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初代斎院 有智子内親王


名前の読み(訓) 品位
うちこ 二品
両親 生年月日 没年月日
父:嵯峨天皇(786-842)
母:交野女王<従五位上>
大同2年(807) 承和14年(847)10月26日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
嵯峨(809〜829,父)
淳和(823〜833,叔父)
卜定:弘仁元年(810)
   または同九年(818)?
退下:天長8年(831)12月8日
老病
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
仁子(889没,異母姉妹)
 父:嵯峨天皇
 母:女御大原浄子
卜定:大同4年(809)8月11日
野宮:不明
群行:弘仁2年(811)9月4日
退下:弘仁14年(823)4月16日
天皇(父)譲位
氏子(885没,従姉妹)
 父:淳和天皇
 母:高志内親王
卜定:弘仁14年(823)6月3日
野宮:天長元年(824)8月14日
群行:天長2年(825)9月
退下:天長4年(827)2月26日
疾病
宣子女王(従姉妹)
 父:仲野親王
 母:菅野氏
卜定:天長5年(828)2月12日
野宮:不明
群行:天長7年(830)9月6日
退下:天長10年(833)2月28日
天皇譲位

略歴:
 弘仁元年(810)(4歳)史上初の賀茂斎院に卜定。


※同九年(818)とする史料あり。
 弘仁14年(823)(17歳)2月28日、三品に叙され封百戸を賜る。


4月16日、父嵯峨天皇譲位、叔父淳和天皇践祚。


4月27日、淳和天皇即位。
 天長8年(831)(25歳)12月8日、病のため斎院を退下。
 天長10年(833)(27歳)3月6日、二品に昇叙。
 承和元年(834)(28歳)2月3日、伯耆国会見郡の荒廃田百二十町を賜る。
 承和14年(847)(41歳)10月26日、薨去。

斎院長官:紀御依(『雑言奉和』)


嵯峨天皇第二(?)皇女。
帝王編年記』『中右記』(大治2年4月6日条「斎院次第」)は第九皇女とするが、所京子氏は第二皇女であろうとする(「有智子内親王の生涯と作品」)。また皇女研究会は、当時の皇子女の序列は年齢順とは限らないことから、第一皇女の可能性も考えられると指摘する(「皇女総覧(六):有智子内親王」)。ただし、大原浄子所生と伝えられる仁子内親王が大同4年(809)斎宮に卜定されていることから、有智子よりも年長であった可能性もあるため、有智子は業子、仁子に続く第三皇女であったかもしれない(もしくは仁子が第一皇女、有智子が第二皇女か?)。いずれにせよ、嵯峨皇女の中でも年長の方であったことは確かであろう。
 母方の祖父山口王は舎人親王の孫、淳仁天皇の甥にあたる。

       ┌────────────────┐
       |                |
      天智天皇              |
       |                |
       ├───────┐        |
       |       |        |
      志貴皇子   新田部皇女=====天武天皇
       |            |
       |            |
      光仁天皇         舎人親王
       |            |
       |            ├─────┐
       |            |     |
       |           淳仁天皇  三原王
       |                  |
       |                  |
      桓武天皇=====藤原乙牟漏     山口王
       |    |             |
  ┌────┤    ├────┐        |
  |    |    |    |        |
 淳和天皇 仲野親王 平城天皇 嵯峨天皇=====交野女王
  |    |         |    |
  |    |         |    |
  氏子  宣子女王       仁子  ◆有智子
  (斎宮)  (斎宮)       (斎宮)


 初代賀茂斎院。漢詩に優れた才媛として知られ、『経国集』『雑言奉和』等に10首が伝わる。弘仁14年(823)、父嵯峨天皇が有智子の山荘(斎院御所か?)へ行幸した際に「春日山庄」の漢詩で嵯峨天皇を感嘆させ、当時の皇女としては異例の三品を賜った。
 斎院退下の後は嵯峨の西に住み、そこで没したと伝えられる(『続日本後紀』)

