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35代斎院 礼子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
れいし いやこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後鳥羽天皇(1180-1239)
母:藤原(坊門)信清女[坊門局]
正治2年(1200) 文永10年(1273)8月2日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
土御門(1198〜1210,異母兄)
順徳(1210〜1221,異母兄)
卜定:元久元年(1204)6月23日
   (坊門信清
    四條北朱雀西家)
初斎院:元久2年(1205)4月28日
   (左近衛府)
本院:元久3年(1206)4月19日
退下:建暦2年(1212)9月4日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
粛子(1196生,異母姉)
 [高辻斎宮]
 父:後鳥羽天皇
 母:源信康女
卜定:正治元年(1199)12月24日
初斎院:正治2年(1200)5月26日
   (左近衛府)
野宮:正治2年(1200)9月27日
群行:建仁元年(1201)9月9日
退下:承元4年(1210)11月25日
天皇譲位

略歴:
 元久元年(1204)

(5歳)

6月23日、内親王宣下、准三宮、ならび斎院に卜定。
(これ以前に着袴)
 元久2年(1205)(6歳)4月28日、初斎院(左近衛府)へ入る。
 元久3年(1206)(7歳)4月19日、本院へ入る。
 承元4年(1210)(11歳)11月25日、兄土御門天皇譲位、兄順徳天皇践祚。


12月28日、順徳天皇即位。
 建暦2年(1212)(13歳)9月4日、病により退下。
 建保2年(1214)(15歳)6月10日、院号宣下。嘉陽門院と号する。
 承久2年(1220)(21歳)5月21日、出家(戒師は同母兄道助入道親王)。法名は真如性。
 延応元年(1239)(40歳)2月22日、父後鳥羽院が隠岐で崩御。
 文永10年(1273)(74歳)8月2日、薨去。

院号:嘉陽門院
同母兄弟:長仁親王(道助入道親王,1196-1249)
     頼仁親王(冷泉宮,1201-1264)

斎院長官:藤原(堀河)頼房元久3年(1206)4月11日承元3年(1209)7月22日
     藤原家時(承元3年(1209)7月23日建暦2年(1212)9月(退下)?)

後鳥羽天皇第三皇女。
 母坊門局(西御方とも称する)は後鳥羽天皇の従姉妹。
 (※父信清と、後鳥羽の母七条院が姉弟)
 母の妹の一人は源実朝室(西八条禅尼)。
 斎院長官藤原頼房は、母・藤原親弘女が藤原定家の母方従姉妹(親弘と定家の母・美福門院加賀が兄弟)。また同家時は、父家綱が定家の父方従兄弟(家綱の母・俊忠女と定家の父俊成が兄弟)。

           ┌─────────────┐
           │             │
   高倉天皇===藤原殖子          坊門信清
        │ [七条院]           │
   ┌────┴────┐           ├────┐
   │         │           │    │
  後高倉院     後鳥羽天皇========坊門局  源実朝室
   │         │        │
   │     ┌───┴┬───┐   ├───┬───┐
   │     │    │   │   │   │   │
 後堀河天皇 土御門天皇 順徳天皇 粛子  長仁 ◆礼子  頼仁
                  (斎宮)     [嘉陽門院]

 礼子内親王誕生当時の記録はないが、薨年から生年が1200年と判明している。また同母弟頼仁親王の生年月日が建仁元年(1201)7月26日であることから、所京子氏は礼子の誕生を1200年の早い時期(1〜4月頃?)と考察している(「斎院礼子内親王の生涯」以下同)
 礼子の同母兄長仁親王(道助入道親王)は祖母七条院の猶子となっており、同母弟頼仁親王も七条院に育てられていることが記録から判っている。このことから、所氏は礼子も兄弟らと共に七条院のもとで養育されたものであろうとしている。礼子らの母坊門局は後鳥羽の正式な妃でこそなかったが、七条院の姪にあたることから、その可能性は高いと思われる。
 なお坊門局の生没年は不明だが、第一子長仁親王が1196年生まれ、また父坊門信清が1159年生まれであるから、坊門局の生年は大体1176〜1180年頃と見てよいだろう。信清が若い頃にもうけた娘で、数多い子女の中でも年長の方であったと思われる。なお四条隆衡室となった姉妹も、坊門局と同じく1196年に娘貞子(西園寺実氏室)を産んでおり、順序は不明だが恐らくこの二人が長女と次女であろう(※『尊卑分脈』では隆衡室が女子の筆頭とされ、坊門局は二番目に記載されている)。また信清室である藤原定能女の姉妹が礼子内親王の斎院宣旨となっていることから、所氏は坊門局の生母を定能女かと推測している(だとすれば実朝室とは同母姉妹になる)

 斎院退下後の礼子は、立后を経ずに女院宣下を受けて嘉陽門院と号し、四条壬生の外祖父信清邸を御所としていたようである。信清は建保4年(1216)に他界したが、その後も礼子は祖母七条院らと共に坊門家の仏事等にしばしば参加していたことが記録に散見される。
 やがて承久の乱(1221)が勃発、幕府に敗北した父後鳥羽院は隠岐へ、同母弟頼仁親王は備前へ配流となった(異母兄弟では土御門院が土佐、順徳院が佐渡、雅成親王が但馬へ配流)。また母坊門局も後鳥羽院に供奉して隠岐へ同行(院の没後に帰京)、坊門系で京に残ったのは礼子と同母兄道助入道親王、そして祖母七条院の3人のみであった。

 その後即位した後堀河天皇は礼子の父方従弟であると同時に母方からも再従弟にあたり、在位中しばしば嘉陽門院御所を方違等の行幸先としている。まだ年少の後堀河(即位当時10歳、礼子より12歳年下)は礼子と同じく七条院の孫であり(後堀河の父後高倉院が、七条院の子で後鳥羽の同母兄)、七条院は安貞2年(1228)に崩御したが、後鳥羽院らの配流中にあっても共に坊門系の礼子と後堀河の関係は比較的良好であったと見られる。
 寛喜2年(1230)に四条壬生御所が火災で焼亡の後は、一時仁和寺御所にいたとの記録もあるものの、礼子の晩年の動向はあまり知られていない。礼子本人は74歳の長命を保ったが、延応元年(1239)父後鳥羽院がついに帰京を果たせぬまま配所の隠岐で崩御、兄弟らにもすべて先立たれ(恐らくは母も)、また後見の坊門家も承久の乱で失墜するなど、身内の不幸がうち続き淋しい身辺であったことが想像される。

