時28歳は歴代最年長。また在任期間も36年と長く、16代選子内親王に次ぐ第2位であり、選子以前は婉子を「大斎院」と称した。

 婉子内親王の卜定時、既に両親共に没していた。同様の例は16代選子内親王、19代禖子内親王など少数で、このためか婉子と選子の二人は歴代の中でも特に在任期間が長かった。また婉子内親王の場合は朱雀天皇の譲位で退下せず(天皇崩御の際は斎院も退下した例が多いが、譲位で退下した斎院は殆どいない)、その後の村上天皇の在位が長かったことも一因と見られる(※当時他に候補の内親王がいなかったわけではなく、婉子在任中に斎宮は内親王4人・女王2人の合計6人が相次いで交替している)

 なお、朱雀天皇即位の直後に醍醐上皇が崩御したため(延長8年9月29日)、諒闇で斎宮・斎院の卜定も1年間延期となった。さらに翌年、今度は祖父宇多法皇が崩御(承平元年7月19日)、このため醍醐天皇の皇女たちは諒闇明けの後も祖父の服喪が続き、さらに卜定が延期されたと見られる。結局同年12月17日、5ヶ月の服喪を終えて大祓が行われ、同月25日にようやく雅子内親王と婉子内親王が斎宮・斎院に卜定された。平安時代に天皇の祖父上皇が存命であった例は院政期以外では殆どなく、複数の上皇の崩御による服喪の連続で卜定が遅れた例はこの時のみである。

参考リンク:
『天皇皇族実録49.醍醐天皇 巻4』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※婉子内親王については116〜119コマにあり





【村上天皇崩御と婉子内親王退下の関連について】
 婉子内親王の斎院退下時期について、明確な記録は残っていない。そもそも斎院は斎宮と同様、「凡天皇即位、定賀茂大神斎王」(『延喜式』)であり、本来は天皇の譲位・崩御により退下するものとされている。事実、天皇崩御で退下した斎院は多いが、その殆どは崩御した天皇が斎院の父であった場合であり、天皇と親子でない斎院が天皇崩御で退下した例は殆どない(20代正子内親王は後冷泉天皇(兄)、30代怡子内親王は近衛天皇(いとこ孫)が在任中に崩御したが、いずれも退下していない)。また天皇譲位で退下したと見られる可能性が高いのは2代時子のみであり、以後の斎院は天皇譲位でも退下せず留任となった。
 これについては、堀裕氏の説である「在位中に崩御した天皇であっても、後一条天皇以降は「如在之儀」により名目上は天皇譲位の後崩御したものと見なされた」ことが理由かと思われる。ただし10世紀にはまだこの慣例はなく、村上天皇の死は「天皇崩御」として葬儀が執り行われたことが記録からも伺える。
 ところで堀口悟氏は村上天皇が譲位したとしており、また「斎院が必然的に退下する──すなわち斎院交替が行われる──条件となるのは、父母の喪、自身の死、及び斎院の任に耐え得ないと判断された病の四つの場合だけである」と唱え、父ではない天皇の崩御では斎院は退下しないとしている。しかし歴史上、名実共に「父ではない天皇の崩御」を経験した斎院は婉子内親王のみであった。仮に婉子の退下理由が村上天皇の崩御であったとすれば、それは歴代斎院の中で唯一の「天皇崩御のみによる斎院退下」であったことになる。

参考論文:
・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」
 (『古代文化』31巻10号, p608-631, 1979)
・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」
 (『史林』81(1), p38-69, 1998)[機関リポジトリ全文あり]





