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26代斎院 官子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
かんし きみこ・たかこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:掌侍源頼子(盛子?)
  (1132以降没)
未詳(1100以前?) 未詳(1170以降?)
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
鳥羽(1107〜1123,甥)
崇徳(1123〜1141,甥孫)
卜定:天仁元年(1108)11月8日
   (土左守[高階?]盛業
    二條京極宅)
初斎院:天仁2年(1109)4月20日
本院:天仁3年(1110)4月12日
退下:保安4年(1123)1月28日以降?
不明
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
恂子(1093-1132,異母姉妹)
 [樋口斎宮]
 父:白河天皇
 母:藤原季実女
卜定:天仁元年(1108)10月28日
   (遠江守藤原國資之宅
    綾小路油小路)
初斎院:天仁2年(1109)4月14日
   (諸司)
野宮:天仁2年(1109)9月15日
群行:天永元年(1110)9月8日
退下:保安4年(1123)1月28日
天皇譲位

略歴:
 嘉承2年(1107)7月19日、兄堀河天皇崩御、甥鳥羽天皇践祚。

12月1日、鳥羽天皇即位。
 天仁元年(1108)11月8日、内親王宣下を受け斎院に卜定。
 天仁2年(1109)4月20日、御禊。
 天仁3年(1110)4月13日、紫野に入る。
 保安4年(1123)1月28日、鳥羽天皇譲位、崇徳天皇践祚。

2月19日、崇徳天皇即位。

同年、斎院退下。(1月28日以降、8月28日以前か?)
 久安2年(1146)

3月8日、東洞院第が落雷により焼亡、宮内大輔藤原定信宅へ避難。
    この事故で従兄弟の源経光が落雷を受け死亡。

号:清和院斎院、勢賀院斎院
名は宮子とも表記する。

斎院長官:藤原定仲(天永元年(1101)4月2日〜同3年(1102)4月20日以降)

『一代要記』は法皇(白河院)五女とする。
 生母源頼子は、多田源氏の祖源頼綱(1025-1097,頼光の孫)の娘。
『今鏡』によると、70歳過ぎまで長生した(嘉応2年(1170)頃には生存?)とあることから、康和2年(1100)以前の生まれか。
 なお、従兄弟の一人に以仁王の挙兵で敗死した源頼政(1104-1180)がいる。

 源頼子=====白河天皇=====藤原季実女
      |   |    |
      |   |    |
     ◆官子 堀河天皇  恂子
          |    (斎宮)
          |
         鳥羽天皇
          |
          |
         崇徳天皇

【官子内親王の退下時期】
 官子の斎院退下については、年月日の記録は残っておらず不明だが、27代悰子が卜定された保安4年(1123)8月28日以前であることはほぼ確実である。また当時官子の両親(父鳥羽天皇・母源頼子)は存命であり、官子自身もその後の生存が確認されていることから、父母の喪及び本人の死去による退下はありえない。これにより、『平安時代史事典』では「当帝(鳥羽天皇)の譲位」による退下と見なしている。
 しかし天皇譲位で斎院が退下したと見られる例は2代時子のみで(18代娟子は父上皇崩御による可能性が高い)、加えて退下から新斎院卜定まで7ヶ月もかかっているのは異例の長さである(天皇崩御を除き、斎院退下から新斎院卜定までに要する期間は3ヶ月〜5ヶ月が殆どである)。また崇徳天皇の斎宮となった守子女王(輔仁親王女)の卜定は保安4年(1123)6月9日だが、27代斎院悰子の卜定は8月28日であり、斎宮卜定に比べて斎院卜定は3ヶ月近くも遅れている。通常、新帝即位に伴う斎宮・斎院の卜定は同日または数日以内に行われており、これほど時期が離れている例は他にない点も不審である(現に官子の斎院卜定と同時期に斎宮となった恂子内親王は、官子より10日早い天仁元年(1108)10月28日に卜定された)。
 さらに『中右記』(大治2年4月6日条)には、28代統子(※当時の名は恂子)の斎院卜定についての記事で「斎院次第」に歴代斎院の名と奉仕した時期の天皇の名の一覧があり、この中で24代令子から28代統子までの5人の斎院について以下のように記載されている。(下線は引用者)

 <堀川院>      <同>        <新院、今上>
 令子、<本院三女>  禎子、<同第四女>  宮子、<同女>

 <今上、皇后宮、母后儀、新院初為皇后> <同>
 悰子、<堀川院女>           恂子<新院第二女、母女院、當時>

 ここでの「本院」は白河院、「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を指す。即ち、斎院宮子(=官子)は新院(鳥羽天皇)と今上(崇徳天皇)の二代にわたる斎院であったとされており、鳥羽天皇の譲位では退下していなかったことになる。よって官子は崇徳天皇の即位後(さらには斎宮守子の卜定後?)に、恐らくは自身の病により退下、その後斎宮卜定に遅れて新斎院も卜定されたものと考えられる。

 源頼子===白河天皇===藤原賢子
     |      |
     |      ├────┬───┐
     |      |    |   |
     官子    堀河天皇  令子  禎子
     (26代)     |    (24代) (25代)
       ┌────┤
       |    |
       悰子  鳥羽天皇=====藤原璋子
       (27代)        |  [待賢門院]
  ┌─────┬────┬───┤
  |     |    |   |
 崇徳天皇 後白河天皇  禧子  統子
             (29代) (28代)

