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26代斎院 官子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
かんし きみこ・たかこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:白河天皇(1053-1129)
母:掌侍源頼子(盛子?)
  (1132以降没)
未詳(1100以前?) 未詳(1170以降?)
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
鳥羽(1107〜1123,甥)
崇徳(1123〜1141,甥孫)
卜定:天仁元年(1108)11月8日
   (土左守[高階?]盛業
    二條京極宅)
初斎院:天仁2年(1109)4月20日
本院:天仁3年(1110)4月12日
退下:保安4年(1123)1月28日以降?
不明(病?)
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
恂子(1093-1132,異母姉妹)
 [樋口斎宮]
 父:白河天皇
 母:藤原季実女
卜定:天仁元年(1108)10月28日
   (遠江守藤原国資之宅
    綾小路油小路)
初斎院:天仁2年(1109)4月14日
   (諸司)
野宮:天仁2年(1109)9月15日
群行:天永元年(1110)9月8日
退下:保安4年(1123)1月28日
天皇譲位

略歴:
 嘉承2年(1107)7月19日、兄堀河天皇崩御、甥鳥羽天皇践祚。

12月1日、鳥羽天皇即位。
 天仁元年(1108)11月8日、内親王宣下を受け斎院に卜定。
 天仁2年(1109)4月20日、御禊。
 天仁3年(1110)4月13日、紫野に入る。
 保安4年(1123)1月28日、鳥羽天皇譲位、崇徳天皇践祚。

2月19日、崇徳天皇即位。

同年、斎院退下。(1月28日以降、8月28日以前か?)
 久安2年(1146)

3月8日、東洞院第が落雷により焼亡、宮内大輔藤原定信宅へ避難。
    この事故で従兄弟の源経光が落雷を受け死亡。

号:清和院斎院、勢賀院斎院
名は宮子とも表記する。

斎院勅別当:藤原宗季(天仁元年(1108)11月8日〜永久5年(1117)4月以前?)
      藤原忠教(永久5年(1117)4月以前〜?)
斎院長官:藤原定仲(天永元年(1110)4月2日〜同3年(1112)4月20日以降)

『一代要記』は法皇(白河院)五女とする。
 生母源頼子は、多田源氏の祖源頼綱(1025-1097,頼光の孫)の娘。
『今鏡』によると、70歳過ぎまで長生した(嘉応2年(1170)頃には生存?)とあることから、康和2年(1100)以前の生まれと思われる。
 なお、従兄弟の一人に以仁王の挙兵で敗死した源頼政(1104-1180)がいる。

 源頼子=====白河天皇=====藤原季実女
      |   |    |
      |   |    |
     ◆官子 堀河天皇  恂子
          |    (斎宮)
          |
         鳥羽天皇
          |
          |
         崇徳天皇

 鳥羽天皇の即位に伴う斎宮斎院卜定の際、候補となる「内親王」がまったく存在しなかった。『中右記』(天仁元年(1108)10月26日条)によると、当時白河上皇または故堀河天皇の落胤とされる皇女は多くいたらしいが、白河上皇本人も確かな記憶はなく、結局四人の候補の中から占いでまず伊勢斎宮に恂子(母・藤原季実女)が、次いで斎院に官子が選ばれたという(なお二人とも、内親王宣下と卜定は同日であった)。
 ともあれ、官子は鳥羽朝のほぼ全期間を通して斎院の任にあり続け、崇徳天皇即位の頃に退下したらしいが、当時の『中右記』等の史料が失われていることもあり、正確な退下年月日の記録は残っていない。元々生母の出自が低く、また晩年には兄弟姉妹はおろか甥姪も殆どが他界していたと見られ、退下後の消息は久安2年(1146)に官子の邸に落雷があったとする記事(『台記』『百錬抄』)を最後に途絶えている。『今鏡』は「七十にあまり給ひて、まだおはすと聞え給ふ」と記していることから、かなりの長命であったようだが、その後の平氏の繁栄の中で世間からも忘れ去られたのか、没年月日も不明である。
 なお『山家集』の詞書には、「せか(清和)院の斎院」で人々が集い和歌を詠んだとの記録がある(※写本によっては「菩提院の斎院(=28代統子内親王)」とするが、字体から見て誤字とは考えにくい)。斎院時代以外にその生涯を知る記録の殆どない官子内親王だが、西行法師の若き日には「前斎院」官子の御所で華やかに歌合や宴が催されたこともあったのかもしれない。

参考リンク:
『天皇皇族実録85.白河天皇 巻5』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※官子内親王については90〜94コマにあり


【官子内親王の退下時期】
 官子の斎院退下については、年月日の記録は残っておらず不明だが、27代悰子が卜定された保安4年(1123)8月28日以前であることはほぼ確実である。また当時官子の両親(父鳥羽天皇・母源頼子)は存命であり、官子自身もその後の生存が確認されていることから、父母の喪及び本人の死去による退下はありえない。これにより、『平安時代史事典』では「当帝(鳥羽天皇)の譲位」による退下と見なしている。
 しかし天皇譲位で斎院が退下したと見られる例は2代時子のみで(18代娟子は父上皇崩御による可能性が高い)、加えて退下から新斎院卜定まで7ヶ月もかかっているのは異例の長さである(天皇崩御を除き、斎院退下から新斎院卜定までに要する期間は3ヶ月〜5ヶ月が殆どである)。また崇徳天皇の斎宮となった守子女王(輔仁親王女)の卜定は保安4年(1123)6月9日だが、27代斎院悰子の卜定は8月28日であり、斎宮卜定に比べて斎院卜定は3ヶ月近くも遅れている。通常、新帝即位に伴う斎宮・斎院の卜定は同日または数日以内に行われており、これほど時期が離れている例は他にない点も不審である(現に官子の斎院卜定と同時期に斎宮となった恂子内親王は、官子より10日早い天仁元年(1108)10月28日に卜定された)。
 さらに『中右記』(大治2年4月6日条)には、28代統子(※当時の名は恂子)の斎院卜定についての記事で「斎院次第」に歴代斎院の名と奉仕した時期の天皇の名の一覧があり、この中で24代令子から28代統子までの5人の斎院について以下のように記載されている。(下線は引用者)

 <堀川院>      <同>        <新院、今上>
 令子、<本院三女>  禎子、<同第四女>  宮子、<同女>

 <今上、皇后宮、母后儀、新院初為皇后> <同>
 悰子、<堀川院女>           恂子<新院第二女、母女院、當時>

 ここでの「本院」は白河院、「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を指す。即ち、斎院宮子(=官子)は新院(鳥羽天皇)と今上(崇徳天皇)の二代にわたる斎院であったとされており、鳥羽天皇の譲位では退下していなかったことになる。よって官子は崇徳天皇の即位後(さらには斎宮守子の卜定後?)に、恐らくは自身の病により退下、その後斎宮卜定に遅れて新斎院も卜定されたものと考えられる。

 源頼子===白河天皇===藤原賢子
     |      |
     |      ├────┬───┐
     |      |    |   |
     官子    堀河天皇  令子  禎子
     (26代)     |    (24代) (25代)
       ┌────┤
       |    |
       悰子  鳥羽天皇=====藤原璋子
       (27代)        |  [待賢門院]
  ┌─────┬────┬───┤
  |     |    |   |
 崇徳天皇 後白河天皇  禧子  統子
             (29代) (28代)

※堀口悟氏は「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」で、『中右記』所収の「斎院次第」は「他の史料と比較したときいずれも誤りを含む」として採用していない。確かに9〜10世紀の歴代斎院についてはそのまま信頼できない面もあるが、保安4年(1123)と思われる官子の斎院退下は「斎院次第」が記された大治2年(1127)からわずか4年前の出来事であり、記主藤原宗忠にとっても記憶に新しい出来事であったろう。また当時は『中右記』の保安4年部分も当然存在していたと思われ、よって斎院官子についての記述の信憑性は高いものと考える。
 なお『帝王編年記』では、鳥羽天皇斎院宮子(=官子)の退出年月日の記載はなく、また崇徳天皇の斎院には官子内親王の名前は挙げられていない。しかし『編年記』が成立したのは200年あまり後の鎌倉末期から南北朝時代のことで、それ以前に『中右記』や『本朝世紀』の保安4年部分の記事が源平の争乱やその後の動乱の中で失われた可能性は大いに考えられる。そのため、史料の紛失と共に崇徳朝でわずか半年足らずの斎院であった官子の退出年月日も忘れられ、斎院交代が崇徳天皇即位の時期に重なっていたことや、既に斎院制度自体が廃絶してしまっていたことから、官子も鳥羽天皇譲位と共に退下したと見なされるようになったと思われる。

