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15代斎院 尊子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
そんし たかこ 二品
両親 生年月日 没年月日
父:冷泉天皇(950-1011)
母:女御藤原懐子<贈皇太后>
  (945-975,伊尹女)
康保3年(966)※11月? 寛和元年(985)5月2日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
冷泉(967〜969,父)
円融(969〜984,叔父)
卜定:康保5年(968)7月1日
初斎院:安和元年(968)12月27日
   (左近衛府)
本院:天禄元年(970)4月12日
退下:天延3年(975)4月3日
母死去
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
輔子(953-992,叔母)
 父:村上天皇
 母:中宮藤原安子
卜定:安和元年(968)7月1日
初斎院:安和元年(968)12月25日
   (右近衛府)
野宮:安和2年(969)?
群行:なし
退下:安和2年(969)11月4日
天皇譲位
隆子女王(974没,いとこおば)
 父:章明親王
 母:藤原敦敏女
卜定:安和2年(969)11月16日
初斎院:天禄元年(970)9月8日
   (主水司)
野宮:天禄元年(970)9月30日
群行:天禄2年(971)9月23日
退下:天延2年(974)閏10月17日
死去
規子(949-986,伯母)
 父:村上天皇
 母:女御徽子女王
   [斎宮女御]
卜定:天延3年(975)2月27日
初斎院:貞元元年(976)2月26日
   (侍従厨家)
野宮:貞元元年(976)9月21日
群行:貞元2年(977)9月16日
   (長奉送使:藤原顕光)
退下:永観2年(984)8月27日
天皇譲位

略歴:
 康保3年(966)(1歳)(11月?)、誕生。
 康保4年(967)(2歳)5月25日、父冷泉天皇践祚。


9月4日、内親王宣下。


10月11日、冷泉天皇即位。
 安和元年(968)(3歳)7月1日、斎院に卜定。(伯母輔子内親王(斎宮)と同時)


12月27日、初斎院(左近衛府)に入る。
 安和2年(969)(4歳)3月25日、左大臣源高明、大宰権帥に左遷。(安和の変)


8月13日、父冷泉天皇譲位、叔父円融天皇践祚。


9月23日、円融天皇即位。
 天禄元年(970)(5歳)4月12日、紫野院に入る。
 天延3年(975)(10歳)4月3日、母懐子薨去により退下。
 貞元3年(978)(13歳)5月9日、四品。
 天元3年(980)(15歳)10月、叔父円融天皇に入内。

11月、内裏焼亡。
 天元4年(981)(16歳)1月10日、二品に昇叙。
 天元5年(982)(17歳)4月3日、叔父藤原光昭の死去により内裏を退出。


4月8日、落飾。
 永観3年(985)(20歳)4月、受戒。(戒師は天台座主良源)
 寛和元年(985)(20歳)5月2日、薨去。

号:承香殿女御、火の宮
同母兄弟:宗子内親王(964-986)
     花山天皇(968-1008)
夫:円融天皇(959-991,叔父)

詠歌:かめのうへのやまをたづねし人よりもそらにこふらむきみをこそおもへ(続古今集)

冷泉天皇第二皇女。
 母藤原懐子は、父冷泉天皇の従姉弟にあたる。
 (※懐子の父伊尹と、冷泉天皇の母安子が同母兄弟)
 夫円融天皇は、父冷泉天皇の同母弟。

   醍醐天皇
    |
    |
 ┌──┴──┐        ┌──────────┐
 |     |        |          |
 章明   村上天皇=====藤原安子       藤原伊尹
 |     |    |              |
 |     |    ├───┬────┐     |
 |     |    |   |    |     |
隆子女王   規子   |   輔子  冷泉天皇===懐子
(斎宮)    (斎宮)   |   (斎宮)       |
            |       ┌────┤
            |       |    |
           円融天皇====◆尊子  花山天皇