 なお礼子に仕えた女房の嘉陽門院越前(歌人)は大中臣公親の娘で、他にも大中臣一族は蔵人(為成)や院司(為衡)、判官代(親直)など、多くが嘉陽門院に奉仕していた。

 墓所は龍翔寺跡(京都府京都市右京区太秦安井池田町)。
 ※京都市営バス【安井西口】下車徒歩2分、または京都市営地下鉄【太秦天神川】徒歩6分。



嘉陽門院礼子内親王墓所(2013年8月19日撮影)


参考論文:
・所京子「斎院礼子内親王の生涯」(『斎王の歴史と文学』(国書刊行会, 2000)
参考リンク:
・『業資王記』(国文学研究資料館・新日本古典総合データベース提供、全文閲覧可)
『天皇皇族実122.後鳥羽天皇 巻8』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※礼子内親王については88〜93コマにあり

※なお礼子内親王は1200年(鎌倉時代)生まれのため、歴代斎院で唯一『平安時代史事典』には立項されていない(訓読みの「いやこ」は、櫟谷七野神社の賀茂斎院跡顕彰碑説明版を参考とした)





【後鳥羽・土御門朝の斎院卜定事情について】
 高倉天皇朝の治承3年(1179)に伊勢斎宮・功子内親王が群行のないまま退下して以降、翌年の安徳天皇即位の際にも新たな斎宮は卜定されなかった。また養和元年(1181)には34代斎院範子内親王も父高倉上皇の崩御で退下、このため礼子内親王の父・後鳥羽天皇が寿永2年(1183)に4歳で即位した際、伊勢斎宮・賀茂斎院は共に不在が続いていた。
 当時は後鳥羽の姉妹や従姉妹(二条天皇・高倉天皇の皇女たち)は既に殆どが斎宮・斎院を経験済みで、残っていたのは後鳥羽の異母姉・潔子内親王(5歳)ただ1人であった(※なお潔子は1180年当時2歳で、本来であれば安徳即位に合わせての卜定も可能だった)。また後白河の皇女には後鳥羽と同年代の叔母・覲子内親王(後の宣陽門院,1183年当時3歳)がいたが、寵妃高階栄子(丹後局)を生母とする覲子は父後白河の鍾愛も深く、始めから斎王候補には考えられていなかった可能性がある(その後覲子は文治5年(1189)内親王宣下を受けるが、建久2年(1191)の院号宣下で斎王候補から完全に外れた)

◆1183年生存の内親王一覧(鳥羽皇女は除く)
 後白河皇女
  ・亮子内親王[殷富門院](1147生) 前斎宮
  ・好子内親王(1148?生) 前斎宮
  ・式子内親王(1149生) 前斎院
  ・覲子内親王[宣陽門院](1181生)
 高倉皇女
  ・功子内親王(1176生) 前斎宮
  ・範子内親王[坊門院](1177生) 前斎院
  ・潔子内親王(1179生) →1185年斎宮卜定
    ※二条皇女・僐子内親王(前斎院)は1171没。

 結局、事実上唯一の斎王候補であった潔子内親王は元暦2年(1185)の安徳天皇の崩御後、後鳥羽天皇の斎宮に卜定された。1180〜1185年の間(ただし高倉上皇崩御による諒闇中は除く)卜定がなかった理由は不明だが、当時は源平合戦の混乱期であり、斎宮を卜定しても伊勢下向の実現には治安面・財政面その他での困難が多かったであろうことが想像される。また当時は異母兄安徳天皇が退位せずしかも三種の神器を伴ったままで、異例の神器不在の中での即位であった。このため平安京の公卿たちの間でも正式な践祚を完了していないと見なされていた可能性が高く、このことも斎王卜定に至らなかった一因の可能性が考えられる(榎村寛之氏は、斎王制度復活に平氏滅亡後の源頼朝の財政援助があったことを指摘している)

 ともあれかろうじて斎宮は決定したが、後鳥羽自身が即位当時4歳と幼少であったため、その後も新たな斎院候補となる皇女はなかなか生まれなかった。建久2年(1195)にようやく待望の長女昇子内親王、同3年(1196)に次女粛子内親王が誕生したものの、同5年(1198)に後鳥羽が19歳で譲位するまで賀茂斎院はついに卜定されずじまいであった。
 平安時代には伊勢斎宮は賀茂斎院に比べ軽視されがちだったと見られるにもかかわらず、後鳥羽即位時に斎宮の方が敢えて卜定を優先された理由は不明であるが、治承4年(1180年、時の斎院は34代範子内親王)に福原遷都という一大事件が起こっている。この時賀茂斎院制度自体が廃絶になったわけではなく(※斎院範子は福原遷都中も退下していない)、その後再び平安京が都として返り咲いたものの、平安遷都以来王城鎮護の社として信仰の対象であった賀茂神社の重みと、ひいてはそこに奉仕する賀茂斎院の存在意義そのものを揺らがせた可能性は否定できない。

 続く土御門天皇の即位にあたり、候補に該当したのは先述の昇子内親王(後の春華門院。母:中宮九条任子)と粛子内親王(母:源信康女)である。このうち次女粛子は正治元年(1199、なお12月のため太陽暦では1200)に5歳で伊勢斎宮に卜定されたが、后腹で既に一品内親王であった長女昇子の卜定はなく、この時も賀茂斎院の卜定は見送られた。
 なお昇子内親王は生まれてすぐに八条院ワ子内親王(鳥羽皇女、後鳥羽の大叔母)の猶子となり、翌建久3年(1196)4月に2歳(満9か月)で一品・准三宮となっている。その後は元久元年(1204)の以仁王姫宮死去をうけて養母八条院の遺産相続人に定められたと見られ、承元3年(1209)には15歳の若さで院号宣下を受けた。前関白九条兼実を外祖父に持ち、しかも中宮所生の第一皇女であった昇子は、祖父兼実の失脚後も重く扱われていたことが伺え、始めから斎王候補とは考えられていなかった可能性が高い。よって正治2年(1200)に礼子内親王が誕生した時点で、礼子が将来の斎宮または斎院になると定められていたと思われる。