 有智子の斎院卜定当時の『日本後紀』は現存せず、『一代要記』『皇代暦』『賀茂皇太神宮記』では弘仁元年(810)卜定とするが、『類聚国史』では弘仁9年(818)に斎院司設置とあり、正確な時期は不明である。これについては諸説あるが、笹田遥子氏は「元年」と「九年」は誤記しやすいこと等から、有智子の斎院卜定も弘仁9年かと指摘しており(「賀茂斎院創始年についての考察」)、その可能性は高いと思われる。また『平家物語』『賀茂皇太神宮記』等ではいわゆる薬子の変(平城太上天皇の変)をきっかけに嵯峨天皇が有智子を斎院に立てたとしており、『賀茂皇太神宮記』では弘仁元年四月としているが、詳細は定かでない。


 有智子内親王の墓所は、落柿舎の側(京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)とされる。
 ※京都市営バス【嵯峨小学校前】下車徒歩5分、または嵯峨野観光鉄道【トロッコ嵐山】徒歩8分。




有智子内親王墓所(2010年11月27日撮影)


参考論文:
・所京子「有智子内親王の生涯と作品」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』(12), p186-172, 1986)
 [機関リポジトリ全文あり]
 ※『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会, 1989)補訂収録
・皇女研究会「皇女総覧(六):有智子内親王」
 (『国文目白』(36), p156-166, 1997)
・榎村寛之「賀茂斎院の成立と特色:賀茂斎王と伊勢斎王」
 (『京都産業大学日本文化研究所紀要』(16), p94-140, 2010)
・久禮旦雄「賀茂斎院・伊勢斎宮の淳和天皇朝における存廃について:狩野本『類聚三代格』天長元年十二月二十九日太政官符の評価をめぐって」
 (『續日本紀研究』(409), p1-14, 2014)
・笹田遥子「賀茂斎院創始年についての考察」
 (『古代史の研究』(19), p36-54, 2015)

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録32.嵯峨天皇 巻2』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※有智子内親王については70〜72コマにあり





【嵯峨後宮の天武系氏族のこと】
 先行研究ではあまり注目されていないが、有智子内親王の外祖父山口王は天武天皇の曽孫にして聖武天皇の再従兄弟である。従って、有智子は当時の光仁・桓武を祖とする天智皇統の中で、母方から天武皇統の血を受け継ぐ数少ない皇女の一人であった(澁谷久美子「有智子内親王――人・時代・作品」)
 血筋だけを見れば山口王は皇族とはいえ三世王、その娘交野女王は四世女王にすぎないが、桓武の長男である平城天皇が延暦25年(806)に即位、当時唯一の天武皇統直系であった異母妹の朝原内親王(聖武の曽孫、前斎宮)を妃(ひ)とした(※但し結婚は即位以前か)のと同時期に、弟の嵯峨天皇(神野親王)も傍系とはいえ当時絶えかかっていた天武系の女王を妻とし、有智子を儲けていたのである(※神野親王の立太子は806年、翌807年に有智子が誕生した)。交野女王所生の子は有智子だけであったようだが、平城と朝原の間にはついに皇女さえも生まれなかった。そして大同5年(810)に起きた薬子の変で、嵯峨天皇側の勝利により天武系の血を引く内親王が初代賀茂斎院となったと伝えられるのは、果たして単なる偶然であろうか。
 仮に有智子の斎院卜定が弘仁9年(818)であったとすれば、有智子・正子以外にも候補となりうる皇女がいたと思われる(ただし多くは後に源姓を賜り臣籍降下した)。その中から嵯峨天皇が有智子に白羽の矢を立てたのは単に年長であったというだけではなく、天武系の内親王を斎王とすることに何らかの意図があった可能性が考えられる。