 官子の号「清和院(勢賀院)斎院」について、角田文衛氏は清和院を里第としたためであろうとする。

関連論文:
・角田文衛「源経光の死」「源頼綱の娘たち」
 (『王朝の映像』東京堂出版, 1970)
・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」
 (『古代文化』31巻10号, 1979)
・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」
 (『史林』81(1), p38-69, 1998)[機関リポジトリ全文あり]





鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記 天仁元年
(1108)
10月9日 【皇女実否占のこと】
 後聞、今夜於御直廬召陰陽寮(賀茂)道言、(賀茂)家榮等、密々有被占事云々、稱皇女之事實否被占也、是齋王料者、或叶御占者、
中右記 天仁元年
(1108)
10月11日 【斎院御禊供奉のこと】
 辰刻許參殿下(摂政藤原忠実)<中御門東洞院、>民部卿(源俊明)、左宰相中將、<忠、(藤原忠教)>左大辨<重、(源重資)>被參會、<源大納言(俊実)、治部卿(源基綱)、藤宰相、雖有召、有障不參、>被仰云、院(白河上皇)仰云、依土御門尼上(源●子)入滅事、左大臣(源俊房)、内大臣(源雅実)<節下奉也、>御禊前次第司長官左衛門督(源)雅俊卿、主基國司丹波守季房朝臣、同行事左少辨(源)雅兼等 已三月服、(中略)
民部卿、宰相中將、左大辨被申云、依仁和例、服假之人供奉御禊、何事之有哉、就中長元九年、承保元年、又以如此也、節下大臣次第司長官不可被改、是齋院御禊、穢氣之人供奉常例也、可准據歟、(後略)

●=妧(女偏+元。こちらを参照(字源))
源妧子=源師房長女、藤原道房室。左大臣源俊房の姉。
中右記 天仁元年
(1108)
10月26日 【斎宮斎院候補のこと】
 未時許從殿(摂政藤原忠実)被仰云、只今可參御直廬、依有可被仰合事也、密々着直衣馳參、民部卿(源俊明)被參會、仰云、齋宮齋院全無其人、仍于今不立申、但無止神事又不可默而止、稱院(白河上皇)并堀川院皇女之輩頗有其數、然而其母皆不落、不知一定、雖申(白河)上皇不慥覺御之由、被仰也、去九日爲王胤哉否之條、内々被問六壬[筮]占也、是依江帥(大江匡房)申説所行也、而件人四人之中、(賀茂)道言、(賀茂)家榮所占申、又以不同也、爲天下大事如何、民部卿、并下官、頭(藤原)爲房、密々付占形量申、(藤原)季實朝臣孫(恂子)、稱院御女之人、皆以合占、先被立齋宮、何事之有哉、已明後日可被卜定、追又可一定者、(後略)
殿暦
中右記
帝王編年記
一代要記
皇代暦
賀茂斎院記
天仁元年
(1108)
11月8日 【官子女王、内親王宣下。斎院に卜定】
『殿暦』
 天晴、今日齋院卜定也、余着直衣參内、酉剋許民部卿(源俊明)參仗座、先大嘗會之由被告三夜奉幣使定文奏、次余以頭(藤原為房)親王宣旨下、名官子、次上卿奏卜定日時勘文、<寛治例、>於鬼間見之、以頭仰下云、以官子内親王、可爲賀茂齋院、可令卜申者、上卿民部卿進弓場殿奉卜串、於朝干飯見之、留文於御前、返給筥、其次仰云、治部卿源朝臣(基綱)・權右中辨(藤原)爲隆令行齋院事、又以散位藤宗季、可爲勅別當者、又奉幣并大祓日時可令勘申、則以辨爲隆奏、於直廬見之返給、卜定事了後、以頭爲房問公卿云、(後略)

『中右記』
 今日齋院卜定也、依有催酉時參仗座、民部卿(源俊明)兼被着端座、左大辨(源重資)、藤宰相祇候、予依上卿氣色着奥座、治部卿(源基綱)又被參加、上卿召官人、令敷膝突、召權右中辨(藤原)爲隆仰云、依大嘗會可有奉幣三社也、日時可令勘申、<兼被奉歟、>辨歸出則持參勘文、<來十五日、>又召外記令進例文、令左大辨書定文、<伊勢、石清水、賀茂、使宰相、>加入勘文并定文於筥、令權辨奏聞、<殿下(摂政藤原忠実)令候内給也、>御覽了返給、被下外記、權辨申請奏於上卿、<或上宣、或奏聞、今度上宣歟、>上卿見了被下辨了、藏人有業下伊勢幣請奏、則被下權辨、被尋内記、是宣命事歟、而只今不候、追可仰下者、其後召外記令撤硯筥等、頭爲房仰下云、官子女王、准一日齋宮例、先可爲内親王哉否事、人々可量申、<件女王上皇(白河)御女、故(源)頼綱朝臣外孫也、年來世不知之人也、>民部卿以下一同申云、齋宮卜定之時、一日已定申了、准彼例被爲内親王可宜歟、是只同事也者、頭奏聞件旨、仰云、以官子女王可爲内親王者、民部卿召權辨、被仰下其由了、次仰下云、齋院可卜定由、令勘申日時刻、召權辨令勘、以頭奏聞之後被下辨了、件勘文入外記筥被奏、次頭爲房仰下云、官子内親王可爲賀茂齋院之由、可卜申者、上卿召權辨、仰可令敷座之由、掃部官人敷座於軒廊、<主水司居水火了、>召外記、仰可召神祇官之由、外記奉仰之後、神祇官入從日花門着軒廊座、<西第二間以東、>權大副卜部兼宗、少副大中臣輔清、權少副卜部兼政、大夫祐伊岐致元以下八人也、又召外記、仰可進紙筆之由、則持參硯筥、置上卿前、<紙加入、>上卿自書内親王名、<巻禮紙、>召外記令進筥、入其筥下給外記令封、<外記乍居膝突封之、>入筥進之、上卿封目之上被書封字入、<一夜無此事如何、可尋、>次召少副大中臣輔清、乍入筥給之、仰可卜申之由、輔清歸座傳兼政令卜、<輔清第二者也、猶可召第一之人歟如何、伊勢事時多雖下臈、所召中臣官人也、他社之時、只可召第一之人歟、而先例又如此歟、可尋知、>卜了注付卜食由於其上入本筥、輔清進上卿、上卿召外記、仰神祇官可罷出由、官人等退出、又令撤座、又召外記令持筥、上卿進弓場殿、付頭奏聞、<卜串留御所、返給筥、殿下令候御前給也、一日齋宮卜串留御所、今夜返給也、是共長和寛治之例云々、可尋知歟、>上卿復本座、外記取空筥、出從宣仁門了、頭仰云、以官子内親王、可爲賀茂齋院、治部卿源朝臣、權右中辨爲隆、左少史資忠等、可令行齋院事、<後聞、殿下仰云、上卿辨許、從御所被仰下也、於史者不仰下、是上卿相量可召仕之故也、>奉幣大祓日時令勘申者、又以散位宗季朝臣可爲敕別當者、上卿召外記、仰可召輔清之由、輔清入從宣仁敷政門參膝突、以官子内親王可爲賀茂齋院之由被仰下、又召權辨爲隆、齋院上卿辨史敕別當等事、奉幣大祓日時事被仰下了、日時勘文奉上卿、以辨奏聞、<入外記筥被下辨、>次召外記令撤硯筥等了、(中略)
 今夜勅使此四位少将(藤原)宗能也、<猶可遣五位歟、>齋院御所、土左守盛業朝臣二條京極宅也、今夜齋院被渡云々、上卿辨神祇官人參彼亭、始次第事等、指賢木、一日齋宮卜定與今夜齋院卜定相違事、
  齋宮卜串奏、奏聞之後返給、今夜留御所、齋宮無日時勘文、<今夜先被勘日時、是皆寛治例也云々、>
  民部卿齋院卜定日時勘文被返給之後、被問人々云、此勘文可下外記、可下辨歟如何、無慥覺人、即愚案云、齋王卜定之時、成承知官符、又辨官尤所沙汰也、被下辨何難之有哉、仍被下辨了、但可尋先例事也、抑件勘文被下辨時、乍入筥被下辨、仍不結申、頗被思失歟、猶下勘文許於辨之後、以筥如本可返給外記也、