 尊子誕生の確かな記録は『日本紀略』には見られないが、『西宮記』(臨時7・皇后養産)に、康保3年12月1日の「息所」産養の記録がある。当時村上天皇の皇后であった藤原安子は既に他界しており、この頃他の女御所生の皇子女があったという記録もない。また「息所(=御息所)」という記述から、村上天皇の皇妃ではなく東宮憲平(後の冷泉天皇)の妃を指すものと思われる。
『大日本史料』はこの時誕生した王子または王女を特定していないものの、尊子の四十九日の願文(十五歳で入内とする)や『紀略』(寛和元年5月1日条)の薨伝(享年二十とする)等から、尊子の生年が康保3年であることは判明している。当時皇太子憲平の後宮で存在が確かめられるのは、尊子の生母藤原懐子の他に昌子内親王(朱雀皇女)もいたが、同年生まれの冷泉天皇の皇子女の存在は知られていない。
 また『西宮記』には尊子の同母姉宗子内親王誕生時(康保元年10月19日)の産養の記録(同月27日)もあり、「皇后養産」に康保3年の記録と共に記載されている。どちらも「息所産」とあり、従って康保3年の記事も康保元年と同様、東宮妃懐子の出産であった可能性が高い。
 なおこの「皇后養産」の項目には、朱雀天皇・村上天皇・慶頼王誕生時の記録も挙げられている。朱雀天皇と村上天皇は醍醐天皇の「皇后」藤原穏子の所生であり、また慶頼王は朱雀・村上の同母兄であった皇太子保明の子で、父の死後自らも皇太子となったことから、皇太子生母を皇后と同格またはそれに次ぐものと見なされたものか。
 また冷泉天皇の皇后は昌子内親王であったが、昌子内親王は狂気の夫冷泉を恐れて避けたと言われており、所生の子女があったとする記録はない。一方宗子・尊子の生母懐子は生前は女御で終わったが、死後に所生の皇子師貞親王(花山天皇)の即位に伴い皇太后を追贈されていることから、やはり皇后に準ずると見なされたものであろう。
 よって康保3年の産養は尊子誕生によるものであり、尊子が生まれたのは同年11月中旬から下旬頃であったと推測される。

 尊子内親王は歴代斎院の中で、退下後に入内し皇妃となった初例である。入内の一ヶ月後に内裏が焼亡したことから『火の宮』と仇名された(※なおこれについて、「火の宮」=「妃の宮」にかけた、即ち尊子が女御でなく妃(ひ/律令に定められた内親王の后妃の位階)であったとする説がある)
 祖父伊尹・母懐子は尊子の斎院在任中に早世しており、長命であった父冷泉院も狂気を噂される等、退下後は頼りになる後見が不在であった。後に入内した際も、当時の円融後宮では最も尊貴な内親王の皇妃(さらに東宮師貞親王の同母姉)でありながら影の薄い存在だったようで、宮中での消息も殆ど知られていない。『栄花物語』(2・花山たづぬる中納言)によれば叔父円融天皇の求めで入内(殿舎は承香殿)、その美しさから帝寵も深かったというが、尊子が後宮に入った時には既に関白藤原頼忠の娘遵子が中宮であったため、立后することはなかった(当時内親王出身の皇妃自体が稀であったとはいえ、臣下の皇后のために立后できなかった例は平安時代でも珍しい)。その後唯一残った叔父光昭の死をきっかけに、自ら髪を切って落飾したと伝えられる(『小右記』)
 出家後、源為憲から『三宝絵詞』を贈られたが、20歳の若さで薨去。四十九日の願文は慶滋保胤による。


参考論文:
・小松登美「<妃の宮>考」
 (『跡見学園短期大学紀要』7・8集, p25-32, 1971)
 ※『テーマで読む源氏物語論(3)歴史・文化との交差/語り手・書き手・作者』(勉誠出版, 2008)収録
・今西祐一郎「「火の宮」尊子内親王:「かかやくひの宮」の周辺」
 (『国語国文』51(8), p20-28, 1982)
・増田繁夫「藤壺は令制の<妃>か」
 (『人文研究』43(10), p875-889, 1991)[機関リポジトリ全文あり]
 ※『源氏物語と貴族社会』(吉川弘文館, 2002)収録
・吉野誠「藤壺「妃の宮」の出産と生死をめぐって : 物語における「史実」考」
 (『物語研究』(2), p103-115, 2002)[J-STAGE全文あり]
・浅尾広良「后腹内親王藤壺の入内――皇統の血の高貴性と「妃の宮」――」
 (『大阪大谷国文』(37), p75-92, 2007)
 ※『源氏物語の皇統と論理』(翰林書房, 2016)収録
・園明美「「かかやくひの宮」という呼称」
 (『日本文学誌要』(82), p15-26, 2010)[機関リポジトリ全文あり]
 ※『源氏物語の理路』(風間書房, 2012)収録

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考図書:
・岩佐美代子『内親王ものがたり』(岩波書店, 2003)
 (p96-110「絵本を見る尼姫宮――尊子内親王」)
・小原仁『慶滋保胤(人物叢書)』(吉川弘文館, 2016)
・神道大系編纂会編『西宮記(神道大系/朝儀祭祀編2)』(p796, 神道大系編纂会, 1993)
 [国立国会図書館デジタルコレクション](送信サービス閲覧可)

参考リンク:
『天皇皇族実録58.円融天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※尊子内親王(円融妃)については129〜134コマにあり





