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17代斎院 馨子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
きょうし かおるこ 二品、准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後一条天皇(1008-1036)
母:中宮藤原威子
  (999-1036,道長女)
長元2年(1029)2月2日 寛治7年(1093)9月4日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
後一条(1016〜1036,父) 卜定:長元4年(1031)12月16日
   (丹波守源章任三条宅)
初斎院:長元5年(1032)4月25日
   (大膳職)
本院:長元6年(1033)4月9日
退下:長元9年(1036)4月17日
天皇(父)崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
嫥子(1005-1081,父の再従姉妹)
 父:具平親王
 母:為平親王女
卜定:長和5年(1016)2月19日
   (染殿)
初斎院:長和5年(1016)9月15日
   (宮内省)
野宮:寛仁元年(1017)9月21日
群行:寛仁2年(1018)9月8日
   (長奉送使:藤原能信)
退下:長元9年(1036)4月17日
天皇崩御

略歴:
 長元2年(1029)(1歳)2月2日、誕生。


4月16日、内親王宣下。
 長元4年(1031)(3歳)10月29日、着袴、二品。


12月16日、賀茂斎院に卜定、准三宮。
 長元5年(1032)(4歳)4月25日、初斎院(大膳職)に入る。
 長元6年(1033)(5歳)4月9日、紫野院に入る。
 長元9年(1036)(8歳)4月17日、父後一条天皇崩御。これにより斎院を退下。


9月6日、母威子が疱瘡により崩御。
 永承6年(1051)(23歳)11月8日、皇太弟尊仁親王(のちの後三条天皇)に入侍。
 治暦4年(1068)(40歳)4月19日、夫後三条天皇が践祚。


7月21日、後三条天皇即位。
 延久元年(1069)(41歳)7月3日、中宮に冊立。
 延久4年(1072)(44歳)12月8日、後三条天皇譲位。
 延久5年(1073)(45歳)4月21日、後三条上皇と共に出家。


5月7日、後三条上皇崩御。
 延久6年(1074)(46歳)6月20日、皇后宮。
 寛治7年(1093)(65歳)9月4日、崩御。

号:西院皇后
同母姉:二条院章子内親王(1026-1105,後冷泉天皇中宮)
夫:後三条天皇(1034-1073,従弟)
子女:王女(永承7年(1052)1月3日?誕生、夭折)
   王子(康平5年(1062)9月5日誕生、夭折)

後一条天皇第二皇女。
 母藤原威子は、父後一条天皇の叔母(後一条の母・上東門院彰子の妹)。
 夫後三条天皇は、後三条の父後朱雀天皇が馨子の父後一条天皇の弟である。

          ┌────────┐
          |        |
 村上天皇=====安子       兼家
  |    |           |
  |    ├─────┐     ├───┐
  |    |     |     |   |
  |   為平親王  円融天皇===詮子  道長
  |    |         |     |
  |    |         |     ├─────┐
  |    |         |     |     |
  具平===女        一条天皇===彰子    |
     |               | [上東門院]  |
     |               |       |
     嫥子            後一条天皇=====威子
     (斎宮)                   |
                     ┌────┤
                     |    |
                     章子  ◆馨子

『栄花物語』によれば、父後一条天皇に皇子がなかったため、章子内親王・馨子内親王姉妹の誕生に対して宮中の反応は冷ややかであった(ただし第一子の章子の時は、中宮威子の妹で東宮妃の嬉子が親仁親王(後の後冷泉天皇)出産で亡くなって間もない頃であったため、まず安産であったことを喜ばれたともある)。また父後一条は長女章子を鍾愛し、周囲も章子を重んじる傾向が強かったので、母威子は妹の馨子を不憫に思って心にかけたという。実際、馨子が斎院になった後も威子はたびたび行啓しており、のちに威子が亡くなった際にはその遺産の小二条殿(左京二条三坊十三町)が馨子の相続となった。

 両親の死後、章子・馨子姉妹は共に上東門院彰子(父方の祖母、母方では伯母)に養育される。永承6年(1051)、23歳の馨子内親王は後冷泉天皇の皇太弟・尊仁親王の妃となった。
 当時は後朱雀天皇時代からの頼通・教通兄弟の権力闘争が激化中で、後冷泉後宮には馨子の姉・中宮章子内親王(26歳)の他、頼通の娘・皇后寛子(16歳、馨子の従妹)、頼通の弟教通の娘・女御歓子(31歳、馨子の従姉。永承4年(1049)皇子を死産)の3人がいた。とりわけ永承5年(1050)に入内した皇后・寛子は父頼通の期待を一身に受けて、その絶大な後見の下で後冷泉にも篤く寵愛されており、誰もが皇子誕生は時間の問題と見ていただろう(余談ながら寛子の生母は多産で、しかも寛子以外はすべて男子であったことから、頼通の期待も大きかったと思われる)。それが実現すれば、後見の弱い皇太弟尊仁の立場はますます危うく、廃太子の可能性すらあった。
 だがいまだ子のない後冷泉に対し、尊仁は同じく永承5年(1050)に早くも藤原茂子(頼通の異母弟能信の養女)との間に第一子聡子内親王をもうけていた。そもそも尊仁の立太子に渋った頼通であるが、身分低い御息所に過ぎない茂子一人を妃にしておくわけにもいかず、また『栄花物語』にも上東門院の肝いりでこの婚儀が実現したとあることから、皇族で摂関家の血を濃く受けた馨子内親王は頼通らにとって最も適当な東宮妃候補として白羽の矢が立ったと思われる。その期待に応えて馨子は一男一女を産んだものの、不幸にもいずれも夭折してしまった。