 その後昇子内親王は建暦元年(1211)6月、八条院の死去によりその膨大な遺産を相続したが、わずか4か月後に17歳の若さで養母の後を追うように他界した。また礼子卜定の翌年に誕生した異母妹凞子内親王(母:丹波局)は、10年後の建暦元年(1211)に斎宮粛子の退下で順徳天皇の斎宮となり、承久の乱の直前に順徳譲位で退下、寛喜2年(1230)出家した(『明月記』)が、天福元年(1233)以降の消息はなく薨年も不明である。さらに粛子内親王に至っては、斎宮退下後の記録はまったく見られず、やはり薨年は判っていない。春華門院早世後に残った後鳥羽皇女たちの中で、礼子内親王は承久の乱の後も祖母七条院の庇護を受け、自身も女院嘉陽門院として近親でもある後堀河からも重んじられていたようだが、前斎宮とはいえ有力な後見を持たない他の異母姉妹はかつての源平争乱期の皇女たちと同様、時代の変化に翻弄される中でその存在さえも忘れ去られていったのであろう。

 承久の乱以後ついに賀茂斎院は卜定されることなく、35代礼子内親王が最後の斎院となった。

参考図書:
・榎村寛之『伊勢斎宮と斎王─祈りをささげた皇女たち』(塙書房, 2004)
・永井晋『八条院の世界:武家政権成立の時代と誇り高き王家の女性』(山川出版社, 2021)





土御門天皇
史料 月日 記述
女院記
女院次第
正治2年
(1200)

【礼子内親王誕生】
『女院記』
 嘉陽門院 正治二年誕生。

『女院次第』
 嘉陽、<禮子、後鳥羽第二女、母内大臣信隆公女、>正治二生、
業資王記 建仁3年
(1203)
1月12日 【皇女(礼子)、戴餅の儀】
 姫宮(礼子)御頂也。於七条院有此事。行啓儀如御百日。
猪隈関白記
明月記
東進記
業資王記
建仁3年
(1203)
4月23日 【賀茂祭】
『猪隈関白記』
(未入力)

『明月記』
(未入力)

『東進記』
(未入力)

『業資王記』
 賀茂祭、近衞使少將(藤原)國通朝臣、春宮使、<亮基行朝臣、>
業資王記 建仁3年
(1203)
10月21日 【皇女(礼子)、御魚味の儀】
 姫宮(礼子)御魚味於七条院聞食也。朝先入御院御所。行啓儀如御百日。
明月記
仲資王記
三長記
建仁4年
[元久元年]
(1203)
4月16日 【賀茂祭】
『明月記』
(未入力)

『仲資王記』(※『大日本史料』による)
 土定、賀茂祭、近衞使少將伊時朝臣、<●武友頼武、<已上官人、>>、引馬久清武延長歟、春宮使權亮少將頼平、<大相国息、>、●兼澄兼直、引馬頼次武澄、前齋宮御見物、予參御棧敷、

『三長記』
(未入力)

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
明月記
仲資王記
百錬抄
女院記
女院次第
ほか
元久元年
(1204)
6月23日 【皇女礼子、内親王宣下、着袴、賀茂斎院卜定、准三宮】
『明月記』
 未時、束帯参中納言殿(九条良輔)、御共参殿、申終御参内、殿下(摂政九条良経)御直衣<御随身上臈冠、前駈衣冠>、日入、右府(藤原隆忠)以下着陣、(藤原)長兼朝臣参申云、親王宣旨并勅別当事、可被仰大弁、而不催儲云々、只今遣召左大弁(藤原親経)、今夜依姫宮(礼子)扈従、可出仕之由聞之、依所召也、不聞返事之間、且仰他弁之例、問外記、申云、保安四年四月、蔵人頭左中弁(源)雅兼<云々>、頭於殿御前、見此勘文、評定之間、頗有不審、予申云、保安三年十二月、(藤原)長忠・(藤原)顕隆両大弁、同日任納言時、(藤原)為隆<左>・雅兼<右、其日補頭>、仍、雅兼左中弁事、不可然歟、長兼朝臣、又出陣問外記、其時左右大弁、顕隆・為隆之由申之<云々極無実也、兄弟雖並中弁、不並大弁、誰不見乎>、但左大弁参<云々>
秉燭以後参入、先下親王宣旨、大弁依召起座、跪一上東、礼子内親王揖給之、還坐本所揖、又揖下着沓揖、着床子召史下之、史●笏給之取副、
次頭弁(藤原長兼)又仰勅別当(九条兼良)、如前参承之還坐、又出床子仰之<詞>、史承之、次頭弁仰准后事<此次斎宮、又准后云々>、一上、召大内記令作勅書、次頭弁内覧草<又清書同之、>、次一上下中務<少輔時賢>、次親族拝、右大臣、大納言<(藤原)隆房・勅別当兼良・道経>、中納言<中将殿(九条良輔)>、頭弁申之、帰出拝舞<是斎宮拝云々>、訖又如前申継、又拝舞<斎院拝>、中納言殿参鬼間、可向卜定所乎由、令申合給、殿仰、打任<てハ>可向歟、但可随右府・大納言等所為、予申云、近日如此事、更無沙汰、只御退出可宜歟、又道大納言一定不被参<云々>、然者何事在哉由被仰、仍直令退出給、予奉送、自陣口参院(後鳥羽上皇)、此後可有卜定事<云々>(滋野井)実宣朝臣、准后勅使、(藤原)公雅朝臣<少将>、斎宮准后勅使、此事四位少将役也、仍日来被責仰、今日領状<云々>、依此事、清信・伊時除籍、資家<少将>、卜定勅使<云々>
先是、於京極殿姫宮御着袴、中納言(源)通光陪膳、殿上四位雅行・宗経以下役送<云々>、今夜事様々相替、昨日<まて>、於三条殿<(後鳥羽)上皇御幸>、可有此事、仍殿下可有御参、今日午後、於京極殿有之、准后之間事、於卜定所可行由<云々>、仍殿下不令参給、(中略)
親王宣旨、准后、卜定、三事一日被行事、今日始<云々>、親王卜定、准后卜定等、有例<云々>