村上天皇
史料 月日 記述
西宮記 康保3年
(966)
12月1日 【皇太子憲平御息所、産養】
 皇后養産事
(康保)三十二一、息所(東宮妃藤原懐子?)産。遣(絹)員、如例。<使藏人少將(藤原)爲光。>
日本紀略 康保4年
(967)
5月25日 【村上天皇崩御、冷泉天皇践祚】
 依天皇不豫。詔大赦天下。但常赦所不免者不赦。巳刻。天皇崩于清凉殿。春秋四十二。在位廿一年。皇太子受天祚於凝華舎。戌刻。右大臣(源高明)行警固事。所司奉木契松脂等。
冷泉天皇
史料 月日 記述
日本紀略 康保4年
(967)
8月4日 【皇女宗子(尊子の同母姉)に内親王宣下】
 以皇女宗子爲内親王。
日本紀略 康保4年
(967)
9月4日 【皇女尊子に内親王宣下、生母藤原懐子に女御宣下】
(前略)以第二皇女尊子爲内親王。以藤原懐子爲女御。
日本紀略 康保5年
[安和元年]
(968)
4月21日 【賀茂祭(斎王不在)】
 賀茂祭。依諒闇無歌舞。近衛等袴不摺。依無齋王無次第使。中宮使宮司等各申故障。仍本宮以散位源正雅爲代官。
日本紀略 康保5年
[安和元年]
(968)
7月1日 【尊子内親王、賀茂斎院に卜定】
 有伊勢賀茂等齋王卜定事。齋宮輔子内親王。先皇(村上天皇)皇女也。齋院尊子内親王。今上(冷泉天皇)皇女也。
日本紀略 康保5年
[安和元年]
(968)
7月7日 【賀茂社へ斎院卜定を奉告】
 於朱雀門大祓。依齋宮齋院卜定也。又被告卜定由於伊勢大神宮賀茂社。
日本紀略 安和元年
(968)
12月2日 【斎院(尊子)の御禊次第を定める】
 定初齋宮(輔子)初齋院(尊子)御禊御前次第使等。
日本紀略 安和元年
(968)
12月27日 【斎院(尊子)御禊、初斎院に入る】
 賀茂齋内親王(尊子)御禊。入左近衛府。
日本紀略 安和2年
(969)
4月14日 【賀茂祭】
 雨下。賀茂祭也。
円融天皇
史料 月日 記述
日本紀略 安和3年
[天禄元年]
(970)
2月29日 【賀茂社へ斎院(尊子)交替なしを奉告】
 被告申齋院尊子内親王不改由於賀茂社。
日本紀略
園太暦
天禄元年
(970)
4月12日 【斎院(尊子)御禊】
『日本紀略』
 賀茂齋院(尊子)禊東河。入御紫野院。今日無諸司禄。違例也。

『園太暦』
(観応元年10月5日条)
(前略)安和三年五日卜定、同廿九日右大臣以下參内、被仰外記云、冷泉院有死穢、賀茂祭延否如何、外記申不分明之由、諸卿被議定、祭不可延引由、是件穢不及内裏・齋院之故也、同四月三日、被定伊勢齋宮入御諸司事、同廿二日、賀茂初齋院禊東河、入御紫野院、(攻略)
日本紀略 天禄元年
(970)
4月15日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
日本紀略 天禄2年
(971)
4月17日 【斎院(尊子)御禊】
 賀茂齋王(尊子)禊。
日本紀略 天禄2年
(971)
4月20日 【賀茂祭】
 賀茂祭。
親信記 天禄3年
(972)
4月9日 【斎院(尊子)御禊前駈定】
<『御禊前駈定』>(右頭傍書)
 中宮大夫藤原朝臣<朝成、>參射場殿、令奏賀茂御禊前駈并次第使文、<入筥、>奏聞返給、(後略)
親信記 天禄3年
(972)
4月15日 【斎院(尊子)垣下書出を押すこと】
<『押斎院垣下』>(右頭傍書)
 式部丞示付齋院(尊子)垣下書出可押之由、仍尋先例壁書、陪膳番東小柱也、式文云、前二日、差定六七云々、仍四位二人・五位三人・六位二人定之、

齋院垣下
禊日
(源)忠清朝臣 (藤原)助■[信]朝臣 (源)伊陟
(藤原)朝光  (藤原)義孝   (藤原)扶光
(藤原?)時明
祭後朝
(源)泰清朝臣 (紀)文實朝臣 (藤原)高遠
(藤原)實資   (藤原)光昭   扶光
(大江?)迫[通?]理
日本紀略
親信記
天禄3年
(972)
4月17日 【斎院(尊子)御禊】
『日本紀略』
 賀茂齋内親王(尊子)禊。