  藤原道長
   |
   ├────┬──────┬────────────┐
   |    |      │            │
   頼通   |      彰子=====一条天皇  妍子===三条天皇
   |    |    [上東門院] │           │
   |    |      ┌───┴───┐       │
   |    │      │       │       │
   寛子   威子===後一条天皇     │       │
 (後冷泉皇后)     |           │       │
           |    嬉子===後朱雀天皇=====禎子
           |   (道長女)│        │ [陽明門院]
       ┌───┤       │        │
       |   |       │        │
       |   章子====後冷泉天皇      |
       |   [二条院]              |
       |                    |
       馨子=================後三条天皇===藤原茂子

 結局後冷泉は子女なく没し、夫後三条の即位により正妃馨子内親王も中宮に立つ。これは入内した前斎院が皇后(中宮)となった初例であった(もう一人は堀河中宮篤子内親王)。のち後三条院の崩御間際の出家と共に馨子内親王も落飾、院の没後は西院に住んだことから、西院皇后と称された。
 なお馨子内親王は出家後も中宮位についてはそのままであったらしいが、延久6年(1074)に皇后宮とされたのは、白河天皇女御・藤原賢子の立后による(当時四后に空きがなかったため、太皇太后章子内親王→二条院、皇太后藤原寛子→太皇太后、皇后藤原歓子→皇太后、中宮馨子内親王→皇后にそれぞれ変更、これにより藤原賢子が中宮に冊立された)。

詠歌:忘れてもあるべきものをなかなかにとふにつらきを思ひいでつる(続古今集)

関連論文:
 所京子「“入内斎院”馨子内親王関係の和歌集成」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』13, p86-75) ※Cinii提供、PDF版全文あり


【二条院章子内親王の院号宣下を巡って】
 馨子内親王の姉章子内親王は、延久6年(1074)白河天皇中宮藤原賢子の立后に際して「二条院」の院号を宣下され、史上四人目の女院となった。これは先述の通り、当時既に四后が塞がっていたので、賢子立后のために中宮位を開けることを目的とした処置であったとされる。
 だがこの際、太皇太后(当時)章子以外にもう一人、その妹で後三条天皇の中宮馨子内親王も候補に挙がっていた。これについて、『澄池記』には「世推云、中宮(馨子)最当院号、其故者、先帝(御三条)后、今上(白河)継母也」とあり、馨子が先代御三条天皇の后で当代白河天皇の継母であることを根拠としている(※当時他の三后は、太皇太后章子内親王、皇太后藤原寛子、皇后藤原歓子の三人で、いずれも後冷泉天皇の后であった)。
 結局、(単純に立后の順序に従ってか)章子が二条院となり、馨子が史上初の「前斎院の女院」となることはなかった。しかしその後、二条院は前例のない「非国母」皇妃から女院になった点を何度も問題視され、院分受領に預かれないなど過去三人の国母女院(東三条院、上東門院、陽明門院)よりも一段落ちる待遇であった。これについては、『栄花物語』巻39「布引の滝」に以下の記述が見られる。

 十六日に、太皇太后宮(章子内親王)、女院にならせたまひぬ。年ごろも、「(四后の内の誰か)一所院にならせたまふべし。次第にては太皇太后宮ならせたまふべし。さらずは中宮(馨子内親王)こそは、故院(後三条天皇)の后にもおはしまし、内(白河天皇)の御継母にもおはしませば」など申しつるを、太皇太后宮ならせたまひぬれば、「后にもおはしまさで」と申す人もあり。また、「ならせたまはではいかがは」と申す人もありけり。帝の御親ならぬはまだならせたまはざりければ、めづらしきことに人申す。帝の御親ならでは受領などはえさせたまはじとて、賜はらせたまはず。ことごとは后におはしましし同じことなり。「例は帝の御女、后に立ちて、後に女帝にゐたまふもなくやはありける。まして院分などかなからん」と申したまふ上達部もおはす。

 この点から、野口華世氏は「初期の女院は「后妃」よりも「国母」であることが最も重要な条件であった」としている。またもう一点、後に白河天皇が郁芳門院媞子内親王(堀河天皇准母)へ院号を宣下するにあたり、あらかじめ媞子内親王を「国母」に準じる「准母」とすることで女院となる条件を整え、貴族社会の批判を封じようとした可能性を指摘している。媞子内親王の准母立后はその後相次いで誕生する「尊称皇后」の初例としてよく知られるが、そもそものきっかけは(当時としては例外的な)非国母の女院・二条院の誕生にあったのかもしれない。

関連論文:
・野口華世「内親王女院と王家:二条院章子内親王からみる一試論」
 (『歴史評論』736, p37-51, 2011)




