←前

戻る

次→ 



21代斎院 佳子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
かし よしこ 二品
両親 生年月日 没年月日
父:後三条天皇(1034-1073)
母:東宮妃藤原茂子<贈皇太后>
  [滋野井御息所](1062没)
天喜5年(1057) 大治5年(1130)7月25日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
後三条(1068〜1972,父) 卜定:延久元年(1069)10月28日
初斎院:不明(延久2年(1070)か)
本院:延久3年(1071)4月?
退下:延久4年(1072)7月6日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
俊子(1056-1132,同母姉)
 [樋口斎宮]
 父:後三条天皇
 母:東宮妃藤原茂子
卜定:延久元年(1069)2月9日
初斎院:不明
野宮:延久2年(1070)
群行:延久3年(1071)9月23日
退下:延久4年(1072)12月4日
天皇(父)譲位

略歴:
 康平5年(1062)(6歳)6月22日、母茂子死去。
 治暦4年(1068)(12歳)4月19日、後冷泉天皇崩御、父後三条天皇践祚。


7月21日、後三条天皇即位。


8月14日、内親王宣下。
 延久元年(1069)(13歳)6月19日、三品に叙される。


10月28日、父後三条天皇の斎院に卜定。
 延久4年(1072)(16歳)7月6日、病によって退下。
 延久5年(1073)(17歳)5月7日、父後三条上皇崩御。
 大治5年(1130)(74歳)7月25日、仁和寺堂にて薨去。

号:富小路斎院
同母兄弟:聡子内親王(1050-1131,一品)
     女二宮(1052.1-1052.6,諱不明)
     白河天皇(1053-1129)
     俊子内親王(1056-1132,斎宮,二品)
     篤子内親王(1060-1114,22代斎院、堀河天皇中宮)
養子:覚行法親王(白河天皇皇子、甥)

斎院長官:源師賢 (延久3年(1071)4月26日同4年(1072)4月
     藤原公定(延久4年(1072)4月6日7月(退下))

後三条天皇第三皇女(※夭折した女二宮を加えれば第四皇女)。
 退下の後、二条富小路の邸宅に住んでいたことから「富小路斎院」と号した。
 斎院長官藤原公定は、17代娟子の斎院長官経家の子。

 後三条天皇=====藤原茂子
        │
  ┌────┬┴──┬────┬────┬───┐
  │    |   |    │    │   │
 白河天皇  聡子  女二宮  俊子  ◆佳子  篤子
                (斎宮)

 白河天皇の同母きょうだい5人(夭折した女二宮を含めれば6人)の中で、佳子内親王は長女聡子内親王(享年82)、兄白河院(享年77)に次ぐ74歳の長寿を全うした。歴代斎院の中で最長寿は25代禎子内親王の76歳だが、佳子内親王と35代礼子内親王の74歳がそれに次ぐ高齢である。なお70代まで生きた斎院は他に16代選子内親王18代娟子内親王(72歳)、20代正子内親王(70歳)を含めた合計6人で、比較的短命な平安時代の女性としては長寿が多い。特に斎王となった内親王は多くが独身であったため、出産で命を落とすこともなく、何よりも内親王として最低限の生活は保障されたであろうから、結果として長寿が多かったものと思われる。

 ところで姉妹4人の中で、長女聡子は父後三条院の崩御、また末娘の篤子も夫堀河天皇の崩御により出家した。聡子は出家後仁和寺を御所として「仁和寺一品宮」と称され(『今鏡』6・ますみの影)、大教院を造立している。一方、次女俊子(樋口斎宮)・三女佳子が出家したとの記録は見られないが、佳子は『中右記』に仏事の記録が見られ、また仁和寺の宝蓮院は佳子内親王の御願とされる(『御室相承記』『仁和寺諸院家記』)ほか、亡くなったのも「仁和寺堂(宝蓮院か?)」であったというので、いつからか長姉聡子と同じく仁和寺を御所としていたらしい。また俊子も『中右記』薨伝に写経を行ったことが記され「大善根人也」とされているので、晩年は二人とも当時の貴族女性の例に漏れず、仏事に専念する余生を送っていたことだろう。記録に残る消息は少ないが、院政を確立した白河院の妹として、院の庇護の下に何不自由ない生活が保障されていたに違いない。
 白河院が大治4年(1129)に崩御すると、その翌年に佳子内親王が亡くなり、さらに聡子内親王、俊子内親王と、姉妹たちも後を追うように相次いで世を去った。

