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賀茂斎院歴代候補



歴代斎院の卜定にあたり、候補となった皇女たちの一覧です。



【一覧表の見方】
  • ここでは歴代賀茂斎院の卜定に際して、斎院に卜定された皇女及び当時の伊勢斎宮の他、当時斎院候補に該当したと思われる皇女をすべて挙げた。
  • なおここでの「皇女」の定義は、以下のいずれかとする。
     天皇の娘で、内親王宣下を受けた者
     皇太子の娘(女王)
     後に天皇となった親王の娘(父の即位前は女王)
     上記以外で、斎王となった女王
  • 斎院候補の条件は「未婚の皇女(内親王および上記定義に該当する女王)」かつ「35歳以下」とする。(※年齢はすべて数え年)
    「候補」欄の記号は以下の通り。
     ○〜候補資格有
     △〜資格有または生存を断定できず
     ×〜候補資格なし(前斎王、既婚者、出家者、臣籍降下した皇女、女院など)
  • 以下の条件に該当する皇女は△とした。
     一品内親王
     年齢が1歳または31歳以上35歳以下の皇女
      (※2歳以上30歳以下の皇女は○とする)
     父天皇の即位後に誕生したが、内親王宣下を受けていない皇女
  • 表中の人名はすべて卜定時の名前・肩書で表記し、必要に応じて()により付記した。
  • 内親王は原則として名前のみの表記とした。
  • 候補者は父親別に、各々年齢順で記載した。(年齢不明の者も、各種史料から推定した順序とした)
  • 父帝即位前に誕生し、即位後でもまだ宣下を受けていない皇女については「女王」とし(内親王)を付記した。
  • 父帝即位後に誕生した(またはそう思われる)が、内親王宣下を受けていなかった皇女については、名前を()に入れて表記した。
  • 年齢不詳の皇女のうち、父の死より後に死去したものについては、父の死後9ヶ月以内までに生まれているものと見なした。
  • 年齢不詳の斎王については、卜定年齢の下限が2歳と考えられることから、卜定の前年までには生まれているものと見なした。
  • 死亡または既に斎王経験済により候補から外れたことが明確な皇女は、次の卜定で一覧から除いた。
  • 結婚・出家・院号宣下等により候補から外れた皇女は、直近の卜定にその旨記載の後一覧から除いた。
  • 臣籍降下により候補から外れた皇女は一覧から除いたが、後年皇族に復帰した者は臣籍にある間も記載した。
  • 女性の初産年齢については、諸記録のおおよその平均値から20歳と想定した(実際はもっと早かった例もあるが、ひとつの目安である)。



  • 弘仁元年(810)【嵯峨天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢任期
    初代斎院有智子8078474嵯峨天皇810-831
    斎宮仁子808以前889不明嵯峨天皇809-823
    候補名前生年没年年齢備考
    業子802-807?815不明嵯峨天皇
    正子8108791嵯峨天皇
    氏子女王804?-8098852以上大伴親王(淳和天皇)斎宮(823-827)
    有子女王804?-8098622以上大伴親王(淳和天皇)
    貞子女王805?-8098342以上大伴親王(淳和天皇)

    ※業子は嵯峨天皇第一皇女。母高津内親王は801/11/9加笄。
     異母妹の有智子内親王の生年(807)から、802-807頃誕生と思われる。
     (なお母高津は809年6月以降妃を廃されており、斎院卜定に影響した可能性もありうる)。
     氏子・有子・貞子の母高志内親王は789年生、801/11/9加笄、809/5/7没。
     また高志所生の長男恒世親王は805年生である。
     このことから、高志の初産は早くても804年(16歳)頃と推測される。
     なお氏子・有子と恒世・貞子がそれぞれ双子であった可能性も考慮し、貞子のみ805?以降誕生とした。



  • 天長8年(831)12月8日【淳和天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢任期
    2代斎院時子女王824?-830847不明東宮正良親王
    (仁明天皇)
    831-833
    斎宮宣子女王827以前833以降不明仲野親王828-833
    候補名前生年没年年齢備考
    ×正子
    [淳和皇后]
    81087922嵯峨天皇827立后
    秀子811以降85021以下嵯峨天皇
    芳子811以降83921以下嵯峨天皇
    ×俊子不明826不明嵯峨天皇
    繁子812?以降85320以下嵯峨天皇
    宗子843以前854不明嵯峨天皇
    ×基子819頃?83113前後?嵯峨天皇3月没
    純子843以前863不明嵯峨天皇
    斉子843以前853不明嵯峨天皇葛井親王室
    ×氏子804?-80988523以上淳和天皇前斎宮(823-827)
    有子804?-80986223以上淳和天皇
    貞子805?-80983422以上淳和天皇
    寛子835以前869不明淳和天皇
    崇子841以前848不明淳和天皇
    同子841以前860不明淳和天皇
    久子女王824?-833876不明東宮正良親王
    (仁明天皇)
    斎宮(834-850)
    高子女王824?-832876不明東宮正良親王
    (仁明天皇)
    斎院(833-850)
    新子女王839以前897不明東宮正良親王
    (仁明天皇)