『仲資王記』
 同(六月)廿三日、今日齋院(礼子)卜定、
 七月十六日、<裏書、>右少將藤公雅爲勅使、被獻伊勢斎宮、是去月齋院卜定、被准后云々、仍齋宮同可有其儀、而先例分明歟之間、可給年官年爵之由、自外記被仰下云々於齋院、准后宣旨者、任例、自宮被下之由、或人所談也但不定也、猶可尋記歟、

『百錬抄』
 有初齋院卜定事。先被下親王宣旨。<禮子。>

『女院記』
 嘉陽門院 元久元年六月廿三日内親王。卜定。賀茂齋院。准三宮。

『女院次第』
 嘉陽、<禮子、後鳥羽第二女、母内大臣信隆公女、>正治二生、元久二六廿三爲内親王、<四、>同日爲賀茂齋院、

●=搢(手偏+晉。こちらを参照(字源))
明月記 元久2年
(1205)
4月5日 【斎院(礼子)御禊定】
(前略)又斎院御禊定、■[欲]行此両事、職事雖触之、平対桿、依不知其事、力不及之由答而遂不行、仍除目空延(見せ消ち)云々、乍坐其職、如斯、昇進又無妨、
哀哉末代之儀、只有広■者、被挙用、
明月記 元久2年
(1205)
4月8日 【賀茂初斎院御禊のために、灌仏会を停止】
(4月1日条)
(前略)自今日所〃御神事、無可出仕事、仍為養性蟄居、
依■[初]斎院(礼子)御禊月、無灌仏云々、
明月記 元久2年
(1205)
4月10日 【祭除目。初斎院功】
(未入力)
明月記
東進記
元久2年
(1205)
4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
明月記 元久2年
(1205)
4月26日 【斎院御禊のこと】
 雨降、
在九条、昼参向御所、謁留守女房、殿下、明後日<斎院御禊>以前御神事云々、参大納言殿、見参、夕退出、
明月記
百錬抄
元久2年
(1205)
4月28日 【賀茂初斎院(礼子)御禊、諸司に入御】
『明月記』
 天晴、
今日斎院(礼子)御禊、入御左近府云々、(後略)

『百錬抄』
 初齋院(礼子)入御諸司。
明月記 元久2年
(1205)
11月30日 【除目】
(未入力)
猪隅関白記 元久3年
[建永元年]
(1206)
4月4日 【賀茂祭舞人の装束のこと】
(未入力)
猪隅関白記
三長記
公卿補任
元久3年
[建永元年]
(1206)
4月11日 【賀茂斎院司除目。藤原頼房を斎院長官に任命】
『猪隈関白記』
(前略)入夜參内、任人折帋給頭亮(平)親國朝臣了、可有御禊前駈定并齋院司除目事、 秉燭之後、權中納言(五辻)家經卿<初齋院上卿也、>參陣、以五位藏人(藤原)宣房奏御禊前駈可定之由、即頭亮持來前駈定文一通・次第司定文一通・日時一通等<入一筥、>見了返給、次又頭亮持來除目、<齋院司也、有加任、>見了返給、其後余退出、 齋院司職事書下事、或書一帋、或書三通、今度書一帋之由頭亮示之、 今日執筆新宰相(藤原)長房卿也、

『三長記』
 晴、今日華山院中納言(五辻家経)<齋院上卿也、>着仗座、令勘申齋院(礼子)御禊日時等也、被任齋院司、被行臨時除目、參議不參、右少辨盛經祐筆云々、
入夜、日時等自陣送之、
陰陽寮、
擇申、被行賀茂齋内親王御禊日時、
今月十九日庚午、   時午二點、
元久三年四月十一日、 暦博士賀茂朝臣宣俊、
          <主計頭兼陰陽博士>安倍朝臣孝重、
        <大膳權大輔兼天文博士>安倍朝臣資元、
        <權介兼天文博士因幡介>安倍朝臣廣基、
               頭賀茂朝臣在宣、
陰陽寮、
擇申、可被點定賀茂齋内親王御禊地日時、
今月十三日甲子、 時申二點、
元久三年四月十一日、 〃 〃 〃
〃 〃 〃
〃 〃 〃
〃 〃 〃
〃 〃 〃
侍從藤實重、   内舎人大江久國、<父久信止縫殿允上、齋院功、>
藤經俊、<父盛俊止少監物上、同功、>橘清元、<父友信止木工允上、藏人方功、>
刑部丞平時兼<齋院功、>、  彈正忠安倍資仲、<本院島居功、>
修理權大輔藤親輔<兼、>、  左京進藤原忠直、
左近將監平盛家<齋院鋪設功、>、  中原知國、<本院築垣功、>
左近將監藤康經<齋院相嘗功、>、  惟宗親盛、<修理申賀茂神館功、>
左衞門尉藤孝賢<木工寮申賀茂馬場屋功、>、志源友清、<齋院功、>
右衞門尉橘有俊<父兵衞尉通成靭負功上、本院功、>
左衞門尉源繁<女使功、>
元久三年四月十一日、
從四位下藤公基、<止修理權大輔敍之、> 同忠定、
從五位下中原滿季、
齋院長官藤頼房、<兼、>   次官同有通、<兼、>
源家國、     判官藤成光、
橘則眞、
主典賀茂義弘、    紀良景、(後略)