【婉子内親王の年齢について】
 婉子内親王の生年は、『一代要記』(以下『要記』)の「延木[喜]八ー[年]四月五日為内親王、<五才、>」により延喜4年(904)とされているが、同母兄弟の代明親王も同年の生まれである(『醍醐天皇御記』延喜19年2月26日条)。二人が双子である可能性もありうるが、これに従うと918年の父醍醐天皇との対面の儀(親王・内親王が父帝に初めて謁見する儀式。通常7歳前後に行われる)は15歳であったことになり、当時としては異例に遅い(他の皇子女たちは殆どが7〜8歳で、同じ日に参内した異母兄弟常明親王も13歳である)。ただし婉子については「始参入」ではなく「参入」とあるので、対面の儀はそれ以前に済ませていた可能性もある。
 また出生の順序については、『要記』は第三女とするが、『日本紀略』(以下『紀略』)の卜定記事薨伝では第七皇女としている。『要記』は第一皇女勧子内親王の記載がなく、詔子(韶子)内親王を第六女とするなど矛盾が多い。一方『紀略』は記述により順序が重複している例もあるが、『要記』よりも当時に近い時代の記録でもあり、また姉妹全員の記録から総合的に判断して、第七皇女とするのが妥当であろう(※『大日本史料』も第七皇女とする。なお908年に複数人の皇子女へ親王宣下があったことは『紀略』に記録があり事実と思われるが、具体的な人名は挙げられておらず詳細不明)
 ともあれ『要記』の年齢表記については、同一人物でも親王宣下の年齢と享年が一致しない例も多く、婉子内親王が908年当時5歳(=904年生まれ)とするのも誤りの可能性がある。『紀略』では第六皇女都子内親王を享年77(981/10/21没)としており、逆算すると生年は905年となるので、これを正しいとすれば第七皇女婉子内親王の生年は905年以降となる。また、907年生まれの式明親王が911年に親王宣下を受けているので、婉子がそれよりも年上とすれば、婉子の生年は905〜906年頃にほぼ絞られると考えられる。
※醍醐天皇皇子女の中で、数え1歳で親王宣下された確実な例は皇子寛明(朱雀天皇)・成明(村上天皇)だけである。寛明・成明は共に皇后腹の皇子であることから、醍醐の皇子女でも例外と見るべきだろう(なお第一皇女勧子内親王は生年不明だが、『九暦』に母為子内親王が出産で亡くなったとの記録があり、勧子も数え1歳で宣下された可能性が高い。母為子は醍醐の叔母でまた皇族の「妃(ひ)」であり、勧子はその娘で醍醐の第一子でもあったことから優遇されたものか)
 ちなみに寛明・成明の同母兄であった皇太子保明は、母穏子立后前の誕生であった。その他の異母きょうだいの例から判断して、当時の宣下は最低2歳以上で行われていたと考えられる。
 このことから、904年宣下の慶子内親王と908年宣下の勤子内親王は慶子が年上で、慶子は同時に宣下を受けた克明親王と同年の903年と見られる。また勤子の同母妹都子内親王が905年生まれであることから、勤子は904年生まれと考える。
 なお『要記』では婉子の同母妹敏子内親王を906年生まれとするが、908年の宣下に敏子は入っていない。また『紀略』により敏子の内親王宣下が911年なのは判明しているので、908年〜910年の間に生まれた可能性が高い。さらに上記式明親王の例を合わせて考えると、906年生まれと907年生まれで親王宣下に区切りがあったと見られるので、敏子の生年の上限も907年までと考えられる(ただし同母姉の婉子が908年に宣下を受けており、敏子が907年生まれであれば数え2歳になっていながら宣下されなかったのは不審であり、やはり908年以降の生まれか)
 また年の近いきょうだい(大体1〜2歳差程度)がいる場合には、宣下や元服・裳着の儀式は年少の皇子女が一定の年齢に達するのを待ってきょうだい共に行われたようで、これにより兄姉の宣下・元服(裳着)年齢が高くなる傾向がある。908年の宣下もこうした事情により、904〜906年に誕生した5人(重明・常明(906生)、勤子(904?生)、都子(905生)、婉子(905〜906?生))を一挙に宣下したものと見られる。

 ところで宣下が2歳以上で行われるものであったとすると、上記5人が何故908年ではなく907年に宣下されなかったのかという疑問が生じる(特に勤子は5歳?で宣下とやや遅い)
 そこで907年の記事を見ると、6月8日に醍醐天皇養母の皇太夫人藤原温子が、また10月17日に醍醐天皇外祖母の宮道列子が死去している(『西宮記』『北山抄』等によれば、醍醐天皇は養母温子の崩御に三日間服喪した)。ただし当時7歳以前の子どもは服喪規定の適用を受けなかったとされており、現に醍醐天皇の第一皇女勧子内親王は899年3月14日に生母為子内親王が死去しているにもかかわらず、9ヶ月後の同年12月14日に宣下を受けている。907年当時は最年長の勤子でさえまだ4歳で服喪規定の適用外であり、藤原温子・宮道列子の死去により醍醐天皇の皇子女たちが服喪したことが影響した可能性は低いと思われる(なお着袴は父の喪中でも行われており、皇族では朱雀天皇皇女昌子内親王、一条天皇皇子敦良親王等の例がある)

参考書籍:
・服藤早苗『平安王朝の子どもたち』(吉川弘文館,2004)