※堀口悟氏は「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」で、『中右記』所収の「斎院次第」は「他の史料と比較したときいずれも誤りを含む」として採用していない。確かに9〜10世紀の歴代斎院についてはそのまま信頼できない面もあるが、保安4年(1123)と思われる官子の斎院退下は「斎院次第」が記された大治2年(1127)からわずか4年前の出来事であり、記主藤原宗忠にとっても記憶に新しい出来事であったろう。また当時は『中右記』の保安4年部分も当然存在していたと思われ、よって斎院官子についての記述の信憑性は高いものと考える。
 なお『帝王編年記』では、鳥羽天皇斎院宮子(=官子)の退出年月日の記載はなく、また崇徳天皇の斎院には官子内親王の名前は挙げられていない。しかし『編年記』が成立したのは200年あまり後の鎌倉末期から南北朝時代のことで、それ以前に『中右記』や『本朝世紀』の保安4年部分の記事が源平の争乱やその後の動乱の中で失われた可能性は大いに考えられる。そのため、史料の紛失と共に崇徳朝でわずか半年足らずの斎院であった官子の退出年月日も忘れられ、斎院交代が崇徳天皇即位の時期に重なっていたことや、既に斎院制度自体が廃絶してしまっていたことから、官子も鳥羽天皇譲位と共に退下したと見なされるようになったと思われる。

 官子の号「清和院(勢賀院)斎院」について、角田文衛氏は清和院を里第としたためであろうとする。

関連論文:
・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」(『古代文化』31巻10号, 1979)
・角田文衛「源経光の死」「源頼綱の娘たち」(『王朝の映像』東京堂出版, 1970)





鳥羽天皇
史料 年月日 記述
中右記 天仁元年10月9日 【斎王卜定のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
帝王編年記
一代要記
皇代暦
賀茂斎院記
天仁元年11月8日 【官子女王、内親王宣下。斎院に卜定】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 今日斎院卜定也、依有催酉時参仗座、民部卿兼被着端座、左大辨、藤宰相祇候、予依上卿氣色着奥座、治部卿又被參加、(中略)
頭爲房仰下云、官子女王、准一日齋宮例、先可爲内親王哉否事、人々可量申、<件女王上皇(白河)御女、故(源)頼綱朝臣外孫也、年來世不知之人也、>民部卿(源俊明)以下一同申云、斎宮卜定之時、一日已定申了、准彼例被爲内親王可宜歟、是只同事也者、頭奏聞件旨、仰云、以官子女王可爲内親王者、民部卿召權辨、被仰下其由了、次仰下云、齋院可卜定由、令勘申日時刻、召權辨令勘、以頭奏聞之後被下辨領、件勘文入外記筥被奏、次頭爲房仰下云、官子内親王可爲賀茂齋院之由、可卜申者、上卿召權辨、仰可令敷座之由、掃部官人敷座於軒廊、<主水司居水火了、>召外記、仰可召神祇官之由、外記奉仰之後、神祇官入從日花門着軒廊座、<酉第二間以東、>權大副卜部兼宗、少副大中臣輔清、權少副卜部兼政、大夫祐伊岐致元以下八人也、又召外記、仰可進紙筆之由、則持參硯筥、置上卿前、<紙加入、>上卿自書内親王名、<巻禮紙、>召外記令進筥、入其筥下給外記令封、<外記乍居膝突封之、>入筥進之、上卿封目之上被書封字入、<一夜無此事如何、可尋、>次召少副大中臣輔清、乍入筥給之、仰可卜申之由、輔清歸座傳兼政令卜、<輔清第二者也、猶可召第一之人歟如何、伊勢事時多雖下臈、所召中臣官人也、他社之時、只可召第一之人歟、而先例又如此歟、可尋知、>卜了注付卜食由於其上入本筥、輔清進上卿、上卿召外記、仰神祇官可罷出由、官人等退出、又令撤座、又召外記令持筥、上卿進弓場殿、付頭奏聞、<卜串留御所、返給筥、殿下令候御前給也、一日齋宮卜串留御所、今夜返給也、是共長和寛治之例云々、可尋知歟、>上卿復本座、外記取空筥、出從宣仁門了、頭仰云、以官子内親王、可爲賀茂齋院、治部卿源朝臣、權右中辨爲隆、左少史資忠等、可令行齋院事、<後聞、殿下仰云、上卿辨許、從御所被仰下也、於史者不仰下、是上卿相量可召仕之故也、>奉幣大祓日時令勘申者、又以散位宗季朝臣可爲敕別當者、上卿召外記、仰可召輔清之由、輔清入從宣仁敷政門參膝突、以官子内親王可爲賀茂齋院之由被仰下、又召權辨爲隆、齋院上卿辨史敕別當等事、奉幣大祓日時事被仰下了、日時勘文奉上卿、以辨奏聞、<入外記筥被下辨、>次召外記令撤硯筥等了、(中略)
今夜勅使此四位少将宗能也、<猶可遣五位歟、>齋院御所、土左守盛業二條京極宅也、今夜齋院被渡云々、上卿辨神祇官人參彼亭、始次第事等、指賢木、一日齋宮卜定與今夜齋院卜定相違事、
 齋宮卜串奏、奏聞之後返給、今夜留御所、齋宮無日時勘文、<今夜先被勘日時、是皆寛治例也云々、>
 民部卿齋院卜定日時勘文被返給之後、被問人々云、此勘文可下外記、可下辨歟如何、無慥覺人、即愚案云、齋王卜定之時、成承知官符、又辨官尤所沙汰成、被下辨何難之有哉、仍被下辨了、但可尋先例事成、抑件勘文被下辨時、乍入筥被下辨、仍不結申、頗被思失歟、猶下勘文許於辨之後、以筥如本可返給外記也、