    親子女王834?-837851不明東宮正良親王
    (仁明天皇)
    847/4/11初笄
    柔子女王838以前869不明東宮正良親王
    (仁明天皇)
    848/4/14初笄
    真子女王850以前870不明東宮正良親王
    (仁明天皇)

    平子女王850以前877不明東宮正良親王
    (仁明天皇)

    重子女王850以前865不明東宮正良親王
    (仁明天皇)


    ※正子・秀子・芳子・繁子の母は皇后橘嘉智子。正子が長女。
     同母の仁明天皇は810年生(正子と双子?)、823/8/1元服。
     よって仁明天皇の第一子の誕生は824年以降と考えられる。
     なお秀子・芳子が双子であった可能性を考慮し、繁子のみ812?年以降誕生とした。
     また嵯峨天皇の娘で生年不明な皇女は、嵯峨天皇の崩御が842/7/15なので、
     遅くとも843年までに誕生したものとした。



  • 天長10年(833)3月26日【仁明天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢任期
    3代斎院高子824?-832866不明仁明天皇833-850
    斎宮宣子女王827以前833以降不明仲野親王828-833
    候補名前生年没年年齢備考
    秀子811以降85023以下嵯峨天皇
    芳子811以降83923以下嵯峨天皇
    繁子812?以降85322以下嵯峨天皇
    宗子843以前854不明嵯峨天皇
    純子843以前863不明嵯峨天皇
    斉子843以前853不明嵯峨天皇葛井親王室
    有子804?-80986225以上淳和天皇
    貞子805?-80983424以上淳和天皇
    寛子835以前869不明淳和天皇
    崇子841以前848不明淳和天皇
    同子841以前860不明淳和天皇
    久子824?-833876不明仁明天皇斎宮(834-850)
    新子839以前897不明仁明天皇
    親子834?-837851不明仁明天皇847/4/11初笄
    柔子838以前869不明仁明天皇
    真子850以前870不明仁明天皇
    平子850以前877不明仁明天皇
    重子850以前865不明仁明天皇



  • 嘉祥3年(850)7月9日【文徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢任期
    4代斎院慧子844?-849881不明文徳天皇850-857
    斎宮晏子843?-849900不明文徳天皇850-858
    候補名前生年没年年齢備考
    ×秀子811以降85040以下嵯峨天皇2月没
    繁子812?以降85339以下嵯峨天皇
    宗子843以前854不明嵯峨天皇
    純子843以前863不明嵯峨天皇
    斉子843以前853不明嵯峨天皇葛井親王室
    寛子835以前869不明淳和天皇
    同子841以前860不明淳和天皇
    明子841以前854不明淳和天皇
    ×久子824?-833876不明仁明天皇前斎宮(834-850)
    ×新子839以前897不明仁明天皇父帝の喪中
    ×親子834?-837851不明仁明天皇847/4/11初笄
    父帝の喪中
    ×柔子838以前869不明仁明天皇848/4/14初笄
    父帝の喪中
    ×真子850以前870不明仁明天皇父帝の喪中
    ×平子850以前877不明仁明天皇父帝の喪中
    ×重子850以前865不明仁明天皇父帝の喪中
    恬子843?-858913不明文徳天皇斎宮(859-876)
    述子843?-856897不明文徳天皇斎院(857-858)
    (礼子)843?-850899不明文徳天皇851/4/25宣下

    ※仁明天皇は850/3/21崩御。よって子女の誕生は遅くても850年以内と推測される。
     なお卜定の7月9日は喪中であった(※諒闇中の斎院卜定はこの時のみ)。
     また文徳天皇の元服は842/2/16(16歳)であるので、皇子女の誕生は843年以降か。



  • 天安元年(857)2月28日【文徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    5代斎院述子843?-856897不明文徳天皇
    857-858
    斎宮晏子843?-849900不明文徳天皇
    850-858
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    純子843以前863不明嵯峨天皇

    柔子838以前869不明仁明天皇
    848/4/14初笄
    真子850以前870不明仁明天皇

    平子850以前877不明仁明天皇

    重子850以前865不明仁明天皇

    恬子843?-858913不明文徳天皇
    斎宮(859-876)
    儀子854?-858879不明文徳天皇
    斎院(859-876)
    869/2/9初笄
    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25宣下
    掲子851?-859914不明文徳天皇
    斎宮(882-884)
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    勝子843?-859871不明文徳天皇

    珍子844?-859877不明文徳天皇

    忠子女王8549044時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    簡子女王855以降914不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    綏子女王855以降925不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    為子女王855以降899不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29

    ※文徳天皇は858/8/27崩御。よって子女の誕生は859年以前と推測される。



  • 貞観元年(859)閏10月5日【清和天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    6代斎院儀子854?-8588792-5?文徳天皇
    859-876
    斎宮恬子843?-858913不明文徳天皇
    859-876
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    柔子838以前869不明仁明天皇
    848/4/14初笄
    真子850以前870不明仁明天皇

    平子850以前877不明仁明天皇

    重子850以前865不明仁明天皇

    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25宣下
    掲子851-859914不明文徳天皇
    斎宮(882-884)
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    勝子843?-859871不明文徳天皇

    珍子844?-859877不明文徳天皇

    忠子女王8549046時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    簡子女王855以降914不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    簡子女王855以降925不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    為子女王855以降899不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29

    ※忠子・簡子・簡子・為子の母班子女王は833生。忠子が長女で第一子。
     また同母兄弟に是忠親王(857-922)、是貞親王(?-903)、宇多天皇(867-931)がいる。
     班子女王と息子たちの生年から見て、簡子・簡子・為子もおおよそ872年頃までの生まれと思われる。
     なお為子は甥醍醐天皇の妃となって899年頃勧子内親王を出産しており、宇多天皇の妹とすれば868年以降の生まれか?