『親信記』
<『御禊』>(右頭傍書)
 午、禊日也、依御物忌、不覽所陪從并諸國牛等、奏事由之後、遣彼院、但至于牛者、差小舎人遣之、
親信記 天禄3年
(972)
4月19日 【賀茂祭警固のこと】
<『被行警固』>(右頭傍書)
<申、>民部卿(藤原文範)被行警固事、但不被奏、<可問先例、>御覽女騎●左右御馬、其儀、官人申牽陣外之由、
<『御覽女騎馬』>(右傍書)
藏人奏事由、仰着陣、<東、>次可[下](右傍書)東廂御簾、次少將(藤原)高遠差毛文於文夾、進候南第二間奏聞之、〃〃之後、自瀧口牽入、廻乘儀一如他例、左退出、次右牽入御覽、亦退出、次少將召人、藏人參入、仰云、硯、退出、取硯置少將座東方、隨仰尻付、件尻付毛付下書、命婦其子、藏人其子、圍[▲]司其子、但今年掌侍依典侍代、可騎馬、仍付其●、事了退出、次取硯、次主殿官人掃除、次上御簾、件事文〃可案内他人、又
<『内記奏明日宣命』>(右傍書)
内記持參宣命、付藏人、〃〃奏聞、候御前、明日給内藏司使云々、件事案内可問他人、

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
▲=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
「闈司(いし)」=後宮十二司の一。内裏内の門の鍵の管理・出納を司る。
日本紀略
親信記
天禄3年
(972)
4月20日 【賀茂祭】
『日本紀略』
 賀茂祭。

『親信記』
 祭日也、
日本紀略
親信記
天禄3年
(972)
11月1日 【祖父藤原伊尹薨去】
『日本紀略』
 太政大臣從一位藤原朝臣伊尹薨。<年卅九。>今日有救病赦令之詔。

『親信記』
 酉刻許太政大臣(藤原伊尹)薨、(後略)
日本紀略
親信記
天禄4年
[天延元年]
(973)
4月11日 【斎院(尊子)御禊】
『日本紀略』
 賀茂齋内親王(尊子)禊。

『親信記』
<『齋院御禊』>(右頭傍書)
 齋院(尊子)御禊、依御物忌不覽所陪從、右大臣(藤原頼忠)家・山城・近江等肥牛、直遣彼院、<差小舎人、>
日本紀略
親信記
天禄4年
[天延元年]
(973)
4月14日 【賀茂祭】
『日本紀略』
 賀茂祭。

『親信記』
<『祭』>(右頭傍書)
<酉、>祭也、先下御簾覽内大臣(藤原兼通)牛、< 差小舎人遣彼院、而使小舎人申云、御禊日所給御牛、依本家物忌留院令之、而今有此牛、尋問先例、給祿返遣、至于牛用初日、>次覽所陪從六人、覽了罷歸、牽騎馬參入、廻牽之後、依仰騎之、兩三廻後下、次内藏使、飾馬并牽馬・手振・取物、」次命婦、飾馬・下仕六人・手振・取物、次圍[●]司、飾馬・■[手]振・取物、<可有下仕二人、失不度、>次東宮(師貞親王)使、飾馬・手振・取物、次典侍、下仕八人・手振・取物、隨參御覽、不依次第、爲惜光景也、此間命婦・藏人・圍[●]司候南殿北廂、(見せ消ち)依召候小板鋪御障子許、内侍給祿有差、典侍候朔平門外、差出納給之、
今日掃部女嬬來請取云々、近衞府使就内侍所給之、退出、内藏寮使付内侍令奏參由、即給宣命文退出、至于馬後覽之、
祿法
典侍<紅花褂、/除典侍料、皆令内侍所、> 命婦・藏人<支子染衾、>
圍[●]司<同色襖子、> 近衞府使<同色衾、>
今日宣〃旨、<右近陣、>件等人馬出自明義門、經侍前并後涼殿北前、如本出去、<此例未知先例、若是時儀歟、>
仰諸陣令入牛馬、
■[仰]内作令取御前橋、
行事藏人不向院、<是故實也、> 今日不參使〃、馬司・中宮(昌子内親王)・近衞府、<雖參、稱馬遲來不牽、>
 私案、若可御覽者可仰案内也、又先例必不盡覽、又不覽牽馬、而今度依仰令牽〃馬、
<『齋王御裳沙汰』>(右傍書)
内大臣依召候簾中、<馬御覽之間事歟、>遣藏人大藏大丞(藤原)正雅於院、令仰云、院司令申云、依不被下御裳▲蘇芳、可闕今日事云々、事極不便也、早不闕事可被供奉者、院被申云、所入御裳三腰也、院◆所儲一腰也、以此可成今日事、至于令事已」以闕云々、其間子細也、