『公卿補任』
(建保六年)
 從三位 藤頼房<四十二>(中略)
<元久元三六右少將。(廿八)建永元正六從四下。(臨時)同十三日遷任右少將。同四月十一日齋院長官<兼>。承元三七廿二止長官。(後略)>
猪隅関白記
三長記
百錬抄
元久3年
[建永元年]
(1206)
4月19日 【初斎院(礼子)御禊、紫野本院に入御】
『猪隈関白記』
(前略)
 此日齋院(礼子)御禊也、 自左近府入本院給也、
今日禁中御物忌也、仍不御覽前駈・牛等云々、
一車牛余獻之、<牛飼童副之、不着褐衣、>欲獻内之處、依御物忌不可有御覽、直可進左近府之由、奉行職事(藤原)宣房示之、仍獻左近府了、
殿下(摂政近衛基通)密〃御見物、 余同之、

『三長記』
(4月18日条)
(前略)未剋參法性寺殿、御佛事用途等闕如、爲申子細也、暫祇候、依外史參會、中納言中將殿(九条道家)御復任事、改元以前可申行之由示之、而改元定或廿三日云々、祭以前者可有憚、改元定同日如何、予答曰、改元了即覽吉書、即吉事也、改元日復任除目、定先例歟、良業答可然之由、一説改元廿七日云々、然者廿三日解陣也、上卿參陣之次被行、何事有哉之由示了、齋院(礼子)入御本院之日也、解陣以後公家無御神事、何事有哉之由、良業所相計也、(後略)

『百錬抄』
 初齋院(礼子)入御紫野院。
三長記
猪隅関白記
元久3年
(1206)
4月22日 【賀茂祭】
『三長記』
(前略)今日賀茂祭也、近衞使、<左少將公俊、>中宮使、<亮(藤原)光雅[光親]朝臣、>春宮使、<大進顯俊、>御禊事辨<左少辨盛經、>等也、委可尋記、

『猪隅関白記』
(未入力)
三長記 元久3年
(1206)
4月23日 【賀茂祭還立】
 晴、今日賀茂祭還立也、於紫野人々見物、其儀可尋記、(後略)
猪隅関白記
三長記
仲資王記
百錬抄
建永元年
(1206)
6月20日 【斎院(礼子)御悩により、七座祓を行い、軒廊卜を行う。また賀茂社に奉幣、祈祷】
『猪隈関白記』
(未入力)

『三長記』
(未入力)

『仲資王記』
(未入力)

『百錬抄』
 被行軒廊御卜。是依齋院(礼子)御不豫事也。即被立賀茂社奉幣使。依同御祈也。
仲資王記 建永元年
(1206)
7月6日 【斎院(礼子)快癒】
(未入力)
三長記 建永元年
(1206)
11月13日 【斎院(礼子)相嘗祭】
(未入力)
明月記 建永元年
(1206)
12月14日 【斎院(礼子)推参のこと】
(未入力)
明月記
仲資王記
建永2年
(1207)
4月13日 【斎院(礼子)御禊、野宮に入御】
(未入力)
明月記
仲資王記
建永2年
(1207)
4月16日 【賀茂祭】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月8日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月10日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月14日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月17日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月19日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元2年
(1208)
4月21日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記
明月記
拾遺愚草
承元2年
(1208)
4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
明月記 承元2年
(1208)
11月19日 【和泉権弁、斎院(礼子)へ推参】
(未入力)
玉蘂 承元3年
(1209)
3月23日 【藤原立子入内。斎院(礼子)から使い】
(未入力)
公卿補任 承元3年
(1209)
7月22日 【斎院長官藤原頼房、辞任】
(建保六年)
 從三位 藤頼房<四十二>(中略)
<元久元三六右少將。(廿八)建永元正六從四下。(臨時)同十三日遷任右少將。同四月十一日齋院長官<兼>。承元三七廿二止長官。(後略)>
公卿補任 承元3年
(1209)
7月23日 【藤原家時を斎院長官に任命】
(嘉禄元年)
 從三位 藤家時(中略)
<建久元正五從五下(皇太后宮)。同九九八出雲守。(朝方卿申任之)。承元三七廿三齋院長官。(後略)>
猪隈関白記 承元4年
(1210)
4月8日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記 承元4年
(1210)
4月9日 【賀茂祭のこと】
(未入力)
猪隈関白記
園太暦
承元4年
(1210)
4月13日 【斎院(礼子)御禊】
『猪隈関白記』
(未入力)

『園太暦』
(文和元年12月5日条)
(前略)
坊門院、<高倉院皇女、/土御門院准母、>
 承元四年四月十二日御事、
 十三日斎院御禊、(後略)
猪隈関白記
園太暦
承元4年
(1210)
4月16日 【賀茂祭】
『猪隈関白記』
(未入力)

『園太暦』
(文和元年12月5日条)
(前略)
坊門院、<高倉院皇女、/土御門院准母、>
 承元四年四月十二日御事、
 十三日斎院御禊、(中略)
 十六日賀茂祭、春宮使被止之、依坊門院御事也、<公家依爲薨奏、以前不被憚歟、>(後略)
順徳天皇
史料 月日 記述
猪隅関白記
業資王記
承元5年
[建暦元年]
(1211)
2月11日 【斎院不替により、賀茂社に奉幣】
(未入力)
仲資王記 建暦元年
(1211)
4月12日 【賀茂祭使のこと】
(未入力)
業資王記 建暦元年
(1211)
4月13日 【斎院(礼子)御禊】
(未入力)
業資王記
仲資王記
建暦元年
(1211)
4月16日 【賀茂祭】
(未入力)
明月記 建暦2年
(1212)
4月7日 【斎院(礼子)御禊前駈のこと】
(未入力)
明月記
業資王記
建暦2年
(1212)
4月18日 【斎院(礼子)御禊
(未入力)
玉蘂
明月記
業資王記
建暦2年
(1212)
4月21日 【賀茂祭】
(未入力)
芸藩通志 建暦2年
(1212)
7月 【斎院庁、院宣を奉じて、安芸安摩荘の私得分内三十五石を厳島社御供料とする】
(※広島図書館版(明40)・『大日本史料』による)
齋院廳下  伊都岐島社司等
 可早任安摩庄、私得分内半分、参拾伍斛、爲當社御供料事、
  副下 院宣一帋
右今月七日、院宣●、伊都岐島訴申、安摩庄上分米事、故入道大納言(平)頼盛卿、以私得分、始奉免本社、後改移新宮、云彼云是共以彼卿所爲也乎、非可黙止、於自今以後者、各以参拾伍斛爲本數、毎年無懈怠、可令進濟本新兩社之由、被仰庄家畢、若致未濟者、相觸領家、可令究濟之由、可令下知社家云々者、早任院宣状、以彼庄私得分、漆拾斛内半分、参拾伍斛毎年無懈怠、可爲當社御供料也、庄家若致懈怠者、相觸領家、可令究濟之状、所仰如件、社司等宜承知、非[不カ]可違失、故下、
    建暦二年七月日   知家事右衞門少志安部<花押>
別當大納言兼中宮大夫藤原朝臣(兼宗)
 左大辨兼信濃權守藤原朝臣(宣房)