後一条天皇
史料 年月日 記述
小右記
日本紀略
長元2年2月2日 【馨子誕生】
『小右記』
 丑刻許(藤原)資高示送云、大外記頼隆申送云、
只今中宮(威子)御産成畢、其後資房来云、御産遂畢、
女子(馨子)者、宮人気色太以冷談[淡]
『日本紀略』
 丑刻、中宮(威子)御産女子(馨子)、於権中納言兼隆卿
大炊御門東洞院家、有此事
小右記 長元2年2月5日 【馨子産養・三夜】
 中納言注送云、吉[去]夕有関白御養産事、
白木棚厨子二脚、居盛物六十杯、殿上人取伝、
采女供之、有児御衣二筥、各■[居]机、饗膳如例、有攤興、
参入公卿<関白、内大臣(藤原教通)、大納言斉信、頼宗、
能信、長家、中納言兼隆、(源)師房、参議公成、顕基、経頼>
明夕御養産本宮云々、今月廿三日可令入内殆[給]云々
小右記 長元2年2月8日 【馨子産養・七夜】
 今日中宮(威子)御産七夜、仍乗燭後参入、中納言経通・資平、小[少]将資房、小[少]納言資高等相従、関白<左大臣>、已下在饗座、一巡未下余(実資)参入、勤学院見参、亮経通執之、見大夫(斉信)、々々披見奉関白、々々見畢返之、有官別当・学生等給禄<疋絹■>、進出庭中拝礼、
今日御産養公家所令行也、御膳内膳司官人供益、采女<白装束>、伝取供、此外饗録云々、勅使蔵人小[少]納言経長、其座設殿上人座上、<高麗端畳・茵>机饗云々、件座上達部後長押下可設、上達卩座末■、即給禄、下庭拝之、采女不経幾程撤御膳、
上東門院(彰子)被奉皇児装束、筥二合、使(源)行任朝臣、敷讃岐円座給禄、下庭拝、
一品宮(禎子内親王)被奉児装束、二筥、無机、使右中弁(藤原)頼任、給禄、令撤却上達卩懸盤、有攤興、御簾前敷円座召諸卿、関白已下次第参入着座、次居衝重、庭前敷座召着給人、公卿・殿上人等上下唱歌、糸竹交音、盃酒両三巡、満座不飲、太冷々々、可然々々、
憖有和歌合者、大納言能信執筆未定、関白耳語云、
下搨無耐能人、大夫斉信卿如何、余(実資)云、有何事哉、硯置大夫前、頗以固辞、譲大納言頼宗、々々無辞、引寄硯取帋染高、上下以自、読揚云、
第四皇女者、第二皇女也、恠也、又更改書、人々云、内々語文者令書出也、是何由哉、
上下禄有差、余(実資)禄大褂一重<公禄■>、加児衣<織物>、并繦褓、<綾>男女官皆有禄<左大臣、内大臣、大納言斉信・頼宗・能[信]・長家、中納言兼隆・道方・経通・資平・師房、参議兼経・公成・顕基>
亥終事畢、退出之間雨脚降
小右記 長元2年閏2月22日 【馨子・五十日儀】
 今日第二皇女(馨子)五十日依願[頭]弁示告晩景参内(中略)
内大臣已下候飛香舎、関白未被参者、小[少]時又見遣、申云、
只今関白被参上者、仍参入、中納言・左大弁相従参入、
関白已下着饗座<飛香舎東庇>、殿上献之籠物置渡殿<竹籠居打敷>、乗燭後主上渡給、皇女前物左宰相中将(顕基)取、打敷殿上人執、台権大納言長家奉仕云々、戌剋始食給、欲召上達卩於御前、雨脚滂■砌太狭座席無便、於饗座給碌<上達卩・殿上人禄云々、余(実資)禄女装束>、無管弦・和歌興、
多是依雨■、主上還御、々膳奉御所云々、春宮大夫頼宗奉仕云々、
亥終退出、中納言乗車後、見参上達卩、左大臣、<関白>余(実資)、内大臣、大納言斉信・頼宗・能信・長家(後略)
小右記 長元2年4月14日 【馨子・百日儀】
 今日中宮(威子)御腹皇女(馨子)百日<当十一日、而日不宜、十二・三日内御物忌、仍被延行云々>、晩景参内(中略)
内■[府]来左衛門陣、余(実資)如不知入自敷政門、内■[府]経温明殿北参中宮<飛香舎了>(中略)
関白并内大臣已下着饗座<飛香舎東庇>、予(実資)参入、両中納言・両宰相相従、加着饗座、盃酌如常、不異不傾、柳■物百合居連度[渡?]殿、
戌時許主上(後一条天皇)渡御、関白已下近習卿相候御共、
亥時、皇前物<小台近江守(源)済政奉仕>、殿上人執之、進簾下、先参議公成執打敷、殿上四位執台、良久之巻御簾出御、以蔵人頭経頼召上達卩、関白及諸卿着御前座<自座>、給突重、一献後供御膳<懸盤、■芳螺鈿■、不■見、関白奉仕>、大納言能信陪膳、執打敷、宰相益供、地下給[伶]人不候、殿上人奏竹肉、依無座席■議、給座于地上、上達卩唱歌、大納言能信執拍子、関白戯云、可有和歌哉、権中納言定頼勧盃之間也、関白暫不受盃、■[余]答云、和歌有何事、但管弦夜闌、
已及暁更、彼是饗応、仍関白受盃、済[流]巡了、給禄有差<上達卩大褂、殿上人疋絹>、事■還御、即予(実資)退出
今日見参、左大臣<関白>、予(実資)、内大臣、大納言斉信・頼宗・能信・長家、中納言道方・経通・資平・師房・定頼、参議朝任・公成・重尹・顕基
小右記
皇代記
一代要記
長元2年4月16日 【馨子内親王宣下】
『小右記』
 今日当帝第二皇女馨子為親王宣旨、并本封外給百戸之宣旨下之、内大臣奉了、左大臣<関白>・内大臣・氏大納言已下令奏親王慶
小右記
左経記
長元4年9月14日 【馨子内親王著袴の日時を勘申】
小右記 長元4年9月28日 【斎院卜定を勘申】
日本紀略 長元4年10月29日 【馨子内親王、二品に授叙】
 第二馨子内親王著袴、即授二品
日本紀略 長元4年11月7日 【馨子内親王の斎院卜定日を検討】
 (藤原頼通)仰云、二宮(馨子)御出并可奉卜定斎院之日等事、内々為問卜定所喚也、可遣召陰陽助孝秀者、仰隆佐朝臣召之、孝秀参入、即召御前、被問件日々、申云、来月七日出御巽方家、十三日若十六日可被卜定歟云々、仰自内裏当巽之人家誰家哉、
余申云、丹波守章任朝臣三条宅宜歟、仰云、甚吉事也、又仰云、大略以此由可示宮大夫、即詣大夫許申此旨、被申云、件日々并宅吉程也云々
左経記 長元4年12月5日 【前斎院(選子)に初斎院の雑事を尋ねる】
 参前斎院(16代選子内親王)奉間初斎院間雑事<是依内辨官仰也>、次以権辨<経任>申云、斎院式云、定斎王了、即卜宮城便所、為初斎院云々、内匠寮式云、斗帳二具<一具漆塗、一具白木>、賀茂初斎院◆(?)野宮装束料云々、然者以諸司可謂初斎院也、仍件御帳等◆雑具、令入諸司給之日可奉渡歟、而前斎院卜定日、立件帳等<白木神毀料、漆塗斎王料>、之由有仰云々、為之如何、殿(藤原道長)仰云、
日本紀略 長元4年12月16日 【馨子内親王、斎院卜定】
『日本紀略』
 卜定賀茂斎王、第二馨子内親王卜食、去十三日遷座丹波守章任三条宅、又勅賜本封外、千戸、任人、賜爵、准三后
(他、左経記、江次第など)
日本紀略 長元4年12月22日 【斎院(馨子)卜定を賀茂社に奉告】
 被申卜定斎王之由於賀茂社。
日本紀略 長元5年4月13日 【斎院(馨子)前駆を定める】
 斎王前駈定。
小右記 長元5年4月20日 【賀茂祭に斎院(馨子)不参加を議す】
 賀茂祭。斎王依未入本院給不供奉。
日本紀略 長元5年4月25日 【斎院(馨子)、初度御禊】
 賀茂斎王禊東河、入大膳職。
日本紀略
小右記
長元5年8月28日 【中宮(威子)、初斎院へ行啓】
 中宮行啓斎院(馨子)御所大膳職。
日本紀略 長元6年4月2日 【中宮(威子)、初斎院へ行啓】
 中宮行啓。斎院(馨子)坐大膳職。
日本紀略 長元6年4月9日 【斎院(馨子)、初斎院御禊、本院入り】
 賀茂斎王禊于東河、入紫野院。
日本紀略 長元6年4月22日 【斎院にて歌曲】
 斎院侍等召遊女。令發歌曲之間。其中有懐妊之女■。鳥数万集御前櫻樹。喰柳枝葉。
本朝続文粋 長元6年10月28日 【中宮(威子)、斎院御所に行啓、和歌会】
日本紀略 長元7年4月17日 【斎院(馨子)御禊】
 賀茂斎王禊。
日本紀略 長元7年4月20日 【賀茂祭、斎院(馨子)輿に投石】
 賀茂祭。斎王御輿過小一条院御桟敷前之間。以飛礫打御輿。仍遣検非違使召捕犯人。
左経記 長元8年4月2日 【斎院(馨子)御悩】
日本紀略 長元8年4月8日 【斎院(馨子)御禊前駆を定める】
 賀茂斎王禊前駈定。
左経記
日本紀略
長元8年4月17日 【斎院(馨子)御禊】
 斎王禊。
日本紀略 長元8年10月4日 【中宮(威子)、斎院御所へ行啓】
 中宮行啓斎院。
日本紀略 長元8年10月10日 【斎院で歌会】
 今日。於斎院有和歌會。
日本紀略 長元8年10月11日 【中宮(威子)、内裏へ帰還】
 中宮従斎院入御内裏。
日本紀略 長元9年4月17日 【後一条天皇崩御。斎院(馨子)、本院から退出】
 天皇(後一条)落飾、崩于清涼殿、(中略)
賀茂斎院出本家。坐近隣人宅。
後朱雀天皇
史料 年月日 記述
左経記 長元9年4月19日 【賀茂祭停止、斎院移転】
 内大臣、藤大納言<頼宗>、中宮大夫<能信>、権大納言<長家>、新大納言<師房>、民部卿<道方>、右衛門督<資平>、権中納言<定頼>、右大弁<経頼>、等参會関白御直廬<疑華舎>、被定雑事、(中略)
又此次被定関白詔、并賀茂祭停止、斎宮帰京、斎院他所等、(後略)
左経記
範国記
長元9年7月15日 【中宮(威子)、一品宮(章子)、斎院(馨子)等、盂蘭盆会を中止】
 中宮并一品宮斎院等奉為故院(後一条天皇)不被奉御●、其故奉為故一条院上東門院不被御●、仍中宮不被奉之由先日関白殿御定畢、但一品宮斎院可被奉仕也、而今年十四日復日、十五日中宮御衰日也、仍自後年可被奉之由、同有殿仰停止之