  • 元慶元年(877)2月17日【陽成天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    7代斎院敦子871-872頃?9306-7?清和天皇873/4/21877-880
    斎宮識子8749074清和天皇876/3/13877-880
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×平子850以前877不明仁明天皇
    2/14没
    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25宣下
    掲子851-859914不明文徳天皇
    斎宮(882-884)
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    勝子843?-859871不明文徳天皇

    ×珍子844?-859877不明文徳天皇
    1月没
    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21
    直子女王865?-883892不明惟彦親王
    (文徳皇子)
    --斎院(889-892)
    忠子女王85490424時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    簡子女王855以降914不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    綏子女王855以降925不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    為子女王855以降899不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    繁子女王877以前916不明時康親王
    (光孝天皇)
    884/4/9斎宮(884-887)
    穆子女王881以前903不明時康親王
    (光孝天皇)
    884/4/9斎院(882-887)

    ※清和天皇は850生、864/1/6元服。よって早ければ第一子の誕生は864年内と考えられる。
     なお繁子女王は、886年の群行の際に月事の記録があり、当時10歳以上であったのはほぼ確実。



  • 元慶6年(882)4月9日【陽成天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    8代斎院穆子女王881以前903不明時康親王
    (光孝天皇)
    884/4/9882-887
    斎宮掲子851-859914不明文徳天皇
    882-884
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25宣下
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21
    直子女王884以前892不明惟彦親王
    (文徳皇子)
    --斎院(889-892)
    忠子女王85490429時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29
    簡子女王855以降914不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29884降下
    綏子女王855以降925不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29884降下
    為子女王855以降899不明時康親王
    (光孝天皇)
    891/12/29884降下
    繁子女王877以前916不明時康親王
    (光孝天皇)
    884/4/9斎宮(884-887)



  • 寛平元年(889)2月6日【宇多天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    9代斎院直子女王884以前892不明惟彦親王
    (文徳皇子)
    --889-892
    斎宮元子女王888以前897以降不明本康親王--889-897
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21889/4/22没
    ×源簡子855以降914不明光孝天皇891/12/29884降下
    ×源綏子855以降925不明光孝天皇891/12/29884降下
    ×源為子855以降899不明光孝天皇891/12/29884降下
    ×繁子877以前916不明光孝天皇884/4/9前斎宮(884-887)



  • 寛平5年(893)3月14日【宇多天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    10代斎院君子890-891?9023-4?宇多天皇892/12/29893-902
    斎宮元子女王888以前897以降不明宇多天皇--889-897
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    簡子855以降914不明光孝天皇891/12/29
    綏子855以降925不明光孝天皇891/12/29陽成院妃(907以前?)
    為子
    [醍醐妃]
    855以降899不明光孝天皇891/12/29897/7/3入内
    均子8909104宇多天皇892/12/29以前?敦慶親王妃
    (結婚年不明)
    柔子890-891?9592宇多天皇892/12/29
    (孚子)892-894958不明宇多天皇895/11/7

    ※長子・儼子の母は姉子女王(生没年不詳)。同母兄弟の長男元長親王は901生。
     均子は宇多天皇第一皇女(母は皇后藤原温子)であることから、親王宣下も異母妹の柔子・君子より早かったと思われる。



  • 延喜3年(903)2月19日【醍醐天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    11代斎院恭子9029152醍醐天皇903/2/17902-915
    斎宮柔子890-891?95912宇多天皇892/12/29897-930
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    簡子855以降914不明光孝天皇891/12/29
    綏子855以降925不明光孝天皇891/12/29陽成院妃
    (結婚年不明)
    均子89091014宇多天皇892/12/29以前?敦慶親王妃
    (結婚年不明)
    孚子892-89495810-12宇多天皇895/11/7
    依子8959369宇多天皇897/2/29
    成子895-8969788-9宇多天皇897/2/29
    誨子897以降?952不明宇多天皇
    元良親王妃
    (結婚年不明)
    季子897以降?979不明宇多天皇

    勧子899?914以降5?醍醐天皇899/12/14
    宣子9029202醍醐天皇903/2/17斎院(915-920)
    (慶子)9039231醍醐天皇904/11/17

    ※勧子内親王は生年不明だが、母為子内親王が寛平9年(897)7月3日に入内しており、898年から為子の没年月日(昌泰2年(899)3月14日)までの間に生まれたのは確実。また『九暦』天暦4年6月15日条には「東院后(光孝天皇女御班子女王)御女内親王(為子)...彼妃内親王不幾而依産而薨」とあり、為子内親王が勧子出産のため没したことが判るので、勧子誕生は899年3月頃と思われる。