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
「闈司(いし)」=後宮十二司の一。内裏内の門の鍵の管理・出納を司る。
▲=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
◆=𦆵(糸偏に免二つ。こちらを参照(字源))
親信記 天禄4年
[天延元年]
(973)
4月15日 【賀茂祭還立】
<『獻葵桂』>(右頭傍書)
 葵桂各二折櫃、内藏寮付内侍所、<上御桂二櫃、下御桂二櫃、>掃部女官傳取奉女房、<結付晝御帳座角邊、又結付南殿御帳云々、>内大臣(藤原兼通)
<『解陣』>(右傍書)
着陣座、令奏可解陣之状、奏聞之後、召諸衞仰解陣之由、六衞府入自日華門、經宜陽殿壇上柱外立近廊、<五位柱内、六位柱南、西上北面、>爲雨儀也、
日本紀略 天延元年
(973)
12月21日 【斎院庁屋に火災】
 齋院廰屋焼亡。
日本紀略
親信記
天延2年
(974)
4月16日 【斎院(尊子)御禊】
『日本紀略』
 齋内親王(尊子)禊。

『親信記』
<『御禊』>(右頭傍書)
<午、>今日御禊也、仍參内、次參院、令催内藏寮饗、上卿被參、<中宮大夫、修理大夫、>御前等參入、<垣下員少、仍行事辨并院長官等爲勸盃、〃〃者獻一上卿、〃〃傳參議、〃〃給南座第一人、〃〃起座傳殿上人、〃〃〃乍居目北座人、〃〃〃起座來受盃、又傳殿上人、次〃如此、有時議、御前者一行下之、更雜色勸盃殿上人、是事等故實也云々、但可問先例、>又諸御前者、左着南、右着北、諸國肥牛并太政大臣(藤原兼通)家牛等、差小舎人被給、藏人觸辨、〃候上卿氣色令牽廻、<口付本人引之、>其後給院、所御前遲參、仍上卿被催仰、而遂不來、刻限已至、仍寄御車、此間御前等參集鳥居邊見物、還參齋院、頃之還御、内藏寮儲湯漬、一兩之後、院司令兒祿辛櫃來集、」殿上人并所衆取祿、被御前人〃、事了退出、此日齋院請釵子・櫛等
親信記 天延2年
(974)
4月17日 【賀茂祭女騎料のこと】
<『覽女騎馬』>(右頭傍書)
<未、>可覽御馬、仍仰左右可令候御馬乘舎人由、於清涼殿東庭御覽左右馬寮御馬、點定女騎●、其儀、先下御簾、次召人、藏人參入、退出、催右近少將(藤原)致忠令候御前、次藏人奏御馬奏、退出之後、下給少將、此間牽御馬、<寮申云、先例各牽三疋、今日令牽五疋、非先例云々、此事無定例、依太政大臣仰下知之也、>先牽左五疋、次牽五疋、點定了後、少將於侍書付名、
<『依上卿不參無警固召仰』>(右傍書)
今日上卿不參、仍無警固召仰事、

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
親信記 天延2年
(974)
4月18日 【賀茂祭警固のこと】
<『請唐鞍』>(右頭傍書)
<申、>令催請唐鞍等
<『警固召仰』>(右傍書)
左大臣(源兼明)令奏云、昨日上卿不參、不行警固召仰事、今日行矣、仰云、依例行矣、傳仰此由、召仰如例、但依降雨、經宜陽殿西廂柱西、立軒廊、<五位立中、六位後、退出如例、>事了、余警固之間、着壺胡●、是故實也、

●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源))
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
日本紀略
親信記
天延2年
(974)
4月19日 【賀茂祭】
『日本紀略』
 賀茂祭。

『親信記』
<『請唐鞍』>(右頭傍書)
<酉、>祭日也、依御物忌不召男女使等
今日典侍率參陣外、直向列見辻、是依日暮也、<已無故實、>内藏寮使紀時文參入、給宣命、<昨内記紀齊時依内侍不候、令藏人奏之、仍召給之云々、但内藏寮進禄物、仍爲給案内齊時、〃〃申云、不給云、可問先例、>
近衞府使右近少將(藤原)致忠、
所午前隨見參四人遣院、其遣追參院、<分遣小舎人等、令催飾馬・男女使・所御前等、次見物之、>
親信記 天延2年
(974)
4月20日 【賀茂祭還立】
<『參齋院儀』>(右頭傍書)
<戌、>早旦見物、次參院、先着廳、<穀倉院儲饌、>次儲使、依召參御前、着庭中座、<使等自中門參、所陪從・六位次第使等自腋門參入、>次使等前居衝重、<所衆等役之、>一、二巡之後、列舞庭中、舞了院司等取祿、給舞人等、次使〃、次所陪從、次近衞陪從等、事了退出、到使少將宅、次參内、雖御物忌、有可然事參也、
(雅信)大納言行解陣事、
<『齋院垣下』>(右頭傍書)

禊日
正清朝臣 (藤原)公季朝臣 (藤原)義孝 (藤原)顯光
(藤原)時光 (大江)通理 (平)親信
祭後朝
(源)泰清朝臣 遠度朝臣 (源)致方 (藤原)光昭
(藤原)正光 修遠 (平)親信
<『祭雜抄』>(右頭傍書)