《醍醐天皇皇女一覧》
順序名前 生年没年内親王宣下生母 備考
1勧子 899?不明899妃為子内親王914まで生存
2宣子902920/閏6/9903/2/17更衣源封子12代斎院
3恭子902915/11/8903/2/17更衣藤原鮮子11代斎院
4慶子 903?923/2/10904/11/17女御源和子敦固親王室
5勤子904?938/11/5908/4/5更衣源周子藤原師輔室
6都子905981/10/21908/4/5更衣源周子 
7婉子905-906?969/9/11908/4/5更衣藤原鮮子14代斎院
8修子907-909?933/2/5909-910?更衣満子女王元良親王室
9敏子907-910?不明911/11/28更衣藤原鮮子969まで生存
10雅子910954/8/29911/11/28更衣源周子斎宮,藤原師輔室 
11普子910947/7/11911/11/28更衣満子女王源清平/藤原俊連室
12靖子915950/10/13930/9/28更衣源封子藤原師氏室
13韶子918980/1/18920/12/17女御源和子13代斎院
14康子920?957/6/6920/12/17皇后藤原穏子藤原師輔室
15斉子921936/5/11923/11/18女御源和子斎宮
16英子921946/9/16930/9/28更衣藤原淑姫斎宮
※主に『日本紀略』『一代要記』による。生母は『本朝皇胤紹運録』を参照。





醍醐天皇
史料 月日 記述
日本紀略 延喜8年
(908)
4月5日 【皇女婉子、内親王宣下】
 定男女親王。
西宮記
(臨時/親王対面)
延喜18年
(918)
8月23日 【婉子内親王、内裏に参入】
 第五皇子(常明)始参入、於中庭拝舞。召御前賜白褂一重。下殿拝舞出。 右大将・ 右衛門督・ 左兵衛督・ 左近中将恒佐朝臣并殿上侍臣等、扈従皇子直廬。
又今夜、第七内親王(婉子)参入云々。
朱雀天皇
史料 月日 記述
貞信公記抄
小右記
北山抄
日本紀略
賀茂注進雑記
承平元年
(931)
12月25日 【婉子内親王、賀茂斎院に卜定】
『貞信公記抄』
 今夜、定斎宮斎院、依卜食也

『小右記』(長和5年2月19日条)
 今日卜定斎王(斎宮嫥子女王)云々、(中略)
故殿(藤原実頼)延長九年十二月二十五日御記、殿下(藤原忠平)著陣、諸卿同著、召神祇官令卜定斎宮斎院、先召外記、召帋(紙)硯、書内親王名、令外記密封、召神祇大副興生朝臣賜之、令下[卜]、先令卜伊勢斎主、二度不合、至于三度合也、令卜賀茂斎王、一度合也、殿下令持外記参上、令奏已了、召奥生朝臣、被仰以雅子内親王定伊勢斎王、以婉子内親王定賀茂斎王之由、卜定作法、詳見件御記

『北山抄』
 左大臣(忠平)仰外記、召紙硯、自書内親王名、令外記密封、
召祭主奥生給之、先令卜伊勢斎王、大臣開見、両度不合、
三度合之、次令卜賀茂斎王、一度合也、参上奏畢、召奥生、
仰以雅子内親王定伊勢斎王、以婉子定賀茂斎王之由、
又仰弁令給承知官符<諒闇間卜定例、在嘉祥三年、而承平令如之>

『日本紀略』
 卜定伊勢賀茂齋王等。先帝(醍醐)第十雅子内親王伊勢卜食。同第七婉子内親王賀茂卜食。

『賀茂注進雑記』
(※『大日本史料』による)
(乾 齋院 齋院次第)
婉子内親王<朱雀院第廿三皇女、承平二年卜定、母同恭子内親王、>
貞信公記抄 承平2年
(932)
3月16日 【斎院婉子の初斎院を定める】
 左大中弁等来、定斎院入便處、伊勢(雅子)宮内、賀茂(婉子)京職
貞信公記抄
左経記
承平2年
(932)
9月25日 【斎院(婉子)御禊、初斎院に入る】
『貞信公記抄』
 賀茂斎院(婉子)御禊、入左近衛府少将曹司井本也、左大将(仲平)令取秩父馬

『左経記』
 長元四年十二月五日(中略)、婉子斎院(中略)
(承平)二年九月二十九[五]日、入右[左]近衛府
吏部王記
(政治要略)
承平2年
(932)
12月21日 【重明親王、斎院(婉子)訪問】
(未入力)
左経記
日本紀略
吉記
承平3年
(933)
4月12日 【斎院婉子、紫野本院に入る】
『左経記』
 長元四年十二月五日(中略)、婉子斎院(中略)
三年四月十二日、入野宮云々