 ところで嵯峨天皇の皇女の中で、純子内親王・斉子内親王姉妹も母文屋文子が天武四世孫である(天武皇子長親王の子孫で、長親王の子智努王(文室浄三)と大市王が文屋真人を賜り臣籍降下、大市の孫が文子である。なお『日本紀略』によれば、770年の称徳女帝崩御の際に浄三・大市兄弟が皇嗣に推されたが、いずれも辞退している)。この二人が親王宣下されたことについて、皇女研究会は母方の曽祖父長親王が天武皇子であると同時に母は大江皇女(天智皇女)であり、天智天皇の血を引いていることを指摘している(「皇女総覧(13)純子内親王・齋子内親王(嵯峨天皇皇女)、同子内親王(淳和天皇皇女)」1999)。また宗子内親王も、系図は不詳だが母高階河子は姓から見て天武の長男高市皇子とその子長屋王の子孫と思われ、長屋王の母はこれも天智の娘御名部皇女(元明天皇の同母姉、文武天皇・元正天皇の伯母)である。
 そして有智子内親王も、高祖父舎人親王の母が天智天皇を父とする新田部皇女であった。有智子は母方から天智・天武両皇統の血を受け、しかも母方一族は皇族に留まっていた(※祖父山口王は764年の仲麻呂の乱による処罰で臣籍降下したが、771年に赦され皇族復帰している)、当時稀有な内親王だったのである。
 一方、光仁天皇の即位で皇統が天智系に移ったとはいえ、光仁没後に氷上川継の乱(782年)が起きたことからも伺えるように、桓武の治世始めはいまだ天武系を正統とする貴族も少なくなかった。そして桓武の長男平城天皇が内親王や藤原氏の有力な外戚を持つ妃との間に皇子女を持たなかったのに対し、同母弟の嵯峨天皇は皇后橘嘉智子や異母妹の高津内親王の他に天武系の氏族からも複数の妃を入れている。春名宏昭氏は、平城が自身を「生まれながらの天皇」と認識していたとするが(『平城天皇(人物叢書)』)、その正統な天皇たる平城から皇統を奪う結果となった嵯峨にとっては、父桓武と同様に自己の皇統の確立は疎かにできない問題であっただろう。

 桓武の後宮も妃・宮人とその子供たちの多さで知られるが、嵯峨が敏達・舒明系の橘氏・大原氏等と婚姻を結ぶだけでなく、さらに天武系氏族(=女系では天智系)も後宮に加えたのは、貴族層への配慮に加えて本来桓武嫡流ではなかった自身の皇統の権威付けを図ろうとしたものと思われる(中林隆之「嵯峨王権論―婚姻政策と橘嘉智子の立后を手がかりに―」)。とすれば、薬子の変を契機に始まったとされる「賀茂斎院」制度の創設や、その斎王として天武系妃所生の有智子を選んだのもまた、そうした嵯峨皇統の「権威付け」の一環ではなかったか。
 なお榎村寛之氏は、桓武皇后乙牟漏所生の三人(平城、嵯峨、高志)の中で皇族配偶者の出自が一番低いのは嵯峨であることを指摘しており、また嵯峨王権において伊勢斎王仁子内親王が特に役割を果たしていたようには見えず、重視したのは天皇祭祀たる賀茂祭に奉仕する賀茂斎王有智子内親王であったとする(「平安前期の王権構想と斎宮・斎院・斎女」)。ただし榎村氏は「何故斎院となるのが有智子でなければならなかったか」については触れていないが、のちに淳和天皇が伊勢斎王に両親共に皇族の氏子内親王(高志内親王所生)を入れたことに着目している。嵯峨の場合も同じ理由から、初代斎院に皇族女性を生母とする有智子が選ばれたのではないだろうか。
 また嵯峨にも高津内親王所生の業子内親王がいたが、業子は弘仁6年(815)に死去していた。有智子の斎院卜定が弘仁9年だとすれば、最も高貴な血筋の業子が既に亡き後であったため、業子に次いで皇統に近い女王所生の有智子が選ばれた可能性も考えられる(ただし業子の母高津内親王は妃となって程なく廃されたと伝わるので、廃妃所生故に業子ではなく有智子が選ばれたのかもしれない)