『帝王編年記』
(鳥羽院)
 齋院
宮子内親王<同(白河院)皇女/同(天仁)十一月八日卜定>

『一代要記』
(鳥羽院天皇)
 賀茂
官子内ヽヽ[親王]<法皇五女、■[天]仁元ー十一月■■[八日]卜定、せカヰンノ齊院、>

『皇代暦』
(未入力)

『賀茂斎院記』
 官子内親王
白河院之皇女也。母頼経女。
天仁元年卜定。
号清和院斎院。
中右記 天仁元年11月9日 【斎院卜定を賀茂社に奉告】
 依斎院卜定、有奉幣賀茂云々、上卿治部卿、使左大弁云々
中右記 天仁元年11月17日 【斎院(官子)官符のこと】
 有政、治部卿左大弁著行云々、是斎院内親王官符請印者
殿暦 天仁2年3月30日 【斎院(官子)御禊定】
(未入力)
殿暦 天仁2年4月7日 【斎院(官子)御禊について】
(未入力)
殿暦 天仁2年4月20日 【斎院(官子)御禊】
 今日斎院(官子)御禊也、午剋許(藤原)為房來云、申剋許主上(鳥羽天皇)御く志和かせ給也、予可参仕由有院(白河法皇)仰、仍参入、予着衣参内、(後略)
殿暦
兵範記
天仁2年4月23日 【賀茂祭】
(未入力)
永昌記 天仁3年3月23日 【斎院行事】
(未入力)
殿暦 天仁3年4月2日 【斎院除目、御禊前駈定】
(未入力)
殿暦 天仁3年4月12日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記 天仁3年4月13日 【斎院、紫野に入御】
(未入力)
殿暦 天仁3年4月17日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦 天永元年4月2日 【斎院司除目、御禊前駈定】
(前略)戌剋許有除目、<齋院除目也、>長官、<(藤原)定仲、>次官一[以?]下本院被申者等也、但皆悉件者等無官也、主典一人、藏属紀能成任之、其次馬助、<(源)朝實男、飛彈前司、>肥後・遠江相博、今夜前駈定同之、
除目上卿新藤中納言(藤原宗忠)<齋院上卿也、>前駈等定同有、今日雖物忌、定除目等皆持來、予開見之、
中右記 天永2年3月13日 【斎院内で触穢】
 斎院長官(藤原)定仲来云、斎院中従今朝有五體不具穢、早可申殿下(藤原忠実)并院(白河法皇)之由答了、
中右記 天永2年3月15日 【斎院触穢を軒廊御卜】
 今日左兵衛督(藤原能俊)申行軒廊御卜、是斎院●出来死事、了五體不具穢出来事、是賭弓以前所被行也、

●=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 天永2年3月25日 【潔斎のこと】
(未入力)
中右記 天永2年4月1日 【潔斎上卿、念仏等停止】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年4月6日 【斎院(官子)御禊前駈定】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 申時許参斎院(官子)、是依可有出車定也、着客殿座、<上卿西庇東面、弁史座南庇南[北]面、長官已下院司座東庇四面、各居肴物粉熟、>右中弁(藤原)為隆朝臣、大夫史盛仲宿禰、長官、(藤原)定仲以下、次官判官皆着座了、先一献長官勧盃、盃転弁史座、次判官来置例文於予座前、入柳筥硯紙等置弁座前、予取例文読上、令弁書定文、<出車六両、先除去年去々年献之人々并有障人、公卿六人、任舊定文書之、>又出馬定文同令書、<殿上人四人也、多是所着受領也、>弁持来定文二通、見■[了?]召長官下定文、可催之由仰下、次二献如初、居汁物、立箸、次令撤例文退帰、秉燭以前帰家、今日新大納言、<宗、(藤原宗通)>新宰相<為、(藤原為房)>参仗座、被定申御禊前駈云々、是禊祭上卿予可定申也、而大納言被語請云、新任之後、於仗座未行公事、今日依當吉日、欲定申前駈事者、仍予譲彼人也、新宰相、又雖非禊祭、宰相新任人、初為書定文、所勤仕也、
後日新大納言談云、新任之後行公事、道虚如何、先尋例之處、堀川右大臣(藤原頼宗)殿、治安元年七月廿五日、<任大納言、>萬壽二年六月十二日、<壬戌時戌、>着座、件例家吉例也、雖道虚已有着座事、何況乎行公事不可有憚者、仍今日所定申前駈也者、最可然歟、左衛門佐有障替、被入美濃守忠高了、定文令蔵人弁雅兼内覧殿下、被下外記者、
中右記
長秋記
天永2年4月9日 【神館斎王御所、大風で倒壊】
『中右記』
(未入力)