参考論文:
・杉山信三「仁和寺中の内親王・女院御願の院家」
 (『院家建築の研究』p75-105, 吉川弘文館, 1981)
参考リンク:
『天皇皇族実録80.後三条天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※佳子内親王(後三条皇孫女)については67〜69コマにあり





【女二宮のこと】
『春記』によれば、東宮尊仁(後三条天皇)には永承7年(1052)1月頃に誕生、6月に夭折した「女二宮」がいたとされる。また『栄花物語』(巻37・けぶりの後)には「春宮大夫殿(藤原能信)の女御(茂子)」の子の内「女二の宮はうせさせ給ひにけり」とあるので、『春記』の女二宮を産んだ「御息所」は茂子と思われ、『後三条天皇実録』も茂子所生の「皇女某」として記載している。
 各系図等では、次女が俊子、三女が佳子、四女が篤子とされるが、正確には茂子所生の子女は第一子聡子の次が女二宮で、その後に貞仁、三女俊子、四女佳子、五女篤子ということになろう(「女二宮」は父後三条の東宮時代に夭折しており、親王宣下は受けていない。このため「内親王」とはなっておらず、後三条即位後に子女が親王宣下された時には俊子以下の妹三人が順序繰り上げになったものか)

参考リンク:
『天皇皇族実録80.後三条天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※「皇女某(女二宮)」については天皇皇族実録80の61コマにあり





【大雲寺の伝承】
 京都府岩倉の紫雲山大雲寺に、佳子内親王の病にまつわる伝承がある。
 大雲寺の『御香水之由来(おんこうずいのゆらい)』によると、後三条天皇の第三皇女は十八歳の頃に心神に不調をきたし、長い髪を乱して帳に隠れ、誰とも言葉を交わさなかった。しかしある時、岩倉大雲寺の観音と閼伽井の水が病に効くという鴨皇太神宮の神託があり、帝の命で霊泉の水を毎日飲ませ観音に祈願したところ、程なく皇女の病は平癒したという。この逸話から岩倉は日本における精神医療発祥の地として、研究書や論文等でしばしば取り上げられている(中村治「精神病者預かりを可能にしたもの」)
 なお岩倉は古くから諸病治癒で信仰を集めており、大雲寺の霊泉や滝の効能を説く記述は古い文献にも見られるが、精神医療に関する記述は明治以降に限られるという(小林丈広「近代的精神医療の形成と展開:岩倉の地域医療をめぐって」)。また平安時代の皇族では冷泉天皇皇后昌子内親王が大雲寺に縁の深い人物として知られるが、佳子内親王については病で斎院を退下したとされる以外では特に記録は残っておらず、また佳子18歳の延久6年(1076)には父後三条は既に崩御後だった(※後三条は延久5年(1075)5月7日崩御)。このことから見て、佳子の病平癒の伝承も後世の創作である可能性が高い(特に江戸時代中期以降、大雲寺の参詣者に精神病の患者やその家族が増加したことが記録から知られるので、そうした精神医療信仰が根付いてゆく中で生まれたものと思われる)
 ところで平安時代の皇族には精神病患者とされる人物が何名か存在しており、上記の昌子内親王の夫冷泉天皇がとりわけ有名だが、斎院にも後朱雀天皇皇女禖子内親王(19代斎院、佳子の叔母)がいる。ただ、禖子の病は終生治癒しなかったと『中右記』にあることから、病平癒の霊験を宣伝するには適切ではなく、さりとて著名な人物に仮託するわけにもいかなかったのだろう。よって父後三条は英明な君主として知られるが、自身は直系の子孫もおらず無名に近い佳子内親王が選ばれたものと思われる。また神託を下したのが「鴨皇太神宮(=賀茂神社)」であるとされるのも、佳子が賀茂斎院であったことから逆に付加されたのかもしれない。