 ともあれ、嵯峨が天武系氏族の妃との間に儲けたのはいずれも皇女のみであった。仮に皇子が生まれたとしても、外戚となるには弱小であり、嵯峨も皇位継承者とする意図はなかったと思われる。しかし天武系の母を持つ皇女たち、それも女王を母とする有智子だけでなく純子・斉子・宗子の三名も内親王宣下されたのは、やはり母方の血筋が重んじられたこと、そしてそれが当時の貴族たちにも受け入れられた証左であろう。

(※数字は天皇の即位順、●は伊勢斎宮)

   ┌────────────────────┐
   |                    |
  38天智                   |
   |                    |
   ├──────┬─────┐       |
   |      |     |       |
  大江皇女   志貴皇子  新田部皇女===40天武===41持統
  (天武妃)    |          |     | (天智皇女)
   |      |     ┌────┤     |
   |      |     |    |     |
  長親王    49光仁   47淳仁  舎人親王  草壁皇子===43元明
  (天武皇子)    |          |         | (天智皇女)
   |      |          |    ┌────┤
   |      |          |    |    |
  文屋大市   50桓武        三原王  42文武  44元正
   |      |          |    |
   |      ├───┐      |    |
   |      |   |      |    |
 文屋久賀麻呂   |  51平城    山口王  45聖武
   |      |        (三長山口)  |
   |      |          |    ├────┬────┐
   |      |          |    |    |    |
  文屋文子===52嵯峨========交野女王 ●井上   不破  46孝謙・
       |  |     |        (光仁皇后) |   48称徳
   ┌───┤  |     |         |    |
   |   |  |     |         |    |
  純子  斉子  宗子   有智子       ●酒人  氷上川継
         (母高階氏)            (桓武妃)
                          |
                          |
                         ●朝原
                         (平城妃)

参考図書:
・春名宏昭『平城天皇(人物叢書)』
 (吉川弘文館, 2009)
参考論文:
・澁谷久美子「有智子内親王――人・時代・作品」
 (『日本文学ノート』(20)(42), p20-30, 1985)
 [国立国会図書館デジタルコレクション]
・皇女研究会「皇女総覧(13)純子内親王・齋子内親王(嵯峨天皇皇女)、同子内親王(淳和天皇皇女)」
 (『瞿麦』(11), p18-29, 1999)
・中林隆之「嵯峨王権論―婚姻政策と橘嘉智子の立后を手がかりに―」
 (『市大日本史』(10), p83-112, 2007)
 [機関リポジトリ全文あり]
・榎村寛之「平安前期の王権構想と斎宮・斎院・斎女」
 (『律令天皇制祭祀と古代王権』塙書房, 2020)





嵯峨天皇
史料 月日 記述
一代要記
皇代暦
賀茂皇太神宮記
弘仁元年
(810)

【有智子内親王、斎院卜定】
『一代要記』
(嵯峨天皇/賀茂)
 有智内親王
<帝第九女、弘仁元ー卜定、母正五下交野女王、從五上山口王女也、>
斎院始也、是興平城有隙御祈也、