『日本紀略』
 賀茂齋院婉子内親王行禊。入紫野院。

『吉記』
(治承4年4月1日条[斎院範子内親王記事])
 徃亡日事、
  婉子  承平三年四月十二日戊午、<式日、>
九暦 承平6年
(936)
11月6日 【斎院婉子、月経により汗殿へ退出】
 大閣[閤]下云、斎院長官(源)興平来云、今日相嘗祭也、而斎王(婉子)有月事退出汗殿、因之間件祭停否之由、無知先例之人、為承處分参入云々、引勘先帝御日記、去延喜十四年御日記云、依有斎王(恭子)月事相當[嘗]祭停止、是依神祇官定申、准斎宮例秡謝事由停祭云々、准彼例、可止之由、仰興平了者、
貞信公記抄 承平7年
(937)
4月1日 【斎院婉子、兄代明親王の喪に遭う】
『貞信公記抄』(西宮記)
 賀茂斎内親王(婉子)遭兄弟喪、参祭否之由、令公卿定、而民部卿(平伊望)令申云、今日公卿少数、須朝朝、可令定申
貞信公記抄 承平7年
(937)
4月3日 【斎院婉子の軽服により、賀茂祭のことを定める】
『貞信公記抄』(西宮記)
 斎宮(雅子)、斎院(婉子)、著軽服否之由、令問彼宮、宮不著者、斎院可参祭之事定了<中務卿親王、去月廿九日頓滅>
権記
年中行事秘抄
承平7年
(937)
4月13日 【斎院(婉子)御禊】
『権記』(寛弘4年4月14日条)
 御禊、依内穢、未日可被行、是(中略)承平七(中略)年例云々

『年中行事秘抄』
 斎院(婉子)禊也<昨日延引>、中納言平伊望卿、参議源是茂、依勅参斎院行[衍]幸事<此年以前、無卿相歟>
日本紀略 承平8年
[天慶元年]
(938)
4月15日 【地震】
 地大震。京中垣墻悉以破壊。内膳司屋転倒。壓死者四人。陰陽寮占申。東西有兵亂事。
清慎公記 承平8年
[天慶元年]
(938)
4月16日 【斎院(婉子)御禊前駆を定める】
『清慎公記』(小野宮年中行事)
 差賀茂斎内親王禊日前駈奏聞事
故殿(藤原実頼)天慶元年四月十六日御記云、斎院(婉子)御禊前駆、右衛門尉源忠光、向伊勢國之替、改仰中務少丞平佐忠、検先例、諸衛尉有障之時、以当府尉改差、府中無可改差之者、以中務丞内舎人等改差、是延喜廿年之例也、仰少外記有時了
日本紀略 承平8年
[天慶元年]
(938)
4月20日 【賀茂祭停止】
 停賀茂祭。依内膳司人死穢也。
本朝世紀 天慶元年
(938)
11月12日 【斎院相嘗祭】
 今日斎院相嘗会也
貞信公記抄
西宮記
天慶2年
(939)
4月2日 【斎院(婉子)御禊前駆を定める】
『貞信公記抄』
 定禊前駈

『西宮記』(臨時一、申文)
 著左衛門陣、少納言外記各障、一人不参云々、仍已一刻、
自左衛門陣退出、参殿(忠平)須先参内、而依有可執申事也
『西宮記』(臨時一、外記政)
 結政所弁不参、只史一人仍[候]之時、官掌依例結申、(中略)
著左衛門陣、少納言外記不参之時、不入内退出
<天慶二年四月二日>
貞信公記抄
吏部王記
日本紀略
天慶2年
(939)
4月14日 【賀茂祭。大雨により賀茂川増水】
『貞信公記抄』
 賀茂祭、終日雨下、斎王(婉子)参向、河水之反出、渡人有煩云々、即右中弁入夜馳来云、斎王并諸司、更不能渡河皆留邊、明朝待得使々将来可遂給、但諸司使乗舟、今夜同可参向奉幣

『吏部王記』(『西宮記』四月賀茂祭事)
 天慶二年四月十四日、賀茂祭。終日大雨。
内親王(婉子)参社。而鴨河瀑漲不得渡。仍移時就車、休息宮幕下。明日還院。内侍又不渡。但、近衛府・内蔵・中宮等使、乗太政大臣(忠平)白河家船、渡河参社。<因相公命。>
奉幣畢、参院給饗禄、如常云々。