  • 延喜15年(915)7月19日【醍醐天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    12代斎院宣子90292014醍醐天皇903/2/17915-920
    斎宮柔子890-891?95924宇多天皇892/12/29897-930
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    孚子892-89495822-24宇多天皇895/11/7
    依子89593621宇多天皇897/2/29元平親王妃
    (結婚年不明)
    成子895-89697820-21宇多天皇897/2/29
    誨子897以降?952不明宇多天皇
    元良親王妃
    (結婚年不明)
    季子897以降?979不明宇多天皇

    勧子899?914以降17?醍醐天皇899/12/14914/11/19著裳
    慶子90392313醍醐天皇904/11/17
    勤子904?93812?醍醐天皇908/4/5
    都子90598111醍醐天皇908/4/5
    ×婉子905-906?96910-11?醍醐天皇908/4/5斎院(931-967)
    母の喪中
    修子907-909?9337-9?醍醐天皇

    ×敏子907-910?969以降6-9?醍醐天皇911/11/28母の喪中
    雅子9109546醍醐天皇911/11/28斎宮(931-936)
    普子9109475醍醐天皇911/11/28
    (靖子)915?9501?醍醐天皇930/9/29920降下?

    ※恭子・婉子・敏子の母は女御藤原鮮子(915/4/30没)。このため卜定の7月19日は喪中であった。



  • 延喜21年(921)2月25日【醍醐天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    13代斎院韶子9189804醍醐天皇920/12/17921-930
    斎宮柔子890-891?95930宇多天皇892/12/29897-930
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    孚子892-89495828-30宇多天皇895/11/7
    依子89593627宇多天皇897/2/29元平親王妃
    (結婚年不明)
    成子895-89697826-27宇多天皇897/2/29
    季子897以降?979不明宇多天皇

    慶子90392319醍醐天皇904/11/17916/11/27著裳
    敦固親王妃
    (結婚年不明)
    勤子904?93818?醍醐天皇908/4/5918?著裳
    都子90598117醍醐天皇908/4/5
    婉子905-906?96916-17?醍醐天皇908/4/5
    ×修子907-909?93313-15?醍醐天皇
    母の喪中
    敏子907-910?969以降12-15?醍醐天皇911/11/28
    雅子91095412醍醐天皇911/11/28斎宮(931-936)
    ×普子91094711醍醐天皇911/11/28母の喪中
    靖子915?9507?醍醐天皇930/9/29920降下?
    康子920?9572?醍醐天皇920/12/17
    (斉子)9219361醍醐天皇923/11/18斎宮(936)
    (英子)9219461醍醐天皇930/9/29斎宮(946)

    ※『貞信公記抄』延喜20年(920)6月27日条に「大輔更衣労中頓滅」とあり、この「大輔更衣」は民部大輔輔相王の娘である更衣満子女王と思われる。このため、満子女王所生の修子・普子は卜定の2月25日には喪中であったことになる。
     また、同じく『貞信公記抄』延喜20年(920)4月19日に「有御息所(穏子)御■[養]事」とあり、時期的に見て康子内親王誕生に関する記事の可能性が高い。



  • 承平元年(931)12月25日【朱雀天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    14代斎院婉子905-906?96924-25?醍醐天皇908/4/5931-967
    斎宮雅子91095421醍醐天皇911/11/28931-936
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    成子895-89697835-36宇多天皇897/2/29
    季子897以降?979不明宇多天皇

    勤子904?93828?醍醐天皇908/4/5藤原師輔室
    (結婚年不明)
    都子90598127醍醐天皇908/4/5
    修子907-909?93323-25?醍醐天皇
    元良親王妃
    (結婚年不明)
    敏子907-910?969以降22-25?醍醐天皇911/11/28
    普子91094721醍醐天皇911/11/28925/2/24著裳
    源清平室、藤原俊連室
    (結婚年不明)
    靖子915?95017?醍醐天皇930/9/29
    康子920?95712?醍醐天皇920/12/17933/8/27著裳
    946/5/6一品
    藤原師輔室(955)
    斉子92193611醍醐天皇923/11/18斎宮(936)
    英子92194611醍醐天皇930/9/29斎宮(946)
    938/8/27初笄
    熙子女王
    [朱雀女御]
    922-9239509-10皇太子
    保明親王
    --937/2/19入内

    ※熙子女王の「熙」は、左に「冫」(にすい)をつける場合もある。字はこちらを参照(字源)。



  • 安和元年(968)7月1日【冷泉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    15代斎院尊子
    [円融女御]
    9669853冷泉天皇967/9/4968-975
    (980/10/20入内)
    斎宮輔子953  99216村上天皇
    968-969
    (965/8/27初笄)
    候補名前生年没年年齢 親王宣下 備考
    ×昌子
    [冷泉中宮]
    95099919朱雀天皇950/8/10952/11/28著袴
    961/12/17初笄
    963/2/28入内
    967/9/4立后
    ×承子948951--村上天皇949/2/25950/10/4着袴
    951/7/25没
    ×理子948960--村上天皇
    960/4/21没
    ×保子94998720村上天皇
    母の喪中
    962/4/25著裳
    規子94998620村上天皇
    斎宮(975-984)
    964/2/23著裳
    盛子949-95299817-20村上天皇
    965/8/20著裳
    ×楽子95299817村上天皇
    前斎宮(955-967)
    965/3初笄
    緝子953-954?97014-15?村上天皇