●=分に瓦。こちらを参照(字源)。
栄花物語 長元9年8月30日 【斎院(馨子)、章子内親王、上東門院へ渡御】
 女院(上東門院)見奉らせたまはんと聞えさせたまへば、八月つごもり方に渡らせたまふ。黒き御単がさねに、黒き御小袿奉りて、二所(章子・馨子)ながらおはします。今日ぞ、大宮(威子)も少し起き上らせたまひて見奉らせたまふ。
(※詳細は後述)
扶桑略記ほか 長元9年9月6日 【中宮威子崩御】
諸院宮御移徒部類記 長久元年1月2日 【前斎院(馨子)、一条殿から二条殿へ移徒】
後冷泉天皇
史料 年月日 記述
春記
歴代編年集成ほか
永承6年11月8日 【東宮尊仁親王に入内】
扶桑略記ほか 康平5年9月5日 【王子誕生、夭折】
後三条天皇
史料 年月日 記述
本朝世紀ほか 治暦4年4月19日 【後三条天皇践祚】
本朝世紀ほか 延久元年7月3日 【馨子内親王、中宮に冊立】
扶桑略記ほか 延久4年12月8日 【後三条天皇譲位】
白河天皇
史料 年月日 記述
扶桑略記 延久5年4月21日 【後三条院、中宮(馨子)出家】
 太上皇由御悩重、出家入道、同日中宮落飾為尼
扶桑略記ほか 延久5年5月7日 【御三条院崩御】
百練抄ほか 延久5年8月19日 皇后供養北野御堂。
扶桑略記ほか 延久6年6月20日 【中宮馨子内親王を皇后に為す】
為房卿記、百練抄 永保元年3月30日 皇后宮供養北野堂。
堀河天皇
史料 年月日 記述
扶桑略記 寛治3年 【皇后宮(馨子)に十五番扇合】
後二条師通記
兵範記
勘仲記
扶桑略記
寛治7年9月4日 【皇后馨子内親王崩御】
『後二条師通記』
 皇后宮(馨子)崩云々
『扶桑略紀』
 皇后宮崩、年六十二[五]、後一条天皇二女、御三条院后也
後二条師通記 寛治7年9月5日 【皇后(馨子)崩御の使者あり】
 左大弁為仙院御使、参殿下、皇后宮令薨給
勘仲記、
後二条師通記、
中右記
寛治7年9月11日 【皇后(馨子)崩御により伊勢例幣延引、廃朝五日】
中右記 寛治7年10月20日 【皇后(馨子)法事】
 今日故皇后宮御法事被修云々、大乗会後僧侶参入