●=偁(称の異体字。こちらを参照(字源))
玉蘂
明月記
業資王記
百錬抄
女院記
女院次第
建暦2年
(1212)
9月4日 【斎院(礼子)、病により退下】
『玉蘂』
(9月4日条)
 (源)長俊朝臣云、只今或人申候、斎院(礼子)御辺聊有物忌事<ニ>候欲歎息不少、然間御不例以外大事御、両三度光入
(9月5日条)
 伝聞、今日関白(近衛家実)大相国(大炊御門頼実)相共議定、奉下斎院、御処<ハ>以異■可令避難奉仕[斎]院給被仰云々、事可給之間不能申熊野、今夜[退下脱?]也召給云々、御共源中納言雅親今日、長官(藤原)家時云々、 前内府 八葉車云々、先例●可尋、

『明月記』
(前略)伝聞、斎院(礼子)重悩給、去比、連〃五躰不具穢相続、非敕也事云々、又御悩之躰可驚恐、雖南山之間、聞事躰無是非、可退出給歟、末代事、斎王■■[不]叶神慮歟、可謂無益、二品又犬死穢云々、(後略)

『業資王記』(※『大日本史料』による)
 齋院(礼子)御退座之由披露、日來御所勞云々、

『百錬抄』
 賀茂斎内親王(礼子)依御不例火急令退下給。

『女院記』
 嘉陽門院 建暦二年九月四日御病ニヨリテ退下。

『女院次第』
 嘉陽、<禮子、後鳥羽第二女、母内大臣信隆公女、>正治二生、元久二六廿三爲内親王、<四、>同日爲賀茂齋院、建暦二九四退下、<依病也、十二、>

●=欤(歟の異体字。こちらを参照(字源))
百錬抄 建暦2年
(1212)
9月28日 【斎院(礼子)退下について、賀茂社に奉幣使を発遣】
 被立賀茂社奉幣使。是依被告申斎内親王(礼子)退下之由也。
明月記 建暦2年
(1212)
12月19日 【前斎院(礼子)御祓】
(未入力)
明月記
百錬抄
ほか
建保2年
(1214)
2月14日 【七条院の新御堂供養、順徳天皇行幸。後鳥羽上皇、修明門院、礼子内親王も臨席】
『明月記』
(未入力)

『百錬抄』
 七條院御堂供養。被准御斎會。仍上皇(後鳥羽)并脩明門院。前斎院(礼子)自昨日渡御。今日主上(順徳天皇)行幸。
明月記 建保2年
(1214)
2月26日 【新中納言、斎院(礼子)に拝賀】
(未入力)
百錬抄
皇帝紀抄
女院記
建保2年
(1214)
6月10日 【前斎院(礼子)、嘉陽門院の院号宣下】
『百錬抄』
 有院号定。以無品礼子内親王号嘉陽門院。

『皇帝紀抄』
(第八 順徳院)
 嘉陽門院<建保二年六月十日院號。承久三/年五月廿一日落飾爲尼。<廿一。>>

『女院記』
 嘉陽門院 建保二年六月十日嘉陽門院ト申。

『女院院号定部類記』
(未入力)
公卿補任 建保3年
(1215)
1月5日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
仁和寺日次記 建保3年
(1215)
3月14日 【凞子内親王着袴(着裳の誤り?)。嘉陽門院(礼子)腰結】
(未入力)
金剛寺文書 建保3年
(1215)
7月 【嘉陽門院丁、河内金剛寺住僧の寄進により、同寺の別院弘法大師影堂を御祈祷所とする】
(未入力)
明月記 建保4年
(1216)
1月5日 【叙位。嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
愚管抄
百錬抄
公卿補任
吾妻鏡
仁和寺日次記
尊卑分脈
建保4年
(1216)
3月14日 【外祖父坊門信清薨去】
(未入力)
仁和寺日次記 建保5年
(1217)
3月13日 【坊門信清一周忌供養、七条院・嘉陽門院(礼子)も臨幸】
(未入力)
公卿補任 建保6年
(1218)
1月5日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
玉蘂
仁和寺日次記
承久2年
(1220)
4月23日 【嘉陽門院(礼子)、石清水八幡宮参詣】
(未入力)
玉蘂
百錬抄
女院記
皇帝紀抄
承久2年
(1220)
5月21日 【嘉陽門院(礼子)出家】
『玉蘂』
 雨降、旬●如例、今日嘉陽門院(礼子)御出家云々、生年廿一、戒師仁和寺宮(道助入道親王)、唄師東寺僧正道尊、剃師権僧正尊性等也、公卿春宮大夫已下算入云々、自今日被行懺法、僧三口云々、

『百錬抄』
 嘉陽門院(礼子)御出家。<御年廿一。>

『女院記』
 嘉陽門院 承久二年五月廿一日爲尼。<年廿一。>

『皇帝紀抄』
(第八 順徳院)
 嘉陽門院<建保二年六月十日院號。承久三/年五月廿一日落飾爲尼。<廿一。>>

●=秡(祓の異体字。こちらを参照(字源))
後堀河天皇
史料 月日 記述
愚管抄
百錬抄
吾妻鏡
ほか
承久3年
(1221)
7月8日 【後鳥羽上皇出家】
『愚管抄』
(巻二・今上)
 一院遠流セラレ給、隠岐國。七月八日於鳥羽殿御出家、十三日御下向云々。