    資子955101514村上天皇
    968/12/28加笄
    選子96410355村上天皇964/8/21斎院(975-1031)
    966/8/25著袴
    974/11/11著裳
    宗子9649865冷泉天皇967/8/4

    ※保子の母は更衣藤原正妃(967年7月25日没)。このため卜定の968年7月1日は喪中であった。



  • 天延3年(975)6月25日【円融天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢 親王宣下 任期
    16代斎院選子964103514村上天皇964/8/21975-1031
    斎宮規子94998627村上天皇
    975-984
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    保子94998727村上天皇
    藤原兼家室(986結婚?)
    盛子949-95299824-27村上天皇
    藤原顕光室
    (977以前に結婚)
    資子955101521村上天皇
    972/3/25一品
    ×宗子96498612冷泉天皇967/8/4母の喪中
    光子9739753冷泉天皇974/3/9975/6/26没

    ※宗子・尊子の母は女御藤原懐子(975/4/3没)。懐子死去で斎院尊子は退下、卜定の6月25日は喪中であった。
     また盛子は長男重家が977年誕生なので、結婚はそれ以前と思われる。



  • 長元4年(1031)12月16日【後一条天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    17代斎院馨子102910933後一条天皇1029/4/161031-1036
    斎宮嫥子女王1005108127具平親王--1016-1036
    候補名前生年没年年齢 親王宣下 備考
    ×脩子996104936一条天皇997/12/13998/12/17著袴
    1007/11/8著裳
    1007/1/20一品准三宮
    1024/3/3出家
    ×媄子10001009--一条天皇1001/閏12/29以前?1002/12/27著袴
    1009没
    ×℃q1003104829三条天皇1011/10/51019/2/29著裳
    藤原教通室(1026結婚)
    ×禎子
    [後三条皇后,
     陽明門院]
    1013109419三条天皇1013/10/221016/4/7著袴
    1023/4/1著裳
    1027/3/23入内
    1037/2/13立后
    1069/2/17院号宣下
    章子102611056後一条天皇1027/2/111030/11/20著袴・一品
    良子女王103010772東宮敦成親王
    (後朱雀天皇)
    1036/12/5斎宮(1036-1045)
    栄子1015?1019以降17?敦明親王
    (小一条院)
    1029/6/7?
    儇子1018109714敦明親王
    (小一条院)
    1019/3/4

    ※媄子の親王宣下の記録はないが、『権記』長保3年(1001)閏12月29日条に「一親王(第一皇子敦康、1000/4/18宣下)」と共に「女二親王(第二皇女媄子)」の記載がある。媄子の兄姉(敦康・脩子)が誕生翌年に親王宣下を受けていることから見て、1000/12/16生まれの媄子の宣下も同様に1001年にあったと思われる。
     また栄子については、『小右記』寛仁3年6月10日条に「院御子一人(敦貞親王)先日(3月4日)為親王、今二人可為親王者」とあり、栄子の外祖父である左大臣顕光が敦昌・栄子への親王宣下を希望しているので、宣下はこれ以降であったことが判る。なお『日本紀略』によれば、長元2年(1029)6月7日に栄子の同母兄弟敦昌親王・異母弟敦元親王が親王宣下を受けており、永田和也氏は「敦明親王とその子供たち」で栄子も同日共に宣下を受けたものと推測している。(『日本古代の国家と祭儀』雄山閣出版, p710-736, 1996)



  • 長元9年(1036)11月28日【後朱雀天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    18代斎院娟子女王
    (内親王)
    103211035後朱雀天皇1036/12/51036-1045
    斎宮良子女王
    (内親王)
    103010777後朱雀天皇1036/12/51036-1045
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×章子1026110511後一条天皇1027/2/11父帝の喪中
    栄子1015?1019以降22?敦明親王
    (小一条院)
    1029/6/7?
    儇子1018109719敦明親王
    (小一条院)
    1019/3/4藤原信家室
    (1037結婚?)
    嘉子1027-1038?1051以降不明敦明親王
    (小一条院)

    斎宮(1046-1051)
    信子女王1018以降?1072以降?不明敦明親王
    (小一条院)
    --
    斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --斎院(1074-1089)

    ※後一条天皇は1036/4/17崩御。よって卜定の11月28日は喪中であった。
     (ただし新帝は同母弟の後朱雀天皇で、父母の喪としての諒闇ではない)

     斎院斉子女王は生没年不明だが、父小一条院が1051/1/8没であることから、1051年までには生まれていたとみられる。また斎王卜定の上限年齢を30歳と仮定すれば、1074年卜定の斉子は1045年以降の生まれか。(なお小一条院は長久2年(1041)8月16日に出家している)
     なお『天祚礼記職掌録』には、後三条天皇即位(1068)及び白河天皇即位(1073)の褰帳(けんちょう:即位式で高御座の御帳を開く役の女官)について「左小一條院女王」とある。斎王と褰帳の両方を務めた女王の例はないことから、この「小一條院女王」はどちらも斎院斉子女王の同母姉信子女王(または宣子?)かと思われる。