史料 記述
一代要記

後一条天皇
斎院 馨子内親王 長元二年二月二日降誕、同四月十六日為内親王、
同四年為斎院准后、同九年四月十七日辞之、
■年■月■日入太子宮、年二十三

後三条天皇
皇后 馨子内親王 母皇后藤威子前太政大臣道長四女、
長元四年■月■日為斎院准三宮、同九年四月十七日退斎院、
永承六年十一月八日入春宮二十三、
延久元年■月三日丁卯為皇后、號中宮職、號西院皇后宮

賀茂斎院記

馨子内親王
後一条院第二皇女也。母中宮威子。藤原道長之女也。
長元四年十月廿九日馨子着袴。即授二品。十二月十六日卜定。
五年四月二十五日馨子禊東河入大膳職。
六年四月九日馨子禊東河入紫野院。
七年四月二十日賀茂祭。馨子輿過小一条桟敷前之間。以飛礫打御輿。仍遣検非違使捕之。
九年四月馨子出斎院。其後為後三条院皇后。号西院皇后。

栄花物語
(31・殿上の花見)

【馨子内親王の斎院卜定】
 中宮(威子)には女宮二人(章子内親王、馨子内親王)おはしまして、男宮のおはしまさぬことを口惜(くちを)しう、内(後一条天皇)にも宮(威子)にも殿ばら(頼通たち)も思しめす。(中略)
二の宮(馨子)またいとうつくしうて、さしすがひて(姉の章子内親王に劣らずお可愛らしくて)おはします。(中略)
 宮たち(章子・馨子)の、日にそへては、めでたくうつくしうおはします。大宮(威子)はもてかしづききこえさせたまひながらも、(皇子のないことが)心ゆかず口惜しう思ひきこえさせたまひて、心とけずおぼしめしたり。
 内の上(後一条)は、一品宮(章子)をかぎりなきものに思ひきこえさせたまへり。宮(威子)は、二の宮(馨子)をすさまじと人の思ひ申したりしも心苦しくて、人しれず譲る方なくて、あはれと思ひきこえさせたまへり。
 かく御心少しづつは方分かせたまへれど、上(後一条)も宮(威子)も劣らずいづれもいとかなしうしたてまつらせたまふ。藤壺(飛香舎、威子の住居)の東面(ひむがしおもて)は一品宮、西面(にしおもて)は二の宮の御方にしつらはせたまふに、一品宮の御方には、殿上人さながら御しつらひしさわぐ。姫宮(馨子)の御方には、后宮(威子)の宮司さながらさぶらい、しつらいさまざまにおかしくなん見えける。
殿上人を上は一品宮、姫宮の御方に分たせたまふ。内には女房を、宮分たせたまふ。心ごころに、一品宮に参らんなど、おほかたにもてたがはず申す人々ありけり。
 斎院は、村上の十の宮(選子内親王)、ゐさせたまひて年久しくならせたまひぬるが、おりゐさせたまひぬれば、二の宮(馨子)ゐさせたまふべし。帝(後一条)、后(威子)思しめし嘆かせたまふことかぎりなし。(馨子は)今年ぞ三つにならせたまひける。御髪(みぐし)、ほどよりも長くおはしましけり。定まらせたまひなば、え削がせたまふまじければ、削ぎたてまつらせたまふ。御髪いと長ううつくしうおはします。御心いとなつかしうて、内(父後一条)をも慕ひたてまつらせたまへば、いとあはれに思ひつききこえたまへり。このことを嘆き思しめすことかぎりなし。(中略)