『日本紀略』
 賀茂祭。終日。雨下。乗燭。斎王(婉子)參社頭。供奉諸司不得渡河水。
貞信公記抄 天慶2年
(939)
4月15日 【賀茂祭】
 早旦、使内舎人有在舒奉同斎王、夜来行事、(源)公忠朝臣伝示斎王御報旨、又云、昨夜将来為告仰旨、令求使等、不知其所在、今朝各出来参社頭了
貞信公記抄 天慶3年
(940)
3月26日 【斎院別当より、左大臣忠平に書状】
 (前略)以朝綱朝臣、可補斎院別当之状、示送左大臣殿(忠平)
貞信公記抄 天慶3年
(940)
4月6日 【藤原成国を斎院長官に任命】
 以(藤原)成国任斎院長官
本朝世紀 天慶3年
(940)
4月15日 【斎院長官藤原成国、御禊に奉仕せず】
 天晴、又今月十七日、賀茂斎内親王(婉子)御禊也、而彼院長官兼摂津守藤原朝臣成国、依身病不奉仕、仍以大蔵少輔藤原朝臣敏生、為長官代之由被定已了、而敏生朝臣依申病由、改定兵庫頭平朝臣齊章、而件朝臣依申傷胎穢、差替大膳大夫橘朝臣公彦、御禊并祭日、可奉仕之由被召仰了
本朝世紀 天慶3年
(940)
4月17日 【斎院(婉子)御禊】
 朝間降雨、今日賀茂斎内親王(婉子)御禊也、而次第使左馬助源朝臣国珍、俄申寮中有牛斃之由<但件朝臣住寮曹司>、仍以但馬権介伴宿禰仲舒、改替令奉仕之
吏部王記 天慶3年
(940)
8月26日 【重明親王、代明親王女に着裳する】
 因斎院公主(婉子)請詣故中務卿(代明)孫王冠笄所、常陸親王(式明)又會、依斎院温消息、無他客、余(重明)結女王裙帯、常陸君加孫王冠(後略)
吏部王記 天慶5年
(942)
9月10日 【斎院(婉子)、服喪により祭に不参加】
『西宮記』(臨時五)
 斎宮斎院遭軽喪之時、不著服、并参祭之由、見吏部王天慶五年九月十日記
西宮記
権記
天慶6年
(943)
4月2日 【斎院(婉子)御禊前駆を定める】
『西宮記』
 召侍従、此日臨時御幣使并御禊前駈、於此座被定

『権記』(寛弘4年4月5日)
 参内、権中納言被定申御禊前駈事、左府有御障、仍当日上卿被定申、右衛門佐周家四位也、中書去年奉仕、依天慶六年例奏事由、差兵庫頭聞了、 左衛門権佐随時天慶(中略)六年随時猶為権佐、而差兵庫齊章例也
貞信公記抄 天慶8年
(945)
3月16日 【斎院の物資不足について報告】
 (菅原)在躬朝臣来云、斎院(婉子)用度物在庫在所無有一物、為之如何者、答云、可令奏大内
貞信公記抄 天慶9年
(946)
4月11日 【賀茂祭に斎院の物資不足】
 中使為輔来云、賀茂遣日不幾、而斎院用途不足多数云々、近日有望馬属之者、其料四百貫也、承可被任之仰、且召用斎院事者、是行事中納言所令奏事也云々
村上天皇
史料 月日 記述
貞信公記抄
即位部類記
天慶9年
(946)
4月22日 【斎院(婉子)留任を賀茂社へ奉告】
『貞信公記抄』
 今上遷御御綾綺殿、幸建礼門南庭、奉遣幣帛於伊勢大神宮、■[告]可即位之状、還宮之後、不替斎院(婉子)令旨告賀茂社

『即位部類記』
 賀茂「     」(不明)告以斎内親王不替、
<案先例、天皇受禅之後、賀茂斎王不替時、卜定伊勢斎宮之次、同定件斎王事、令告其由、而此般賀茂祭当廿五日、斎王行禊、立在明日、仍今日被申此由歟>(中略)
申賀茂宣命云、
天皇<我>詔旨<止>、掛畏<岐>賀茂皇大神<能>広前<仁>申賜<倍止>
<久>婉子内親王、太上天皇<能>去承平元年十二月廿五日<仁>
阿礼<乎止如>御杖代<仁>斎定<弖>奉給<倍留>内親王<奈利>
方今天祚改<仁><天>、旧例<能><爾>択替<弖>可令斎仕之、
而件内親王<波>無物妨依<弖奈利>、更不替<弖>
如旧<仁>礼奉仕(後略)
即位部類記 天慶9年
(946)
4月23日 【斎院(婉子)御禊】
 今日賀茂斎内親王(婉子)行禊也、又今日例、依賀茂祭有警固召仰
日本紀略 天慶10年
[天暦元年]
(947)
2月26日 【斎院に盗賊入る】
(前略)此夜。群盗入賀茂齋院。
貞信公記抄 天慶10年
[天暦元年]
(947)
2月27日 【斎院に盗賊入る旨、関白忠平に報告】
 従大内差滝口武者文室保持、仰遣賀茂斎院群盗入来之由、又差伴彦頼有内仰、暁成国朝臣来、告同事由、天使随時朝臣来、有昨夜群盗事、勅封等事
貞信公記抄
日本紀略
天慶10年
[天暦元年]
(947)
4月7日 【斎院(婉子)御禊前駈定】
『貞信公記抄』
 差斎院(婉子)前駈