『皇代暦』
(淳和天皇/賀茂)
 有智内親王 弘仁元年卜定

『賀茂皇太神宮記』
(前略)其頃先帝(平城上皇)内侍のかみ(藤原薬子)を後てうあいましまして、なにごとも此人の申さるゝにぞうちまかせ給ける。これハ宰相たねつぐ(藤原種継)のむすめなり。心さかしくたけだけしき男子にもまさりたり。おりにふれて先帝へ奏し給ひけるハ、いくほどなう御くらゐをさらせ給ふ事口おしさよ、玉躰御つゝがもましまさずして、いかでかくおぼし立けるぞとなげきかなしみ申給けれバ、先帝くやしき事におぼしめして、御くらゐにかへりつかせ給はむとの御用意ども侍りけり。内侍のかみよろこびて、先帝くらゐにつかせ給ハバ、われハ后にぞなるべしと、いさみをなし、せうとの兵衛のかみ藤原仲成といふ人を大將として、畿内の兵をめしあつめ、いくさをとゝのへられけるほどに、世「の」中さハぎのゝしりて、萬民たやすき心なかりけり。みかど(嵯峨天皇)此よしきこしめし、そのかみ神武天皇御宇に、天神饒速日尊御子宇麻志間見命と申神あり。外舅長髓彦といふ神、天神の御子に兩種いかでかあらむやとて、軍をおこしてふせぎたゝかふ。其いくさこハくして皇軍しばしば利を失うひぬ。邪神毒氣をはきしかバ、士卒みな病臥せりし時、八咫烏命くだり給ひて、皇軍の御前にかけり、また金色の靈鴟となりて、御弓のはづにとまり、其ひかり照かゞやけり。これよりして皇軍おほひに勝ぬ。宇麻志間見命、其舅長髓彦ひがめるこころをしりて、たばかり殺しつ。(嵯峨天皇は)かゝるためしおぼし召いださせ給て、賀茂皇太神へ勅使をたてられし御事也。御祈、ねがハくは、官軍に神力をそへられ、天下ぶゐに歸せしめ給へ。しからバ皇女を奉りて御宮づかへ申さすべしとぞ、勅願ふかく仰られける。去ほどに先帝ハ羣勢を具して、ならの都を御立ありて、東國のかたへ臨幸なる。これハ東國に都をつくりてすませ給ハんとの御用意なり。御門このよし聞しめし、坂上の田村丸を大將軍として、あまたの官軍をそへられけれバ、今度の御大事勅命辭がたきにより、同じて御社へ參り詣で、身のうきしづみこゝに究れりとて、祈念ふかく申、幣帛捧奉てのち、鈴鹿山に關をすへて、先帝の御幸ををし止らる。爰にして兩陣いどみ戰ひけるに、御めぐみのふかく神力をくハへ、數萬の軍兵に現じ、山もどうようする計にて、終に先帝平城天皇のいくさやぶれて、大將軍藤原仲成ハやにはにうたれにける。これを見ていもうとの内侍のかみ、みづから劔にあたりてうせ給ひぬ。たぐひすくなき事ども也。先帝ハまたもとの如く、ならのみやこにかへらせ給ひて、かすかなる御ありさまにてすみ給ふ。かくて世の中靜りしかバ、御門御宿願はたし給はんために、有智内親王と申姫宮を齋王になし給ひて、弘仁元年四月に賀茂皇太神へ參らせ給ふ。此れいをもて代々のみかど「の」御代はじめにハ、皇女を賀茂の齋にそなへらる。(後略)
年中行事秘抄 弘仁4年
(813)

【斎院司設置】
 四月 中午日 斎王禊事
 延暦十二癸酉。北野山中天皇行幸。而諸臣却奉后也。于時遭大火給。祈申。始奉鴨上下兩社大祭●。率供奉諸司。并奉斎内親王。又云。嵯峨平城有隙不穆。于時嵯峨祈祷有感。祠奉斎王云々。
弘仁四年。始置斎院司官職員。

●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源))
文華秀麗集 弘仁4年?
(813)

【嵯峨天皇、河陽宮へ行幸】
 「奉和春日江亭閑望一首」仲雄王
凝流派上思 降蹕對紅花
野甸宸哀遠 川皐睿望●
猿深雲樹峽 鶴立浪痕沙
古椽松蘿院 春窓楊柳家
水郷漁浦近 山館鳳庭遐
老圃鋤遲日 高帆艤早霞
岸陰生液乳 洲暖長蘆芽
絢服侍臣馬 垂鬟公主車
驛門臨▲陌 亭子隱高葩
幸ョ陪夫覽 還同星渚査