『帝王編年記』
(鳥羽院)
 齋院
宮子内親王<同(白河院)皇女/同(天仁)十一月八日卜定>

『一代要記』
(鳥羽院天皇)
 賀茂
官子内ヽヽ[親王]<法皇五女、■[天]仁元ー十一月■■[八日]卜定、せカヰンノ齊院、>

『皇代暦』
(鳥羽天皇)
 齋院
宮子内親王 法皇女天仁元年十一月八日卜定

『賀茂斎院記』
 官子内親王
白河院之皇女也。母頼経女。
天仁元年卜定。
号清和院斎院。
中右記 天仁元年
(1108)
11月9日 【斎院卜定を賀茂社に奉告】
 依齋院卜定有奉幣賀茂云々、上卿治部卿(源基綱)、使左大辨(源重資)云々、(後略)
中右記 天仁元年
(1108)
11月17日 【斎院(官子)官符のこと】
 有政、治部卿(源基綱)左大辨(源重資)着行云々、是齋宮齋院内親王官符請印者、(後略)
殿暦 天仁2年
(1109)
3月30日 【斎院(官子)御禊定】
(前略)今夜齋院(官子)御禊定、上卿(源)基綱、(後略)
殿暦 天仁2年
(1109)
4月7日 【斎院(官子)御禊について】
 天晴、今日依物忌不出行、頭藏頭(藤原)爲房來、
齋宮(恂子)・齋院(官子)御禊之間雜事并院(白河法皇)仰示也、
殿暦 天仁2年
(1109)
4月20日 【斎院(官子)御禊】
 今日齋院(官子)御禊也、(後略)
殿暦
兵範記
天仁2年
(1109)
4月23日 【賀茂祭】
『殿暦』
 天晴、今日午剋許向棧敷、<女房同之、>中將<乘透車見物、>中將裝束直衣、紅出衣、車後乘人少將宗能、一條大路兩三度行、皇后宮(令子)使隨身二人<府生(秦)公種番長(中臣)兼近>・餝馬・引馬・釼・平緒・帶等<を>遣、但帶鴛通天、見物了酉剋許還家、今日近衞使不召御前、

『兵範記』
(嘉応元年4月24日条)
(前略)今日無行幸試樂、寛治二年(1088)三月九日、代始八幡行幸、七日有試樂、天仁二年(1109)四月廿六日同行幸、廿四日賀茂祭還立之上、他公事等指合、被止試樂、今日准彼吉例無試樂、有御馬御覽事也、
永昌記 天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月23日 【斎院行事】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月2日 【斎院除目、御禊前駈定】
(前略)戌剋許有除目、<齋院除目也、>長官、<(藤原)定仲、>次官一[以?]下本院被申者等也、但皆悉件者等無官也、主典一人、藏属紀能成任之、其次馬助、<朝實男(源朝俊)、飛彈[騨]前司、>肥後(藤原為宣)・遠江(藤原国資)相博、今夜前駈定同之、
除目上卿新藤中納言(藤原宗忠)<齋院上卿也、>前駈等定同有、今日雖物忌、定除目等皆持來、予開見之、
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月12日 【斎院(官子)御禊】
 天晴、辰剋許予退出、今日齋院(官子)御禊也、今日内(鳥羽天皇)物忌也、仍前駈等無御覽、未剋許向一條棧敷見物、右大將(藤原家忠)・右衞[門脱?]督(藤原能実)被來、
今日前駈<大納言(藤原)經實 中納言(源)國信  宰相別當(源能俊) 新宰相(藤原俊忠) 四位四人、五位四人也、他委不記、)>
中右記 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月13日 【斎院、紫野に入御】
(長承4年3月13日条)
 從殿下、(関白藤原忠通)被仰云、初齋院年灌佛例、
康和三年(1101)四月八日灌佛、<十三日初斎院入紫野院(斎院令子)、>
天永元年(1110)四月八日灌佛、<十三日初斎院入紫野院(斎院官子)、>
長暦二年(1038)(斎院娟子)、寛治五年(1091)(斎院令子)、初齋院入御紫野院、灌佛停止、外記勘申如此、何様可被行哉、予申云、被行何事候哉、
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月17日 【賀茂祭】
 天陰、雨下、爲見物向棧敷、齋王(官子)渡給之間雨止、事了歸亭、皇后宮(令子)使(藤原)惟信、予賜隨身二人、<番長(中臣)兼近、同(佐伯)國重、>餝馬同之、自院引馬給云々、馬寮使予馬二疋引馬給了、近衞二人、
中右記 天永2年
(1111)
3月13日 【斎院内で触穢】
 斎院長官(藤原)定仲来云、斎院中従今朝有五體不具穢、早可申殿下(藤原忠実)并院(白河法皇)之由答了、
中右記
永昌記
天永2年
(1111)
3月15日 【斎院触穢を軒廊御卜】
『中右記』
 今日左兵衛督(藤原能俊)申行軒廊御卜、是斎院●出来死事、了五體不具穢出来事、是賭弓以前所被行也、

『永昌記』
<御卜事、(右頭書)>
 今日軒廊御卜、射殘、

●=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 天永2年
(1111)
3月25日 【潔斎のこと】
 藏人辨(藤原実行?)送書状云、潔齋辨、如本令右中辨(藤原)爲隆朝臣奉仕者、則下知右中辨了、
中右記 天永2年
(1111)
4月1日 【潔斎上卿藤原宗忠、念仏等停止】
(前略)予依爲潔齋上卿、從今日止念佛誦、忌僧尼、心中致潔齋也、(後略)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月6日 【斎院(官子)御禊前駈定】
『殿暦』
 今夕新大納言<宗(藤原宗通)、>定申齋院(官子)御禊前駈、但禊祭上卿新藤中納言(藤原)宗忠也、彼大納言慶賀之後、依吉日故被■申定云々、左衛門佐(藤原)資信有障之替、以美濃守<(源)>忠高令勤前駈之役、