 斎院につひに姫宮(馨子)定まらせたまひぬれば、帝(後一条)、后(威子)思し騒がせたまふことかぎりなし。このごろはことごとなく二所(後一条・威子)の御中(おんなか)におはします。十月に御袴着せたてまつらせたまふ。(中略)
 その日(内裏から出御する当日)になりては、上の御局にて二所(父帝と母后)御涙もとどめさせたまはず、ゆゆしくなん見えける。日暮らし二所の御懐におはしまさせたまふ。御乳母は、雅通の丹波中将の女の権中納言の君、あふぎの中納言の女中納言の典侍、兵衛督の北の方になりたる宮の内侍なり。(中略) 御車に奉るほど、侍従の内侍に抱かれさせたまひて、「これは乗らむ」とて、おりさせたまはざりければ、いかがはせんとて、宮(威子)の、御香の御衣を賜はせて、色聴(ゆる)させたまひて乗せさせたまふ。(中略) 中納言の典侍、丹波中将の君のさぶらふべきにてありつるを、かかれば中納言の典侍ぞ、御剣(みはかし)など取りて乗りたまふ。(中略)
(斎院は)三つにはおはしませど、御髪(みぐし)長く、例の六つばかりの子どもにておはします。このほど泣かせたまひて、えおりさせたまはぬこそ、児(ちご)には似させたまへりけれ。(中略)
 かくて、内の御乳母の大弐の三位と聞ゆるは、殿の上鷹司殿(源倫子)の御乳母子なり。その人の子に、丹波の守章任(のりたか)といふ人の家の三条なるに出でさせたまへり。榊などさすほど、ただのことには変りてをかしく見ゆれど、内にも宮にも思しめし入りて、御使(おんつかひ)隙(ひま)もなく奉れ、御有様もゆかしういみじく思ひきこえさせたまへれば、殿上人、上達部、われもわれもとまづ参りて、後になん内裏(うち)には参りける。上達部も殿上人も、参りたる人に「院にや参りたりつる」と問はせたまふに、「さもさぶらはず」と申すはすさまじく、「参りたり」と申す人には「誰にかあひたりつる。何ごとかおはしましける」など問はせたまふに、誰もいかでかは、まづ参らんと思はざらん。左衛門督(源師房)と聞ゆるは、故中務宮(具平親王)の御子なり、東宮権大夫かけたまへる、斎院の別当になりたまへる。長官には蔵人弁(源)経長、帥中納言と聞ゆる道方の子なり。六条左大臣殿(源重信)の御孫なり。
 四月には、御禊の日やがて(斎院は)大膳に入らせたまふ。(中略)
 八月三十日に中宮(威子)行啓あり。蘇芳の濃く薄き匂などに、草の香の御衣など奉る。いとおかしうなまめかしくめでたき御有様なり。月ごろの程に(斎院が)こよなくおとなびさせたまひにけるを、あはれに見たてまつらせたまふ。二日ばかりおはしまして還らせたまふを、いと飽かず口惜しう思しめさる。(中略)

 斎院(馨子)はまた、なつかしうおかしげにらうたげに匂やかに、撫子の花を見る心地ぞせさせたまへる。美作の三位(後一条乳母・藤原豊子)など、「またよき人あまた見たてまつれど、この御前たち(章子・馨子姉妹)のやうなるはおはしまさざりき。一条院の女二の宮(媄子内親王)、故女院(東三条院詮子)におはしまししかば見たてまつりし、それぞいとをかしげにおはしまししかども、この二所の御やうには、えおはしまさず」など、けちえんに褒めまうしたまふさま、ほこりかに愛敬づきたまへり。(中略)

 今年(長元六年)も十月に斎院に(中宮威子の)行啓あり。この度は五六日ばかりおはします。十月二十余日庚申なるに、上達部、殿上人参り、遊びの方の人も、文の道の人々も召し集め、残るなく参りて、歌詠み、遊びなどあり。下揩烽サの道の人は交りたり。(中略)
(中宮が)心のどかにもおはしますべけれど、飽かで還らせたまふも、かかる御有様は苦しげなりやとぞ。

栄花物語
(32・謌合)

【三人の一品宮と斎院】
 一条院の一品宮(脩子内親王)をば、入道一品宮と申す。皇太后宮(三条后妍子)のをば、東宮の一品宮(禎子内親王、東宮敦良親王妃)と聞えさす。当代(章子内親王)のと三人おはします。斎院(馨子内親王)は二品におはしませど、年官年爵(つかさかうぶり)賜らせたまふ。

栄花物語
(33・きるはわびしとなげく女房)

【後一条天皇・中宮威子崩御、馨子内親王の斎院退下】
 斎院(馨子)のおりさせたまひける夜の有様などの、いみじうあはれなりけるを、ある人、

 かけてだに思はざりけん去年(こぞ)の今日葛城山に跡絶えんとは

 四条中納言(藤原定頼)、

 世の中のあはれなるには大空の雲も涙を惜しまざりけり

などぞ聞ゆなりし。

(中略)