賀茂祭雜事
午日御禊事、差垣下、
御覽所陪從并馬、<日記云、下御簾、>御覽齋王駕牛<召王卿家、召仰家司、>及所〃肥牛、<遣院差小舎人、>引御前時、出納小舎人引之、先於一日令内侍奏可警固之状、無内侍、上卿於陣座令藏人奏、未日行之、<或申日行之、>
天慶五年日記云、諸衞自日華門參入、立軒」廊南、<北面西上、>上卿問曰、誰<曾、>(藤原)季方以下申官職・名、<六位姓名共申、但入夜之後、如此事時、五位申名、六申姓名、未必申官職、>
未日御覽馬寮御馬、<清涼殿、或仁壽殿、>
酉日事、
御覽所御前并騎馬、
或不下御簾、近代下之、又至于人者、於侍前覽之、
内侍參入、奏男女使參由、<無内侍、代官奏之、>
命婦 藏人 圍[●]司 中宮命婦 藏人
近衞府使 内藏使 馬寮使 中宮使
近衞府使率舞人等參内侍所、令奏事由、給祿、若召御前有儀、
命婦・藏人・圍[●]司參入御前、即給祿、各有差、無内侍、代官奏之、
内侍白褂、命婦・藏人支子染衾、圍[●]司奥[襖]子、
但典侍於朔平門外令奏、<祿紅色褂、>
覽飾馬手振下仕事、<内藏・近衞・馬寮・東宮・内侍・命婦・圍[●]司、>
引馬不覽、
承平七年(四月十五日)、覽近衞(使藤原敦忠)・中宮(藤原穏子)使引馬、
天暦七年(四月二十四日)、中宮(藤原穏子)・東宮(憲平親王)男使乘馬・陪從等覽之、
宣命事、
先於一日内記付内侍所、當日奏件宣命、内侍奏内藏寮使參之由、即給祿之比、給件宣命、
内侍不候、上卿當日令藏人奏之、
承平七年、返給上卿、〃〃給内藏寮使、件年有内侍代、非命婦不奏、
戌日差垣下、
上卿付内侍令奏解陣由、<遷宮之後云々、>無内侍、付藏人令奏、<於陣座令奏之、>

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
「闈司(いし)」=後宮十二司の一。内裏内の門の鍵の管理・出納を司る。
日本紀略 天延3年
(975)
4月3日 【母藤原懐子薨去により、斎院尊子本院退出】
 前女御從三位藤原懐子薨。<年四十。>皇太子(師貞親王)并齋院(尊子)母也。仍齋院退出東院。
日本紀略
園太暦
天延3年
(975)
4月19日 【賀茂祭。斎院(尊子)供奉せず】
『日本紀略』
 賀茂祭。斎王尊子内親王依母喪不供奉。