『長秋記』
(前略)今日巳刻賀茂權禰宜成忠參内、申云、神舘齋王御所、并公卿座屋、爲大風顛倒者、
殿暦
中右記
天永2年4月11日 【斎院(官子)御禊点地】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 今日斎院(官子)御禊点地文、右中弁持来、<三枚、>見了付右中弁覧殿下(藤原忠実)、則下了、毎年御禊点地、以今日卯日為式日也、左兵衛佐季通俄申所労由、辞退御禊前駈、則以頭弁奏聞、院宣云、以筑前守泰兼、可令勤仕者、
殿暦
中右記
天永2年4月13日 【左兵衛佐季通、斎院御禊前駈交替を申請】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
(前略)御禊前駈左兵衛佐季通申故障替、依殿下(藤原忠実)仰、諸大夫責催由、仰下外記了、又左京進不供奉事、可尋催由同仰了、
殿暦
中右記
天永2年4月14日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 斎院(官子)御禊也、依為上卿、未剋参本院、<先沐浴祓、>先雖可着客殿、本院之事全無沙汰人、仍爲尋懈怠事、参御所邊、右中辨参入、是垣下者、頃而相具人々出自南北門、着客殿座、本居饗、上卿宰相西庇、<東面北上、昇從北面西一間、簀子着座、>辨外記史南庇西上北面、右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職着座、本院司東庇北上西面、垣下北庇西上南面、前駈五位已上座、母屋西三對座、東庭立酒部所幄、<史生官掌在其内、>南庭檢非違使忠重有定着床子座、<看督長先兒立床子、>人々着座了、予前駈京職参否之事問外記、申皆参由、但候近邊、斎王(官子)御出者、<前駈近代不着此座也、>本院事女房出車具了哉由、間長官、申具之由、次引廻牛、<御車牛、殿下(藤原忠実)令進牛十頭、>次屐子着十四人、絲鞋着十人、下仕二人、廻客殿、此間蔵人(藤原)爲忠從内持参女房扇、<廿三枚、水入冬房、>童女扇、<四枚、>長官起座申事之由、御所邊召蔵人、<先敷座、予諸大夫益送、從殿下被催、>給禄、<女装束、>
申刻寄御車於南階、<長官寄御車、>予以下入自中門、列立南庭、<予、宰相中将、立遣水西邊、西面北上、辨立渡、大夫史、外記立遣水東、>
斎王乘車給後、予以下出自南門乘車、立車於堀川一條北邊、<予車西、宰相東、>以召使尋次第、使馬助、行事右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、乘車一々東行、<予此間暫下車簾令車渡、>暫斎王留大宮辻、左右京職進屬以下相竝渡之、御禊物具、宮主<本宮重服云々、仍兼日仰神祇官、令着進代官、>此後尋前駈、未参具也、仍暫遅々、

<裏書云>
先日攝政殿(藤原忠実)被教仰云、公卿立車時、大臣解鞦乍懸牛引出也、大納言以下ハ引出牛、鞦ハ如本結付車也、此事年來不知、仍今日於列見辻立車時、不令解鞦也、(已上裏書)

天俄陰頗少雨、不及衣濕、光景推遷、纔人々参來、右兵衛尉經遠、左兵衛尉忠時、右衛門督盛康、蔵人左衛門尉有業、右兵衛佐能賢、左兵衛佐代内蔵助雅●、 <佐季通織■[俄?]申障、仍仰外記、從機能召出諸大夫一人也、先例俄闕時有如此事云々、仍被仰下也、>
右衛門佐宗章、左衛門佐代美濃守忠高、<佐資信重服替也、依年少人内府随身二人取馬口、>雑色二人、所衆四人、<今日爲先所衆以雑色可渡也、而雑色前行失也、>次第使馬助、<景仲、>長官、<(藤原)定仲、>漏刻、斎王御車、<殿下御車、>次官判官相竝渡之、二車、<内大臣(源雅実)牛、>三車、<右大将(藤原家忠)牛、>馬允盛兼、女房出車六兩、<民部卿(源俊明)、藤大納言、(經(藤原経実))、治部卿(源基綱)、左兵衛督(藤原能俊)、左宰相中将、(家(藤原家政))、左大辨、>秉燭以前渡了、予歸家之後雨脚、計也御禊之間、依雨有煩歟、(後略)