参考図書:
・呉秀三『我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設』(1920)[国会図書館デジタルコレクション全文あり]※大雲寺と佳子内親王については100コマ目に記載
・加藤伸勝『地域精神医療の曙』(金芳堂, 1996)『御香水之由来』写真・翻刻掲載
参考論文:
・小林丈広「近代的精神医療の形成と展開−岩倉の地域医療をめぐって」[機関リポジトリあり]
 (『世界人権問題研究センター研究紀要』(3), p195-216, 1998)
・中村治「精神医療の流れと洛北岩倉―第二次世界大戦まで―」[機関リポジトリあり]
 (『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』(53), p21-35, 2005)
・中村治「精神病者預かりを可能にしたもの」
 (橋本明『治療の場所と精神医療史』p183-210, 日本評論社, 2010)
・河東仁「岩倉大雲寺妙見の瀧における精神医療をめぐって」[J-STAGE全文あり]
 (『宗教研究』86(4), p1082-1083, 2012)
関連リンク:
大雲寺公式ホームページ





後冷泉天皇
史料 月日 記述
扶桑略記
十三代要略
ほか
康平5年
(1062)
6月22日 【母藤原茂子卒去】
『扶桑略記』
 皇太子妃藤原茂子薨。中納言公成女。貞仁親王母也。

『十三代要略』
 太弟妃藤原茂子卒。
後三条天皇
史料 月日 記述
扶桑略記
本朝世紀
十三代要略
ほか
治暦4年
(1068)
8月14日 【皇女佳子、内親王宣下】
『扶桑略記』
(前略)同日。天皇男女皇子等爲親王。

『本朝世紀』
 内大臣(源顕房)於仗座被下女親王四人宣旨。<聡子。俊子。佳子。篤子。>

『十三代要略』
(前略)此日。男女皇子爲親王。
扶桑略記 延久元年
(1069)
6月19日 【佳子内親王、三品直叙】
 第一内親王聡子叙一品。給千戸封邑并年官年爵。俊子内親王叙二品。佳子、篤子両内親王各叙三品。
十三代要略
帝王編年記
延久元年
(1069)
10月28日 【佳子内親王、賀茂斎院卜定】
『十三代要略』
 後三条院 諱尊仁(中略)
  佳子内親王 母同(藤原茂子)
  延久元年六月十九日。三品。
  同年十月廿八日。為賀茂斎院。

『帝王編年記』
(後三條院)
 齋院正子内親王<如故>
  佳子内親王<帝第三女 延久元年十月廿八日卜定十三>
扶桑略記 延久元年
(1069)
11月26日 【封戸二百戸を加賜】
 二品俊子内親王。三品佳子内親王。加別封各二百戸。
弁官補任 延久3年
(1071)
4月26日 【源師賢、斎院長官に任命】
(延久三年)
左少弁 正五位下 源師賢<木工頭、四月廿六日、兼斎院長官>

この時の長官任命は、斎院の本院入りに伴うものと思われる。
公卿補任
弁官補任
本朝世紀
延久4年
(1072)
4月6日 【源師賢、斎院長官を辞任。藤原公定、斎院長官に任命】
『弁官補任』
(延久四年)
左少弁 正五位下 源師賢<木工頭、四月、辞斎院長官>