『園太暦』
(観応元年10月3日条)
(前略)仙洞卅ヶ日觸穢時、御禊大嘗會院中御沙汰可有憚否准據例事(中略)
  天延三四十九、賀茂祭<内裏穢、宣命於左衞門陣仰内記了、>
日本紀略 貞元3年
[天元元年]
(978)
5月9日 【尊子、四品に叙品】
 位記請印。三品宗子内親王。四品尊子内親王。正四位下嚴子女王(藤原頼忠室、遵子母)等也。
日本紀略 天元3年
(980)
10月20日 【尊子、円融天皇後宮に入内】
 前齋院尊子内親王始參候麗景殿。<冷泉院皇女也。>
日本紀略 天元3年
(980)
11月22日 【内裏焼亡。尊子は本家へ移転】
『日本紀略』
 賀茂臨時祭。奏宣命之間。從主殿寮人等候所。火焔忽起。天皇(円融)御中院。女御(藤原)遵子移左近府少將曹司。一品資子内親王移縫殿寮。前齋院尊子移本家。此間。諸殿舎皆悉焼亡。所殘采女町。御書所。桂芳坊等也。戌時。天皇移職曹司。今日。諸衛警固。
日本紀略 天元4年
(981)
1月10日 【尊子、二品に昇叙】
 前齋院尊子内親王敍二品。
小右記 天元5年
(982)
1月19日 【尊子、承香殿を直廬とする】
 二品宮(尊子)被参入、以承香殿為直廬、初被候麗景殿、
小右記 天元5年
(982)
2月11日 【内裏御遊のこと】
(前略)入夜參内、傳聞、今日有御遊之事、侍臣等乘興■■酔、向承香殿邊、<件殿二品内親王(尊子)被候、>有盃酒・纏頭事云、
小右記 天元5年
(982)
3月7日 【承香殿(尊子)のこと】
(前略)晩景被參承香殿(尊子)、四條殿掃除等事、差別行事人被行、
小右記 天元5年
(982)
3月14日 【石清水臨時祭。東宮(師貞親王)、承香殿へ参入】
 今日石清水臨時祭、(中略)東宮於承香殿密々見物給、件殿一[二]品宮(尊子)直廬
小右記 天元5年
(982)
4月2日 【藤原光昭(尊子叔父)死去】
 (藤原)光昭朝臣午時許卒去云々
小右記 天元5年
(982)
4月3日 【尊子、叔父の喪により退出】
 転[伝]聞、■[二]品女親王(尊子)今夜退出、是依(藤原)光照[昭]卒去、俄以被出云々、
小右記 天元5年
(982)
4月9日 【尊子、自ら髪を切り落飾】
 伝聞、昨夜二品女親王<承香殿女御>(尊子)不使人知、蜜[密]親切髪云々、或説云、邪気之所致者、又云、年来本意者、宮人秘隠、不云実誠、早朝(藤原)義壊[懐]朝臣参入、令奏此由云々、又云、是非多切、唯額髪許云々、頗似秘蔵詞、主上(円融天皇)頻有仰事
日本紀略 天元5年
(982)
11月17日 【内裏焼亡。尊子、本家へ移転】
 夜寅剋。内裏焼亡。火起於宣耀殿北廂。天皇(円融)先出御中院。次御八省院小安殿。中宮(遵子)御職曹司。東宮(師貞親王)御縫殿寮。次御内教坊。一品内親王(資子)同御之。前齋院尊子内親王出御本家。此間。天皇遷御職曹司。大臣以下布袴扈從之。諸衛官人烏帽子布衣。今日重日也。明日可警固之由仰之。奉移威所於縫殿寮。
小右記目録 天元6年
[永観元年]
(983)
2月2日 【尊子除服】
 内親王女御(尊子)出陣除服事
花山天皇
史料 月日 記述
三宝絵 永観2年
(984)
11月 【三宝絵制作】
『三宝絵序』
 (前略)于時永観二タ年セ中ノ冬ナリ
本朝文粋 永観3年
[寛和元年]
(985)
4月19日 【尊子出家】
 為二品長公主(尊子)四十九日御願文
 (前略)去月十九日、請故延暦寺座主大僧正良源、為戒師、終以入道焉(後略)
小右記
日本紀略
寛和元年
(985)
5月1日 【尊子内親王薨去】
『小右記』
 此暁、二品尊子内親王薨、<冷泉院二宮>

『日本紀略』(5月2日条)
 前齋院二品尊子内親王薨。<年廿。冷泉院上皇第二女。上皇(円融)妃也。>
小右記 寛和元年
(985)
5月27日 【尊子薨去を奏上】
 傳聞、今日尊子内親王薨奏云々、于今延引如何
小右記 寛和元年
(985)
6月3日 【藤原為光室入滅】
(前略)昨日戌時許一条大納言(藤原為光)北方(藤原伊尹女)
入滅云〃、彼一条太相府(藤原伊尹)子孫連々死去、〃月孫親王(尊子内親王)薨、又有此事、天下所奇思也、
小右記 寛和元年
(985)
6月17日 【尊子の七々忌法会】
 傳聞、故二品尊子内親王七─法事、於法性寺行之云々、傳聞、内(花山天皇)并両院(冷泉上皇、円融上皇)有御諷誦云々



史料 記述
十三代要略
冷泉院
(皇女)
 尊子内親王<母同(女御藤原懷子)。康保五年七月一日爲賀茂齋院。後入圓融院後宮。寛和元年五月薨。>

圓融院
(後宮)
 二品尊子内親王<冷泉院二女安和初爲齋院。天元三年入内。寛和元年五月二日薨。>
一代要記
冷泉天皇
(賀茂)
 尊子内親王
 <帝二女、康保四ー九月四日爲[内脱?]親王、同五ー(安和元年)七月一日爲齊院、<三才、>天延二[三]ー四月遭母喪、後入圓融天皇後宮、敍二品、寛和元ー五月一日薨、<二十才、>イ云、四月廿九日薨、>
帝王編年記
冷泉院
(皇女)
 尊子内親王<賀茂/齋院>
(齋院)
 尊子内親王<帝第/二女>

圓融院
(齋院)
 尊子内親王<如故天延三年四月■日退出/依母喪也>
二中歴
(齋院)
 尊子<冷泉女後入圓融院 康保五年>
皇代暦
冷泉天皇
(齋院)
 尊子内親王 帝二女