●=忡(りっしんべん+中。こちらを参照(字源))
殿暦
中右記
長秋記
天永2年4月17日 【賀茂祭】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 天陰雨下、賀茂祭也、午時許參斎院、先參東廊、右中辨參會、相催懈怠事等、
今日院(白河法皇)可有御見物、申有其議、而時剋推遷、雨脚未止、仍以書状遣尋播磨守長實朝臣之處、返事云、依陰雨無御見物、頗以遺恨歟、此間左大辨參入、是依新宰相、<中将語、左大辨今日參云々、彼人依可有院御見物、爲勤仕前駈、大略語付歟、>出車餝馬等未相具者、人人催廻諸事、大略具了、着客殿座、 <其座如御禊日、但母屋座今日諸使座者、>檢非違使等、依雨儀、在東屋南庇、外記■[未?]來甚奇恠也、本院之事具否之由、問長官、大略具了、只今女房出車漸乘了者、但依雨脚無隙、不令引廻餝馬、又不見走童、早可寄御輿之由、仰長官、外記兼職參入、遅參之事頗有所申、強不勘發、使々參否事問外記、皆申在近隣之由、斎王(官子)乘給輿之間、予與左大辨、依雨儀在南中門、長官密語云、從昨日斎王有月障、仍御汗殿、乘輿之間、用長押之下道云々、是先例也、予左大辨以下、出從南門、乘車行向列見辻之間、暫留車於近衛府使少將伊通騎馬之所、尋事具否、奏[葵?]不可忌[忘?]之由、入雑色示之處、如案所忌[忘?]云々、早相尋近邊、可懸使之冠由所教也、仍立車於列見辻、凡雨脚殊盛、前後不見、次第違亂、山城騎兵渡、斎王輿暫留大宮辻、行事右中辨(藤原)爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、連車渡、暫留車、予以召使早可被過之由名之、人々車或渡、又從將來過也、尋檢非違使間、召使來云、府生有定忠重二人之外未參、暫可待具由申上者、予以召使仰云、雨脚殊甚、日已欲暮、強不待具、只早可渡者、左右看督長等相竝渡之、檢非違使有定忠重二人相具、而於上卿前欲下馬、而雨脚甚間、有煩下馬、以召使早可渡之由仰下、仍下[乍?]騎馬渡之、山城介親行渡之、内蔵寮御幣、皇后(令子)御幣、本院御幣等相渡、皇后宮使大進右衛門權佐重隆牽馬口、番長國重、<殿下(藤原忠実)御随身、>近衛取之、馬寮使助有隆、近衛府使右少將伊通、餝馬口、<府生敦利、兼久、>牽馬、<府生兼近、番長末利、>随身持敕禄、而依甚雨止、少舎人童并笠車等如何、只可被渡歟、若是明日依見物不可令損歟、舞人陪従在前後、早可渡由、以召使仰也、<舞人陪従ハ、上卿車前ハ可下馬也、>内蔵寮使助行仲、此間檢非違使宗清、行重、大夫尉繁時渡、使之中、是遅參之所致也、甚以奇恠歟、相尋女使之處、來參者、次第使馬助景仲、長官(藤原)定仲、左右衛門、左右兵衛陣、漏刻、斎王輿、絲鞋着下仕取物等、相具腰指、女蔵人、<輿等、>騎馬童女女使追參、在此列歟、<可在御輿也、>次官判官辛櫃膳夫等、所前駈遅參御車ニ三車、次第使馬允盛兼出車六兩典侍車、<御乳母左中辨顕隆妻、一家人々六人前駈、此中允通前駈、如此事儒者強不見事歟如何、>命婦車蔵人車、●司車、日已暮雨猶盛、廻轅欲歸之間、蔵人所前駈等渡、太奇恠也、凡今日終日大雨、仍強不守次第、只以無懈怠爲先可[耳?]、入夜歸家、<依甚雨次第頗狼藉也、>(中略)
去十二日依賀茂社恠異、被行軒廊御卜之處、神事不浄之由、官所卜申也、今日斎王有月障之上、雨脚殊甚、若是依如此事歟、龜卜如指掌也、

●=闈(門構え+韋。こちらを参照(字源))
中右記 天永2年5月25日 【斎院中死蛇の事を、軒廊御卜】
 今夕内大臣被行軒廊御卜、是伊勢神宮御衾事、又治部卿行軒廊御卜、斎院中●出来死事者、