『公卿補任』
(応徳三年)
參議 正四位下 同(藤原)公定<三十八>(中略)
<同(延久)四四六任齋院長官。同十二月八日春宮權亮(散位前齋院長官)。(後略)>

『本朝世紀』
(康和元年7月1日条)
(前略)此日。參議從三位行皇太后宮權大夫兼美作權守藤原朝臣公定薨。(中略)
(延久)四年四月六日任齋院長官。七月停長官。依齋王退也。(後略)
扶桑略記
本朝世紀
ほか
延久4年
(1072)
7月6日 【佳子内親王、斎院退下】
『扶桑略記』
 賀茂斎内親王(佳子)依病退出本院。

『本朝世紀』
(康和元年7月1日条)
(前略)此日。參議從三位行皇太后宮權大夫兼美作權守藤原朝臣公定薨。(中略)
(延久)四年四月六日任齋院長官。七月停長官。依齋王(佳子)退也。(後略)
白河天皇
史料 月日 記述
水左記 承暦元年
(1077)
12月18日 【法勝寺供養。白河天皇行幸】
 快晴、都無片雲、今日法勝寺供養也、辰剋有行幸彼寺、陽明門院、中宮(藤原賢子)、一品宮(聡子内親王)、前齋宮(俊子?)、前齋院(※)今暁令渡給云々、予依爲服者不供奉行幸、(後略)

当時前斎院は佳子・篤子の2名がおり、どちらかは不明(あるいは両方か)。
水左記 承暦4年
(1080)
8月14日 【佳子内親王栄爵】
(前略)
未剋許頭辨來下宣旨七枚、(中略)
 佳子内親王被申藤原家貞榮爵事、仰、依請、
水左記 承暦4年
(1080)
10月23日 【東宮御所閑院で火災】
(前略)子剋許當坤方有燒亡、乍驚馳赴之處、下人云、東宮御所閑院也者、禰以●參、先之宮(東宮実仁親王?)并一品宮(聡子)二宮(善子内親王?)女御(藤原道子?)前齋院(※)令渡南御堂給也、此間博陸(関白藤原師実)以下參入人々濟々、于時堀河院爲皇居、依炎氣人々又以參内、然而炎不及四隣、■■予歸、于時雨脚滂沱、

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
翌日東宮実仁らが「前斎院冷泉院富小路(御所)」に渡御しており、よってこの前斎院は佳子内親王か。
また「二宮」については善仁親王(堀河天皇)の可能性もあるが、「女御」と共に名前が挙げられていることから、「女二宮」善子内親王とその母の女御藤原道子と思われる(または「三宮」の誤りで輔仁親王の可能性もあり、とすると「女御」は実仁・輔仁の母源基子か)。
水左記 承暦4年
(1080)
10月24日 【東宮実仁と一品宮(聡子)、前斎院(佳子)冷泉院富小路へ渡御】
(前略)
此日東宮(実仁)并一品宮(聡子)令渡前齋院(佳子)冷泉院富小路給云々、或人云、御渡之間、右大臣(藤原俊家)、内大臣(藤原能長)、大夫(藤原実季)、權大夫(源季宗)之外上達部不■云々、但右府御渡以前被退出了、内府依兼傳被候御車後、予依無催不參也、
堀河天皇
史料 月日 記述
中右記 寛治6年
(1092)
4月1日 【前斎院(佳子)の二条富小路第焼亡】
 今日午後許二条富小路前斎院(佳子)宅焼亡。
鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記
御室相承記
仁和寺諸院家記
仁和寺内諸堂記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月27日 【前斎院(佳子)仁和寺小堂を供養】
『中右記』
(前略)今日前斎院(佳子)供養仁和寺中小堂(宝蓮院)云々、覺■■[意權]大僧都爲導師、讃衆十六口云々、