『百錬抄』
(前略)今日。一院(後鳥羽上皇)并修明門院於鳥羽殿御出家云々。主上(仲恭天皇)密々渡御九條殿。云々。

『吾妻鏡』(第二十五)
(前略)今日。上皇(後鳥羽)御落飾。御戒師御室。<道助。>先之。召(藤原)信實朝臣。被摸御影。七條院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。
愚管抄
百錬抄
吾妻鑑
増鏡
ほか
承久3年
(1221)
7月〜閏10月 【後鳥羽法皇・土御門上皇・順徳上皇ほか配流】
『愚管抄』
(巻二・今上)
 一院(後鳥羽法皇)遠流セラレ給、隠岐國。七月八日於鳥羽殿御出家、十三日御下向云々。(中略)
土御門院并新院(順徳上皇)・六條宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)、皆被行流刑給云々。新院同月廿一日佐渡國、冷泉宮同廿五日備前國<小島>、六條宮同廿四日但馬國、土御門院ハ其比スギテ、同年閏十月土佐國ヘ又被流刑給。其後同四年四月改元。五月頃阿波國ヘウツラセ給フ由聞ユ。三院、兩宮皆遠國ニ流サレ給ヘドモ、ウルハシキ儀ハナシトゾ世ニ沙汰シケル也。

『百錬抄』
(7/13条)一院(後鳥羽法皇)自鳥羽殿遷御隠岐國云々。
(7/21条)新院(順徳上皇)遷御佐渡國云々。
(7/24条)六條宮<雅成>(右書)遷御但馬國云々。
(7/25条)冷泉宮<頼仁>(右書)遷御備前小嶋云々。

『吾妻鏡』(第二十五)
(7/13条)上皇自鳥羽行宮遷御隠岐國云々。甲冑勇士圍御輿前後。御共女房兩三輩。(後略)
(7/20条)新院●御佐渡國。(後略)
(7/24条)六條宮遷坐但馬國給。(後略)
(7/25条)冷泉宮令遷于備前國豊岡庄児島。(後略)
(閏10/10条)土御門院●幸土佐國。<後阿波國。>

『増鏡』(第二・新島守)
 東(鎌倉幕府)よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院(後鳥羽法皇)は隠岐の国におはしますべければ、先(まづ)鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるにて、六月六日入らせ給ふ。(中略)
かくて、おなじき十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報ひにかとうらめし。(中略) 新院(順徳上皇)も佐渡国に移らせ給ふ。(中略)
中の院(土御門上皇)は初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院(後鳥羽法皇)、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多(はた)といふ所にわたらせ給ひぬ。(中略) せめて近き程にと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。(後略)

●=迁(しんにょう+千。遷の異体字。こちらを参照(字源))
※『増鏡(増補本)』はJ-TEXTS(日本文学電子図書館)提供による。
公卿補任 承久3年
(1221)
11月16日 【御即位。嘉陽門院(礼子)御給】
公卿補任 承久4年
(1222)
1月29日 【嘉陽門院(礼子)御給】
野槐服飾抄 貞応2年
(1223)
7月17日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条殿に行幸】
(※『大日本史料』による)
(行幸/諒闇中行幸)
貞應二七十七、今日爲令避祇園御靈會、可有行幸四條壬生嘉陽門院御所、三位中將依催供奉、諒闇物具等異例、仍注之、(後略)
公卿補任 家禄元年
(1225)
4月20日 【嘉陽門院(礼子)昇殿】
(未入力)
民経記
明月記
安貞元年
(1228)
6月13日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条殿に行幸】
(未入力)
民経記
百錬抄
安貞2年
(1229)
9月16日 【祖母七条院崩御】
『民経記』
(未入力)

『百錬抄』
 七條院崩御。當今(後堀河天皇)并齋宮(利子内親王)御祖母也。
勘仲記 安貞2年
(1228)
9月28日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条壬生第に方違行幸】
(未入力)
民経記
明月記
寛喜元年
(1229)
5月21日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条殿に方違行幸】
(未入力)
明月記 寛喜元年
(1229)
6月17日 【母坊門局帰京】
(未入力)
明月記
百錬抄
寛喜2年
(1230)
5月23日 【京火災、四条壬生嘉陽門院(礼子)御所被災】
『明月記』
(未入力)

『百錬抄』
(5/24条)
 今曉。四條壬生嘉陽門院御所燒亡。
民経記 寛喜3年
(1231)
1月6日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
民経記 寛喜3年
(1231)
1月21日 【嘉陽門院(礼子)、八条堂に御幸。翌日、故実朝の十三年忌追善のため、八条堂供養に臨む】
(未入力)
民経記
公卿補任
寛喜3年
(1231)
1月29日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
民経記 寛喜3年
(1231)
2月21日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
民経記 貞永元年
(1232)
4月11日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
民経記 貞永元年
(1232)
5月16日 【権中納言広橋頼資、嘉陽門院(礼子)へ参向】
(未入力)
公卿補任 貞永元年
(1232)
11月29日 【嘉陽門院(礼子)寛喜二年御給】
(未入力)
四条天皇
史料 月日 記述
公卿補任 天福2年
(1234)
1月21日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
如願法師集 嘉禎2年
(1236)
10月20日? 【嘉陽門院(礼子)、仁和寺御所に滞在】
(未入力)
公卿補任 嘉禎2年
(1236)
12月29日 【嘉陽門院(礼子)去年大嘗会御給】
(未入力)
公卿補任 暦仁■年
(1238-9?)
1月5日 【嘉陽門院(礼子)嘉禎二年未給】
(未入力)
公卿補任 暦仁2年
(1239)
1月29日 【嘉陽門院(礼子)当年御給】
(未入力)
百錬抄
吾妻鏡
公卿補任
皇帝紀抄
ほか
延応元年
(1239)
2月22日 【後鳥羽法皇、隠岐で崩御】
『百錬抄』
 壬戌。隠岐法皇(後鳥羽)崩御<春秋六十>。去承久三年已後及十九年。天下貴賤誰不傷哀哉。