小島憲之氏、所京子氏は「垂鬟公主(=垂れ髪の幼い皇女)」を有智子であろうとする(小島『国風暗黒時代の文学・中(下)I』(塙書房, 1985)、所「初代斎院有智子の漢詩」)。当時有智子(7歳)以外に存在が確実な嵯峨皇女は業子内親王(7〜8歳?)、仁子内親王(7〜8歳?)、正子内親王(4歳)がいるが、業子は母高津内親王が既に妃を廃されていたと思われること、仁子は既に斎宮として伊勢へ下向していたこと、正子は幼すぎること等から見て、有智子の可能性が高いと思われる。

●=賖(貝+余。こちらを参照(字源))
●=逈(しんにょう+向。こちらを参照(字源))
類聚国史 弘仁9年
(818)
1月21日 【斎院司設置】
(職官十二 齋院司)
 始置斎院司。宮主一員。長官一員。次官一員。判官一員。主典二員。
日本紀略 弘仁9年
(818)
5月22日  始置斎院司宮主一員。長官一員。次官一員。判官一員。主典二員。
日本後紀
(類聚国史)
日本紀略
弘仁14年
(823)
2月28日 【斎院有智子内親王、三品に叙品】
『日本後紀』(類聚国史31,99)
 幸無品有智子内親王山荘、上欣然賦詩、群臣献詩者衆、賜禄有差、是日、内親王授三品、(後略)

『日本紀略』
 幸無品有智子内親王山庄。上欣然賦詩。群臣献詩者衆。賜禄。有差。是日。親王授三品。
淳和天皇
史料 月日 記述
類聚国史 天長3年
(826)
7月26日 【斎院司に賜田】
(職官十二 齋院司)
 攝津國垂水庄公田一町八段。賜斎院司。
類聚国史 天長8年
(831)
12月8日 【斎院有智子内親王退下】
(神祇五 賀茂斎院)
 替賀茂齋内親王。其辞曰。天皇<我>御命<尓>坐。掛畏皇大神<尓>申給<波久>。皇大神<乃>阿礼乎止売<尓><礼留>内親王(有智子)。齢<毛>老。身<乃><美毛><尓><弖>。令退出<留><尓>。時子女王<乎>。卜食定<弖>進状<乎>。參議左大辨正四位下藤原朝臣愛發<乎>差使<弖>申給<波久止>申。并奉幣。
類聚国史 天長8年
(831)
12月9日 【前斎院有智子、賀茂川で祓】
(神祇五 賀茂斎院)
 爲前賀茂齋内親王(有智子)相替。祓于鴨川。
仁明天皇
史料 月日 記述
続日本後紀 天長10年
(833)
3月6日 【有智子内親王、二品に昇叙】
 授三品有智子内親王二品。
続日本後紀 承和元年
(834)
2月3日 【有智子内親王、伯耆国の荒廃田を賜る】
 伯耆國會見郡荒廢田百廿町賜有智子内親王。
続日本後紀 承和14年
(847)
10月26日 【有智子内親王薨去】
 二品有智子内親王薨。遺言薄葬。兼不受葬使。内親王者。先太上天皇(嵯峨)幸姫王氏所誕育也。頻渉史漢。兼善属文。元爲賀茂齋院。
弘仁十四年春二月 天皇(嵯峨)幸齋院花宴。俾文人賦春日山庄詩。各探勒韻。公主(有智子)探得塘光行蒼。即瀝筆曰。
寂々幽庄水樹裏。仙輿一降一池塘。
栖林孤鳥識春澤。隠澗寒花見日光。
泉聲近報初雷響。山色高晴暮雨行。
従此更知恩顧渥。生涯何以荅穹蒼。
天皇歎之。授三品。于時年十七。是日。 天皇書懐。賜公主曰。忝以文章著邦家。莫將榮樂負煙霞。即今永抱幽貞意。無事終湏遺歳華。尋賜召文人料封百戸。天長十年叙二品。
性貞潔。居于嵯峨西庄屋。薨時春秋四十一。
(※原文は改行なし)
続日本後紀 嘉祥元年
(848)
8月16日 【仁明皇女親子内親王、伯母有智子内親王家の賜田を賜る】
 伯耆國會見郡路下十一條荒廢田百廿町。去天長十一年賜有智子内親王家。♀八十町賜親子内親王。