『中右記』
 申時許参斎院(官子)、是依可有出車定也、着客殿座、<上卿西庇東面、弁史座南庇南[北]面、長官已下院司座東庇四面、各居肴物粉熟、>右中弁(藤原)為隆朝臣、大夫史盛仲宿禰、長官、(藤原)定仲以下、次官判官皆着座了、先一献長官勧盃、盃転弁史座、次判官来置例文於予座前、入柳筥硯紙等置弁座前、予取例文読上、令弁書定文、<出車六両、先除去年去々年献之人々并有障人、公卿六人、任舊定文書之、>又出馬定文同令書、<殿上人四人也、多是所着受領也、>弁持来定文二通、見■[了?]召長官下定文、可催之由仰下、次二献如初、居汁物、立箸、次令撤例文退帰、秉燭以前帰家、今日新大納言、<宗、(藤原宗通)>新宰相<為、(藤原為房)>参仗座、被定申御禊前駈云々、是禊祭上卿予可定申也、而大納言被語請云、新任之後、於仗座未行公事、今日依當吉日、欲定申前駈事者、仍予譲彼人也、新宰相、又雖非禊祭、宰相新任人、初為書定文、所勤仕也、
後日新大納言談云、新任之後行公事、道虚如何、先尋例之處、堀川右大臣(藤原頼宗)殿、治安元年七月廿五日、<任大納言、>萬壽二年六月十二日、<壬戌時戌、>着座、件例家吉例也、雖道虚已有着座事、何況乎行公事不可有憚者、仍今日所定申前駈也者、最可然歟、左衛門佐有障替、被入美濃守忠高了、定文令蔵人弁雅兼内覧殿下、被下外記者、
中右記
長秋記
天永2年
(1111)
4月9日 【神館斎王御所、大風で倒壊】
『中右記』
(4月9日条)
 今朝御物忌又出來、今朝有奉幣三社、<春日、賀茂、日吉、>有告文、右少辨 實光作之、就中賀茂社告文之中、依例今日以後雖可忌佛事、所惱若有餘氣者、可召僧侶■<--原本読み取れず-->被作載也、是依有先例也、今日以後不召僧侶也、夜前御讀經等、被渡小寢殿方也、巳時許頗令發御也、
(裏書云)
九日早旦卯辰刻俄大風大雨、
後聞、依件風、伊勢豐受宮藩垣御門顛倒、又賀茂上御社齋王着給神館舎二宇、(中略)
(已上裏書)
民部卿(源俊明)修理權大夫(藤原為房)參入、於小寢殿方被申此間事等、令發御者、早可召僧侶之由、人々所被議也、今朝大雨大風、午後天晴、
頭辨(藤原実行)晩頭參殿下(摂政藤原忠実)申云、今朝大風之間、賀茂上御社齋院着給神館屋二宇、并大柳樹一本顛倒了、此事祭以前最奇恠也、仰云、早申院、且又可尋例者、(後略)
(4月10日条)
 頭辨(藤原実行)來云、神館舎二宇顛■[倒?]事、宣旨云、令官寮卜申、兼又以榮爵三人敍料、下知本社司、祭以前令修造者、則下右中辨(藤原為隆)了、
頭辨談云、又下社河原屋顛倒之由所聞也、然而件屋院(白河法皇)御時、社司初所作也、然者不備事之屋也、仍不可有沙汰、追心閑仰社司、可被修理者、(後略)

『長秋記』
(前略)今日巳刻賀茂權禰宜成忠參内、申云、神舘齋王御所、并公卿座屋、爲大風顛倒者、
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月11日 【斎院(官子)御禊点地】
『殿暦』
 右中辨(藤原)爲隆朝臣覽齋院(官子)御禊點地勘文、見了返給、是今日件點地式日也、

『中右記』
(前略)今日齋院(官子)御禊點地文、右中辨(藤原為隆)持來、<三枚、>見了付右中辨覽殿下(摂政藤原忠実)、則下了、毎年御禊點地、以今日卯日為式日也、左兵衛佐季通俄申所勞由、辞退御禊前駈、則以頭辨奏聞、院(白河法皇)宣云、以筑前守泰兼、可令勤仕者、(後略)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月12日 【神館斎王御所倒壊のこと】
『殿暦』
 權中納言(藤原)宗忠行軒廊御卜、頭辨(藤原実行)來卜形、仰可奏院(白河法皇)之由返給、是去九日大風之間、賀茂上[神]館舎屋二宇并柳樹顛倒事也、官寮所卜口舌、本所病事者、非重卜云々、

『中右記』
(前略)神祇官兼俊、陰陽寮(賀茂)光平朝臣、(賀茂)家榮(賀茂)宗憲等、入從日華門各着、<官西、寮東、>予召兼俊、<依六位名許召也、>來膝突下給本解、仰云、吉凶可卜申、<召外記勘文、又依下解状不委仰也、>歸本座之後、予召云、大炊頭朝臣、<光平依爲四位、官朝臣許召也、>來膝突、仰云、賀茂別當[雷?]社司言上、去<ル>九日卯時、俄大雨柳樹并神館舎屋顛倒事、吉凶可占申、歸本座各卜申、此間神祇少副中臣輔清參入、着雖可相待、非伊勢事時、強不待也、仍且行之間、追又參仕也、卜了、資清持來御卜形、加入本解於筥蓋、執文返蓋、披見之處、神事不浄者、光平又持來占形、披見之處、從震[衍?]巽方、奏口舌之上、本所病事者、共非重占歟、召外記令進筥本解、<副外記勘文奏加、>官卜形寮占形加入、<書宿紙、今日依内御物忌也、>招頭辨(藤原実行)仰可内覽之由、召外記、官寮仰可罷出之由、則官寮退出、仰諸司令撤後退出、(後略)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月13日 【左兵衛佐季通、斎院御禊前駈交替を申請】
『殿暦』
(前略)御禊前駈左兵衛佐(藤原)季通俄申所勞由、依有先例、可催諸大夫一人之由下知、内藏助(藤原)雅仲催之云々、

『中右記』
(前略)御禊前駈左兵衛佐季通申故障替、依殿下(藤原忠実)仰、諸大夫責催由、仰下外記了、又左京進不供奉事、可尋催由同仰了、
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月14日 【斎院(官子)御禊、本院入り】
『殿暦』
 天晴、今日予隨身・馬給(藤原)有業、<藏人、檢非違使也、>
御禊前駈、<美濃守忠高、右衛門佐(高階)宗章、内藏助(藤原)雅仲・右兵衛佐(源)能賢等也、>

『中右記』
 天晴、齋院(官子)御禊也、依爲上卿、未剋參本院、<先沐浴祓、>先雖可着客殿、本院之事全無沙汰人、仍爲尋懈怠事、參御所邊、右中辨(藤原為隆)參入、尋諸事具否、新宰相(藤原)實隆又被參、少納言定通參入、是垣下者、頃而相具人々出自南北門、着客殿座、本居饗、上卿宰相西庇、<東面北上、昇從北面西一間、簀子着座、>辨外記史南庇西上北面、右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職着座、本院司東庇北上西面、垣下北庇西上南面、前駈五位已上座、母屋西三對座、東庭立酒部所幄、<史生官掌在其内、>南庭檢非違使忠重有定着床子座、<看督長先兒立床子、>人々着座了、予前駈京職參否之事問外記、申皆參由、但候近邊、齋王(官子)御出者、<前駈近代不着此座也、>本院事女房出車具了哉由、間長官(藤原定仲)、申具之由、次引廻牛、<御車牛、殿下(摂政藤原忠実)令進牛十頭、>次屐子着十四人、絲鞋着十人、下仕二人、廻客殿、此間藏人(藤原)爲忠從内持參女房扇、<廿三枚、水入冬房、>童女扇、<四枚、>長官起座申事之由、御所邊召藏人、<先敷座、予諸大夫●送、從殿下被催、>給祿、<女装束、>
申刻寄御車於南階、<長官寄御車、>予以下入自中門、列立南庭、<予、宰相中將、立遣水西邊、西面北上、辨立渡、大夫史、外記立遣水東、>
齋王乘車給後、予以下出自南門乘車、立車於堀川一條北邊、<予車西、宰相東、>以召使尋次第、使馬助、行事右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、乘車一々東行、<予此間暫下車簾令車渡、>暫齋王留大宮辻、左右京職進屬以下相竝渡之、御禊物具、宮主<本宮重服云々、仍兼日仰神祇官、令着進代官、>此後尋前駈、未參具也、仍暫遅々、
(裏書云)
先日攝政殿(藤原忠実)被教仰云、公卿立車時、大臣解鞦乍懸牛引出也、大納言以下ハ引出牛、鞦ハ如本結付車也、此事年來不知、仍今日於列見辻立車時、不令解鞦也、
(已上裏書)、
天俄陰頗少雨、不及衣濕、光景推遷、纔人々参來、右兵衞尉經遠、左兵衞尉忠時、右衞門督盛康、蔵人左衞門尉有業、右兵衞佐能賢、左兵衞佐代内蔵助雅▲、 <佐季通織■[俄?]申障、仍仰外記、從昨日召出諸大夫一人也、先例俄闕時有如此事云々、仍被仰下也、>
右衛門佐宗章、左衛門佐代美濃守忠高、<佐資信重服替也、依年少人内府隨身二人取馬口、>雜色二人、所衆四人、<今日爲先所衆以雜色可渡也、而雜色前行失也、>次第使馬助、<景仲、>長官、<(藤原)定仲、>漏刻、齋王御車、<殿下御車、>次官判官相竝渡之、二車、<内大臣(源雅実)牛、>三車、<右大将(藤原家忠)牛、>馬允盛兼、女房出車六兩、<民部卿(源俊明)、藤大納言、(經(藤原経実))、治部卿(源基綱)、左兵衛督(藤原能俊)、左宰相中将、(家(藤原家政))、左大辨(源重資)、>秉燭以前渡了、予歸家之後雨脚、計也御禊之間、依雨有煩歟、(後略)