『吾妻鏡』(第卅三)
(3月17日条)
 六波羅使者參著。去二月廿二日。隠岐法皇於遠嶋崩御。<御年六十。>同廿五日奉葬云々。

『公卿補任』
(暦仁二年)
 二月廿二日前大上皇(後鳥羽法皇)於隠岐國崩。(後略)

『皇帝紀抄』
(後堀河)
太上法皇<尊成。承久三年七月十三日奉●隠岐國。去八日御出家。延應元年二月廿二日御事。春秋六十歟。>

●=迁(しんにょう+千。遷の異体字。こちらを参照(字源))
後嵯峨天皇
史料 月日 記述
公卿補任 仁治元年
(1240)
11月12日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
公卿補任 寛元2年
(1244)
1月5日 【嘉陽門院(礼子)去大嘗会御給】
(未入力)
平戸記 寛元3年
(1245)
10月24日 【西御方(坊門局)、後鳥羽院を供養】
(未入力)
後深草天皇
史料 月日 記述
百錬抄 宝治3年
(1249)
1月15日 【兄道助入道親王薨去】
 道助法親王薨。<五十四。>
公卿補任 建長6年
(1253)
1月5日 【嘉陽門院(礼子)当年御給】
(未入力)
経俊卿記 正嘉元年
(1257)
5月 【嘉陽門院(礼子)、河内国東馬伏荘の浄金剛院への寄進中止を申請】
(未入力)
民経記 正元元年
(1259)
11月21日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
亀山天皇
史料 月日 記述
民経記 正元元年
(1259)
12月25日 【嘉陽門院(礼子)御給】
(未入力)
皇代暦
一代要記
女院小伝
園太暦
ほか
文永10年
(1273)
8月2日 【嘉陽門院礼子薨去】
『皇代暦』
(後深草天皇/院宮)
 嘉陽門院 文永十年八月二日崩<七十三>

『一代要記』
 前后 嘉陽門院礼子 文永十年八月二日薨

『女院小伝』
 嘉陽門院<禮子。>後鳥羽第二女。母内大臣信隆公女。正治二生。(中略)文永十八二御事。<七十三。>

『園太暦』
(未入力)


史料 記述
一代要記
後鳥羽院天皇
(皇女)
 ●[禮]子内親王<齊院、准三宮、母信清公女、同御室、賀陽門院、>

土御門院天皇
(賀茂)
 禮子内ヽヽ[親王]<上皇三女、元久元ー卜定、建暦二ー退出、依病也、>

順徳院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、>

後堀河院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、齊院、後鳥羽院女、>

四條院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、>

後嵯峨院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、>

後深草院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、>

亀山院天皇
(前后)
 嘉陽門院<禮子、文永十ー八月二日崩、>

●=𧬹(言偏+豊。こちらを参照(字源))
帝王編年記
後鳥羽院
(皇女)
 嘉陽門院禮子<賀茂/齋院>

土御門院
(齋院)
 礼子内親王<上皇々女母少納言源信康朝臣女/正治元年十二月廿四日卜定四>

順徳院
(後宮)
 <礼子内親王>
 嘉陽門院<後鳥羽院皇女建保二年六月十日院号/承久三年十一月廿一日落餝爲尼二十一>

後堀河院
(後宮)
 嘉陽門院

四條院
(後宮)
 嘉陽門院
二中歴
(齋院)
 禮子<後鳥羽女母内大臣信清女>

(女院歴)
 嘉陽門院<前齋院 後鳥羽女 御母内大臣信清女 禮子 建保二年六月十日院號十五 承久二ー五ー廿一出家廿一>
皇代暦
土御門天皇
(齋院)
 禮子内親王 同院皇女母内大臣信清元久元年六月廿二日卜定

順徳天皇
(前后)
 嘉陽門院 禮子内親王後鳥羽第二皇女母内大臣信清女建保二年六月十日院號元前齋院承久二年五月卅一日尼<廿>

後堀河天皇
(院宮)
 嘉陽門院

四條天皇
(院宮)
 嘉陽門院

後嵯峨天皇
(院宮)
 嘉陽門院

後深草天皇
(院宮)
 嘉陽門院

後深草天皇
(院宮)
 嘉陽門院 文永十年八月二日崩<七十三>
本朝皇胤紹運録
(後鳥羽院子)
(455)嘉陽門院[禮子内親王齋院准后。建保二六十院號。母同道助(内大臣信清女)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
禮子内親王<准后(右傍書)> 元久元年卜定。嘉陽門院。後鳥羽院第十一御女。母内大臣信清女。土御門院御宇也。
賀茂斎院記
礼子内親王
後鳥羽院之皇女也。母修明門院。贈左大臣範秀之女。
元久元年卜定。
建保二年六月十日。受嘉陽門院之号。
女院記
<禮子>
嘉陽門院 顯徳院御女。母太秦内大臣女。坊門局ト申。
 正治二年誕生。元久元年六月廿三日内親王。卜定。賀茂齋院。准三宮。建暦二年九月四日御病ニヨリテ退下。建保二年六月十日嘉陽門院ト申。承久二年五月廿一日爲尼。<年廿一。>
女院小伝
嘉陽門院<禮子。>後鳥羽第二女。母内大臣信隆公女。正治二生。元久二六廿三爲内親王。<四。>同日爲賀茂齋院。建暦二九四退下。<依病也。十二。>建保二六十院號。<十四。>承久二年五月廿二日爲尼。<年二十。真如性。>文永十八二御事。<七十三。>
女院次第
(「日本帝皇系図」付録)
(※『大日本史料』による)
嘉陽、<禮子、後鳥羽第二女、母内大臣信隆公女、>正治二生、元久二六廿三爲内親王、<四、>同日爲賀茂齋院、建暦二九四退下、<依病也、十二、>建保二六十院號、<十四、>承久二五廿二日爲尼、<年二十、真如性、>
(※以下不明、翻刻なし)


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