●=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 天永2年11月25日 【斎院相嘗祭延期、12月15日に決定】
 斎院相嘗今日依世間穢気延引、来月三日依當上卯、欲申行處當国忌、准據之例尋大外記(中原)師遠處、国忌日無行神事例、中卯十五日可行之由奏聞、仰云、尤可然、件十五日可行者、
中右記 天永2年12月3日 【相嘗祭延期を本院に伝える】
 今日斎院相嘗、依當上卯雖可被行、當国忌、仍延引中卯可行之由、下知本院了、去十一月間依世間穢延引也、但先尋例之處、十二月無相嘗例、然而又無止神事不可黙而止、仍十二月可被行之由先日議定了、且申院且問外記所沙汰也、
殿暦 天永2年12月15日 【斎院相嘗祭】
(未入力)
中右記 天永3年4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
『中右記』
 今日斎院(官子)御禊前駈定也、仍申時許三代、兼以蔵人辨■■此由了、右大辨長忠、右少辨實光等参入、是皆禊斎行事也、予着端座、召官人令敷軾、右大辨着參議座之上、予召外記仰云、御禊令文硯等可持參、外記■[稱?]唯歸入、外記二人出來、一人<ハ>入例■[文?]等於筥置予前、<四府差文、并次第使馬助允差文加入也、>一人<ハ>取硯筥置宰相座前、此間藏人辨參、前駈呼称之替以輔明可入之由被仰下也、兼日有障之輩事由請也、予見例文并差文、令右大辨■<書■依例文入人々事依今度差文、>書了■■予披見、頗文字書■也、又返下令書直、暫留例文等入■■一枚於筥、召外記内覧即歸■[來?]云、又不可奏早可下者、<乍在座付藏人、若■御時内覧之後被下辨可奏也、然而幼主常事也、>加入例文差文等返給外記、仰云、任定文早日催廻者、外記■[稱?]唯取筥退歸之次、取重硯筥入了、<前駈之定、兼日尋日次、下知官外記也、>禊日前駈、<左衛門權佐藤實光、淡路守藤輔明、右衛門佐代官、左兵衛佐藤顯經、右衛門佐源顯親、>次第使、<右馬助藤有隆、左馬允平■重、>
   年   月   日<已上一紙也、依御物忌申[用?]宿紙、>
入夜之後事了、爲定出車、引辨大夫史參斎院、<兼日召仰院司了、>着客殿座、<予座西庇敷茵、右少辨大夫史在南座、長官以下東庇、各居肴物粉熟、本院儲之、>宰相外記不參、自陣退出、先一獻、長官勧盃、予授盃轉於辨、辨來座前授盃傳大夫、次院司入例文於柳筥置予座前、又置硯於辨座前、予取例文見之、出車六兩可被獻公卿令辨書、<除大臣并去年役人、有障人、禊斎上卿、宰相也、>又祭日騎馬童女出馬殿上人四人定文令書、<除去年人々、多用殿上受領、>右少辨持來定文二通、<出車一枚出馬一枚>予披見後召長官給定文、早可催之由仰下之、次二獻如初、居汁物、立箸、次召院司、令徹例文并硯退出了、
 此次一條堀川橋可令修理由可仰左右京職自[旨?]仰辨了、
又毎年御禊點地卯日爲式日也、而今年祭以前有二卯、可由何卯哉之事問院司處、申云、先例中卯之由院司所申也、
又斎王御車之牛從殿下爲定事令奉給也、至二三車之牛者、先々從本院被申可然大臣云、至當斎院者、只以院司可申大臣并上搗蜚[言之由被仰下也、仍可申左府(源俊房)并民部卿(源俊明)之由仰長官了、<去年内大臣(源雅実)右大將(藤原家忠)被奉也、>今夕入夏節也、仍上皇(白河法皇)爲御方違有御幸伏見云々、
中右記 天永3年4月5日 【御禊前駈の変更】
(未入力)
中右記 天永3年4月7日 【御禊前駈の変更】
(未入力)
中右記 天永3年4月9日 【御禊前駈奉仕】
(未入力)
中右記 天永3年4月17日 【御禊点地文決裁】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年4月20日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 齋院(官子)御禊也、予依爲上卿午時許參本院、<入自東門、>雖可着客殿無本院沙汰人、仍萬事懈怠、爲催諸事參御所邊、行事右少辨定光、長官(藤原)定仲相共沙汰也、雨脚殊甚、人々遅參、女[仍?]尋藏人許了、未刻着南客殿、<昇自北面西一間、着西庇座東南、>大夫史盛仲、外記則成着南庇座、長官着東庇座、前駈座、<母屋、>垣下座、<北庇、雖有座不參着、>皆本院敷座、<内藏寮居饗、>右少辨兼左衛門權佐實光兼前駈、仍請假早退出、於近邊出立云々、此間雲扇頗收日影間見、予前駈參否并供奉諸司事問外記、皆申候近邊之由、本院之事具了哉由問長官、申具了由、仰檢非違使可着座之由、府生忠重着南庭床子、<兼立床子、失也、着座之時、看督長可兒立也、>參議右大辨長忠參仕、昇自南方如何可尋、<去年宰相昇自北、經上卿座後所着座也、>次仰長官令引廻御車之牛、廻客殿、<侍北西南一廻、雨下時止之、>次寄齋王御車、<垣下實明朝臣、藏人説雅參入、>予右大辨列立南庭遣水西、<外記史在水東、>兵衛佐能賢寄御車、件人依院御氣色參入者、是依齋王一家人歟、此間蔵人左衛門尉盛經持參女房扇、依遅參暫不受取間立東邊、引出御車間、予可給禄於藏人由仰長官、與右大辨出自中門并南門乘車、立車於一條堀川辻、<予西、右大辨東、>以召使尋供奉諸司并次第使馬助、此間齋王御車留大宮辻被待人々參也、光景推移、王不皆參、殿下御隨身走來云、日已暮、不待憖早可渡者、大夫史外記車渡了、前駈人々車隨將來所渡也、左右京職御禊物具、宮主前駈左右兵衛尉遅參、且右衛門尉宗實、<檢非違使也、候院北面者萬事美麗、>左尉家重、右兵衛佐顯親、左佐代肥前守宗明、右衛門佐代淡路守輔明、左權佐實光、雜色所衆遅參、相尋之間、右兵衛尉親兼、左兵衛尉孝基等甚遅參奇恠也、依雨日如此輩自然致懈怠歟、次第司右馬助有隆欲渡、予留之、猶可渡雜色所衆之次仰之處、有隆申云、於次第使者不知所之、前駈只四衛渡之後所渡也、此事可尋知、所陳非無其謂、但予所尋持之行列次第在所集雜色之下也、仍所仰其由也、此間雜色所衆等出來渡之、<先所衆、次雜色、>長官定仲漏知齋王御車、<走童、>次官判官相竝、予兒下車二三車<各有走童、民部卿(源俊明)藤大納言(藤原経実)牛也、>次第使左馬允<季重、>出車六兩、<直衣、>源大納言(源雅俊)、按察大納言(藤原宗通)、左衛門督(藤原能実)、大藏卿、藤宰相(藤原俊忠?)、新宰相中將、<實(藤原実隆)、>六人車也、次馬寮車、秉燭以前歸家、
 齋王先有御湯殿於御出立所、毎年御禊無御祓又御髮上事、乘輿之日有其儀、仍御禊日ハ無其事由、女房被申也、如此事依不審相尋也、
 河原御禊所官辨本院相共勤仕御裝束令、又毎年御禊國司無獻物云々、
中右記 天永3年4月21日 【斎院御禊翌日】
 天明今夕有警固召仰、大宮權大夫參勤云々、(中略)
 頭辨送書札云、如使出車闕了、是公卿或有故障或奉斎院之間人數盡了、舊車早可遣女使許也、禊齋上卿出車雖不可奉、依可事闕所被仰下也、是院宣者、可奉之由申了、
殿暦
中右記
天永3年4月23日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年11月1日 【下社で火災、斎院相嘗祭延引検討】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 晩頭藏人辨來云、夜前川合社廻廊中門等焼亡、寶前一宇雖免炎上、御體早奉渡貴布禰社中了、但下社氏人等皆穢了、又歸參下御社、奉毎日御供了、仍下御社穢了、然者明日相嘗可被行哉、可延引哉、可量申由、有院宣也、雖申殿下(藤原忠実)、今日御着陣之日也、不内覧不吉事、仍院令沙汰御也、予申云、本社穢了、不可延引歟、但有穢之時有相嘗例可被尋問歟、以是宗可被奏之由答了、是被問人々云々、又藏人辨進書札云、只今々々可馳參院者、仍着直衣馳參、則大蔵卿(藤原)爲房參入、仰云、相嘗祭事更ニ不思食得、爲沙汰遣召左大臣(源俊房)民部卿之處、有所勞、但可被尋例由雖申、已先例不詳也、今間召上下社司等被問例處、申云、本社相嘗全不覺延引事、但於齋院相嘗者、齋王有月障時、或用中卯例事也、近者去年依下野守明國穢、十二月被行也、於本社相嘗、全不延引之由所申也、重仰云、然者本社有穢時、有行相嘗例哉、社司等申云、件例又不慥覺者、但於四月祭者、雖有穢供齋不止、於公家使云々、齋王參者所被止也、准彼例行相嘗可宜歟、就中四月祭重事也、相嘗次事也者、(後略)
中右記 天永3年11月8日 【相嘗祭延引の宣命を作成】
 有奉幣賀茂社、是依川合社火事也、予爲上卿、仍未刻參内、着端座、令敷膝突、先召大内記敦光、仰宣命趣、<昨日下軒廊御卜、内々令草儲也、先火事條御卜趣、不信不浄由、如本修造事、番直者慥尋子細、追可有罪過事、辭別、相嘗祭延引事等也、>此間使宰相中將(源)顯雅被參、大内記草宣命持來、披見之後、所■[々?]可相直事、仍仰其由、令作直、又持來、令内覽殿下、則歸來云、清書重不可覽者、仰可清書之由返給、召行事藏人辨、尋幣具否、申具了由、又召外記、問次官參否、縫殿頭信俊參入者、<入定文、次官申障也、>大内記持來清書、披見目之、宰相中將來座前給宣命、宰相取宣命出了、幣物次官相具也、于時申二點也、<勘文刻限、>召内記返給筥之後退出了、
中右記 天永3年11月14日 【斎院相嘗祭、斎王(官子)月障により延期】
殿暦 天永4年閏3月24日
(永久元年)
【検非違使別当藤原宗忠、斎院御禊上卿を辞退】
(未入力)
殿暦 天永4年4月11日
(永久元年)
【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦
中右記
天永4年4月20日
(永久元年)
【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 齋院御禊也、殿下無御棧敷、令候内給、是南京大衆猶競發之間令憚給歟、(後略)
殿暦
中右記
長秋記
天永4年4月23日
(永久元年)
【賀茂祭】
(未入力)
殿暦
長秋記
永久元年7月25日 【斎院触穢により賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 永久2年2月2日 【斎王のこと】
(未入力)
中右記 永久2年2月16日 【斎院のこと】
(未入力)
中右記 永久2年4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(前略)此間右兵衛督(藤原)忠教卿參仗座、被定申齋院(官子)御禊前駈、大藏卿(藤原為房)書之、
 又有小耳目、被成齋院次官、
 又有本院出車定云々、
中右記 永久2年4月10日 【斎院(官子)御禊点地】
 早旦從内退出、府生經則來云、今日斎院(官子)御禊点地也、仍所罷向也、是依為山城拒捍使也、(中略)
 今日稻荷祭、齋院御禊點地、
殿暦
中右記
永久2年4月13日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
(前略)齋院(官子)禊如例、前駈右兵衛尉平、<兼季子、>左兵衛尉清宗、右衛門尉盛道、左衛門尉成實、右兵衛佐代攝津守忠雅左兵衛佐顯盛、<物具美麗、>右衛門佐代上野守實房、左衛門佐清隆、[代歟ク]長官、<周防守子、>次第不動渡大路如何、齋王御車、出車紅薄様、上卿源中納言、<能俊>、宰相、<俊忠、>右中辨、<(藤原)爲隆、>外記、史、
 今年藤氏源氏上達部、依京極殿事(※)、多服假、仍出仕五六輩奉出車也、<各奉二三兩也、>一二三車牛[等歟ク]民部卿、按察大納言(藤原宗通)、予奉之也、
 今日垣下、經忠朝臣、實明朝臣、資信、忠隆、藏人説雅、忠遠、