  • 寛徳3年(1046)3月24日【後冷泉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    19代斎院禖子103910968後朱雀天皇1039/12/251046-1058
    斎宮嘉子1027-1038?1051以降不明敦明親王
    (小一条院)

    1046-1051
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×章子
    [後冷泉中宮,
     二条院]
    1026110521後一条天皇1027/2/111037/12/13著裳・入内
    1046/7/10立后
    1074/6/16院号宣下
    祐子103811059後朱雀天皇1038/6/181040/11/23著袴
    信子女王1018以降?1072以降?不明敦明親王
    (小一条院)
    --
    斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --斎院(1074-1089)

    ※斎宮嘉子は永承3年(1048)、群行の際に月事の記録あり。よって当時10歳以上であったのはほぼ確実。また小一条院の次女儇子が1018年生なので、その妹とすれば少なくとも1018〜1039年頃の生まれと推測される。
    『伊勢斎宮部類』によれば嘉子の母は備前守源長経女だが、『帝王系図』では「母同敦賢」とし、頼宗女所生とする。親王宣下を受けた小一条院の子女は全員が正式な婚姻により妃となった藤原延子・藤原寛子・藤原頼宗女らの所生である(ただし頼宗女所生の源基平のみ宣下を受けていない)。23代斎院斉子女王を産んだ源政隆女は通称『瑠璃女御』と呼ばれたが身分は女房であり、所生の子女は宣下を受けていない(史料によっては斉子を内親王とするが、斉子は斎院となったことから内親王であると誤解されたと思われる)。また源長経女も、受領階級出身であることからやはり女房の一人であったと見られる(なお長経の父源重光は、小一条院の曽祖父源延光の兄であり、長経女は小一条院の母后娍子の又従姉妹にあたる)。
     これにより、嘉子が内親王宣下を受けていたのが事実とすれば、儇子の妹である嘉子の生母は年齢的に見て寛子・頼宗女のどちらかではないかと考えられる(延子は1017年頃に次男敦昌親王を産んだと見られるが、小一条院は1017年に寛子と結婚して延子とは疎遠になったとされる。このことから、敦昌誕生以後1019年の延子死去までの間に再び懐妊・出産があった可能性は低い)。また『栄花物語』巻32「謌合」によれば、小一条院の子女は故左大臣殿の女御(延子)に「男二人、女一所」、高松殿(寛子)に「若宮(男)はうせたまひて、女宮一所(儇子)」、東宮大夫殿の姫君(頼宗女)に「男、女あまた」がいたとあるので、『栄花物語』が正しければ嘉子の生母は『帝王系図』にもあるように頼宗女である可能性が高い。なお頼宗女は1025年冬頃に小一条院と結婚したらしく(同年7月9日に寛子が死去しているため、恐らく服喪の明けた11月以降か)、翌1026年に源基平を産んでいるので、嘉子が頼宗女所生であれば生年は1027年以降と思われる。(また同母兄弟の敦賢親王の生年が1039年なので、敦賢と双子でなければ1038年以前の生まれか?)



  • 天喜6年(1058)6月27日【後冷泉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    20代斎院正子105411145後朱雀天皇
    1058-1069
    斎宮敬子女王1029-1049?1068以降不明敦平親王--1051-1068
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    祐子1038110521後朱雀天皇1038/6/18
    聡子女王105011319東宮尊仁親王
    (後三条天皇)
    1068/8/14
    俊子女王105611323東宮尊仁親王
    (後三条天皇)
    1068/8/14斎宮(1069-1072)
    佳子女王105711302東宮尊仁親王
    (後三条天皇)
    1068/8/14斎院(1069-1072)
    信子女王1018以降?1072以降?不明敦明親王
    (小一条院)
    --
    斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --斎院(1074-1089)

    ※斎宮敬子は康平元年(1058)、汗殿に下座の記録あり。よって当時10歳以上であったのはほぼ確実。また斎王卜定の上限年齢を30歳と仮定すれば、敬子の生年は1029年から父敦平親王が没した1049年の間と思われる。
     敦平親王(999-1049/3/18)は1013年に元服、『栄花物語』巻24「わかばえ」によれば、1026年2月に藤原兼隆(985-1053/10)の長女と結婚している。ただし敬子の生母は源則理女であり、源則理の妻は源憲定の長女(始め藤原頼通家女房、のち後朱雀中宮嫄子の女房宣旨。『栄花物語』巻24,34に登場)であった。
     諸記録によれば源憲定(1017/6/2没)には娘が二人おり、『小右記』長和2年(1013)7月12日条の「右兵衛督<憲定>来云、有女子、年十八」にある「女子」は長女(源則理室)を指すと思われるので、源則理室は996年生まれと判る。また『栄花物語』によれば、憲定の娘たちは父の死後に出仕、結婚したとあり、「女子」は1017年には22歳で「今はむげに大人になりたまひて」という表現とも一致する。(なお次女対の君(頼通妾)は1025年に息子通房を産んでいる。他に結婚した相手やその子がいた記録もなく、996年生まれで通房が初産とすれば当時30歳ということになり、上記小右記の「女子」と同一人物と見るにはやや無理があるか) この憲定女(長女?)が則理女の母とすれば、則理女は1018年(父憲定死去の翌年)以降の生まれで、よって則理女が敬子女王を産んだのはおおよそ1038年以降となり、敬子女王の年齢は卜定時21歳以下で矛盾しない。