『日本紀略』
 右大臣(藤原実頼)擬階奏文。又被定賀茂祭御禊前駈。
日本紀略 天慶10年
[天暦元年]
(947)
4月15日 【斎院(婉子)御禊を延期】
(前略)此日。齋院(婉子)御禊延引。依諸司不具也。
貞信公記抄
日本紀略
天慶10年
[天暦元年]
(947)
4月16日 【斎院(婉子)御禊】
『貞信公記抄』
 斎院(婉子)御禊

『日本紀略』
 賀茂齋内親王(婉子)御禊也。恒例用午日。依有不具事。延引及今日。
日本紀略 天慶10年
[天暦元年]
(947)
4月18日 【賀茂祭】
 賀茂祭也。中納言(藤原)元方卿著齋院。行事。自未刻。天陰暴雨。因之齋院司大驚。令實檢院内雜人之處。混雜人重服之者。仍解除其由。陰雲忽晴。祭事無滞。
日本紀略 天暦2年
(948)
4月4日 【斎院(婉子)御禊の前駈を定める】
(前略)是日。定御禊前駈。
日本紀略 天暦2年
(948)
4月18日 【賀茂祭】
 賀茂祭。天皇(村上)御南殿。覽使々餝馬。
類聚符宣抄 天暦2年
(948)
10月26日 【斎院宮主を任命】
 太政官符
応補賀茂斎院宮主正七位上伊岐宿禰春友事(後略)
日本紀略 天暦3年
(949)
4月11日 【斎院(婉子)御禊の前駆を定める】
 定賀茂祭御禊御前。
日本紀略 天暦3年
(949)
4月19日 【斎院(婉子)御禊の日程を改める】
(前略)來廿一日齋院(婉子)禊可改未日之由。召仰諸司。
日本紀略 天暦3年
(949)
4月22日 【斎院(婉子)御禊】
 賀茂齋内親王(婉子)御禊。又召諸衛仰警固之事。
日本紀略 天暦3年
(949)
4月24日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 天暦3年
(949)
4月25日 【斎院(婉子)、本院へ帰還】
 解陣。今日。上皇(朱雀)御知足院。覽齋王(婉子)還院。
醍醐天皇御記
(年中行事秘抄/賀茂祭)
天暦4年
(950)
4月27日 【斎院(婉子)御禊】
 賀茂祭御禊也。
醍醐天皇御記
(年中行事秘抄/賀茂祭)
天暦4年
(950)
4月30日 【賀茂祭】
 鴨祭也。
九暦記 天暦5年
(951)
4月5日 【斎院(婉子)御禊前駈定】
『西宮記』(四月賀茂祭)
 九記云、外記正統云、左閤(藤原実頼)命云、有所労不参、
令参入上、申行御禊前駈事者云々、依宰相等不候、
令右大弁有相書、降雨故自不参上、令件弁奏
日本紀略 天暦11年
[天徳元年]
(957)
4月16日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 天徳2年
(958)
4月17日 【源自明卒去】
 参議正四位下源朝臣自明卒。今上(村上天皇)之兄也。
日本紀略
西宮記(四月賀茂祭事)
天徳2年
(958)
4月19日 【斎院(婉子)御禊延期】
『日本紀略』
 可有賀茂齋院(婉子)禊。而依自明卒。昨日。可行殿。今日。奏參議源自明朝臣去十七日卒由。今上(村上天皇)兄。齋院(婉子)弟也。廢朝三箇日也。

『西宮記』
 帝着錫紵。依(源)自明喪也。
西宮記(四月賀茂祭事) 天徳2年
(958)
4月20日 【斎院(婉子)御禊】
 斎院(婉子)禊。
日本紀略 天徳2年
(958)
4月21日 【賀茂祭宣命のこと】
 賀茂祭。宣命。先例。内記付内侍奏聞。而内裏有丙穢。使不可參内。被尋先例之處。不見宣命之事。准臨時奉幣之使。不穢内記於陣外書宣命。不經奏聞付使内侍。令給内藏寮。使●紙可請左大臣家者。