圓融天皇
(齋院)
 尊子内親王<元>依母喪退去
(後宮)
 二品尊子内親王 崩冷泉第二女
本朝皇胤紹運録
(冷泉院子)
(349)選子内親王[二品。齋院。後入円融院。母同(贈皇太后懐子。伊尹公女)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
尊子内親王 康保五年卜定。冷泉院第二御女。圓融院女御。母贈皇太后懷子。伊尹公女。
賀茂斎院記
尊子内親王 冷泉天皇第二皇女也、
母贈皇太后懐子、藤原伊尹之女也、
安和元年七月朔日卜定、十二月二十七日御禊、入左近衛、
円融院天禄元年二月二十九日、被告斎王不改之由賀茂、
四月十二日、尊子禊于東河、入紫野院、
天延三年四月三日、懐子薨、依是尊子退出本院、
是月十八日、賀茂祭、尊子依母喪不供奉、
天元三年十月二十日、尊子始参麗景殿、
四年正月十日叙二品、
寛元[和]元年五月朔日薨、(年二十)
本朝文粋
為二品長公主(尊子)四十九日願文  慶保胤

 夫以、人中之尊、猶現四枯之相、天上之楽、終為五衰之悲。況於凡身乎、況於下界乎。大都苦輪之中、不免生死者也。二品長公主、今年五月、忽以入滅矣。公主春秋十有五初入内。一咲再顧、既是羅山之旧容、玄鬢翠蛾、莫不洛川之麗質。彼蓬莱洞之花非不芳、素意久期七覚、長秋宮之月非不潔、宿望偏在三明。不以受恩寵為栄、唯以逃俗塵為志。嗟呼、晨昏所誦者提婆品、造次所念者弥陀尊。去月十九日、請故延暦寺座主大僧正良源、為戒師、終以入道焉。凡此界古今婦人之出家也、或及暮齢為寡婦、或多憂患無依怙之人等也。公主者、先太上皇(冷泉天皇)之女、後太上皇(円融天皇)之妃、今上陛下(花山天皇)之姉。於天下不亦賤。桃李無衰色、桑楡非斜暉、何其遁世之太疾乎。追思往事、良可化人。不知妙音暫来自界、仮為後宮歟、又不知観音欲度随類、為現化身歟。今当七々忌辰、奉冶鋳白銀像阿弥陀仏、并観音勢至二菩薩、奉書写黄金字妙法蓮花経一部八巻、開結経、阿弥陀経、転女成仏経、般若心経各一巻、便就法性寺、敬奉供養。公主臨終之間、西面憑几、寸心不乱、十念無休。便是綺窓瞑目之時、寧非蓮台結跏之日。定知不経中有、直至西方。公主若住暫含之花色、常楽風吹、忽令開敷。若有未明之月輪、余習雲散、永令円満。今日善業、上則増加新仏瓔珞之末光、下且解脱群生輪廻之苦縁。敬白。

   寛和元年六月十七日
大鏡
(太政大臣伊尹)
 花山院御いもうとの(中略)女二の宮(尊子)は、冷泉院の御時の斎宮[院]にたたせ給て、円融院の御時の女御にまいりたまへりしほどもなく、内のやけにしかば、火の宮と世の人つけたてまつりき。
 さて二三度まいり給てのち、ほどもなくうせ給にき。
 この宮(尊子)に御覧ぜさせむとて、三宝絵はつくれるなり。
栄花物語
(1・月の宴)
【冷泉天皇の皇子女】
 摂政殿(藤原伊尹)の女御(懐子)と聞ゆるは、東宮(花山天皇)の御母女御におはす。その御一つ腹に、女宮二所生れたまひにけり。されど女一宮(宗子)はほどなくうせさせたまひて、女二の宮(尊子)ぞおはしましける。それは院(冷泉)の位(帝位)におはしまししをりならねど、(冷泉天皇譲位の)後に生れたまへる、いみじううつくしげに光るやうにておはしましけり。東宮かくて(宮中に)おはしませば、(母懐子は)時─こそ見たてまつりにも参らせたまへ、ただこの姫宮(尊子)をよろづの慰めに思しめしたり。
栄花物語
(2・花山たづぬる中納言)
【斎院退下後の尊子】
 堀河の大臣(藤原兼通)おはせし時、今の東宮(花山天皇)の御妹の女二の宮(尊子)参らせたまへりしかば、(円融天皇は)いみじううつくしうと、もて興じたまひしを、参らせたまひてほどもなく、内裏(うち)など焼けにしかば、「火の宮」と世人(よひと)申し思ひたりしほどに、いとはかなううせたまひにしなん。
拾遺和歌集
  • (雑春)斎院(尊子?)子日(ねのひ)     (源)順
(1025)一本(ひともと)の松の千年(ちとせ)も久しきにいつきの宮ぞ思やらるゝ

『新日本古典文学大系』(岩波書店)注はこの斎院を尊子内親王かとしているが、制作年代が明瞭でなく、14代婉子の可能性も考えられる。


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