  • 延久元年(1069)10月28日【後三条天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    21代斎院佳子1057113013後三条天皇1068/8/141069-1072
    斎宮俊子1056113214後三条天皇1068/8/141069-1072
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    祐子1038110532後朱雀天皇1038/6/18
    聡子1050113120後三条天皇1068/8/141069/6/19一品准三宮
    1069/12/5著裳
    篤子1060111410後三条天皇1068/8/14斎院(1073)
    斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --斎院(1074-1089)



  • 延久5年(1073)3月11日【白河天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    22代斎院篤子
    [堀河中宮]
    1060111414後三条天皇1068/8/141073/3-1073/5
    (1091/10/25入内)
    斎宮淳子女王1054?-10721077以降20以下?敦賢親王--1073-1077
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×祐子1038110536後朱雀天皇1038/6/181072出家
    聡子1050113124後三条天皇1068/8/14一品准三宮
    斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --斎院(1074-1089)

    ※斎宮淳子の父敦賢親王は1039年生であり、淳子の生年は1054年以降と推測される。なお母は源親方女。



  • 承保元年(1074)12月8日【白河天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    23代斎院斉子女王1045-1051?1089以降不明敦明親王
    (小一条院)
    --1074-1089
    斎宮淳子女王1054?-10721077以降21以下?敦賢親王--1073-1077
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×聡子1050113125後三条天皇1068/8/14出家(1073/5)



  • 寛治3年(1089)6月28日【堀河天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    24代斎院令子1078114412白河天皇1079/4/261089-1099
    斎宮善子1077113213白河天皇1079/4/281087-1107
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×媞子
    [郁芳門院]
    1076109614白河天皇 1076/8/16前斎宮(1078-1084)
    1093/1/19院号宣下
    ヮq108111569白河天皇1082/3/1斎院(1099-1107)



  • 康和元年(1099)10月20日【堀河天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    25代斎院ヮq1081115619白河天皇1082/3/11099-1107
    斎宮善子1077113223白河天皇1079/4/281087-1107
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    (官子)不明1160以降不明白河天皇1108/11/8斎院(1108-1123)
    (恂子)109311327白河天皇1108/10/28斎宮(1108-1123)



  • 天仁元年(1108)11月8日【鳥羽天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    26代斎院官子不明1146以降不明白河天皇1108/11/8
    (同日卜定)
    1108-1123
    斎宮恂子1093113216白河天皇1108/10/28
    (同日卜定)
    1108-1123
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    悰子1099116210堀河天皇
    斎院(1123-1126)
    (喜子)1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2斎宮(1151-1155)
    懐子1108以前不明不明堀河天皇


    ※堀河天皇は1107年7月19日に崩御のため、喜子・懐子の生年は1108年以前と推測される。ただし1151年の卜定で喜子は44歳以上ということになり、斎王卜定の年齢としては異例に遅いため、堀河天皇の皇女でない可能性も考えられる。(『台記』仁平元年(1151)3月2日条に「故堀川院女」とあるが、『本朝世紀』では父の名を記載せず)
     なお『今鏡』では「また前の斎宮も、堀河の院の御娘と聞え給ふ。まだこの頃もおはするなるべし」とある。堀河皇女で他に斎宮はいないので、この「前の斎宮」は喜子と見て間違いないと思われる(1170年頃存命とあることから、堀河皇女であれば63歳以上ということになるが、年齢についての記載はない) また「帝系図」では悰子の生母を記載せず、喜子の生母を康資王女(1126没)としているが、今鏡では「女宮は大宮の斎院(悰子)と聞え給ふおはしき。やがてかの大宮の女房の生みたてまつれりけるとなむ」とあり、喜子の生母については触れていない。



  • 保安4年(1123)8月28日【崇徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    27代斎院悰子1099116225堀河天皇
    1123-1126
    斎宮守子1111115613輔仁親王
    (後三条皇子)
    --1123-1141
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    (喜子)1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2斎宮(1151-1155)
    禧子112211332鳥羽天皇1122/8/2斎院(1132-1133)

    ※悰子の斎院卜定は8月28日だが、斎宮守子の卜定は同年6月9日であり、3ヶ月近い時差がある。通常、新帝即位にあたっての斎宮・斎院卜定は同日または数日違いが殆どで、これほど時差が開いた例は他にない。
     また『中右記』(大治2年4月6日条)の「斎院次第」では、26代宮子(=官子)は新院(鳥羽天皇)と今上(崇徳天皇)の斎院であったとしており、従来の説にあるような鳥羽天皇譲位による退下ではなかったと見られる。悰子の斎院卜定が斎宮守子より大幅に遅れたのも、このためと思われる。