『御室相承記』
(四・高野御室)
寶蓮院事、
 無品佳子内親王御願、長治三年二月廿七日<今年四月九日改元嘉承、(右傍書)>庚寅、供養、

『仁和寺諸院家記』(※『大日本史料』による)
(山城/寶蓮院)
古徳記云、寶蓮院齋院佳子内親王御願、御三條[院脱カ]御女、號富小路齋院、檜皮葺三間四面堂、安金色丈六阿彌陀、長治三年二月廿七日、庚寅、供養、大阿闍梨覺意僧都<此高野御室(右傍書)>、色衆十六口、

『仁和寺諸堂記』(※『大日本史料』による)
(仁和寺記録十所收/寶蓮院)
本者稱齋院御堂、何時齋院哉、可尋之、中古以來號寶蓮院、覺成僧正正補別當被沙汰之時、始被號此名也、當時者前大僧正覺教沙汰也、寺領四五所有之、
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月25日 【前斎院(佳子)内裏に参入、輦車を聴される】
 今夜前斎宮[院]佳子被入内、是後三条院第二[三]女也、依為故女院(郁芳門院)養母、被入内也、蔵人尹通仰輦車宣旨云々。
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月28日 【前斎院(佳子)退出】
 今夜前斎宮[院]従内被退出云々。
殿暦 永久2年
(1114)
12月25日 【前斎院(佳子)内裏に参入】
 今夜前斎院<尼院(聡子内親王)御イモヲトナリ>入内云々、<故女御産母云々>
中右記 永久6年
[元永元年]
(1118)
1月16日 【前斎院佳子年給】
 天晴、除目初夜也、(中略)
又前齋院佳子巡給申文、相具院宮
<年給申文ハ可付職事、(右傍書)>
當年給申文宰相相持參歟、頗不得心事等多出來也、(後略)
中右記 元永2年
(1119)
10月4日 【御八講五巻。前斎院より捧物】
 天晴、御八講五巻也、(中略)
舞間被置捧物於佛前南廣庇、<行香机暫立長押上、>太后(藤原寛子)<忠長朝臣、>一條殿(藤原全子)<(藤原)宗能朝臣、>前齋院(佳子または禎子内親王?)<資信、>仁和寺宮(聡子内親王<資信、>殿下(藤原忠実)、北政所(源師子)<(源)師俊、>右大臣(源雅美)<家定朝臣、>内大臣殿(藤原忠通)<成道朝臣、>同上<重通、>、捧物等、殿上人取之置、又上達部捧物、諸大夫取之置、殿上人諸大夫自各取我捧物運置也、(後略)
崇徳天皇
史料 月日 記述
中右記 大治5年
(1130)
7月25日 【佳子内親王薨去】
 前齋院佳子薨仁和寺堂、<七十四、>後三條院第三女子也、