史料 記述
平家物語
(巻七・玄ム)
【薬子の変と賀茂斎院】
嵯峨皇帝の御時は、平城の先帝、内侍(ないし)のかみ(藤原薬子)のすすめによって世を乱り給ひし時、その御祈(おんいのり)の為に御門(みかど)、第三皇女有智内親王を賀茂の斎院にたて参らせ給ひけり。是斎院のはじめなり。
一代要記
嵯峨天皇
(賀茂)
有智内親王
<帝第九女、弘仁元ー卜定、母正五下交野女王、從五上山口王女也、>
斎院始也、是興平城有隙御祈也、

淳和天皇
(賀茂)
有智内親王
<嵯峨第九女、承和十四ー十月廿六日薨、<四十一、>>
帝王編年記
嵯峨天皇
(皇女)
有智子内親王<母交野女王從五位上山口■[王]女也始置賀茂齋>
(齋院)
有智子内親王<帝第九女弘仁九年正月十九日始置齋院/天長八年依病下給>

淳和天皇
(齋院)
有智子内親王<天長八年/依病下給>
二中歴
齋院<仁明以後>
 嵯峨天皇御時、以御女有智内親王始爲齋院云々、是興平城有隙御祈也、淳和御時天長八年、依病下給、此宮漢才堪作詩、又仁明天皇承和初、置齋院云々、高子是也、

(詩人歴・女)
 有智内親王<嵯峨御子>
皇代暦
嵯峨天皇
(賀茂)
 有智内親王 帝第九女

淳和天皇
(賀茂)
 有智内親王 弘仁元年卜定
本朝皇胤紹運録
(嵯峨天皇子)
(413)有智子内親王[二品齋院。始頗渉史經。兼屬文。承和十四十廿六薨去。<四十六。>母交野女王]
本朝女后名字抄
賀茂齋内親王
弘仁元年ニ。始テ是ヲ立ツ。嵯峨天皇之御女有智。奈良之御門(平城上皇)御中ヨカラヌ間、御祈ニ。始テ賀茂ノ齋院ヲ被立。淳和ノ御時。天長八年ニ(有智子内親王が)病有テヲリヰサセ給フ。此宮(有智子)唐ノ才ナドオハシマシテ。詩ナド作セ給ヒケリ。

有智子内親王<二品>。 弘仁元年卜定。嵯峨天皇第八皇女。母后交野女王。頗渉史漢。兼屬文。
賀茂斎院記
有智子内親王
嵯峨天皇第八皇女也。母曰交野女王。是天皇之幸姫也。
有智頗渉史漢。兼善属文。天皇愛之。以為賀茂斎院。
弘仁十四年春二月。天皇幸斎院花宴。俾文人賦春日山荘詩。各探勒韻。
公主探得塘光行蒼。即瀝筆曰。
寂々幽荘水樹裡。仙輿一降一池塘。
栖林孤鳥識春沢。隠澗寒花見日光。
泉声近報初雷響。山色高晴暮雨行。
従此更知恩顧渥。生涯何以答穹蒼。
天皇歎之授三品。時年十七。
是日。天皇書懐賜公主。曰。忝以文章着邦家。莫将栄楽負煙霞。即今永把幽貞意。無事終須遣歳華。
淳和天皇天長八年十二月辞斎院。十年叙二品。
性貞潔。居于嵯峨西荘。
仁明天皇承和十四年十月二十六日薨。時春秋四十一。<経国集多載公主詩。>


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