  • 大治2年(1127)4月6日【崇徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    28代斎院恂子(統子)
    [上西門院]
    112611892鳥羽天皇1126/8/171127-1132
    (1159/2/13院号宣下)
    斎宮守子1111115617輔仁親王
    (後三条皇子)
    --1123-1141
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    (喜子)1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2斎宮(1151-1155)
    禧子112211336鳥羽天皇1122/8/2斎院(1132-1133)



  • 長承元年(1132)11月25日【崇徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    29代斎院禧子1122113311鳥羽天皇1122/8/21132-1133
    斎宮守子1111115622輔仁親王
    (後三条皇子)
    --1123-1141
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    (喜子)1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2斎宮(1151-1155)



  • 長承2年(1133)12月21日【崇徳天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    30代斎院怡子1110以前?1159以降不明輔仁親王
    (後三条皇子)

    1133-1159
    斎宮守子1111115623輔仁親王
    (後三条皇子)
    --1123-1141
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    (喜子)1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2斎宮(1151-1155)
    (妍子)1132-1133?11611-2?鳥羽天皇1142/2/26斎宮(1142-1150)

    ※妍子の生母は鳥羽院女房の三条(藤原家政女)。『長秋記』長承2年(1133)6月7日条に「女房三條公腹女王(=妍子)」の記述があり、これ以前に妍子が生まれたことが判っている。この直前に異母兄弟道恵法親王(1132生)の名もあり、妍子は道恵法親王とほぼ同じ頃(1132〜1133?)の生まれと思われる。



  • 平治元年(1159)10月25日【二条天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    31代斎院式子1149120111後白河天皇1159/10/25
    (同日卜定)
    1159-1169
    斎宮好子1148?119212?後白河天皇1158/12/251158-1165
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×喜子1108以前1155以降不明堀河天皇1151/3/2
    (同日卜定)
    前斎宮(1151-1155)
    ×妍子1132-1133?116127-28?鳥羽天皇1142/2/26
    (同日卜定)
    前斎宮(1142-1150)
    ×叡子11351148--鳥羽天皇1136/4/19高陽院養女,
    1137/12/10著袴
    1138/4/12准三宮
    ×ワ子
    [八条院]
    1137121123鳥羽天皇1138/4/9出家(1157),
    1162/12/16院号宣下
    ×姝子
    [二条中宮,
     高松院]
    1141117619鳥羽天皇1154/8/181156/3/5著裳・入内
    1159/2/21立后
    1162/2/5院号宣下
    頌子1145120815鳥羽天皇
    斎院(1171)
    ×亮子
    [殷富門院]
    1147121613後白河天皇1156/4/19前斎宮(1156-1158)
    1187/6/28院号宣下
    休子115711713後白河天皇
    斎宮(1166-1168)
    (惇子)115811722後白河天皇1168/8/27斎宮(1168-1172)
    (僐子)115911711二条天皇1169/10/20斎院(1169-1171)



  • 嘉応元年(1169)10月20日【高倉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    32代斎院僐子1159117111二条天皇1169/10/20
    (同日卜定)
    1169-1171
    斎宮惇子1158117212後白河天皇1168/8/27
    (同日卜定)
    1168-1172
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    頌子1145120825鳥羽天皇

    ×休子1157117113後白河天皇
    前斎宮(1167-1168)



  • 承安元年(1171)6月28日【高倉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    33代斎院頌子1145120827鳥羽天皇
    1171/6-1171/8
    斎宮惇子1158117214後白河天皇1168/8/271168-1172
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考

    なし------------



  • 治承2年(1178)6月27日【高倉天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    34代斎院範子
    [坊門院]
    117712102高倉天皇1178/6/27
    (同日卜定)
    1178-1181
    (1206/9/2院号宣下)
    斎宮功子11761179以降3高倉天皇1177/10/28
    (同日卜定)
    1177-1179
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考

    なし------------



  • 元久元年(1204)6月23日【土御門天皇】

  • 斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    35代斎院礼子
    [嘉陽門院]
    120112734後鳥羽天皇1204/6/23
    (同日卜定)
    1204-1212
    (1214/6/10院号宣下)
    斎宮粛子11961211以降9後鳥羽天皇
    1199-1210
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×覲子
    [宣陽門院]
    1181125224後白河天皇1189/12/51191/6/26院号宣下
    ×潔子11791227以降26高倉天皇
    前斎宮(1185-1198)
    昇子
    [春華門院]
    1195121110後鳥羽天皇1195/10/161196/4/16一品准三后,
    1199/11/29着袴,
    1209/4/25院号宣下



    【参考図書・論文】
    • 服藤早苗編『歴史の中の皇女たち』(小学館, 2002)
    • 安田政彦「皇子女の出生順について:平城皇子女から清和皇子女まで」(『帝塚山学院大学研究論集(文学部)』36集, p1-12, 2001)
    • 板倉則衣「伊勢斎宮の選定に関する小考」(『日本研究』42, p123-167, 2010)





    神山のふもとになれしあふひ草ひきわかれても年ぞへにける

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