 斎院(馨子)は(後一条の崩御により)おりさせたまひにしかば、中宮(威子)におはします。今年ぞ八つにならせたまひける。御髪は膕(よぼろ=膝の裏)ばかりにて、(服喪の)黒き御姿いみじうあはれなり。(中略)
女院(上東門院)、見たてまつらせたまはんと聞えさせたまへば、八月つごもり方に渡らせたまふ。黒き御単襲(ひとへがさね)に、黒き御小袿奉りて、二所(章子・馨子)ながらおはします。
 今日ぞ、大宮(威子)も少し起き上らせたまひて見奉らせたまふ。(中略) この宮達の御事を、院(後一条)のいみじうさまざまに思ひきこえさせたまへりしものをなど、いみじうあはれにのみ思しめさる。(後一条が)一品宮(章子)の御事をいみじう思しめしたりしに、二の宮(馨子)のいみじうつききこえさせたまへりし、斎院にならせたまひにしかば、心苦しうあはれにゆかしう思ひきこえさせたまへりしものを、やがて見たてまつらせたまはずなりにしなど、思しめすも、いみじうあはれなり。この宮達をも見たてまつり果つべきにもあらずと、もの心細くのみ思しめさる。御心と沈みまさらせたまひつつ、世を厭はせたまふ御心深し。「一品宮はやがて院(上東門院)におはしますべく」など申させたまふにも、斎院の御事をぞ(誰に養育を託したらいいのか)また心苦しう思しめしける。(中略)
(章子・馨子姉妹は)うちすがひえもいはずめでたくおかしげにて、御年のほどよりも御髪は長ううつくしうて、黒き御衣奉りつつおはします。(中略)
 斎院(のお伴)には、中納言の典侍、侍従の命婦、出羽弁などさぶらふ。故院の人々のまじりてさぶらふを聞かせたまふにも、いみじうあはれに思しめさる。三四日ばかりありて、帰り渡らせたまひぬ。(中略)

 九月六日(中宮威子が)うせさせたまひぬれば、言ひやらん方なくいみじ。宮々(章子・馨子)の幼き御心地どもにも思しまどひ、恋ひまうさせたまへる、いみじうあはれなり。(中略)
 十月二十一日、宮々(章子・馨子)は院(上東門院彰子)に渡したてまつりたまひつ。(後略)

栄花物語
(34・暮まつほし)

【両親没後の馨子内親王】
 院(上東門院御所)の西の対の南西かけて、一品宮(章子)おはします。北東かけて斎院(馨子)はおはします。いとうつくしげにて、鈍色(にびいろ)の御衣透き透きなるに、いと黒き御衣重ねて奉りて渡らせたまへる、いとあはれなり。御前の庭曇りなきに、月の明きをながめて、昔思い出でまゐらする人なるべし、

 曇りなくたづねゆかばや月よりも明き蓮(はちす)に君を住ませて

など、忘るる世なく恋ひ忍びまゐらす。(中略)
 九月までは、(母威子の喪中なので)宮たちなほ黒くておはします。(中略)

 八月に、内(後朱雀)の一の宮(親仁親王=後冷泉)、御元服せさせたまひて、東宮に立たせたまふ。(中略) 京極殿の寝殿に、東面には一品宮(章子内親王)、北面には院の御前(上東門院彰子)、斎院(馨子内親王)とおはしまいて、西の対に東宮の御しつらひはしたり。(中略)

(母威子の)御服はてて、一品宮、斎院の御髪削がせたまふ。殿(頼通)ぞ剃きたてまつらせたまふ。(中略) 斎院のいと児(こ)めかしく、らうたげにうつくしうおはしますを、さまざまにありがたく見たてまつらせたまふ。故宮(中宮威子)、故院(後一条)の御事を思しめせば、この殿ばら(頼通たち)もおろかにえ思ひきこえさせたまはず。(中略)

 六月廿七日、内(内裏)焼けぬ。(中略) 前の斎院(馨子)は、故宮(威子)の御処分なる小二条殿造り改めて渡らせたまひにき。(中略)

 一品宮、斎院に露の御事もおはしませば、上達部殿上人いみじうまいり、殿(頼通)、内の大殿(教通)よりはじめ奉りて参らせたまへば、「めでたうおはします帝(後一条)の御名残は、かくこそおはしましけれ」とぞ人申ける。

栄花物語
(36・根合はせ)

【馨子内親王、東宮尊仁親王の妃となる】
 上東門院は、東宮(尊仁親王=後三条)に斎院(馨子)参らせ奉らせたまひてき。そのほどの御有様、殿(関白頼通)たちゐあつかひたてまつらせたまふ。右の大殿(右大臣教通)・内の大殿(内大臣頼宗)、皆同じ心に参り仕うまつらせたまふ。故院(後一条)の御事をおろかならず思すなるべし。

栄花物語
(37・煙の後)

【馨子内親王、男宮と女宮を産むが夭折する】
 東宮(尊仁)の斎院(東宮妃・馨子)は、男宮、女宮生みたてまつらせたまひしかど、皆うせさせたまひにしかば、あさましきことを思し嘆かせたまふ。(中略)

 東宮(尊仁)の斎院(馨子)ただならず(ご懐妊に)ならせたまひぬ。いかがと思しめして、御祈りなどせさせたまふ。この院の御後見は源大納言(師房)、昔のままに仕まつらせたまふ。(中略)
 斎院男御子生みたてまつらせたまへれば、あいなく世の人喜び申す。殿(頼通)よりはじめたてまつり、殿ばらもおぼし喜ばせたまふ。(中略) 斎院には、御乳母われもわれもと参る。(中略)
 若宮生れさせたまひてといふにうせたまひぬ。あさましき事を思しめし歎く。世にも口惜(くちを)しがり申す。かかるをりなれば、内の大殿(内大臣師実)の七夜(息子師通の誕生祝い)、忍びやかにて、遊びなどもなし。(師通の)御五十日(おんいか)、百日(ももか)などもめでたくて過ぎゆくにつけても、若宮の御事ぞ口惜しかりける。