史料 記述
十三代要略
後三條院
 延久元年 九月廿八日。卜定賀茂斎院佳子内親王。
 延久四年 七月六日。賀茂斎王(佳子)依病退出。
(皇女)
 佳子内親王 母同(贈從二位藤原茂子<權大納言能信女。>)。
  延久元年六月十九日。三品。
  同年十月廿八日。爲賀茂齋院。
一代要記
後三條院天皇
(賀茂)
 佳子内ヽヽ[親王]
 <帝二女、延久元ー卜定、>
帝王編年記
後三條院
(皇女)
 佳子〃〃〃[内親王]<賀茂齋院/号冨小路齋院>
(齋院)
 佳子内親王<帝第三女/延久元年十月廿八日卜定十三>
二中歴
(齋院)
 佳子<後三條女延久元年 號富小路齋院>
皇代暦
後三條天皇
(齋院)
 佳子内親王 帝第三女
本朝皇胤紹運録
(後三條院子)
佳子内親王[齋院二品。號富小路。母同(能信卿女。實公成卿女。)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
佳子内親王<三品。> 延久元年卜定。後三條院第六御女。母贈皇大后茂子。能信卿女。實公成卿女。富小路齋院。
賀茂斎院記
佳子内親王
後三条院第六皇女也。母贈皇太后茂子。贈太政大臣能信之養女也。<実中納言公成之女也。>
延久元年卜定。
号富小路斎院。
栄花物語
(38・松のしづえ)
【佳子内親王、斎院退下】
 今の斎院(佳子内親王)も、わづらはせたまひて、おりさせたまひぬれば、女院(陽明門院禎子内親王、佳子の祖母)におはしましつる四の宮(篤子内親王、佳子の同母妹)ゐさせたまひぬ。
今鏡
(6・ますみの影)
 白河院一つ御腹の御妹は、仁和寺の一品宮とて、近くまでおはしましき。聡子内親王と申すなるべし。(中略)
 次に賀茂の斎院佳子の内親王と聞え給ひし、御悩みによりて、延久四年七月にまかりいで給ひき。富の小路の斎院とぞ申すめりし。(後略)
御香水之由来(おんこうずいのゆらい)
 北岩倉大雲寺御香水(みこうずい)の由来を尋奉るに、人皇(にんのう)七十一代の帝後三條院第三の皇女(佳子内親王)、御年二九(じゅうはち)の御頃より御心地(みここち)常ならず在(まし)まし、丈(たけ)なる御髪(おぐし)をも乱し、只帳中(ものかげ)にかくれ給ひ、近侍(おそば)の女房はいふに及はず、御父帝(おんちちみかど)にさへ御物(おんもの)がたりをもなし給はず、又或ときはさめざめ訳なき事を乃たまひ物に乱れ給ふ御有さま、申(もうす)も恐(こわ)き御事なり。
帝いたく叡心(みこころ)を悩させ給ひ、諸社諸山へ御立願あらせられ給うに、一夜(あるよ)鴨皇太神宮(かものみやうじん)の神託(おつげ)ありけるは、京洛(みやこ)の北壱里余(いちりあまり)に靈山あり、其奥に一ツ乃池あり、此地(このところ)跋難陀龍王(はつなんだりゅうおう)佛法興隆(ふつほうこうりゆう)衆生済度のおんために観音薩●守護(かんのんさつたのまもり)のため來向あること久しかるがゆえ、此池水(いけみず)を服まんには、心の乱(みだれ)たる又ハ眼疾(めのやまひ)の悩み忽(たちまち)平癒するに疑ひあるべからずと告給ふ。
帝神詫(しんこく)をかしこみ給ひ、近侍(おそば)に勅(めひ)じて北山を尋させ給ふに、當山観音院の西谷に不増不滅の靈池三井寺閼伽井(あかい)の水源(みなもと)あり。この由(よし)奏し奉るに、帝叡喜(えいき)斜(ななめ)ならず、日々にこの靈泉(みづ)を敬服(いたたか)せしめ、昼夜観世音に御祈誓(ごきせい)まいらせたれば、不測(ふしぎ)なるかな皇女の御心日々に清々しく不日(ひならず)に御平愈(ごへいゆ)あらせらる。帝叡慮のあまりに、若干(あまた)の荘園(てんはた)を御寄附あらせられ、堂塔修覆を加(くわへ)しめ給ふ。尓来(しかるに)このこと京洛(みやこ)はいふにおよばず、百里の遠き国々までも、狂気の者眼病の族(やから)賎貴輩(たふたきいやしき)の差別(わかち)なく、一心に信仰祈願のともからは不測(ふしぎ)の利益を蒙(かふむ)らざるはなし。此皆諸人のしるところながく、猶其由来を恐敬し謹で参拝なし悪疾業病の患(わづらい)をまぬかれ給はんを。敬白(つつしんでもうす)

岩倉山大雲寺    
執事   


●=埵(土偏+垂。こちらを参照(字源))

※加藤伸勝「大雲寺の草創」(『地域精神医療の曙』金芳堂, 1996)による(注:句読点・改行は管理人の判断で追加した)


 ←前

戻る

次→