4/3源麗子(藤原師実正室)死去のこと。
中右記 永久2年4月16日 【賀茂祭、大雨】
 天陰雨下、賀茂祭也、
 早旦自院被仰下云、去夜今朝雨脚殊甚之間、鴨川浮橋等定流損歟、齋院(官子)渡給之間、有其恐、早差遣檢非違使等、可令固件橋者、仍仰行重經則等了、巳時以後、天晴雲收、扶桑甚明、
 參一條殿、密々窺見祭、雖無御棧敷、大略見物、申時許、行事右中辨(藤原為隆)以下外記史等渡、左右看督長四十人許渡也、<不足廿人、>檢非違使府生經則、(伴)有貞、志(中原)明兼、(大江)行重、尉(藤原)盛道、(平)宗實、大夫尉(平)忠盛、合七人渡、殘輩或重服或所勞不出仕也、山城介、馬寮使、<右權頭盛家、>近衛府使左中将信通朝臣、<浮線綾表袴、蘇芳下襲、車簾五月會打毬具風流、●府生(下毛野)敦利、(中臣)兼重、季長、末利、敦忠、>内藏寮(藤原)行仲、次第使馬助兼永、齋院御輿所[衍?]前駈、典侍以下、次第頗違亂歟、秉燭以前事了、(後略)