●=益(益の異体字。こちらを参照(字源))
▲=忡(りっしんべん+中。こちらを参照(字源))
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
4月17日 【賀茂祭】
『殿暦』
 天晴、近衞使許<ニ>隨身(中臣)兼近<府生、>遣之、皇后宮(令子内親王)使引馬・同鞍・隨身番長(佐伯)國重遣之、今日賀茂祭也、終日天陰雨下、仍 (白河法皇)御見物俄止之、使右少將(藤原)伊通、皇后宮使大進(藤原)重隆、

『中右記』
 天陰雨下、賀茂祭也、午時許參齋院(官子)、先參東廊、右中辨參會、相催懈怠事等、
今日院(白河法皇)可有御見物、申有其議、而時剋推遷、雨脚未止、仍以書状遣尋播磨守長實朝臣之處、返事云、依陰雨無御見物、頗以遺恨歟、此間左大辨(源重資)參入、是依新宰相(藤原実隆)<中将語、左大辨今日參云々、彼人依可有院御見物、爲勤仕前駈、大略語付歟、>出車錺馬等未相具者、人人催廻諸事、大略具了、着客殿座、 <其座如御禊日、但母屋座今日諸使座者、>檢非違使等、依雨儀、在東屋南庇、外記■[未?]來甚奇恠也、本院之事具否之由、問長官 (藤原定仲)、大略具了、只今女房出車漸乘了者、但依雨脚無隙、不令引廻錺馬、又不見走童、早可寄御輿之由、仰長官、外記兼職參入、遅參之事頗有所申、強不勘發、使々參否事問外記、皆申在近隣之由、齋王(官子)乘給輿之間、予與左大辨、依雨儀在南中門、長官密語云、從昨日齋王有月障、仍御汗殿、乘輿之間、用長押之下道云々、是先例也、予左大辨以下、出從南門、乘車行向列見辻之間、暫留車於近衞府使少將(藤原)伊通騎馬之所、尋事具否、奏[葵?]不可忌[忘?]之由、入雜色示之處、如案所忌[忘?]云々、早相尋近邊、可懸使之冠由所教也、仍立車於列見辻、凡雨脚殊盛、前後不見、次第違亂、山城騎兵渡、齋王輿暫留大宮辻、行事右中辨(藤原)爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、連車渡、暫留車、予以召使早可被過之由名之、人々車或渡、又從將來過也、尋檢非違使間、召使來云、府生有定忠重二人之外未參、暫可待具由申上者、予以召使仰云、雨脚殊甚、日已欲暮、強不待具、只早可渡者、左右看督長等相竝渡之、檢非違使有定忠重二人相具、而於上卿前欲下馬、而雨脚甚間、有煩下馬、以召使早可渡之由仰下、仍下[乍?]騎馬渡之、山城介親行渡之、内藏寮御幣、皇后(令子)御幣、本院御幣等相渡、皇后宮使大進右衛門權佐重隆牽馬口、番長(佐伯)國重、<殿下(藤原忠実)御随身、>近衞取之、馬寮使助(藤原)有隆、近衛府使右少將(藤原)伊通、錺馬口、<府生敦利、兼久、>牽馬、<府生(中臣)兼近、番長末利、>随身持敕祿、而依甚雨止、少舎人童并笠車等如何、只可被渡歟、若是明日依見物不可令損歟、舞人陪従在前後、早可渡由、以召使仰也、<舞人陪従ハ、上卿車前ハ可下馬也、>内藏寮使助行仲、此間檢非違使宗清、行重、大夫尉繁時渡、使之中、是遅參之所致也、甚以奇恠歟、相尋女使之處、來參者、次第使馬助景仲、長官(藤原)定仲、左右衞門、左右兵衞陣、漏刻、齋王輿、絲鞋着下仕取物等、相具腰指、女藏人、<輿等、>騎馬童女女使追參、在此列歟、<可在御輿也、>次官判官辛櫃膳夫等、所前駈遅參御車二三車、次第使馬允盛兼出車六兩典侍車、<御乳母左中辨(藤原)顕隆妻、一家人々六人前駈、此中允通前駈、如此事儒者強不見事歟如何、>命婦車藏人車、●司車、日已暮雨猶盛、廻轅欲歸之間、藏人所前駈等渡、太奇恠也、凡今日終日大雨、仍強不守次第、只以無懈怠爲先可[耳?]、入夜歸家、<依甚雨次第頗狼藉也、>
(藤原)宗成歸來談云、使出立之處、誠以無人也、有院御見物議、人々不被來、初獻少納言定通、<四位殿上人依遲來也、>
依雨儀、於西中門、錺馬等不渡庭中、
又地下四位一人不見、陪從勸盃五位、次治部卿(源基綱)勸盃、<公卿只一人被來也、>使勸盃、次參院、依無院御見物、推而參入歟、(中略)
去十二日依賀茂社恠異、被行軒廊御卜之處、神事不浄之由、官所卜申也、今日齋王有月障之上、雨脚殊甚、若是依如此事歟、龜卜如指掌也、

●=闈(門構え+韋。こちらを参照(字源))
殿暦
中右記
長秋記
天永2年
(1111)
4月18日 【賀茂祭還立】
『殿暦』
 今日院(白河法皇)有御見物、中納言院(藤原忠通)參仕、高陽院北門令渡給、予見之、院雖御物忌俄有御見物也、内大臣(源雅実)以下公卿殿上人多以前前駈、 今夕解陣、中納言(藤原)宗忠行之、

『中右記』
 天間晴、雲未散、巳刻以後天快晴、院(白河法皇)可有御見物之由、俄有其催、兼日存御物忌由、無其用意間、不能供奉、後聞、御幸、内大臣(源雅実)、右大將(藤原家忠)以下、公卿十四人、殿上人皆參云々、<公卿直衣、殿上人衣冠、>
晩頭行向使少將還立所新大納言(藤原宗通)家、酉時許少將歸來、於西中門下有立盃事、中將宗輔取之、<地下五位二人、取肴物瓶子、>使入了上達部着座、予、治部卿(源基綱)、別當、新宰相中將(藤原為房)、舞人於前庭行舞、了着座、初獻(藤原)宗能朝臣、二獻予、三獻治部卿、次殿上人等五六輩、諸大夫相加、置布祿、人々退歸、依纒頭止無其饗應、
(裏書)
近衞府使少將、
祭日、<比陪支下襲、 錺劔代、 魚袋、>
還日、<青朽集[葉]、 螺鈿釼、 不付魚袋、>
(已上裏書)、(後略)