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
日本紀略 天徳2年
(958)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 天徳3年
(959)
4月19日 【斎院(婉子)御禊】
 斎院(婉子)禊。今日。酉刻以後。大雷雨。
日本紀略 天徳3年
(959)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 天徳4年
(960)
4月21日 【理子内親王(村上天皇皇女、母更衣源計子)薨去】
(前略)今日。第二理子内親王薨。<年十三>
村上天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
日本紀略
天徳4年
(960)
4月27日 【斎院(婉子)御禊】
『村上天皇御記』
 此日有斎院(婉子)禊事。例午日行之。而依穢、今日行之。蔵人所陪従、山城・近江牛等、不覧遣彼院也。

『日本紀略』
 齋院(婉子)禊。先例午日行之。而依滿穢限。今日行之。
北山抄
日本紀略
天徳4年
(960)
4月28日 【賀茂祭】
『北山抄』
 賀茂祭、依天暦四年例(中略)、以下酉可行云々、
廿八日使可発也、而廿五日聞食理子内親王薨由、
依承和八年例(中略)、停勅使、坊司[使]等、斎王(婉子)可参祭(後略)

『日本紀略』
 賀茂祭。但停内藏寮近衛馬寮等使。及典侍命婦藏人國司東宮坊使等。依理子内親王薨(21日)也。齋院(婉子)依例參社頭。又中宮(安子)使発向。以無其忌也。
村上天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
応和元年
(961)
4月11日 【斎院(婉子)御禊前駆定】
『西宮記』(四月賀茂祭)
 右大将藤原朝臣(藤原師尹)、令延光朝臣申云、斎院(婉子)御禊前駈、申障之替、差諸大夫等。而皆申障。請被差殿上侍臣等。略令仰安親・佐理等。
日本紀略 応和元年
(961)
4月14日 【斎院(婉子)御禊】
 齋院(婉子)禊。
日本紀略 応和元年
(961)
4月17日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
西宮記
(四月賀茂祭事)
日本紀略
応和2年
(962)
4月19日 【斎院(婉子)御禊】
『西宮記』
 斎院(婉子)禊、如常。巳尅、召左大臣(藤原実頼)家并山城・近江等国牛、於東庭覧。了遣院。(中略)
未刻、召蔵人所。陪従及騎馬等覧。了、遣彼院云々。

『日本紀略』
 齋院(婉子)禊。
日本紀略 応和2年
(962)
4月22日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 応和3年
(963)
4月13日 【斎院(婉子)御禊】
 齋院(婉子)禊。
日本紀略 応和3年
(963)
4月16日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
村上天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
応和3年
(963)
9月5日  斎院司申不動神座修理神殿事。又令仰神座移斎王住所可加修理事。
村上天皇御記
(西宮記/正月女叙位)
応和4年
[康保元年]
(964)
1月11日 【斎院(婉子)叙位(叙品?)】
 使左近中将重光朝臣、賜斎院内親王(婉子)位記、令命婦昭子頒女叙位記。
村上天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
応和4年
[康保元年]
(964)
4月13日 【斎院(婉子)御禊】
 斎院(婉子)禊。召覧右大臣藤(原朝臣)家牛并両国牛等遣院也。又召覧陪従等也。
日本紀略 応和4年
[康保元年]
(964)
4月16日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
村上天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
康保2年
(965)
4月19日 【斎院(婉子)御禊】
 午刻、左大臣参上、奏官奏訖也。(於)仁壽殿、覧賀茂祭女騎料馬及右馬寮家島牧馬。大臣令延光申諸衛可警固事。
日本紀略 康保2年
(965)
4月21日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
村上天皇御記
(西宮記/十月還宮後儀)
康保3年
(966)
4月1日 【斎院(婉子)御禊前駆定】
 午刻、民部卿(藤原在衡)延光朝臣奏定斎院(婉子)前駈次第使文。
日本紀略 康保3年
(966)
4月14日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
村上天皇御記
(西宮記/十月還宮後儀)
康保3年
(966)
7月23日 【斎院(婉子)御禊前駆定】
 午刻、民部卿(藤原在衡)延光朝臣奏定斎院(婉子)前駈次第使文。臨時奉幣使斎院禊等致闕怠。
日本紀略 康保4年
(967)
4月12日 【斎院(婉子)御禊】
 齋院(婉子)禊。
日本紀略 康保4年
(967)
4月15日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 康保4年
(967)
5月25日 【村上天皇崩御】
 依天皇不豫。詔大赦天下。但常赦所不免者不赦。巳刻。天皇崩于清凉殿。春秋四十二。在位廿一年。(後略)
一代要記 康保4年
(967)
5月 【斎院婉子退下】
 朱雀天皇
斎院 婉子内親王 醍醐第三女(中略) 承平元年十二月為斎院、叙三品、康保四年五月退而出家、(後略)
円融天皇
史料 月日 記述
日本紀略 安和2年
(970)
9月7日 【前斎院婉子出家】
 前齋院婉子内親王為尼。
日本紀略 安和2年
(970)
9月11日 【前斎院婉子内親王薨去】
 今日。入道婉子内親王薨去。<醍醐第七女。>伊勢例幣依前齋院婉子薨延引。仍有大祓。
日本紀略 安和2年
(970)
9月16日 【婉子内親王薨去を奏上】
 奏婉子内親王。薨之由。
後一条天皇
史料 月日 記述
左経記 長元7年
(1034)
11月9日 【前斎院(選子内親王)に、斎院神殿の先例を尋ねる】
 参殿(藤原頼通)、被仰云、従中宮(威子)被仰云、斎院神殿東棟分戸、一日頗開矣、件戸先例不開云々、如何、(中略)
十日、(中略)早旦、令申神殿戸事於前斎院(選子)、御返事云、(中略)
候子尊子斎院女房前年語云、件戸総不開、故大斎院(婉子)、慮外件戸開、其後有(平)将門兵乱云