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記 永久2年7月27日 【斎院のこと】
(未入力)
中右記 永久2年9月15日  以藏人辨奏云、可除賀茂供御所者、然者斎院網代如何、諸社又多云々如何、仰云、被免所々者如何、可除賀茂歟、歸家之後、召有貞、經則、可破宇治田上網代之由仰了、但可除賀茂之旨仰含了、又申殿下(藤原忠実)了、
中右記 永久2年12月30日 【斎院女官のこと】
(未入力)
殿暦 永久4年4月9日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦 永久4年4月19日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
殿暦 永久4年4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦 永久5年4月5日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(前略)民部卿(藤原宗通)送錦二端、彼卿男奉仕御禊前駈笠●錦也、(後略)

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
殿暦 永久5年4月12日 【斎院(官子)御禊】
 辰剋許參院、數剋候御前、及午剋退出、未剋許姫君(藤原泰子) ・女房(源師子)並出車等を相具向棧敷、爲見物也、内府同之、右大將(藤原家忠)・二位大納言(藤原)經實・藤中納言宗忠・別當(藤原忠教)・治部卿(源能俊)等來、見物了還亭、
殿暦 永久5年4月15日 【賀茂祭】
 雨氣猶不止、仍上皇御見物不定、申剋許晴、仍有御幸、余・内府參入、御見物儀如先々、還御後退出、(後略)
殿暦 永久5年4月16日 【斎院(官子)紫野に還御】
 今朝自院有御使、御見物事也、猶可候之由奏了、午剋許内府相具參入、頃之成、於紫野有御見物、儀如例年、還御後予退出、(後略)
中右記 元永元年4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 元永元年4月18日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記 元永元年4月21日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 元永元年8月29日 【斎院司のこと】
(未入力)
中右記 元永2年3月25日 【法皇、関白家の上野荘園寄進を禁ずる】
(未入力)
中右記 元永2年4月6日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 元永2年4月12日 【御禊前駈の再検討】
(未入力)
長秋記 元永2年4月15日 【御禊前駈の再検討】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年4月19日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
長秋記 元永2年5月30日 【御禊前駈のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年11月15日 【賀茂御祖社焼亡】
(未入力)
中右記 元永3年3月22日 【賀茂御祖社焼亡のこと】
(未入力)
中右記 元永3年4月3日 【小除目。斎院次官】
(未入力)
中右記 保安元年4月12日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記 保安元年4月15日 【賀茂祭】
(未入力)
崇徳天皇
史料 年月日 記述
中右記 大治4年10月5日 【前斎院(官子)、東洞院姉小路第に渡御】
(未入力)
中右記 天承2年3月6日
(長承元年)
【前斎院(官子)の母、清和院内に太子堂を建立】
 今日、前斎院(官子)母屋[堂]<号早参河人也>。世加院院中建立子[太子?]堂供養。公伊法印、為導師。衆十人、云々。
近衛天皇
史料 年月日 記述
台記
百錬抄
久安2年3月8日 【前斎院(官子)の東洞院第に落雷】
『台記』
 今夜大雷、京都師三所落、云々。
此中、前斎院(官子)<白川法皇女、頼綱朝臣孫>東洞院第為雷火被焼。故下野前司(源)明国子男(源経光)、在其第内被震殺。希代事也。

『百錬抄』
 雷落前斎院家。忽焼亡。故下野守明国子震死。



史料 記述
十三代要略
白河院
(皇女)
 宮子内親王<母前三河守頼綱朝臣女。>
一代要記
白河院天皇
(皇女)
 官子内ヽヽ[親王]<賀茂齊、號せカヰンノ齊院、母三川守源頼綱女、>

鳥羽院天皇
(賀茂)
 官子内ヽヽ[親王]<法皇五女、■[天]仁元ー十一月■■[八日]卜定、せカヰンノ齊院、>
帝王編年記
白河院
(皇女)
 宮子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院>

鳥羽院
(齋院)
 宮子内親王<同(白河院)皇女/同(天仁)十一月八日卜定>
二中歴
(齋院)
 宮子<同(白河)女堀川齋院 天仁元年>
皇代暦
鳥羽天皇
(齋院)
 宮子内親王 法皇女天仁元年十一月八日卜定
本朝皇胤紹運録
(白河院子)
(289)宮子内親王[齋院。號清和院。母頼綱朝臣女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
宮子内親王 天仁元年卜定。同(白河院)御女。清和院齋院。
賀茂斎院記
官子内親王
白河院之皇女也。母頼経女。
天仁元年卜定。
号清和院斎院。
今鏡
(8・腹々の御子)
(白河天皇の)后の宮、女御、更衣にはおはせねど、御子生みたてまつり給へる所々、近き御代にあまた聞こえ給ふ。(中略)
 勢賀院の斎院(官子)と申ししも、同じころ立ち給ふと聞えき。それは頼綱と聞こえし源氏の、三河守なりしが娘の腹におはすと聞えき。七十にあまり給ひて、まだおはすと聞え給ふ。唐崎の禊ぎ、上西門院せさせ給ひしころ、その続きに、院の御沙汰にて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。主殿頭何大夫とか名ありし人、御後見にて、御車の尻に、綾の指貫、院のおろして著て渡るなど聞えき。
山家集
  • (春)春は花を友といふことを、せか(清和)院の斎院(官子)にて人々よみけるに
(92)おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日を暮らすべき

  • (春)せか(清和)院の花盛りなりける頃、としたかのもとよりいひ送られける
(99)おのづから来る人あらばもろともにながめまほしき山桜かな

  返し
(100)ながむてふ数に入るべき身なりせば君が宿にて春は経ぬべし

  • (春)夢中<ノ>落花といふことを、せか(清和)院の斎院にて、人々よみけるに
(139)春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり


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