栄花物語
(38・松のしづえ)

【後三条天皇即位・馨子内親王立后。譲位後の出家、後三条院崩御】
 内裏(うち)造り出でて入らせたまふ。中宮(馨子)は弘徽殿におはします。(中略) 中宮は登花殿に、五節殿かけてぞおはしましける。やむごとなく心苦しく思ひ申させたまへり。御かたち、御心いとめでたくおはします。(中略) 弘徽殿・登花殿の細殿には、萩、女郎花の几帳、色々に押し出されたるが、上の御局より長々と見渡されたる、絵にかきたる心地していとをかし。

 四月二十九日(後三条院が)御髪(みぐし)下ろさせたまふとののしるに、中宮(馨子)も、何か一日にてもただのさまにてあるべき(一日でも院に遅れて出家せぬままでいられようか)」とて、尼にならせたまひぬ。かくと聞かせたまひて、女院(陽明門院)にも、いとあはれなりと思しめしたり。夢の心地のみして、いみじき御有様なり。
 つひに五月七日(後三条院は)うせさせたまひぬ。宮々、女院の思しめしまどはせたまふさまかぎりなし。

栄花物語
(39・布引の滝)

【伯父頼通・祖母上東門院彰子の死去】
 大女院(彰子)をば上東門院とぞ、男などは申しける。又このごろおはします所に従ひて、東北院とも聞えさす。
 宇治殿(頼通)この春うせたまひにしをおぼし嘆かせたまひしこと、おろかならず。御心地うちはへ悩ませたまへば、女院(章子)渡らせたまへり。この院をば二条院とぞ聞えさせける。苦しげにおはしませば、いとあはれに思しめす。夜もすがらいと苦しうせさせたまへば、三四日ばかりおはします。
皇后宮(馨子)、「渡らせたまはん」と申させたまへば、さらんをりだに御対面あるべく思しめせど、旅所におはしませば、「狭くてえ二所はおはしまさじ」とあれば、口惜しく思しめす。(中略)

 女院(彰子)、つひに十月三日うせさせたまひぬ。関白殿(教通)、「いとあはれに、ことわりの御年のほどなれど、また誰にものをも申しあはせて過ぐさんずらん。何ごとも院に参りて申さんとこそ思ひしか。老の末にさまざまかくうち捨てられたてまつりぬること」と、泣かせたまふ。二条院(章子)、皇后宮(馨子)など、心細くあはれに思し嘆かせたまふ。

栄花物語
(40・紫野)

【二条院章子内親王、父後一条天皇の供養を行う】
 二条院(章子)、故院(後一条)の御墓所に御堂建てさせたまひて、菩提樹院とて、東山なる所に、三昧堂建てられたる傍に、御堂建てさせたまひて、御八講・五十講などせさせたまふ。(中略)
 皇后宮(馨子)よりもゆかしがり奉らせたまふ、理(ことわり)なり。

大鏡
(太政大臣道長)

【後一条天皇・中宮威子の崩御】
 見聞きはべりしは、後一条院、長元十年四月十七日亡せさせたまへる。保天下(てんかをしろしめすこと)、二十一年。そのほど、いらなく悲しきほど多くはべりき。中宮(威子)はやがて思し召し嘆きて、同じ年の九月六日亡せさせたまひにし。上東門院(彰子)思し召し嘆きしかど、これにも後(おく)れたてまつらせたまひて、一品の宮(章子)、前斎院(馨子)こそは、かしづきたてまつらせたまひしか。

今鏡
(2・子の日)

 長元二年二月の二日、中宮(威子)また姫宮(馨子)生みたてまつらせ給へり。この姫宮は後三条院の后におはします。二人の姫宮たち(章子、馨子姉妹)二代の帝の后におはします。いとかひがひしき御有様なり。

今鏡
(4・藤波)

 入道おとど(道長)の第四の御むすめ、後一条院の中宮威子と申しき。(中略)
 この后の生みたてまつりたまへる姫宮、章子内親王と申す。二条院と申す、この御事なり。(中略)
 馨子の内親王と申すも、また同じ御腹におはします。
 長元四年に賀茂の斎院(いつき)にて、同九年に出でさせ給ひて、永承六年十一月、御三条院東宮におはしましし、女御に参らせ給ひき。御年二十三。
承保元年六月二十二日皇后宮に立ち給ふ。
延久五年四月二十一日御髪おろさせ給ひき。院(後三条)御髪おろさせ給ひし同じ日、やかて同じやうにならせ給ひし、いとあはれに契り申させ給ひける御宿世なり。后の位はもとに変らせ給はず。

古事談
(1・王道后宮 73)

 白川院は、延久四年十二月八日践祚<御年二十>。同二十九日即位<大極殿>
 同五年四月七日、太上皇宮に行幸して、聖躬不予なるを訪ね奉る。同二十一日、太上皇(後三条天皇)御悩に依りて出家入道す。此の日、中宮(馨子)【後朱雀院の宮。御所は陽明門院】【西院皇后宮と号す】同じく落飾して尼と為る。(後略)



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