『長秋記』
<賀茂祭事、>(右頭書)
 祭歸、上皇(白河法皇)御見物、巳刻着衣冠參大炊殿、須相具壺胡●也、而昨日依内召進上、仍不相具之、播磨守長實朝臣問人々見參、其次語云、殿中納言<忠(藤原忠通)、>參給後可有御出也者、及未刻中納言參給、仍出御、經大炊御門東洞院中御門大宮大路、攝政(藤原忠実)於高陽院北面小門見物給、加賀介家定、丹波前司房、刑部大輔仲房居庭上、末之輩居隱有何事乎、御紫野經幄人々多擬神館御見物、不下自馬、下官(源師時)不堪炎暑、下居幄頭、 辨(藤原)實行 少將雅定朝臣 同之、相次人々多同之、此後上達部多被下自馬、上皇御車留幄北幔下、供奉上達部群居、右大將(藤原家忠)以下、兩貫首、并下官、藏人少將(藤原)忠宗等居北幄、内府(源雅実)祇候御車際、按察(藤原)宗通卿行向使幄、良久歸參、紫野幄南北行立五間幄、爲前駈座、其北北面引幔、爲御所、其東立御車幄、南五六丈引幔、<已上纐纈、>自道一町許引所司斑幔、々北妻、大夫尉重時、志資清候、追退雜人、南妻、大夫尉兼季祇候、未了車渡、次内藏助(藤原)行仲、次馬寮使(藤原)有隆、次近衞使少將(藤原)伊通、▲府生(下毛野)敦利、兼久、院引馬府生(中臣)兼近、攝政番長季利、院車風流◆[饂?]飩屋也、次皇后宮(令子内親王)使大進(藤原)重隆、引馬▲、院兼久子、殿御隨身番長(佐伯)國重等也、次次第使馬助、<某、>次雜色所衆、次長官(藤原)定仲、次御車出車、<蘇芳躑躅、>次内侍前駈、<安藝守尹通、出雲守左衞門大夫顯能、左衞門大夫説定、藏人實兼、>出車、<紅躑躅、>次命婦金作車、次藏人、次國司等、渡了還御、於齋院前垣下、殿上人等留、酉刻還御大炊殿、後日
<老屈次將不具胡●事、>
左府(源俊房)云、祭歸日汝不具胡●如何、申云、前日自内[依]借召[進上]、依不具儀也、仰云、老屈次將
<當上皇眼路不可乘車事、>
不具何事有乎、又仰云、行事辨(藤原)爲隆率上官渡上皇御前、不過幾程當眼路乘車、極無禮事也、攝政關白見物時、尚隔眼路乘之、況於上皇御座哉、又右衞門權佐重隆渡
<上皇御前不可張指綱事、>
上皇御前之間、張指繩、尤不可然、關白見物時尚擧指繩渡、是諸大夫例也、何況於上皇乎、 故大藏卿道良卿勤仕馬寮使時、渡故大殿御車前間擧指繩、後日公達擧指繩事未見之由問之、答云、奉禮人儀也、於道良者年來彼殿家人也、加之老屈身也、仍所擧指繩渡、可有便宜事也、於幼若人者非此限、擧指繩事、當御眼路、
<上皇於棧敷御見物時、公卿殿上人居處事、>
留馬令居示、非自本擧之體也、上皇御見物時、上達部下居平張、殿上人或居御車前、又御所前引幔、其儀誠嚴重也、一人見物時、但及殿上人連車見之、其儀事外失也、

●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源)。
「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。
▲=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
◆=食偏+専
中右記 天永2年
(1111)
5月25日 【斎院中死蛇の事を、軒廊御卜】
 今夕内大臣被行軒廊御卜、是伊勢神宮御衾事、又治部卿行軒廊御卜、斎院中●出来死事者、