史料 記述
一代要記
醍醐天皇
(皇女)
 婉子内親王<三品、賀茂齊、>

朱雀天皇
(賀茂)
 婉子内親王
 <醍醐第三女、延木八ー四月五日爲内親王、<五才、>承平元ー十二月爲齊院、敍三品、康保四ー五月退而出家、安和二ー九月七日薨、>

村上天皇
(賀茂)
 婉子内親王<元、>
帝王編年記
醍醐天皇
(皇女)
 <第七>
 婉子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院>

朱雀院
(齋院)
 婉子内親王<延喜第/七皇女>
 玉篇婉於遠切婉嬪也願也美女也

村上天皇
(齋院)
 婉子内親王<如故>
二中歴
(齋院)
 婉子<同(延喜女) 承平二年>
皇代暦
朱雀天皇
(齋院)
 婉子内親王 醍醐七女

村上天皇
(齋院)
 婉子内親王<元>
本朝皇胤紹運録
(醍醐天皇子)
(317)婉子内親王[三品。齋院。母同代明(更衣藤原鮮子。伊予輔連永女)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
婉子内親王<三品。> 承平二年卜定。同第「十」三御女。母同恭子内親王。
賀茂斎院記
婉子内親王 醍醐天皇第七皇女也、
母同恭子(更衣鮮子)、
承平元年十二月二十五日卜定、
三年四月十二日婉子行禊、入紫野院
安和二年九月七日婉子為尼、十日薨
拾遺和歌集
  • (冬)斎院(婉子?)の屏風に、十二月つごもりの夜(平兼盛)
(33)数(かぞ)ふれば我が身に積もる年月を送迎(おくりむかえ)と何急ぐらん

『新日本古典文学大系』(岩波書店)注はこの斎院を婉子内親王かとしており、兼盛の活動時期や、冷泉朝以降の屏風歌の記録が少ないこと等から見て、その可能性は高いと思われる。なお『兼盛集』では内裏屏風歌としており、朱雀・村上二朝に渡り長年斎院として奉仕した婉子の五十歳または六十歳の賀の祝いに異母弟村上天皇が命じたものであろうか。
能宣集
  • (恋)賀茂祭のみそぎの日、所の御前つかまつりてはべりしに、河原に女ぐるまものしたまうしに、まめやかならんことはのちになどいひはべりて
(33)みなかみもききてわするなみそぎする今日のかはべにちぎることのは
 (水上も聞きて忘るな禊する今日の川辺に契る言の葉)
  • (恋)おなじまつりの日、あをいろのひものおちぬべき、つくろはむとてくるまがくれにまかりよりたるに、車よりおなじいとをすげていだして侍りしを、たれともしらで、又年のまつりに、斎院(婉子?)の垣下にまゐりて侍るを、いづら、つけしひもはとまりたりしに
(34)からころもむすびしひもはさしながらたもとははやくくちにしものを
 (唐衣結びし紐はさしながら袂は早く朽ちにしものを)
  かへし
(35)くちにけむそでのしるしにしたひものとくだになどかしらせざりけむ
 (朽ちにけむ袖の印に下紐の解くだになどか知らせざりけむ)

所京子氏はこの時の斎院を花山朝の選子内親王とする(『斎王和歌文学の史的研究』)が、選子の最初の賀茂祭(977年)の時、能宣(57歳)は伊勢神宮祭主の任にあった。『後拾遺和歌集』詞書では祭で前駈を務めていたとなっているが、御禊や賀茂祭の前駈は衛門府の佐や少尉等が多く、神祇官の記録は殆ど見られないこと、また贈答の内容から見て、能宣が神祇少祐となった天徳2年(958)以前の可能性が考えられるため、この斎院を婉子内親王と推測した。


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