●=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
殿暦 天永2年
(1111)
11月4日 【斎院触穢のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
11月25日 【斎院相嘗祭延期、12月15日に決定】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 斎院相嘗今日依世間穢気延引、来月三日依當上卯、欲申行處當国忌、准據之例尋大外記(中原)師遠處、国忌日無行神事例、中卯十五日可行之由奏聞、仰云、尤可然、件十五日可行者、
中右記 天永2年
(1111)
12月3日 【相嘗祭延期を本院に伝える】
 今日斎院相嘗、依當上卯雖可被行、當国忌、仍延引中卯可行之由、下知本院了、去十一月間依世間穢延引也、但先尋例之處、十二月無相嘗例、然而又無止神事不可黙而止、仍十二月可被行之由先日議定了、且申院且問外記所沙汰也、
殿暦 天永2年
(1111)
12月15日 【斎院相嘗祭】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
『中右記』
 今日斎院(官子)御禊前駈定也、仍申時許三代、兼以蔵人辨■■此由了、右大辨長忠、右少辨實光等参入、是皆禊斎行事也、予着端座、召官人令敷軾、右大辨着參議座之上、予召外記仰云、御禊令文硯等可持參、外記■[稱?]唯歸入、外記二人出來、一人<ハ>入例■[文?]等於筥置予前、<四府差文、并次第使馬助允差文加入也、>一人<ハ>取硯筥置宰相座前、此間藏人辨參、前駈呼称之替以輔明可入之由被仰下也、兼日有障之輩事由請也、予見例文并差文、令右大辨■<書■依例文入人々事依今度差文、>書了■■予披見、頗文字書■也、又返下令書直、暫留例文等入■■一枚於筥、召外記内覧即歸■[來?]云、又不可奏早可下者、<乍在座付藏人、若■御時内覧之後被下辨可奏也、然而幼主常事也、>加入例文差文等返給外記、仰云、任定文早日催廻者、外記■[稱?]唯取筥退歸之次、取重硯筥入了、<前駈之定、兼日尋日次、下知官外記也、>禊日前駈、<左衛門權佐藤實光、淡路守藤輔明、右衛門佐代官、左兵衛佐藤顯經、右衛門佐源顯親、>次第使、<右馬助藤有隆、左馬允平■重、>
   年   月   日<已上一紙也、依御物忌申[用?]宿紙、>
入夜之後事了、爲定出車、引辨大夫史參斎院、<兼日召仰院司了、>着客殿座、<予座西庇敷茵、右少辨大夫史在南座、長官以下東庇、各居肴物粉熟、本院儲之、>宰相外記不參、自陣退出、先一獻、長官勧盃、予授盃轉於辨、辨來座前授盃傳大夫、次院司入例文於柳筥置予座前、又置硯於辨座前、予取例文見之、出車六兩可被獻公卿令辨書、<除大臣并去年役人、有障人、禊斎上卿、宰相也、>又祭日騎馬童女出馬殿上人四人定文令書、<除去年人々、多用殿上受領、>右少辨持來定文二通、<出車一枚出馬一枚>予披見後召長官給定文、早可催之由仰下之、次二獻如初、居汁物、立箸、次召院司、令徹例文并硯退出了、
 此次一條堀川橋可令修理由可仰左右京職自[旨?]仰辨了、
又毎年御禊點地卯日爲式日也、而今年祭以前有二卯、可由何卯哉之事問院司處、申云、先例中卯之由院司所申也、
又斎王御車之牛從殿下爲定事令奉給也、至二三車之牛者、先々從本院被申可然大臣云、至當斎院者、只以院司可申大臣并上搗蜚[言之由被仰下也、仍可申左府(源俊房)并民部卿(源俊明)之由仰長官了、<去年内大臣(源雅実)右大將(藤原家忠)被奉也、>今夕入夏節也、仍上皇(白河法皇)爲御方違有御幸伏見云々、
中右記 天永3年
(1112)
4月5日 【御禊前駈の変更】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
4月7日 【御禊前駈の変更】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
4月9日 【御禊前駈奉仕】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
4月11日 【賀茂祭除目】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
4月17日 【御禊点地文決裁】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月20日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 齋院(官子)御禊也、予依爲上卿午時許參本院、<入自東門、>雖可着客殿無本院沙汰人、仍萬事懈怠、爲催諸事參御所邊、行事右少辨定光、長官(藤原)定仲相共沙汰也、雨脚殊甚、人々遅參、女[仍?]尋藏人許了、未刻着南客殿、<昇自北面西一間、着西庇座東南、>大夫史盛仲、外記則成着南庇座、長官着東庇座、前駈座、<母屋、>垣下座、<北庇、雖有座不參着、>皆本院敷座、<内藏寮居饗、>右少辨兼左衛門權佐實光兼前駈、仍請假早退出、於近邊出立云々、此間雲扇頗收日影間見、予前駈參否并供奉諸司事問外記、皆申候近邊之由、本院之事具了哉由問長官、申具了由、仰檢非違使可着座之由、府生忠重着南庭床子、<兼立床子、失也、着座之時、看督長可兒立也、>參議右大辨長忠參仕、昇自南方如何可尋、<去年宰相昇自北、經上卿座後所着座也、>次仰長官令引廻御車之牛、廻客殿、<侍北西南一廻、雨下時止之、>次寄齋王御車、<垣下實明朝臣、藏人説雅參入、>予右大辨列立南庭遣水西、<外記史在水東、>兵衛佐能賢寄御車、件人依院御氣色參入者、是依齋王一家人歟、此間蔵人左衛門尉盛經持參女房扇、依遅參暫不受取間立東邊、引出御車間、予可給禄於藏人由仰長官、與右大辨出自中門并南門乘車、立車於一條堀川辻、<予西、右大辨東、>以召使尋供奉諸司并次第使馬助、此間齋王御車留大宮辻被待人々參也、光景推移、王不皆參、殿下御隨身走來云、日已暮、不待憖早可渡者、大夫史外記車渡了、前駈人々車隨將來所渡也、左右京職御禊物具、宮主前駈左右兵衛尉遅參、且右衛門尉宗實、<檢非違使也、候院北面者萬事美麗、>左尉家重、右兵衛佐顯親、左佐代肥前守宗明、右衛門佐代淡路守輔明、左權佐實光、雜色所衆遅參、相尋之間、右兵衛尉親兼、左兵衛尉孝基等甚遅參奇恠也、依雨日如此輩自然致懈怠歟、次第司右馬助(藤原)有隆欲渡、予留之、猶可渡雜色所衆之次仰之處、有隆申云、於次第使者不知所之、前駈只四衛渡之後所渡也、此事可尋知、所陳非無其謂、但予所尋持之行列次第在所集雜色之下也、仍所仰其由也、此間雜色所衆等出來渡之、<先所衆、次雜色、>長官定仲漏知齋王御車、<走童、>次官判官相竝、予兒下車二三車<各有走童、民部卿(源俊明)藤大納言(藤原経実)牛也、>次第使左馬允<季重、>出車六兩、<直衣、>源大納言(源雅俊)、按察大納言(藤原宗通)、左衛門督(藤原能実)、大藏卿、藤宰相(藤原俊忠?)、新宰相中將、<實(藤原実隆)、>六人車也、次馬寮車、秉燭以前歸家、
齋王先有御湯殿於御出立所、毎年御禊無御祓又御髮上事、乘輿之日有其儀、仍御禊日ハ無其事由、女房被申也、如此事依不審相尋也、
河原御禊所官辨本院相共勤仕御裝束令、又毎年御禊國司無獻物云々、
中右記 天永3年
(1112)
4月21日 【斎院御禊翌日】
 天明今夕有警固召仰、大宮權大夫參勤云々、(中略)
 頭辨送書札云、如使出車闕了、是公卿或有故障或奉斎院之間人數盡了、舊車早可遣女使許也、禊齋上卿出車雖不可奉、依可事闕所被仰下也、是院宣者、可奉之由申了、
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月23日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
10月29日 【賀茂下御社の川合社で火災】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
11月1日 【斎院相嘗祭延引検討】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 晩頭藏人辨來云、夜前川合社廻廊中門等焼亡、寶前一宇雖免炎上、御體早奉渡貴布禰社中了、但下社氏人等皆穢了、又歸參下御社、奉毎日御供了、仍下御社穢了、然者明日相嘗可被行哉、可延引哉、可量申由、有院宣也、雖申殿下(藤原忠実)、今日御着陣之日也、不内覧不吉事、仍院令沙汰御也、予申云、本社穢了、不可延引歟、但有穢之時有相嘗例可被尋問歟、以是宗可被奏之由答了、是被問人々云々、又藏人辨進書札云、只今々々可馳參院者、仍着直衣馳參、則大蔵卿(藤原)爲房參入、仰云、相嘗祭事更ニ不思食得、爲沙汰遣召左大臣(源俊房)民部卿之處、有所勞、但可被尋例由雖申、已先例不詳也、今間召上下社司等被問例處、申云、本社相嘗全不覺延引事、但於齋院相嘗者、齋王有月障時、或用中卯例事也、近者去年依下野守明國穢、十二月被行也、於本社相嘗、全不延引之由所申也、重仰云、然者本社有穢時、有行相嘗例哉、社司等申云、件例又不慥覺者、但於四月祭者、雖有穢供齋不止、於公家使云々、齋王參者所被止也、准彼例行相嘗可宜歟、就中四月祭重事也、相嘗次事也者、(後略)
中右記 天永3年
(1112)
11月8日 【相嘗祭延引の宣命を作成】
 有奉幣賀茂社、是依川合社火事也、予爲上卿、仍未刻參内、着端座、令敷膝突、先召大内記敦光、仰宣命趣、<昨日下軒廊御卜、内々令草儲也、先火事條御卜趣、不信不浄由、如本修造事、番直者慥尋子細、追可有罪過事、辭別、相嘗祭延引事等也、>此間使宰相中將(源)顯雅被參、大内記草宣命持來、披見之後、所■[々?]可相直事、仍仰其由、令作直、又持來、令内覽殿下、則歸來云、清書重不可覽者、仰可清書之由返給、召行事藏人辨、尋幣具否、申具了由、又召外記、問次官參否、縫殿頭信俊參入者、<入定文、次官申障也、>大内記持來清書、披見目之、宰相中將來座前給宣命、宰相取宣命出了、幣物次官相具也、于時申二點也、<勘文刻限、>召内記返給筥之後退出了、
中右記 天永3年
(1112)
11月14日 【斎院相嘗祭、斎王(官子)月障により延期】
(前略)今日賀茂上下社行相嘗、但齋院相嘗延引、依齋王(官子)月障事也云々、
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
閏3月24日 【検非違使別当藤原宗忠、斎院御禊上卿を辞退】
(未入力)
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
4月11日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦
中右記
天永4年
[永久元年]
(1113)
4月20日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 齋院御禊也、殿下無御棧敷、令候内給、是南京大衆猶競發之間令憚給歟、(後略)
殿暦
中右記
長秋記
天永4年
[永久元年]
(1113)
4月23日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦
長秋記
永久元年
(1113)
7月25日 【斎院触穢により賀茂社に奉幣】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
2月2日 【斎王のこと】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
2月16日 【斎院のこと】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(前略)此間右兵衛督(藤原)忠教卿參仗座、被定申齋院(官子)御禊前駈、大藏卿(藤原為房)書之、
 又有小耳目、被成齋院次官、
 又有本院出車定云々、
中右記 永久2年
(1114)
4月10日 【斎院(官子)御禊点地】
 早旦從内退出、府生經則來云、今日斎院(官子)御禊点地也、仍所罷向也、是依為山城拒捍使也、(中略)
 今日稻荷祭、齋院御禊點地、
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
4月13日 【斎院(官子)御禊】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
(前略)齋院(官子)禊如例、前駈右兵衛尉平、<兼季子、>左兵衛尉清宗、右衛門尉盛道、左衛門尉成實、右兵衛佐代攝津守忠雅左兵衛佐顯盛、<物具美麗、>右衛門佐代上野守實房、左衛門佐清隆、[代歟ク]長官、<周防守子、>次第不動渡大路如何、齋王御車、出車紅薄様、上卿源中納言、<能俊>、宰相、<俊忠、>右中辨、<(藤原)爲隆、>外記、史、
今年藤氏源氏上達部、依京極殿事(※)、多服假、仍出仕五六輩奉出車也、<各奉二三兩也、>一二三車牛[等歟ク]民部卿、按察大納言(藤原宗通)、予奉之也、
今日垣下、經忠朝臣、實明朝臣、資信、忠隆、藏人説雅、忠遠、

4/3源麗子(藤原師実正室)死去のこと。
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
4月16日 【賀茂祭、大雨】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 天陰雨下、賀茂祭也、
早旦自院被仰下云、去夜今朝雨脚殊甚之間、鴨川浮橋等定流損歟、齋院(官子)渡給之間、有其恐、早差遣檢非違使等、可令固件橋者、仍仰行重經則等了、巳時以後、天晴雲收、扶桑甚明、
參一條殿、密々窺見祭、雖無御棧敷、大略見物、申時許、行事右中辨(藤原為隆)以下外記史等渡、左右看督長四十人許渡也、<不足廿人、>檢非違使府生經則、(伴)有貞、志(中原)明兼、(大江)行重、尉(藤原)盛道、(平)宗實、大夫尉(平)忠盛、合七人渡、殘輩或重服或所勞不出仕也、山城介、馬寮使、<右權頭盛家、>近衛府使左中将信通朝臣、<浮線綾表袴、蘇芳下襲、車簾五月會打毬具風流、●府生(下毛野)敦利、(中臣)兼重、季長、末利、敦忠、>内藏寮(藤原)行仲、次第使馬助兼永、齋院御輿所[衍?]前駈、典侍以下、次第頗違亂歟、秉燭以前事了、(後略)

●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源))
中右記 永久2年
(1114)
7月27日 【斎院のこと】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
9月15日  以藏人辨奏云、可除賀茂供御所者、然者斎院網代如何、諸社又多云々如何、仰云、被免所々者如何、可除賀茂歟、歸家之後、召有貞、經則、可破宇治田上網代之由仰了、但可除賀茂之旨仰含了、又申殿下(藤原忠実)了、
中右記 永久2年
(1114)
12月30日 【斎院女官のこと】
(未入力)
殿暦 永久3年
(1115)
4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
4月9日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
4月19日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
12月13日 【斎院侍屋焼亡】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
4月5日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(前略)民部卿(藤原宗通)送錦二端、彼卿男奉仕御禊前駈笠●錦也、(後略)

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。)
殿暦 永久5年
(1117)
4月12日 【斎院(官子)御禊】
 辰剋許參院、數剋候御前、及午剋退出、未剋許姫君(藤原泰子)・女房(源師子)並出車等を相具向棧敷、爲見物也、内府(藤原忠通)同之、右大將(藤原家忠)・二位大納言(藤原)經實・藤中納言宗忠・別當(藤原忠教)・治部卿(源能俊)等來、見物了還亭、
殿暦 永久5年
(1117)
4月15日 【賀茂祭】
 雨氣猶不止、仍(白河)上皇御見物不定、申剋許晴、仍有御幸、余・内府(藤原忠通)參入、御見物儀如先々、還御後退出、(後略)
殿暦 永久5年
(1117)
4月16日 【斎院(官子)紫野に還御】
 今朝自院有御使、御見物事也、猶可候之由奏了、午剋許内府(藤原忠通)相具參入、頃之成、於紫野有御見物、儀如例年、還御後予退出、(後略)
中右記 元永元年
(1118)
4月3日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
4月18日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
4月21日 【賀茂祭】
(未入力)
中右記 元永元年
(1118)
8月29日 【斎院司のこと】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
3月25日 【法皇、関白家の上野荘園寄進を禁ずる】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
4月6日 【斎院(官子)御禊前駈定】
(未入力)
中右記 元永2年
(1119)
4月12日 【御禊前駈の再検討】
(未入力)
長秋記 元永2年
(1119)
4月15日 【御禊前駈の再検討】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年
(1119)
4月19日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年
(1119)
4月22日 【賀茂祭】
(未入力)
長秋記 元永2年
(1119)
5月30日 【御禊前駈のこと】
(未入力)
中右記
長秋記
元永2年
(1119)
11月15日 【賀茂御祖社焼亡】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
3月22日 【賀茂御祖社焼亡のこと】
(未入力)
中右記 元永3年
[保安元年]
(1120)
4月3日 【小除目。斎院次官】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
4月12日 【斎院(官子)御禊】
(未入力)
中右記 保安元年
(1120)
4月15日 【賀茂祭】
(未入力)
崇徳天皇
史料 月日 記述
中右記 大治4年
(1129)
10月5日 【前斎院(官子)、東洞院姉小路第に渡御】
(前略)今夕前齋院<官子、>初被渡東洞院姉小路亭云々、是與但馬守(藤原)敦兼朝臣相博云々、從院御車殿上人遣、御車寄<ニ>左宰相中將<宗(藤原宗輔)、>遣之云々、(後略)
中右記 天承2年
[長承元年]
(1132)
3月6日 【前斎院(官子)の母、清和院内に太子堂を建立】
 今日、前齋院(官子)母屋[堂]<号早参河人也>。世加院院中建立子[太子?]堂供養。公伊法印、為導師。衆十人、云々。
近衛天皇
史料 月日 記述
台記
本朝世紀
百錬抄
ほか
久安2年
(1146)
3月8日 【前斎院(官子)の東洞院第に落雷】
『台記』
 今夜大雷、京都師三所落、云々。
此中、前斎院(官子)<白川法皇女、頼綱朝臣孫>東洞院第為雷火被焼。故下野前司(源)明国子男(源経光)、在其第内被震殺。希代事也。

『本朝世紀』
 夜半。大雨雷鳴霹靂。前齋院官子内親王<綾小路北。東洞院東。>居宅爲雷火燒失。■[内?]親王傍親源經光被震死畢。經光日來依風病寢臥。于時雷聲殷々。經光驚而執兵杖。<俗号之奈木奈多。>爰如流星物穿屋上飛來。經光忽以顛仆。其腹二尺計割畢。于時經光妻在側。被衣臥地。日來依讀誦觀音經。適免其殃了云々。靈驗掲焉者也。經光者前下野守源明國男也。雖爲累葉武士。雷公不怕之歟。今夜。内親王避雷火。令移宮内大輔藤原定信宅云々。依近隣也。

『百錬抄』
 雷落前斎院家。忽焼亡。故下野守明国子震死。



史料 記述
十三代要略
白河院
(皇女)
 宮子内親王<母前三河守頼綱朝臣女。>
一代要記
白河院天皇
(皇女)
 官子内ヽヽ[親王]<賀茂齊、號せカヰンノ齊院、母三川守源頼綱女、>

鳥羽院天皇
(賀茂)
 官子内ヽヽ[親王]<法皇五女、■[天]仁元ー十一月■■[八日]卜定、せカヰンノ齊院、>
帝王編年記
白河院
(皇女)
 宮子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院>

鳥羽院
(齋院)
 宮子内親王<同(白河院)皇女/同(天仁)十一月八日卜定>
二中歴
(齋院)
 宮子<同(白河)女堀川齋院 天仁元年>
皇代暦
鳥羽天皇
(齋院)
 宮子内親王 法皇女天仁元年十一月八日卜定
本朝皇胤紹運録
(白河院子)
(289)宮子内親王[齋院。號清和院。母頼綱朝臣女]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
宮子内親王 天仁元年卜定。同(白河院)御女。清和院齋院。
賀茂斎院記
官子内親王
白河院之皇女也。母頼経女。
天仁元年卜定。
号清和院斎院。
今鏡
(8・腹々の御子)
(白河天皇の)后の宮、女御、更衣にはおはせねど、御子生みたてまつり給へる所々、近き御代にあまた聞こえ給ふ。(中略)
 勢賀院の斎院(官子)と申ししも、同じころ立ち給ふと聞えき。それは頼綱と聞こえし源氏の、三河守なりしが娘の腹におはすと聞えき。七十にあまり給ひて、まだおはすと聞え給ふ。唐崎の禊ぎ、上西門院せさせ給ひしころ、その続きに、院の御沙汰にて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。主殿頭何大夫とか名ありし人、御後見にて、御車の尻に、綾の指貫、院のおろして著て渡るなど聞えき。
山家集
  • (春)春は花を友といふことを、せか(清和)院の斎院(官子)にて人々よみけるに
(92)おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日を暮らすべき

  • (春)せか(清和)院の花盛りなりける頃、としたかのもとよりいひ送られける
(99)おのづから来る人あらばもろともにながめまほしき山桜かな

  返し
(100)ながむてふ数に入るべき身なりせば君が宿にて春は経ぬべし

  • (春)夢中<ノ>落花といふことを、せか(清和)院の斎院にて、人々よみけるに
(139)春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり


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